八日目の旅人

諸根いつみ

第1話

 街には枯葉が舞い散り、空気は煙のにおいがした。どこかで死体を焼いているのだろう。野菜を積んだ猫車を引いていると、煉瓦がはがれた道のくぼみに車輪がはまった。力を込めてくぼみから脱し、ガタガタと前へ進む。

「やあ、エギタさん」

 道端に座り込む老人に会釈をする。老人は軽くうなずくだけで、声を発しない。娘が病気にやられてしまったのだから、憔悴するのも無理はない。子供だった頃には、彼の商店の前ではしゃぎ回って、よく怒鳴られたものだった。三十年ほどの年月を考えても、同じ人物とは思えないほど、小さくなってしまっている。

 卸し先の八百屋に着いた。猫車を小さな店の中へ入れる。

「ご苦労様、カイくん」

 おかみさんが出てくる。

「どうも、ミア」

 ミアとは学校の同級生だった。小さな女の子だったミアは、体回りも大きくなり、すっかり頼もしくなっている。

「ねえ聞いた?ガイエンさんの息子さんが、軍に徴集されたって」

「なんだって?二十歳くらいの学生さんだろ」

 カイは、茄子をつかんで台にあげようとした手をとめる。

「戦線が拡大してるのよ。健康診断でよかった人から順に、手紙が来るんだって」

「戦地へ行かされるのか」

「後方勤務かもしれないけど。ガイエンの奥さんは、毎日泣いて大変だって」

「気の毒に。戦争がこんなに長引くとは思わなかったよ。軽く脅して済むんじゃなかったのか」

「あっちも意外としぶといのかしら」

「そういえば、ミアはワクチンを打ったの?」

「ええ。ここ一帯には配給が来たから。まさか、打ってないの?」

「その時は農園に行ってて、いなかったんだよ」

「早く隣町へ行って打ってもらったほうがいいわ。うちの娘の友達も、エギタさんの娘さんも亡くなったんだから」

「知ってる。そうするよ」

「戦争に病気に、嫌な世の中ね」

「まあ、俺は四十過ぎて家族もいないから、家族が病気になる心配も、軍に徴集される心配もなくてよかったよ」

「ある意味幸運だったかもね」

 ミアは笑った。

 その日回る店は、ミアのところだけだった。農園も、軍からの徴収が厳しく、回ってくる野菜は少なくなっていた。カイは、仕立て屋の手伝いや病院の雑用係など、さまざまな職業を転々とし、ここ数年は、野菜を運ぶ仕事をしていた。

 家路についた時には、まだ日は落ちていなかった。煉瓦の壁にはまった幅の細いブリキのドアに、白い封筒が挟まっている。抜き出してみると、差出人は、学生時代の親友だった。

 久しぶりじゃないか。そもそも、手紙なんて珍しい。

 カイは、アパートのドアを開けて中に入ると、早速手紙を開封した。


 親愛なる友へ

 カイ、元気にしてるか?突然の手紙に驚いているきみの顔が目に浮かぶようだ。前に会ったのはいつだったかな。三年前の新年だったか。あの時は、同級生みんなで集まって、楽しかったな。

 もっと思い出を語りたいところだけど、時間がないんだ。またの機会に、と言いたいところだけど、それも無理なようだ。

 俺は、七日病にかかってしまったんだ。発症から一週間で死に至るという、あれだ。言うまでもないよな。ワクチンを巡って、戦争にまでなったんだから。きみがちゃんとワクチンを打ってくれていることを祈るよ。

 きみが元気だという前提で、話を進めるよ。そうでなくっちゃどうしようもない。俺にはたくさんの友人がいるが、本当に信頼できるのは誰かと考えた時に、浮かんだのはきみしかいなかった。迷惑だろうが、許してくれ。

 カイ、きみに頼みがあるんだ。前にも言ったと思うが、俺には娘がいる。幸い、ワクチンを打って、元気にしてる。でも、俺が死ねば、娘は一人になってしまう。地方に、俺の叔母がいるんだが、娘を引き取ってもいいと言ってくれた。でも、叔母は脚が悪くて、とても列車と徒歩で長距離を移動して迎えには来れないんだ。娘はしっかりした子だが、十一歳の女の子を一人で行かせるわけにもいかない。

 だから、カイ、きみに、娘を叔母のところまで連れて行ってほしいんだ。無理な頼みなのはわかっている。仕事もあるだろうし、叔母のところまでは、十日かかるんだ。でも、頼む。地方なら戦火も及ぶ心配もないし、病気もまだ広まっていないと聞く。どうしても娘を行かせたいんだ。

 俺が連れて行ってやれればいいんだが、十日の旅程を全うするのは不可能だ。すでに、発症から三日が経っている。まだ、熱と吐き気くらいだが、七日病の証の「くちびるの花」は立派に咲いているよ。

 今時、手紙の配達もどのくらい遅れるかわからないし、きみがこれを読んでいる頃には、俺はもう死んでいるかもしれない。これを読んだら、できるだけ早く来てくれ。娘を、俺の死体と二人きりにしておかないでくれ。お願いだ。メイエルを頼む。急いでくれ。

