第4話 神殺しの模倣――あるいは、模倣の模倣の模倣―― 転承篇

 そいつを再び見つけたときには総てが終わっていて、僕の彼女は無惨な肉塊に変貌していた。かっ、と頭に血が上って気が付けば僕は彼女を破壊した『犯人・男』を殺していた。手に握り締めていた鉄パイプには男の脳漿と血が混ざり合いどろりと僕の手を汚した。生暖かくて、いまだ、手に残る肉を叩いた感触が気持ち悪くて、僕は嘔吐した。口の中いっぱいに広がる饐えた臭いがこの場の凄惨な臭いと混ざり合ってグロテスクさに拍車をかける。

――こんなのは現実じゃない。

 本当は、僕はこの状況を受け入れられず嘔吐したのだ。気持ち悪いとか、悲しいとか、不条理だとか、そんなことは関係ない。とにかくもう、僕の内側を蠢く粘りつくような理解不能な感情を吐き出したかったのだ。

 だって、ほら。彼女は死んでしまったに違いないのだから……。

 しかし、その考えは早計だったようだ。彼女はまだかすかだが息をしていた。

 こんなにも肉体を破壊されて尚、彼女は生きようとしている。




(next→彼女の身体の具合を見てみよう。

 ・模倣とは言え『神殺し』の殺害の代償は払われる。即ち、次の『神殺し』となるのである。  都市伝説の域を出ない『神殺し』ではあるが、その文化的遺伝子は着々と拡散しつつある。  否、拡散などではなく代替物を――『神殺し』たる依代を求めてそのミームは伝染する。)




 どうしたらいい。僕はどうしたらいいのだ? 思考が定まらず頭が回転しない。螺旋の外れた、部品を欠いた機械の如く、僕は無力だった。

 彼女に対してなにが出来るだろう。

 あまりに強く鉄パイプを握っていた手は、なかなかほどけなかった。その手は鉄パイプと融合してしまったかのようである。両の手に指示が行き届かない程、僕の脳は彼女を見つめること以外に働こうとしなかったのだ。彼女の脱力しきった裸体は歪に……そして、何とも形容しがたいうねりを作って鎖で吊り上げられていた。浅すぎる呼吸は彼女の裸体をぴくりともさせない。顔は、きれいなものだった。傷ついていないという意味、でだが……。彼女の相貌は凄惨に彩られた物に変わっていた。度重なる苦痛の連打によって恐ろしい程に両眼は見開かれて焦点は定まらずに宙空を虚ろに写しだすのみ。顔色は精彩を欠く。だらしなく開かれた口は右に吊り上がり、左に垂れている。顎を伝う生々しい血には乳白色の嘔吐物と、……おそらくは肉体の一部が吐きだされてグロテスクに染め上げられていた。さらには、信じがたい程に舌が飛び出していた。

 かつての天真爛漫な笑顔を浮かべる彼女と、現在の悲惨に歪まれた顔の彼女は別人のようにしか感じられない。それほどまでに残虐窮まる行為に精神を破壊されたのだ。

 僕は怒りも露わに再度、息絶えた男のひしゃげた頭部を強打する。上げる血潮など当に枯れている。ただ虚しく肉と剥き出しの白骨を打つ音のみが建物内に反響する。僕の両手は痛みにも似た痺れによってやっと鉄パイプとの融合から解かれる。単に握力が底を尽きたのかもしれない。震える両掌を凝視して、僕は顔を覆って涙した。

――返せ! 返してくれ! 彼女の人生を……。僕の彼女を……。

 しかし、慟哭は虚しくも自身の耳朶を揺らすのみであった。


 彼女の奇妙にもねじ曲がった裸体を前に、僕はにわかに奇妙な感情が胸の奥底から溢れ出てくることに驚く。それは、情欲の一種だったのかもしれないし、悲しみを享受した諦めの感情だったかもしれない。ただ一つ確かなのは、この想いを(未だ奇跡的に生きながらえている)彼女にぶつけなくてはいけないという、焦燥感に駆られたということだ。

