セレネが呼んでた
諸根いつみ
第1話
1章
『机の傷、壁紙の陰影、シャープペンシルの表面の輝き、デスクスタンドの光、微細な埃――』
清水(しみず)高史(たかし)は、毎夜毎夜、詩を書こうとしていた。
しかし、形にならない。目の前のものが頭の中で言葉に変換されるだけで、ノートは白紙のまま。このままでは、月になんて絶対に行けない。
清水はシャープペンシルを放り出し、携帯端末でいつものウェブサイトにアクセスした。
詩作をする人々が集うサイトだ。書いた詩をアップしたり、ほかの詩にコメントをつけたりできる。真面目な議論の場でもあり、単なるけなし合いの場でもあった。
清水は、自分のページにコメントがついていないかチェックした。ノートに書きつけ、何度も書き直した末、サイトにアップした数編の詩。中学生の頃から書いてきた詩の中でも、自信作を選りすぐった。アップして一週間になる。それだけ待てば、さすがにもう誰かの目にとまっているだろう。
清水の詩には、なんのコメントもついていなかった。
清水は頭を抱えて苦悩した。涙をこらえ、SNSを開く。
どうしよう。俺の詩、もうだめなのかな#月移住計画
SNSに投稿し、机に突っ伏した。このままだと本当にまずい。
大学にはずっと行っていなかった。アルバイトは社員にいじめられたから辞めた。キャベツと米と焼き肉ソースだけで我慢し、なんとか仕送りだけで生活している。
このままでは大学を卒業できないし、大学に行っていないことをいつまで親に隠し通せるかもわからない。しかし、救いの道はある。月へ行くのだ。
清水は携帯端末でネットニュースにアクセスした。
『月のテラフォーミング大詰め。一般第一移住者公募開始間もなくか』
約十年前、月に有人基地が建設された。そしてついに、一般の移住者が月へ行く時代がやってきたのだ。
しかし、誰でも月へ移住できるわけではない。月で社会を構築するため、様々なスキルを持った人々をバランスよく集めようというのが、国連の方針だった。
清水は、なんとか自分も月に移住できないかと調べた。清水は特別な技能などなにも持っていない。しかし、唯一希望が持てそうな分野があった。
芸術だ。
月への移住者は、一般の応募者から選ばれる。約半年間の応募期間ののち、国連による審査が行われ、選ばれた人々のみが月へ移住できるのだ。その中の様々な応募枠のうちの一つが、芸術家枠だった。
芸術家枠の採用人数は、ほかの応募枠と比べて極めて少ない。もっと実用的な分野に人数を多く振り分けるのは当然だろう。第一移住者の予定人数自体もそれほど多くはないし、芸術家枠に応募するということは、倍率の高い大学のさらに倍率の高い学部を狙うようなものなのだ。
しかし、清水は諦めるつもりはなかった。中学生の頃は、月へ行くことなんて考えもしなかったが、きっとこの時のために詩を書いてきたのだろう。自分が月へ行くことは運命づけられているのだ。誰もが認めるような詩を書いて、芸術家として、月へ行く。この今のだめな自分や、自分を馬鹿にしてきたやつらを全部捨てて、新しい世界へ旅立つのだ。
しかし、調子の悪い時に無理に詩作をしようとしても、脳のエネルギーを消耗するだけで、なんの意味もない。調子の悪い時は休む。これが優秀な芸術家の鉄則だ。
清水はデスクスタンドの明かりを消し、ベッドに倒れ込んだ。
清水は昼間からカーテンを閉めて過ごしていた。デスクスタンドで手元のみを照らすと、なんだかやる気が出るような気がするのだ。
一週間くらい休んでたけど、そろそろ詩を書かないと#月移住計画
携帯端末でSNSに投稿し、まっさらなノートを開く。シャープペンシルを握って構える。中学生の時は、こうすれば言葉が浮かんできた。
十分が経過しても、なにも浮かんでこなかった。
いや、十分かそこらで浮かんでくるほうがおかしい。ここは気長に、言葉の神が降臨するのを待つのだ。
頭の中を言葉が回り始める。
『ノートのページを横断する淡いブルーの線、ただひたすら真っ直ぐ、何本も、一本、二本、三本――』
清水は目を上げた。
『デスクスタンドの光の筋の中を、エビのように背の曲がった埃が舞っている。まるで泳ぐように、あっちへ行ってこっちへ行って――』
清水は机から離れ、窓のカーテンを開けた。
『隣のアパートの壁。緑と茶色の中間のような色の壁に、薄い墨のような色の汚れがまるで顔のように見える。首を曲げると、嫌になるくらい青い空。ちぎれたハンカチのような真っ白な雲――』
清水はため息をつく。
「目の前にあるものを描写するだけで詩が書けたら苦労しないんだけどな……」
清水は、気分転換も兼ね、コンビニに食料を買いに行くことにした。
最寄りのコンビニは、歩いて十分くらいのところにある。本当に嫌になるくらいのどかな春の陽気だった。
『暖かな日光、道端の植え込みに花が咲いている。花の名前は全然わからないけど、甘いにおいがする。むかむかしてくるにおいだ』
『すれ違う杖をついた背中の曲がった老女。黒っぽい肌に刻まれたしわが渓谷のようだ』
『コンビニに着いた。珍しく外気と変わらない室温。ケースの中に手を入れるとひんやりする――』
なんだか、どうでもいいことがいちいち頭の中で言葉になってしまう。
清水は苛々しながら会計を済ませ、部屋に帰った。
なにもする気が起きず、ベッドに倒れ込んだ。
『カーテンが閉まった暗い部屋、天井の高さがよくわからない。体全体が重く、ベッドに押し付けられている感じ』
「だから、なんでいちいち文章になるんだよ。そこは『だるい』でいいんだよ『だるっ』で」
清水は独りで声に出し、乱暴に携帯端末を手に取った。SNSに投稿する。
頭の中と目の前のことがいちいち頭の中で言葉になって気持ち悪い#意味不明
詩を書きすぎてるのかも。描写力をつけようと頑張ったことが原因かな#月移住計画
いい詩を書くため、きらりと光る描写を磨く訓練として、なんでもかんでもとりあえず文章化しようとしていた時期もあった。目の前のものをどう描写したものかと頭を悩ませたこともあったのに、今はコントロールが利かず、次々と描写がされる。
その後何日も、頭の中で、どうでもいい文章が回り続けた。目にするもの、感じることがすべて強制的に頭の中で文章化される感じだ。まるでずっと小説を読んでいるよう。それも、一文字一文字丁寧に噛み砕くように。
なんかもう言葉が襲ってくるって感じ#ストレス
頭の中の言葉がうるさい#お前らが今一番言いたいこと
誰か助けて#マジで
SNSへの投稿に、誰かからのリプライがつくことはなかった。清水のSNSのフォロワーはゼロ人だから、それも当然だった。虚空に向かってつぶやき続けるようなものだが、それでも少しは慰めになるのだ。誰かからの返事など期待していない。今までもずっとそうだった。
清水は詩作への意欲を失くした。SNSを開くのもやめた。もう、言葉やら文章にはうんざりだった。しかし、このままでは月へ行けないと嘆き、悩んでは悩み疲れて、惰眠をむさぼっていた。
その時、玄関の呼び出し鈴が鳴った。
清水は、面倒だと思いながらのろのろと玄関へ向かい、なにも考えずにドアを開けた。
「やあ、久しぶり」
きらびやかな笑顔。そこには、芝居がかった仕草で片手をあげた人物がいた。
清水は目をこする。
「鳥坂(とりさか)……?」
「そうだよ。鳥坂裕(ゆう)だよ。覚えててくれたんだね」
「ひ、久しぶり……」
「あがっていい?」
「あ、う、うん。汚いけど……」
清水は、鳥坂を部屋にあげた。鳥坂は遠慮なく、清水の本と脱ぎ捨てられた服をどかし、スペースを作って座った。
鳥坂は、さっぱりした白いシャツと、含みも緊張もない微笑みであぐらをかく。清水は、何日か前から着続けているジャージ姿の自分を意識し、いたたまれなくなった。
「SNS、見たよ」
鳥坂は唐突に言った。
「え!?」
清水は目を丸くする。
「助けにきたよ」
「え?」
「助けてほしいんでしょ?」
「あー……うん」
「月へ行きたいんだってね」
清水は、頬が熱くなるのを感じた。
「俺も行きたいんだ。月に」
「鳥坂も?」
「二人で協力して月へ行こうよ」
三年ぶりに会った高校の同級生にいきなりそんなことを言われても、清水には答えようがなかった。
数秒の沈黙。
「て、てか、突然どうしたの……?」
「どうしたのって?」
鳥坂は、つい昨日も清水に会ったかのような態度を崩さない。よく見れば、少し髪型が洗練されたくらいで、鳥坂は高校の時とまったく変わらないように見えた。
「SNSのリプライとか、メッセとかあるんだけど……」
「なんかネット上のやり取りとか苦手でさあ。実家に電話して住所聞いて来ちゃった」
「ああ、そう」
「てか清水、テキスト化症候群なんでしょ?」
「へ?」
なんだその突然の意味不明な単語は。
「頭の中のことがいちいち言葉になるんでしょ?それって、テキスト化症候群っていう病気だよ」
「病気……」
「小説家とか記者とか、文章を書く人によくある精神障害の一種だよ。清水、詩を書いてるんだよね」
「あ、う、うん」
「日常生活に支障が出るほどの症状が出ることはめったにないらしいけど、その代わりに、治療法も確立されてないんだよね」
「じゃ、じゃあ、治らないの?」
「文章を書くのを休むしかないと言われてる」
「え……それは困るんだけど」
「ちょっと考えたんだけど、ほかにも治す方法、あるかもしれないよ」
鳥坂は上目づかいで清水を見る。
「どんな……?」
一体なにを言いだすのだろう。
「リアルウォリアーっていうゲーム、知ってる?」
「知らない」
「じゃあ、拡張現実は?」
「知らない」
「なにも知らないんじゃ、説明するよりも実際見たほうが早いな」
鳥坂は立ち上がる。
「ほら、出かけるよ」
清水は鳥坂を見上げ、目をしばたたいた。
清水は鳥坂に連れられ、地下通路にやってきた。どこに続くかもわからない、薄暗くて湿った場所だった。
「これつけて」
鳥坂は、清水にヘッドホンのようなものを手渡す。
「なに、これ」
「ARフォンだよ」
それ以上の説明はない。
装着してみると、まるで存在していないかのような軽さとフィット感だった。鳥坂も同じものを装着する。すると、つけた瞬間に、黒かったARフォンが透明になり、まるで消え失せたように見えた。
「うおう、俺のも透明になってる?」
清水は自分の頭を指差す。
「なってるよ。髪の毛が押しつぶされて変になってるけど、見栄えを気にするなら、慣れればうまく調整できるから大丈夫だよ」
「お、おう……」
鳥坂と清水は、通路を歩いていく。
「えっと、どこ行くの?」
「もうちょっと待って」
鳥坂は、不安がにじみ出た清水の声も意に介さない。
しばらくすると、向こうから人が歩いてくるのが見えた。鳥坂と清水と同い年くらいに見える男が二人。二人とも、首に黒いチョーカーをしている。
「来た来た」
鳥坂は嬉しそうな声を出す。
その時、突然、歩いてきた男の一人が叫んだ。
「戦闘開始!」
「挨拶なしでいきなりかよ」
鳥坂は楽しげに文句を言うと、
「戦闘開始」
と言った。
その瞬間、バトルシーンっぽい音楽が流れ始めた。
「炎のこぶし、炸裂!」
音楽に驚いた清水が声を上げる間もなく、相手の男が言った。その瞬間、清水の目の前に、轟音と共に燃え盛る炎のかたまりが飛んできて、顔面に直撃した。
「うわっ!熱う!」
清水は顔を押さえる。
「ドラゴンの息に飲まれろ!」
「皮膚が焦げてたただれ落ちる!」
相手の男二人が立て続けに言うと、狭い通路の中に、真っ赤なドラゴンが出現した。ドラゴンは火を吐き、清水は呑み込まれた。
「うわああああ、熱い!」
清水は地面を転げまわった。
「ちょっとちょっと、早いよお。ちょっと待って」
その時、鳥坂の声がした。
「ああ?なに言ってんだ」
「戦闘はもう始まってんだぞ」
相手の男二人の前に、鳥坂は平然とした様子で立っている。
「もうちょっと落ち着いて楽しもうよ」
「お前、トラベルシーカーだろ。こっちは楽しむよりもさっさと勝ちにいく!」
「そうだ!覚悟しろよ。炎の剣が――」
「炎の剣を盾にするかい?」
鳥坂の、高めだが落ち着いた声が通路に響く。
「炎の盾はきみたちを守る。守りきればきみたちの勝ち」
と、鳥坂は続ける。
「俺たちは攻める!炎のドラゴン――」
「ドラゴンは守護神。むやみに人を傷付けたりしない」
「火を噴け――」
「噴くのは笑いのほうだよ。火は弱者の武器だ。弱い者ほど派手なものに頼ろうとする」
「な……!」
鳥坂の凛とした声が、どんどん相手の声を吸収していくように思えた。
「でも火は綺麗だ。消してくれる。終わらせてくれる。温めてくれる。包んでくれる。守ってくれる」
「水水水!」
「守れ守れ。それが勝利への道」
守れ守れ、という鳥坂のつぶやきが連なる。
「火に抱かれて守られろ」
相手の二人の周りに、炎が燃え盛った。
「やばい、熱い!」
「もうだめだ。逃げよう」
「ちょっと!コールしてくれないと点数がたまらないよ!」
鳥坂は走り去る二人の背中に叫んだが、逃げられてしまった。
「これだからEOMのやつらは」
鳥坂はため息をつき、ARフォンを外した。
「な、なんなの、今の」
清水は地面に座り込んだまま言った。熱さは消え、火傷もなにもない。しかし、さきほどの熱さは本物に思えた。
「リアルウォリアーっていうゲーム。今の相手は雑魚だったな。声が弱いし」
「これが、ゲーム」
「拡張現実を利用した言葉を使う戦闘ゲームだよ。このARフォンが、言葉から想起された脳内のイメージを受け取って、鮮烈な映像とか音とかに変換にして、再び脳に送り込むんだ。要するに、幻を作り出すって感じ?言葉から想起される感情も増幅されるから、心にダメージを与えることもできる。耐え切れなくて戦闘終了をコールしたほうが負け。でも、今みたいに逃げるやつも多いんだよなあ」
清水は口を開け閉めした。
「このゲームを一緒にやってほしいんだ」
「な、なんで?」
「理由は二つある。ひとつは、テキスト化症候群の治療になるから。もうひとつは、月に関することだよ」
夜の喫茶店。清水は、消えたはずの熱さを洗い流すように、冷水を流し込む。
「俺、リアルウォリアーは結構強いほうなんだ」
鳥坂はアイスコーヒーをすすり、得意そうに言った。
「ここを押すとランキングが見れる」
鳥坂はARフォンを取り出して操作した。ARフォンから、テーブルの上に画面が投影された。鳥坂がテーブルの上の画像を指でなでると、ランキング表がスクロールされる。
「どちらかの戦闘終了のコールで戦闘が終わると、点数が移動するんだ。今日は逃げられたから点数の移動はなかったけど。点数の移動があると、すぐにネットのランキングに反映される。ランキングは基本的に本名での登録だね」
鳥坂の名前は、ランキングの上から二番目にあった。名前は、赤で表示されているものと、青で表示されているものがある。鳥坂の名前は赤だ。
「すごいね」
清水は素直に言った。
「リアルウォリアーは、ワードバトルというよりもむしろヴォイスバトルだと言われてる。ほかのやつが言うところによると、俺って、声がいいんだって」
「へえ……」
「ほかのやつっていうのは、大学の同級生の女の子の一人なんだけど、その子が勝手に、俺の履歴書を新人声優発掘のコンテストに送ったんだよ」
「コンテストに出たの?」
「うん。いろんな演技とかやらされてさ。応募者約二千人の中で、ベスト8だった」
「す、すごいね」
「八位なんてたいしたことないよ。でも、俺の声は、演技はだめでも、リアルウォリアーではそれなりに役立つらしい」
「声優にはならないの?」
「ならないならない。大学での研究に集中したいし」
「え、なんの研究?」
「植物の生育に影響を与える音楽の研究。植物に音楽を聴かせて、生育を速めることができるんだよ。まだまだ研究の途中だけどね」
鳥坂は、清水が知っているよりもさらに変人になってしまったようだ。
「あ、で、声の話だけど、声を出すことが、テキスト化症候群の治療になるんじゃないかと思うんだ。俺の素人考えだけど。あのさ、文字の世界にはなくて、現実世界にはあるものってなんだと思う?」
「え?うーん……」
今度はなにを言い出すのだろう。
「抑揚だよ」
鳥坂は答えを言った。
「詩を朗読する時は、当然、抑揚をつけるよね。でも、どう抑揚をつけるかは、読む人の解釈にかかってくる。抑揚は、文字の世界と現実世界をつなぐ架け橋なんだよ」
「はあ……」
「普通の会話でもそうだよ。小説の中の会話文にも、抑揚はない。清水、自分のしゃべり方、全然抑揚がないって気付いてる?」
「えっ」
「『えっ』とかそういう驚いた声は当然大きくなってるんだけど、ひとつの文章を口にする時、清水の言葉には、本来人間としてあるべき抑揚がないんだよね。高校の時から思ってたんだ。高校の時も、清水、小説とか詩とかが好きだったじゃん?その影響なんじゃないかな」
確かに、思い当たることはあった。よく、お前の言葉には心がこもっていないと言われた。ありがとうございますと言っても、すみませんでしたと言っても、棒読みになってしまっているようなのだ。清水は、極普通に、ほかの人が言っているように自分も言っているつもりなのだが。
「清水は、文字の世界だけじゃなくて、もっと声のある現実の世界と仲良くするべきだよ。そうすれば、テキスト化症候群も治るんじゃないかと思うんだけど」
「リアルウォリアーをすれば、テキスト化症候群が治る、と?」
「俺の考えではね。どう?やる?」
「ちょっと待って。月に関する、っていうのはどういうこと?」
「月移住についての対立のことは知ってるだろ?その戦いの道具として、リアルウォリアーが使われてるんだよ。もともとリアルウォリアーは個人の純粋なゲームだったけど、今や、トラベルシーカーとEOMの戦いがメインになってる。俺がリアルウォリアーを始めたのは、その対立が始まってからだけどね」
「トラベルシーカーとか、イー……なんとかって、なに?」
「知らないの?」
鳥坂は本当に驚いたようだ。
「清水は立派なトラベルシーカーなのに、知らないんだ」
「ごめん、最近誰とも話してないし、ネットもあんま見てなくて……」
「トラベルシーカーっていうのは、月に行きたがってる人のこと。EOMっていうのは、『月の眼』っていう、月を神聖視して、月移住に反対してる人々の団体のことだよ。そいつらは、月のテラフォーミングが始まった当初から反対運動をしてたんだけど、最近になって、さらに活動が活発化してるらしい。まあ、国連は今のところ無視してるみたいだけど」
「月移住に反対してる人たちがいるの?」
「月は神聖不可侵の存在なんだと。テラフォーミングしたり、移住したりなんてもってのほかで、そのままにして、あがめる存在なんだって」
「そんな人たちがいたんだ……」
「まあ、月は昔からいろんな芸術のモチーフになってるし、神聖視するのはわからなくもないけどね」
「でも、せっかく月に行けるようになるのに」
「そうだよ。魅力的だからこそ、見るだけじゃなくて、行ってみたいと思うんだよね」
鳥坂は微笑む。
「俺たちがEOMと闘ってもなにも変わらないかもしれないけど、勝ち続ければ、勢力をそぐことになるかもしれないじゃん?」
「勝ち続ければ、ね」
「ランキング一位のEOMのやつを倒したいんだよ。ほら、この一位の。ランキング表には、トラベルシーカーは赤で、EOMは青で名前が表示されるようになってるんだ」
鳥坂は再びランキング表を投影してみせる。
「清水、一緒にやろうよ」
「いや、でも、そんないきなり……」
「嫌?」
「嫌、じゃないけど」
「とりあえず、何回かやってみようよ」
気がつくと、清水はうなずいていた。
清水と鳥坂は、広場に立っていた。
「ここは、周りに住宅もないし、この時間なら誰も来ないから、練習にはちょうどいいんだ」
鳥坂は早朝にもかかわらず、元気溌剌だった。
鳥坂と清水は、ARフォンを装着した。
「特別なルールはなにもないよ。お互い、戦闘開始をコールしたら、ARフォンがバトルモードになって闘いが始まる。二人一組でやることが多いんだけど、その場合は、ARフォンを二人制モードにしておく。どっちかが戦闘開始をコールすると始まって、ギブアップする時も、どっちかが戦闘終了をコールすれば、二人とも終わり」
「昨日は二人制だったってことだね」
清水はあくびをかみ殺して言う。
「そう。清水はなにもしなかったけど」
鳥坂は笑う。
「別に二人一組じゃなくても、一対一でもいいし、グループでもいい。大勢と一人で闘うことも可能だけど、まず勝ち目はないだろうね」
「あ、でもさ、それなら、大勢のグループを作ったほうが勝ちってことにならない?」
「それだと、始まる前に勝負が終わっちゃうから、意味がないんだ。普通、相手の人数がこっちよりも多かったら、勝負は受けないよ。それで自然と二人一組で落ち着いたんだろうね。でも、俺は今まで一人でやってたけど」
「誰とも組んでなかったの?」
「うん。もしかして、今まで雑魚とばかり当たってきたのかも。清水が強敵を連れてきてくれることを祈るよ」
「は、はあ……」
「今は個人戦モードに設定しといたから、俺と清水が闘う形で練習してみようか」
「う、うん」
二人は距離を取って向かい合った。
「なんでもいいから、なんか言って攻撃してみて」
鳥坂は気軽に言う。
「なんでもいいの?」
「うん。まずは試しだから」
「うん……」
清水は迷ったが、あまり待たせてもいけないと思い、安直なイメージに頼ることにした。
「包丁、刺され」
「痛っ!」
鳥坂が叫ぶ。
「え!?」
清水が叫ぶ。
見ると、鳥坂の腹に、包丁が突き刺さっていた。
「ほ、ほんとに刺さったの?」
清水は汗が噴き出るのを感じた。
「ほんとじゃないけど」
そう鳥坂が言うと、包丁は消えた。
「鳥坂は強いんだろ?防いでよ」
「単純なイメージは防ぐ暇がないんだよ。剣じゃなくて、包丁という身近でイメージしやすいものを選んだのも効果的だった。清水、センスあるよ!」
鳥坂は痛みなどなかったかのようにはしゃぐ。
「あ、ありがとう」
清水は、鳥坂がそれほどダメージを受けていないようなのでほっとした。
「でも、声量とか滑舌がより重要なんだ。複雑なイメージは単純なイメージより強いけど、声がだめだったら意味ないし。強い声で複雑なイメージで攻撃されると、こっちも複雑なイメージと強い声で防御しないと防ぎきれない。弱い声の攻撃だったら、複雑な言葉を単純な言葉で防御することもできるけどね」
「要するに、言葉と声の両方が大事だけど、どちらかというと声のほうが大事ってこと?」
「そういうこと」
「なるほど」
「じゃあ、今度は俺が行くよ」
鳥坂は芝居がかった仕草で手の平を清水に向けた。
「俺の手の平にはなにが見える?」
「え?」
「お前が昨日顔面に食らったものは?火!」
「水!」
鳥坂の手の平から火の柱が噴きだし、清水の顔を襲った。しかし、火は水にはじかれて散った。
「おお!防御もできてんじゃん!すごいよ清水!」
鳥坂は目を輝かせ、清水は照れ笑いをした。
「じゃあ、ちょっと本気出してみようかな」
鳥坂は不敵な笑みを浮かべた。
十分後、清水は地面に倒れていた。鳥坂にいいようにいたぶられた感がある。
「初めての割にはすごいよ。才能あるって。それに、慣れれば攻撃には多少耐性ができるし、大きく成長する可能性大だよ」
鳥坂は嬉しそうに清水を見下ろした。
「あ、ありがとう……」
「でも、もうちょっとはっきりした声出せない?そうすれば、攻撃も防御もキレがよくなると思うよ」
「う、うん」
「例えば、刃物系の攻撃には、『跳ね返す』とか『盾』とか『俺は甲冑の騎士だ』とか言って防御すればいいわけだけど、相手にはっきり届くような強い声じゃないと効果がないんだ。だから、これは練習だね。言ってみて。『跳ね返す』って」
「は、跳ね返す」
「立って。大声で」
「跳ね返す!」
「もっと!」
「跳ね返す!」
「もっと!」
「跳ね返す!!」
「おお、いい感じ」
鳥坂は清水の肩をたたいた。
「いい感じの声だよ」
「ありがとう……」
「次は実戦かな」
「え、もう?」
「うん。別に問題ないでしょ」
「鳥坂がそう言うなら……」
「あー腹減った。もう店開いてるかなあ」
鳥坂は、ARフォンを外し、さっさと歩きだす。清水は慌ててついていった。
2章
鳥坂は、高校の時から、なんとなく目立つやつだった。明るく、誰にでも親切にしたが、妙にこだわりの強いところがあり、苦手科目の古典だけを勉強して全体の成績を落としたり、誰とも話さない女子に話しかけ続け、学年全体に噂を立てられた挙句に本人にしつこく思われて嫌われたり、空回りすることもあった。しかし鳥坂は、ただ気まぐれに行動しているだけだったようだ。うまくいかなくても、落ち込む様子はなかった。
清水には、鳥坂は少し変わった能天気なだけのやつに思えたが、鳥坂を魅力的だと思う女子も多かったらしい。清水の幼なじみの中にも、そういう女の子はいた。
一方、高校の時の清水は、休み時間も詩や小説を読んでいるような、自分ではっきりと自覚できるほど、地味な生徒の典型だった。清水は客観的に、自分が鳥坂に勝てる点はないと思っていた。勝っているのは身長だけ。
清水と鳥坂は、それほど仲が良かったわけではない。共通の友人を通して、何度か一緒に帰ったり、寄り道をして遊んだりした程度だ。清水は、鳥坂が自分を訪ねてくるなんてことがあるとは思っていなかった。鳥坂が本当はなにを考えているのか、清水にはわからなかった。わかったことなど、今まで一度もなかったような気がする。
