第三幕・魂響―たまゆら―

序章

 


 ふるり。ふるり。


 水面みなもに揺れる、魂一つ。


 水面に映る、魂ひとつ。


 彼方あちらへ進めば帰れない。


 此方こちらへ戻れば還れない。


 どちらを選べど


 ふるり。ふるり――。




 新月の夜だったように――思う。

 家族を殺した、憎いあの男を殺し本懐を遂げたのは。

 月明かりすら無い真の暗闇の中で、あたしはあの男を殺した。

 ――それが、あたしの使命だったから。

 それが。

 あたしの存在意義だったから。

 今でもはっきりと思い出せる、男を切り捨てた時の生々しい感触。それはずっとあたしにべったりと付き纏い、あたしの記憶の中から離れない。

 でも。

 あたしは――本当にあの男を殺したんだろうか。

 感触は、ある。記憶もきっと、間違っていない。

 だけど。

 だけど、憎しみは――無い。

 今まで心の中に滞っていた膿のようなものが、今は全く見つけられない。

 だったら。

 あたしは――一体誰を斬ったと言うのだろう。

 あたしが殺さなくちゃならないのは。

 あたしが斬らなきゃいけないのは。

 憎くて仕様が無い、殺しても殺し足りないぐらいに憎いあの男。

 あの男を斬ったというのに。

 何故、こんなに悲しいのだろう。

 何故、こんなにも虚しいのだろう。

 心は空っぽで、身体も透明になってしまったように何も感じない。

 ただの、

 ……どうして?

 あたしは。

 あたしは――。

 あたしの目の前で、血溜りの中に身を沈めているのは。

 ――嗚呼。

 それは、あたしが初めて愛した男。

 心の底から、愛しいと思った男。

 どう――して?

 ……どうして? どうして? どうして? どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうし……


「……い、嫌あぁぁァァッ!!」


 現実を飲み込み、あたしは心が張り裂けそうな悲鳴を上げた。




「はい、いつものお団子二つね。霜雪そうせつちゃん、お得意様だから一本おまけにつけとくよ」

「それは有難う御座います。でももう、ちゃん付けで呼ぶのは止めて頂きたいのですが」

「あらぁ、霜雪ちゃんは霜雪ちゃん。いくら歳食ったっていったってまだまだ十六歳だろう? あたしなんかから見たら、全然ちゃんで構わないさね」

 ……私は構うんですけどねぇ。

 諦め混じりにそう呟くと、霜雪は出来たての団子を手に取った。それを、まだ熱いうちにはふはふ言いながら口に入れると、もっちりと絡みつくような柔らかい生地と、絶妙な甘さの餡の香りが口中に広がった。

 見た目相応というべきか、中身不釣合いというべきか。どちらにせよ、彼はかなりの甘党なのである。

 団子を一本綺麗にたいらげ、入れたての緑茶をすする。ぽかぽかとした昼の日差しは何とも暖かく、ついまどろんでしまいそうになる。いつも気を張りしゃんとしているこの少年が、外でこんな姿を見せるなどとても珍しい。彼の義兄等が見かけたら、妖よりあり得ないモノを見たと二週間ぐらいは軽く寝込みそうな勢いである。

 もう一本の団子を味わおうと、串に手をかけた時だった。霜雪の貴重な時間を台無しにするその下卑た声が聞こえてしまったのは。


「オネエチャン、暇?」

「暇ならさァ、一寸付き合ってくれねぇか?」

 甘味処の少し前。小さな橋の裾でにやにやと歪んだ笑いを貼り付けながら、数人の男達が一人の女を囲んでいる。女は白い杖を抱え、おどおどと曖昧な笑みを浮かべながら、首を傾げた。

「あた、あたしは。その……」

「いいじゃん。特に用事も無ェんだろう? 少しぐらい遊んでくれたってイイよなァ」

 言いながら、馴れ馴れしく女の肩に手を回す。それを見て、霜雪は小さな溜め息をつくと残った団子を名残惜しそうに見つめながら、傍らに置いた自らの得物を手にして立ち上がった。

「ちょっ、霜雪ちゃん!?」

「女将さん、これ、包んでおいてもらえますか」

 にっこりと、だがしかし、彼の事をよく知っている人間ならばむしろ背筋が凍るような微笑を浮かべて云うと、霜雪は足早に男女の方へと向かう。

 ――全く。

 折角の団子が不味くなってしまいます。

 彼にとって久しぶりの一人の時間。誰にも邪魔されず、お気に入りの甘味処で静かな川のせせらぎと活気溢れる人々の喧騒を聞きながら、お気に入りの団子をしっかりと味わう。それは霜雪の数少ない至福の時間である。

 彼の無粋な義兄等は、美味いモンなンて食えりゃアいいだろ、と笑うだろう。が、霜雪は場所や音、景色や天気等全ての要素が合わさってこそ、美味しいものは更に味を引き出してくれると思うのだ。別にその理論を人に押し付けようとはさらさら思わないが、一人でいる時ぐらい、存分に味わいたいものである。