 これは僕の本懐である。

 過剰に痛めつけられた彼女の裸体を注視する。すると、悲しみを一つ乗り越えられたような錯覚に囚われた。これは彼女に魅入ってしまったのだと、後に知る。

 裸体で吊り下げられた彼女の姿。胸部は右乳が不自然に垂れ下がって、左乳が潰れて陥没している。乳首からは薄桃色の体液が流れだしている。両腕がへし折れて骨が付き出している。あるいは、意図的に折られたのか……もちろん逃げられないために。しかし、それに両腕をへし折ることに意味はあったのだろうか? 逃げようと思って、彼女は逃亡することが果たして可能だったのか? それが不可能だったから、今の今まで彼女は見つからなかったのじゃないのか。ならば、折れた両腕は過剰な暴力によるものなのだろう――逃げられない彼女のことを考えるだけで、僕は絶望感に吐き気を覚える。

 首胸部鳩尾腹部下腹部脇腹と、余すところなく皮膚が赤黒く変色している。反面、背面は不思議なほど綺麗だ。それはそれで犯人の心理が計り知れなくて恐ろしさを覚える。更に、下腹部にかけて身体が膨張している。まるで指で摘まんだ水風船の様ではないか。一体どれほどの暴力を行使されればこのような不自然で形容しがたい肉体になるのだろうか。

 僕は彼女の剥き出しの膣口を見て絶句する。出血し、引き裂け、流れ出てはいけない液体が流れている。痛覚の概念を軽く凌駕した暴力によって分泌液が強制的に流された、のであろうか……。そしてなにより僕を絶句させた事実は、膣口から捻じり出た赤く塗れた臙脂の肉、内臓である。内臓という婉曲的表現を避ければ、いやいや、直截的な表現を恐れているだけだ。僕はそれを考えたくないのだ。だが……。子宮が飛び出しているのだ。そうとしか思えない。膣口なのだ、からして、そこから内臓が飛び出しているのだとしたら……それは子宮でしかあり得ないではないか。恐ろしいし悍ましいのだ。しかし、絶句したのはその為ではないのだ。僕は――この感情は隠しきれるものではない――これほどの災厄に襲われた彼女に対する冒涜だと知りながらも興奮したのである。性的な興奮を脱却した子宮から呼び覚まされたのである。

 気持ち悪いだろう。僕は自分に言い聞かせる。貴様の心は醜く浅ましくその感情はまるで獣のそれである、と。脱子宮した膣口から滴る液体は彼女の下に水溜りを作りだしていた。そして、その水溜りは僕の心を投影したかのように、赫赫とした光沢に薄暗い影が掛かているのだった。

 興奮冷めやらぬ中、尻に異物が挿入されていることに気が付いた。

 これは、僕の考えが正しければ……。思索のなか僕の思考は、しかしながら、頭ではなく下腹部にあった。彼女の奇妙にもねじ曲がった姿態を眼前に、股間は熱の棒のごとく腫上っていたからである。履物を突き破らんと突っ張った股間が布に擦れて激しく痛む。脈々と鼓動を打つ股間が解放を求めている。