もう会うこともないと思っていたが――
その時、携帯端末がバイブした。表示されているのは、鳥坂の名前。
清水は、夜の八時すぎになんの用だと思いながら、電話を取った。
「悪いけど、今から出てこれない?」
鳥坂は挨拶もなしにいきなり言った。
「え、なに?どうしたの?」
「ランキング一位のやつがこれから地下通路に来るらしい。リアルウォリアーの掲示板に書き込みがあって。清水が来れなかったら俺一人で行くよ。突然だから無理かな?無理だよね。じゃあ、俺一人で行く」
「ちょっと、なにも言ってないよ」
「来れんの?」
電話を取ってしまったからには、断るのがなんだか悔しい。
「うーん、もう、ちょっと待ってよ。俺も行くから」
「おお。じゃあ、この前の地下通路の入り口で」
清水は乱暴に通話を切った。
清水と鳥坂は、再び地下通路にいた。
「多分まだ来てないと思うんだけど」
そう言って足早に地下通路を進む鳥坂に、まごまごとARフォンを装着しながら清水はついていく。
「いつもここで待ち合わせてやるの?」
「待ち合わせてるわけじゃないよ。掲示板に、いつに行くとか書き込みはあるけど、結構アバウト。戦闘スポットはここ以外にもあるけど、ここが一番頻繁に戦闘がある場所なんだ。ここの通路の場合、トラベルシーカーは東から、EOMは西から来るって決まってる。夕方から深夜にかけての戦闘が多いね」
「来る方向を間違えたら、味方と闘うことになるかもしれないわけか」
「そういうこと。あと、EOMは、黒いチョーカーをしてる」
「そういえば」
「セレネっていうロックバンドのグッズらしいよ。セレネは、ずばり、ギリシャ語で月っていう意味で、月を崇拝してるバンドらしい」
「あ、そのバンド聞いたことある」
その時、鳥坂は歩調を緩めた。
見ると、向こうから人が歩いてくる。長身痩躯の男と、黒いワンピースを着た女。男のほうは、ニット帽とマスクで、怪しげな雰囲気だった。二人とも、黒いチョーカーをしている。
「男のほうがランキング一位のやつだな。よし、やるぞ」
鳥坂は一瞬清水に目を向け、そのまま二人の相手に近付いていった。
清水は、女の顔に目を凝らした。
「なあ、鳥坂――」
「こんばんは。闘ってくれますか?」
鳥坂は相手に言う。
「裕くん?」
女が言った。鳥坂に駆け寄る。
「裕くんじゃん!」
嬉しそうな声を上げた。
「おお、月地(つきち)か!髪伸びてて気付かなかった。久しぶり!」
「高校の時から髪長かったよ」
「ああ、そうだったね」
鳥坂は清水に振り向く。
「月地だよ、清水」
「高史も!久しぶり」
「円(まどか)……」
清水は、突然の月地円との再会に、フリーズ状態となってしまった。
「裕くんと高史、一緒にリアルウォリアーやってるの?」
円は、目を丸くして清水と鳥坂を交互に見る。
「てか月地、EOMなの?」
「裕くんと高史は、トラベルシーカーなの?」
「あの」
マスクの男が口を開いた。
「戦闘、やめる?」
円に尋ねる。
「いえ、やりましょう」
円は、清水と鳥坂と距離を取って向き合った。
「こっちには闘う意思はあるけど、二人はどうする?」
「やろう、清水」
鳥坂は即座に言う。
「月地がEOMだなんて残念だけど」
「円と闘うの?」
清水はおどおどと鳥坂を見る。
「二人がトラベルシーカーなら、容赦しないよ」
円の言葉に、鳥坂は笑顔を向ける。
「受けて立つ」
「戦闘開始」
「清水、言え」
「せ、戦闘開始」
清水のコールで、装着したARフォンがバトルモードになった。
「濁流。本物の、水!」
円の言葉で、清水と鳥坂に水が押し寄せた。
「ここは砂漠だ。水は蜃気楼」
瞬時に水が消える。
「裕くんと高史に砂つぶて!」
清水は鋭い痛みを感じた。
「うう、名前を呼ぶと効果が増すのか」
鳥坂も痛みを感じたようだった。
「清水、防御頼む。月地、逃げろ!」
「えっ」
円は突然の鳥坂の声に目を丸くする。
「隣の男がナイフを持ってるぞ。あの時と同じだ。俺が刺される前に逃げろ」
マスクの男の手にナイフがあった。
「なに言ってんの裕くん」
「後ろにもいる。あの時の薬物中毒者だ。月地の肩に手をかけようとしてる」
「ひっ」
円の肩に、後ろから黒い手が置かれた。
「卑怯な。疾風旋回!」
マスクの男が叫んだ。
男の力強い声が響いた途端、竜巻が襲ってきて、清水と鳥坂は本当に数メートル吹き飛ばされた。
「旋回逆回り!疾風の反逆!」
鳥坂の声で、竜巻は、男と円のほうへ戻っていき、「夕凪の静けさ!」という男の声で消滅した。
「清水、防御しろって」
「ご、ごめん」
鳥坂はなんとか両足で着地していたが、清水は打ち付けた尻をさすって立ち上がる。
「月地、こわいか、こわいだろ」
円はすでにガタガタと震えている。
「女の子をこわがらせるなんて、男として最低だ、少年」
マスクの男は言う。
「少年っていう年じゃないんだけど」
「きみは子供だ」
「あんたのような老人からしたらね」
鳥坂と男の言い合いで、鳥坂の身長は縮み、男は腰が曲がり始めた。
「支える杖も手足もない」
「小さな体には骨がない」
鳥坂と男は、ほとんど同時に言い、同時に膝をついた。
「再びの濁流!」
「疾風、切り裂け!」
男と鳥坂が言い、水と風がぶつかった。
男の水と鳥坂の風がせめぎ合い、数秒の拮抗のあと、風が水に押し切られた。
清水と鳥坂は水に飲まれ、息ができなくなった。
「戦闘終了!」
鳥坂は、水の中で叫んだ。
一瞬にして、すべて元通りになった。みな立ち上がる。
「裕くん、結構性格悪いのね」
円は腕を組んでむくれる。
「デートの時に、頭のイカれた男に襲われそうになったことを思い出させるなんて」
「でも、あの時は助けてあげただろ?」
「その数か月後には、裕くんとわたしは別れたけどね」
「そういえば、なんで別れたんだっけ?」
「そういうところが嫌いなの」
円は、男とともに背を向けて歩きだした。
「ねえ月地、なんでEOMに入っちゃったの?」
「また今度ね」
円と男は去った。
鳥坂はARフォンを外し、険しい表情で清水を見た。
「なんで防御しなかったんだよ」
「ごめん……」
たとえゲームでも、実際に痛みを感じる闘いを円とすることはできなかった。
「清水が防御してれば勝てたのに。月地は無力化してたし、あの男のほうが声が出てたから押し切られたけど、防御さえしてれば――」
「あの男」
清水は、なにか引っかかるものを感じていた。
「なんか、どっかで見たことある気がするんだけど」
「え?誰?」
「わかんないけど……名前なんていうの?」
「えっと、大場(おおば)美紀彦(みきひこ)、だったかな」
「うーん、なんか聞いたことある気がするんだけど」
「気のせいじゃない?」
鳥坂は不機嫌だった。
「にしても月地がEOMに入っていたとはね。なんか嫌だなあ」
「そうだね」
清水と鳥坂は、仕事帰りの人々が行き交う地上へ上がった。
清水は、鳥坂と別れて家に帰ってから、携帯端末でネットにアクセスし、EOMや月移住計画反対運動について調べた。今まで、自分が月に行くことばかり考えていて、移住に反対する人々のことなどなにも知らなかったのだ。
EOMには、世界各地で大勢の人々が参加していて、月移住計画の永久凍結、月テラフォーミングの中止、有人基地の撤退などを求めて、デモや署名活動、月の尊さを訴える映画や小説の制作、ゲームでのトラベルシーカーとの闘いや、その他さまざまな広報活動などを行っている。著名人の中にも、EOMに参加する者が出始め、トラベルシーカー派か、EOM派かという議論がネット上でも現実世界でも巻き起こっていた。
日本でも、自分はトラベルシーカー派か、EOM派かを表明するのが当たり前となっていた。その中で、著名人のEOM派の代表的存在とされているのが、ベテランロックバンドのセレネだった。セレネのギタリストは、実際に、日本EOMの広報部長を務めているという。
しかし、最近になって、セレネのボーカリストのKOUJIこと幸内雅二(こううちまさじ)が、インタビューで「自分はトラベルシーカー派」と発言したことが話題となっている。
清水は、話題のインタビュー映像を再生した。
『KOUJIさんは、MIKIHIKOさんがEOMの広報部長をされていることについて、どう思われますか?』
一対一でのインタビュー。インタビュアーの質問に、革ジャンを着た男が愛想よく答える。四十歳を超えているらしいが、三十代前半くらいに見える。
『うちのバンドは、個人的なことにはお互い極力干渉しないことにしてるから。でも、正直に言っちゃうと、俺はどちらかというと、トラベルシーカー派なんだよね』
『すみません、わたしは、セレネのメンバーは全員EOM派だと思っていました』
『なんとなくみんなにそう思われてるみたいだけど、そんなことないよ。俺とMIKIHIKO以外のメンバーは、どっちとも決めてないし』
『KOUJIさんは、どうしてトラベルシーカー派なのですか?』
『俺たちは、十代の頃、ボロボロの俺のマンションの屋上で、一緒にバンドを結成して、天下を取ろうって誓ったのね。その日がたまたま満月で、月がすごく綺麗だったから、セレネというバンド名をつけた。それから、バンドのロゴにもグッズにも、月の意匠を取り入れて、月をテーマにした曲も書いた。俺たちメンバーはみんな、月が大好きなんだよ。青春の一番大事な日を象徴するものだからね。その気持ちの方向が、MIKIHIKOと俺とでは、ちょっと違ってるっていうだけなんだ。俺は、月が好きだから、月に行きたいよ。単純に、行ってみたい』
『そのKOUJIさんの気持ちは、MIKIHIKOさんはご存知なんですか?』
『知らないんじゃない?二十年以上も一緒にいると、仕事以外のことはなかなか話さなくなっちゃって』
『もしMIKIHIKOさんがこのインタビューをご覧になったら、喧嘩になりませんか?』
『ならないと思うよ。あいつは温厚だから』
『もし、MIKIHIKOさんにEOMの活動に参加するように言われたら、どうしますか?』
『あいつはそんなことは言わないと思うけど、もし言ったとしたら、俺の考えを伝えて、断るよ』
『たとえ賛同できなくても、MIKIHIKOさんの活動には口を挟まないのですか?』
『もちろん』
『でも、それってちょっと冷たくないですか?』
『そう思う人もいるだろうね。でも、バンドってそういうものなんだと思うよ』
清水は動画の再生をとめた。
「MIKIHIKOって……」
清水は、セレネのギタリストのMIKIHIKOを検索して調べた。プロフィールに記載された本名は、大場美紀彦――
清水は、表示されたMIKIHIKOの画像の鼻から下を指で隠してみた。似ている。円と一緒にいたマスクの男。あれは、セレネのギタリストだったのか。
「へえ。セレネのギタリスト」
数日後、清水と鳥坂は、昼間のファミレスにいた。鳥坂は、スパゲティを口に運びながら、あまり興味のなさそうに、清水の話に相槌をうった。
「やっぱ強かったよね」
鳥坂は、美紀彦が誰かということよりも、戦闘能力のほうに興味があるらしい。
清水は、そのファミレスで一番安いメニューであるドリアをスプーンでかき回していた手をとめる。
「そういえば、あの時ほんとに吹き飛ばされたけど、あれってどういうことなの?イメージとか音とかをARフォンが脳に送るのはわかるけど、風を起こすことはできないはずだよね」
「ああ、あれ、実際は自分で飛んだんだよ」
「自分で飛んだ?」
「自分で後ろにジャンプして、吹き飛ばされたみたいになったんだよ。ARフォンが生み出す思い込みの力」
「全然そんな感じしなかったけど」
「しなくても、そうなんだよ。それ以外あり得ないだろ」
鳥坂は笑った。
「へえ……なんか恐ろしい」
「あいつの声が相当強いってことだよ。あんなの初めてだった。月地は強くなかったけど」
「あのさ、円は広報部長の美紀彦と一緒にいたんだから、かなりEOMの中枢に近いってことになるんじゃないかな」
清水は今日それを話したかったのだ。
「月地に電話してみようか」
鳥坂は気軽に言う。
「え、電話番号知ってんの?」
「知らなかったんだけど、向こうがこっちの連絡先消してなかったみたいで、あの闘いのあと、電話かかってきた。俺、高校の時から電話番号変えてなかったから」
「へえ……で、なんて言ってたの?」
「トラベルシーカーなんかやめて、EOMに入れって言われた。冗談じゃないけど」
「そっか……やっぱり円は完全にEOMなんだね」
「思い出したんだけど、高校の時、月が好きだって言ってたよ。一緒に展望台みたいなところに行ったことがあって、そこで月を見ながら、なんかそんなこと言ってたなあと思って」
「そうなんだ」
清水は軽い胸の痛みを覚えた。
「とにかく、電話してみよう」
鳥坂は携帯端末を取り出してプッシュした。
三十分後、清水と鳥坂の前には、円がいた。今日はチョーカーをつけておらず、青いワンピースを着ている。
清水にとっては予想外の事態だった。交通機関の発達により、日本の端から端まで数時間で移動できる時代だからといっても、円が急な呼びつけに応じてくれるとは思わなかったのだ。
「裕くんと高史はね、月の素晴らしさがわかってないんだよ」
円は熱弁した。
「わたしの名前、月っていう字が入ってるでしょ。小さい頃、お母さんに、月地の月は空の月だよって教えられてから、月の本を図書館から借りてきて読んだりしてた。わたしは、裕くんと高史よりも、ずっと月のことをよく知ってるの」
「知ってるとか知ってないの問題じゃなくてさあ」
鳥坂は頬杖をついている。
「月に行けるなら行くのが人間のあるべき姿なんだよ。可能性を摘み取ったら、事故とか意見の衝突とか悪いことも起きないかもしれないけど、発展もないんだ」
「よく考えてみて。月は、太古から空にあって、目の見える人すべてが月を眺めて生きてきたんだよ。それってすごいと思わない?月の上には、今まで生きてきた人々の視線が集まってるの。そんな存在は唯一無二なんだよ。太陽は眩しすぎるし」
「やっぱ月地ってロマンチストだよね」
「芸術的思考を持ってるって言って。わたし、大学で芸術体系を研究してるの。少しでも芸術がわかる人なら、月という自然の芸術品を改造したり、住みついて荒らしたりしたいとは思わないと思うけどな」
「確かに、なんにもない月のほうが綺麗だとは思うよ。今の月は、グリーンバブルとかウォーターバブルとか呼ばれる環境改造ドームが一部に展開されて、まだら模様になっちゃってるし」
「そうだよ。わたしたちが子供の頃に空にあった真っ白な月は、テラフォーミングで汚されちゃったの。人間って、美意識が足りないんだよねえ。灰色のビル群なんて、美しさのかけらもないし」
「月も人間の手が入ると汚くなると。でも、それは仕方なくない?」
「仕方なくない?ってそんなことないよ。今からでも、環境改造ドームを回収しちゃえばいいんだよ」
「あれにはすでに莫大な金がかかってんだよ?いろんな国が協力して今までやってきてんのに」
「月はそのままにしておくべきなの」
「そう簡単に言ってもな」
「やっぱり裕くんも美意識が足りないんだから。芸術だってわからないでしょ」
「俺は理系だけど、一応音楽の研究してるんだけどね」
「どんな研究?」
「植物の生育を促す音楽の研究。植物に音楽を聴かせるんだ」
「へえ、すごい。どうやって聴かせるの?」
「よかったら、研究室に来る?」
「行きたい!今から行こうよ」
「いいよ。清水も来るよな」
「それはいいけど」
清水は暗い顔をしていた。
「あのさ、円、俺たちと一緒にいて大丈夫?」
「え?」
円は目を丸くする。
「円と一緒に闘ってた人、セレネのギタリストの大場美紀彦なんだろ?EOMの中枢にいる人と知り合いなのに、俺たちトラベルシーカーと一緒にいることがEOMの人に知られたら、まずくない?」
「わたし、スパイしに裕くんと高史と会ってるんじゃないよ」
「そういう意味じゃなくて」
「なるほど。そういう心配もあるか」
鳥坂は腕を組む。
「大丈夫だよ。てか、よく美紀彦さんに気付いたね。高史、もしかして、セレネのファン?」
「いや、違う」
「なんだ、残念。わたしはファンだよ。セレネのTシャツを着て、EOMの集会に通ってたら、美紀彦さんを紹介してもらえたの。めっちゃ感激だったあ」
「てか、有名なミュージシャンなんだろ?リアルウォリアーみたいなストリート系のゲームやるなんて、意外」
「裕くん、音楽の研究してるのに、セレネのことよく知らないの?美紀彦さんは、EOMの活動に参加するからには、できる限りのことをしたいって考えてるんだよ。美紀彦さんは優しいし、みんな美紀彦さんのことを慕ってる。だから、セレネのファンで、美紀彦さんとペアも組ませてもらってるわたしがトラベルシーカーの元同級生と会ってたからって、責めるような人はいないよ」
「それなら、俺の研究室に来ても大丈夫かな」
「大丈夫だよ。三人で行こう」
「じゃあ、行くか」
鳥坂は嬉しそうに言って、立ち上がる。
清水は不安を振り払い、二人に続いてファミレスを出た。
鳥坂の研究室は、大学の中の小部屋と言うべき狭い部屋だった。部屋中に植物が繁茂し、葉をかき分けるようにしなければ移動できない。ドアの向かいの壁は破壊されていて、直接ベランダとつながっている。
「窓が小さかったから、壁を壊してよく日光が入るようにしたんだ。自費でガラス張りにすることを条件に事後承諾されたんだけど、なかなか貯金が貯まらないから、しばらくこのままになりそうだよ」
清水は、鳥坂の行動力に恐れ入った。
「すごい植物だね。一度にこの全部の植物に音楽を聴かせるの?」
円は興味津々な様子だった。
「それも研究の途中なんだ。葉をイヤホンで挟んだり、イヤホンを土に埋めて音楽を流したりもしたけど、やっぱり空気を通して聴かせるのが一番なのかなと考えてる」
「音楽って本来そういうものだもんね」
「だから今は、ずっとこの部屋の真ん中で演奏して、どんな曲が効果的なのかデータを取ってるとこなんだ」
鳥坂は、植物に埋もれた部屋の隅から、アコースティックギターを取り出した。
「どのコードがどの植物に効果的なのか調べようと思って。今はとりあえず、基本的なダイアトニックコードを試してる」
鳥坂は調弦をすると、ギターを弾きながら、らららーと歌い出した。
普段、鳥坂はずっと、一人で植物の真ん中で弾き語りをしているのだろうか。
「まあ、こんな感じで。音楽の効果で植物を生長させる技術を月の環境でも試せないかなって考えてる」
「ねえ、思いついた」
円は手を打つ。
「これ、芸術にできるよ」
「芸術?」
「植物を遺伝子組み換えして、それぞれのコードに反応して、急速に生長する植物を造っちゃうの。例えば、Gはつる草とか、Aは薔薇とか。それで、いろんな植物の真ん中で演奏すると、ばあっと一気に植物が生長するの。演奏が終わった時に植物がどうなるかをちゃんと計算して、この曲にこの植物をどう配置してとか決めて……花道と音楽が融合した、新たな動的芸術!」
「おお、すごいよ、それ!もしそれが完成すれば、芸術家枠で月に行けるかも!」
「そうだよ!……って、わたしEOMだった。だめだめ、月に行くのは」
清水にはついていけないタイプの話題になってしまった。
悔しいが、鳥坂と円は気が合うし、お似合いだと思う。清水の幼なじみの円は、高校で鳥坂と出会い、付き合い始めたが、一年未満で別れたらしい。なぜ別れたのだろう。
「清水は、芸術家枠で月に行こうとしてるんだよな」
鳥坂が言った。
「そうなの?やっぱり小説?」
「詩だよ」
清水は頬が熱くなるのを感じた。
「高史、昔から詩とか小説が好きだったよね。高史の詩、読んでみたい!今度読ませて」
「う、うん」
清水は、円がEOMになっても、以前と同じように接してくれるのが嬉しかった。
EOMとトラベルシーカーの対立なんて、想像よりたいしたものではなかったのかもしれない。
3章
清水と円が同じ高校に入ったのは、ほとんど偶然だった。
同じ中学からその高校へ入る同級生もかなり多かったから、不思議なことではなかった。幼稚園から高校まで同じところへ通うことになり、円は、「腐れ縁だね」と笑った。
中学の頃、円には浮いた話がまったくなかった。清水とよく話したり、一緒に帰ったりしていたので、ほかの男子たちが勝手に誤解して、近付いてこなかったのかもしれない。
清水は、中学の頃、それで満足していた。変化が起こるということを、考えないようにしていた。
高校へ入学し、清水と円は別々のクラスになった。それでも、廊下や通学路で顔を合わせれば、軽く言葉を交わすような関係は続いていた。
高校一年目の夏休みのあと、円と、名前の知らない男子が一緒に帰るところを見かけた。それが鳥坂だった。
同じ頃、清水と円が幼なじみであることを知っている円の友達が、訊いてもいないのに教えてくれた。円が、同じクラスの鳥坂にアタックして、付き合い始めた、と。
円はなにも言わなかった。清水もなにも言わなかった。
高校二年に進級する時、クラス替えが行われた。文理選択が行われたこともあり、清水と円は同じクラスになり、鳥坂は別のクラスになった。
清水は、円がほかの男と付き合い始めたことで、落ち込みはしたが、ショックは受けなかった。自然と起こる当然のことだと自分に言い聞かせた。むしろ、円と同じクラスになったことを苦々しく思った。清水は高校で、すっかり地味なポジションを築いていたので、同じクラスで冴えない地位をさらすのが嫌だったのだ。もちろん、そんな葛藤が独り相撲であることはわかっていたが。
鳥坂は、週三日の理科研究会に入っていたが、それがない時には、律義に放課後の教室に円を迎えに来た。
その時、円は、帰り支度をする清水のところへやってきて、「一緒に帰ろう」と言ったのだった。
清水は、わけがわからないまま、円と鳥坂と三人で一緒に帰った。ゲームセンターや、大型中古書店などに寄ったり、買い食いをしたりもした。鳥坂は、いきなり親しい友人であるかのように接してきたし、円は、清水からすると違和感の著しいその状況も当たり前のような顔をしていた。
清水は、付き合っているなら二人きりで遊べばいいのに、と思った。なぜ、恋人プラス一人の男女三人が、友人三人のようなふりをしなければいけないのか、理解不能だった。
誰も、重要なことはなにも言わなかった。
清水が回想にふけっていると、携帯端末がバイブした。画面に鳥坂の名前が表示されている。
清水は電話に出た。
「セレネの幸内雅二と大場美紀彦が、暴力沙汰を起こしたって」
前置きもなく鳥坂は言う。
「暴力沙汰?」
現実に引き戻された清水は、眉をひそめる。
「要するに、喧嘩。アルバムのレコーディングの途中に口論になったって。警察を呼ぶ騒ぎになったんだけど、アルバムは予定通り作って出すらしいよ」
「で、それが?」
「月地が電話してきてさ。怪我してるのに、美紀彦が今日もリアルウォリアーに出るって言ってて、とめたんだけど聞いてくれないって、月地、動揺してる感じだった」
「円と大場美紀彦は今どこにいるの?」
「月地はわからないけど、美紀彦はあの通路に、別のEOMのメンバーと一緒に向かったらしい。清水、今から行こう」
「行ってどうするの?」
「闘うんだよ。決まってんじゃん」
「でも、怪我してるんでしょ?」
「相当な決意を持ってる相手と闘いたいじゃん」
「でも、俺、役に立たないし、また負けるかも」
「だから?」
「う、うん……」
清水と鳥坂は、急いで地下通路へ向かった。
通路を進むと、黒いチョーカーをした二人の男と行きあった。一人は、初めて見る大学生風の男。もう一人は、マスクとニット帽の大場美紀彦だった。ニット帽から、包帯がのぞいている。
「よし、間に合ったな」
鳥坂はつぶやき、進み出た。
「大場さん、怪我、大丈夫ですか?」
美紀彦は、鳥坂を見たが、なにも言わなかった。
「もし大丈夫なら、闘ってもらいたいんですけど」
「戦闘開始」
美紀彦が言った。
「戦闘開始」
鳥坂が応える。
「臨兵闘者皆陣列前行!」
美紀彦が叫ぶ。
「うわっ」
鳥坂が嫌そうな声を出した。
「斬!」
美紀彦が、刀を抜くような仕草をする。
「うっ」
鳥坂が、胸を押さえて膝をついた。
「な、なに?」
清水にはなにがなんだかわからない。
「清水、大丈夫か!?」
鳥坂は苦しそうに地面に手をつきながら清水を見る。
「俺はなんともないけど、鳥坂こそ大丈夫?」
「なんともない?お前文系だろ。九字くらい知っとけよ」
「なにそれ」
「呪文みたいなもん。あー俺も知らなきゃよかった」
「無知なる者に重力のくさびを!」
美紀彦の声で突然体が重くなり、清水は地面に倒れた。
「清水、防御しろ」
「ご、ごめん」
「とどめだ。二匹の弱者に剣が――」
「アキレス腱、切れろ!」
鳥坂の声で、相手の若い男が悲鳴を上げて倒れた。
「とっさのいい加減な言葉じゃ美紀彦はだめだ」
鳥坂は、汗を浮かべて立ち上がる。
「頭に包帯なんて、ずいぶん派手にやったんですね、大場さん」
「烈風!」
美紀彦は鳥坂の言葉を無視して攻撃してくる。鳥坂は防御する。
「壁!風を跳ね返し倒壊して押しつぶせ!」
「重力は発散する!飛散するコンクリート片が押し寄せる!」
「千本の剣、コンクリートを砂にして巻き起こす嵐!」
「水と砂が混じり合う濁流!」
「堰き止める竜の巨体が噴く炎!」
「逆流する空気、炎を乗せる!」
