第伍話


 はぁはぁと息を荒くしながら草雲は小高い丘を駆け上がる。陽が沈みきり、黒く塗り潰された道は昨日と同じ道なのに黒々とした闇に染まり、まるで別の道を駆けているような気分にさせた。

 さっきのあれは。

 力無く、だらりと垂れ下がった腕を思い出し、喉に何かが込み上げてくる何度目かの感覚を覚え、何とかそれを押し止める。

 ――違う。

 問題なのは、そこじゃない。

 必死に自分にそう云い聞かせ、頭の中の映像を強引に切り替える。

 問題なのは、その前だ。

 どうしてあの腕が見えたのか。云いかえれば、何故それまでは見えなかったのか。

 答えは簡単だ。

 前に人が、長髪の女性が立っていたからに他ならない。

 草雲には、その女が木の枝に顔を近づけて二言三言囁いたように見えた。

 そして――。

 ふっと、その姿が掻き消えたのだ。何か、小さな物が落ちたような気もするが、その記憶は曖昧で何とも云えない。何より、女が消えたという事実とその後に見えたあの光景――。

 またその光景が脳内をふっと過ぎり、草雲は胸の悪さを覚えて立ち止まる。普段、あまり激しい運動をしない所為か、心臓はもう飛び出しそうなほどばくばくと脈打っていた。その激しい動悸も手伝い、胸の悪さはますます酷くなる一方で、たまらず草雲はその場にしゃがみ込んだ。

 ――あの、女性は……。

 酸素が回っていないぼぉっとした頭で考える。動悸の音が邪魔をするが、それも冷たい夜風に当たっていると少しずつ治まっていった。同時に、不鮮明な脳内も少しずつ働きを取り戻していく。

 ……でも、そんな。

 草雲は、その女性が誰か、という答えを一つだけ持っていた。だからこそ、真実を確かめる為にここまで走ってきたのである。

 ざっと、草を踏みしめる音がした。

「あーあ。やっぱり来ちゃったんだね、先生」

 残念そうに後ろからかけられた声は、聞き慣れてはいるが今この場で聞く事になるとは夢にも思っていなかった声だった。弾かれたように、ぐるんと振り向く。

 声を聞き慣れているのだから、まだあどけなさを十分に残すその顔ももちろん、見慣れている。そこにいたのは、白い髪を持つ一人の少女だった。夜風に遊ぶその髪をいじりながら、彼女は続ける。

「本当はね、来ないで欲しいってずっと願ってたンだ。あたいは、あまり……」

 後に呟いた言葉は、上手く聞き取れなかった。だが、当の草雲はきょろきょろしながら少女の言葉を頭半分で聞いていたようなものだったので、例え聞き取れていたとしてもその意味を深く考える事は無かったかもしれない。

 ゆっくりと立ち上がって辺りを見回し、草雲はまるで内緒話でもするように声を低くして少女に問う。

「沙雪、一人、ですか?」

「あたい一人だよ。……ここは、ね」

「ここは?」

 沙雪の言葉に眉を寄せ、鸚鵡返しに問う。白い少女は丘の頂上をすっと指差した。

「先生も、行くンでしょ? 多分、来るだろうからここで待っててくれって、雷封にそう云われたんだ」

「雷封さんに?」

 ますます、訳が分からない。

「あたいはね、乗り気じゃないんだけど。まぁ、一応雷封はあたいの使役者だからね。正式に式として使役されるとさ、一応は従わなきゃならないでしょ」

「……正式に? 雷封さんは、貴女に何をしろって云ったんです」

 少女は一瞬だけ戸惑い、そして諦めたように零した。

「先生を、止めてくれって。……どうしても駄目なら、仕方が無いって」

「仕方が、無い……」

「先生、今引き返せば、何も起きないで済むよ。あたいは、この先に進む事は先生には勧めない」

「ですが……。この先には、私の疑問の答えが待っていると思うのです。だから、ここまで来たのです」

「それって、そんなに大事な事? じゃん」

 まるで、泣き出しそうに小さな顔を歪めて云ったその台詞。多分、自分の経験を重ねて云ったのであろうその台詞は、流石に少々重たかった。

 重たかったけれど。

「私にとっては、大事な事です。例え、どんな答えが出たとしても見届けなければならない、そんな気がするのですよ」

 一度しか、話をした事の無い男。

 そんな男の為に、自分は今、一体何をやっているのだろう。

 ほんの刹那、疑問がすぅっと秋の冷たい夜風のように首筋を撫でて消えた。確かに、その通りだ。青嵐とは旧知の仲でも杯を酌み交わした義兄弟でも無い。ただ、偶然出会っただけの、それだけの間柄だ。