 僕はどうしようもないほど卑しい獣であるのだと自覚する。悔しさと惨めさとが混ざり合って、到達してはいけない処に僕の感情は辿り着こうとしていた。

 彼女を拷問した男と僕は、果たして何が違うというのだろうか。それとて、考えるに値しない下卑た結論しか見出せない。つまりはこの男と同族なのだと。

 何かがぷつりと切れる音が耳朶に響いた気がした。それは僕の理性だったのかもしれない。今となってはどうでもいい事だが……。

 僕は張り詰めて苦しくなった股間をあらわにする。指がもつれてなかなか履物を脱ぐことが出来ず、もどかしい。気持ちばかり先走って身体がいうことを利かない。肉体と精神とが乖離したかのような感覚に目眩がする。てこずりながらも、ようやっと、外気に曝された股間は、かつてないほどの勃起に今にも射精しそうであった。思わず漏れた吐息に熱がこもる。このような形で彼女の前で股間を曝け出すことになるだなんて思いもよらなかった。しかし、後悔よりも今眼前にある快楽を渇望してしまう。餓えた獣が無我無私に、猛り狂った怒張で雌を犯す快感を求める悪感情に、僕の興奮がいや増す。それでも、幾ばくかのためらいが動きを鈍らせる。ここが分水嶺である。引き返すならば今しかない、と。僕の中で渦巻く葛藤が心を千々に掻き乱していく。何をしているのかも解らなくなった僕は、この時、彼女の尻に刺し込まれていた異物に手を伸ばしていた。意識で行動を御することも適わず、僕はそれを引き抜いてしまった。

 そうして僕の僅かばかりの理性は跡形もなく砕け散った。衝撃だった。これほどまでに胸を熱くする光景を、僕は今だかつて目にした事がなかった。それ故なのか、僕のちっぽけな理性は呆気なく衝動の中に呑み込まれ、本能の獣を呼び覚ましてしまった。

 彼女の尻から引き抜かれたゴム材質のプラグは音もなくコンクリートの上に落ちる。栓を失った尻穴から止めどなく流れ出るものは、血と肉と骨。彼女を活かし生存させる為の内容物。生命の根源たる、原液にしてそれそのものである。すなわち、彼女の内臓その他諸々が堰を失ったことにより夥しい量流れだしたのである。

 まるで狂気じみた戯画である。こんなものは到底現実などではない。だから、僕の理性はいとも容易くこの光景に圧倒されたのだろう。

 これ以上彼女を決壊させてはいけない。そんなもので僕の獣じみた蛮行が正当化されることなどあり得るはずもなく、確実に地獄に堕ちるだろう。しかしまあ、それも悪くはない、と獣は囁く。否、咆哮する。

 僕は猛り狂った怒張を彼女の尻に捩じ込み無心に腰を振り始めた。腰を一つ降る度に押し寄せてくる快楽は倍化していき夢中にさせた。穴の中に通じる道はないというのになんという締め付けだろう。粘り着く蕩けた内臓たちが熱棒を包み込みねっとりとした愛撫を繰り返す。激しいピストンにも関わらず彼女の中は僕の股間を優しく迎え入れては送り出してくれる。見るも悍ましい獣同士のまぐわいに辺りがにわかに騒がしくも感じる。発狂しそうな興奮が腰の動きに連動して陰茎の注挿は激しさを増していく。蠕動する溶けた内臓が溶岩の熱を帯びる陰茎を咥えこんで離さない。絶え間ない絶頂感に更に膨張していく肉棒が彼女を内側から掻き乱し飽食する。喰えども喰えども餓えは治まらない。

――もっと、もっとだ……もっと喰わせろ!

 彼女のよじれた身体に僕は抱きつき腰を振る。滴る汗が彼女の表皮を潤わせていく。乾きは更なる渇望を呼び覚まし止まることを知らない。無限の快楽が僕を支配し彼女を犯し続ける。もはや、幾つ射精したかも忘れる。それでもなお、陰茎は熱く張り詰め萎えることなく彼女を求める。また、彼女も精を注がれることを良しとし、陰茎を深く咥えこんで離さない。求め求められる二人は密着してその境界線を曖昧にして溶け混ざり合う。

 数え切れないほどの射精が彼女の中を駆けあがり、だらしなく開け広げられた口から肉と共に白濁した液を吐き出させる。これでは満足に呼吸もできないであろう。もとより危篤の彼女である、苦しくないはずがない。だが、死に態であるはずの彼女は表情を微かに愉悦に歪ませる。加速度的に増す腰の振り子運動はやがて、腰骨を砕かんばかりに絶後の運動へと達する。これでは僕の方が先に果てる。それでも、止まらないのだ。止めさせてくれないのだ。彼女はもっと熱い精を熱望している。陰茎を咥えて離さない粘る体液が、内臓が、複雑怪奇な蠕動によって肉棒に絡みついて、無理矢理に絶頂の快楽を与えては射精させていく。迸る液体の奔流に僕たちの廻りには、臙脂に白濁した液をまぶした内容物で池が出来上がっていた。

