4.胸の奥の小さな違和感

 井形に並ぶ住宅街。バス通りから一本奥に入った通りに真愛の家はある。

 電車とバスを乗り継いで帰ってきた真愛は夕食後、二階にある自分の部屋でぬいぐるみの手入れをしていた。手入れとはいっても、糸が出ているところを切ったり、ほつれているところを縫ったりする程度だ。裁縫道具を広げた机に向かい、ぬいぐるみの身体をチェックする。

 頭に王冠を乗せ、白地に金の刺繍と薔薇のアップリケの施されたベストを着たクマのぬいぐるみ――真愛はかんむりクマちゃんと呼んでいる――を手に取った時、コンコンと音がした。

 その音で真愛が反射的に振り向いたのは、左側にある扉ではなく、すぐ右にある窓の方だった。カーテンを開けると曇りガラスの向こうに人影が見える。

 一部のためらいもなく窓を引き開けると、自室側の窓のへりに両腕を重ねて乗せさらにその上に頭を置いた玲音の姿あった。


「よっ!」

「玲音くん。こんばんは」


 自然な笑顔を目の前の幼馴染に返した。胸が刻むテンポに変化はない。


(やっぱり勘違いだったんだ。……あり得ないよね。幼馴染がいきなり恋愛対象になるなんて)


 真愛が宇田川うたがわ玲音に出会ったのは十二年前――五歳の時だった。引っ越してきたこの家の隣に玲音が住んでいたのだ。それから長い時間を過ごし、情が生まれた。しかしそれは恋情ではなく友情に過ぎない。いくら幼馴染が人並外れた美貌に成長し、学園の王子様になったとしても、それは変わらないはず……なのだが。

 むむと小さく唸りながら、真愛は腕の上で変形している玲音の顔を見つめた。腕の上で潰れた顔すらも美しい、それどころかいつもと違うリラックスした状態によって色香がにじみ出ている。

 意味あり気な視線をよこす真愛を一瞥し、玲音は頭を傾けたままの体勢で目を細め、見る者を魅了する笑みを浮かべた。


「そんなに俺の顔が好きなのか? じゃあ存分に眺めるがいいさ。好きなだけ見てろよ」


 顔、声、仕草、表情、そして視線。その全てに価値がある。もし時を止めて保管することができたなら、玲音が作り出した今この瞬間は後世に残る芸術作品となりえただろう。

 ――キュン。

 胸が小さな音を立てたのには気づかない振りをして、真愛は幼馴染として友達として適切な言葉を返す。


「そのセリフ、玲音くん以外が言ったら寒いやつだ」

「なら、なんにも問題ないじゃないか」


 一般的には自信過剰な言葉でも玲音が言えば過剰ではなくなり、玲音の姿をより魅力的に見せるものへと変化する。


「すっごい自信家」

「真愛だって俺なら似合うって思ってるんだろ?」

「……まぁね」


 肯定するのは癪だが、否定はできない。


(そういえば……)


 ふと玲音に付けられた二つ名が頭に浮かんだ。優しさとクールさを併せ持つ優に付いた氷雪王子、男装の麗人である芹香に付いた姫王子。他の二人と同じく、玲音にも特別な名前があるのだ。

 人の目を引き魅了する神秘的な性質と、艶やかに輝く黒髪と星を宿した様に煌めく黒の瞳。その素晴らしさを讃えて、玲音は『宇宙コスモ王子』と呼ばれている。


「それ、懐かしいな」

「え?」


 意識が逸れていて玲音の言う『それ』が何か分からず、真愛は一瞬狼狽(うろた)えた。いつのまにか腕から頭を持ち上げていた玲音は、自信よりも優しさを感じる微笑を浮かべていた。玲音の視線を追い、真愛は首を傾げ自分が手にしているぬいぐるみの名前を呟く。