「命を持つ炎、地に落ちて這い戻れ!」
「氷の雨よ、火と肉体を突き刺せ!」
「巨大蝙蝠、雨を打ち砕き鉤爪をふるう!」
さまざまなイメージが炸裂しては別のイメージに打ち消される。攻撃と防御が混じり合った言葉が拮抗し、このままでは勝負がつきそうにない。いや、先にダメージを受けている鳥坂のほうが、やがて声の力か思考の回転の速さを失くして負けるだろう。
「やめろ美紀彦!」
清水は叫んだ。
一瞬、美紀彦に隙ができた。
「頭の傷は痛みますか大場さん」
鳥坂は言った。
「痛いでしょう、仲間につけられた傷は。疼く疼く……」
「傷があるのはそっちだ、少年。額が割れてるぞ」
鳥坂は額を押さえた。うめいて再び膝をつく。立ち上がることができない。
美紀彦は笑い出した。
「俺は怪我なんかしてないんだよ。包帯はフェイクだ」
「ううっ、騙された」
「炎よ、少年二人を焼き焦がせ!」
地面から炎が噴き出した。
「水流、火を舐めろ」
鳥坂の声は弱々しく、美紀彦の言葉が生みだしたイメージを消すことはできなかった。
炎の向こうに、二人を見下ろす美紀彦が見えた。
清水は、地面にへばりついて熱さに耐えながら、鳥坂にささやく。
「鳥坂……もし、このままコールしなかったら、どうなる?」
「安全装置が……作動する、はず……強制停止、になるかも」
鳥坂の頬に汗が流れた。
「俺、こいつには負けたくない」
清水は、地面から体を引きはがすように、炎の中に立ち上がった。
「早くコールしろ」
美紀彦は苛立った声で言うと、ARフォンを外した。その瞬間、炎も熱さも、文字通り嘘のように消えた。
清水は美紀彦の前に立つと、口を開いた。
「服従しろ!!」
清水の声の残響。それから静けさが広がる。
「は、はあ?」
美紀彦は眉を寄せた。
「清水、もう終わってるよ」
鳥坂はふてくされた顔で立ち上がる。
「鳥坂、大丈夫?」
「大丈夫もなにも、戦闘が終わったら痛みとか温度とか全部消えるし。ARフォンを外したら強制終了なんだよ」
美紀彦は背を向けて歩き出す。
「美紀彦さん、なにもできなくてすみません。でも、すごかったです」
ペアの男がくっついていく。
「美紀彦さん」
清水は思わず数歩追いかけていた。
「もう一度勝負してもらえませんか?」
美紀彦は振り向く。
「なんで?」
清水は一瞬言葉に詰まる。
「お願いします」
美紀彦は背を向けた。
「どうしてもだめですか?」
「これからレコーディングだから」
「セレネのアルバムの、ですか?」
「そうだよ」
「KOUJIさんと会うんですか?」
「そうだよ」
「喧嘩したんですよね?」
「そうだよ」
「それで、一緒に音楽作れるんですか?」
「音楽のことで喧嘩したわけじゃないから」
美紀彦と連れの男は去った。美紀彦は、少し足を引きずっているように見えた。
「なに勝手に再戦要求してんだよ」
鳥坂は清水をはたく。
「ごめん」
「するなら俺が要求するよ」
「ごめん」
清水はわずかに苦笑した。
「どういうことだよ」
鳥坂は不機嫌な顔で、携帯端末で通話をしていた。闘いのあと、喫茶店に入り、円に電話をかけたのだ。
「美紀彦、怪我してなかったぞ。嘘ついて美紀彦と俺と清水を闘わせようとしたのか?」
鳥坂は、「え?でも、いや、もういい」などと言ってから、通話を切った。
「月地、怪我してたはずだ、ってシラ切ってさ。やっぱりEOMの回し者なんだな」
「いや、美紀彦は怪我してたと思うよ」
清水は軽く身を乗り出す。
「足引きずってたし」
「頭じゃなくて足を怪我してたってこと?」
「円は嘘ついてないと思うよ。そもそも、俺たちと美紀彦を闘わせて、円になんか得があるの?」
「あるよ。今日は強制終了だったから点数は移動しなかったけど、戦闘終了のコールで終了した場合に移動する点数は、プレーヤーのレベルによって変わってくるんだ。高いレベルのプレーヤーが高い点数を稼ぐには、俺みたいな高いレベルの相手に勝つのが効果的だから、美紀彦本人や月地がそれを望んでも不思議じゃない」
「もしそれが本当なら……点数を稼ぐためにまた闘ったのに、強制終了でそれをふいにしたってこと?」
「そういうことになるね」
「俺たちが戦闘終了をコールしなかったから、強制終了したんだよね」
「炎に飲まれる俺たちに同情したんじゃない?」
「くそっ」
清水は思わず拳を握る。
「い、いや、円は嘘をついたわけじゃないと思うし、今日闘うことになったのはたまたまかもしれないし、でも、同情されたのは確実っぽいし……」
「清水ってさ、月地のこと好きなんだろ?」
「はあ!?」
清水は目を丸くする。
「い、いや、そんなことないよ……」
「高校の時から知ってたよ。清水、わかりやすいもんな」
「な、なんでいきなりそんなこと言うの」
「月地が好きだから、嘘ついてないって月地のことかばったり、美紀彦に負けたくないって言ったり、そんなに悔しがったりしてるんでしょ?美紀彦に嫉妬してんの?」
「し、してないよ」
「清水が豹変したからびっくりしたよ」
「豹変?」
「『服従しろ!!』ってさ。あんなこと言ったやつ見たの初めてだよ。終わったあとだったから間抜けだったけど、美紀彦がARフォンつけたままだったらどうなってたか気になるな。いい感じの声だったよ」
「……きっとどうにもならなかったよ」
「いや、わかんないよ。意外と効果的だったりして」
沈黙が流れた。
「俺のこと嫌いなんだろ?」
鳥坂は言う。
「はあ!?そ、そんなことないよ」
清水は目を逸らした。
「それも高校の時からわかってたんだよね。月地と付き合ってたから、今でも嫌いなんだろ」
「嫌いじゃないよ」
清水は声を鋭くした。
「じゃあ、俺のこと好きなの?」
「気持ち悪い言い方するなって」
「やっぱり嫌いなんだ」
「人の気持ちは、好きか嫌いかだけじゃない」
「おお、ちょっと詩人ぽいセリフ」
「どこが」
鳥坂は楽しそうに笑った。清水は渋い顔をする。
ビルの立ち並ぶ窓の外は、すっかり暗くなっていた。
4章
「鳥坂と清水って呼び合ってたわね。あんたたちが、美紀彦様に強制終了させた馬鹿二人」
通路の向こうから歩いてきた女は言った。
「美紀彦様に無礼な真似をしたやつは、叩きのめしてやるわ」
もう一人の女は言う。
黒いチョーカーをした高校生くらいの二人の女は、瓜二つだった。双子だ。
「なんか俺たち、有名人になってる?」
鳥坂は面白そうに言う。
「鳥坂裕と清水高史」
「円さんの同級生」
双子は二人続けて言う。
「月地の知り合い?」
「この前、円さんを無理に呼び出したんでしょ?」
「もう円さんに近寄らないで」
「人聞き悪いな。月地が自分から来たんだよ」
「嘘。円さんがトラベルシーカーと自分から会うはずない」
「円さんになにをしたの」
「なにもしてないよ。元カノと会ってなんか問題ある?」
「元カノ?」
双子は声をそろえる。
「俺は月地の元彼で、こいつは月地の幼なじみなの。トラベルシーカーとEOM以前のつながりがあんの。あんたたちの崇拝する美紀彦様も、トラベルシーカーと一緒にバンドやってるじゃん」
「美紀彦様とセレネは特別なの」
「KOUJIさんもきっとわかってくれるわ」
「ちょっとその理屈は理解できないかも」
「理解できない者同士、闘いましょう」
「その前に、二人の名前、まだ聞いてないんだけど。そっちはこっちの名前を知ってるのに、そっちが名乗らないのは不公平だよ?」
「わたしは里(さと)李(り)」
「わたしは美(み)織(おり)。戦闘開始!」
「戦闘開始」
鳥坂は応えた。
「高速ドリル、行け!」
「粉砕。里李、足挫いてるぞ」
鳥坂は防御し、ドリルを向けてきた美織ではない里李のほうをひざまずかせた。
「叩きつける火の玉!」
「美織、服が裂けてるぞ」
「そういうデザインなのよ!」
美織、鳥坂がほぼ同時に言い、里李がひざまずいたまま言った。
結果、清水と鳥坂は火に包まれ、美織の服が奇抜なデザインになった。
「水」
鳥坂の一言で熱さは消えたが、清水と鳥坂だけがダメージを受けてしまった。
「やっぱり向こうは役割分担してる。清水、防御頼む」
「いや、俺が攻撃する」
なんだか、すごく負けたくない。鳥坂なら、完璧に防御してくれるだろう。
「わかった」
清水の言葉に、鳥坂はすぐにうなずいた。
「火、燃えろ」
清水の言葉で、双子と鳥坂清水ペアの間の地面に、ちろちろと火が燃えた。
「声ちっさい。それにもっと指向性持たせて」
鳥坂が横で言う。
「し、指向性?」
「とにかく大声出せ」
美織が攻撃してくる。
「白虎、無礼者二人を切り裂け!」
「白虎とは可愛い子猫ちゃんのことだな」
鳥坂の防御で、巨大な虎は小さな白猫になった。
「美織、鳥坂裕のことはひとまず無視よ」
里李が美織に言った。
「清水高史、卵を喉に詰まらせろ!」
美織の言葉で、清水は息ができなくなった。
「清水、口に掃除機を突っ込んでやる」
鳥坂の言葉で、息ができるようになった。清水は限りなく情けない気持ちになる。
「鳥坂裕、なんで清水高史と組んでるの?単なる足手まといじゃない」
「同級生だから?友達ごっこってわけ」
美織と里李が言う。
「ひどい言い方だねえ」
鳥坂の声は軽く苛ついていた。
「円さんのことも仲間だと思ってるわけ?」
「円さんはいずれ副広報部長になるわ。あんたたちなんかにもう会うはずないから」
「へえ」
「円さんの元彼だかなんだか知らないけど、あんたみたいなキザったらしい態度の青白男は、円さんにも美紀彦様にも近づけさせないから」
「それとその腰巾着もね」
鳥坂が口を開いてなにか言おうとしたが、その前に清水が叫んだ。
「黙れ!」
一瞬、沈黙が流れる。
「馬鹿にするなら攻撃しろ!攻撃しないならなにも言うな!こっちも攻撃をやめるから」
双子は、清水のあまりの大声に目を見張り、動くこともできない。
「鳥坂が最初から手加減してるのがわからないのか?鳥坂は圧倒的優位にある。もう勝負はついてるんだよ」
「そ、そんなはずは」
「手加減じゃなければ、足挫くとか服裂けるとか言うわけないだろ。すぐに串刺しにしたり、焼いたり煮たりできるのに」
「わたしたちを馬鹿にしてるの?」
「違う。実力差があるという事実を言ってるだけだ。きみたちは勝てない」
「わたしたちは、まだやれる」
「きみたちの負けだ!!」
双子はまばたきをとめた。鳥坂は前に出る。
「大丈夫だよ。俺たちはもうなにもしないから。はい、なんか言うことあるよね?」
鳥坂のわざとらしい猫なで声に、双子は肩を落として同時に言った。
「戦闘終了」
その瞬間、双子は顔を上げた。
「え?わたしたち」
「わたしたち負けたの?」
「はい、そうです。ありがとうございました」
鳥坂はお辞儀をした。
「新しい勝ち方だったよ」
戦闘後のファストフード店で、鳥坂は言った。
「清水の声にはやっぱり力があるんだよねえ。『きみたちの負けだ!!』って」
「それで毎回勝てたら苦労しないよ」
清水は、生活費が逼迫しているにもかかわらず、見栄を張って頼んだコーラのストローをくわえる。
「だよね。にしても、美紀彦様美紀彦様って、なんなんだろね」
「そうだよね……」
円も美紀彦のファンなのだろうし。
「確かに美形ではある」
鳥坂は、携帯端末で美紀彦の画像を表示して見せた。
「ギタリストとしても高く評価されてるらしいし、独身ってことになってるけど、実は結婚を隠しているという噂もあり、プライベートが見えないのもまた魅力の一つで――って」
携帯端末をいじっていた鳥坂は、手をとめた。
「セレネが今月、アルバム出すって」
「完成したんだ」
「ボーカルとギターが大喧嘩した中で、どんな雰囲気で作ったんだろうね」
「話し合わなくても作れるのかな」
「でも、大規模なツアーも決定してるよ。ライブだと顔合わせないわけにはいかないし」
「仲直りしたのかな」
「さあね。きっと喧嘩の原因は月のことだろ?思想の違いが簡単に乗り越えられるかねえ」
「でもさ、仲悪いバンドっていうのも、珍しくないらしいよね」
「そんなもんかね」
鳥坂は携帯端末を置く。数秒の沈黙。
「……円はもう、俺たちとは会わないのかな」
「電話してみる?」
鳥坂は再び携帯端末を手に取る。
「いや、いいよ」
「あの双子が言ってたことなんてでたらめだと思うけど、不安なんだろ?不安は解消しないと」
「でも」
鳥坂はすでに通話を開始していた。
翌日、清水と鳥坂と円はファミレスにいた。円は、二人に見せたいものがあるという。
「これ」
円は、携帯端末を見せる。
「セレネのライブの電子チケット?」
鳥坂が円の携帯端末を覗き込んで言った。
「三人分、ファンクラブ先行で取ったの。一緒に行こうよ」
清水は、笑顔の円を戸惑いながら見る。
「な、なんで?」
「なんでって、一緒に行きたいからだよ。セレネのライブはすごいんだよ。きっと気に入ると思う」
「布教活動か」
鳥坂は背もたれに体を預ける。
「てかさ、月地はほんとに美紀彦と俺たちを闘わせようとしたわけじゃないわけ?」
「うーん、実は闘ってほしかったんだけどね。勝てば美紀彦さんの点数が増えるじゃん」
円は、しれっと鳥坂に答えた。
「お前なあ」
「でも、強制終了だったんなら、お互い意味なかったね」
「美紀彦の味方なのに、俺たちと会ってていいの?」
「そうだよ。円、ほんとに大丈夫なの?なんか、EOMの副広報部長になるとか……」
「あ、知ってるの?なるかどうかわかんないよ。まだ全然決まってないし」
「この前、里李と美織とかいう双子が、月地のこと円さんとか言って、俺たちと自分から会うはずがないとかなんとか言ってたよ」
「ああ、あの二人ね。闘ったんだ。いい子たちだよ。ちょっと狂信的だけど」
「俺たちと仲良くしてると、がっかりさせるぞ」
「裕くんと高史はわたしの敵じゃないもん。トラベルシーカーだから敵って、簡単に割り切れないよ」
「まあ、闘ったけどね」
「ゲームの上ではね。でも、ゲームじゃないところで闘いたくないよ。裕くん、説得してEOMに引き込もうとしたけど、無理そうだし」
「もう諦めたわけ」
「EOMへの勧誘は諦めた。高史だけ寝返ってもらっても後味悪いし」
「清水は説得できる前提かよ」
「いいよ、二人はトラベルシーカーで。でも、セレネファンへの勧誘は続けるよ。ファンが増えてくれると嬉しいもん」
「そういえば、セレネのボーカルとギターは、主張が違うせいで喧嘩したんだろ?ファンはどう思ってんの?」
鳥坂の言葉に、円は軽く眉を寄せる。
「そうなんだよね……ファンの間でも、結構揺れてるかも。KOUJIさんの味方か、美紀彦さんの味方か、って」
「未解決か」
「うん。予定通りアルバム出すし、ツアーもするんだし、大丈夫なんだとは思うけどね。二人の間のことをファンが心配してもどうしようもないし」
「なんかもやもやするよなあ」
「裕くんもそう思う?」
清水は、二人の会話に入っていけないので、居心地が悪くなってきた。
「ごめん、俺、もう帰るよ」
清水はぎこちなく笑った。
「え、なんか用事?」
「うん、思い出した」
鳥坂にうなずき、そそくさと立ち上がる。
「ライブの日、予定空けといてよ」
円の声に手をあげ、清水は二人を残して店を出た。
時々はそうやって逃げてもいいじゃないか、と思う。でも、いつも逃げてきたじゃないか、と自分の声が言う。
清水には、自分で取り柄だと思えるところがなにもなかった。それも仕方がないと思う。誰もが魅力的でいられるわけじゃない。
詩や小説があれば、その中に没頭して、現実世界との接続を切れる気がした。清水はそれでよかった。面倒なことからはテキトーに身をかわし、詩や小説の中に逃げていれば、それでいい。そう思っていた。
しかし、高校の時、揺れる心を抱えた清水は思ってしまった。本を読んでいるなんてダサいんじゃないか、と。
誰とも話さず、休み時間も小説を読んでいる自分が、ひどく惨めに思えた。みんなに馬鹿にされている気がした。それでも、ほかにどうすることもできないから、冷や汗をかきながらも読み続けた。
高校を卒業し、誰も清水のことを知らない世界へ飛び込んだ。文学を学びたいと思い、頑張って勉強して入った大学だった。
しかし、そこでも、一度芽生えた劣等感は拭えなかった。周りの学生みんなが輝いて見えた。みんな余裕でここに合格し、これからの学生生活を謳歌しようという活力に満ち溢れているように、清水の目には映った。
清水だって、ほかの学生となにも変わらないはずだった。それなのに、自分は場違いなのではないかという圧倒的違和感を抱えていた。それでも清水は、なんとか溶け込もうと地味に奮闘した。努力の結果、友人らしき人物も何人かできた。清水は、表面を繕いつつ、毎日を過ごしていた。
同じ頃、月移住のことをたまたま耳にした。移住計画のことは知っていたが、ついにそれが現実のものになるのだという実感が初めて湧いた。
清水は猛烈に、行きたい、と思った。
そして気付いてしまったのだ。今、自分はなんのためになにをやっているのか、まったくわかっていないのだと。友人たちとうまくやっていくことばかりを考えながら大学に通い続け、社員にいじめられつつも、我慢して焼肉屋のアルバイトに出勤し続けていた。やりたかったはずの勉強はおろそかになっていた。
急に、すべてがアホらしく思えてしまった。そして清水は、月へ行くことを決めた。
ついに、月への一般第一移住者の公募が始まった。
清水は、部屋で一人、携帯端末で国連の応募者向けのウェブサイトを開いて睨みつけていた。
応募するには、自らの技能を証明する資料を添付しなければならない。清水は、数編の詩を添付して応募するつもりだった。
清水は携帯端末を切り、乱暴にノートを開いた。まだ応募できるような詩は書けていない。でも、焦ることはない。応募期間は半年間あるのだ。今から頑張れば、十分間に合う。
言葉の神よ、降臨しろ。
清水はシャープペンシルの芯の先に念じた。
『かすかに震えるペン先、それは手が震えているからで、手の震えは筋肉の緊張により引き起こされ、要するに脳が筋肉に必要以上の力を送っているわけで、言葉の神の信号を受信するはずの脳は余計な力と余計な思考に汚染されて隙間なくびっちりと無駄なもの、無意味なもの、ゴミたちが頭の中にびっちり――』
清水はシャープペンシルを放り出した。
『天井には線が走っている。壁紙が貼り合わされた線だ。気持ち悪い。あんなところにあんな真っ直ぐな線が入らなくてもいいじゃないか。それは壁と垂直に交わるところでふっつりと途切れ、まるでなかったかのように、別の次元と交わるように消えて――』
清水は頭の側面を叩いた。
「うるさいうるさい」
頭の中の文章よ、黙ってくれ。
その時、携帯端末がバイブした。清水は表示された名前を見て、電話を取る。
「なに?」
不機嫌さがにじみ出てしまった声も、鳥坂は意に介さなかった。
「アメリカのEOMが月移住関連施設にサイバー攻撃をかけた」
「サイバー攻撃?」
「EOMはついに違法行為に手を染めてまで月移住を阻止しにきたんだよ。日本のEOMもそれに呼応して、デモをやるらしいんだけど、そのデモにトラベルシーカーも反対勢力として参加しようとしてるらしい」
「それってちょっとやばくない?」
「月地が言うには、美紀彦はそのデモには反対らしい。月地も参加しないらしいけど、俺は行ってみようかと思う」
「ええ?危ないことに巻き込まれるかもよ」
「でも、一人のトラベルシーカーとして、ちゃんと見ておきたいんだよ。EOMとトラベルシーカーの熱というか」
「それって、いつ?」
「明日」
「明日?」
「清水も行く?」
「うん……なんか気になるから、行くよ」
清水はため息をついた。
国会議事堂前には、プラカードを掲げたデモ隊が集まっていた。みな黒いチョーカーをしている。そしてそれを睨みつける周囲の人々。
「日本政府には月移住をどうこうする権限なんてないんだけどな」
鳥坂は街路樹に寄りかかって辺りを見渡しながらつぶやく。
「黒いチョーカーをしてない人たちが、トラベルシーカーってこと?」
清水は、できればもう少し離れたところから見ていたいと思いながら言う。
「そうだろうね。EOMと比べたら少ないなあ。まとまりないし」
「トラベルシーカーにはリーダーはいないんだよね?鳥坂がなれば」
「冗談言うな。トラベルシーカーは、移住権を争うライバルなんだぞ」
「じゃあ、俺もライバル?」
「自分と志望校の同じ友人を敵とみなすか、そのまま友人とみなすかは、個人の自由だ」
EOMのデモ隊は、通りを歩きながら声を上げる。
「月移住、反対!」
「月を汚すな!」
「月テラフォーミング、反対!」
あまり声がそろっていない。
「通行の邪魔だ!」
EOMの列に乱入した男がいた。
「移住の権利を侵害するな!」
「わたしたちは平和的なデモを――」
「なにが月は神聖なる存在だ。人類の発展を阻害しやがって――」
「そうだそうだ」
EOMとトラベルシーカーが入り乱れ始めた。
「ああ、これじゃあトラベルシーカーのほうが馬鹿みたいだ」
鳥坂があきれた声を出した時、バトルシーンっぽい音楽が流れ始めた。
清水と鳥坂が振り向くと、EOMの進もうとしていた道の先に、二人の若い男が数メートルの距離を置いて向き合っていた。その二人の周囲には、ぼんやりとした薄い緑色のもやのようなものが広がっている。
人々はその二人の周囲に集まり始めた。EOMもトラベルシーカーも、目を見張っている。
「戦闘開始」
「戦闘開始」
二人の男は言った。
「炎よ、燃えろ!」
「押し流す水流!」
もやの中に、炎と水がほとばしった。
「リアルウォリアー?」
清水は目をしばたたく。
「そんな、ARフォンをつけてない人間にあれが見えるはずが――」
鳥坂は人を押しのけて前に出た。
「ちょ、鳥坂――」
清水は鳥坂についていく。
「ん、なんだあれ」
ざわめく人々の間で、鳥坂は戦闘中の男二人の中間辺りの地面を指差す。そこには、ひざ下くらいの高さの黒い三角コーンのようなものが置かれていた。その物体からもやのようなものが出ているようだ。
「そうか、あれがARフォンと同期して、空中にARフォンのイメージを投影してるのか」
「虎の開いた口の中に光る牙!」
「振りおろす青竜の鉤爪!」
虎と竜がそれぞれ相手の男に襲いかかろうとした時、二人は同時に叫んだ。
「戦闘終了!」
緑色のもやは消え、リアルな虎と竜のイメージも消えた。
男二人は、ARフォンを外し、人々に向き直った。
「驚かせして申し訳ありません。わたしたちは、アニマダストというゲーム会社の者です」
「リアルウォリアーを開発した会社だ」
鳥坂がつぶやく。
「自らの意思を表明するのは大変結構ですが、暴力的争いはいけません」
「争いはゲームの中だけということにしませんか」
「私どもは近々、リアルウォリアー専用の室内競技場をオープンいたします。そこで、EOMとトラベルシーカーの皆様をお待ちしております」
二人の男は、黒い三角コーンを回収し、立ち去ろうとした。
「すみません」
鳥坂は前に出た。
「その三角のやつ、ARフォンと同期してるんですか?誰でもそれでプレイできるんですか?リアルウォリアーが観戦可能なゲームになるってことですよね?マジでその技術すごいです」
「あなたは?」
目を輝かせる鳥坂に、アニマダストの社員は首をかしげる。
「あ、俺、鳥坂裕と申します」
「鳥坂裕!」
もう一人の社員が嬉しそうな声を上げた。
「きみが、ランキング上位の鳥坂裕くん?」
「はい」
鳥坂は笑みを向ける。
「競技場がオープンしたら、ぜひきみに出てもらいたいなあ。僕は村田と申します。はい、名刺。差支えなければ、連絡先を教えてもらえませんか」
鳥坂は笑顔で応じた。
社員二人は、こちらから連絡すると言い残して去って行った。
デモの熱はすっかり引いてしまい、パフォーマンスに圧倒された人々は散り始めていた。
「ねえ、どういうこと?」
清水は顔をしかめている。
「プロモーションだよ。デモに乱入するなんて、よく考えたな」
鳥坂は、もらった名刺をポケットに押し込んだ。愛想笑いはすっかり消え、クールな表情になっている。
「もしかして、トラベルシーカーとEOMの対立にリアルウォリアーを介入させるように仕組んだのも、あのゲーム会社なのかも」
「てか鳥坂、ゲーム会社の人にまで名前が知られてたんだね」
「きっと、優秀なプレーヤーは商業利用するつもりなんじゃないかな。技術はすごいけど、金儲けの道具にされるのはちょっとなあ」
「よくわかんないけど……」
「帰ろっか」
清水はシラケた気分で、ふらふらと人ごみを縫っていく鳥坂を追いかけた。
プロモーションの効果は著しかった。携帯端末で撮影された動画がネットにアップされ、数多くのコメントがつき、リアルウォリアーの掲示板の書き込みは増え、ARフォンの売り上げは増加した。
一方で、アメリカでは、EOMによるサイバー攻撃の第二波が行われた。一回目も二回目も、かなりの専門知識を持った者の主導によると思われ、逮捕には至っていない。
そんな中、大場美紀彦は、違法行為を糾弾するコメントを出した。あくまでも平和的手段で主張を訴える活動をすべきだと明言していた。
このコメントを読み、清水は少しほっとした。円のいる団体が過激化するのは気分がよくないし、円の好きなミュージシャンが悪人だったらたまらない。
しかし、同時に清水は焦っていた。詩が書けないのだ。テキスト化症候群は治らないし、机に向かうと、気分が悪くなってくる。休めば治るのか、リアルウォリアーをプレイし続ければ治るのか、詩を書くのを諦めれば治るのか――