 やがて筋肉の限界に達したのか、激しい痛みを伴って腰の動きが止まる。僕は彼女の身体にしな垂れ掛かって荒い息を吐きだす。腰が砕けたのである。未だかつて経験したことのない動きに肉体の方が先に根を上げたのだ。彼女の身体から発せられる甘酸っぱい汗の臭いが鼻を突く。汗みずくになった僕の身体を労うかのようにその臭いは気持ちを落ち着かせた。だがしかし、それでもなお、僕の股間は衰えることなく熱く脈打ち彼女の中を漂っている。そして、そんな陰茎に寄り添うようにして粘性の強い、それでいて弾力のある破壊され蕩けた内臓が陰茎をまさぐり脊髄を駆け抜ける快感を与えては精を搾取する。彼女の欲望に応えたい気持ちはあるが、常に絶頂感を刺激する快感が段々と意識を奪っていく。身動き一つできなくなった僕は彼女のされるがままにやがて快楽の渦に呑み込まれるようにして意識を失った。どうか、次に目覚めることがあるならば、これが夢であってほしいと願いながら、僕は闇の底へと堕ちていった。


 側頭部に鈍い痛みを感じて目が覚めた。薄暗い倉庫内は時間の感覚を忘れさせ、今が朝なのか夜なのかさえ判然としない。

 僕はどれくらいの間、眠っていたのだろう。痛む頭を気にして目頭を押さえる。立ち上がろうとしたが脚に力が入らない。下半身は意識を失う以前のまま、露出しておりみっともなく股間が哀れで仕方がない。赤黒く変色した股間は右に捻じれ萎れ、陰嚢はすっかり精を出し尽して縮こまっている。不意に湧いた羞恥から、何か穿くものが欲しいと動かぬ脚で辺りを窺うも、自分の履いていたズボンは見つからない。それに張り付いた喉が渇きを訴えて仕方がない。側頭部の頭痛は脱水症状の兆候を示しているのだろう。何か喉を潤すモノを、と霞む視界で辺りを見渡す。

 すると、彼女の姿態が目に跳び込んで来た。しかし、何やら様子がおかしい。その容姿が……なんと例えれば良いのか……言葉で表現すのが困難な姿形に変貌していたのである。凄惨な姿形に言葉を失った時とはまた違う意味で、僕は息を呑む。

 何かに引き攣ったかのように伸びきった身体は赤さびた色味を帯びている。身体が無理に反りかえっており、三日月形に鎖で宙吊りになっている。皮膚は木の幹のように硬化したのか、所々節くれだっている。見るからに異形と化していた。残虐窮まる非道の後の、破壊された肉体ですら言葉にできない恐ろしさを内包していたというのに、彼女はそれを遥かに上回る変貌を果たした。これには言葉を失うと伴に畏怖の念すら抱いた。何故なら、瀕死に喘いでいた彼女は現在、明らかに生命の胎動を予感させる凄みを孕んでいたからである。辻褄は合うのだろう。昨日――かどうかは定かではないが――僕の肉体が作りだす精を総て……正に、総て吸い尽した結果がこの変貌の所以だろうと、僕は推察したからである。

 そして、頭部に至ってはもはや不要な器官であるかの如く、首から垂れさがって今にも落ちてしまいそうだ。

 僕はこの時、喉も乾いていたが腹も空いていた。なんとはなしに考えた、とても美味しそうではないか、と。その考えに呼応したのか、その頭部は枝木がしなる音を立ててコンクリートの床に強か打ちつかれ、落下した。

