第肆話

 

 ――ポゥと、遠くに小さな火が灯った。

 それを確認し、草雲は珪吾に悟られないようにほっと安堵の溜め息をもらす。

 

 つ、と横目で珪吾の様子を窺う。少年は、その光を見てはいなかった。両手を固く握り締めて膝に乗せ、ただ只管に床を睨みつけている。

 視線を妖しく揺らめく小さな火へと戻し。今、兄弟が行っているだろう事を考えた。

 ―計画通りに事が進んだら、青戸の家から小さな火が見えるでしょう。

 そう、霜雪は云って、彼に珪吾をこの家から出さないようにと頼み、珪宋を伴って家を出たのだった。

 山の入り口で、雷封が退治し終わったはずの沙雪の姿を見せる為に。

 もちろん、それは本物ではない。予め雷封が式術を使って作り出した型を素に、簡単な幻術を組み合わせて作り出した紛い物である。わざわざ暗くなるのを待って計画を実行したのも、それが偽物だと分かりにくくする為にと霜雪が提案した事だった。

 ポゥと一つ、灯が増えた。

 あの火が灯ったという事は。少なくとも偽物を沙雪だと思わせる事には成功したという事になる。何故ならあの火は、彼女への弔いの火――生をまっとう出来なかった彼女が、今後彷徨い出てくる事が無いようにと霜雪が仕掛ける結界――封印――の準備であるはずなのだから。

「沙雪は、何で戻って来たんだろう」

 独り言のように、珪吾が云った。

「戻って来なけりゃ、こんな事には」

「沙雪さんは、記憶を失っていたのでしょう? そんな状態で、少しでも覚えのあると感じた場所に居たいと思うのは、当然の事じゃないでしょうか」

「そう、かな」

「違いますかねぇ」

 居心地が良い場所だと彼女は云っていたそうですよ、と草雲は云い、口を閉ざした。

 この少年は、何も知らないのである。

 彼は、兄が知ってしまった事を、何一つ知らない。

 沙雪にとって不幸だったのは。彼女の出生の秘密を知ってしまったのが珪吾ではなく珪宋だったという事だろう。知っていたのがもし、兄の方ではなく弟の方であったなら。きっと、そんな事は気にせずに幸せにやっていけたのではないか――。

 もし。

 きっと。

 そんな言葉を使わずに生きられる人生を送れたら。

 それは一体、どれだけ素晴らしいのでしょうねぇ――。



 何だって。

 報酬を、辞退しちまうかねェ。

 そりゃまァ結局。やった事と云やア「鬼を退治しましたよ」ッて騙くらかした事だけだったりするのは確かなんだけどよ。

 ……だけど、一応は動いたワケだし。

 少しぐらいもらっといたッて、バチは当たンねェだろ。

 あれから、十日程経った。ねぐらにしている都外れの廃寺でごろごろとしながら、未だ雷封は先だっての仕事について鬱々と考え込んでいるわけである。普段、あまり根を詰めて仕事をする事のない彼だけに、終わった仕事についてこれだけ拘るのは珍しい事だと云えた。

「……でもやッぱり、納得いかねェ」

 ぼそり、と声に出して呟く。不機嫌そのもの、と云った口調でぶつぶつごちゃごちゃと続けた。

「大体だ。そりゃア確かに、鬼退治はしてねェさ。だけど実際、あいつがぬくぬくと家の中で茶ァでも飲ンでた時にひーこら歩いて沙雪を捜したのは俺だぞ? あいつがのんびりと村長と散歩みてェに歩いて来る間に式で仕掛け作ったのだッて、俺だぞ? 芝居とは云え、子供殺すなンて後味悪ィ役までやらせやがッたくせに、表向きはどうであれ、依頼内容とは違うから報酬は辞退するだと? じゃア何だよ、俺はタダの骨折り損の草臥れ儲けじゃねェか」

 ぶつぶつとぼやいて、雷封は立ち上がった。いくら悩んだってどうしようも無い事を悶々と考えていると余計に頭に血がのぼる。もとより、あれやこれやと考えるのは性に合わないたちなのだ。