                   きみの友 キサト


 読み終わったカイは、額を押さえた。読み返してみても、文章は変わらない。

 明日も野菜を運ぶ約束だったが、そんなことを気にしている場合ではない。同封されていた地図を握りしめ、カイはそのまま家を飛び出した。


 一晩中馬車に揺られ、たどり着いた丘には、日が高くなりつつあった。

 地図には、丘のふもとにある一軒家が自宅だと書かれていた。

 待っていてくれ。俺は来たぞ。

 カイは、固まった膝の関節を叱咤し、緑の草の上に歩を進めた。

 丘の上には、小さな人影が膝を抱えている。近づいてみると、それは一人の少女だった。

 少女のかたわらには、土のついた大きなスコップが転がっていて、少女の着ているオーバーオールも土で汚れている。堀りかけらしき穴があり、少女は、作業の途中で力尽きたように見えた。

 視線を転じると、丘のふもとに、赤い屋根の一軒家が見えた。

「……あの、あそこってもしかして、キサトっていう、学校の先生をしてる人の家かな?」

 カイは、家を指差して尋ねた。

 少女は、カイを睨みつけるように見た。

「そう」

 少女は立ち上がる。

「おじさん、カイって人?」

 十一歳くらいの少女は言った。

「そうだよ」

「わたしはメイエル。父は、昨日死にました」

 カイは、草の生えた地面に黒く口を開けた穴を見つめた。

「……急いで、来たんだけどな」

「昨日がちょうど七日目だったの」

 メイエルは、事務的報告をするように言った。

「この穴は、もしかして」

「お父さんを埋めるの」

「無茶なことを」

「一人でできるもん。お父さんは、自分が死んだらほかの人を呼びなさいって言ったけど、一人でできるもん」

 メイエルは、スコップを拾い、乱暴に穴を掘り始めた。

「キサトは?」

 メイエルはカイを見ないまま、家を指差した。

 カイは丘を駆け下りた。


 キサトはただベッドで眠っているように見えた。

 冗談だったのかもしれないという思いがかすめたが、カーテンを開けて日の光を入れてみると、現実が見えた。キサトは、三年前に会った時とほとんど変わっていなかった。「くちびるの花」と、血の気のない肌色をのぞけば、だが。しかし、その表情は安らかだった。

 メイエルは頑なに目を合わせようとしなかったが、裏から見つけたスコップで、無言で手伝うカイをはねのけようとはしなかった。

 苦労してキサトを埋葬すると、カイはひざまずき、均した土に手を触れた。メイエルは、ただ立っていた。

 カイが見上げると、夕暮れの光の中、うつむいた顔は、なんの表情も浮かべていなかった。

 メイエルは、白い肌と緑色の瞳と黒く真っ直ぐな髪をした、繊細な容姿の女の子だった。キサトも色白で黒い直毛だったが、鮮やかな瞳の色は、カイが今まで見てきたどんな人物にも似ていなかった。きっと、母親譲りなのだろう。

 日が陰ってきて、無言の二人はようやく家へ戻った。

 その夜、カイは台所にあった少しのじゃがいもとにんじんでスープを作り、パンとともに夕食にした。メイエルは、料理をしてくれたお礼も言わずに平らげると、すぐに部屋へ引っ込んでしまった。カイは、リビングのソファーで寝た。

 カイは、薄く目を開けた。光が差しこんできて、目が痛い。なにか硬いものが肩に触れる感触がする。

 メイエルが見下ろして、お玉の柄でカイの肩をつついていた。

「もう行くよ」

 メイエルは無表情で言った。首元まできちんとボタンを留めた紺のシャツに、少し大きすぎのジーンズ。すでにリュックサックを背負っていた。

「え?あ、ああ」

 カイは体を起こす。

「うーん……おはよう」

 もうすっかり日は昇っている。

「早くしてよ。おばさんのところへ連れて行ってくれるんじゃないの?」

「ちょっと待って」

 カイはおろおろし始めた。着の身着のままで飛び出してきてしまったが、旅の準備は一体どうすれば。

「おじさんの荷物も作った」

 メイエルは、床に置いたリュックを指差す。

「父の服とか、お金とか、いろいろ入ってる」

 確認してみると、必要そうなものはそろっていた。なんてしっかりした子なのだろう。父親が死んだばかりで、悲しくないはずはないのに。キサトの子供の頃とは似ても似つかない。キサトは、大人になってからは教師として立派にやっていたようだが、子供の頃は、仲間の後ろにくっついていくような気弱なやつで――

「なにしてるの?早くして、おじさん」

「カイでいいよ。親戚の子とかいないから、おじさんっていうの、慣れなくて」

「嫌だ。おじさん」

 メイエルは即答した。

 カイは身支度を整え、苛々した様子のメイエルとともに、家を出た。メイエルは、生まれ育った家を離れるのにも、感慨深い様子は見せなかった。あとの家のことは、キサトが町の牧師に頼んだという。

 カイとメイエルは、相乗り馬車に乗った。次の街まで移動だ。かなり揺れる。

「疲れたらすぐに言ってね。急ぐことはないんだから」

 カイは、狭い馬車の席で隣に身を縮めるようにして座っているメイエルを気遣った。

「そんな当たり前のこと言わなくていいよ」

 メイエルの態度は冷たい。悲しいことがあったあとだ。簡単に打ち解けられなくても無理はない。こちらのほうも、ゆっくり行こう。

 家がまばらに立ち並ぶ草原を抜け、街に入って馬車を降りた。市場には、人があふれている。この地域には、病の気配が薄いようだ。

 メイエルは、自分で財布を出し、昼食のパンを買い求めた。カイも、キサトに感謝しながらパンとリンゴを買い、はぐれないように後ろからメイエルを視界に入れつつ、にぎやかな通りを抜けた。

