5.冠クマちゃんは動き出す
「あなたは玲音を好きじゃないでしょ?」
景色のない、上下も分からない不思議な空間を漂っていた真愛は、目の前の真愛にそう言われた。自分自身を目にして、ここが現実世界とは別の場所――夢の中なのだと気が付いた。夢は夢だと見抜かれると風にさらされたロウソクの火のようにふっと消えてしまうものだが、今日の夢はなかなかしぶとく覚める気配がない。
「ううん。あなたは玲音が好きなんだよ。愛してると言ってもいいくらい好きなんだよ」
真愛がもう一人増えていた。
「好きじゃないでしょ?」
「好きなんだよ」
真愛本人を差し置いて、別の真愛たちが同じ声で言い合いを始めた。壁などないにも関わらず大きく反響して、二つの主張が真愛に迫る。鼓膜を通って脳みそを直接揺さぶってくるのだ。
好き。好きじゃない。花占いでもしているように、真愛の中でうごめく正反対の二つの言葉。
(私は……)
玲音を好きなのか否か。自分の気持ちのはずなのに、答えが出せない。言い争う二人の自分のどちらもが正しいと思うし、どちらもが間違っていると思う。出口のない思考の迷路にはまってしまった気分だ。
二人の真愛の声はどんどん大きくなり、耳と頭に肉体的な痛みをもたらし始めた。
(やめて!)
そう言ったつもりだったが、声にはならず口を動かしただけに
堪らず白い腕を二人の真愛へと伸ばすが、指先が黒に侵食され消えていく。徐々に身体を失っていくと同時に、二人の声が小さくなっていることに気が付いた。
――おい。
背中に柔らかい感触が現れた。身体が重力を取り戻し、ベッドに優しく受け止められているのを感じる。夢が終わったのだ。
「気が付いたか?」
聞き覚えのない声がすぐ近くで聞こえ、真愛はパッと目を開けて上体を起こした。ベッドの横の暗闇に、何かが控えていた。
「大丈夫か?」
人のサイズではない。もっと小さな影が意思を感じる動きを見せている。目を凝らすとその姿がはっきりと分かる――。
「か、かかかかか」
「おい、大丈夫かと聞いてるだろ」
「冠クマちゃんっ?」
「うわっ! 何するんだっ!」
ベッドの端に両手を着いて真愛の顔を覗き込んでいた冠クマちゃんを勢いよく抱え上げる。
「放せ! 放せ!」
モコモコした短い手足をバタつかせて抵抗するが、しっかりと握られた真愛の手の前には無意味だった。真愛の手を押したり叩いたりしていたが、やがて抵抗を諦め大人しくなった。
「冠クマちゃんがしゃべってる……?」
電気を点けてベッドに座り直した真愛は、手の中にある馴染みのぬいぐるみをまじまじと眺める。先ほど手入れをしていた時と同じぬいぐるみのはずだが、しっかり持っていないと逃げていってしまいそうな生き物としての脈動を今は持っている。
「あなたは……何?」
握ったまま冠クマちゃんを顔の高さまで持ち上げ、目を合わせて問いかける。
「……オレの名はフィード。訳あってこのぬいぐるみを身体として借りることになった悪魔だ」
「あ、くま……?」
悪魔という単語を初めて聞いたかのようにおぼつかない発音で繰り返した。呆然とする真愛の反応に、掴まれるまま動きを止めていた冠クマちゃんが慌てたように腕を大きく振る。
「悪魔といっても別に悪い事なんか企んでないからな! 今だってオマエを悪夢から助けたくらいなんだぞ!」
「……え?」
思いもよらぬことを言われ、手が緩む。その隙をついて冠クマちゃんはスルッと拘束から抜け出した。白いシーツの上に自らの両足で立ち、困惑顔の真愛をジッと見上げる。
「オマエ、今夢を見ていたろ? どんな夢だった?」
「どんなって……」
夢の内容を思い出した真愛は自分の顔に熱が集まるのを感じ、言葉を詰まらせた。
「あ、あなたには関係ない!」
「言いたくないか。まぁ掛かっていた魔法を解いたのはオレなんだから、隠したところで無意味だけどな」
「魔法?」
「そうだ。オマエには恋をする魔法が掛けられていた」
「っ!」
真愛の顔色が変わるのを確認し、愛らしいはずのクマのぬいぐるみは悪い笑みを浮かべる。真愛の素直な反応に機嫌を良くした冠クマちゃんは真愛の肩に飛び乗り耳元に口を寄せた。
「近くにいる人間に自然と恋心を抱いていく魔法だ。心当たりがあるだろう?」
意地の悪い声に、真愛は思わず肩に乗った冠クマちゃんを振り払っていた。
「おっと」
前触れなく飛んできた真愛の手を難なくかわした冠クマちゃんは、不安定なベッドの上にも危なげなく着地する。
今しがた聞いた現実離れした話をデタラメだと否定することも出来ず、真愛は困惑したままで冠クマちゃんを見やった。
「それって、好きじゃないとか好きとか……暗示みたいにくり返してくる声のこと?」
隠しだてしても意味がないと悟った真愛は素直にそう聞いた。肯定されることを予想していたが、しかし、返ってきた反応は微妙なものだった。
「好きじゃない、とも言ったのか?」
「うん。どっちかっていうとそっちの声の方がよく聞いた気がする」
好きと言われたのはさっきの夢が初めてだ。対して好きじゃないと言われたのは、放課後と玲音との会話後と夢。好きじゃないと繰り返してきた回数の方が多い。