 気分転換でもしようと、思いっきり大きく伸びをする。埃っぽい寺に篭りっ放しだったのが悪かったのか、骨がごきりと盛大な音を立て、気分転換どころか余計に情けない気持ちになった。

「ら、雷封さん!」

 その音を掻き消すように、騒々しく駆け込んで来たのは草雲だった。黒衣の青年があからさまに嫌そうな顔をしたのも気付かず、草雲は屋内をきょろきょろと見回すと切羽詰った口調で問う。

「霜雪さんは? 霜雪さんは何処ですッ?」

「あいつなら、ここにゃアいねェぜ。まァたどっかで仕事でも勝手に受けちまッたりしてるンじゃねェか?」

 何を慌てているのか。あからさますぎる皮肉も耳に入った様子が無い。

「そ、その仕事、ですよ! 大変な事が分かったんですよ!」

「大変な、事ねェ……」

 じとーっと半眼で草雲を見やる。

「また、金にならねェ情報かよ」

 再度の皮肉も、右の耳から左の耳へするりと勝手に通り抜けて行ったようだった。そんな事を云っている場合じゃないんですよ、とさらりと受け流し、草雲はぱらぱらと愛用の帳面を捲る。

 どうしても、気になって調べてみたんです、と帳面に視線を落としたまま草雲は云った。しばらく捲って、慌しく動いていた手が止まる。

 帳面を雷封の鼻先へと突きつけると一呼吸置き。

「……沙雪さんの母上を殺したのは、どうやら珪宋さん達なんですよ!」



 ――だってもう、この世界に未練なんてありゃしないから。

 その言葉に、嘘は無いはずだった。少なくとも、そう思っていたから口にしたのだ。

 それなのに。

 時間が経てば経つほど、外の世界が懐かしく感じるのは何故だろう。

 ――今更?

 外の世界では、あたいはめでたく死んだ事になってるのに。

 あの祓い屋が、そう云っていた。自分を始末したように見せかけるのだと。

 本当は、一芝居打った後にひっそりと別の土地へと移って欲しいと云われた。誰も知っている人間がいない土地へ移って欲しい、と。

 もちろん、その云い分は分かり過ぎるほどによく分かる。死んだ筈の人間が同じ場所でのうのうと生活していたらまずい。ただ、それだけの事だろう。

 分かって、いたのに。

 どうしても、首を縦に振れなかった。

 それがどれだけ、祓い屋の仕事に支障をきたすか、気がついていないと云えば嘘になる。本当は自分を退治する為に雇われたはずの彼らが、何故か自分を助ける為に一芝居打つのだという事も、また。

 だけど。

 だけど、あたいには。

 ――ホントに、良いンだな?

 あの時の、雷封の問い。その問いに、迷わず首を縦に振ったのだ。もう、この世界に未練などありはしないと。そう、大見得を切ったのだ。

 その答えを聞いて。

 雷封が一瞬、哀しそうな表情を浮かべたのは何故だったのだろう。

 それは、およそ彼には似合わない類の表情ではあったのだけれど。

 だからこそ、記憶に留まってしまった。

 けれど、そんな似つかわしくない表情を浮かべていたのも一瞬の事。

 彼は諦めたように溜め息をつくと、仕掛けを聞いた後でも考え直せるからな、と念を押して気乗りしない調子で話し始めた。

 依頼された通り、自分を始末したように見せかけるという事。幻術で彼女の死体を見せ、その後に彼女がここを離れないという場合はこの周囲に結界を張り、滅多な事では他人が山に入って来れないようにする処置をするのだという事。

 そこまで話し、雷封はもう一度、彼女の意志を確かめた。

「この結界は、そンなに力の強いもんじゃねェ。お前まで出られなくなッたら生活していけねェわけだし、そうなッたら本末転倒だからな。あくまでも、応急処置的な手段だ。何となく、――そんな風に他人に思い込ませる程度の力しかねェ。お前の出入りを出来るようにするとなると、これ以上強力なもんは仕掛けられねェンだよ」