 町はずれの公園からは、草原が見渡せた。地図によれば、この先に村があるようだが、ここからは、果てしなくどこまでも続いているように思える。

 枯れた噴水の縁に腰掛け、茶色と緑の地平線を眺めながら昼食にする。

「今日は村まで行って、そこで宿を取ろう」

 カイの言葉に、メイエルは、パンをかじりながら無言でうなずく。

「ここから二時間くらい馬車だけど、大丈夫?」

「大丈夫じゃなかったらそう言うから。おじさんこそ大丈夫なの?」

 とことんクールで大人びた子だ。

「大丈夫だよ。メイエルは、すごくしっかりしてるね。十一歳だよね?」

「もうすぐ十二」

「もうすぐって、いつ?」

「三日後」

「ほんとにすぐだね」

 キサトは、目前の娘の誕生日を一緒に迎えることができなかったわけか。

 キサトは、子供の頃から真面目で、優しいやつだった。十五の時、川に落ちた子供を助けたこともある。俺が隣町のやつと喧嘩して評判を落とした時、翌日も話しかけてきてくれたのは、キサトだけだった。どうしてそんなやつが、死ななければならない。

「なにぼーっとしてるの?」

 メイエルはあきれたように言う。

「なんでもない。あ、リンゴ」

 カイは、リュックに入っていたナイフでリンゴを半分にし、片方をメイエルに差しだした。

 メイエルは、不機嫌な顔で受け取り、無造作に白い実にかみついた。

 馬車には、カイとメイエルのほかには誰も乗らなかった。馭者は、客の少なさに、馬車を出すのを渋ったが、仕方なくカイが銀貨を追加して握らせると、やっと出してくれた。

 一時間ほど経った頃、カイは、胃の辺りがむかむかしてくるのを感じた。水筒の水を飲むと、急に吐き気がこみ上げてくる。

「なに?」

 口を押さえたカイを見て、メイエルは眉をひそめた。

「なんでもない」

 乗り物酔いなんて初めてだ。戻してしまったら恰好がつかない。

 途中、何度か吐きそうになったが、なんとかこらえ、日没前に村にたどり着いた。

 どこへ声をかけていいのかわからず、カイはとりあえず、目についた家のドアを叩いた。

 老人がドアを開けた。

「すみません。旅の者なんですが、今晩泊めてくれそうなところはありませんか」

「この村に宿屋なんてないよ。ん、あんた、顔色が悪いようだが」

「あ、そうですか」

「その子は?娘さん?」

「いえ、友人の子でして。親戚のところへ送り届ける途中なんです」

「親はどうしたんだね」

「亡くなりました」

「それは気の毒に。子供連れで、あんたは体調が悪そうだし、大変だねえ。どうぞ、中へ入って」

「いいんですか?ありがとうございます」

 その老夫婦の家に泊めてもうことになった。老婦人は驚いていたが、質素ながら、十分な量の夕食も用意してくれた。決して広い家ではなかったので、床で寝るしかなかったが、貸してくれた毛布があれば、体が痛くなることはなさそうだった。

 夜、メイエルは毛布にくるまり、カイはランタンを消した。

 カイも毛布にくるまっていたが、尿意を催して起き上がった。

 確か、トイレは裏庭にあったはずだ。

 トイレの小屋には天井がなく、月明かりが差し込んでいた。小屋の中にかかっている鏡には、幽鬼の影のようなものが映っている。

 なんとなくひっかかるものがあり、幽鬼のような自分に顔を近づけてみると、唇になにか白いものが張りついているように見えた。なめてみても、手で触れてみても、はがれない。表面はぶつぶつとしていて、少し硬い。

 不安がせり上がってきたと同時に、振り向いて便器に嘔吐していた。

 「くちびるの花」、なのか?まさかそんな――

 七日病は、発症から約一週間で死に至る病。初期症状は風邪と似ているが、やがて、吐血、下血が始まる。死亡した患者を解剖したところ、内臓はほとんど形をとどめていなかったという。

 風邪と違うのは、粘膜に白いかさぶたのようなものができること。くちびるに顕著なその症状は、「くちびるの花」と呼ばれている。

 旅程はあと九日。

 もし、自分が七日病だったとしたら……メイエルはどうする。誰かに預けるか。

 いや、できない。キサトの叔母のところまで、なんとか自分自身で送り届けるのだ。それしかない。キサトの最後の頼みだぞ。

 キサトからもらった地図には、ルートが赤い線で記されていた。そのルートは、多少遠回りになっている。キサトが娘を思い、一番安全なルートを調べたのだろう。キサトには申し訳ないが、最短ルートを取ろう。それなら、間に合うかもしれない。