 思わず背筋がぞくりと粟立った。

 まるで熟れた果実が種子を蒔くため地に落ち、ついばむものを求めているかの様ではないか。それは鳥であるかもしれないし、蟲かもしれない。あるいは人間であるかもしれない。完熟した木の実はその色香で媒介者を誘い遠く彼の地で新たに根を張るのだ。

 したたかに地に打ちつけられた彼女の頭部から醸成された血潮が飛沫する。それは僕の腕を濡らし甘く芳醇な香りを放つ。躊躇いがちに舌を這わすと――驚くほどの瑞々しさに目を見張った。たった一滴の飛沫で張り付き乾いた喉を潤すほどの瑞々しさに感嘆の念を抱く。

 僕は枯渇した水分を求めて、コンクリート上を両腕で這い進んで落下した頭部に迫った。つん、と鼻を突く酸味の効いた香りに目が眩む。脳がもう、それしか求められずに他の機能を停止させる。僕は手を伸ばして彼女の哀れな頭部を優しく掌で包み込んだ。ぶよぶよと水膨れした頭部の肉。眼球は存在せず眼窩は落ち窪んで、ただそこにぽっかりと二つの穴を空けている。中を覗き込んでもその内になにが秘められているのかは解らなかった。唇は罅割れ赤味を失い肌色と同化している。しかし、その肌色は焼き林檎の如く、真っ赤に焼きただれているではないか。口の中、歯は総て抜け落ち、つるりとした歯茎が妙に艶めかしく、見る者を魅了する。舌が縮こまって喉の奥に張り付いている。乾き切った口腔ないは愛撫を知らない膣のような幼さを感じさせた。首に切断面はなく自然落下した果実の茎のそれとそん色なかった。

 頭皮は少し力を入れるだけで剥けそうだった。僕は掌に収まる彼女の頭部に力を入れた。それは簡単に左右に引き裂け中のものが露わになった。

 倉庫中に甘く酸味の効いた柑橘的な果実の香りが充満した。

 なんと食欲のそそる色味であろう。鮮やかな橙は熟れすぎた蜜柑を彷彿とさせるが、これはそれとはまた違った類の果肉である。端的に述べれば、人肉である。だが、もはやこれに人肉としての機能は皆無であろう。どのように見ても明らかな果実でしかない。僕の喉は否が応でもそれを求めた。禁忌に触れる、といった恐怖はとうに失せていた。禁忌ならば既に犯している。これ以上の禁忌など……故に、何だというのだ。構うことはない、存分に喰らうがよい。そう、僕の意識は訴えていた。

 割れた頭頂部の頭蓋骨は溶けてしまったのか……それらしいものは見られない。脳は蕩けて溝の深い襞襞は引き伸ばされてまっさらである。ただただ熟れた果実を連想させるばかりである。にわかに口の中に唾液が充満する。僕の食欲はすでに限界に達していた。前日の獣にも似た飢餓感を嫌でも想起させる。今一度、鼻孔でその香りを愉しむ。得も言われぬ多幸感をもたらす柑橘の香りだ。そして、名残惜しさを押し殺して、僕は彼女の頭部だった物を一口に頬張れるだけ頬張り、噛み付いた。

 じゅわり、と溢れ出す体液が口中に広まりこれまで以上に強烈な爽快感が鼻腔ないを駆け抜けていった。さながら洞穴を抜ける風のように。その後に舌全体を嬲る酸味が襲ってきた。しかし、決して不快な酸味ではない。それはさっぱりとして一瞬青味を感じた次の瞬間には完熟した桃に似た甘さが口全体に広がり、あっという間に喉は潤される。さらに、飢餓感は充実感に移ろい、なによりも筆舌に尽くしがたい美味であった。

