第参話


 自室に戻る気にはなれなかった。

 かと云って、何処へ行くあてがあるわけでも無い。ただ、兄と祓い屋の会話が聞こえない場所でありさえすれば、何処でも良かった。

 抑えきれずにふつふつと込み上げてくる怒りと戦いながら、青戸珪吾は無意識の内に沙雪の下へと足を進めていた。村外れの山の中とは云え、小さな村に小さな山である。然程遠い距離ではない。

 山の入り口付近で。

 ――ちりん。

 微かに、鈴の音が聞こえたような気がして。

 彼は足を止め、辺りを見回した。するとすぐに、癖のある赤い髪に黒い法衣という、色合いも格好も目立つ青年が山を下って来るのが目に入る。その胸元には、金色の小さな鈴がアクセントのように揺れていた。

 その派手な色合いと特殊な服装には見覚えがある。

 ――今日の朝。

 沙雪の家からの帰り道で――。

 ――あの格好。

 あいつも。

 あいつも、祓い屋の仲間だったんだ。

 ざわりと。

 冷たいものが、背中を駆け抜ける感覚を覚え。

 ……真逆。

 真逆……!

 それ以上は、考える事が出来なかった。考えるより先に、身体が動いてしまっていた。

「沙雪をッ、沙雪をどうしたんだッ!」

 祓い屋の前に躍り出て、力一杯叫んでいた。叫んだ勢いそのままに、立ち止まった青年を見上げ、思い切り睨み付ける。

 青年――古刹雷封は、きょとんとした顔をしていた。

「……へ?」

 おまけに、そんな気の抜ける言葉を一言。余計に頭に血が上る。

「とぼけるなッ! お前、祓い屋の仲間だろう! 沙雪をどうしたんだって聞いてるんだよッ!」

「いや……。別にどうもしてねェけど」

 疲れたようにそう呟き、どうやら今日はガキに喧嘩を吹ッ掛けられる日らしいぜ、と苦笑を浮かべた。

「喧嘩……? じゃあ、やっぱりッ」

「あのな、早とちりすンなよ? 確かに俺は、沙雪に会ったし初ッ端から喧嘩吹ッ掛けられたけどなァ、別にどーにもしてねェぜ。弱肉強食の世の中だけどよ、俺、弱いものイジメって性に合わねェの」

 ま、茶をご馳走になッて帰って来ました、と雷封はさらりと云った。その、人を小馬鹿にしたような態度を見ていると、本気で腹を立てている事自体が馬鹿らしく思えて来るから不思議である。

「で? 血相変えて物騒な事叫ンでくれた少年は、一体何処のどちらさん?」

「……人に名前を聞く前に、まずは自分から名乗れ」

「ほ。云うねェ。まァ、それも尤もな意見だし、有り難く受け入れておく事に致しましょう。私は、古刹雷封と申します。見ての通りご推察の通り、祓い屋を生業としている者。で、貴方様は――」

 にやりとした笑みを浮かべ。

?」

 わざとらしく、取ってつけたような敬語だった。敬語というのは面白いもので、本来丁寧な言葉であるはずなのに使う者によってはこれ以上無いという程嫌みに聞こえてしまうのは何故なのだろう。

 雷封の場合は、正にその典型である。そもそも彼が敬語を使った事など数える程しかないし、それこそ嫌みを云う時か人をからかう時にしか確認されていないので、もしかしたら彼の頭の中では敬語というのは礼儀を弁えた人間が使う言葉だと認識されていないのかもしれない。

「……誰から、聞いた」

 今一番聞きたくない兄の名前を持ち出され、一度治まった苛立ちがまた込み上げてきそうになるのを抑えながら、ぼそりと云った。

「さっきも云ったじゃねェか。俺は、沙雪ンとこで茶ァご馳走になッて帰って来たのよ?」

 わざわざ語尾を上げ。

「だからよ。茶ァ飲みながら、色々聞かせてもらったわけさァ。今まで何があッたのかも、お前って云う彼氏がいるッて事も全部」

「彼……ッ」

「ッて言葉は俺の脚色。満更間違ってもいねェみたいだけどなァ」

 そう云って、けらけらと笑う。その、悪びれた様子の欠片も無い顔を見ていると、腹が立っているのかよく分からなくなってきている自分がいる事に少年は気が付いた。いつの間にか、兄に対する怒りまで何処かに吹き飛んでしまっている。