 旅程の最終日は、列車で移動することになっている。切符も、地図と一緒に同封されていた。せめて、列車に乗せるところまで、持ちこたえることができれば。

 きっと大丈夫だ。この役目を全うできれば、死んでもいい。全うしなければ、死にきれない。死ねるはずがない。

 カイは便器の前で立ち上がり、自分を奮い立たせた。


 翌朝、布きれで顔の下半分を覆ったカイを見て、目覚めたメイエルは眉をひそめた。

「出発するよ。顔を洗っておいで」

 カイは、布の下から快活にメイエルを急かす。昨日の仕返しだ。

 メイエルは、凶暴な猫のように手を伸ばした。

「ちょっと、やめて」

 抵抗むなしく、布をはぎ取られてしまう。

「それ……」

 緑の瞳が、板壁の隙間から差し込む朝日に燃えるようだ。

「おじさんも、七日病だったんだ」

 静かに言う。カイのくちびるのそれは、一層厚みを増していた。

「昨日、発症した。大丈夫。きみのことは、ちゃんと送り届けるから」

「なに言ってるの。今すぐ帰って」

「きみを送らなきゃ」

「一人で行く。家族のところへ帰って」

「家族はいないよ」

 それが唯一の幸いだ。

「聞いてくれ。はじめは、きみのお父さんが描いた道筋に沿って行くつもりだったけど、最短ルートで行く。そうすれば、余裕で間に合うから」

「……本当?」

「ちゃんと計算した。早く出発しよう。おじいさんとおばあさんはまだ寝てる。申し訳ないけど、少しお礼を置いて、黙って出よう」

 メイエルは、こっくりとうなずいた。

 次の街までは徒歩で移動するしかなかったが、幸いなことに、微熱は、足取りを緩めさせるほどではなかった。重い症状が出ても、この強い意志の前には、たいした障害にはならないように思えた。

 二人は、東へ伸びる地図の赤い線を無視し、西へ向かった。列車の駅へ向かって、真っ直ぐに進む。

 林の中の道を歩き、キサトの家から持ち出したドライフルーツを食べ、日没には、街までたどり着くことができた。石造りの家が立ち並ぶ通りには、人通りがまばらだった。壁が崩れて、内部がのぞける家も多い。戦時下の混乱せいか、病のせいか、それとも、もともと荒れた街なのか。

 二人は、空き家に忍び込み、一夜を明かすことにした。敵国から奪ってきたワクチンが配給されているはずだが、どこにワクチン未接種の者がいるかわからない。不特定多数の者が集まる場所にはとどまらないほうがいいだろう。

 敵国には、すでにこちら側の軍が侵攻し、国土はめちゃめちゃになっているという。しかし、なぜか降伏しようとしないという話だ。きっと、首脳陣が愚かなのだろう。そもそも、七日病のワクチンを開発したにもかかわらず、ワクチンの情報を公開しようとせず、ワクチンを渡してほしかったら、貿易の面で優遇しろと要求してきた時点で、首脳陣の愚かさは完全に露呈していた。

 カイとメイエルは、空き家の一角で上着にくるまり、ランタンをはさんで向き合っていた。

「はい」

 メイエルは、自分が買ってきた、肉をはさんだパンの片方を差しだす。

「いいよ、きみが二つとも食べて」

 カイは首を振る。

「だめ。食べなきゃ」

 カイは無言で受け取った。

 ぼんやりと、ランタンの光を見つめる。

「どうしてワクチン打たなかったの」

 メイエルが責めるように言った。

「発症前に打てば大丈夫だったのに」

「ごめんよ。街に配給が来た時、農園に行ってたんだ」

「お父さんは、わたしのために死んだの」

 メイエルの目に、火が映っている。

「わたしがワクチンを打ったのは、まだ配給になる前。高いお金を出さないと、ワクチンが手に入らなかった時。お父さんは、貯金をはたいて、自分とわたしの分のワクチンを買ったの。でも、軍の施設からワクチンを受け取って帰る途中、男に襲われて、ワクチンを一本奪われたの。お父さんが打たないならわたしも打たないって言ったけど、お父さんは、わたしが眠っている隙に、わたしにワクチンを打った。一度ワクチンを買った人は、配給を受けることができないのに。それで、お父さんは死んだ」