 それでも。

 確かめなくちゃ、ならない――否。

 

 さっきのあれは何だったのか。

 『人形師の怪』に関わっているのか。

 草雲自身が、確かめたいのだ。確かめたくてしょうがないのだ。

 先程から、否、彼に目を向け始めた時からずっとそうだった。

 信じているからでは、無い。

 ただ――ただ。

 確かめたい。頭の中でうずうずと蠢く抗い難い好奇心に突き動かされて、草雲は動いていたのだ。

 気が付いて。

 愕然と、なった。

 ――

 信じようとは、している。それは、確かだ。だが、信じきっているかと問われれば、すぐに肯定出来る自信が無い。自分は必ず、戸惑ってしまうだろう。

 ――それでも。

 ふ、と沙雪を見つめる。白い少女と視線がぶつかった。どうやら彼女は、草雲をずっと観察していたらしい。

「……行くンだね」

 聡い少女の事だから、この沈黙の間草雲が何かと葛藤していた事はすでに見抜いているだろう。そして、自分が何を云ったところでもう止められないという事もまた、気が付いている。故に、彼女の言葉に草雲が頷いても、止めようとしなかった。

 その代わりに前を見据え、草雲に注意を施す。

「あたいは、一応止めたかんね。何があっても、受け止める覚悟は出来てるンだよね?」

「沙雪は、一緒に行かないのですか?」

「あたいは、先生を止めるように云われてるだけだから。どっちにしても、このまま雷封が下りて来るまでここで待ってなくちゃいけない」

 正式に使役されれば、逆らえないんだよ。

 その言葉に、草雲は横っ面を思いっきり引っ叩かれたかのような衝撃を受けた。今更ながら、目の前の少女が人と異なる存在だという事実を改めて叩きつけられたからだ。

「先生。先生は」

 ――一体、何をする為にここに来たのさ。

 少女の言葉に、ふ、と顔を上げる。

 自分がすべき事は。

 一刻も早く落日庵に行き、真相を確かめる事。

 うんとお腹に力を入れ、分かったと沙雪に頷いてみせる。一体何が行われているのか皆目見当も付かないが、それでも気合を入れておくに超した事はなさそうだ。

 少女は草雲の前に立つと彼を見上げ、念を押すように「踏み出したら、戻ってきちゃ駄目だよ」と云った。



 ざっざっざっと、自分の足音がやけに響く感じがした。

 静寂が、辺りを包んでいる。虫の声も風の音すらも聞こえない。

 ――しゃらん。

「沙雪を置いてきたのかよ、先生」

「……ら、雷封、さん」

 影から滲み出てきたかのように、全く気配を感じさせずに現れた黒衣の青年の名を呼ぶ。

 雷封は、輪が互い違いにすれ違っている独特な形をした錫杖を左手に携え、無表情に彼を見つめていた。いつもは饒舌で口達者な青年だが、仕事に入ると時たまこういう一面を覗かせる事があると草雲は知っている。

 触れるだけで切れてしまいそうな、冷たく鋭い無表情。

 きらりと、錫杖の先が光った。

 赤毛の青年は少しの間そうしていたが、ふぅっと息を吐き出して錫杖を肩に担いだ。冷たい仮面が崩れ、いつもの少しだらしない顔になる。

「ま。先生のこッたから、こんな時間に沙雪一人残して来る事に罪悪感でも感じてもしかしたら下に残ってくれるンじゃねェかとちったァ期待したンだが……。そンなに気になるのかよ『人形師の怪』が」