 ――今までの祓い屋とは、印象が違う。

「ま、丁度良いや。俺、お前ン家に用があるンだよ。案内してもらえると助かるンだけどなァ」

「うちに?」

「そ。お前ン家に、融通の利かねェ可愛げの無い少年と、押しの弱そうな物書きの先生が居るはずなンだけどねェ」

 ――ああ。

 心の中で一人、頷いた。然して関心が無さそうに珪吾を見つめていた雷封だったが、どうやらそれを読み取ったらしい。目を細め、にんまりと口の端を持ち上げた。

「心当たりがお有りのようで」



 ――何故、そこまでするのです?

 珪宋の言葉が、頭の何処かに引っ掛かっていた。どうも、居心地が悪い。柄にも無くやり場の無い苛立ちを覚え、霜雪はぽつりと呟いた。

「……勝手な事を」

 二人が居る部屋は先程までと同じ部屋である。この重苦しい空気と珪宋がいない事を除けば、ついほんの少し前までとなんら変わりは無い。

「……私は、余計な事をしたのでしょうか」

 重たい空気に耐えかね、口を開いてはみたものの。ついて出たのはよりにもよってそんな言葉だった。霜雪の苛立ちを感じ取っていた所為かもしれない。それにしたって、もう一寸他に話の振り様があるだろうと考えたって後の祭りである。言葉にしてしまったものを無かった事には出来ない。今更、放ってしまった言葉を云わなかった事には出来ない相談なのである。

 案の定。

 少年はぴくりと片眉を跳ね上げ、草雲を見た。

「余計な事、とは?」

「いえ……。私が、考えなしにこの話を持ちかけなければ良かったのかと、思いまして」

「何故、そうお思いになるのです? 草雲さんは面白半分で話を聞き歩いているだけだとしても、私達にとって、これは仕事ですよ? 仕事を受けるか受けないか。それを選ぶのは結局私達なんです。余計な事だと思えば、引き受けなければ良い。ただ、それだけの話です」

「そう、ですか」

 面白半分、という言葉に少なからず棘が感じられたのはきっと、草雲の思い過ごしではないだろう。大体、面白半分も何も、この話を兄弟に持ちかけた際にはもう、自分にはアテがあると云ってしまったのだと白状する羽目になっている。けして冗談や冷やかしで云ったわけではないとはいえ、どう対処するのか。そこに興味が無かったと云えば嘘になる。

 また、重苦しい沈黙が流れた。

 ――面白半分、ですか。

 少年に云い切られ、何だかとても居た堪れない気分になった。場違いな場所に、何の考えも無くふらりと迷い込んでしまったような、そんな気分。

 酷く、居心地が悪かった。

 全く、私は。

 何をやっても、中途半端ですねぇ。

 種田草雲という人間は、良くも悪くもお人好しなのである。頼まれればまず嫌とは云えないし、聞くなと云われれば例え眠れなくなるほど気になっていたとしても聞く事が出来ない。それでいて、好奇心だけは人一倍あるものだから、少しでも興味を惹く話を聞けば首を突っ込まずにはいられなくなる。その結果、中途半端に噂を聞きかじり、気になる事があっても一言置かれれば深く問いただす事が出来ない為、中途半端な噂は中途半端な噂のまま自分の中できちんと消化出来ずに悶々と抱え込む事になるのである。

 今回の話も、その典型だと、草雲は思う。

 鬼の噂を聞きつけ、珪宋から話を聞いた時。もっと深いところまで、問い詰めてみれば良かったのである。或いは、鬼を退治など出来ないと、そうきっぱり断っていれば良かったのだ。