「そんなことが……」

「襲われた時、わたしも一緒だった。あの男の顔が目に焼きついてる。絶対に許さない。今度会ったら、殺してやる」

 大きな瞳は、獰猛なネコ科の肉食獣を思い起こさせた。

「そんな風に思ってはだめだよ」

「親を殺されて平気でいろっていうの?お母さんも事故で死んで、たった一人の家族だったのに、それでも憎むなって?」

 そう言うのは当然だ。しかし、きみの感情は激しすぎる――

「あ、そっか。おじさんには家族がいないからわからないか。大切な人なんていないんでしょ。人生最後の一週間を初めて会った子供の世話なんかに当ててもいい人だもんね」

「おい、なんだその言い草は」

「怒った?殴りたければ殴れば。わたしにはもうなんにもないから、どうなってもいいんだから」

「もういいから黙れ」

 一瞬腹を立てたのが馬鹿らしかった。相手は、傷付いた子供だ。

「わたしが子供だからって偉そうだね。そういうの、人としてどうかと思うよ。あ、子供以外にもいつもそういう態度なのかな」

 再び怒りに火がつきそうだ。

「はい悪かったね、お嬢さん」

 カイは、パンをかじって飲み込んだ。


 夜明けとともに目を覚まし、カイは、背を向けて丸くなっているメイエルに手を伸ばした。かわいそうだが、急がなくてはならない。

 何度か揺すぶると、メイエルは目を覚ましてくれた。文句も言わず、荷物をまとめて空き家を出た。

 出発から三日目。銀貨を握らせ、なんとか馬車を出してもらった。街を出ると、再び草原が続く。濃紺の空が白くなっていくのが見える。

 まだ大丈夫だ。でも、少しだけ頭がふらふらする。

 メイエルは、わずかに眉をひそめ、目を閉じていた。しかし、声はかけなかった。無駄なことを言うなと、また怒られそうだ。

 いくつかの村を抜け、太陽が中天を通り過ぎても揺られ続け、街にたどり着いた。

「今日はここまでか……」

 煉瓦の道に降り立ち、カイは数時間ぶりに声を発した。

 カイの後ろから、ふらつきながらメイエルが降りる。

 その時、カイに黒いなにかがぶつかり、メイエルとの間を駆け抜けていった。

「あっ」

 メイエルが声を上げ、通りを曲がった影を目で追った。カイの持っていた荷物がなくなっている。

「どろぼう!」

 メイエルは叫んで走りだした。

「ちょっと!」

 カイは、足をもつれさせながら追いかける。

 なんてことだ。完全に油断していた。

 角を曲がると、細い路地が坂になっている。メイエルは、かなりのスピードで坂を駆け上がっていた。その先には、逃げる男。

 カイが、めまいのために頭を押さえて追いついた時には、転んだのか、男が地面に倒れていて、メイエルが荷物をもぎ取っているところだった。

「お前」

 メイエルが、汗だくの男の顔を見て声を上げる。

「どうしてここに」

 メイエルは震えていた。

「殺してやる!」

 メイエルが男の顔をブーツで踏みつけようとし、カイは後ろからメイエルを押さえた。

「無茶するな!」

「放して!こいつ、お父さんを殺した!」

「だめだ、なにされるかわからないだろ」

「殺してやる!」

 その間に、男はおびえた表情をし、逃げて行った。

 カイが手を離すと、メイエルはカイの胸を殴った。十一歳の女の子の拳は、病人のカイにも響かなかった。

「あいつがお父さんのワクチンを盗んだんだ!どうしてとめたの」

「本当にそうだったのか?見間違えたんじゃなくて?」

 メイエルは答えず、いきなり幼児のように泣きだした。

「ちょっと……よしよし」

 カイは、メイエルの頭を乱暴になでる。

 メイエルは、より一層キラキラと涙を流した。

 ようやくメイエルは泣きやみ、とにかく荷物が戻ってきてよかったと、中を確認した。

 お金を入れた袋がなくなっていた。

 また油断してしまった。完全にしてやられた。

 道にぶちまけられた衣類やわずかな乾燥食料やナイフや方位磁石などを前にして、カイとメイエルは立ち尽くした。

「……きみの荷物にもお金は入ってるよね?」

 メイエルの目からは、再び涙が溢れそうになる。

「ちょっとしかない。食料を買ったら終わりだと思う」

「これからは徒歩で移動するしかなさそうだ」

「……間に合うの?」

「大丈夫。初めは十日って言ってたけど、それは、遠回りした日数だよ。近道していけば、馬車よりずっと早く着くさ。それに、列車の切符は盗られてないよ。ほら」

 カイの笑顔を見て、メイエルはこっくりとうなずいた。


 二人は、街のはずれまで歩き、今日は路上で夜を明かすしかないと覚悟した。

 しかし、通りがかりの女性が、どうしたのかと声をかけてきた。泊まるところがないと言うと、うちに泊まっていってもいいという。凍死する気温ではないし、一人は七日病でもあるし、構わないでくれと断ったが、病人と子供を放っておくのは自分自身が許さないと言うので、ついていった。

 外階段を上がった二階にある小さな家だったが、本当に泊めてくれた。別れた夫が使っていたという部屋で、二人は休ませてもらった。

 親切に感謝し、明日に備えて眠ろうと、ランタンを消した。

「あいつ、本当にあいつだったんだよ」

 メイエルは言った。

「そうか」

 少し息苦しい。

「わかってるよ。売り飛ばすためだったかもしれないし、自分に打つためだったかもしれないけど、もしかしたらあいつにも、どうしてもワクチンを打ってほしい人がいたのかもしれない。でも、許せない」

「そうだね」

「やっぱり、具合悪いの?」

「いや、大丈夫だ。とりあえず今日は、あいつのことは忘れよう」

 また食ってかかられるかと思ったが、今日のメイエルは大人しかった。

「おやすみ」

 メイエルが言い、ごそごそと寝返る音がした。

 明日は四日目。まだ行けるはずだ。


 夜が明ける前から、カイは目覚めていた。窓から日が差し込んでくるのを待った。清冽な朝日にメイエルの顔が浮かんできても、しばらくはそのままでいた。

 黒い髪に縁どられた寝顔は、激しい感情をあらわにした時の面影を残していない。無邪気に幸せな夢でも見ているように思える。

 自分が自分ではなく、キサトであればよかったのに。この顔を見るのは、キサトであるべきだった。

 これ以上切ない気持ちになる前に、カイはそっとメイエルを揺り起した。

 カイとメイエルは、起きだしてきた女性に何度も礼を言い、街をあとにした。今日は、海岸沿いの街まで行くことが目標だ。

 海の方向へ向かって行くと、草原は少なくなり、畑や住宅が増え、舗装路をずっと歩いていくことになった。初めは歩きやすくて助かったと思ったが、日が高くなる頃には、硬い地面が、踏み出す足を拒否しているように思えてきた。

 気がつくと、前を行くメイエルが振り向いて見つめていた。

「歩ける?」

 相変わらずの無表情だ。

「ああ、大丈夫だよ」

 そんなに遅れてはいないはずだ。ほら、ちゃんと歩いている。それとも、自分では気づいていないだけで、遅々として進んでいないのか?