清水は、不安すぎて軽く朦朧とする意識のまま、鳥坂と待ち合わせ場所で落ち合った。
清水は、歩きながらなにかのジュースをプラスチックカップからストローで吸っている鳥坂に尋ねた。
「あのさ、鳥坂は、どうやって月に行くつもりなの?」
「植物学者として行くつもりだよ。音楽と植物の生長についての論文を完成させるんだ」
鳥坂は即答した。
「そうなんだ……」
「前に月地が言ってたアイデアも検討したんだけど、清水は芸術家枠を狙ってるわけだから、俺は研究者枠にするよ。でも、月地が言ったように、植物の遺伝子組み換えにも手をつけようと思ってて、大学の知り合いにも手伝ってもらってるし、最近徹夜で研究室にいることもあって――」
鳥坂が真剣なのはわかるが、このままでは、二人とも月へは行けない気がする。
「お互い頑張ろうね」
清水は、これ以上暗い気持ちにならないうちに、話をまとめた。
「おう」
鳥坂は嬉しそうだった。
「てかさ、あのプロモーションのせいで、リアルウォリアー人口が増えたじゃん?雑魚ばっかりにならないかと心配なんだよね」
二人は地下通路の入り口まで来ていた。
「そうだね」
清水はそう返事しつつも、できれば今日は雑魚と当たりたいと思った。正直、詩と月のことで頭がいっぱいだし、実を言うと、昨夜は寝つけず一睡もしていないし、鈍い頭痛がするし――
しばらく地下通路を進むと、二人の男と行きあった。目がかすんでよく見えないが。
「こんばんは。闘いますか」
鳥坂の声がする。清水はこめかみをもんだ。
「はい、よろしくお願いします」
男と鳥坂が、「戦闘開始」と言い合ったのは聞こえたが、清水にはどうにも現実感がなかった。疲れているせいだ。しっかりしないと――
言葉の応酬はもう始まっている。炸裂するイメージ。巨大な狼、激しい稲妻、疾走する鎖――
『狼の歯列が濡れて光る、狼の銀の毛皮を貫く光と轟音、生き物のように飛ぶ鎖は巨大な斧に打ち返され――』
清水は、頭を抱えた。文章が勝手に叫んでいる。
「清水、防御!」
鳥坂が叫ぶが、そもそも相手の声がよく聞こえない。
狼と稲妻と鎖が頭の中でリピートされ、違う文章で描写し直された。
「清水、大丈夫か?」
鳥坂の声の上に、狼の咆哮が覆いかぶさった。清水の頭の中の想像上の声だ。
「狼の咆哮!」
清水は耐え切れず、叫んだ。
「二本の濡れた犬歯が柔らかな肉を断つ!」
相手の男二人が悲鳴を上げた。狼が二人に飛びかかる。
「空を分断する稲妻!肉体を痛みに還元する!」
清水は自分の言葉をとめることができなかった。頭の中に詰め込まれる文章の存在感が圧倒的すぎて、声に出さずにはいられない。
通路内に轟音と共に閃光が走り、再び相手は悲鳴を上げるが、声をかすれさせながらも反撃してきた。
「突風に吹き飛ばされろ!」
「風は命令を聞かず、お前らの足を払う」
鳥坂が防御したが、清水と鳥坂は本当に吹き飛ばされた。
清水と鳥坂は、地面に打ち付けられる。
「地に落ちたものの骨は折れる!」
激痛が走る。清水は顔だけを起こし、相手を睨みつけた。
「お前らの口は太い針と鋼鉄の糸で縫い合わされ、Wの形となり言葉を発することはできない!」
相手の二人は黙った。
「お前らは奴隷だ!そのままひざまずけ!土下座しろ!額を地面に擦りつけろ!」
相手の二人は、膝をついた。
「落ち着け、清水。いてて」
鳥坂はうめいて起き上がる。
「きみたちに一つだけ発言を許そう。漢字四文字で、はい」
鳥坂の柔らかい声。
「戦闘終了」
清水と鳥坂は勝った。
相手の男二人は去ったが、地面に打ち付けられたため、清水と鳥坂はしばらく動くことができなかった。骨折しなかっただけましだと思えるが、ゲームに勝ったのに、まったく勝ったという気がしなかった。
「清水の声、すごいな」
鳥坂は、座ったまま腰をさすりながら言う。
「そんなことないよ。うう」
清水はうめいて体を起こす。
「ちょっと冷静さを失っちゃって。テキスト化が――」
「でもすごいよ。清水の声は威力がありすぎて、危険かもしれない」
清水はおざなりに笑ったが、鳥坂の真剣な表情を見て、笑いを引っ込めた。
「でも、なんか変だったな」
鳥坂は言う。
「変?」
「あいつらの声は、それほど強くなかった。なのに、防御も効かなかったし、実際に俺たちを吹き飛ばすほどの威力を持ってた。下手すると実際に怪我しそうなことなんて、まずないんだけど。なんかおかしいよ。もしかして、不正をしてたのかも」
「不正?」
「わかんないけど、ARフォンを改造してたとか」
「そんなことできんの?」
「まったくないとも言い切れないよ」
鳥坂は立ち上がる。
「くっそ、痛いし。端末は無事かな」
鳥坂は携帯端末を取り出す。
「あ、月地からメール来てる。ライブの日の待ち合わせ決めよう、だって」
「ああ」
そういえば、そういう話もあった。
「適当に返信しといていい?」
「うん」
KOUJIと美紀彦の対立は、実際のところ、どうなったのだろう。ライブはどんな雰囲気になるのか。
清水は立ち上がり、鳥坂とともに痛む体をさすりながら、ゆっくりと地上へ出た。
5章
円は、月面写真とセレネのロゴが印刷されたTシャツと、ジーンズ姿だった。チョーカーではなく、満月の形をしたペンダントをしている。新しいセレネのグッズだそうだ。
「ライブ前って緊張するねえ」
円は嬉しそうに言った。
ライブ会場のアリーナ席。清水と鳥坂と円は、セレネのライブに来ていた。
「ね、いい席でしょ」
清水と鳥坂に挟まれた円は、清水に顔を向けてくる。
「うん」
清水はステージに目を向ける。一万人規模の会場でありながら、席が前のほうなので、ドラムやアンプがセットされたステージ上がはっきりと見えた。
「なあ、あのTシャツの人たち」
鳥坂は、少し離れたところにいる集団を指差した。
「EOMって書いてあるけど」
EOMと印刷された揃いのTシャツを着ている。
「ああ、ああいう人たちもいるって、話には聞いてたけど」
円は、指差す鳥坂の指を押さえて下ろさせる。
「セレネのファンっていうよりも、美紀彦さんのファンだよ。わたしとしては、ライブにはEOMとかトラベルシーカーとか、持ち込んでほしくないんだけどね」
「セレネのファンは全員EOMってわけじゃないんでしょ?」
「もちろん違うよ。だから、ああいう人たちをよく思わないトラベルシーカーのファンの人たちもいるだろうね」
話しているうちに、客電が落ち、SEが流れ始めた。ライブの始まりだ。
激しいロックステージだった。KOUJIは力強く歌い、美紀彦含む演奏陣も会場をあおりながら演奏した。客は大いに盛り上がった。清水は圧倒されながらも、もみくちゃにされる心配はないので、ステージ上で動き回るメンバーと次々に繰り広げられる楽曲を鑑賞し、それなりに楽しんだ。KOUJIと美紀彦の怪我はすっかり癒えたようだし、メンバーたちは、表面上はなんの問題も抱えていないように見えた。ニット帽もマスクもせず、ラメの入ったジャケットを羽織った美紀彦は、間近で見た時よりもずっと生き生きしている。
「俺たちセレネのライブへようこそ!」
曲の合間のMCで、KOUJIが声を張り上げた。
隣の円は、「わあああ!」と両手を振り上げて叫ぶ。
「俺たちのライブに初めて来たって人、いる?おお、結構いるねえ。じゃあ一応言うけど、セレネっていうのは、月っていう意味なんだ。俺たちがバンドを結成して天下を取ろうって決意した日、月がとっても綺麗だったから、このバンド名をつけたんだ。月は、俺たちにとって、青春の宝物なんだよ。今、月のことで世間が割れてるみたいだけど、このライブの間だけは、そんな現実世界のことは忘れて、思い切り楽しもうよ。じゃあ、次の曲――」
その時、怒声のようなものが客席から上がった。
その声に返すようにさらなる大声。客席の一部で、騒ぎが起こったようだ。
「え、なに?」
「なんて言ったの?」
と、ほかの客も騒ぎだす。
「どうしたの?落ち着いて、わかる人教えて」
KOUJIは冷静に言った。
「KOUJIの馬鹿!」
「知ったようなこと言ってんじゃねえ!」
ステージに向けて声が飛んだ。
「KOUJI様を侮辱したら許さない!」
「ふざけんな美紀彦信者!」
状況がつかめてくると、なにを言っているのかが聞き取れてきた。
「EOMは出てけ!」
「KOUJI信者は引っ込んでろ!」
「セレネはEOMじゃなかったのかよ!」
「KOUJIが馬鹿なだけだ!」
「EOMの態度あり得ない!」
「非常識だぞ!」
「な、殴り合いだ!」
「スタッフ!誰かスタッフ呼んで!」
よく見えないが、客席の一部が乱闘状態となったらしい。席を移動する客が出始め、完全な混乱状態に陥りそうになった。清水の隣の客も、清水と円を押しのけて通路へ出ようとした。
「ふざけんな!」
マイクがハウリングを起こした。KOUJIが大声を出したのだ。
「お前らは金を出して俺たちの音楽を聴きにきたんじゃないのか!?それともなにかほかのことをしにきたのか、どうなんだ!?」
KOUJIの恐ろしげな声に、会場は静まった。
「俺、悲しいよ。セレネをこんなバンドにしちまって、悲しいし、悔しいよ」
KOUJIは下を向き、涙声で言うと、ステージの右側で立ち尽くしていた美紀彦に歩み寄り、肩に手を置いてマイクを渡した。
美紀彦はマイクを受け取り、口を開いた。
「俺も、KOUJIと同じ気持ちです」
みな美紀彦の落ち着いた声に耳を傾けていた。
「俺は、対立を望んだわけじゃありません。EOMとかトラベルシーカーとか、KOUJI派だとか美紀彦派だとか、くだらないことです。セレネをこんなバンドにしてしまって、ごめんなさい。責任は俺にあります。みんな、本当にごめんなさい」
美紀彦はギターを手で支え、深々と頭を下げた。
「美紀彦さん謝らないで!」
「くだらないとはどういうことだ!」
声が飛んだが、KOUJIが静まるように客席を押さえるようなジェスチャーをすると、なんとか収まった。
「もう、俺たちの月は沈んでしまったのかもしれない。でも、この曲だけは、今夜、みんなに届けたいんだ。お願いだから、聴いてください」
会場は静まり返った。KOUJIはうなずく。
「ネクストソング、『moon of future』」
その後、ライブは何事もなかったかのように進行し、予定通りに終了した。清水には、不思議な感動を伴ったライブのように思え、誘ってくれた円に感謝したいくらいだった。照れくさくて、言葉に出すことはできなかったが。
ライブのあと、清水と鳥坂と円は、ファミレスで夕食を摂った。窓の外では、夜の街に雨が降っている。
「ちょっとショックだなあ」
円は、食後のショートケーキをつつきながら言った。
「混乱状態になりそうになるなんて。まあ、なんとか収まったからよかったけど」
「月地、EOMなんかやめたほうがいいんじゃないの?」
鳥坂は、特大イチゴパフェを前にしてずばり言う。
「そうしようかなあ。それで、わたしも月移住に応募しようかな」
円の言葉に、清水は目を丸くする。
「そんなあっさり転向?」
「わたし、思うんだけどね」
円は言った。
「熱心なEOMって、熱心な月崇拝者なの。でも、月崇拝者って、実はみんな、月へ行きたいんじゃないかなあって」
「美紀彦も含め?」
鳥坂の言葉に、円はうなずく。
「うん。美紀彦さんは、あまり口数が多くないから、考えてることとかもあまりよくわかんないんだけど、前、言ってたことがあるの。セレネがセレネでライブしたら、どうなるだろうって」
「月でライブ?」
「美紀彦さんも、実は月に行きたいんじゃないかな。月を崇拝する気持ちに、行きたいという気持ちが押しつぶされて、自分でも気付いてないだけなのかも」
「結局、EOMも月に行きたいんだ」
鳥坂は馬鹿にしたように笑った。清水はコーヒーカップを置いて言う。
「EOMとかトラベルシーカーとか、くだらないって言ってたよね。あんなこと言うなんて意外だったけど、あれ、思わず言っちゃったのかな」
「そうかも。美紀彦さんも、色々思うことがあって、ああ言っちゃったんだと思う」
円はフォークでイチゴを突き刺して持ち上げる。
「EOMって、月崇拝者と、月崇拝者の崇拝者で成り立ってるんだよね。EOMの人数が膨れ上がったのも、有名人が入ったことが大きいと思うし。有名人のファンだから入ったって人は、月のことなんか本当はどうでもいいのかも。わたしは、月も美紀彦さんも好きだけどね」
「月地も美紀彦も、EOMから抜ければいいんだよ」
その時、清水がふと窓の外を見ると、外から店内を見ている少年と目が合った。少年は、ビニール傘の下で目を伏せ、傘からしずくをしたたらせながら足早に立ち去った。そして、清水はすぐにそのことを忘れてしまった。
6章
清水は、またしても詩作に取り組んでは、うまくいかずに悶々としていた。
気付かぬうちに、思考は過去へとさかのぼっていく。
清水は、ずっと自分の思いを押し殺すように生きてきた。高校の時、円と鳥坂と一緒にいる時も、まさにそうだった。
もしかするとそうではなく、自分の思いがどのようなものなのかさえ、よくわかっていなかったのかもしれないが。
一方、鳥坂は、自分の彼女である円と、円の幼なじみである清水が二人そろって目の前にいる時も、構えたところがなく、明け透けと言ってもよかった。少なくとも清水には、そう見えた。
鳥坂は、テストで何点を取ったとか、友達の誰誰とこういう話をした、ということから、クラスの女子に円とのことを訊かれたとか、近くの席の女子に自分の何気ない発言をほめられたとか、理科研究会の一年の女子から誕生日プレゼントをもらったとかいうことまで、いちいちあっけらかんと報告した。二年になってクラスが離れた円が嫉妬しそうなことも、あえて言うことが義務だとでも考えているようだった。
円は、鳥坂のそういうところも好ましく思っているようだったが、清水はなんとなくハラハラした。
偶然、廊下で鳥坂がほかの女子と話しているところを見かけたり、円と鳥坂が一緒にいるところに男子が話しかけてきて、鳥坂が笑って応えたりしているのを見た時も、同じような気持ちになった。
清水は、鳥坂はきちんと円のものであってほしいと思っていたのだ。
清水は自分自身のことをお人好しだとは思わない。円と鳥坂が付き合っていることを喜んでいたわけがない。しかし、清水は、複雑な気持ちに引き裂かれていた。
円が、貼り付いたような笑顔で、「裕くんとは別れた」と言った時も、複雑な気持ちが深まっただけだった。
清水はいつも一人で下校するようになり、円と鳥坂が一緒にいるところを見かけることもなくなったが、清水に対する円と鳥坂の態度は変わらなかった。鳥坂は、清水に会えば声をかけてきた。円のことには触れず、変わった様子もなかった。円も、はっきりとわかるような様子の変化はなかった。
誰も、重要なことはなにも言わなかった。
清水は回想を振り払い、詩作に取り組もうとした。しかし落ち着かず、意味もなく携帯端末をいじってしまう。
清水はなんとなく、EOMについて書かれている掲示板を閲覧していた。そこで、気になる文章を見つけた。
友人がEOMから抜けようとしたら、リンチに遭ったというのだ。
セレネのファンだった友人は、軽い気持ちでEOMに入ったが、アメリカでのサイバー攻撃のあと、海外のこととはいえ、違法行為に関わるような団体にいると就職に影響が出ると思い、その旨を正直に伝え、EOMから抜けようとした。しかし、それまで親しくしていたEOMのメンバーたちに裏切り者と罵られ、リンチを受けたという。
友人の体験というところが嘘くさいし、そのあとどうなったかも書かれていない。EOMをよく思わない者の創作だという可能性はあるが、もし本当だったとしたら。
円は、EOMを抜けるともう仲間に言ってしまっただろうか。清水は心配になった。円の連絡先は知らないから、まず鳥坂に連絡を取らなくては。
携帯端末で鳥坂に電話をかける。苛々と待つが、鳥坂は出ない。
「こんな時に限って」
清水は悪態をつき、鳥坂にメールを送って待った。
夜十一時を過ぎても、鳥坂からの連絡はなかった。再び電話をしても、出ない。
清水は円のことを考える。円は昔から、自分のことをあまり顧みない傾向があった。小学校低学年の頃、「おもしろそうだから入ってみよう」と、工事現場に勝手に入ろうとしたり、小学校高学年の頃、兄の友達に貯金箱を盗まれたという友達のため、貯金箱を盗んだ疑いのある男子中学生の家に押しかけようとしたり、清水がとめなければ危険な目に遭っていただろうということが何度もあった。最近も、なんの頓着もせず鳥坂や清水と会っていたが、本当にほかのEOMが円を責めないという保証はあったのだろうか。
清水は、いても立ってもいられなくなってきた。そういえば、鳥坂は、徹夜で研究室にいることもあると言っていた。もしかして、今も研究室にいるのではないか。
清水は部屋を飛び出した。駅からリニアに乗る。
記憶と携帯端末のマップを頼りに、なんとか鳥坂の大学にたどり着いた。校舎は暗く静まり返っている。開いているドアを探してもぐりこみ、暗い廊下を忍び足で歩く。
鳥坂の研究室のドアからは、明かりが漏れていた。
「鳥坂?」
清水はノックをする。返事はない。
「誰かいますか?」
ノブに手をかけると、回った。恐る恐るドアを開き、中をのぞく。植物に囲まれたデスクに突っ伏した人物がいた。白衣を着たままで、かたわらのノートパソコンは電源がついたまま開いているし、紙が部屋中に散乱し、床にアコースティックギターが倒れている。
「鳥坂、大丈夫か!?」
清水は激しく鳥坂を揺すった。
「ん……」
鳥坂は体を起こした。
「おう、清水」
鳥坂は目をこする。
「あ、なんだ……寝てただけ?」
清水は拍子抜けした。
「うん……寝てた」
「倒れたのかと思ったよ」
「倒れた?」
「何度も電話したんだけど」
「ああ、ごめん。鞄に入れたままで気付かなかった。なに?どうしたの?」
清水はため息をつき、円と連絡を取ってほしいこと、その理由を話した。
「今から月地に電話すんの?」
鳥坂は壁時計を見る。
「うん。頼む」
「もうこんな時間だぞ。寝てんじゃない?」
「そうだけど……」
鳥坂は、にやりと笑った。
「やっぱ清水は、今でも月地が好きなんだ」
「いや、そうじゃなくて」
「好きだからそんなに心配してんだろ?わかりやすいなあ。そういうところが羨ましいんだよね」
「え?」
「高校の頃から、月地が好きですオーラが出ててさ。そうやって素直に好きになれるところが、羨ましかったんだ」
「え、どういうこと?鳥坂は、円のこと、好きじゃなかったの?」
「好きだった、と思ってるけど、でも正直、よくわかんないんだよね。人を好きになるってこと自体が」
清水の表情を見て、鳥坂は苦笑しながら手を振る。
「別に心に闇を抱えてるとかそういうことじゃなくてさ。ただ、俺が幼いだけだと思うよ。一生誰も愛せないと思う、なんて言わないし。そのうちわかるよ、生きてれば」
「でも……鳥坂は、円のこと、好きだったと思ってたから、そんなこと言われると」
清水は下を向く。
「また俺のこと嫌いになった?」
鳥坂は清水の顔をのぞき込んだ。
「いや……」
「月地には朝になったら電話しよう。起こすと悪いし」
鳥坂はギターを片付ける。
「俺は今日ここで寝るけど、清水はどうする?隣の部屋で寝てもいいよ」
「いや、帰るよ」
「そう。じゃあ」
「うん。電話、よろしく」
清水は鳥坂の大学をあとにした。家に帰っても、さまざまな思いと円への心配でなかなか眠れず、眠りに落ちたのは明け方だった。鳥坂からの電話で起こされたのは、それから数時間後だった。
清水は、鳥坂と駅で待ち合わせ、円のアパートへ向かった。
鳥坂に送られてきた地図を頼りに円のアパートへ行き、チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開いた。
「裕くん」
円は鳥坂にしがみついた。
「え?」
鳥坂は、両手をあげて固まる。
「ご、ごめん」
円はすぐに離れた。
「円、大丈夫?」
清水は声をかける。こんなことでショックを受けている場合ではない。
「うん、ごめんね、呼び出しちゃって。入って」
三人は、レースのカーテンの引かれたワンルームに入った。
「EOMに閉じ込められて尋問されたって、ほんと?」
清水は、鳥坂から聞いたことを確認した。
「うん……EOMの人たちを誤解させちゃったみたい」
「やっぱり、抜けようとしたの?」
「まだ言ってないよ。わたしと裕くんと高史が一緒にいるところを見た子がいたらしくて、それで、裏切り者って」
清水の予想を上回っていた。抜けたいと言ったわけでもないのに、裏切り者扱いとは。トラベルシーカーと一緒にいただけで?
「鳥坂と俺と一緒にいたから、裏切り者?」
「そんな風に言われると思ってなかったから、びっくりしちゃったよ。ありえないよね」
「なんかされた?」
鳥坂も険しい表情だった。
「ううん。大丈夫。だけど、こわくなっちゃって。トラベルシーカーのスパイだろとか言われて……こっちの説明なんて全然聞いてくれなくて、必死でうるさく泣きわめいてみたら、放してくれたけど」
「許せないな」
清水は思わず言った。
「円はなにも悪くないのに。EOMはただ月を崇拝する団体だったはずなのに、裏切り者とか違法行為とか過激になってって……許せないよ」
「崇拝ってところがだめだったんだよ」
鳥坂はつぶやく。
「月地、EOMは月の崇拝者と崇拝者の崇拝者の集まりだって言ってたじゃん。崇拝とか信仰っていうのは、健全な精神を保つ助けにもなるけど、一歩間違えれば狂気の淵に真っ逆さまだからな」
「わたし、どうしたらいいんだろう」
「いつEOMがまた円に手出ししてくるかわからないよね」
清水はそのことだけが心配だった。
「こうしてまた俺と清水と会っちゃったわけだし、完全に安全だとわかるまでは一緒にいたほうがいいだろうな」
「うん……ごめんね、二人とも」
「いいよ」
「そもそも、俺と鳥坂のせいなんだし」
「そんなことないよ」
「ここの場所も、EOMのやつらは知ってるんだろ?」
「あ、そうそう。わたしの隠れ家に行こうよ」
鳥坂が言うと、円は顔を輝かせた。
「隠れ家?」
清水は目をしばたたく。
「そう。行こう」
円は立ち上がった。
円に連れられ、清水と鳥坂がやってきたのは、小高い丘の上にある、木に囲まれた廃倉庫だった。
「ここ、誰も来ないんだよ。わたし、ここを漫画の置き場所にしちゃってるんだ。部屋に置くと狭くなっちゃうから」
円はそう言って、大きなリュクサックを下ろす。コンクリートの床の上には、漫画が山積みになっていた。漫画のそばには、新しいピンクのマットレスが敷いてある。
「これ、月地が敷いたの?」
「うん。いいでしょ。隠れ家」
「円、子供の頃から、隠れ家作るの好きだったよね」
「そうそう。植込みの間とか、公民館の裏とか」
「段ボールで床作ったりしてさ」
「わたしが下水道を隠れ家にしてる子供たちの話を本で読んで、マンホールのふたを外そうとして、高史にとめられたよね」
「ああ、マンホールが外れるはずないのに、俺、必死にとめたよな」
「あの時の高史、おかしかったなあ」
「へえ、そんなことがあったんだ」
笑い合う清水と円に、鳥坂は意外そうだった。
「あ、俺、研究室と家から荷物取ってくるよ」
鳥坂は思い出したように言う。
「え?」
清水は戸惑った。
「しばらくここで寝泊まりすんだろ?一日中ここにいるわけじゃないにしろ、色々あったほうがいいし。買い出しもしてくるよ。俺が戻ってきたら、清水が交代で行くってことで」
「あ、わかった」
「じゃあ。なるべく急ぐ」
鳥坂はあっさりと消えた。
清水は、突然訪れた円と二人きりという状況に体が固まった。しかし、鳥坂は清水と円を二人きりにするために席を外したわけではないだろう。もしそんなことをされたら、気分が悪い。
「漫画読む?」
円は笑顔を向けた。
「あ、それ、中学の時読んでた」
「うん。今でも好きなんだ」
「一度貸してもらって読んだよ」
「あ、貸したっけ?」
「うん」
「やっぱり、このストーリーが何度でも泣けてさあ」
ひとしきり漫画や子供の頃の思い出について話した。清水は、案外自然に円と話せたことが嬉しかったが、引っかかるものも感じていた。清水は、思い切って言ってみた。
「円……無理してない?」
「え?」
「今、結構大変な状況だし、無理して明るくしなくてもいいんだよ?」
「ありがとう。でも、大丈夫だから。ごめんね、さっきは取り乱して」
「え?」
「裕くんにしがみついちゃったりとかしてさあ。全然そんなつもりなかったんだけど、なんか」
「ああ……」
清水は、雷に打たれたように思った。円は、気付いているのではないか。鳥坂は、清水のことをわかりやすいと言った。今まで、自分の気持ちは円に気付かれていないと思っていたが、それが思い込みでないと、どうして言える。
清水は、確かめたい衝動に駆られた。円は、清水の思いに気付いているのか。それと、今でも鳥坂のことが好きなのか。鳥坂が、人を好きになる気持ちについて言ったことを知ったら、どう思うのか――
「あ、てかさ、考えてみたら、ここで裕くんが戻ってくるまで待つ必要なくない?高史とわたしで、高史の荷物を取りにいけばいいんだよ。裕くんに連絡しよっか」
やはり、気付かれているのか?鳥坂と二人きりになると清水が面白くないだろうと、気を回している?