 つまり。

 余程、ここに思い入れのあるヤツには効かねェかもしれねェぜ。

 雷封は、そう云った。

「やると決めたからにゃア、失敗は出来ねェ。だから、俺個人の意見を云わせてもらえりゃ、この応急処置には頼りたくねェンだが……」

 彼にしては珍しく、歯切れの悪い台詞だった。そもそも、自分のこんな言葉一つで沙雪の決心が変わるとは到底思っていない。分かりきっている。

 分かっていながら口にせざるを得なかったのはきっと、先程、雷封には似つかわしくない表情を浮かべたのと同じ理由。

 そう、思ったから。

 話す気に、なったのだろうか。

「……あたいには、この場所しかないの」

 黒衣の青年から目を逸らし、少し遠い所を見るような目で。

「気がついたら、ここに居たの。あたいの知ってる場所はここだけなの。ここだけが、懐かしいっていう気持ちが分かる場所で、ここだけが、あたいの――」

 ――名前を聞いてくれた人が、居た場所で。

「だから、ここがあたいのすべてなんだ」

 それが、雷封を説き伏せた一言だった。

 ――ここがあたいのすべて。

 そのはずなのに。

 どんどん、外の世界が恋しくて堪らなくなってくるのは、何故?

 そんな自分に腹が立ち、手近にあった湯呑みを力任せに投げつけた。勢い良く土壁にぶつかった粗末な湯呑みはひとたまりも無く粉々に砕け散り、中に残っていた僅かな水も一緒に飛び散って沙雪の顔に跳ね返る。

「……水」

 聞き覚えのある声が、呟いた。それが自分の声だと気が付くまでに、しばしの時間を必要とする。

 声を出す事も無くなったから、そのうち自分の声も、忘れそう。

「水……汲んで来なきゃ」

 意識して声に出して云いながら、彼女は桶を持って家を出た。

 この小屋に、井戸は無い。生活に必要不可欠な水は、赤月村にある共同の井戸から汲んで使っている。

 辺りはすっかり暗くなっている。今なら、誰にも見られずに水を汲んで来る事が出来るだろう。

 そう思い、水場へと駆けて行く沙雪を。

 真っ白い満月が、見つめていた。



 案の定。

 彼女は、井戸に辿り着く事が出来なかった。山の入り口付近で男が二人、立ち話をしているのが目に入ったからである。

 咄嗟に、小さな身体を更に小さくしながら脇の茂みに押し隠す。尖った葉が当たって多少ちくちくするが、この二人をやり過ごすまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。

 山の入り口は、自分が退治された事になっている場所だ。霜雪が張った結界の境目にもなっている場所でもあり、それを印象付けるかのように小さなお地蔵様が立てられていた。その前には誰が供えたのか、小さな饅頭と真新しい花が几帳面に置かれている。

 ――あたいが、化けて出ないように、かな。

 そんな事を考えて、くすりと笑った。死んでしまっても怖がられるなんて、何故だか少し滑稽に思えたからだ。

 二人の男は、一向に立ち去る気配を見せない。背の低い男がちらりと地蔵へと視線を走らせ「可哀相になぁ」と聞き取れないほど小さな声で呟いた。

「どうしてあの子は、戻って来たんだろうな。戻って来なけりゃ、母親と同じ場所で死ぬ事にもならなかっただろうに」

 小さいはずのその言葉は、まるで直接頭の中に語りかけられたように鮮明な響きを持って沙雪の心に突き刺さる。

 ……え?

 ――どくん。

 今、あの人は、なんて?

 母様かかさまは……。

 どくん。

 割れるように、頭が痛んだ。身を潜めて隠れながら、がんがんと痛む頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。それでも、その声は容赦無く沙雪の心の中に潜り込んできた。

「いくら鬼の血が混ざっていると云ってもなぁ、村長。あんな小さな女の子まで、殺す必要は無かったんじゃないかい? 追放するぐらいで良かったじゃないか」

「今となっては―私も、そう思っていますよ。沙雪は、証を持っていなかった。あの時、母親が彼女に持たせたものだとばかり思っていたのですが」

 ――どくん。

 い――や。

 ――

雪華ゆきかさん、どうして村長家の宝刀を持ち出すなんて事をしたんだろうなぁ。そんな事さえしなければ……あんな事には」

 ――違、う。

 ――違う。

 ――一面の、朱。

 珪宋が口を開くよりも早く。

「母様がそんな事をしたなんて、嘘だ!」

 考えるよりも先に、言葉が飛び出していた。身を隠していた茂みから勢い良く立ち上がり、一体何が起きたのか理解出来ないまま動きを止めた二人の男に向かって更に言葉を叩きつける。

「あの刀は、父様ととさまから貰ったんだって母様は云ってた。父様から貰った、大切な宝物だって。だから……ッ」

 貴女が、持っていて、くれる?

