第二章 風に乗る羽の一枚(8)
カオリとトウドウは、ピクルスの件で打ち合わせると言って管理棟に戻って行った。マリエはユートに話があると引き止められて、二人で鳥かごの中に残っている。
「隣に行っていいか?」
さっきまでトウドウが座っていたマリエの横を指して、ユートが聞いた。マリエはうなずきながら、今までそんなこと聞かずにどんどん隣に座っていたのに、と不思議に思う。なんとなく、改まった雰囲気を感じて、マリエは戸惑った。
「話って何ですか?」
ユートは言葉を探すように、少し黙った。マリエは彼の端正な顔を見上げる。ユートはマリエの前より、カオリの前の方が砕けた態度だった。にわかに胸の中にもやもやとした気分が起こり、マリエは視線を逸らすと、トウドウが置いていってくれた保温ポットから紅茶を注いだ。
ユートのカップにも紅茶を注いで渡すと、彼はやっと口を開いた。
「昨日、ルウコから王子様になってほしいと言われたんだ」
「えっ? あ、それで……」
昨日の午後、二人がときどき目配せしていたのを思い出す。
「王子様になったんですか?」
「いや、断った」
「そうなんですか?」
断られたにしては、ルウコの機嫌が悪くなさそうだった。
「マリエが好きだから、ルウコの王子様にはなれないと言ったんだ」
「え、わ、私? 好きって?」
マリエはぽかんと口を開けた。隣に座ったユートは正面を向いている。マリエは彼の横顔を見つめる。
「口実に使ったってことですか?」
「違う」
ユートは、ばっと勢いよくこちらを振り返った。
「ああ、すまない。話す順番が悪かった。ルウコを断るとき皆の前で宣言してしまったから、外野から君の耳に入るんじゃないかと思って、それより前に自分の口から伝えたかったんだ」
切れ長の目がマリエを捕らえる。
「ルウコのこととは関係なく、前から思っていた」
さりげなく両手を取られたけれど、マリエは気づいていなかった。ユートの顔から視線を離せなかった。
「君が好きだ」
彼の目を近くに見ると、爆弾犯に人質にされていたときのことを思い出す。マリエは意識して息を吐く。
「吊り橋効果ってご存知ですか?」
「もちろん知っている。だが、俺の気持ちはそういうんじゃない」
「負い目があるから? 感謝と恋愛感情が混乱してるだけじゃないですか?」
「そんなわけないだろう」
ユートは不機嫌に眉を寄せた。彼が怒って帰るのならそれでも構わないとマリエは思った。『ドン・ラ・カージュ』のときよりもずっと静かに言葉を重ねる。
「施設から出られなくてかわいそうって思ってませんか? 助けてあげたいって思ってません?」
「それは……なくはない……」
「でしょう? 私が女だから、私をなぐさめるには、好きって言って――ルウコの言い方をすれば、ここにいるときだけの王子様になってあげるのが一番だって思っていません?」
微笑んだマリエに、ユートははっきりと首を振った。
「いや。それは思っていない。ルウコに聞いたんだ。君はいつでも一緒にいてくれる相手でなければ嫌だと思ってるって」
「それを知ってるなら、なんで? なんで好きだなんて言うんですか?」
「好きだからだ」
「なっ……」
理由になっていないのに、マリエは二の句が継げなかった。
ユートはマリエの手をぎゅっと強く握った。
「俺も君とずっと一緒にいたいんだ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「どうやって? ずっと一緒なんて無理じゃないですか」
「今から考える」
手を引かれ、寄りかかるようにして、首が痛くなるほど近くでユートの顔を見上げる。
「俺のこと、嫌いか?」
「……嫌いじゃないです」
「それなら、好きか?」
いっそ冷たいくらいの落ち着いた表情でユートはマリエに聞いた。いつもより少し低い声が逃げるのを許さない。彼の瞳の奥と、手だけが燃えるように熱かった。それがマリエの心の防御壁を溶かす。
「好き」
マリエは胸を押されるようにして、言葉を吐き出した。