 そうすれば、今ここでこんな重苦しい空気を吸っている事も無かったに違いない。

 知らず知らずのうちに、溜め息がこぼれていた。

「先生ェ。溜め息ばっかついてッと、早く歳取るって云うぜ」

 半分だけ閉められた障子の向こうから。

 そんな、聞き慣れた皮肉が聞こえた。



「……兄さん」

 云って霜雪が立ち上がり、閉まっている方の障子をがらりと開けた。それと同時に、薄暗かった部屋の中に光が差し込み、立ち込める重たい空気をさぁっと洗い流していく。

 雷封は、庭に足を投げ出すような格好で縁側に腰掛けていた。傍らには、彼の得物である不思議な形をした錫杖が立てかけてある。履き物を履いたままだというのを見る限り、家に上がらず、勝手に庭に入り込んだのだろう。それに気付き、呆れた顔で首を振る霜雪に向かって、彼は弁解するように手をひらひらと振った。

「あのな。勘違いすンなよ? 俺はきちンと断ってだな……」

「じゃあ、何だって庭などからこそこそ入ってくるのです。きちんと断ったなら、堂々と上がって来たら良いじゃありませんか」

「きちンと……ッてーかなァ。正確には、断ろうと努力した、ッてェところなンだよなァ」

 苦笑いを浮かべて雷封が云う。だが、すぐに笑いを引っ込めると真顔になって呟いた。

「ここの兄弟、見事に仲よろしく無いンだろ」

 まァ、仮にも村長の弟が、件の鬼と仲良くしてるなンてのはあンまり歓迎される事じゃねェわな、と面白く無さそうな口調で続け。

「あの二人。顔を合わせたって何の話もしやしねェ。俺の事なンかお構いなし。まァ、見た感じ、弟の方が聞く耳持たねェ話もしねェッて意地張ってるようだったけどなァ。勝手にしてくれって云われたンで、勝手にさせてもらったのさ」

「つまり。取り合ってもらえなかった、と」

「そ。身も蓋も無ェ云い方すりゃアな」

 そこで一度、会話が途切れた。雷封が、あまり手入れの行き届いていない寂れた庭を見つめて口を閉ざしたからだ。

 また沈黙が訪れ、重たい空気が立ち込めそうになった時。二人に背を向け、正面の庭を見つめたまま、雷封がぽつりと云った。

「……この仕事。手を引かねェか?」

「……え?」

 けして、大きな声で云ったわけでも、強い口調で云ったわけでもない。それなのに、その台詞はやけに響いて草雲の耳に届く。

「どういう、意味です」

 草雲が問いかけるよりも早く。霜雪が厳しい口調で問う。

「どういう意味も何も。そのまンまの意味だよ」

 俺達が関わって。

 一体、

「――なァ、先生?」

「……え。わ、私、ですか?」

 何となく傍観する気分で聞いていた草雲は思いもよらず話を振られ、返事に窮した。

「俺はさァ。鬼退治だッて聞いたから引き受けたンだ。ところが、蓋を開けてみりゃァ、すっきり大暴れ出来そうな鬼なンて何処にもいねェじゃねェか。いねェもんは、俺がどんなに優秀だって退治のしようがねェぜ」

 話を聞く限りじゃア。

 

「兄さんは、どの程度まで真相を知っているのです」

 固い、声。思わず、びくりとする。だが雷封は、そんな弟の声も態度も慣れているのか、普段通りのやる気があるのか無いのか分からない、のらりくらりとした態度で言葉を返した。

「さァねェ。だけどな、沙雪から聞いた話と、先生が聞いたような凶暴な鬼なンて何処にもいねェって事実。沙雪と仲が良い青戸珪吾が村長の青戸珪宋の弟だって事実。そンだけ揃ってりゃア十分じゃねェか」

「沙雪から、一体何を聞いたのです? 彼女は、昔の事は覚えていないのではないのですか?」

「ああ、そう云ってたなァ。気がついたら、ここに居たンだッて。名前も分からなければ、何をしていたのかも分からねェ。だけど、何となく居心地が良かったンだと。ここに居たら、何かを思い出せそうな気がしたンだと」

 ――名前を聞かれるの久しぶりって云ったの、嘘なの。

「そんな。そんな都合の良い事が」

 吐き捨てるような霜雪の台詞。ちくりと微妙な違和感を覚え、草雲は「おや?」と首を傾げた。まるで、と悟り切っている様な、感情的な云い方だったからだ。

「そう。まるで作り話みてェに都合の良い事だァな。でもな、起きちまったンだよ、これが」

 ――沙雪?