「……え、ええ」

「知らない方が良いって事だッてあるンだぜ? それでも、本当に知りたいのかよ」

「はぁ、沙雪にも同じ事を云われました」

 苦笑いを浮かべてそう云うと、雷封はふいっと彼から目を逸らした。少女が同じ事を云ったと聞いて、居心地が悪くなったのかもしれない。

「……先生。めんどくせェから、先に云っておく。青嵐ッて野郎はな、ろくでもねェ男だぜ。だから――」

 ――妖なンかに、魂を売っちまうンだ。

 続きは、確かにそう聞こえた。

「だから、先生なンかが何を云ったところで、あいつはこっちに戻ってなんて来やしねェぞ。あンな男に、先生なんかが関わるべきじゃア無かったンだ」

 ま、半分は俺の責任か。

 心中で呟いたその台詞を飲み込み、雷封は苦笑だけを草雲に向ける。

「あいつは、先生なンかが何を云っても引き戻せやしねェ。もう、手遅れだよ」

 ておくれ。

 それがどういう意味か、草雲には嫌と云うほど、分かった。

 ――だけど。

「そ、そんな事。どうして、雷封さんに分かるんです? 確かにあの人は何らかの手段を使って人を殺めたのでしょう。だけど、それにはきっと理由が――」

 必死に弁解をしている自分が可笑しくてしょうがなかった。

 たった一度しか、言葉を交わした事の無い男。

 それでも、言葉は止まらない。

「紅蘭さんを殺めたのだって、犯人は違うんじゃないかって話があるぐらいじゃないですか。もしかしたら青嵐さんはその真犯人を――」

「ああ。その通りだよ、先生」

 人形師の怪の正体は、

 あっさりと。

 あっさりと、あまりにも軽く。

 空気のようにその言葉は、草雲の耳をすり抜けて行く。

「青嵐の通り名は夢織人ゆめおりびと――。まるで夢を織ってみせるが如く、幻を操れるところからついた呼び名だよ。それこそ」

 楽しい夢から――残酷な夢まで。

「……まぼろし……」

 あれが。

 ――だらり。

 先程の、あれが。

 あれが、幻だったとでも、云うのだろうか。

「ま、俺には夢だなンだッてェのはよく分かンねェけどな。夢は所詮夢でしかねェ。そンなもんに振り回されて人生終わンのは、真ッ平御免だぜ」

 云って、ひらひらと手を振り。

 ――後は、夢紡ぎに聞くンだな。

 と、短く吐き捨てた。

「……夢、紡ぎ?」

 椿の事だよ、と雷封は云い。

「そろそろ――開演の時間だぜ」

 合図のように。

 ちりん、と場違いな鈴の音が響く。

 弾かれたように、草雲は庵の中へと駆け込んだ。



 ――嗚呼、全て終わったよ、紅蘭。

 ――ええ、知っているわ。だって、私もお手伝いしたでしょう?