「いや、連絡しても気付かないかもしれないし、交代って言ったんだから、待ってようよ」
「そう?高史がいいなら、いいけど」
二人はじっとマットレスの上に座り、漫画をめくった。清水は、鳥坂が戻ってきて、心臓に悪いこの時間が早く終わることを祈った。
その時、バイブ音がして、清水はびくりと顔を上げた。
「あ、わたしの」
円はマットレスの上に置いた携帯端末を手に取った。画面を見て顔を曇らせる。
「里李ちゃんからの電話」
「出ないほうがいいんじゃない?」
EOMはもう円の敵と言っていい。
「でも、気になるし、まだちゃんと抜けてないんだし……」
「今はやめといたほうがいいって」
「でも、もしかしたら、味方になってくれるかも。里李ちゃんと美織ちゃんは、わたしを閉じ込めたメンバーの中にいなかったし」
円は電話に出た。
円は落ち着いた声で、「いや違うんだよ……それはちょっと……」などと話していたが、意を決したように言った。
「わたし、EOMやめるから」
電話の向こうでは、里李が激しく抗議しているらしい。声が漏れてかすかに聞こえてくる。
「裕くんと高史とは関係ないんだよ、ほんとに。別にそんなんじゃなくて……」
円は説明したが、里李を納得させることはできないようだった。
「待って、わたしがそっち行くから……だからわたしが……ちょっと待って。かけ直すから。いい?切るよ。かけ直すからね!」
円は無理矢理通話を切った。
「どこにいるのか教えろって。どうしよう」
「無視したほうがいいよ。しばらくすれば騒ぎも収まるだろうし、それまで待ったほうがいいんじゃない?」
「しばらく、か」
「てか、美紀彦とは連絡取れないの?頼めば助けてくれるかも」
「美紀彦さんに迷惑かけられないよ。ツアーが終わって、多分、今はつかの間の休息期間なのに」
「休息期間ならちょうどいいじゃん」
「だめだよ」
円はかたくなに拒否する。
「……ここの場所、教えちゃだめ?」
円は言う。
「なんで教えるの?」
意味がわからなかった。
「教えてって、言ってるから……」
「教えたら集団でリンチに来るかもしれないだろ。無視しようよ」
「でもわたし、みんなに、なんとしてでも月への移住計画をとめようとか、綺麗な月を守ろうとか、そんなこといつも言ってたんだよ?やっぱり、今になってみんなを捨てて抜けようなんて、自分勝手すぎるよ」
「どんな団体にも、抜ける自由はあるはずだろ?」
「そうだけど、みんなの気持ちは違うんだよ。いつも調子のいいこと言ってみんなをあおってたやつが、敵であるトラベルシーカーと会ってたり、抜けたいとか突然言いだしたりしたら、怒るのが当然だよ」
「円はなにも悪いことしてないだろ」
「したよ。みんなの気持ちを考えないで、好き勝手してた。だから裕くんと高史にも迷惑かけて」
「今、円は落ち込んで混乱してるんだよ。ちょっと落ち着こう」
「落ち着いてるよ」
「今なにか行動を起こすのはやめておこうよ。鳥坂が戻ってくるのを待って――」
「謝らなくちゃ」
円は携帯端末を手に取った。
「ちょっと待ってよ」
「ごめん。ここの場所、里李ちゃんに教える」
清水には、無理に円をとめることはできなかった。
電話が終わったあと、清水と円は、重苦しい空気の中でじっと座っていた。里李は、円が場所を説明すると、なにも言わずに通話を切ったのだ。
「来るのかな?」
円は出入り口のほうを見る。
「さあ……」
清水は、早く鳥坂が帰って来ることをより一層強く祈った。少し情けない気持ちになる。こんな時に、力強いセリフのひとつでもさらりと吐ければいいのだが。
頑張れば、言えるかもしれない。言葉で闘うゲームを何度もしてきたではないか。自分の言葉ひとつ思い通りにならなくてどうする。
「あのさ……」
清水は口を開く。
「なに?」
膝を抱えた円は清水を見る。
「えっと……」
言いかけた言葉のあとの沈黙ほどつらいものはない。耐えきれなくなってきた時、出入り口のほうでなにか音がした。
ブリキのドアが、音を立てて開いた。
「円さん」
里李と美織だった。息を荒くしている。
「飛んできましたよ」
「走ってきました」
それぞれデザインの違う制服を着ている。しかし、どちらがどちらだかわからない。
円は立ち上がった。
「ごめんね、里李ちゃん、美織ちゃん」
それから円は言葉を続けることができない。
「そこにいるのは、清水高史」
「どうしてなんですか、円さん」
双子はいっそう顔をゆがめた。
「わたしたちは、同志だって言ってたのに」
「一緒にトラベルシーカーを倒そうって言ってたのに」
「円さんは、鳥坂裕と清水高史の仲間なんですね」
「最初から、わたしたちのことなんて、どうでもよかったんですね」
「違うよ」
円は首を振る。
「わたしは、好き勝手にやってただけなの。EOMで活動してたわたしも、裕くんと高史の友達としてもわたしも、どっちも本当のわたしなの。わたし、みんなの気持ち、なにもわかってなかったんだよ。ごめんね」
「でも、EOMをやめるって」
「トラベルシーカーにつくんですか?」
「もうやめようよ。EOMとかトラベルシーカーとか」
円は下を向いた。
「今更そんなこと言うんですか」
「闘いましょう」
茶色のブレザーを着たほうが、鞄から四つのARフォンを取り出して床に投げ捨てた。
「わたしたち、円さんを負かさないと気がすまないんです」
「ここの場所はほかのEOMのみんなには知らせてません。わたしたちに勝ったら、誰にも言わないでおいてあげます」
「清水高史がランキングを急上昇させてるのは知ってます。でも、わたしたちだって練習して強くなったんです」
「早くARフォンをつけてください。円さんと清水高史と、美織とわたしで闘うんです」
そう言った紺のセーラー服を着たほうが里李らしい。
「ちょっと待て」
清水は必死に口をはさんだ。
「こんなことしてなんになるんだ。きみたちの気持ちはわかったけど、円にはEOMを抜ける権利も、自由に人と会う権利も――」
「わたしたちの気持ちなんて」
「あんたにわかるはずない」
里李と美織は清水を睨む。
「最初は、美紀彦さんに憧れてEOMに入ったけど」
「なんにも楽しいことがない毎日に張り合いを与えてくれたのは円さんだった」
「円さんの言葉を信じている時だけは、退屈じゃなかった」
「やっぱり、円さんは裏切り者だよ」
「そんなのはきみたちの勝手な――」
円は清水の腕に触れた。
「闘おう」
「でも」
「闘いたいの。高史が嫌だったら、わたし一人でも」
そう言われて断れるはずがない。
清水と円は、ARフォンを拾った。ボタンを押して機能を確認する。
四人はARフォンを装着した。
「戦闘開始」
美織が言う。
「戦闘開始」
円が応えた。
「後悔、罪悪感、喪失感、灰色の心臓、痛み!」
美織の叫びは、なんの効果もないように思えた。しかし、どうにも重苦しい気持ちにさせられた。見ると、円は唇を噛み、なにも言えないでいる。聞く者によって効果が違ってくるのだ。
「罰の鞭が空を切る!ひゅゆゆゆん!」
美織が鞭の音を口で表現すると、その通りの音を立てて巨大な鞭が襲ってきた。
円が悲鳴を上げてうずくまる。清水も鋭い痛みを感じた。
清水は円から双子に目を移した。
「なんでこんなことしなきゃならないんだ」
「罪を感じているうちは、罰はやまない!鞭の雨!」
「雨が降ってるのはそっちだ!雹と霰の極寒の刃!」
「鋼鉄の鷹、わたしたちの傘となり、円と清水を切り裂け!」
美織の攻撃に清水が応えるが、里李に防御された。
「鷹に剣を突き立てる!里李と美織に降り注ぐ血の雨!」
清水と双子の攻防がしばらく続いた。円が立ち上がって声を上げる。
「里李、足元にナメクジ!美織、髪の毛におっきな蜘蛛が!」
ひいいっ、と二人は悲鳴を上げた。
「里李ちゃんはナメクジとタルタルソースが大嫌いなの。美織ちゃんは蜘蛛と気の強い女が」
「里李、タルタルソースのチューブを口に突っ込んでやる!美織、赤いスーツの女が罵倒しながら殴りかかってくるぞ!」
円の言葉を聞き、清水は夢中で言った。
すると、里李と美織は笑いだした。
「タルタルソースおいしい!」
「女なんて殴り倒してやる!」
タルタルソースと女のイメージは一瞬にして消えた。
「十万ボルトの電流!」
防御担当のはずの里李が言い、円と清水は声を上げて倒れた。
「やっぱり引っかかった。わたしは美織で、そっちが里李だよーん」
紺のセーラー服が言った。
「円さん、わたしたちの好きなものも嫌いなものも知ってるけど、わたしたちを見分けることはできないもんね。制服取り替えただけでどっちかわかんなくなっちゃって」
茶色のブレザーは言う。
「わたしのほうが前髪短いのに」
セーラー服の美織。
「わたしは中学の頃アイプチしてたせいで片目だけ二重なのに」
茶色のブレザーの里李。
「どうしてわからないの」
と、双子は声をそろえる。
「円さん、やっぱりわたしたちのことなんてどうでもよかったんだ」
「簡単に切ってもいい存在だったんだ」
「ごめん……」
円は床に手を這わせてつぶやく。
「もうわたしたちの勝ちだよね」
「早くコールしてよ」
双子は、冷たい目で円を見下ろしていた。清水は、なんとか固まった筋肉を動かし、膝をついて体を起こす。
「……ふざけんな!」
双子はうるさそうに清水を見た。
「どうして許してやらないんだ。こんなに謝ってるだろ!」
「円さんは裏切った。わたしたちの気持ちを踏みにじった」
「許したくない気持ちはどうしようもないの」
「どうしようもない気持ちをどうにかするんだよ!」
清水はなにも考えずに喚いた。
「どうにもならない気持ちがあるのは俺にもわかるよ!でも、許そうと頑張ってみてよ!きみたちはなんの努力もしてないんだろ!美紀彦についていき、円についていき、EOMに入ったって月のことなんてなにも考えてないんだろ!きみたちはただ親鳥について歩くヒナだ!ヒナのおもちゃだ!操り人形だ!操り人形は糸なしでは動けない!崩れ落ちろ!」
清水の言葉で、双子の表情と動きが消えた。一瞬の間のあと、全身の力を失って崩れ落ちる。その時、ゴン、と頭を床に打ち付ける音がした。
双子はじっと動かない。沈黙の末、清水は双子に近寄った。
「大丈夫?」
清水は双子を揺する。ARフォンをかなぐり捨てても、二人は動かない。
「ええ!?里李、美織、しっかりしろ!ど、どうしよう」
「あ、裕くん!」
円が声を上げた。出入り口には、ギターケースを背負い、鉢植えの入ったビニール袋を両手で胸に抱えた鳥坂が、目をぱちくりさせていた。
「だから清水の声は危険だって思ってたんだ」
言わんこっちゃない、という調子で、鳥坂は二つのプラスチックの鉢植えを並べながら言った。
幸いにも、里李と美織はすぐに意識を取り戻した。病院に行くように強く勧める清水を、二人はうるさそうな目で見ながら帰っていった。
「リアルウォリアーでは、より強い幻想、妄想、思い込みを相手に抱かせたほうが勝ち。自分は操り人形で、糸がないと思い込んだから双子は倒れたわけだけど、普通なら、無意識に自分をかばいながら倒れるはずなんだ。自分をかばう本能も麻痺させるほど激しい思い込みをさせる力が、清水の声にはあるってことだよ。まったくもって危険だね」
鳥坂はなぜか得意そうに言う。清水は、鳥坂が買ってきたカップラーメンを袋から取り出していた手をとめた。
「また感情に流されちゃって……ほんと、反省してる」
ひどいことを言ってしまったし、手加減なんて考えもしなかった。あの双子は、単純に円を慕っていた、普通の女子高生なのに。それに、自分は二人に偉そうなことを言える人間ではないのに。
「わたしが悪いんだよ。EOMを抜けるにしてもなんにしても、もっとちゃんと二人に向き合ってれば、二人はあんなに怒らなかったと思うし」
円は、マットレスの上に座り込んでうつむいている。
「円は悪くないって」
「またいずれちゃんと話さないと」
「清水、荷物取りにいってこいよ。それと、カセットコンロ買ってきて」
円をじっと見ていた鳥坂は、再び鉢に向き直り、土の状態を確認し始めた。二鉢とも小さな芽だ。こんなところにまで植物とギターを持ち込むとは、鳥坂はなにを考えているのだろう。
「カセットコンロ?」
「買ってこようと思ったんだけど、鉢が重くてさ。お湯を沸かしてラーメン食べるんだよ。ついでに水とやかんも」
「コンロと、水と、やかんね」
食料がラーメンである必要性はあったのだろうか。
「重かったら、お弁当とかパンでもいいよ」
そう言った円に、鳥坂は不満げな顔を向ける。
「ええー、廃倉庫でお湯沸かしてラーメン食べたくない?」
「いや、意味わかんないし」
円はわずかに笑う。
「円、なんかほかに買ってくるもんある?」
「じゃあ、プリン買ってきて。コンビニのスペシャルホワイトミニプリンね」
「わかった」
清水は、「なにそれ?」「ランキングサイトの今月の一押しコンビニスイーツ第一位だよ」「商業戦略に乗せられやがって」という鳥坂と円の会話を背中で聞いて苦笑しながら、倉庫を出た。
清水は、できるだけ急いで隠れ家に戻ってきたが、すでに日は暮れている。清水の留守中にはなにも起こらなかったようなので、ほっとした。自分の指示通りのものがそろったのを見て喜んだ鳥坂は、さっそくお湯を沸かし始めた。
ラーメンを食べ終わると、鳥坂は、植物に水をあげたいと言い出した。最初は清水が買ってきたミネラルウォーターをあげようとしたのだが、円に、外に水道があると言われ、ラーメンの空き容器を持って外へ出て行った。
清水は、自分がいなかった間に円と鳥坂がなにを話したのか、大いに気になっていた。しかし、なにを話したかと訊くわけにもいかないし、気にしなければいいのだが、気になるし――
「裕くんに謝られたよ」
円は言った。
「え?」
清水は、プリンのふたをはがしている円を見る。
「高史が連絡取るように言ってたのに、すぐに電話しなくてごめんって言ってた。高史、わたしのこと心配してくれてたんだね」
「ああ……」
清水は照れて目を逸らす。
「そうか、謝ったんだ。鳥坂も殊勝なところあるんだねえ」
「高史、裕くんのこと、嫌いなんでしょ?」
円はプリンにスプーンを入れつつ、真剣な声で言う。
「ええ!?嫌いだったら一緒にいないよ。なに言ってんの」
「ラーメンの油って水洗いじゃ落ちないよね?」
その時、鳥坂が戻ってきた。
「ほんとにラーメンのカップで水あげちゃって大丈夫かな?」
「知らないよ。裕くんのほうが植物に詳しいでしょ」
「大丈夫だと思うんだけど……」
清水は、それ以上円に問い詰められなかったのでほっとした。
その夜、円はリュックサックから寝袋を取り出し、「近寄らないでよね」と釘を刺して、部屋の隅で寝た。鳥坂は、ピンクのマットレスの上でずっとなにかの本を読んでいる。清水は、持って来たクッションの上に座り、壁に寄りかかっているうち、うとうとし始めた。
気がつくと朝だった。鳥坂はマットレスの上に丸まっている。円は、慌ただしくリュックサックに寝袋を詰めていた。
「円……?」
清水の声に、円は顔を上げる。
「あ、おはよう。あのさ……ここの場所、知られちゃったみたい」
「え?」
清水は壁から背を離す。
「里李ちゃんと美織ちゃんが教えたみたい。ほかのEOMの人から電話があって」
「じゃあ、早く逃げないと」
清水は立ち上がり、鳥坂を起こそうとした。
「待って。わたしやっぱり行く」
「行くってどこに」
「EOMの本部。逃げ回ってても仕方ないし。逃げたら本当に裏切り者だとみなすとか言ってきたから、こっちから行くって言ったの。これ以上二人に心配かけたくないし、ちゃんと話して、抜けるよ」
「じゃあ、一緒に行くよ」
「それはだめだよ。かえって怒らせちゃうかも」
「でも、一人で行くのはやめたほうがいいよ。ほかの友達とか呼んでさ」
「大丈夫だよ」
「でも」
「大丈夫だってば。ちゃんと連絡入れるから。裕くん、寝かしといてあげて」
円は手荷物だけを持ち、有無を言わせずに出て行ってしまった。
清水は、殺風景な倉庫で意味もなくおろおろするしかなかった。
結局、清水は鳥坂を起こした。携帯端末で、日本EOM本部の場所を調べる。
「やっぱり、行ったほうがいいんじゃないかな」
清水は、植物の様子を見ている鳥坂に言う。
「それしかないでしょ。月地には怒られるかもしれないけど」
鳥坂は即答する。
「敵対してると思われなければいいんでしょ?差し入れでも持ってく?」
という鳥坂の提案で、二人はコンビニで菓子を買いこんでEOMへ向かった。
そこは、学校だった。
「学校?」
鳥坂は、元は真っ白だったと思われる、汚れで灰色になった校舎を見上げた。
「廃校になった小学校を買い取ったらしいよ。超少子高齢化で次々と廃校になってる学校が、安く売却されてるんだって」
清水は携帯端末から顔を上げる。
「小学校か。なんか懐かしー、とか言ってる場合じゃないか」
鳥坂と清水は、開いていた門から入り、一階の窓から中をのぞいた。
職員室風の室内には、何人かの若者がたむろしていた。清水は、その中の中学生に見える少年の顔に、なんだか見覚えがあるような気がした。
「なんか、あそこの椅子に座ってる子、見たことあるような気がするんだけど」
「そいつもミュージシャンか」
「あんな若い子と闘ったことあったら覚えてるよね」
その時、その少年と目が合った。少年はつかつかと近づいてきて、窓を開けた。
「鳥坂裕と清水高史、なんの用だ」
いきなりかみつくように言う。
「あ、俺たちのこと知ってるの?俺たちやっぱり有名人だな、清水」
「俺たちは別に、その、ちょっとご挨拶に。はい、これみなさんで食べてください」
少年は、清水が差し出す膨れ上がったコンビニのレジ袋を完全に無視した。
「お前たち二人、ファミレスで月地円と一緒にいただろ。俺が月地円を裏切り者として報告した」
清水は思い出した。ライブの日、ファミレスの窓越しにこいつと目が合った。
「ふざけんな。月地はどこだ!」
鳥坂はいきなり少年につかみかかった。
「ちょ、鳥坂!」
清水は鳥坂を引き離す。
「ここにいるんだろ!月地を出せ!」
「正真正銘の危険人物だな!責任者を呼ぶ!」
少年は窓を閉めて走り去った。部屋にいたほかの者たちも、部屋を走り出て外に出てくると、清水と鳥坂を取り囲んだ。
「お、俺たちは敵じゃありません!ただ、円のことがちょっと心配で様子を見にきただけで……」
清水は手をひらひらさせながらおどおどする。
「俺たちがリンチでもすると思ったか」
「担当者が話を聞いているだけ。勘違いしないでよ」
「いきなりつかみかかってくるほうが異常だろ」
EOMが口々に言う。
「すみません。こいつ熱血だから」
「はあ?」
笑みを顔に貼り付かせる清水を鳥坂は睨む。
「すみません、円はどこですか?会ったらすぐに帰りますので――」
「さっさと連れてくるなり案内するなりしろ」
「鳥坂、態度を考えないと――」
「じゃあ、お連れしますよ」
清水と鳥坂は腕をつかまれた。清水はコンビニのレジ袋を落としてしまう。
「おい、放せ」
EOMは、鳥坂が抵抗するのも構わず、清水と鳥坂を体育館のほうへ引きずっていった。
体育館の中には、さっきの少年、それと、美紀彦がいた。
「美紀彦さん」
清水は、驚いて口を開けた。だがそういえば、円が、美紀彦はつかの間の休息期間中だと言っていた。その間もEOMにいるとは仕事熱心なことだ。海外旅行にでも行けばいいのに。
美紀彦は、引きずられてきた清水と鳥坂を見て眉をひそめる。体育館の中には、緑色のもやのようなものが全体に薄く広がっていた。
若いEOMの連中が、いかに清水と鳥坂が横暴で迷惑かを訴え始めた。
「月地はどこだ、美紀彦」
鳥坂の凛とした声が、ほかの声を打ち消す。
「美紀彦さんに対してなんという口のきき方を――」
「月地さんは別の部屋にいるよ。話を聞いているだけだから心配しなくていい」
EOMの連中を遮ってそう言った美紀彦の顔は、心なしか疲れているように見えた。
「月地さんが戻ってくるまでここで待っていてもいい。それで一緒に帰りなさい」
「美紀彦さん、それでいいんですか?こいつらは暴力的だし、月地さんをそそのかしてEOMから抜けたいなんて言いだすように仕向けたんですよ」
「月地円からEOMの情報を聞き出してトラベルシーカーに流すのかもしれません」
「お咎めなしなんて、なんか納得できないんですけど」
みなの鋭い声を、美紀彦は手で押さえた。
「みんな、外へ出ていてください。この二人と話すから」
EOMの連中は、清水と鳥坂を睨みつけて出て行った。
美紀彦はため息をついた。
「どうしてみんな勘違いで面倒を起こすかな」
「面倒を起こされて迷惑してんのはこっちですよ」
鳥坂は腕を組む。
「そうだ。悪いのは思慮の足りないEOMのほうだ。俺も、最近のEOMの過激化は遺憾に思ってるんだ。サイバー攻撃とか、そんなこと認められないし」
清水は、うんざりしているような口調で話す美紀彦を意外に思った。
「なら、あんたもEOMをやめればどうですか」
「今逃げるわけにはいかないんだよ。EOMが暴走しないように、俺が押さえないといけない」
「責任感が強いんですね」
「そこで二人にお願いがあるんだが」
美紀彦は目を上げた。
「ここで、俺がきみたち二人をリアルウォリアーでこらしめたということにしてくれないか」
「どういうことですか?」
鳥坂は眉をひそめる。
「気付いていると思うが、この体育館には、ARコーンが何個も設置され、仮設のリアルウォリアーの競技場のようになっている」
「ARコーンって」
「知らないか」
アニマダストというゲーム会社のパフォーマンスで使われていた、黒い小さな三角コーンのことか。見渡してみたが、それらしきものはなかった。
「知ってます。でも、どこにも見えませんけど」
鳥坂も同じことを思ったようだ。
「これだよ」
美紀彦は、壁際まで行き、なにかを拾って戻ってきた。
「試験的にここまで小型化されたんだ」
その指先には、三角形の黒いアポロチョコのようなものがあった。
「まあ、ここまで小型化するメリットはあまりないようにも思うが」
「やっぱり、EOMとアニマダストには関係があったんですね」
鳥坂は固い声で言う。
「勘違いしないでほしいんだが、リアルウォリアーにおいて、EOMがアニマダストから有利な条件を与えられていたということはまったくない。ただ、ゲーム開発のために、こうやって場所や人を提供して、わずかばかりの報酬を得ていただけだ」
「信じられません。この前、不自然に強いEOMと闘ったんです。ARフォンになにか細工していたんじゃないですか」
「知らない。少なくとも、アニマダストの仕業ではないな。EOMとアニマダストが本当に癒着していたとしたら、きみたちがランキングの上位にいるはずないだろう」
「疑いを晴らすために、わざと俺たちが上位に来るように仕組んだのかもしれない」
「そんなまだるっこしいことするかな」
「そもそも、トラベルシーカーとEOMの対立にリアルウォリアーが持ち込まれたのはどうしてですか。やっぱり、アニマダストの策略ですか」
「俺が聞いたところによると、アニマダストが仕かけたことではない。自然発生的に、EOMとトラベルシーカーのグループでリアルウォリアーでの闘争が始まったんだ。しかし、アニマダストがいち早くそれを聞きつけて、EOMとトラベルシーカー専用のランキングを作ったことは事実だ。アニマダストは、商業戦略に使える材料をいち早く察知することに長けた企業だから」
「あなたの話で疑いが晴れるわけではありませんが、ひとまず置いておきましょう」
「で、ここでは、開発途中のARコーンを使ったリアルウォリアーがプレイできるようになっている。そして、若い連中はきみたちをそのまま帰すことに納得しない。俺としては、このままきみたちを帰したいのだが、EOMを暴走させないためにも、信頼の置かれているリーダーとしての自分の地位を守りたい。だから、ここできみたち二人をリアルウォリアーでこてんぱんに叩きのめしたということにしてから、きみたちに帰ってもらいたいんだ」
「それで丸く収まるってわけですか」
鳥坂は吐き捨てるように言う。
「俺はまだ、EOMが月地に手を出さないと認めたわけじゃありません。それに、思想の違いから、EOMとトラベルシーカーは闘ってきたんじゃないんですか。今、闘ったふりなんかしたら、俺たちはなんのために闘ってきたということになるんですか」
「月地さんの安全は保障する。納得できないのはわかるが――」
「清水はどう思う」
鳥坂は清水を見た。
「えっと……」
清水は、なんとか考えを言葉にしようとした。
「えっと、そうしたら、美紀彦さんは、EOMから抜けずらくなってしまうんじゃないですか?」
一瞬の沈黙があった。
「どういうこと?」
鳥坂が怪訝そうに言う。
「もし、俺たちが美紀彦さんに協力するとしたら、円の安全を保障するという言葉を必ず守ってもらいます。円がEOMを抜けたとしても、不安が残るので、美紀彦さんにはずっとEOMにいて、円に手を出さないように、押さえておいてほしいと思います。でも、もしかしたら、どうしても美紀彦さんがEOMから抜けなくちゃならない事態になることもあるかもしれないじゃないですか。そしたら、俺たちが納得できない思いを抑えて協力したことが意味を失くしてしまうし、美紀彦さんにも心苦しい思いをさせてしまいます」
「俺はEOMを抜けたりしない。約束する」
「もし、レコード会社から、EOMから抜けないとセレネの契約を切ると言われたらどうしますか?もし、EOMの誰かがKOUJIさんに危害を加えたら?」
美紀彦は言葉を詰まらせる。