 あまりの美味しさに僕は無我夢中でそれにむしゃぶりついた。とろとろに蕩けた肉が歯に絡みつき程よい弾力が喰べていて愉しい。一口ごとに旨味を増していく果肉は玉虫色に変化し飽きさせない。頬を止めどなく伝う脳漿、肉、血液は上着の胸を臙脂に染めていくのも構わず、ぬちゃぬちゃと淫靡な汁音を響かせながら僕は彼女を喰らい続けた。

 やがて、手中には彼女の絹糸の頭髪と赤錆び色の表皮を残して、それを喰い尽した。

 僕は胸いっぱいの幸福感で充ち満ち涙を流した。そして、精神が一本の見えない糸で結ばれたような奇妙な感慨に包まれていた。それはきっと、彼女の中に僕が生きているように、僕もまた彼女を喰すことによって、自分の中に彼女が生きているという実感が湧いた瞬間だったのかもしれない。


 それから、僕は四回眠って、小便を二回漏らして大便を一回漏らした。下半身に力が入らない上に感覚がない。正直糞尿を漏らしたことに僕は多大なショックを受けた。刺激臭を感じて気が付き、下腹部を見ると萎れた股間から黒々とした血尿が流れていたのだ。それを目の当たりにした時の驚きと言ったら――。到底言葉にできるものではなかった。挙句、胸糞の悪い異臭に、まさか、と下半身に視線をやると大便を垂れ流しているのである。血の滲む赤痢というやつだった。これには吐き気すら覚えるほどだった。

 自分の思うとき思うように排泄行為が行え無いということが、これほどまでに無力感をもたらすものだとは思いもよらなかった。獣の如く彼女と交わった際、脊髄を損傷したのだと、この時理解した。幸い僕にはこの世にすがりつくほどの未練はないので、このまま餓えて息絶えることは一向に構わなかった。ただ、せめて彼女が――表皮の硬化した彼女が無事変態できる様を目に焼き付けるまでは生きながらえたいと願った。

 そう、彼女の変化がどういう事なのか僕は気付いていた。これは幼生態が完全変態し成熟態へと至る蛹化なのである。弓なりにしなった姿態が……硬化する表皮が錆び付き黒ずんでいく……腹部が肥大し始めて、倉庫内にクレセント状の陰影を投射する。禍々しくも悍ましい、それでいて畏敬の念を抱かせる異形。奇怪な蟲に対する独特の感情の喚起――怖いもの見たさ、というのは否めないが、人が蟲に変態するという神秘に胸が躍る。

 僕は睡眠を重ねるごとに変化する彼女――蛹が少しずつ変貌する様を観察していた。彼女の頭部には並々ならぬ養分が備わっていたのだろう、とても長い時間彼女を見守っていたが不思議と空腹感に見舞われることはなかった。

 やがて待ちに待った瞬間が訪れようとしていた。

 蛹の内側で何かがもぞもぞと蠢く気配を感じる。もちろん彼女である。果たして、蛹から脱皮した彼女は如何なるものに変態してるのか……。僕の心臓はその期待に、強く鼓動する。当初の赤茶けた色味は失せ、黒々としたその表皮は、既に、いつ罅割れても可笑しくないほどに膨れ上がり、内部の圧に軋みを上げていた。ちりちりと耳を焦がすかのような雑音が絶えずこだまし脳を揺する。僕の心は生命の鼓動たるノイズに耳を傾け陶然と虚空を覗く。かくて、彼女は己を御する監獄を破らんと胎動している。括目するべし、と強く意識に語り掛け、僕はその瞬間を捉えんと瞬きすら惜しむ。幾百、幾千の胸の鼓動を数え上げた刹那、歓喜と陶酔の瞬間は訪れた。

 空中を漂う半月の蛹は音も立てずに一条の裂傷を刻む。否、空間を割る破裂音が響いた。確かに響いたのだが……僕の鼓膜はそれを捉えることが出来なかったのだ。それも当然である。待ち望んだ瞬間の観測者としての、高揚感や期待と、この視姦にも似た背徳感が映像以外の情報を遮ったからだ。