 沙雪、だよね?

 ものの見事に青戸珪吾と鉢合わせしちまッたのさァ、と少しだけ哀しそうな声で云い、錫杖を持って立ち上がった。しゃん、と澄んだ音が草雲の耳をくすぐる。

「そのお陰でさ。他にも色々、思い出しかかってるみてェだぜ。一体何があって沙雪が記憶を無くしたのかは知らねェが、今まで生きて来た証を全て忘れちまう程の何かが起こったッて事だけは、確かなンだ――」

 そこで赤毛の青年は唐突に言葉を切った。二人に背を向けたままだから、表情は見えない。

 ――ま。

 俺が仕入れてきた話はこのぐらいさ、と青年はさらりと云い、くるりと振り返った。すっかり見慣れた、人を小馬鹿にしているような表情がそこには浮かんでいる。庭に立ち、己の髪の色よりも深い、まるで血のような色をしている二つの瞳で二人を見上げていた。一瞬視線が絡み、草雲はすぐに目を逸らす。

 生まれ付きの色なのだろうからどうしようも無いのだろうが、正直云って草雲は雷封の瞳の色だけはどうしても好きになれないのである。深紅、くれない、炎、夕陽。少し考えればいくらでも比喩の仕方は見つかりそうなものだが、雷封のそれは他のどんな喩えよりも「血のような」という形容詞がしっくりはまってしまう色なのだ。どうにも不気味な印象が付き纏ってしまい、青年と知り合ってかなり経つはずの今でも、彼はその瞳が苦手だった。

 草雲がそんな事を考えているとはつゆ知らず。雷封はその赤い瞳で静かに弟を見上げ「どうするよ?」と訊いた。

「その顔じゃア。お前だッて、あンまり心境のよろしくねェ話を聞かされたンだろ」

「心境のよろしくない話をされるのは、今回に限った事ではありませんから」

 ちらり、と傍らの草雲に視線を走らせる。

「もう、引き受けた仕事です。引き受けた以上、途中で手を引くなどと」

「仕事熱心なのは良い事だけどさ。ほら、臨機なンたらって言葉もあるじゃねェかよ」

「臨機応変、ぐらい覚えておいて下さい。覚えてもいない言葉を使われたって、伝わる意味も伝わりませんよ」

「いンだよ。俺が分かってりゃア」

「兄さんはともかく。一緒に居る、私達が恥ずかしいです」

 ねぇ、草雲さん? と少年に同意を求められ。どうしたものかと考えながら「ええ、はい、まあ……」と曖昧な返事を返した。それを聞いた雷封は、大袈裟にがっくりと肩を落としてみせる。さも、傷ついたと云わんばかりだ。

 そんな兄に向かって、追い討ちをかけるように。霜雪ははっきりと云い切った。

「ともかく。仕事は降りません。関わるだけ関わって今更手を引くなど、それこそ出来ない相談でしょう」

 睨んでいると云っても過言で無い程のきつい視線で真っ直ぐに雷封を見ている。この少年がこんなに感情を表に出すのは珍しい。どうも、ここに来てからというもの、少年の知らなかった面を見る羽目になっているな、と草雲は思った。そしてそれは、一体何故なのだろうと思考を巡らせる。

「……俺はあンまり、気が乗らねェンだけどなァ」

 二、三分の沈黙の後。呻く様に呟いた雷封。だが、その小さな呟きの中には、切実な諦めの響きが聞いて取れた。

 ――ま、しょうがねェ。

「で? 一体如何する気だよ。そこまで拘るからには、何か良い秘策でもあるンだろうな」

「悪い秘策なんてものはそもそも存在しませんよ。まぁ……考えは、あります」

 とりあえず、ここを出ましょう、と霜雪は続け。二人の返事を待たずにさっさと表戸へと向かう。

「……考え、ねェ」

「何を、考えているのでしょうか」

「さァ……?」

 苦笑を浮かべて顔を見合わせ。

 残された二人も、霜雪の後を追ったのだった。



 それから程なくして。

 村は、見事な茜色に染まり。



「ホンの少しの辛抱だ」

 ――本当に、良いンだな?