 ――貴女の父様が残してくれた、たった一つの形見ですもの。

 目の前が、朱に染まる。

 美しい、鮮やかな朱に染まった母。

 もう、何も映さない、深緑の瞳。

 ひゅうひゅうと漏れる耳障りな空気の音と共に、母の口から短い言葉が紡がれる。

 ――逃げなさい。

 ずきりと、一際深い痛みが走った。

「……父様、だって?」

 小男が、どういう事だという疑問を筆頭に様々な質問を貼り付けて、珪宋へと顔を向けた。珪宋は男と顔を合わす事もせず、突然現れた少女の姿に釘付けになっている。

 そして、白い少女も、また。

 目の前に立つ男の顔を、穴が開くのではないかと思える程強い視線で睨み付けている。その顔は、沙雪の記憶の中の顔と完全に一致していた。

 あの時。

 朱に染まった母の、肩越しに見えた顔。

 薄ぼんやりとした記憶が、今はっきりと形を結ぶ。

 ――ギリッと。

 奥歯が、軋んだ音を立てた。

「どういう事だよ村長。この子は、死んだはずじゃあ……」

 訳が分からないと喚きながら、珪宋と沙雪の顔を交互に見やる。珪宋は、そんな小男にちらりと視線を送る事もせず、死んだ筈だな、と独り言のように呟いた。

「ですがどうやら、化けて出て来たという訳でもなさそうです。しかし、あの時の祓い屋の態度は依頼に失敗した風にも見えませんでしたが」

 報酬を受け取る事も、しませんでしたね。

 一言一言、自分に云い聞かせる様に。

「……狂言、ですか」

 結論を出した珪宋の顔は、何故か穏やかだった。

「生きていてくれて嬉しいですよ、沙雪。私はね、お前が死んだと聞かされても、お前の死体を目にしても何故か心は晴れないままでした。今までと同じ、鬱々ともやもやとしていたのです。無論、私を縛り付けてきた父の影も、お前の母親の影も消える事はなかった。……何故だか、分かりますか?」

「……村長?」

 父の時は、最期を看取り。

 雪華の時は、自分のこの手で。

「お前だけが、唯一最期をこの手で感じていないからです。本当に死んだのかどうか、弱い私には確かめられなかったからですよ。……確かに、お前は死んだはずだと、何度も何度も自分に云い聞かせた。云い聞かせなかった日は一日だってありません。実感の湧かない恐怖。形の見えないものが一体どれほど恐ろしいものか」