「美紀彦さんには、EOMよりも大切なものがあるでしょう?そんな人が、絶対に抜けないと言ったって、信じられませんよ」
「ああ、もう」
鳥坂は頭をかきむしる。
「トラベルシーカーの俺たちにとっては、EOMなんてなくなったほうがいいのに、EOMから抜けないでほしい、なんてさ。本末転倒というか、変だよ」
「そうだね」
清水は薄く笑う。
「本気の勝負なら、してもいいですよ」
鳥坂は、乱暴に髪を整えて言った。
美紀彦はため息をついてから、微笑んだ。
「そうだね。そうしようか」
「誰かもう一人呼んできてくださいよ。それか、俺と清水のどちらかと闘いますか」
「いや、俺一人できみたち二人と一度に闘うよ」
美紀彦は即答した。鳥坂は笑う。
「ナメられたもんですね。言っときますが、清水は相当強くなりましたよ」
「話には聞いてる」
美紀彦はそれで口を閉じた。
「どうする?」
鳥坂の言葉に、清水はうなずいた。
「やろう」
美紀彦は、ARコーンを元の場所に戻し、体育館のステージに置かれたARフォンを取ってきた。
「ARコーンと同期してあるARフォンだ。確認してくれ」
清水と鳥坂は、ボタンを押してARフォンを確認した。従来のARフォンとは違い、黒い本体に銀色のラインが入っている。投影される、ランキングや安全確認の画面は、より鮮明になっていた。
「ちゃんと機能しているようです」
鳥坂が言い、三人はARフォンを装着した。
「じゃあ、行くよ――戦闘開始」
美紀彦が言う。鳥坂の視線を受け、清水は口を開いた。
「――戦闘開始」
バトルシーンっぽい音楽が流れ始めた。
「臨兵闘者――」
「開陳される無数の目はあなたを見ていますよ、美紀彦さん」
鳥坂が美紀彦の九字を受け流す。
「誰もがあなたをずっと見ている。突き刺さる視線、打ちつける言葉、誰も本当のあなたを見ない、スターとしてのあなたしか見ない。つらいでしょう苦しいでしょう、泣いていいですよ、弱い人間でいていいですよ」
鳥坂は素早く流れるように言った。
「ありがとう鳥坂くん。でも、本当の俺をちゃんと見てくれる人はいるんだよ。突き刺さる痛みの矢!」
「鋼鉄の盾は矢を跳ね返す!」
清水は防御した。目の前に重厚な盾が現れ、矢を跳ね返した。
「それは誰ですか?正体不明の影が喉仏を締め付ける」
「影を振り払う光。バンドメンバーや妻や子供だ。きみたちの持っていないものを俺は全部持っている」
「あ、結婚してたんですね。帰ったらネットに書き込もうっと」
「好きにしろ。情報の波に飲まれないといいな。無力な塵は水に溶ける。溶ける自分の手足が見えないか?」
「溶けるのは肉ではなく蝋!灼熱の牢に閉じ込められろ」
清水は、そう言った鳥坂がわずかに一歩下がるのを感じた。清水は、攻撃を任されたことを悟った。
「我が体は氷の牢にある。しかし、心は誰よりも高く空にはばたく」
「その心はメンバーや家族に支えられているのですか」
清水は言った。
「そうだ。だから俺はなにも持たないきみたちより強い」
「そんなに大切なものなら、どうして傷付けるんですか」
清水は、攻撃にならないかもしれないと思いながら、そう言わずにはいられなかった。
「少なくともバンドには迷惑かけてるでしょ。そんなに自分の思想が大事ですか。EOMが大事ですか」
「清水、責めるより普通に攻撃したほうが効果的だ」
鳥坂が言ったが、清水は美紀彦の言葉を待った。
「逃げないで答えてくださいよ」
「大事じゃないよ」
美紀彦ははっきりと言った。
「実を言うと、軽い気持ちで始めたことだ。バンドのほうがずっと大事だ」
「ならどうして」
「思い通りにならないことはある。それはきみもわかるだろ。きみたち二人にとって、月地さんはどういう存在?」
「話を逸らさないでください」
「きみたち二人とも月地さんのこと好きなんだろ、見ればわかるよ。どうにもならない膠着状態。大切なものを選べない。よくわかってるはずだよね」
「こいつは円のこと好きじゃありません」
清水は鳥坂に指を突きつける。
「清水、乗せられるなよ。美紀彦は冷静さを奪おうとして――」
「え、そうなの?きみの目がくもってるだけじゃない?」
美紀彦は驚いた顔をしてみせる。
「うるさい。俺の気持ちをこんなやつと一緒にしないでください」
清水は前に出る。
「あなたの上の天井が落ちてあなたを押しつぶす!こんなボロい体育館はいつ壊れてもおかしくありませんよ!」
「補強工事はしてある。そんなことは起こらない。きみの不安定な心臓に氷の棒を差し込んであげよう」
崩れ落ちる天井は一瞬で消える。清水は胸に強烈な冷たさを感じた。
「熱は清水を包み、さらに大きな熱があなたの氷の牢を溶かして水となる」
「瀑布が肉を打ち砕く!」
鳥坂の防御に、清水は攻撃を重ねた。
「滝を切り裂く竜巻!床を引きちぎり木片と共にすべて吹き飛ばす!」
水が暴風に巻き上げられて飛散し、床を破壊しながら向かってきた風が清水と鳥坂を吹き飛ばした。鳥坂と清水は床に倒れてうめく。
「うわっ」
清水は目を見開いた。脚に大きな木片が突き刺さっている。
「広がる痛みから目を背けるな」
激痛が走った。
「清水、耐え切れなかったらコールしていいぞ」
鳥坂が言ったが、清水は答えることも鳥坂に目を向けることもできなかった。
「美紀彦さん、ありがとうございます」
鳥坂は言った。
「強敵として存在してくれてありがとうございます。おかげで、また清水と一緒に青春っぽい気持ちを味わうことができました」
鳥坂も痛みがあるのか、声はかすれていた。
「美紀彦さんの今の成功につながった音楽漬けの青春と比べたら、俺の青春なんてゴミのようなものですけどね。でも、美紀彦さんの青春の月は、もう沈んだんですよ」
「コールしないのか?」
「美紀彦さんは、新しい月を見つけられずにいるでしょう。だからいつまでも青春の象徴なんかにこだわったりするんだ。バンドを結成した日の輝きなんて、もう戻ってこないのに」
「ずいぶんと自信満々に言うんだな」
「バンドが思い通りにならないから、EOMという外の活動に逃げているんじゃないかと思っただけですよ。ずっとなにかを続けていれば、変化が起きてうまくいかなくなっても当然ですよね」
「いつまでも変わらないものもある。月が三日月や満月になるように、外見を変えても――」
「月は近い内に緑の星になります。あなたはそんな月は認められないと言う。いつまでも本質は変わらないと信じているのなら、どうして認めないんです」
「それとこれとは」
「セレネも月も同じです。変化を認めないと」
「そうかもな。正直、変化に柔軟なきみたち若者が羨ましいよ」
「そうです。あなたは歳を取って、認められなくなっている。疲れているんですよ。体が鉛のようでしょう。疲れてるんだから、もう休みましょう。体が重い、重い……」
美紀彦はなにも言わなかった。
鳥坂は、痛みに歯を食いしばる清水の肩をつかんだ。
「清水の声じゃないとだめだよ」
清水はなんとか首をもたげて美紀彦を見た。
「美紀彦さん、見てください」
清水は天井を見上げた。
「太陽です。月に光を与える太陽は輝いてます。白い灼熱の触手を伸ばす太陽です」
体育館に、太陽が出現した。
「太陽の火のしずくが落ちます。肩に」
美紀彦は素早く肩に手をやった。
「熱から逃れたかったら、森に逃げ込むしかない。それが月の森でも。燃えたくなかったら認めるんです。そして俺たちに勝たせてください。勝利を譲ってください」
清水はなんとか息を吸い込む。
「火のしずく!灼熱!」
清水の大音声で、美紀彦は火に包まれた。
「燃えろ!」
炎の中で一瞬微笑み、美紀彦は言った。
「戦闘終了」
7章
もちろん、激痛はすぐに消えた。脚に木片は刺さっていなかったし、床は壊れていなかった。
美紀彦は微笑み、
「やっぱり強いな、きみたち」
と言った。
「でも、まだ開発途中ということもあって、イメージ再現明度の調節が少しうまくいってなかったらしい。お互いダメージの大きい戦闘になってしまったな。悪かった」
「いえ、俺は全然そんなことなかったと思いますけど」
鳥坂はわざと余裕ぶってみせる。
「俺たちに負けたからって、EOMの人たちは美紀彦さんから離れたりしないと思いますよ」
清水は、戦闘が終わった途端に、いつもの清水に戻る。
「それに、もし美紀彦さんがEOMから抜けたとしても、そのせいで暴走したりもしないと思います」
清水の言葉を聞き、美紀彦は黙って微笑んだ。
「別に俺たちがこの人に気遣う必要なくない?」
鳥坂は、ふてくされた顔で出て行こうとした。
「ちょっと待って」
美紀彦は、ARコーンと、新型ARフォンをもう一組持ってきた。
「ご褒美だ。ARコーンひとつと、ARフォンを四つあげるよ」
「要りませんよ」
鳥坂は戸惑ったように言う。
「そんな高価そうなもの、いただけません」
清水も手をひらひらさせる。
「いいんだよ。EOMの若い連中が迷惑をかけてすまなかった。正直、若い連中の対立感情がここまで高まるとは思ってなかったよ。俺があおってしまったせいだと思う。俺は、誰にも迷惑をかけるつもりなんてなかったんだ。ただ、月を守りたかっただけで……」
「月が好きなんですね」
鳥坂の言葉に、美紀彦はうなずく。
「青春の日々へのみっともない執着なのかもしれない。昔見てた月をずっと見ていたいと思ったんだ。月は、荒野だからこそ美しいと思ってた。でも、なにを美しいと思うかは人それぞれだし、なにに価値を置くかも人それぞれだ」
「前に円が言ってました。美紀彦さんも、実は月へ行きたいんじゃないかって……怒りますか?」
美紀彦は笑った。
「さあ、どうだろう。歳を食ったせいか、素直じゃなくなってるのかもな。もしかしたら、俺は純粋にリアルウォリアーが好きだっただけなのかもしれない。面白いゲームだろう?」
「ええ、まあ」
清水はうなずく。
「きみたち二人は、お互いを相手に闘ったことはある?」
「練習では……」
「一度、本気で闘ってみるのもいいかもしれない。その時は、ぜひその新しいARフォンでね」
「どうしてです?」
美紀彦の表情はつかみどころがなく、清水は戸惑う。
「正直になるのが難しいのは俺もそうだが、きみだってそうだろう?」
「どういうことですか?」
清水は眉をひそめる。
「きみじゃなくて、きみだよ」
鳥坂は、またふてくされた顔をした。
どうしてもと言う美紀彦からARコーンとARフォンを受け取り、清水と鳥坂が体育館を出ると、円が走り寄ってくるところだった。
「裕くん、高史!大丈夫だって言ったのに。二人が来てるって聞いて慌てちゃったよ」
「ごめん、円。どうしても様子を見に来たくて」
清水は、円が無事でほっとした。
「EOMからは抜けられたの?」
鳥坂の言葉に、円はうなずいた。
「うん。ちゃんと抜けたから。話したら、わかってくれた。美紀彦さんから、抜けたい人は引きとめないように言われてたみたい」
「よかった。大変なことにならなくて」
「じゃあ、さっさとこんなところから出よう」
鳥坂が言い、三人は校門を出た。
日差しが暖かい。今日は晴れ渡った空を憎々しく思うことなく、素直にいい日だと思える。もう終わったのだ。円はEOMから抜けたのだし、もう面倒に巻き込まれることはない――
「月地は月移住に応募するの?」
鳥坂は言った。
「やっぱりやめとく。わたしは地球人のままでいいや」
「だってよ、清水。清水は本当に月へ行くの?」
「え?どういう意味」
清水は目をしばたたく。
「月地が行かないのに、本当に月に行っちゃっていいのかってこと」
「なに?裕くん」
円も戸惑った顔で鳥坂を見上げた。
「さっき、清水が俺のこと、こんなやつ呼ばわりした。やっぱり、清水は俺のことが嫌いで、月地のことが好きなんだな」
清水は衝撃のあまり口が利けなかった。なんてデリカシーのないやつだ。ニヤニヤしながら円の前でそんなことを言うなんて信じられない。
「なんかあったの?」
円は冷静だった。
「美紀彦とリアルウォリアーで闘ったんだよ。その時に」
「勝ったの?」
円は目を丸くする。
「勝ったよ。まあ、二人がかりで美紀彦一人倒したって、あんまり嬉しくないけどね」
清水は立ち止まり、ようやく言葉を絞り出した。
「お、俺、鳥坂のこと嫌いじゃないからな。全然嫌いじゃないからな」
鳥坂はきょとんとする。円は目を逸らす。
「そんなにムキになるってことは、やっぱり嫌いなんだ」
円は悲しそうに言った。
「違うよ」
清水は目を大きくして必死に否定する。
「わたしのこと好きっていうことのほうには、なにも言わないんだね」
清水は言葉に詰まった。なんでこんなことになるのだ。鳥坂ふざけるな。
「こうなったからには、はっきりさせとかなくちゃ」
円は、清水と鳥坂の前に回り込んで正面に立った。
「ごめんね、高史。高史の気持ちには、ずっと前から気付いてた。でも、それなのに、高校の時も、裕くんとわたしと一緒に帰るのに誘ったりして、ごめんね。きっと、傷付けてたよね。わたし、裕くんと高史に仲良くなってほしかったの。そしたら、高史がわたしのこと諦めてくれるかと思って。ほんと、自分のことしか考えてなかった。でも、裕くんと高史は仲良くならなかったし、二人が普通に話してても、うわべだけ繕ってるのが見え見えだった。裕くんと高史が一緒にいるところに再会して、とうとう仲良くなったのかと思ったけど、違ったんだね」
「あ、そうだったの?そんな意図があって、清水も一緒にって誘ってたんだ」
鳥坂は手を打った。
「気付いて、たんだ」
清水は暗い表情で硬直していた。
「ごめんね、高史」
「謝ることないよ」
「でも……」
「てかさ、円と鳥坂は、なんで別れちゃったの?」
「ねえ、路上で立ち止まって話すのやめない?」
「裕くんはわたしのこと好きじゃないって思ったから」
円は鳥坂の発言を無視する。
「裕くんは、わたしのこと下の名前で呼ぼうともしないし、高史がわたしのこと好きだってことにも気付いてたのに、なにも言わなかった。付き合ってるのに、わたしだけが一方的に裕くんのこと好きみたいな気がして、つらくなっちゃったから、わたしから別れようって言ったの」
「もうやめようよ。こんなところでそんな前の話」
鳥坂は歩きだそうとした。
「ちょっと待て。俺にとっては大事な話なんだよ」
清水は、ひとつ気持ちを隠さなくてよくなったことで気が大きくなった。
「鳥坂、円になんか言うことあるんじゃないの」
「なんだよ」
「円の言ったことに対して、なにも言うことないのか」
「やめようって。人が見てる」
「誰もいないし」
「高史、もういいよ」
「円はまだ鳥坂が好きなの?」
「それは……」
「こんなやつのどこがいいんだよ」
清水は円を見て、鳥坂に指を突きつける。
「調子いいだけのノータリンじゃないか。こいつは、円のこと好きだったかどうかよくわからないとかほざいたんだぞ!やっぱり、こいつは最低だよ。高校の時も、俺はこいつを好きになろうと努力したよ。円から告白して付き合い始めたの知ってたし、円の好きな人だから。でも、好きになんかなれなかった」
「そっか。やっぱり嫌いだったんだ」
鳥坂はつぶやいた。
「そうだよ。お前なんか大嫌いだよ!」
声が裏返りながら清水が叫ぶと、沈黙が広がった。清水と鳥坂は互いの目を睨み合う。
その時、後ろから声がした。
「なんだかお取込み中っぽいところすみません」
振り向くと、若い男二人組が会釈していた。
「あ、柴崎さんと阿部さん」
円が言う。
「月地さん、EOMをやめたというのに追いかけてきてしまってすみません」
「でも、どうしても鳥坂さんと清水さんにリアルウォリアーのお相手をしていただきたいんです」
「ちょっと待った」
鳥坂は首を突き出す。
「あなたたち、一度闘ったことありますよね?」
清水は、二人の顔を見て思い出そうとしたが、よくわからなかった。
「はい。一度闘わせていただきました」
「俺と清水が勝ったと思いますけど」
「はい、俺たちが負けました。今から再戦していただけませんか」
「でもどうして」
「ついさっき聞いたんですが、美紀彦さんに勝ったそうですね」
「美紀彦さんを負けたままにしておくわけにはいきません」
「俺たちに勝つつもりってわけですか」
鳥坂の目の色が変わった。
「今からですか?」
「はい。今、ここで」
「そんな」
清水は声を上げる。
「無茶ですよ」
「大丈夫ですよ。住宅街で人通り少ないし」
「でも」
「清水、やろう」
「ちょっと今はそういう気分じゃないんだけど」
キレ気味の声を出す清水を、鳥坂は引っ張って行ってささやいた。
「あの二人、不自然に強かったやつらだ。覚えてるだろ」
「ああ……」
そういえば、美紀彦の時以外にも、言葉で実際に体を吹き飛ばされたことがあった。それがこいつらだったか。確か、ARフォンを改造しているかもしれないとかなんとか――
「もう一度闘ってみれば、なにかわかるかもしれない」
「でも、また危ない目に遭うかもしれないし、今度は負けるかも」
清水は、とにかく今は闘いたくなかった。
「清水と俺なら負けるはずないよ」
「お前、俺があんなこと言ったあとによくそんなことが平気で言えるな」
「とにかく、やろうよ」
「なに嬉しそうにしてんだよ」
「よし」
鳥坂は振り向き、円を見る。
「俺たちは闘うから、先に帰ってて」
「嫌だよ。見てる」
「危ないかもしれないから」
「危ないって?」
「彼女がそばにいたら危ないですよね」
鳥坂は、柴崎と阿部に意味ありげに言う。二人はなにも言わなかった。
「円」
清水は仕方なく言った。
「離れてたほうがいいよ。どっか店にでも入ってて」
「えー、でも」
「終わったら電話するから」
鳥坂に見つめられ、円は渋々その場を離れた。
「ARフォン持ってますか?なかったらお貸しします。俺は柴崎といいます」
「俺は阿部です」
鳥坂と清水は、渡されたARフォンを確認した。向こうが改造したもので勝負しようとしているのなら、簡単にバレるような細工をするはずはなかった。それに、向こうのARフォンだけが改造されている可能性のほうが高い。
「なあ」
今度は、清水が鳥坂を引っ張って行ってささやいた。
「さっき美紀彦さんからもらったARフォンで勝負すればいいんじゃない?」
「あれはARコーンと同期してある。こんなところで外から丸見えの勝負ができるか。それに、あいつらにこっちのARフォン貸したら、あいつらの秘密がわからないし、意味ないだろ」
清水は引き下がるしかなかった。
四人は、ARフォンを装着し、向き合った。
「戦闘開始」
柴崎が言った。
鳥坂の視線を受け、清水が応える。
「戦闘開始」
「鳥坂、俺がお前の胸にナイフを突き立てる!」
バトルシーンっぽい音楽が流れ出した瞬間、柴崎が言った。
鳥坂は胸を押さえた。指の間からナイフの柄が突き出ている。
鳥坂はそのままうしろに倒れた。
「ええ!?嘘」
清水は軽くパニックに陥った。こんなに簡単にやられる鳥坂など見たことがない。
「鳥坂!ナイフなんか刺さってないぞ!よく見ろ!なにもないなにもない!」
清水が叫ぶと、鳥坂は咳き込んだ。
「サンキュ、清水。って痛!」
鳥坂は体を起こすと、また胸を押さえた。
「え?なにも言ってないよな」
相手二人を見ると、柴崎と阿部は薄笑いを浮かべている。
「清水、炎をまとった拳に殴られろ!顔が燃える!」
阿部が言ったその瞬間、清水は見えない力に殴られて後ろに吹っ飛んだ。顔が熱い。熱いなんていうものではない。焼けそうだ。
「ほとばしる冷水は熱を消し去り乱暴な言霊を生む口にもぐりこんで喉を詰まらせる」
鳥坂は、滑らかな滑舌で声を張ったが、清水の顔の熱さは、軽減されたものの完全には消えなかった。
「喉に気をつけたほうがいいのはそっちだ、鳥坂」
阿部は言った。鳥坂の攻撃はまったく効いていない。
「俺の喉に気をつけろ。俺は槍を吐き出し、音速で阿倍の喉に突き刺す」
鳥坂は槍を投げる動作をした。清水には、鳥坂の手から離れた槍が阿部に突き刺さるのが見えた。しかし、阿部は笑っていた。
「鳥坂の首に巻き付く細縄。大蛇よりも強く締め付けろ」
鳥坂はうめいた。首に縄が巻き付いている。両手の指先をねじ込んで緩めようとするが、ぎりぎりと縄が締まる音が収まらない。
「今切るから!俺はナイフを持ってて、うまく縄だけ切ったぞ!ほら!」
清水は鳥坂の首を引っかいた。しかし、縄は外れない。
「切ったって!なんで!?聞こえないの!?柴崎、阿部、今すぐ鳥坂と同じ目に遭え!鳥坂の縄の百倍の力で喉を押しつぶされろ!」
清水の大音声にもかかわらず、二人は余裕の表情で立ったままだった。
「早くしないと、鳥坂さんが死んじゃいますよ」
柴崎の言葉に、清水は鳥坂に目を戻す。首の縄に手をかけた状態で座り込んだまま、前に倒れて動かなかった。
「戦闘終了!」
清水は叫び、ARフォンをかなぐり捨ててひざまずいた。
「大丈夫?」
すぐに顔を上げると思っていたのに、鳥坂は動かなかった。
「おい、鳥坂」
揺さぶっても反応がない。
「ええ!?なんで、嘘だろ。しっかりしろ!」
柴崎と阿部は、貸したARフォンを回収もせずに立ち去ろうとしていた。
「ちょ、お前ら待て!」
清水は追いかける。
「ふ、ふざけんな。人殺し!」
二人は笑いだした。
「死んでませんよ。生体反応はモニターしてますし」
柴崎は、外した自分のARフォンのボタンを押し、画面を投影して見せた。今まで見たことのない画面だ。
「柴崎は医学部の秀才。それで俺はネットセキュリティ会社勤めのプロのハッカー。まあ、こんな遊びがバレたら、クビになっちゃうけど」
「遊び……?」
「気付いていると思いますが、改造ARフォンです。イメージ再現明度を書き換えておきました」
「前にきみたちと闘ってから、頑張ってさらに改造プログラムを書き直したんだよ。これを使えば、簡単に相手を痛めつけられて、犯罪にもならないってわけ。まだこれを規制する法律はないからね。こんなくだらないものでも、手に入れたい連中はいるだろうね」
「リアルウォリアーっていうゲームは、ARフォン次第でどうにでもなるのに、それを真剣にやってるなんて、あなたたちって本当に馬鹿ですよね」
「美紀彦も馬鹿だよな。ARフォンをいじくったほうが勝ちで、声のよさも頭の回転も関係ないのに」
「言っときますけど、告発しようとしても無駄ですから。今は証拠も罪状もないし」
「EOMとかいうくだらない団体からももう抜けるし、改造フォンを試す必要ももうなくなったから、リアルウォリアーをするのもこれで終わりだな」
「もう会うこともないでしょうが、お元気で」
柴崎と阿部は背を向けた。
ぽかんと二人の背中を見ていた清水は、我に返って鳥坂に駆け寄った。
「鳥坂!死んでないんだよな!?起きろ!お前になにかあったら円に顔向けできないよ!」
その時、鳥坂が咳き込んで体を起こした。
「よかった!心配させんな!」
清水は鳥坂を張り倒した。
鳥坂は、すぐには立ち上がることができなかった。気持ち悪いとか、ふらふらするとか言い、胸の痛みも訴えた。しかし、しばらくすると、立って歩けるようになった。清水は、まだ顔がピリピリするのを感じていた。
円にはなにも言わないでおこうとしたのだが、合流した時、鳥坂がふらついたので、話さざるを得なかった。
「病院行く?」
円は心配そうに言った。
「大丈夫だよ。どうせ機械が作り出した妄想から来る症状なんだし」
鳥坂は不機嫌そうに言う。円は言葉を重ねた。
「でも、思い込みでも死んじゃうことだってあるんだよ。ほら、目隠しした人に痛みを与えて、水が滴る音を血の音だって言ってだまして、大量出血してると思い込ませると、実際は一滴も血が出てないのに本当に死んじゃったっていう実験が」
「大丈夫だって。病院行ってもなんて言ったらいいのかわかんないってのもあるけど、そのうち治るよ。清水も大丈夫だよな?」
「ああ、うん」
その時、鳥坂が額に手を当てたので、まためまいでもしたのかと清水はひやっとした。
「あーもう、うざいなあ。清水の聞いたところによると、そいつら、改造フォンを売って儲けようとしてるんだろ?意地汚いやつらだ」
「ほんとだな」
「やっぱり俺たちって、馬鹿だったのかな。リアルウォリアーなんかマジになってやって」
鳥坂の暗い声に、清水は言葉を返せなかった。否定できなかったからだ。リアルウォリアーは、ARフォンという機械に支配されたゲームだった。そのことに、今まで気付かなかったとは。ARフォンに、公平性というものが深く組み込まれていればよかったのに。
「柴崎さんと阿部さんがそんな人だったなんて。わたし、美紀彦さんにメールする」
円は、携帯端末を取り出して操作した。
清水と鳥坂と円は、円の隠れ家の方向へ街をゆっくりと歩いた。日が沈む頃、三人は、廃倉庫があるのとは別の小高い丘に登った。古びたあずまやと草があるだけで、ほかにはなにもない。
「なに、ここ?」
鳥坂は辺りを見渡す。眼下には、光を灯し始めているごみごみした街が見え、ずっと先には、海が線のようにわずかに姿を見せていた。
「隠れ家二号」
円はあずまやのベンチに腰を下ろす。
清水と鳥坂も、円形のベンチに微妙な距離を取って座った。
「あー疲れた」
鳥坂はささくれ立った木のテーブルに肘をついて頭を支える。
しばしの沈黙のあと、円が空を見上げた。
「月が綺麗」
紫色の空に、満月が浮かんでいる。白く輝く球体には、緑と青のまだらが点在していて、まるでカビの生えた宝石のようだった。いくつも点在する環境改造ドームが、地球からも模様として見えるのだ。
「俺たちの子供の頃は、まっさらでもっと綺麗だったのにな」
鳥坂は、腕を枕にして空を見上げた。
「ねえ、裕くんは、どうして月へ行きたいの?」
円は尋ねる。