 念を押すように、ゆっくりと聞かれた問い。

 その問いに、躊躇いもせず返事を返す。

 それがどれだけ、深い意味を持った問いなのか考える事もせず。

 あたいはね。

 あたいは、それで構わないよ。

「だってもう、この世界に未練なんてありゃしないから」



 赤月村には夜のとばりが下り。夕闇が村を覆い隠す時刻。

 霜雪と共に青戸珪宋が駆けつけた時にはもう、全てが終わった後だった。二人がやって来た事に気が付き、黒衣の青年がゆるりと振り向く。その小さな動作で青年の胸元に下がっている鈴が揺れ、ちりんと小さな音を立てた。

 彼の足下には。

 赤い液体を流して倒れている、年端も行かぬ少女の姿。

 ――沙雪。

「後味悪ィ仕事は全部、俺の分担かよ」

 青年が、低いがよく通る声で霜雪に向かってぼやく。彼が左手に携えている、先が互い違いに交差している特徴的な形をしている錫杖。その先に、赤黒い何かがこびり付いているのが目に入り、珪宋は無意識のうちに視線を逸らしていた。

 地面の上にも。

 点々と。

「おや。面白そうだから鬼退治は任せろと云ったのは、兄さんの方じゃありませんか」

「まァな――」

 準備運動にもなりゃアしなかったけどよ。

 あっさりと云い捨て、珪宋を正面から見据えた。ぞくりと、何とも形容し難い寒気が珪宋を襲う。

「さァ。お望み通り、鬼は退治してやったぜ? これで満足か?」

「兄さん」

 咎める様な響きを持った短い台詞。それを聞き、雷封はちッと小さく舌打ちをしたがとりあえずは口を閉ざした。だが、虫の居所が悪いのは誰の目にも明らかであろう。

 恐る恐る。

 沙雪へと、視線を戻した。

「……本当に」

 一瞬、誰が話しているのかと思った。それが、自分の発した声であるという事に気がつくまで、しばしの時間を必要とする。

 ……私、は。

 祓い屋は、珪宋を見ない。

「本当に、死んだのでしょうか」

 自分は一体、何を云っているのだろう。そんな事は、目の前の状況を見れば一目瞭然ではないか。

 ――だが。

 一抹の不安がぎる。

 霜雪はやれやれと云った風に首を振り「では、確かめてみたらどうです?」と云った。

「死人は生き返ったりしません。例え、鬼の血が半分流れていると云っても、それは同じ事です。死人は何もする事が出来ません。何も怖い事等、ありませんよ」

 死人は、何も。

 ――父の村。

「守り刀なンてなァ、何処にも無かッたぜ。沙雪が持ってたなァ、ただの小刀だ。野菜を刈るにも、魚を捌くにも。一人で生活するにゃア欠かせねェだろう」

 目の前に放られた、それ。

 ――からん。

 力の無い音を立てて地面に転がったそれには、見覚えのある家紋など何処にも無い。何の変哲も無い、使い込まれた古い小刀だ。

 ……そんな。

 すとん、と膝から力が抜けた。震える手で小刀を拾い上げ、まじまじと見つめる。

 ――怖いんですよ。

 ふ、と笑みが浮かんだ。諦めと後悔の入り混じった、後ろ向きの笑み。

「……私は」

 私は一体、

 ふふふ、と小さく声を上げて笑いながら。

 自分でも気づかぬうちに、珪宋ははらはらと泣いていた。

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