 だから。

 こうして、姿を見る事が出来て、

 そう云った、年若い村長の声は、本当に嬉しそうだった。異様な雰囲気に、小男が小さく喉を鳴らして後ずさる。

「……それなら。それなら何で、わざわざ人を雇ったりしたんだよ。最初っから、自分であたいを殺せば良かったじゃないか」

 驚くほど静かな口調で沙雪が問う。その問いに珪宋は小首を傾げ、苦笑を浮かべて見せた。

「そうなんですよ。今となっては、私もそれが一番だったと思うのですが。ですがやはり、一人も二人も一緒、と簡単には考えられなかったのでしょうねぇ」

 それは、瞬きする間も無い程短い、刹那の時間。

 二人からそろそろと離れていた小男の目からは、まるで他人事のように話す珪宋に向かって沙雪が軽く手を振っただけのように、見えた。

 ――たった、それだけ。

 ゆぅらりと。

 珪宋の身体が、揺れた。

 身体は、前へ。

 そして、首だけが、後ろへ。

 どさりと。

 とさりと。

 恐怖も痛みも無く。

 先程の苦笑を浮かべたままの、村長の目と視線が合った。

 嗤って、いる。

「……ひッ……!」

 悲鳴を上げる事も出来ず、しゃくり上げたような音だけがかろうじて喉を鳴らした。すぅっと通り過ぎて行った風が、生臭い匂いを身体に纏わり付かせていく。

 振り払いたいのに、逃げ出してしまいたいのに。

 両足が、根を下ろしてしまったかのように動かない。

「……最初から自分で来てりゃ、もっと早くこうなってたのに」

 その静かな声に、小男はびくんとして顔を上げた。沙雪は自分の身体程もある大きな太刀を地面に突き刺し、静かに珪宋を見下ろしている。そのあまりに不釣合いな大きさに、彼女があの太刀で村長を斬ったのだ、という答えに達するまで彼はほんの少しの時間を必要とした。

 そんな事を考えている時間があるのなら、形振り構わず両足を引っぺがし必死にこの場を離れる努力をするべきだったと気付かされるのは、ほんの少しだけ後の事である。そうしていたなら、彼がまだその場に居る事に気が付いた沙雪が何かを云おうとする事も、そんな彼女に向かって小男が思わず、少女の心を粉々に打ち砕いてしまう力を持った一言を発する事も無かっただろう。

 それも多分、瞬きすらする間も無い程短い、刹那の時間。

 白い月明かりに照らされ、朱に染まった少女の姿を見て、彼は云ってしまったのだ。

「……鬼」

 ――きりりと。

 沙雪の心が、軋んだ音を立てた。



 鬼の子は鬼だって。

 化け物の子は化け物だって。

 皆が、そう云うなら。



 ――お望み通り、なってあげるよ。



 ざんっ。

 嗚呼、思ったよりも、ずっと簡単。

 沙雪の手に握られているのは雷封と対峙した時に見せた、小さな少女には不釣合いな巨大な太刀だった。鬼と人の混血であるが故、血の薄い少女が持つ鬼としての唯一つの力。それが、魔力を結集させて作り出したこの巨大な太刀をも軽々と振り回す事が出来る、常人離れした馬鹿力。

 その力に任せて太刀を振るう。力任せで大振りなその太刀筋は、相変わらず滅茶苦茶だ。だが、戦う術を持たない村人達にはそれで十分なのである。

 少女は勢いに任せてただ振るう。怒りとも悲しみともつかぬ感情が少女を支配し、ただ、突き動かす。くるくると、朱を飛び散らせながら月明かりの舞台で少女は踊る。

 ごつッと固い感触が腕に伝わる。眉をしかめて、動きの止まった太刀の先を見た。

 得物は一人の人間の胴体に食い込み、半分程の所で止まっている。脇腹から太刀を生やしたまま、はびっくりしたように目を大きく見開き、自分の腹から生えた刃を当たり前のように、見た。

「……え?」

 名前を呼ぶ事も出来ず。

 それが、最期の言葉。

 太刀を持つ両手に力を込める。ただそれだけの動作で、まるで人形を切断するように少年の身体が泣き分かれ、ぬるりとした生温かいものが少女の細い身体を濡らした。

 不思議そうな表情を浮かべたまま。

 上半身だけの身体で、青戸珪吾は沙雪を見つめていた。

 否、見上げてはいるが、その瞳は彼女を映してはいない。その瞳はすでに、何かを映すという本来の機能を失ってしまっている。

 だが。

 まだ、瑞々しさを保っている所為か、何も映さないソレは奇妙な宝石の様に美しかった。

 それは、あの時の母の瞳と一緒で。

「――

 こうなっちゃったら、オニもヒトもじゃない。

 じゃあみんな、一緒になっちゃえばいい。

 ――ふふっ。

 自分が笑みを浮かべていると気付かぬまま。

 全身を朱に染めて、白い少女は死を招く巨大な得物を振り下ろした。



 ヒラヒラ、ヒラリ。



 そこはもう、村ではなかった。

 かつて、村だった場所。村が存在した場所。つまりは、廃墟と化していたのである。

 その廃墟の中に、点々と散らばる村人の身体。人という生命体の一部であったという事すら想像し難いモノへと転じてしまったただの部品から、それなりに人としての原型を留めているモノまで様々ではあるが、それらは皆一様に恐怖や後悔といった不の感情を沁みこませて転がっていた。これから先、二度と命の炎を灯す事の無いそれらはもう、廃墟の中に散らばる瓦礫と同一のモノでしかない。生きている人間が居て、住むべき場所があって、生活が成り立って。そうして初めてその場所は、村となる。ここではもう、その僅か一つも感じる事が出来なかった。