次の瞬間、マリエはユートに強く抱きしめられていた。両手は解放され、腰と背中に手が回っている。硬い胸板に手が触れると、香水か整髪料なのかわからないけれど良い匂いがした。
とろけるような幸せを感じて、その直後にものすごく悲しくなった。
マリエは彼の胸を両手で押して抵抗する。ユートはそれに気づいて力を抜いてくれた。彼はマリエを見下ろして、焦ったような声を出す。
「どうした? 何で泣いているんだ。痛かったならすまない」
マリエの涙をぬぐって、そのまま頬に手を添える。彼の温かな手のひらに余計に涙がこぼれる。
「怖いんです」
「まだ何もしてないのに? ……ああ、いや、怖がるようなことをするつもりはない」
「そうじゃなくて、好きになるのが」
マリエはユートの手を自分の頬からはずす。マリエはそのまま手を離そうとしたのに、ユートは逆にマリエの手を取って握り込んだ。マリエはそれが振り払えない。
「ユートさんのこと、好きだけど、好きになりたくない」
「どういうことだ?」
「だって、好きになってどうするんですか? ユートさんが施設に来てくれるのをずっと待つの? 私からは会いにも行けない、電話もできない。ユートさん次第です。外には女の人なんて山ほどいます。面倒なSOFを選ばなくてももっと魅力的な人がいるでしょ? ユートさんが私のこと嫌いになって、来なくなったら、それでおしまい。それを心配しながら、ずっと待つんですか? 考えただけでおかしくなりそう」
「だから、ずっと一緒にいるって言ったじゃないか!」
「だから、どうやってって聞いてるんですよ」
声を荒げたユートに、マリエは静かに繰り返した。背中に回されていたユートの手から力が抜けたのを感じて、マリエは彼から離れて座り直す。しかし掴まれた手は離してもらえず、半端に宙に浮いたまま、二人を繋いでいた。
「ユートさんは私のこと、どうしたいんですか? 恋人にしたいの? 抱きしめたりキスしたり? ……他にももっと?」
ユートの手がぴくりと震えた。マリエは返事を待たずに続ける。
「箱入りって言ったら本当にそうですけど、さすがに十八なので、ルウコとは違いますよ。情報源は小説くらいですが、いちおう知ってるつもりです。……ユートさんは私がどれだけ面倒か、全然わかってないと思います。今抱きしめられたのが、もし個室だったら、睡眠ガスが降ってきてたかもしれません」
ユートが息を飲むのがわかった。マリエは自嘲を込めて微笑んだ。
「ユートさんが私にしたいことは、ほとんどできないと思いますよ。私を眠らせてからなら可能ですけど……」
「もういい。言わなくていいから。わかっていなかったのは、確かだ。本当にすまない」
ユートは途中で遮って、痛ましげにマリエを見る。
「こんなことを言うなんて幻滅しました? 嫌いになったでしょう?」
「好きだ」
即答されて、マリエは困って笑う。目尻にたまっていた涙がすうっとこぼれ落ちた。
「少し時間をくれないか。一緒にいられる方法と、恋人らしくすごせる方法も同時に考える」
「待つのは嫌です」
マリエが首を振ると、ユートはため息をついた。
「君が面倒って言うなら、それはそういうところだよ。意外に頑固なんだ」
ユートはそっとマリエの手を離した。
「それなら仕方ない。一度忘れてくれ」
「はい……」
こうなるように望んだはずなのに、胸が痛んだ。ユートの手の熱が消えたら、途端にさみしくなる。
「さっきのは忘れたんだから、今まで通り会いに来るが、問題ないな? 食事会も予定通りだ」
「はい」
マリエはうなずくしかない。ユートの態度はいつも通りに戻っていて、先ほどのやりとりが嘘のようだ。忘れたのはマリエじゃなくてユートの方だ。彼の中ではなかったことになったんだろう。きっと、その程度の気持ちだったのだ。
泣かないように。ゆっくり息を吸う。
忘れる。忘れる。好きだなんて思ってない。忘れる。
心の中で唱えながら、マリエは静かに微笑んだ。もう一滴、最後に涙が流れ落ちた。
それを拭おうとユートの指先が動きかけて止まったことに、マリエは気づかなかった。
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