「ちょっと休憩」

 カイは、座り込んで水筒の水を飲んだ。メイエルが近づいてきて、カイの額に触れる。

「やっぱり熱い……」

「まあ、少し熱はあるね」

 カイは、心配そうに見下ろすメイエルを見て、ふと思い出した。

「そういえば、今日誕生日だっけ?」

「あ、うん」

「ごめんね、忘れてた。十二歳の誕生日おめでとう」

「あ、ありがとう」

 唯一の家族であった父を亡くし、よく知らない男と一日中歩き詰め。金は盗まれ、プレゼントをくれる人もいない。なんてかわいそうな誕生日だろう。

 カイは立ち上がった。

「頑張ろう。さあ、歩くぞ」

 ふたつの村を通り抜け、海岸沿いの街にたどり着いた時には、すでに日が沈んでいた。でも、なんとか目標達成だ。

 街は静まり返っていた。月明かりが、人気のない通りを濃紺に染めている。

 広場にたどり着いた時には、体がバラバラになりそうな気分だった。

 それでもなんとか体をベンチに落ち着け、前の村で買っておいた夕食を広げた。

 カイはごそごそとポケットを探り、パンとチーズで頬を膨らませているメイエルの前にろうそくを差しだした。マッチで火をつける。

「誕生日おめでとう」

 メイエルは戸惑った目をして、口の中のものを飲み込む。

「なにそのろうそく」

「前の村で拾ったんだ。ケーキの代わりにはならないかもしれないけど」

「拾ったろうそくでお祝いってこと?馬鹿にしてんの?別になにもしなくていいから」

「いいじゃないか。ハッピバースデー」

 カイはお祝いの歌を歌いだしたが、手にろうが垂れて、「熱っ」と言ってしまった。

 メイエルはろうそくを吹き消す。

「大丈夫?」

「ああ、たいしたことない」

 メイエルはあきれたように少し笑い、そのあともかすかに含み笑いをしていた。


 朝が来て、濃紺の街は黄金色の街になった。海が見える街道に出て、海岸沿いに進む。きらめく海面は目に痛いほどだ。そう感じるのも、体調のせいかと不安になる。今日は出発から五日目。順調に行程をこなしていることは、喜んでいい。

 街道には、カイやメイエルと同じような旅姿の者たちの姿がちらほらと見えだした。彼らも、駅へ向かっているのだろうか。

 この日は、寒さを気にするよりも、かえって、日陰がないことを気にするような陽気だった。汗をにじませながら、同じような景色の中を歩き続ける。夕暮れ時になっても、まだ海の雄大な姿が左手に続いていた。

 道は丘を登り、海岸から逸れはじめた。傾いた太陽の燃えるような光の中、人々はみな足をとめ、水平線へ目を向けていた。

 海の上に、太陽とは別の光があった。炸裂する赤い光。群れを成すように、不規則に生まれては消えている。ここまで音が聞こえてくることはない。しかしカイには、爆発音と怒号と悲鳴が聞こえるような気がした。

「なに、あれ」

 メイエルは言った。

「戦争だよ」

 カイは目を細めて答える。光は激しさを増していくようだった。太陽の光が薄れていくせいだろうか。キサトは、これに触れさせたくなかったから、地図にルートを描いたのだろう。