「冠クマちゃん?」

「そうそう。そんな名前付けてたな。……まだ持っててくれてたのか」

「うん」


 返事と同時に、真愛は冠クマちゃんをキュッと柔らかく握り直した。

 冠クマちゃんは真愛が七歳の誕生日を迎えた時に玲音から贈られたものだ。幼い頃は腕で抱えて持っていたが、今では両手に収まる。


「真愛は物を大切に扱うよな」玲音の視線が真愛の後へと伸びる。「なんでも物持ちが良いし」


 他のぬいぐるみのこと言っているのだと分かり、真愛は緩く首を振った。


「冠クマちゃんは特別だよ」


 貰った時の暖かな気持ちが蘇り、笑みを浮かべた真愛は冠クマちゃんの王冠にキスを落とす。


「……そ、うか」


 見ていた玲音は瞠目し頬を朱に染めたが、真愛の目は冠クマちゃんのみを捉えていてそれに気づかなかった。玲音はその隙に素早く身を引き完全に自室へ身体を戻し、そのままの流れで身を反転させた。


「玲音くん?」


 真愛が冠クマちゃんから目を上げると玲音は背を向けていた。その背中から拒絶を感じ、戸惑い声を背中へぶつける。しかし玲音がこちらに顔を向けることはない。


「暇してんだったら一緒に授業の予習でもしようと思ったんだけど、忙しそうだから今日はやめとくよ」

「……私、何か玲音君を怒らせるようなことした?」


 心当たりがない不安から、言った真愛自身も驚いてしまうほどに悲しげな声になった。


「違う!」


 慌てた声と顔で玲音は振り返る。珍しいその様子に、不安は霧散したが疑問は残ったままだ。その上――。


「? 玲音くん、なんか顔が赤い?」

「ッ!」


 指摘により自らの失態に気付き、掌を真愛に向けて顔を隠した玲音だったが、過剰に反応しさらに墓穴を掘ることになった。


「赤くない!」


 焦った玲音の口から飛び出したこの言葉は、自らの顔が赤いと思っていないと出て来ない言葉だ。赤面している理由に心当たりがなければ、赤いと言われたことに反論するのではなく疑問を抱くはずだ。

 その矛盾から、幼馴染が見せる態度が照れであると気付き、真愛の疑問はまたも姿を変えた。


(え? なんで照れてるの?)


 玲音が態度を変えた瞬間まで記憶を遡り、真愛はその正体に行き着いた。


「あ……あぁ!」


 貰ったぬいぐるみにキスをしたら、それがどんな意味を持つか。無意識でしてしまった自身の行為を玲音がどう受け取ったかを想像して、真愛まで顔を染めた。


「ち、違うからね。あれは深い意味とかじゃなくてただ懐かしく思ってついしちゃっただけだから!」

「知ってるっつーの、そんなこと」

「知ってるならなんでそんな顔してるのっ?」

「そんな顔もなにも、普通のイケメンだろ! いつもとなんら変わりない!」


 そう言っても顔を見せることに抵抗があったらしく、真愛に見せるのは艶めく黒髪の後ろ頭ばかりだ。


「とにかく、今日はもういい! じゃーな、また明日!」


 玲音が後ろ手に窓を閉めたせいで、もう一度顔を見ることは出来なかった。

冠クマちゃんを左手で抱え直し、真愛も自室の窓を閉めた。玲音と話していたのが幻だったかのように、時計が時を刻む音だけが部屋を満たす。

 ――真愛は玲音に恋をしない。

 突然響いた声にギクリとして、真愛は後ろを振り返った。そこには見慣れた部屋の扉があるだけで、誰の姿もない。この声が実体を持たないことは知っていたはずなのだが、反射的に身体が動いてしまった。

 昼間と同じように胸の辺りで拳を握ると、平時とは比べ物にならない速さで脈打つ心臓の動きが伝わってくる。

 玲音と共有した時間に幸せを感じ、友情が別のものへと変化しようとしているのを、声に見抜かれたような気がした。

 ――真愛は玲音に恋をしない。

 言いつけを破った子供に念を押すように、もう一度そう言われた。


「私は玲音くんに恋をしない」


 頷き、帰り道でしたように噛み締めながら声をなぞる。同じようにしたはずなのに……しかし、今度は真愛の胸に残る違和感が消えなかった。

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