 ほんの、一月も経たぬ間に。

 赤月村は、村を構成するモノを全て失い崩壊していた。その惨状を見て草雲が声にならない声を上げ、その場にへたり込む。

「……霜雪。これが、お前のやった事の結果だよ」

 低く、押し殺したような雷封の声。そんな彼の声を、これまで草雲は聞いた事が無かった。

 その声に引き摺られる様に、彼は黒い法衣の式術師を見上げる。

 式術師は、とても厳しい顔をしていた。

「俺達が関わるべきじゃア無かったンだ。途中で、手を引くべきだッたンだよ」

 血の繋がらない兄の、何処か哀しげな声を聞きながら。

 霜雪はぼぉっと一点を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。

 悔しいが。

 兄の云う事は、正しかったのだ。

 話を聞き、全てを理解したところで手を引くべきだったのだ。

 『村』という組織の中に、無理に手を加えるべきではなかったのだ。

「でも、これが、沙雪のやった事だとは――」

 我ながら、らしくない反論だと思う。否、反論ではない。これはただの、云い訳だ。

 こんな事。

 村一つ壊してしまうなどという事が、あの少女以外に一体誰が行える。

 あの――。

 鬼の血を引く少女以外に、誰が。

 云い訳だと分かっているから。

 霜雪は、言葉を最後まで口にする事が出来なかった。雷封もまた、最後まで云わせる事はしなかった。

 草雲は。

 そんな二人の歳若い祓い屋を、ただ黙って見つめている事しか出来なかった。

 彼が知る限り。

 これほど完璧に兄弟が仕掛けに失敗したのは初めての事である。今まで、多少計画通りに行かなかった事があれど、臨機応変で対応し、結果的には成功を収めてきたのだ。

 ――だからこそ。

 そんな二人を見ていたからこそ、草雲も簡単に話を持ち掛けたりしたのだろう。心の何処かで、失敗などするはずがないと、思い込んでしまっていたから。

 俺達が関わって。

 一体、何が出来ると思うよ。

 なァ、先生――。

 あの時。

 雷封には、全てが見えていたのだろうか。

 ――ちりん、と。

 雷封の法衣に結わえ付けられている小さな鈴が、鳴った。

 その小さな音を合図にしたかのように。

 その場から動けない二人を尻目に、雷封は村の中を見て回った。普段軽口を叩いている彼からは想像もつかない厳しい表情を崩さぬまま、無言であちらこちらを確認して回る。

 ……ふと。

 彼の動きが、止まった。

 何かを拾おうとでもしたのだろうか。すっと地面に手を伸ばしかけ、止める。

「……僕は」

 呟くような霜雪の声。村だったものの惨状から目を逸らし、すぐ下の地面を見つめながら少年は続ける。

「私は、どうしたら良かったのです? 私は、沙雪を、助けたかった」

 ――だから、あんな芝居まで打ったのに。

「良かれと思ってやった事が裏目に出ることはある。そんな事は、よくある事です。……でも。……でもッ」

「人の心が絡んじまえばさ。それを一から十まで読み切るなンて事、到底出来やしねェンだ。そんな事を考えるのは――傲慢だよ」

 雷封の云う事は正論だ。確かに、人が人の心を読み切るなんて事は、誰にも出来るわけがない。人が、人である限りは。

 だからこそ。

 だからこそ、人の世を生きて行くのは難しいのだ。

「……まったく」

 ――季節外れの桜が咲いちまったなァ、と雷封は呟いて。



「それじゃア」



 ――鬼退治と、行きますか。



 ちりん。

 冷たい、鈴の音が鳴った。

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