第二章 風に乗る羽の一枚(2)
「おっさん、後ろちゃんと持っててくれよな!」
「ずっと支えてたら練習にならんだろ」
「俺がいいって言うまで離すなって言ってんの!」
鳥かごに囲われた農園の真ん中の道で自転車の練習をするモトヤ・ヒルカワとそれに付き合うハルオ・タムラという光景は、SOF保護施設で日課になりつつあった。モトヤは十四歳、十歳からここにいる。ハルオは十二歳からここにいて、今は三十六歳だ。
ゆっくりと小道を進む背中に、マリエは声をかける。
「野菜潰さないでねー」
「潰さねーよ!」
「あんまり端に行かないようにしてね! 柱にぶつかるのだけはやめてね!」
「わーかってるって!」
言い足したメイ・トウドウに、モトヤは大声で答えた。
真ん中は道を広くして、ベンチとテーブルを並べていた。午後はよくここでお茶をする。
この施設には、マリエを入れて十一人のSOFが暮らしている。でも、ベッドから動けない人や、個室から出たくないと言う人もいて、交流がある人は限られていた。
「ねー、ユート様、次いつ来るの? しばらく来てないわよね?」
ベンチに並んで座ったルウコ・ハカマダが、足をぶらぶらさせてマリエに聞いた。彼女は、マリエの三ヶ月前に施設に入った十歳の少女だ。ユートが来るのを楽しみにしているらしい。「ユート様」扱いに、マリエは苦笑して答える。
「さあ? 忙しいんじゃない?」
「そうよねー。ホテルのお仕事してるんだものね」
「そうなの?」
父の発明品を売る会社のことは知っているけれど、他は知らなかった。ルウコは呆れた顔でマリエを見上げる。
「知らないの?」
マリエがうなずくのを見て、ルウコは胸を張る。
「アカデミアの大学を飛び級で卒業して、ディーランサに戻ってきてからはミツバのホテル事業を任されているのよ。自分の恋人のことはちゃんと知っておかなきゃだめじゃない」
「ええっ、恋人?」
「違うの? だって、いつもマリエに会いに来るじゃない」
負い目があるからだろうと思ったけれど、それを彼女に言うのは憚られ、マリエは曖昧に笑う。ルウコは真剣な顔をして、
「マリエの恋人じゃないなら、あたしがもらってもいい?」
隣のベンチで聞いていたタダヒロ・ヨシカワが吹き出す。それを睨んでから、マリエはルウコに向き直る。
「もらうとか、モノじゃないんだから」
「決めた! ユート様はあたしの恋人になるんだからね。後から欲しいって言ってもだめよ?」
「ユートさんにも選ぶ権利があるだろ」
たまらず口を挟んだヨシカワに、ルウコは身を乗り出して、「ユート様は優しいから断らないもん」と言う。
「別に結婚してってお願いするわけじゃないんだから。ここにいるときだけ、あたしの王子様でいてくれたらそれでいいの! 一緒に散歩して、お茶を飲んでお話して……そのときだけ、あたしだけのものでいてくれたらいいの」
ルウコの言葉に、マリエは驚く。
「私はやだな。ずっと、いつでもどこでも私だけの王子様でいてほしいもの」
思わず口に出してしまうと、ルウコは眉を吊り上げる。
「そんな贅沢言ってたら恋人なんてできないわよ!」
「仕方ないわ」
「あきらめちゃだめ! マリエだってまだ若いんだから!」
十歳に励まされ、マリエは苦笑する。マリエにとって恋人なんて、あきらめる以前に、考えもしなかったことだった。隠れ住んでいる間は、父とたまに訪ねて来る叔母以外会うこともなかった。今だって施設の外に出られないんだから、同じことだ。
「最悪、ヨシカワ先生とか、モトヤとか、タムラさんとか、いちおう男がいるじゃない!」
「最悪? いちおう、だとぉ?」
ヨシカワがルウコを抱き上げて振り回すと、ルウコは歓声を上げた。
隣のルウコがいなくなって、さらにその向こうに座るチヅル・コノミの様子が目に入った。彼女はずっとレース編みをしていた。
二十四歳の彼女は、四歳でSOFが発露してから、二十年ずっとここにいる。幼いうちに保護されたせいか、めったに感情を表に出さない。だから、SOF範囲が安定して狭く、もう十年は睡眠ガスを浴びていないと聞いた。しゃべることもあまりないのだけど、誘えばいつも一緒に外に出てきてくれた。
「あ、もうできあがるんだ」
かぎ針編みの十五センチくらいのドイリーだ。
「わぁ、すごい」
「綺麗よねー」
トウドウも近くにやってきて、糸の始末をするチヅルの手元を二人で見つめる。今作っているのはシンプルな編み模様だったけれど、以前に見せてもらったアイリッシュクロッシェレースは――マリエはそんな名前のレースがあるとそのとき初めて知った――、するすると動くかぎ針から複雑なモチーフが次々現れ、魔法のようだった。
「今度のバザーに出すんですよね」
来月セントラルのSOF保護センターでバザーが開かれるため、四大都市のそれぞれの保護施設は品物を出すことになっている。
「そうなのよ。いつも値段付けに困るのよね」
「そうそう。こういうのって、買ったことないからさ」
ルウコを抱えたままのヨシカワも言う。
「センターの職員に任せると、やたら安く設定されちゃったりねぇ」
「私の叔母さんが、パールハールでメゾンやってるんで、聞いてみましょうか?」
「メゾン?」
「セレブと観光客向けのオートクチュールの服屋さん」
「へー、専門家だ。意見をもらえるならありがたいな。写真より実物送った方が手っ取り早いかねぇ」
「そうね、お願いしてもいい? 住所を教えてくれたら発送手続きはこちらでするから、マリエは手紙を書いてくれる?」
周りに構わず黙々と作業をするチヅルに、マリエは聞く。
「チヅルさん、一つ叔母さんに送ってもいい?」
チヅルは小さくうなずいて、できあがったばかりのドイリーをマリエの手に乗せた。ほんのりと温かいような気がする。
「マリエは、バザーに出すものないの?」
トウドウに聞かれ、マリエは周りを見る。実家の石窯オーブンがあればパンを焼くこともできたけれど、今ここでマリエが作れるのは畑の作物しかない。編み物や刺繍は苦手で、売り物にはならない。
「きゅうり、とか?」
「あー、ね! 作りすぎだよ」
ヨシカワが笑う。
マリエが最初に見たときの畑は、半分も植わっていなかった。マリエがせっせと育てたため、今はだいぶ埋まっている。
ディーランサのドームの気温は、星全体で決められていて四季に沿っている。今は七月で夏の気温設定だ。畑には夏野菜を植えた。特にきゅうりは、たくさん植えてしまったため、毎日採れすぎて余ってしまうくらいだった。
「朝も昼も夜も、おやつもきゅうり!」
ルウコが顔をしかめる。
「来年の春は、イチゴを植えようか?」
「わぁ、イチゴ?」
二人で手を叩きあっているところに、モトヤの乗った自転車が突っ込んできた。ハルオは少し離れた後から歩いてくる。
「うおぉ、どけー!」
「ちょっと、ブレーキ、ブレーキ!」
保護施設の暮らしは、想像していたのとは全然違った。そして、それは間違いなくユートのおかげだった。
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