「あそこで本当に、人が死んだり、殺したりしてるの?」

 ぞっとしたようにメイエルは言う。

「そうなんだろうね」

 カイは戦争の火から目を逸らし、メイエルを見た。油染みてしまってペタッとした髪が、海風になびく。緑色の瞳が光を吸い、オレンジ色に見えた。

 白い肌に刻まれた真剣な表情を、ただぼんやりと眺めていた。

 誰かが発したかすかな祈りの言葉。我に返り、潮騒から遠ざかる道を、先へ急ぐ。


 その日のうちに、目標としていた町に到着することができた。これで、明日には列車に乗ることができる。

 安心したせいか、町に入って通りを少し進むと、通りに座り込んで動けなくなってしまった。

「おじさん。今日はここで寝るの?」

 メイエルが言う。婉曲な心配の表現だとわかるようになっていた。

「いや、もっとマシな場所を探そう。でも、ちょっと休ませてくれ」

 そう言っているうちにも、視界がかすみ、ゆがんだ。

 カイは、絶対になくさないようにと、服の間に挟んでおいた、二枚の切符を取りだした。

「メイエルが持っててくれ」

 メイエルは、汗の染み込んだそれを受け取るのを一瞬ためらった。

「大丈夫だと思うけど、明日俺が動けなくなったら、一人で列車に乗って行くんだ」

「でも、わたし、おばさんに会ったことないの。おばさんを一人で探せっていうの?広い町で、なんの当てもないのに?」

「地図も渡すから。おばさんの家の場所がちゃんと書いてある」

 不満そうな沈黙。

「わかった。わかったよ」

 カイは、脂汗を浮かべた顔で笑う。

「俺も一緒に行くから」

 メイエルは、仏頂面でうなずいた。

 なんとか広場のベンチに移動し、メイエルは大人しく上着にくるまって横になった。疲れているだろうに、泣き言ひとつ言わないのは、本当に感心する。

 カイは、メイエルの横に座ったまま、街灯の弱々しい光の外側の暗闇を眺めていた。横になってしまうと、もう起き上がれないような気がする。

 咳がこみ上げてきて、カイは口を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。

 広場から離れて壁に手をつき、激しく咳き込む。びちゃっと手に液体を吐いた。

 暗くてよく見えないが、ねばねばしたそれは、血のような気がする。いや、それ以外ないだろう。今度は道端に吐き出す。

 明日は六日目。我ながら、ここまでよく頑張った。でも、あともう少し。もう少しだけしがみつかなければ。

 カイは朝日を待った。早く時計が進んでくれという思いと、時が過ぎていく恐ろしさに引き裂かれながら。


 もう永遠に朝は来ないかと思った頃、朝日はいつも通りの姿を見せた。光を浴びた時は、待った時間が長すぎたせいで、夜が明けたことに拍子抜けしたほどだった。

 今日は急ぐことはない。昼頃にやって来る列車に乗って、キサトの叔母の住む町へ向かえばいい。ここから駅までは、歩いてもすぐだ。

 光が強くなっていくと、メイエルが目を覚ました。黙って荷物の整理をし、最後の食料と切符を取りだす。

 自分の分の切符を受け取ったカイは、硬パンには首を振った。実際のところ、水を飲むのもおぼつかなくなっている。

 その時、メイエルより少し小さいくらいの年の頃に見える少年が近づいてきた。

「おはようございます」

 ぺこりと大きな帽子をかぶった頭を下げる。

「北へ行くんですか?地方に?」

 メイエルはうなずく。

「うん、そうだけど」

「実は僕、すごくお腹が減ってるんです。お金がなくて、なにも食べてないんです。なにかわけてもらえませんか」

 いささか急な話題変更に、メイエルとカイは顔を見合わせた。

 突然、少年はメイエルにつかみかかった。メイエルの手にあった一枚の切符をもぎ取る。

 メイエルは悲鳴を上げる。走り出す少年に、カイは飛び上がって手を伸ばした。無意識のうちに警戒していたのかもしれないが、自分で自分の俊敏な動きに驚いた。

 あっけなく少年は服をつかまれた。これでつかむことができなかったら、逃げられていただろう。

「放せ!」

 少年は暴れる。

「切符を返せ」

 カイは少年の拳をこじ開けようとするが、少年はもう片方の拳でカイの手を殴りつける。

「嫌だ!俺は北に行くんだ!親父のいないところに行くんだ!」

 帽子が落ち、青あざの鮮やかな目元があらわになった。

 カイの力の弱った手を、少年が激しい力で振り払いかけた。カイは、少年の頬を拳で殴った。

 少年が地面に倒れる。カイは少年の腹の上に馬乗りになり、少年の手をこじ開けた。こんなに乱暴なことをしたのは何十年振りだろう、と妙に冷静な自分がいた。

 切符を手にして立ち上がったカイを、少年は壮絶な目でにらんだ。

「一生恨んでやる!」

 少年は帽子を拾い、駆けて行った。

 少年の姿が街路の向こうへ消えた途端、カイは咳き込んだ。口の中にあふれた鉄錆を無理矢理飲み込む。

 メイエルが、震える瞳で覗き込んできた。

 カイは口の中で歯を舐め、息を整えた。

「そうか、切符なんてくれてやればよかったか。俺がここに残れば……」

「わたしのせいだね。わたしが一人じゃ嫌って言ったから」

「いや、そうじゃない」

 とっさに手をあげていた。あんなに小さな子供に。俺はもともと、最後まで、そういう人間だったということか。

 二人は黙って駅へ向かって歩き始めた。


 まともな体調と精神状態だったなら、初めて見る列車の巨体に目を見張る余裕もあったかもしれない。

 乗り込んだ中は、板張りのなにもない空間だった。壁の一部が欠落していて、下手をすれば転がり落ちてしまいそうだ。貨物列車で人も運ぶということなのだろう。同室の乗客は、老女とその息子らしき痩せた男だけで、寿司詰めにされなかったことだけが幸いだった。四人だけでも、十分に狭かったが。

 走り出すと、想像よりも激しく揺れた。硬い床と揺れにも、一日耐えれば目的地に着く、と自分に言い聞かせた。カイは床に上着を敷いて横になり、メイエルは荷物の上に座って壁にもたれた。欠落部分から吹き込む強風には、壁と床にしがみつくようにして耐えた。

 眠ったというよりも、気を失ったと言ったほうがよかったかもしれない。気がつくと、列車は揺れていなかった。真っ暗でなにも見えない。

 ひそひそと話す声が聞こえた。老女と男か。耳を澄ますと、やっと単語の一部が聞き取れた。

「いつ動く……風……木が……」

 メイエルがいるかどうか不安になり、声をかけた。

「メイエル……いるか」

「起きたの?」

 メイエルの冷静な声がそばで聞こえ、カイはほっとした。

「なんでもないんだ。いるかと思って」

「あのね、今列車とまってるの。強風で木が倒れて、線路をふさいでるんだって。今、木をどかしてるって」

「え、じゃあ、遅れるってことか」

「うん」

「どのくらい遅れるかなんて……わからないよな」

「うん……わからない」

 沈黙が流れた。

 それからは、不安で眠れるわけがなかった。汗が次々と流れ、体が干からびていくようだ。手さぐりで水筒の水を飲もうとしたが、口に入れた途端、案の定、すぐに吐き気がこみ上げてきて、一口分を無理矢理飲み込んでやめるしかなかった。