 それを。

 目の前の男達は、どうしようもないほどにぶち壊してくれている。

「あ、あたしは、その……人を、待っていますから」

「人ォ? こォんなイイ女を待たせるような奴にロクな野郎はいないぜ、なァ?」

「少なくとも、貴方達のような嫌がってる空気も読めない無粋な輩より落ちてはいないと思いますよ」

「……ああ?」

「真逆、坊主が待ち人だってェんじゃねぇだろうなァ」

 割って入った少年の姿を見、男達の間に失笑が広がる。その失笑を打ち消すように、霜雪はわざとに大きくため息をついた。

「これだから、想像力が貧困な人は……」

 すっと右手に持った杖を持ち上げ、頭格の男の鼻先へと突きつける。

 上下に付けられた、紫色の房がふわりと揺れた。

「もし私が待ち人なら、何処か可笑しな所でも? 貴方達のナンパが成功するという想像よりはずっと現実的だと思いますけどね」

 いや、ある意味で想像力が逞し過ぎるんですか、と、今度は鼻で笑って見せた。

「とにかく、目障りです。消えなさい」

「ンだとこのガキ!」

「云わせておけば!」

 お決まりの台詞を吐いて、男達がざわめき立つ。霜雪も杖を引いて身構えた。

 双方が動こうとした、正にその時。

 チ……と小さな音が耳に届いたような気がして、霜雪は眉をひそめる。

 ――瞬間。

 中心になって絡んでいた男の首筋に、スラリとした細身の刃が突きつけられていた。少しでも男が動けばその首からは夥しい量の血液が流れ出る事になるだろう事は、誰にでも容易に想像出来る。そしてそれが、男を軽くあの世送りにしてしまうだろうという事も。

「――な」

 霜雪も、その他の男達も動きを止め、その刃の持ち主を唖然と見つめる。注目された持ち主は、恥ずかしそうな声で小さく云った。

「……お引取り、願えませんか。あたしは、待っていたいんです」

「わ、分かったよ。分かったからソレを仕舞ってくれねぇか」

 先程までの威勢は何処へやら。話すのもやっとという感じで男は云った。首筋に突きつけられた刃が話すだけでも首の皮一枚など簡単に斬ってしまいそうな程、冷たい印象を抱かせた所為だろう。

 その言葉を聞き、彼女はあっさりとその刃を白鞘に収めた。女が抱えていたものは、杖ではなく刀だったのだ。男の身体からふっと力が抜け、同時に汗がどっと吹き出す。

「あの……まだ、何か?」

 彼女の問いに、男は恐怖と苛立ちが混じり合ったような複雑な表情を浮かべると仲間を促して足早に去って行く。その後姿を見つめながら、霜雪は今目の前で起こった事について考えを巡らせていた。

 ――見えなかった。

 ゴロツキ共はともかくとしても、この私にも全く見切れなかった。

 彼女は一体いつ、その刃を抜いたのか。

 気配も何も感じなかった。

 いくら霜雪が表に立って戦う事が少ないにせよ、それでも場数は踏んでいる。気配を読む事、相手の行動を読む事に関しては兄にだって引けを取らないはずだ。

 思わず、女を凝視する。鬱陶しくも見える黒い前髪の奥で、金色の瞳が所在無げに俯いていた。

「……あの、御免なさい」

「……え?」

「あ、あたしの所為で、面倒な事になってしまって。あたしが、ぼーっとしていたのがいけないんですよね。御免なさい」

「いえ、別に貴女は何も――」

 おどおどと少し早口で紡ぎ出される言葉に霜雪は面食らった。

 絡んだのは男達だし、霜雪だって至福の一時を邪魔されて勝手に首を突っ込んだだけである。謝られる筋など何処にも無い。更にいえば結局のところ、霜雪は何もしていないのだから。

「結局、迷惑をかけたのは私のようですね。事態をこじらせてしまってすみません」

 気を取り直して、言葉を返す。

「そ、そんな、よしてください。悪いのはあたしだし、あたしがしっかりしてれば良かったんだし、それにこんな事で貴方にあんな人達をから」

「いえ、私もそこまでは」

 早口で紡ぎだされる女の言い訳に少し辟易しながらも、霜雪の耳は違和を感じる一言を聞き逃さなかった。

「私も不愉快だったもので、追い払おうと思っただけですよ。それに例え斬りたかったとしても、私は刃物を持っていませんし」

「……え?」

 化粧っ気の無い唇から、短な声がもれる。

「……何か?」

「え……? あ、いえ、あたしの勘違いだったみたいです。御免なさい」

 前髪の奥から金色の瞳がきょろきょろと忙しく動きながらも、霜雪の携えている杖に何度も視線を合わせている。それを確認し、霜雪は話題を変えた。

「それで、待ち人はよろしいのですか?」

「あ……ええ。あたしは本当に待っていただけだから……今日は空振りだわ」

 特に用事もない、というのは存外外れてもいなかったんです、と少しだけ寂しげに女は続け。

「また別の日に出直します。今日は本当に御免なさい」

 何度目か分からない謝罪の言葉を口にして、女は背を向ける。覚束ない足取りで去っていく着物に描かれた、真っ赤な彼岸花が鮮やかに揺れていた。

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季球妖物語 柊らみ子 @ram-h

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