第一章 鳥かごの中にある自由(3)
SOF保護施設を出たユートは、その足でシライ博士を訪ねた。といっても、施設からパールハールまで一日、パールハールからシライ家まで三日半だ。ぶっ通しで移動しては持たないので、途中のシャルメルボンで一泊して、さらに一日費やした。
その間、自動運転の車は運転手と護衛に任せ、ユートは後部座席でずっと考えていた。
ふとした瞬間に思い出すのは、マリエの微笑みだった。感謝の気持ちを伝えるために会いに行ったつもりだったけれど、本当はもう一度あの笑顔を見たかっただけなのかもしれなかった。そして、自分自身がそれを奪ってしまった事実は、ユートを苛んだ。
約束も取りつけずに訪ね、追い返されることも覚悟していたけれど、シライ博士はあっさりとユートを中に通した。マリエと会った奥の家ではなく、ゲートに面した建物だった。こちらには電子機器があるようだった。
シライ博士は、無精ひげのせいか、事件のときに見た姿より少しやつれていた。当然といえば当然だ。
「見苦しくてすみませんね。一人になった途端いろいろどうでもよくなってしまって」
部屋の隅に立って控えている護衛の分まで茶を並べてから、応接セットの向かいの椅子に座った博士は、そう言ってぼさぼさの髪を撫でつけた。
「マリエに会われたそうですね」
博士が先にそう切り出した。たいていの人間はミツバの御曹司であるユートに敬語を使うが、博士もそうだった。
「ええ。こちらに来る前です」
「どうでしたか?」
「どう、というと……」
見たままを伝えていいものか迷うユートに、博士は軽くうなずいた。
「保護施設についての知識はあります。ヨシカワ医師にも話を聞きました。……まだ安定剤が必要でしたか?」
理知的な瞳が静かに尋ねる。ユートは背筋を伸ばした。
「はい。私が面会したときは、安定剤で落ち着かせている状況だと説明を受けました」
「そうですか」
ユートは深く頭を下げる。
「マリエさんに助けていただいたこと、感謝してもしきれません。それなのに、こんなことになってしまい、申し訳なく思います」
「あなたが悪いわけではない。法に照らせば、悪いのは私だ」
ユートが顔を上げると、博士は苦く笑う。
「SOF隠匿罪で捕まるところだったけれど、マリエがあなたを助けたことで免れたんですよ」
「SOF隠匿罪……」
ユートは馬鹿みたいに繰り返す。名前からどういうことかわかるが、初めて耳にする言葉だった。
「なぜ隠れ住むことにしたのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
法を犯してまで何かするというのが、目の前の博士にはそぐわないように思えた。
「マリエがSOFを発露したのは、妻が他界して半年だったでしょうか。周りが気を使ってくれて半ば強制で取らされた休暇で、シャルメルボンの先のハルラーヌに行く途中でした。ちょうどこの私道の手前です」
博士は目を伏せる。
「妻を亡くしたばかりで、この上、娘も奪われるのかと絶望しました。しかし、街中だったら――他に誰かが見ていたら、こんなことはしなかったと思います。……私は睡眠薬を持っていてマリエをすぐに眠らせることができました。周囲に車はいなかった。現在地を確認したら、すぐ横の私道の先の大きなドームが安値で売りに出されていることがわかりました。天使の導きか悪魔の囁きかはわかりませんが、偶然が重なったんです。それを私は天啓だと思いました。これでマリエを奪われなくてすむ、と。あとは必死でしたね。その場でこのドームの購入手続きをし、最低限の改装に業者を入れて、あとは自力で。その間マリエにはほとんど眠ってもらっていました」
ひどい親でしょう、と博士は自嘲した。
ユートは、どちらとも返事ができず、あいまいに首を振った。
「一年も経たないうちに私は冷静になった。私のエゴで娘を社会から断絶させてしまったと気づきました。それでも手放すことができなかった。――それから八年です。あんなに小さかった娘が、もう女性と呼べるくらいの年齢になって、私の不安は募るばかりでした」
「不安、ですか?」
「普通にいけば、私がマリエより先に死にます。一人で残された彼女はどうやって生活するんでしょう? 通信もできないから、何も買えない。ライフラインの機械にも近づけないし、ゲートを開くことすらできない。どうにかならないかといろいろな道具を作ってはみたものの、根本的な解決にはならなかった」
博士は両手で顔を覆う。
「SOFである限り、彼女はここから出られない。ここに閉じ込められているのであれば、保護施設にいるのと大差ない」