顎に手を当て考える素振りを見せた冠クマちゃんは数十秒ほど黙り込んだ後、真剣な眼差しで真愛を見つめた。
「確認がしたい。額をこっちに近付けてくれ」
「こう?」
座ったまま身を屈め、言われた通りにおでこを差し出す。そこにふわっとした布が当てられた。冠クマちゃんの手だ。
「もしやとは思うが……。……やっぱりそうだったか……」
「何? どうかしたの?」
「摂理をねじ曲げ害なす意志よ、消え去れ!」
「熱っ!」
冠クマちゃんが叫んだ瞬間、額にピリピリとした熱が走った。ベッドの上を跳ねるように後ずさり、額をさする。指先で違和感を捕らえることもなく、痛みももうない。
「なんだったの……?」
一瞬のことに戸惑いを露わにしたまま、冠クマちゃんに目をやる。
「驚くべきことに、オマエには二種類の魔法が掛けられていたようだ。さっきオレが解いた恋する魔法の他に、特定の人物に恋をしない魔法が掛かっていたよ」
「え……えぇっ?」
「オレの力ではその特定の人物が誰なのかまでは分からなかった。……オマエ、心当たりあるか?」
不意に自信家の幼馴染の顔がよぎる。
「……玲音くん」
真愛は玲音に恋をしない。何度もその声を聞いているのだから、恋をしない魔法の相手というのは玲音で間違いないだろう。
「人物を限定しての魔法だからな、オマエかその相手……レオンというものかが誰かに狙われている可能性がある」
「えっ!」
「このままいけば命もないかもな」
急激に室温が下がった。実際には変化していなかったが、真愛にはそう感じられた。
赤から青へと文字通り顔色を変えて自身の身体を抱きしめた真愛に、冠クマちゃんは明るい声で話を続ける。
「そこで、取引をしようじゃないか。オレにもオマエにも美味しい話だ」
恐怖を盾に取引をしようだなんて、やはり悪魔だ。いつもは心安らぐ冠クマちゃんの愛らしい顔に、今は警戒心しか湧かなかった。
「取引? そんなのするわけないでしょ」
ほいほい悪魔の口車に乗るほど馬鹿なつもりはない。
「結論を急ぐな。話も聞かないうちから雰囲気だけで答えを出すと後悔することになるぞ」
「悪魔との取引なんか……」
「悪魔差別はやめてくれ。確かに人間の命を奪い弄ぶ者がいるのは事実だが、オレは今オマエを助けたばかりじゃないか」
「……」
冠クマちゃんに取りついている悪魔――フィードの言う通り、真愛は魔法を解いてもらったばかりだ。しかしだからといって、「そうですね」と信用できるわけでもない。
「そう警戒するなよ。オレがオマエに要求したいものは、きっとオマエにとって些細なものだ」
「死んだ後の魂の要求は些細に入らないよ」
「言ってない! そんな事は一言も言ってないぞ! オレはただ人間界にいる間の
「えっ……? それってつまり、この部屋に居候したいってこと……?」
「そうだ!」
本当に些細要求であった。居候もなにも、冠クマちゃんの家は真愛のこの部屋である。しゃべる分少しは騒がしくなるかもしれないが、スペースとしては全く変わらない。
「そんなことでいいの? 後から実は追加で要求とか嫌だよ」
「そんな悪徳詐欺師みたいなことはしない!」
「詐欺師は悪徳だから詐欺師なんだよ」
悪徳詐欺師という言い回しからフィードが汚い真似を忌避しているのが読み取れた。ひとまず信用するに足りる悪魔といえるだろう。ならば取引をするのもやぶさかではない。
「部屋を貸したら、私の命を守ってくれるってこと?」
しかしそれだけでは困るのだ。先ほどのフィードの口ぶりだと真愛だけでなく、玲音の命も狙われている可能性があるのだから。
できるだけ貸し渋り、玲音の身の安全も確約させなければ……という真愛の考えは次のフィードの言葉で無意味になった。
「オマエの命だけじゃない。レオンとやらも狙われているかもしれないと言っただろう。二人まとめてオレが守ってやる」
引き出そうとしていた言葉を先に出され、真愛は目を丸くした。
「ほ、本当に……ッ?」
「別に一人でも二人でも変わらん。それよりオレは住まいが欲しい。どうなんだ? 貸してくれるのか?」
「うんっ……い、いいよ」
真愛自身の命と玲音の命とこの部屋の居候。どう考えても前二つの方が圧倒的に重い。重い二つと軽い一つを天秤に掛けられれば、取引相手が悪魔であっても契約していいと思えた。
「取引成立だな。そういえばオマエの名前を聞いていなかった。名はなんという?」
「真愛。
「そうか、マナか。それでは、よろしく頼むぞ、マナ」
差し出された茶色い小さな手を真愛は軽く握った。
その夜、寝直した真愛は夢を見た。一度目と同じく、二人の真愛が真愛を見つめてくる。けれど二人とも静かで、発するのはたった一言だ。
「真愛は玲音が好き?」
追い詰めるような言い方ではない、単純な問いかけだと分かった。
胸の中を一陣の風が吹き抜け、真愛の心を縛りつけていたしがらみが空間に溶け消える。たった一つの感情だけが心に残り、迷いはなかった。
「私は玲音くんが好き」
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