 ――だってこれは、僕と君との復讐だから。

 ――終わったのなら、



 それが、庵に飛び込んだ草雲の目に映った光景だった。

 彼が捜し求めていた眼鏡の青年と、彼の造った美しく艶やかな人形。初めて聞いた人形の声は、涼やかにしかしざわざわと草雲の心を掻きたて離れない。

 穏やかな笑みを浮かべ、青年は云う。

 僕は。

「僕は最初からそのつもりだった。とっくに、覚悟は出来ていたんだ」

 ――おかしい。

 ちくりと覚える、違和感。

 人形が勝手に動く事なんて、無い。況してや、言葉を発するなんて。

 あるとするなら。

 ――夢紡ぎ。

 そうだ、これは。

 ――駄目だ。

 駄目、だ。

「青嵐さん! それは紅蘭さんではありません! 貴方がいかに精巧に造ろうと、人形は人形なんです。動いたり、況してや喋ったりなんて」

 そこで草雲は唐突に言葉を切った。否、それ以上彼は続ける事が出来なかったのだ。

 瞳に映った人形師の顔は――。

 笑って、いた。

 青灰色の瞳に、沢山の涙を浮かべて。

 いつの間にか見慣れていた、優しく穏やかな表情を顔一杯に広げて。

 それは全てを受け入れた、心の底からの笑顔。

 ――嗚呼。

 ――

 ちっぽけな、私の、言葉など。

 ておくれ。

 安堵しきった笑みを見て、そう悟った。すぅっと身体から力が抜ける。膝から崩れるように草雲はその場に座り込んだ。

 にこり、と人形師が彼に笑いかける。

 ほんの少しだけ、申し訳無さそうに小さく顔を歪め、青嵐は呟いた。



 ――



 名前通りの、紅の髪に指を絡め。

 彼女の造り物の唇に、そっと自身の唇を重ねる。

 同時に感じる、重たい衝撃。

 硬く、冷ややかな感触。その冷たさすら、愛おしい。

 ――ぱたぱたと。

 赤い液体が、床に零れる。

 ――嗚呼。

 この赤は知っているよ、紅蘭――。



 ずるりと、人形師の身体が崩れ落ちる。

 彼が造った人形の手には、紅い色に染まった短刀が確りと握られていた。

 ぱっと散った鮮やかな紅で、視界が曇る。

 すとん、と何かが床に落ち。

 色鮮やかな人形の幻影は、目の前から消えていた。

 残されたのは、己の血に染まりながら人懐っこい笑みを浮かべて倒れている人形師と。

 美しく艶やかな人形とは似ても似つかない、小さく簡素な木彫りの人形だけだった。



「その人形が――『人形師の怪』の正体さ」

 聞き覚えのある艶やかな声が聞こえた。草雲は立ち上がらぬままゆるりと首だけをもたげ、声のした方へと向ける。

 派手な紅い羽織。

 艶やかな、紫紺の髪。

 壁際に、椿白零が静かに佇んでいた。

 ――夢紡ぎ。

 ぽつりと、草雲は呟いた。

 夢、夢、夢。

 何処を見ても、夢ばかり。

 それなら――。

 今この瞬間も、夢であったら良いのに。

 夢紡ぎは、腰を屈めて血に染まった粗末な人形をそっと拾い上げた。その人形を虚ろな目で見つめ、誰にとも無く呟く。

「こいつだって、分かってたンだろう。同じ手を使ったンだからね」

「……同じ、手」

「雛形を造り、幻に仮初めの身体を与えて操作する幻術の一種さ。尤も、かなり高度な術だから、幻術使いと云えどこれを自在に操れる術師なんぞそう簡単に転がってるもんじゃアないけどね」

 青嵐がどうやって真犯人を見つけたかは知らないけれど、犯人には効果的な方法だっただろうさ、と椿は云う。

 草雲はのろのろと立ち上がると、効果的ですか、と何の感情も籠もっていない薄っぺらな声で相槌を打つ。

 ――こんな事。

 穏やかな顔で事切れている青嵐を見下ろし、草雲は小さく呟いた。

 こんな、事。

「……どうして。どうして、他の道を選ばなかったのです。こんな事をしたって、紅蘭さんが喜ぶわけが無いという事ぐらい、少し考えたら分かるじゃないですか」

 どうにも、納得がいかなかった。否、納得したくなかったのだ。

「忘れろとは、云いません。そんな事、云えるわけがありません。だけど、復讐なんて――そんな、くだらない事の為に」

 ――命を、賭けるなんて。

 いつの間にか、拳を強く握り締めていた。爪はぎりりと音を立て、掌に深く食い込んでいる。

「生きる事。それが、紅蘭さんの為に出来る一番の事だったのではないですか。自分の為に、死ぬ覚悟なんてしてもらっても、何も嬉しくなんてありませんよ。そうじゃあ、ありませんか」

 いつだったか、妹が云った台詞。

 忘れられない表情を浮かべて云った言葉の意味が、今更ながらはっきりと、分かった。

 確かに、冗談でも聞きたくない。

「――ああ、くだらないね」

 静かに、夢紡ぎが云った言葉。その静かな口調が、更に草雲の心を逆なでする。「あんたには分からないだろうよ」と、如実に云われているような気がしたからだ。

「私には、理解出来ません。いや、理解したいとも思わない。ただ――悔しいのです。悔しくて、しょうがないのですよ」

 知らず知らずのうちに、涙が頬を濡らしていた。

「青嵐さんには、分かっていたはずなのです。復讐などをしても、紅蘭さんの所へ行っても、彼女が喜ぶはずがない、と。分かっていた、はずなんです……」

 僕にはもう、舞台に立つ理由が無いんだ――。

 ――でも、約束したから。

 夢を織り続ける――そう、約束を。

 ぱたりと一粒、小さな涙が地面へ落ちた。

「……復讐なンてのは、結局は自己満足だ。そッからは何も生まれねェ。先生は、そんな事を云いてェのか?」

 いつの間に入って来たのか。

 今まで口を閉ざしていた、黒衣の青年がぼそりと云う。その視線は、部屋の隅で静かに佇む本物の紅蘭へと向けられていた。

「だけどね、先生ェ。人間ってのはさ、無駄な事こそしたくなッちまう生き物なんだぜ」

「あたしが止めたかったのは、復讐でも決着でもない。あたしが本当に止めたかったのはね――」

 ――死者への、冒涜だよ。

「――え?」

 一体何を云っているのか、理解出来なかった。

 雷封も椿も草雲の方を見ず、紅蘭に視線を注いだままだ。冷たい感覚が背中を走り抜けるのを感じながら、草雲も、まるで人間のような人形へと視線を移す。

 そういえば。

 この二人は、青嵐の復讐の邪魔をする気配は

「……先生ェ。この人形、まるで生きてるみたいだろう? これが一体」

 ――何で出来てるか、知ってるかい?