「いいえ。そんなことはありません」
ユートが断言すると、博士は怪訝な顔を向ける。
「ここにいたときの彼女は笑っていたでしょう。泣いたり怒ったりもできたはずです」
「ええ、まあ、それなりには」
「保護施設ではそれができません」
「ああ、それは……確かに」
博士も納得したようにうなずいた。
「私はそれをなんとかできないかと思っているんです」
「は? なんとかできるんですか? あれは世界的なルールですよ」
「ええ。もちろん、ガーディアンや睡眠ガスを取りやめるのはできません。ただ、個室の定義は拡大解釈が可能なんです。絶対に止めてはいけない重要な機械との間に安全な距離が確保できれば、個人の生活空間である必要はありません。広さも指定されていない。屋内でなくても構わない。……極端な話、土地さえ確保できれば、マリエさんが暮らしていた家をそのまま施設の中に移築して『個室』と言い張ることもできるんです」
SOFセンサーと睡眠ガス発射装置はつけなくてはなりませんが、とユートは付け加える。
「マリエさんのSOFの最大範囲はわかりますか?」
「一度だけ実験したのですが、そのときは半径十五メートルでした。しかし、実験とわかっている場合とそうでない場合で反応は変わるので、あくまで参考値です」
「保護施設で一番広い空間は農園です。二百メートル四方はあります。そこを共用の『個室』にしましょう」
ユートがそう言うと、シライ博士は呆れたようにため息をついた。
「こんな言い方はあれですが、金持ちは違いますね」
「いいえ。博士の方がよほど思い切ったことをしていると思いますよ。土地もですが、電子部品を使わない道具を発明されたそうですね」
「発明というよりは、旧式の復刻と改良ですよ」
「それもご相談したかったんです。その道具、量産させてもらえませんか。SOF保護施設に行き渡らせたいんです」
「商売ですか?」
顔を曇らせる博士に、ユートは笑顔を見せた。
「保護施設には寄付します。その資金を稼ぐのは別の方法で、と考えているのですが……。ヨシカワ医師によるとディーランサ土産にできそうなものもあるとか」
「自転車ですか? 彼はしきりに感心していたようだが」
「レースで使うようなやつですか?」
「いや、スポーツ用の自転車は、ペダルを漕ぐのは人力ですが、その力をタイヤに伝えるのが電子部品なんです。私が作ったのは、電子部品の代わりにチェーンを使うものでして」
「チェーン?」
「見てもらった方が早いですね」
外に出て自転車を見せてもらい、ユートは驚いた。後輪のスタンドを立てた状態でペダルを回すと、チェーンからタイヤへと繋がっていくのがよくわかる。
「へえ、おもしろいですね」
「こんなのが土産になりますかね?」
「ディーランサに旅行にくるような富裕層の間ではアンティーク調が流行ってるんですよ」
「ああ、インテリアとしてですか?」
「そういう人もいるかもしれませんが、皆乗りたがるでしょうね」
ユートの言葉に、博士は腕組みをする。
「補助輪を付けたほうがいいかもしれない。練習しないと、乗りこなすのはなかなか難しいですよ」
自転車の他にもいくつか道具を見せてもらい、量産の方向性を決める。詳細は後日弁護士を交えて、ということで話がついた。
「いつか見つかってしまうだろうと、ずっと思っていたんです。本当は、こんなに長く隠れていられたことの方が信じられない。いや、私自ら、マリエを施設に送り出さなければならない日がくるだろう、とまで考えていた。娘を一人取り残す不安を解消するにはそれしかない、そうすべきだと。わかっていて、できなかった。ずるずると先延ばしにしていた。……覚悟はしていたんだ。絶望なら、八年前にマリエがSOFだとわかったときに一生分済ませたんです」
別れ際、博士は自分に言い聞かせるように言った。
「すみません」
思わず口をついて出た言葉の重みのなさに情けなくなり、言い直す。
「マリエさんができるだけ自由にすごせるように、私は努力を惜しまないつもりです」
「どうもありがとう」
博士はユートの手を握って、一方の手で肩を叩く。生徒を見守る教師の目線だった。
「農園の『個室』の設計も協力させてください。何かやっていた方が気が紛れる」
「ええ、もちろん。こちらからお願いするところでした」
「あなたとの出会いは、私たち親子にとって幸いだったかもしれません」
シライ博士は微笑んだ。
「そうであることを願います」
ユートは心からそう思った。
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