「どうしてだろ。なんか俺、行き当たりばったりに生きてるから」
「わたしと付き合ったのも、行き当たりばったりだったんだ」
円は、かすかに微笑んだ。
「まあね。でも、月地が俺に告白してきた時、ほんとに嬉しかったんだよ。なんで嬉しかったかって訊かれてもわかんないけど、その気持ちに嘘はないよ」
円はうつむく。
鳥坂は、視線を感じたように清水を見た。
「なに睨んでんだよ」
「またお前はそうやって調子いいこと言いやがって」
清水は怒りに震えながら言った。もう遠慮もなにもない。
「お前がそんなんだからいつまでも円はな――」
「わかったよ。ごめん悪かった」
鳥坂は降参のポーズをする。
「高史はどうして月へ行きたいの?」
円の言葉に、清水は言葉を詰まらせた。
「えっと、なんでだろ」
用意していた立派な理由はあった。詩人として、新しい世界を記録する役目があるとかなんとか。しかし、いざ言葉にしてみようとすると、とてもくだらなく思えてしまう。もうこの二人に対して恰好をつけても仕方がない。
「俺、なんか、うまくいかないことばっかりでさ。勉強も、人間関係も、全部つまずいて。どっかに、逃げたかったんだよね。それが月でも、どこでも」
「そっか」
円は、それ以上はなにも言わなかった。鳥坂は、頬杖をついて月を見ながら言う。
「俺は、清水のSNSをこっそり見てたから、ちょっとは察してた」
「てかさ、なんで俺のSNS見てたんだよ。それに、なんでいきなり俺のところに来たわけ?」
「清水と接触するきっかけを探ってたんだよ」
に、と鳥坂は笑う。
「はあ?」
「俺、俺のことを嫌いなやつのことがなんか気になってほっとけなくてさ。そういうやつと仲良くなりたい衝動があって」
「はああ?理解不能なんすけど」
「清水、ほんとに遠慮がなくなったよね。俺に心を開いてくれたってことだよなあ。俺、こんなに清水と仲良くなれると思ってなかったよ」
「仲良くなってないし」
「筋金入りの俺嫌いの清水を俺は攻略したわけだ」
「気持ち悪い。鳥坂のこと好きなやつのことはどうなんだよ。円のことはどうでもいいのか。お前ってやつは変人だし本当に最低な――」
「まあまあ、もういいじゃん」
円はあきれた顔をする。
「ゆっくり落ち着いて月を鑑賞するぐらいできないかなあ」
「ロマンチスト」
鳥坂はわざと罵るように言う。
「なにその言い方。そっちの感性が貧困なんだよ」
「でも、考えてみれば」
清水は月を見上げた。
「月に行きたいとか言っときながら、月を見上げることなんてなかったな。久しぶりに月を見た気がする」
「うーん、俺もそうかも」
「お、気が合うじゃん」
抗議しようとした時、清水の頭の中に月世界が広がった。
『銀色の荒野。無機質で構成された清浄なる大地のみが広がる。凍てつく光、完全な円形の地面のくぼみ、満天の星空、ひときわ大きく見えるのは、複雑な白いマーブル模様をまとったコバルトブルーの星――』
「どうした?」
頭を押さえた清水に、鳥坂が呼びかけた。
「あ、うん。ちょっと、テキスト化が」
まだ治っていなかったのか。忘れた頃にテキスト化が再びやって来るとは。しかし、今度はさほど不快でもなかった。本当に一瞬、月世界が見えたような気がした。想像上の月面に立って見る景色は、美しかった。
見上げると、暗くなった空に、人工のまだらをまとった月がある。それはそれで美しいと思えた。あの空の現実の月には、果てしない銀色の荒野など、もはや存在しない。茫漠とした大地のみが広がる月、人が住むことのできるドームが張り付いた月。現実には、その両方が同時に存在することはできない。
「なんか、いきなり月面が見えてさ。それでテキスト化が――」
「なに?テキスト化って」
「テキスト化症候群だよ」
鳥坂が円に説明するのを聞き流しつつ、清水は目を閉じた。再び、月世界が広がった。
清水は口を開いた。
「白い大地、なだらかな稜線はクレーターの縁だろうか、自分の影が黒くはっきりと伸びている。星空から、なににも遮られず、直に清冽な光が降っているのを感じる――」
思わず、頭の中の文章を声に出した。自然と言葉が溢れ出て、とまらない。
清水は、月世界の描写をつぶやき続けた。二人にどう思われるかなど、考えられなかった。自分のコントロールを離れた言葉の前に、なすすべがない。
「ちょっと待って」
鳥坂が慌てたように言ったが、清水は言葉に身をゆだねたまま、描写し続けた。
鳥坂は、清水の頭になにかを乱暴に取り付けた。目を開くと、円にARフォンをつけさせ、自分もARフォンをつける鳥坂がいた。
鳥坂がポケットから、黒いアポロチョコのようなものを取り出し、テーブルに置く。
「戦闘開始。清水、戦闘開始って言って」
「戦闘開始?」
「続けて」
鳥坂はARフォンを操作し、バトルシーンっぽい音楽をとめる。
「巻き上がる銀の塵、向こうに見える闇と光の境界線、硬い大地に一歩足を踏み出すと、宇宙へ飛んで行ってしまいそうに感じるほど明瞭に広がる天の星々――」
清水が言った瞬間、そこは月面になった。
「うわあああっ」
清水は、見えなくなった椅子から立ち上がる。
「清水、そのまま続けて。俺も、頑張って想像するから」
月面に置かれた透明な椅子に座った鳥坂は微笑んだ。円は口を開け、石と光と闇と星の世界を見回している。
清水はうなずく。唾を飲み込み、浮かんでくる文章を声に出した。静寂の中、水のように抵抗なく、喉から舌、唇を伝わって言葉が空中に流れる。月世界が鮮明になっていく。本当に別の世界にいるみたいだ。気持ちいい。
ここは人の手がつけられていない過去の月だ。人を寄せ付けない孤高の星。人に優しい人工の月と、両方は選べない。どちらかしか選べないのなら、選べなかったほうを惜しんで、忘れないようにしよう――
三人は、無機質の世界に、黙って漂っていた。
清水の言葉が途切れた時、どのくらい時間が経ったのかわからなかった。まだらの月が浮かぶ空に、星が瞬いている。終わったあとも、しばらく三人は黙っていたが、気がついたように、鳥坂が口を開いた。
「俺にとっては、清水は詩人だよ」
清水は、銀のラインが入ったARフォンを外し、苦笑する。
「描写するだけで詩人になれたら、苦労しないよ」
三人はARフォンをテーブルに置いた。
円は目を押さえていた。
「ま、円、大丈夫?」
清水は円の顔をのぞき込む。
「……あ、あんな綺麗なもの、初めて見た」
円はハンカチを取り出して涙を押さえ、すすり上げる。
「ちょ、そんなに?円、泣かないで」
おどおどする清水に、笑う鳥坂。
「やっぱり月地はロマンチストだ」
「うるさい」
「でも、ARフォンにこんな使い方があったんだね」
清水は、美紀彦からもらったARフォンに触れる。
「イメージの共有、か。あれを見られただけで、ちょっとはリアルウォリアーをやってたかいがあったかな」
不覚にも、鳥坂の言葉は嬉しかった。
清水が、このARフォンとARコーンをどうするか、と言うと、鳥坂と円は、もう満足だし、要らないと言った。
三人は、廃倉庫に戻る途中、ARフォンを叩き壊し、ARコーンと一緒にゴミ捨て場に捨てた。いくらするのか知らないが、高価であろうものを惜しまずに捨てるのは一種の快感だった。三人は思わす笑みを漏らした。
8章
清水は、廃倉庫から自宅へ戻っても、幸せな気分に浸っていた。
廃倉庫で、植物に水をあげるのを忘れたと騒いでいる鳥坂を無視し、円はじっと清水を見上げて言ってくれたのだ。「あんなに綺麗なものを見せてくれてありがとう。高史には言葉の力があるんだよ」と。
清水には、その言葉だけで十分だった。
自室の机の前で、ぼんやりと頭の中の円を眺めていると、携帯端末が鳴った。
鳥坂からの着信だ。
清水は、幸せな気分をぶち壊された怒りと悲しみを押し殺しながら、電話に出た。
「改造フォンを販売してる裏サイトを見つけた」
相変わらず前置きなしで鳥坂は言う。
「でも、全部売り切れてる」
「ええ?売り切れ?」
「うん。いくつか種類があって、イメージ再現明度の書き換えレベルが違うらしい。低いレベルだと、リアルウォリアーが強くなるっていう程度みたいだけど、最強レベルになると、それで人を殺すこともできるらしい。説明書きにそう書いてある」
「そんなことを堂々と……」
「でも、人を殺せと書いてあるわけじゃないし。安全装置として、素人でもわかる相手の生体モニター機能もついておりますとか書いてあるし」
「でも、殺人できるものを売るなんて」
「そうしたら、包丁もバットも売っちゃいけないことになるだろ」
「市販のゲーム機を改造して売るのは違法でしょ?」
「だけど、たいした罪にはならないだろうな。警察も真剣に動いてくれるかどうか」
「動いてくれないとまずいじゃん」
「そうだな。改造フォンには、かなりの値段がついてた。元手も相当かかってるはずだから、本気で儲けようとしてるはずだよ。入った金で、さらに改造フォンを作って、大量に売るつもりかもしれない」
「そういえば、円が美紀彦さんに伝えたんだよな?なんの反応もないの?」
「じゃあ、ちょっと月地に訊いてみる」
二時間後、三人は以前のファミレスにいた。
「改造フォンが売り切れてたのは、美紀彦さんが買ったからだよ」
円は言った。
「美紀彦さんもそのサイトを見つけて、とりあえずほかの人の手に渡らないように、全部買ったんだって」
「あの値段のものを全部買ったの?さすが」
鳥坂は無駄に感心する。
「じゃあ、また売り出されるまでは、とりあえず安心していいのかな?」
清水の言葉に、円は表情を曇らせる。
「それが、美紀彦さんが買うまでに、何個か売れちゃったらしいんだよね。三種類あった改造フォンの数が合ってなかったみたいだから。普通、それぞれ同じ数でそろえて売り出すでしょ?だから、売れちゃったんじゃないかって」
「最強レベルのやつも、売れちゃったの?」
鳥坂の言葉に、円はうなずいた。
「やばいじゃん、それ」
「だから、美紀彦さんは、警察に通報するって。それに、迷ったみたいだけど、EOMから抜けるって」
「EOMから抜ける?」
清水と鳥坂は声をそろえた。
「うん。こういう事件が起きたからには、EOMにいると本当に音楽活動に支障が出るからって。それに、改造フォンの危険性を訴えるためにも、そのほうが説得力が増すだろうって。自分のせいで無駄に日本のEOMの若い人たちが過激化したんじゃないかって責任も感じてるみたいだし」
「そっか……」
「てかさ、俺を殺しかけた柴崎と阿部ってやつは、今どこにいるの?」
「それが、わかんないの。美紀彦さんが連絡をつけようとしたんだけど、どこにいるかわからないって。わたしは連絡先知らないし」
「あの二人はもとから、リアルウォリアーをして改造フォンを試すためにEOMにいたみたいだし、美紀彦さんからの連絡を受けるはずないよね」
清水は、阿部の発言を思い出して言った。美紀彦を馬鹿呼ばわりし、EOMをくだらない団体と言っていた。
「思ったんだけど、美紀彦さんと一緒に警察に行って、証言したほうがよくない?裕くん、殺されかけたんでしょ?」
「証拠がないし。それよりも、ARフォンのことをよくわかってるアニマダストを警察に引っ張ったほうがいいような。でも、そんな改造はできるはずありませんとか、保身に走りそうだよなあ」
「でも、改造フォンで事件が起きる前に回収したほうがアニマダストにとってもいいだろうし、協力してくれるかもよ。鳥坂、アニマダストの人から名刺もらってたじゃん」
「俺が連絡するの?えー」
「大変なことになる前に、手を打たないと。美紀彦さんばっかりに任せてるのもあれだし。鳥坂だってなんとかしたいんだろ」
「わかったよ。電話するよ」
鳥坂は、部屋にあるはずの名刺を探して、アニマダストの社員に連絡することを約束した。
翌日、再び鳥坂から電話があった。アニマダストの社員に電話したところ、思ったよりも真剣に対応してくれたらしい。アニマダストとしては、できれば、美紀彦と清水と鳥坂とアニマダストの社員とで、一緒に警察署へおもむいて相談したいとのことで、美紀彦にもアニマダストから連絡を取って、日程の調整をするということだった。
清水は、そうしているうちにも、改造フォンを購入した誰かが事件を起こさないかと気が気でなかった。それは鳥坂も同意見だったが、二人にはなにもすることができなかった。
しかし、美紀彦の対応は上を行っていた。
美紀彦は、EOMから脱退することを表明し、改造フォンのことを告発した。そして、改造フォンが回収されて安全が確認されるまで、リアルウォリアーをプレイしないように呼びかけたのだ。
美紀彦のコメントはネット上で拡散され、人々の話題に上った。美紀彦の対応に引きずられるように、アニマダストはARフォンの販売を停止した。このことで、警察も事態の重要性を理解し、捜査を開始した。
これで事態は収束するかに思えた。柴崎と阿部が逮捕されるのも時間の問題だろうし、改造フォンも回収されるだろうと。捜査に協力するため、都合のついた美紀彦と、アニマダストの社員とともに、清水と鳥坂は警察署へおもむくことになったが、清水は気楽だった。美紀彦が呼びかけたおかげで、事件は起きようがない。自分は、できる限りの証言をして、あとは警察に任せて大丈夫だと思った。
柔らかい光の差す午後。清水と鳥坂と美紀彦と、村田というアニマダストの社員は、喫茶店で待ち合わせをして、警察署へ向かった。
「このたびはご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」
村田は、警察署への道を歩きながらも、平身低頭していた。
「村田さんが悪いわけではないんですから、謝ることないですよ」
鳥坂はいつもの余裕な態度で言った。
「しかし、自社の製品のせいでこのような事態に――」
「実際に被害をこうむった鳥坂くんがこう言ってるんですから」
美紀彦も、村田をなだめる。今日はマスクをしていないが、美紀彦はニット帽をかぶっただけでも、写真や映像で見る時と大分印象が変わる。
「いえ、自社の開発にご協力いただいていた大場さんにもご迷惑をおかけしてしまって。ところで、わたしは大場さんとお会いするのは初めてですね。リアルウォリアー、とてもお強いと聞いています。というか、とても有名な方なので、お会いできて感激です」
「ありがとうございます」
美紀彦はクールに答える。
清水は、この村田という社員、結構調子のいい人だな、と思った。
警察署の前まで来た時、清水は、街路樹の陰から現れた男に目を引き付けられた。Tシャツに短パンの、どこにでもいそうな若い男だった。どうして目にとまったのか、一瞬だけ不思議に思ったが、すぐにわかった。男が、手に下げた紙袋から、包丁を取り出したからだ。殺気を無意識のうちに感じたのだ。
「み、美紀彦か?」
包丁を持った男は、どもりながら言った。震える包丁の刃先は、美紀彦へ向いている。
通行人たちが、悲鳴を上げて逃げていった。
「え?ちょちょちょ、マジで?」
「うわああ、お、落ち着いてください、落ち着いて!」
鳥坂は清水の袖を引っ張り、村田は腰を引いてあとずさった。清水は硬直してしまい、身動きができなかった。
「はい、わたしは大場美紀彦です。まずはそれを仕舞ってから、冷静に話しましょう」
美紀彦は、落ち着き払って言った。こんな時でも、清水は心の中で感心した。
「ど、どうしてそんなに落ち着いている?」
包丁男も、同じことを思ったらしい。
「あなたのほうこそ、どうしたんですか?話を聞かせてください」
「あんたは、ただもんじゃない。俺みたいなゴミとは違う。なんで、俺の邪魔をするんだ」
男は、滝のように涙を流し始めた。
「高校の時、俺をいじめていたやつを、痛めつけてやろうと思った。殺そうなんて思ってない。やっとチャンスが来たと思ったのに、お前がリアルウォリアーをやるななんて呼びかけるから」
「あんた、改造フォンを買った人?」
鳥坂は、泣き始めた男を見て恐怖心が薄れたのか、大胆にも、前に出て言った。
「みんな俺の邪魔をするんだ」
男は、包丁を構えたまま涙を流し続ける。
「どうしてここに美紀彦さんが来るってわかったの?」
「ARフォンを買った人から聞いたんだよ。その人は、アニマダストの社員から聞いたって言ってた」
「ええ?」
村田は驚きの声を上げる。
「ARフォンの改造には、アニマダストの人が関わってるんだよ。柴崎さんって人が言ってた。仲間なんだって。それで、美紀彦は敵だって。美紀彦のせいで、全部だめになるって。もう終わりだって」
「嘘だあ」
村田は頭を抱える。
「なるほど。そうだったのか」
鳥坂はうなずく。
「お前、誰だよ!?」
男は、刃先を鳥坂へ向けた。
「いや、俺はただの通りすがりの」
鳥坂は両手をあげる。
「美紀彦の仲間なんだろ!」
「とりあえず落ち着きましょうよ。投げやりになっても、いいことないよ?」
「みんな俺の邪魔をするんだ。もう誰でもいいから、殺して死刑になってやる」
「ちょっと、待って」
「うわあああ!」
男が突進してきた。
「鳥坂!」
清水は、鳥坂を横に押しのけるようにした。しかし、包丁は鳥坂の腕を切り裂いた。
「うわあああ!」
悲鳴を上げたのは、鳥坂ではなく、清水のほうだった。切られたシャツと赤い血。清水は取り乱す。
その時、警察署から署員が駆けだしてきて、速やかに男を取り押さえた。男は、子供のように泣き叫ぶ。
「出てくんのおせえんだよ!!」
清水は思わず、署員に向かって怒鳴っていた。
「お前、ふざけんな!」
次は、包丁を取り上げられた男へ指を突きつける。
「よくも鳥坂に怪我させたな!円が悲しむだろ!許さねえ!」
もう少しで、清水も取り押さえられてしまうところだった。しかし、すんでのところで正気に戻った。清水は瞬時に踵を返す。
「と、鳥坂、大丈夫?」
ひざまずいていた村田を押しのけ、座り込んでいる鳥坂のほうへ膝をついた。
美紀彦に腕をハンカチで押さえてもらっている鳥坂は、清水を見て微笑む。
「ごめん、調子乗りすぎた」
清水は、なぜか泣きそうになりながら、ため息をついた。
その時、村田は、清水に押しのけられて地面に倒れた体を起こし、清水を驚愕の目で見た。
「なんていい大声なんだ」
清水は、病院の待合室にいた。駆け込んできた円を見て立ち上がる。
「高史!裕くんは大丈夫なの?」
円は清水を捕まえる。
「腕を数針縫ったって。でも、後遺症も残らないって言ってたし、大丈夫だよ」
「どこにいるの?」
「そっちの病室。多分、もうそろそろ鳥坂の親も来ると思う」
二人は、病室に入った。右前腕に包帯を巻いた鳥坂は、パイプ椅子に座っている。
「裕くん」
円は言葉を詰まらせた。
「おお月地。来たの?」
顔を上げた鳥坂は軽く言う。
「来たの?って、心配して飛んできたんだよ」
「大丈夫だよ。でも、ちょっと貧血っぽくなっちゃってさあ。しばらく休んでいっていいって言われた。そしたらすぐ帰れるよ。鉄分摂らないと、鉄分」
「大丈夫そうだね」
円は息をついた。
「でも、痛かったでしょ」
「いや、全然」
「嘘」
「ほんとだって。まさかほんとに向かってくるとは思わなくてさ。驚いちゃって。警察署の真ん前だよ。警察も、まさかあそこであんなことがあるとは思わなかっただろうね」
「無茶するなよ。お前になにかあるとほんとに迷惑なんだよ」
清水は、へらへらする鳥坂を睨む。
「美紀彦さんも、さっきまで心配して一緒にいてくれただろ」
「すごく謝られたな。あの人が悪いわけじゃないのに。でも、あの調子だと、お詫びになんかしてくれそうだよね。ライブに招待してくれたら、月地も連れてってあげるよ」
「なに言ってんの!?」
円は叫んだ。
「こんな……こんなことになったっていうのに、もうちょっとシリアスにできないの?」
「ごめん」
鳥坂はうつむく。
「この世の中、なにがあるかわかんないんだよ!その犯人も、かわいそうな人なのかもしれないけど、そういう、かわいそうで頭のおかしい人だっていっぱいいるんだよ。もっと気をつけないと」
「ごめん。心配かけて」
「この前だってそうだよ。ARフォンを改造してるかもしれないのわかってたのに闘ったりして」
「ごめんって」
鳥坂は顔を上げる。
「でも、あいつが捕まったことで、柴崎と阿部と、改造フォンに関わったアニマダストの社員のこともわかるんじゃない?」
「そんなことどうでもいいよ」
円は、鳥坂の足元にひざまずいた。
「わたしは、裕くんに何事もなければ、それでいいよ」
そう言って指で目元を拭う。
「ありがとう」
鳥坂はじっと円を見た。
沈黙のあと、清水は口を開いた。
「俺、鳥坂の親が来ないか、向こう見てくるよ」
清水は、そそくさと病室を出ようとした。
「清水、ごめん」
鳥坂は清水を見て言った。
「迷惑かけて。そもそも、俺が誘わなければ、こんなことに巻き込まれなかったのに」
「いいよ、そんな。鳥坂が真面目に謝ってるなんて、なんか気持ち悪いよ。あ、円にはちゃんと謝るのが正解だけど」
清水は、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「ありがとうな、色々。もう、一緒にリアルウォリアーをやることもないな」
鳥坂は言った。
清水は、病室を出て、ゆっくりと扉を閉めた。
「清水さん」
清水は、呼びかけられてびくりとした。
すぐそばに村田がいた。
「村田さん……まだいたんですか」
「こんな時になんなんですが、清水さんにお話したいことがあります」
9章
清水は、久しぶりに駅前の繁華街に出てきていた。巨大街頭ビジョンを見上げる。流れているニュースの中に、月移住の文字が見えたのだ。
『月移住応募期間終了、EOMの活動下火』
清水は、人の流れから外れて立ち止まる。
街頭ビジョンの中で、アナウンサーがニュースを読んでいる。
「国際連合による、一般第一月移住者の公募が締め切られました。約一年後を目標に、審査で選ばれた月移住者が発表される予定です。月移住に反対する団体・『月の眼』通称・EOMの活動は下火となっています。日本EOMも、人気ロックバンド・セレネのギタリスト・MIKIHIKOさんが脱退を表明してから、活動が沈静化しています」
街頭ビジョンには、セレネのライブ映像が大写しになった。マイクスタンドを抱えて身を乗りだしながら歌うKOUJI、クールな表情で華麗にギターの上で指を踊らせる美紀彦。これからは、本当に仲良くやっていってほしいものだ。
清水は、待ち合わせ場所へ急いだ。
清水は、駅前の犬の像の前にたどり着いた。息を弾ませ、スーツ姿の若い男性に頭を下げる。
「遅れてすみません」
「お、清水さん。じゃあ、行きましょうか。競技場の視察」
村田は破顔した。
最大の広告塔であった美紀彦が脱退したことで、日本EOMの熱は一気に引いていった。海外のEOMの活動は続いていたが、国連は、人類が宇宙に足を踏みだした記念すべき第一歩であり、神聖な地として、特に予算を割いて月を守り続けることを誓う声明を出し、なんとかEOMをなだめた。環境改造ドームで月面全体を覆う当初の計画を縮小し、月の荒野を保存すること、環境改造ドーム内の汚染を防ぎ、将来的にドームを破棄する事態を避けることなども明言された。結果、EOMは、大規模なテロ行為に及ぶことはなかった。
月移住計画は着々と進んだ。
一方、アニマダストは、改造フォンの事件を受け、危険なゲームを作った会社として叩かれた。そのうえ、ARフォンの改造に関わっていた社員が逮捕されたことで、さらに追い詰められた。柴崎と阿部も逮捕され、改造フォンはすべて回収されたが、リアルウォリアーをプレイする者はほとんどいなくなった。しかし、アニマダストは、改造不可能なARフォンを新たに開発したうえ、リアルウォリアーを競技場で観戦して楽しむものに変えてしまった。リアルウォリアー専用の競技場を完成させ、リアルウォリアーを『観戦できる言葉のスポーツ』として売り出したのだ。それまでリアルウォリアーを知らなかった人々も、プロの派手なバトルを観て楽しむため、競技場に足を運ぶようになった。
結果、アニマダストは収益を伸ばすというミラクルを起こした。そして、ゲームに新たな境地を開拓した会社として、圧倒的知名度を誇るようになったのだった。
改造フォンの事件から、約一年が経っていた。
今やアニマダストの象徴となった、赤い屋根の円形の体育館のようなリアルウォリアーの競技場。その裏口駐車場に、一台の高級車が乗り入れた。
運転手が車をとめると、後部座席から、一人の男が飛び出した。
「やばい、もう始まっちゃう!」
裏口から廊下を疾走する。
「ちょ、清水さん!なにやってたんですか!」
「すみません、寝坊してしまって」
清水は、鬼の形相の村田に頭を下げる。
「もうヘアメイクなしでこのまま行ってください。相手の戦闘傾向とか把握してますよね?アマチュアリーグ優勝、プロとの対戦は初めてってことももちろん知ってますよね。なにしろ今日の相手はあの――」
「あ、すみません、資料に目を通す時間が――」
「もう、しっかりしてくださいよ!まあ、負けるなんてことはないでしょうが」
村田は、清水にARフォンを押し付けた。
「もう行ってください」
「はい。頑張ります」
清水はARフォンを装着し、通路で待機してから、音楽の合図で、プロのゲーマーのみがくぐれる門をくぐった。
円形に取り囲んだ客席から、巨大な歓声が上がる。清水が手を振ると、さらに歓声は大きくなった。この瞬間はいい気分だが、未だに慣れない。
清水は、先に入場していた、アマチュアからの挑戦者を見た。目を引くいでたちだ。アコースティックギターを抱え、なにかを背負っている。草の生えた鉢植え?