 黒衣の青年は、何も云わない。

 ――真逆。

 椿は人形を愛おしそうに撫で、まるで生き写しだよ、と呟いた。

「当たり前さ。あのコの骨を、使ってるンだからね」

「――え」

「型が良いンだ。青嵐の腕をして、下手なものを造れという方が難しい話さ」

 そんな。

 そんな、事――。

 だけど、時すでに遅かったねェと云う椿の言葉が耳を通り抜けて行く。

「この男はさ。後悔って妖に飲み込まれちまったのさァ。だから、せめてこのコが美しかった姿のままでいられるよう」

「骨を持ち帰り、人形にしたと、云うんですか……」

 そして、その手を血に染めた。

 己が誰より愛した、女の姿を借りて。

 自らの手を汚す事無く、彼は確りと己の魂を血に染めた。

 ……矛盾、している。

 その思考は、歪んで、軋んで、決して何処も理解など出来ないけれど。

 ほんの少しだけ、羨ましいと思えたのは何故だろう。

 最期の瞬間、青嵐が心の底から幸せそうな笑みを浮かべていたからだろうか。

 それすらも、分からない。もう、何も分からなくなった。

 頭の中は混沌としていて、考える事を放棄している。身体はまるで、無くなってしまったかのように動く事を拒否している。

 ――否。

「このコはねェ。少しの間だったけど、あたしが世話を焼いてやった事があるコでね。すぐに客が着いて、身元を引き受けてくれると云う。それが、青嵐のいた劇団の座長さんだったってわけさ。座長さんは良さそうな人だったけれど、何たってこの美貌だからね。何事か起きやしないかと――ずっと気に掛けていたンだよ」

 引き受けてくれたのが幼馴染のいる劇団だった、というのもこのコにとっては悲劇だったンだろうねェ、と夢紡ぎは続ける。

 椿の綺麗な声が、通り抜けて行く。聞いているのでも、聞こえているのでもない。ただただ、通り抜けて行くだけだ。種田草雲という人物は、確かにそこに存在しているのに、何も掴み取らず何も押し留めなくなっていた。云うなれば、種田草雲の形をした残骸が残っているだけだ。

 このまま。

 ……無に、なってしまえれば、良い。

 悪夢すら見る事の出来ない、無に――。

 椿も口を閉ざし、完全な静寂が訪れた。暗闇と静寂の支配する中で、草雲は自分が本当に無になってしまったような錯覚を覚える。

 それを壊したのは、自らも闇と同化しているような黒衣の青年だった。

「先生。あんたが俺達について回ろうが、事件に首を突っ込んでこようが、邪魔さえしなきゃア正直どうだっていい。ただ」

 闇の中から、黒衣の青年は草雲に語りかけた。その言葉で、草雲は感覚を取り戻す。月明かりが差し込み、ここが完全なる暗闇では無いという事に、彼は気が付いた。

 私は――無になどなっていない。

「そのつもりなら、相手に余計な感情移入だけはしねェこったな。俺達以外で事件に関わってるやつなンてのは――」

 所詮。

 ――妖なんだからよ。

「……そう思えるだけの覚悟が、あんたにはあンのかよ?」

 草雲の苦手な赤い瞳が、強い眼差しで彼を見ている。

 覚悟。

 ……自分には。

「……私には、覚悟など何もありません。そんなものは、何処にもありませんよ」

 ぼそぼそと、歯切れの悪い台詞。我ながら情けないと思える。

 ――ただ。

「私は、真実を知りたいだけなのです。妖とは何なのか。人とは、一体どういう存在なのかを」

 ゆっくりと顔を上げ、赤い瞳と真っ直ぐに向き合った。

 血の様な、暗い赤。

「雷封さんには、分かっているのですか? 妖というものが一体何なのか。覚悟とは、一体何の覚悟です? 妖を殺す覚悟ですか。それとも――」

 妖という言葉で事を丸め、人を殺める覚悟ですか。

「教えてください、雷封さん……」

 黒衣の青年は少しの間黙っていたが、ゆっくりと重たい口を開く。

「……答えは、自分で見つけるンだな。それも見つからねェようじゃア、覚悟なんて本気で出来やしねェだろ」

 珍しく、彼にしては歯切れが悪い。青年はくるりと踵を返すとぽつり、と云った。

「……まァ」

 ――どッちにしろ、同じ事だよ、先生。

 それがどういう意味なのか。

 青年の黒い背中に。

 草雲は、尋ねる事が出来なかった。

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