 彼女が羽化する。生まれ変わるのだ。それはなんという悦びであろう。悦楽かな……。それと伴に、一糸まとわぬ生娘を生暖かく見つめる己の眼球を抉り出さねば、治まらぬほどの罪悪感に肝が冷える。怖気と伴に畏れ慄く心情が激しく僕の内側で暴れ廻り、この身を引き裂かんとする。歓喜に酔い、畏敬の念に溺れる。まるで自律神経の崩壊した廃人の如く感情が暴走して僕の意識を翻弄する。

 これほど……これほどまで、取り乱すというのか? 僕は内なる感情の混沌に一瞬我を忘れた。だがしかし、今まさに再誕せんと自らの檻から抜け出す、彼女の姿形がはっきりと眼に映ると、瞬く間に、僕の意識は一点に収斂する。


 ああ、これが『恋』であるのだ、と――


 この、『何とも形容しがたい歪な何か』、は僕の恋なのだと知る。


 この気持ちに嘘偽りなど在ろうはずがない。何故と? 至極簡単な答え。

 彼女の姿がこれほどまでに美しいと思うのだ。こんなにも愛おしいと感じるのだ。その感情に敢えてなど問うのも愚かしい。紛れもない恋の形ではないか。

 背面の裂傷から這い出す彼女の姿は、蝶。絢爛豪華に羽ばたく異形。乳白色の体液に濡れた翅はふやけて透き通った硝子細工。やがて、金糸で繕われた美しい織物の如く、輝きを放つに違いない。甲高い奇声を発する彼女は、紺碧に煌めく複眼でこの醜い世界を睥睨する。そこには卑しい自分の姿も映っているのだろう。畏れ多くも歓喜の極みに、身体の震えが治まらない。

 蝶の姿をした異形は、ずるずると這いずりながらやがて姿態を露わにする。外界の風を感じているのか、ふらふらと覚束ない挙動で辺りを見渡している。時折、長大な触角を振り子のように揺り動かしながら状況を把握しているようだ。

 なんという悍ましい姿形だろう。しかし、あにはからんや、僕は彼女の完全変態に見蕩れていた。三対の節足の節くれだった様が枯れ枝の様である。なのに美しいと感じる。ぶよぶよに膨れ上がった胴体がしゅくしゅくと蠢く様が赤子の指先のようで愛らしい。外気に曝されて乾き始めた翅に関しては筆舌に尽くしがたい。既に述べたように華麗で豪奢。倉庫内を息吹く隙間風にはためき、粉が飛ぶ。鱗粉であろう。微かな光に反射して黄金に輝く光景は夢幻の刻を錯覚させる。変幻自在に色彩を操る複眼には魔性の魅力が内在されており、僕は片時も目を離すことが適わなかった。

 まさしく完璧な変態を遂げた彼女は、僕を魅了し時間を忘れさせた。この時間が悠久のものとなればいいのに、埒もない考えが頭をよぎり、それは叶わぬ儚い想いであると諦める。

 諦念を抱いた僕に彼女はその触角で優しく頬を撫ぜた。

 僕は直感的に事の終わりを悟った。別れの時は近いのだ。一瞬瞼を閉じ呼吸を整える。最後に一言、この僕の想いを彼女に伝えなければならない。そう決心して再び瞼を開き彼女を目の当たりにした。