「鳥坂!」
清水は目を見張った。
「久しぶり」
きらびやかな笑顔。鳥坂は芝居がかった仕草で片手をあげる。
「なんで!?月に行けなかったの?円とはどうなったの?」
「話してるとエンターテイメント性が損なわれるぞ。お客さんが見てる」
「あ、そうか」
「戦闘開始」
鳥坂は言う。
「せ、戦闘開始!」
清水は、観客サービスの大声で宣言した。
会場全体にバトルシーンっぽい音楽が流れ始める。
「じゃあ、挑戦者の俺からいきます」
鳥坂は余裕そうな表情で言い、音楽に合わせてギターを弾き始めた。
「らんらんらんららんあいしーんぐ」
変な歌を歌い始める。あまりに奇妙な事態に、客が静かになった。
「ちょ、なにやってんだよ」
清水は目を剥いて苛立った声を出した。変な言動や行動をする鳥坂には、いつも腹が立つ。
「怒ってる?我が使い魔の植物よ、伸び上って清水の怒りの心臓を狙え」
その時、鳥坂の背の向こうで揺れていた植物が、つるを伸ばし始めた。
「可愛い俺の毒つる草、葉っぱの拳で清水の胸を殴ってやれ!」
その時、清水は後ろに吹っ飛ばされた。
慌てて頭を起こすと、鳥坂の背から、植物の巨大な化け物が天井に届きそうなほど背を伸ばしていた。
歓声とブーイングの中、鳥坂は微笑む。
「大丈夫?」
清水は飛び上がるように立ち上がった。このくらいはなんでもない。鳥坂はわざと余裕を見せつけようとしている。とことんムカつくやつだ。
「実際に存在している植物と結びつけて攻撃の効果を高めようとしてるのか。よく考えたな。でもここは砂漠だ。赤い地面から砂が幕のように立ち上がり、コバルトブルーの空からは肌を焼く光が突き刺さる」
そこは砂漠になった。清水自身も、すぐに汗が噴き出す暑さを感じる。
「馬鹿だなあ、清水。砂漠では植物が生きられないとでも思った?」
鳥坂は手の平を地面に向ける。
「砂漠にも水はあるんだよ。地面を割ってみよう。砂よ巻き上がれ」
勢いよく砂の地面が割れて砂が巻き上がる。
「見てみろ、水だ。清冽な水を顔に感じろ。痛み!」
清水は、顔に水が叩きつけられるのを感じ、思わず目を閉じてのけぞった。
鳥坂はギターを弾きながら奇妙な節をつけて言う。
「肉厚な茎、水を吸う、脚に絡まるよ、棘あるよ、清水、脚」
清水は脚に痛みを感じた。足元の赤い砂から鮮烈な緑の植物が伸びで脚に絡みついている。
「変な植物、引きちぎれろ」
清水が言っても、植物は絡みついて清水の脚に棘を刺したままだった。
「そいつには名前があるんだ。名前を呼ばないと言うことを聞かないよ。砂を這う水の蛇、清水に這い上がって水を飲ませてあげろ」
砂の上を水の筋がきらめきながら走り、清水の体は足元から徐々に濡れ始めた。
「清水、俺と闘うなんて思ってなかったでしょ。清水は俺には勝てないよ。俺はリアルウォリアーの先輩、清水を誘ったのは俺、清水がプロのゲーマーになれたのは俺のおかげなんだから」
「そうだ」
清水は、あごから口に入り込んで来ようとする水を振り払う。
「鳥坂は俺の恩人だ。でも、負けない。俺は、鳥坂にはなににおいても絶対に勝てないと思ってた。でも、リアルウォリアーでは勝つ。俺は本気でこの世界でやっていくって決めたんだ。プロじゃない鳥坂になんか負けない。いや、誰にも負けないんだ」
清水は中空を見つめた。
「砂漠の空は暗くなり、冷たい豪雨を降らせ始める。砂は泥となり足を飲み込み大地は裏切りを果たして立っていることを許さない」
鳥坂は泥の中で足場を探してふらつく。
「叩きつける雨!強風!!」
清水の大声で吹きつけた風に、鳥坂は倒れた。その時、鳥坂の背中の鉢植えの底が床を打つ音がした。
その音をきっかけに、雨の降る砂漠はフローリングの床の体育館に戻る。
「おおエリザベス、大丈夫か!?」
鳥坂は鉢植えを背から外し、植物をのぞき込んだ。
清水はチャンスだと悟り、叫んだ。
「エリザベス、鳥坂の首に巻きつけ!」
つる状の植物は、瞬時に鳥坂の首に何重にも巻きついた。鳥坂は横目で清水を見る。
「エリザベス――」
清水は、植物が鳥坂の首を絞めるようにする言葉を発しようとした。しかし、清水はためらった。改造フォンを作った二人組と闘った時、鳥坂が首を絞められて苦しんだことを思い出したのだ。あいつらと同じことをするのか。あんなひどい目に鳥坂をもう一度遭わせようというのか。
鳥坂は、口を開いたまま固まった清水をじっと落ち着いた目で見ていた。そして、ふ、と笑うと、言った。
「戦闘終了」
植物はもとの姿に戻った。
鳥坂は立ち上がると、清水に頭を下げる。
「参りました」
割れんばかりの歓声。鳥坂は退場し、清水は無数の観客の賞賛の声と視線に包まれた。
戦闘後、清水は競技場の外で鳥坂を追いかけたが、これからすぐに研究室に戻らないといけないとかで、たいした話はできなかった。
鳥坂は言った。一度清水と闘ってみたかった、ということ、月へ行くのはやめたこと、大学で植物の遺伝子組み換えの研究を続けていること、「円は元気だよ」ということ。
「円あ!?」
と下の名前で呼んだことに驚いた清水に、「清水の活躍は端末テレビで見てるよ。これからも頑張れー」と言い残し、鳥坂は去った。
清水は、やはり鳥坂と円はまた付き合い始めたのだ、とそのことで頭がいっぱいになってしまい、もはや毎週の恒例となっている祝勝会の席でも、うわの空だった。
「いやあ、今日もいい勝ちっぷりでしたよ!」
すでに出来上がっている村田は、清水の肩をたたいた。一時期の落ち込みなど、もうひとかけらもない。村田と一緒に、路上プロモーションをしていた社員が、改造フォンに関わっていて逮捕されたのだ。そのショックも、スカウトした清水が逸材だったことで、だいぶ前に拭い去られていた。
清水は、ぼんやりと口に運ぼうとしていた焼酎がこぼれそうになってはっとする。
「清水さん、今日も鮮やかでしたね!」
「いえ、もしかしたら、勝ちを譲られてしまったのかもしれません。鳥坂は、ためらう俺を見て馬鹿にして――」
「最初から清水さんには才能あると思ってたんですよ!」
村田は清水の言葉を完全に無視する。
「清水さんの大声を聞いた時、この人はリアルウォリアーがうまいだろうなって思ったんですよ。思った通り、その才能を生かして、全国ランキングはぶっちぎりの一位!ファンクラブも発足しましたし、清水さんがいる間は、競技場のチケットの売り上げも安泰。賞金額もこれからうなぎ上りになるでしょう!ここの支払いも、よろしくお願いしますね」
「俺はお金のためにやってるんじゃありません!」
清水は居酒屋の真ん中で立ち上がった。
「俺は、自分のやる気に従ってるだけです。あと、完全に平等な実力勝負のリアルウォリアーができるって村田さんが言うから、アニマダストにちょっと協力してもいいかなと思っただけで。俺は金儲けのことなんてどうでもいいんです。そこんところをマネージャーの村田さんにはよく理解していただかないと――」
「わかりましたよ、清水さん。声が大きいですって。酔ってるんですかあ」
村田に腕をつかまれ、清水はすとんと腰を下ろす。
清水は、競技場でリアルウォリアーをしないかと村田に声をかけられた。清水は最初、鳥坂が怪我をした時になにを言っているんだとしか思わなかった。しかし、そのあとも何度も連絡が来て、口説かれたのだ。最終的に清水の心を動かしたのは、競技用に、ARフォンの規格に厳格な基準が設けられるということと、村田の素直な人柄だった。
清水は、路上でプロモーションをしていて、鳥坂に名刺を渡した村田のことを覚えていたが、村田は清水のことを覚えていなかった。清水がその日のことを口にすると、村田は、「あ、清水さん、あの時鳥坂さんと一緒にいたんですか?全然覚えてないです。まあ、言葉交わしてないんですから覚えてなくても仕方ないですよね」と、自分で言って笑った。
清水はそれを聞いて、この人は悪い人ではない、と思った。確かに、覚えていないほうが自然なのだから、変に謝ったり、繕ったりしないところが逆に好感が持てたのだ。
村田の誘いに応じた結果、どこかからか集められた何人ものプレーヤーと対戦させられ、勝ち進んでしまった。そのまま清水は、ファイトマネーを稼ぐプロのゲーマーとなったのだった。
「俺が金儲けに走ったら、友達に馬鹿にされます」
清水はつぶやいた。
「はい、わかりましたよ。でも、これからも頑張ってくださいね。来月にはトーナメント戦が控えてますし、ケーブルテレビとの契約も決まってるんですから。清水さんの持ち味は、抜群の描写力と声量なんですから、喉をいい状態に保つためにも、お酒は控えめにして――」
「飲みに誘うのは村田さんじゃないですか」
清水はふてくされて、焼酎を舐める。
それからも、清水は忙しい日々の前に、なんとか目を回さないように踏ん張っていた。
文章を書くのをやめたせいか、テキスト化は起こらなくなった。リアルウォリアーでの描写は、完全に自分の意思によるものだった。ARフォンとARコーンの効果で、声に出して情景を描写すると、闘っている場所を自在に設定することができる。鳥坂との闘いでも、砂漠にしたり、砂漠に雨を降らせたりした。そのように言葉を操れる者は、ほかのゲーマーの中にはいない。清水ただ一人だ。いつでもそれが効果的というわけではないが、舞台を自分で設定できることは、有利に働く。詩を書いて描写力を磨いてきたことも、無駄ではなかったのだ。また、清水は、舞台俳優のように張りのある声を出すことができた。これは、リアルウォリアーをしなかったら気付かなかったであろう、天性の才能だった。清水は、努力と才能で、リアルウォリアーにおいて有利な能力を誰よりも特化させていた。
それは清水自身もわかっていた。自分はリアルウォリアーに向いていると思うからこそ、より一層努力した。瞬時に効果的な言葉が口をついて出るように、より張りのある声を出せるように、日々繰り返しの練習。感情に流されやすいという欠点があるのはわかっていたから、常に冷静でいるように心がけた。清水は真剣だった。たまに遅刻したり、飲みすぎたりしてしまうことはあるが。
大学を勝手に辞めたこと、ゲーマーになったことで、両親からは激しい抗議を受けたが、通帳を見せると、なにも言わなくなった。
しかし、清水は、通帳の数字が増えても、ファンに追いかけられるようになっても、雑誌やテレビから取材を受けるようになっても、派手な生活をしないように、おごった発言をしないように、細心の注意を払った。なにかのメディアで清水を目にした円や鳥坂に、金の亡者になっているとか、偉そうになってしまったとか思われるのは、耐えられなかった。
それに、競技としてのリアルウォリアーがいつまで大衆の心をつかんでいるかもわからない。飽きられてしまえば、それで終わりだ。
それがわかっているから、清水は謙虚だった。控えめすぎるほど控えめな発言を繰り返す清水に、自信がなさすぎてかえって嫌味だと言う者もいたが、大半は清水を称賛する側に回った。
大衆を味方につけたうえ、清水はリアルウォリアーの強者として君臨し続けた。
そして、鳥坂との対戦から約一年後。清水は、初のリーグ優勝を飾り、アニマダスト主催の祝勝パーティーの会場にいた。
次々と、アニマダストの社員や、ほかのゲーム会社の社員、メディア関係者、競技場運営スタッフ、清水高史ファンクラブのスタッフ、その他関係者や関係者の知り合いなどが話しかけてくる。清水は、人見知りを発揮しておどおどしつつ、精いっぱい対応した。
「大丈夫ですか、清水さん」
汗をかいている清水を見かねて、村田が声をかけてくる。
「大丈夫ですよ、別に村田さんが張りついていなくたって。村田さんは俺に構わず、いろんな人に挨拶しておいてください」
清水は強がる。
「なに言ってるんですか。清水さんも一緒に挨拶するんですよ」
「でも、いろんな人が話しかけてきて――」
「見てください。アニマダストの社長令嬢ですよ」
村田の視線の先を見ると、赤いドレスを着た、十七、八くらいの娘がいた。岩のような社長とは似ても似つかない。
「美人ですよねえ」
「はあ……」
派手なドレス、と清水は思った。
「お、こっちを見ましたよ。挨拶してきてください。清水さん一人で話せるかどうか、見てますよ」
「え?見てるだけですか?からかわないでくださいよ」
村田は離れていった。
清水はため息をつき、ゆっくりと逃げだそうとしたが、社長令嬢のほうから近付いてきて、捕まってしまった。
「清水さん、リーグ優勝、おめでとうございます」
幼さの残る顔立ちの割には、落ち着いた声で言う。
「ありがとうございます」
清水は笑みを顔に貼りつかせて頭を下げた。
「父が、清水さんはアニマダストの星だと申しておりました。清水さんがいてくれたから、ここまで競技としてのリアルウォリアーが浸透したのだとも」
「もったいないお言葉です……」
「父は今日来られないのですが、わたしが代わりに挨拶してこいと言われたんです」
「そんな、俺のほうから挨拶するのが筋なのに……」
逃げようとしていたことは棚に上げる。
「清水さんは、どうしてプロになろうと思ったんですか?」
令嬢は、シャンデリアの光の映った目でじっと清水を見る。
「スカウトされたにしても、開拓途中の分野に飛び込むのって、結構勇気が要りませんか?大学もお辞めになったと聞きましたけど」
「それしか、能がないもので」
「将来への不安とかありませんか?ゲーマーをずっと続けられるおつもりですか?突然やめちゃったりとかしませんか?」
「今のところ、やめるつもりはありません。不安はありますよ。でも、この世界でやっていくと決めたので」
「どうしてそんな決心ができたんですか?」
「本当に、俺にはほかに能がないんですよ。なにかほかのことをやってもなんとか生きてはいけるだろうけど、うまくいく気がしないんです。どうせうまくいかないなら、思い切った挑戦をしてもいいでしょう?」
「わたし、思ったんです。ゲーマーの頂点に立つような人って、なにか投げやりになって、ゲームに没頭したんじゃないのかなって。失礼なことを言ってすみません」
令嬢は、ちっともすまなさそうな様子を見せずに言った。
「鋭いですね」
清水は素直に感心した。
「まさしく、俺がそうです。夢破れて、こうなったとも言えます」
「なにかを目指してたんですか?」
「はい。詩人を目指してたんです」
笑われることを覚悟したが、令嬢は真剣な表情を崩さなかった。
「詩人ですか」
「月へ行きたいというのも、夢のひとつでした。芸術家枠で月へ移住しようとしてたんです。でも、そんな才能なくて、応募することさえ諦めてしまいました。アニマダストさんから声をかけてもらったので、月よりもそっちを選んだんです。応募しても、審査に通るわけ、なかったですけど」
「まだ諦めるのは早いんじゃないですか」
令嬢は、きっぱりと言う。
「あと何年か経てば、月でちゃんと社会が構築されて、特別な技能を持った人じゃなくちゃだめなんていう決まりもなくなりますよ。お金を貯めて、移住すればいいじゃないですか」
「いえ、もういいんです」
清水は微笑む。
「もともと、行きたい理由はネガティブなものだったし、ゲーマーとしての今後の予定で頭がいっぱいですよ。それに、ここでやっていくって決めましたし」
「素晴らしいですね。父も安心します」
「いえ、なんか偉そうなことを言ってしまいましたね。すみません。もともと、リアルウォリアーを始めたのは、自分の意思じゃないのに」
「自分の意思じゃなかったんですか?」
「ええ。友達に誘われて。本当は、その友達のほうが強いんです」
「そんな、ご冗談を」
「本当です。俺よりも強いんです。一度闘って勝ちましたけど、あれはあいつが俺に哀れみを――」
「清水さんて、変わった方ですね。面白いです」
「面白い?」
「今度、競技場に清水さんの闘いを見に行きます。楽屋に行ってもいいですか?」
「あ、はい、もちろん」
「じゃあ、楽しみにしてますね」
令嬢は、笑みを向けて去って行った。
「すごいじゃないですか、清水さん」
今度は村田が近づいてくる。
「社長令嬢といい感じで会話してたじゃないですか!もしかして、このまま仲良くなっちゃったりして」
「冗談言わないでくださいよ」
「ああいう子は、好みじゃないんですか?」
「ちょ、村田さん、社長令嬢についてなんてこと言ってるんですか。酔ってますか?」
令嬢は円と比べたらたいしたことはないと、清水は密かに思った。
「カクテルくらいで酔いませんよ」
「面白いって、どういう意味でしょうね。友達が、俺よりもリアルウォリアーが強いって言っただけなのに」
「誰のことです?」
「鳥坂ですよ。そういえば、鳥坂やセレネの美紀彦さんは、今はアマチュアリーグとかに参加してないんですか?」
「ああ、そういえば聞きませんね。調べてみないとわかりませんが。美紀彦さんも相当強かったらしいですから、プロ戦に出てくれれば今まで以上に収益につながるのに」
「村田さんは、金儲けのことばっか考えてるんですか?もしこれから、無理なスケジュール組んだり、変な仕事入れたりしたら、俺、やめますからね」
「そう脅さないでくださいよ。わかってますから。美紀彦さんは、セレネで忙しいんじゃないですか?ドーム公演だなんだってすごいし。鳥坂さんも、就職してるんじゃないですか?」
「そうですよね」
清水は、鳥坂のことを思い出し、考えた。今、なにをしているのだろう。そして、円は。
二時間後、やっとパーティーはお開きとなった。関係者の見送りなどをしてから、清水は解放された。
「清水さん、今運転手を呼びますね。あ、それともここに泊まりますか?」
ホテルのロビーで、村田もどこか疲れた様子で言った。
「いいですよ。リニアで帰ります」
「車、すぐに来ますよ。専属運転手なんですから」
「こんな時間にわざわざ悪いし。それに、ちょっと歩きたいので。じゃ、村田さん、お疲れさま」
「交通費は経費で落としますね」
「いいですって。自分で出しますから」
清水は苦笑して手を振り、ホテルから出た。
夜風が涼しくて心地よい。最近、歩くこともめっきり減った気がする。ホテル前のタクシーを無視し、駅へ向かって歩きだした時、数人の女の子が駆け寄ってきた。
「清水さん!リーグ優勝おめでとうございます!」
「競技場に見に行きました!かっこよかったです!」
「これ、インタビューで好きだって言ってた蜂蜜ののど飴です。食べてください」
清水は、受け取った花束と箱入りののど飴を抱え、目をしばたたいた。
「俺のことをここで待ってたんですか?」
嬉しさに輝くような女の子たちの顔を見る。
「はい。ホテルの従業員が、ここで清水さんの祝勝パーティーがあるって、ネットで情報流しちゃってて」
「本当は来ちゃいけないのわかってたけど、どうしてもお祝いが言いたかったんです」
「いいですよ。本当にありがとう」
清水は内心苦々しく思いながら笑顔を作った。こうやって情報が漏れるから、ファンが外で長時間待つ事態になってしまう。
「でも、風邪ひくとまずいから早く帰ってくださいね」
「優しい!」
「応援してます」
清水は、ありがとう、ありがとう、と頭を下げた。やっぱりタクシーに乗ろうか、と向こうに目をやると、植え込みの陰からこちらを見ている人物と目が合った。
清水は目を凝らし、衝動に任せて駆け寄った。
「円?」
照れ笑いを浮かべた円は、ストーカーのようなポーズから立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
清水は、円との再会に胸の高鳴りを感じた。暗がりで見るせいか、約二年の歳月のせいか、円は大人びて見えた。
「ファンの子はもう行っちゃったね」
円は身を乗りだしてうかがう。
「円も、ずっと俺を待ってたの?」
「まあね。ごめん、ここの従業員のSNSを見て、来ちゃった」
円は、紙袋を差し出す。
「あ、お母さんが、高史にって。沖縄旅行のお土産のお菓子」
「ありがとう。お父さんとお母さん、元気?」
円は自分と会う機会をうかがっていたのだろうか、と清水は思った。
「うん、元気元気。高史のとこは?」
「うちも元気だよ」
「そっか、よかった」
円は、ぎこちない笑みを浮かべたままもじもじした。
「あ、立ち話もなんだら、どっか店にでも入る?」
「いえ、いいの。高史は疲れてるだろうし、早く帰りたいでしょ」
円は挙動不審の態で言う。
「どうしたの……?」
「いや、別に」
円は長い髪を耳にかける。
「円、今はなにしてるの?」
「わたし?あのね、出版社に就職したの。大手じゃないけど、画集とかでは有名なところ」
「そうなんだ。よかったね」
「うん」
「あの、鳥坂はどうしてる?」
清水は、円の表情をうかがう。
「どうしてるって?」
「就職とか。月に行くのはやめたとは聞いたけど」
「ああ、研究所で植物の研究やってるよ。月移住へ応募するのはやめちゃったけど、自分の開発した植物を月に植えるんだって張り切ってる」
「そっか」
応募をやめた理由は、清水が予想するものなのだろうか。
「やっぱり、今でも鳥坂と付き合ってるんだね」
「ま、まあね。なんというか」
円はおどおどと目を逸らす。ホテルの照明だけではよくわからないが、頬を染めていそうな感じだ。
「裕くんは、すごく鈍いんだよ。だから、素直じゃないように見えるのかも」
「え?」
「裕くんは、やっと自分の気持ちに気付いたんだって、わたしはそう信じてる」
清水は、なにも言えなかった。
「前、裕くんが、高史と闘いに行ったじゃん?わたしは観に行けなかったんだけど。あれは、裕くんなりの応援だったんじゃないかな」
「俺への応援?」
「うん。あのあと、裕くんはリアルウォリアーを完全にやめたんだよ。プロに誘われたりもしたみたいだけど」
「俺に負けたから?でも、あの勝負は、俺が勝ったというよりも、鳥坂が勝手に負けたというか――」
「高史と闘ったからやめたんじゃなくて、高史と闘うために、それまでやめなかったんだと思う」
「うーん、ほんとにそうかなあ」
清水には、そうまでするほど自分が鳥坂にとって重要な存在だとは思えなかった。
「なんていうか、裕くん、高史に今まで色々変なことも言ったと思うけど、裕くんは高史と本当の友達になりたかったんじゃないかなあ。いや、わかんないけど。とにかく、わたしが言いたいのは、えっと、高史に、わかってほしいというか、ううん、なんかそう言っちゃうと押し付けがましいけど……」
「ほんとに、どうしたの?」
清水は思わず円の顔に顔を近付ける。
「いや、なんでもない。変なこと言ってごめんね。ほんとに、リーグ優勝おめでとう」
「あ、ありがとう」
「じゃ、じゃあ。またね」
「ちょっと――」
円は手を振ると、ヒールの音を響かせ、逃げるように行ってしまった。
清水は、もらった紙袋を握りしめ、円の消えた夜の道を見た。一体、なんだったのだろう。そしてふと思った。円とは、もう会えないのだろうか、と。
清水は頭を振る。円の実家に電話することもできるし、鳥坂と連絡を取ることもできる。円に会おうと思えば、また簡単に会えるのだ。
高鳴る鼓動と微量のアルコールのせいで、頭の中に、もやがかかっているような気がする。家に帰ってゆっくりしよう、と思った。
リーグ戦が終わったことで、清水はやっと休みを取ることができた。新たに建設された地方の競技場の完成記念イベントでの試合まで、ゆっくり休むことができる。
昼すぎに起きだし、すでに夕方。マンションの部屋で一人、ネットサーフィンをしながら考えた。円との再会の謎は、解けなかった。理由を想像しようとしてみたが、なにも思い当たらない。もしかしたら、円の気まぐれだったのかもしれない。
思考は移り、プロのゲーマーになってからのことを改めて考えてみる。自分の予想以上に、うまくやって来られたと思った。自然と、感謝の思いが湧いてくる。周囲で支えてくれた人々、自分の運と運命、そして、リアルウォリアーを始めるきっかけとなってくれた鳥坂。ふと思った。鳥坂に、きちんとお礼を言ったほうがいいのではないか、と。久しぶりに連絡を取って、自分のおごりで飲みに誘ってみたりとかしちゃってもいいかもしれない。円のことも尋ねてみたいし。
でも、お礼なんて偉そうな真似だと思われるのではないかと、持ち前のネガティブさを発揮させて考え込んでいると、ニュースサイトの見出しのひとつに目がとまった。
『セレネ、初のワールドツアーへ』
リンクからセレネの公式サイトへジャンプすると、KOUJIのコメントが掲載されていた。
『今回、俺たちセレネは、十二か国十六か所でライブをさせてもらうことになった。もしかしたら、ほとんど待っている人がいないところもあるかもしれない。でも、俺たちは挑戦します。以前は、俺とMIKIHIKOと月のことで、お騒がせしました。でも今は、月がどうとかいうことよりも、この世界、この地球で、まだ俺たちがやれていないこと、やるべきことがたくさんあるんだということに気付いた。俺もMIKIHIKOもほかのメンバーも、空や過去ではなく、目の前だけを見つめる気持ちでひとつになっているよ。ワールドツアーから帰ってきたら、また、みんなの前で、新しいセレネを見せられると思います。楽しみにしていてください』
この世界でやるべきこと、か。確かに、一度なにかを築いた者なら、同じ世界でそれを追及するべきかもしれない。それこそが、喜びとなるのかも。清水も、この世界でなにかを築くと決めたのだ。ほかの世界は必要ない。
実は国連から、三年後には、一般第二月移住者の公募が始まる予定だという発表もされていた。一般月移住者の第一陣は、間もなく月へ出発することになっている。その中には、著名な学者や、引退した大物政治家などもおり、芸術家枠では、世界的なイタリアの画家と、ピューリッツァー賞受賞者のアメリカのカメラマンが選ばれたという話だった。清水には、まさに雲の上の出来事のように思える。清水は、二回目の公募に応募することなど、考えもしなかった。
その時、玄関の呼び出し鈴が鳴った。
清水は玄関に出た。宅配便だ。サインをして、段ボール箱を受け取る。なにが入っているのか、ずっしりと重い。
差出人の名前は、鳥坂裕と月地円。とても悪い予感がした。
清水は、慌てて段ボール箱を開封しようとした。なかなかガムテープがはがれない。ハサミを探し回り、やっとこじ開けると、赤い花が飛び出した。
「おめでとう!」
「うわっ」
清水は腰を抜かした。花がしゃべった?
恐る恐る見ると、入っているのは、チューリップに似ているが、なんとなく違う赤い花の鉢植えだった。土がこぼれないように網が張られていて、きちんと湿った土が鉢に詰まっている。
茎にメッセージカードがくくりつけられていた。取ろうとした時、花に触れると、
「おめでとう!」
と触れた花から声が出た。
「うわっ、なんだよ」
清水は恐れおののきながら、カードに書かれたメッセージを読んだ。
『清水、リーグ優勝おめでとう!刺激を与えるとしゃべる花を作ったよ!大切にしてくれよな 鳥坂』
「マジかよ……悪趣味」
その下に、別の繊細な筆跡でまだメッセージは続いていた。
『高史、本当におめでとう。セレネのワールドツアーの先行予約番号を同封しておいたよ!海外旅行も兼ねて行ってきなよ。無理しないで息抜きしてね 円』
「円……」
別にセレネのライブにも海外旅行にも行きたくないということはどうでもよかった。円が気遣ってくれているということだけで嬉しい。
「同封?」
清水は、箱の中をのぞき込む。ない、と思った時、段ボールのふたにそれが貼りついていることに気付いた。
綺麗な白い封筒。悪い予感の正体だ。
清水は、セロハンテープでふたに貼り付けられていたそれを引きはがし、開封した。そして、円が自分のところに来てなにを言おうとして言えなかったのか、悟った。
鳥坂と円の結婚式の招待状を手にして、清水はため息をついた。
やはり、鳥坂には勝てなかった。
清水は涙をのみ、返信ハガキの「出席」に丸をつけるため、ペンを探し始めた。
結婚式では、リアルウォリアーに誘ってくれた鳥坂に礼を言ってから、どうやって円を愛する気持ちに確信を持つにいたったのかを問い詰めてやる。そして、鳥坂の悪い点をすべて指摘して改善するように命じ、悪趣味な植物の品種改良をやめるようにアドバイスし、円の両親がどんなにいい人かを子供の頃のエピソードを交えて話してやり、円と円の両親には全面的に従うように忠告し、円を幸せにするようにしっかり釘を刺すというよりも釘を打ち込み、円の晴れ姿を目に焼き付けてやる。
見つかったペンを机に置く。清水は窓辺に近付き、空を見上げた。西の空はオレンジ色。広がる雲の平原に壮大なグラデーションを描き、東の空は群青色。青の中に、丸い月が浮かんでいる。あの時と同じまだら模様をまとった、変わらない存在。
人類は、これから次々と宇宙へ進出していくことだろう。人類はなにを求めているのだろう。いつか、求めているものにたどり着くのか。それとも、本当に欲しいものには、決して手が届かないのだろうか。
「……やっぱり、月に行こうかな」
そうつぶやいてみたが、清水は自分がそうしないであろうことをわかっていた。
結婚相手を探すには、月よりも地球のほうがいいだろうし。
セレネが呼んでた 諸根いつみ @morone77
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