 そして、唐突な終焉を迎える事となった。

 鋭く風を切る音を耳にした。それと同時に額に鈍い衝撃と激しい痛みに襲われた。一瞬の出来事に唖然として何が起きたのか理解できなかった。

 鋼鉄のような蝶の口吻が伸びきって彼女と僕との空間が零になった、のだと、額を伝う、生暖かい液体が眼球を濡らし、視界を遮った際に、気が付いた。

 ぎらぎらと刃金の煌めきを放つ複眼からは何の感情も読み取ることが出来ない。もとより、感情などないのだろう。彼女は蝶に変態した瞬間から人ではない異形へと成ったのだ。感情などという不完全で、およそ生存に不要な形而上の異物は切り捨てられたのだ。それでは、僕のこの感情――彼女に対する『恋』は伝わらないのだろうか? 否、そんな事はあり得ない。確たる根拠は示せないが、それだけは解る。何故ならば、僕はこうして彼女に喰われようとしているではないか。彼女の生きる糧として、僕は彼女に欠かせない養分なのである。だから、この僕の想いは自身の脳みそと伴に彼女の内に流れる。きっと伝わる。理屈ではなく、もっと尊いものがそうであると僕に確信させる。それは天啓か? それとも奇跡か? おそらくそのどちらでもないだろう。

 喰すとは『愛』である。僕が彼女の頭を慈愛に満ちた気持ちで喰べたのは愛だ。そして、そのおかげでここまで生きられたのは必然だった。僕は彼女が無事に変態するまで守護する為に生かされた。そして、変態が成された後の彼女の糧、即ち、養分としておかれていた生餌に等しい。故にこの顛末は運命である。たとえ、彼女のそれが愛によってなされることでないとしても、喰される僕は愛の為にこの身を捧げられる。喰すことと喰されることとは同等であり、どちらも『愛』によってなされる美しい営みだ。だから、僕に後悔はない。総ては愛によって導かれた答えなのであるから……。

 頭蓋の内側を掌で撫でられる感覚に目玉が出鱈目に回転する。口吻が緩やかに脳みそを吸い取っている。ぞろりぞろり、と内側から囁くように蟲が這う音は、全身の肌を粟立たせ痙攣を引き起こす。得も言われぬ快感が吸われる脳から絶えず脊髄に発信され、半ば腐りかけた陰茎から止めどなく精液が流れだす。垢のような白濁液は蛆が湧いたように沸々と蠢いている。朦朧とする意識を必死に手繰り寄せる。最後の瞬間まで彼女の眼差しを感じていたい、と出鱈目な回転を繰り広げる焦点を一点に絞ろうと足掻くが、上手くいかない。あの複眼の、禍々しくも一筋の刃金の煌めきを、今一度この眼に留めたいとする僕の意思に反して段々と視界が霞んで消えていく。引き攣った両腕が勝手気ままに荒れ狂い、口吻を額から引き抜こうと無意識の抵抗を示す。しかし、固く突き刺さった口吻は返しでもついているのか微動だにしない。頭蓋を内側から撫でていた感覚は既に失われ、空っぽになった頭部を空薬莢が転がりうるさく煩わしい。弛緩した表情筋が口をだらしなく開かせ涎をたらし舌を引き伸ばす。奇しくも、見つけた直後の彼女と似たような顔立ちになったような気がして可笑しさを覚える。

 僕の脳みそを吸い切った口吻は額を離れ、緩やかに円くたたまれる。やがて、一陣の風を肌で感じ取る。彼女が飛翔せんと翅をはためかしているのに違いない。なんとも心地よい風にさらされ心が和む。ああ、別れの時が近い……。名残惜しさは否めない。だが、早晩終わる命。彼女と伴に風を切って空を駆けることは叶わない。とは言え、なんと満ち足りた気持ちであろう。本当にもう、なに一つとしてこの世に未練も後悔もない。彼女のためにあり、彼女のために終えられた生涯は幸福であった。

 いっそう強い風を感じた。蝶の姿を象った彼女は旅立った。紅蓮に燃ゆる鱗粉を跡に、空高く飛翔する。


 空を駆ける巨蝶は夜空に燦然と輝く航跡をたなびき、月に天の架け橋を掛ける。


 そんな光景を幻視して、僕は満足気に微笑む。

 まったく、脳みそがないというのに何処からそんな風景を夢みるのか……人間とは不思議な生き物だ、と。

 僕は空っぽの頭でそんなことを思った。


「総ては、独り言だというのに……」


 世界は僕を失っても廻り続ける。

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