 極力うめき声などを漏らさないように全力を振り絞った。メイエルは、ただでさえ不安で押し潰されそうなはずだ。これ以上、苦悶の声など聞かせて恐れさせたくない。

 再び気を失ったのか、それとも半覚醒状態を保っていたのか、もはや自分でもよくわからなくなっていた。

 気がつくと、壁のない部分から、紫色の空が見えていた。空の下部に、桃の白い実のような色が広がっている。

 朝だ。七日目の朝だ。

 メイエルはどこだ、と寝たまま首をめぐらせた時、咳の爆発が起こった。

 あっと思う間もなく、床板が血まれになっていた。脱力し、血の中に顔を突っ伏す。

 息を飲む音がした。

「おじさん」

 メイエルの声。肩に小さな手がかかる感触。カイはべとべとする顔を天井へ向けた。

「どうしよう……どうしたらいい?水飲む?」

 泣きそうな白い顔が見えた。カイは手で口元を拭う。

「なにもしなくていいよ……まだ心配してくれるんだね。子供を殴ったのに」

「もういいから、それは」

 同乗者の老女と男が驚きの声を上げるまで、静かになにも考えないでいた。気付いた二人も、なにもすることはできない。メイエルが顔を拭いてくれた。ごわごわした布の感触もありがたく思える。

 辺りがすっかり明るくなった頃、列車は再び動き出した。ほっとしたはいいが、カイは熱で意識が朦朧とし、なんとか覚醒状態に踏みとどまることだけに必死だった。

 ここで終わりかもしれない。列車の中で、どこの地面の上でもないここで。

「おじさん、しっかりして」

 極普通の女の子の声が聞こえた。

「見て、これ、お父さんがくれたペンダント。誰にも見せたことないんだよ。それに、これ。誕生日の日に、拾ってくれたろうそく」

 かすむ目に、輝く緑色の丸いものと、細く短い乳白色のものが見えた。

「このろうそくも、大切なものを入れてる箱の中に加えてあげる。だから、元気出して」

 カイはかすかに笑う。

「そのろうそく、持ってたんだ」

「うん。ねえ、町に着いたら、すぐにお医者さんを呼んであげる。おじさん、お父さんより体力ありそうだし、もしかしたら治るかも」

「その前に、もうだめかも」

「やめてよ。嫌だよ」

 カイはまぶたを閉じたから、もうなにも見えない。

「ごめんね。二度も同じ病気の人間に付き合うことになって。つらいよな」

「そうだよ。最悪だよ。どうして……」

「悪いことの次にはきっと、いいことがあるよ」

「そんなの嘘。自分は死にかけてるのに、下手な慰めなんかやめてよ」

「俺にはわかるんだよ。死にかけの人間には、不思議な力が宿るんだな。きみはこの先の町で、すごくいいことに出会う」

「わかった。わかったよ、そう思っておくことにするから、もう自分のことだけ考えて」

 それからもいくつか言葉を交わしたような気がしたが、意識の縁からこぼれてしまった。

 長い時間の中、耐え続け、なにも考えられなくなり、汗と血のベタベタした感触だけが残り、やがてそれも消えた。


 激しく体を揺さぶられ、カイは薄目を開けた。

 まぶしい。ここはどこだ。

「おじさん」

 カイは光と格闘しながら目を開ける。メイエルの顔が目の前にあった。

「メイエル」

 メイエルの後ろには、青空が広がっている。不思議なことに、上体を起こすことができた。

 見渡すと、そこは駅のホームだった。列車の姿はどこにもない。

 制服を着た駅員が見下ろしている。

「よかった。死んじゃったのかと思いましたよ」

 笑顔で言う駅員の後ろから声がした。

「馬鹿、早く離れろ。病気がうつるぞ」

 カイのそばに立つ駅員は振り向く。

「俺はワクチン打ってるんだ。平気だよ」

「でも、絶対とは言い切れないだろ。その子も、早く離れろ」

 メイエルは聞こえないふりをした。

 ここが本当に目的地なのか。これが八日目なのか。

「メイエル」

 誰かの声がした。見ると、遠巻きに見ている駅員や地元民らしき人々の間に、杖をついた老婦人がいた。

「メイエルなのね?キサトの娘ね?こっちにいらっしゃい」

 メイエルは迷うそぶりを見せたが、しゃがんだまま、立ち上がろうとはしなかった。

「誰か、あの子をこっちに連れてきてください」

 老婦人の言葉に、二人の男が渋々といった様子で進み出た。

「待って。おじさんを医者に診せて。わたしをここまで連れてきてくれたの」

 目の下に隈を作ったメイエルは、明瞭な口調で言った。

「そいつはもうだめだ。お嬢ちゃん、とにかくおばさんのところへ」

 男二人がメイエルの腕をつかんだ。

「触んないで」

 メイエルは振り払おうとするが、立たされて無理に連れて行かれる。男たちは、早くカイから離れたいようだ。

「わたしはワクチンを打ってるから平気なの!おじさんに付き添わせて!」

「お嬢ちゃん、あとは任せな。おばさんを心配させちゃだめだよ」

「かわいそうだが、重病人に付き添っても意味ねえ。あいつの服、血だらけじゃないか」

「放してよ!」

 かなわないと悟ったのか、メイエルは首を捻じ曲げ、カイに振り返った。

「カイ……おじさん!ありがとう!ごめんね!」

 見開く緑の瞳に、カイは精一杯微笑んだ。

 幸せになってくれ。

 思わずくちびるが動いていたのかもしれない。次にメイエルは叫んだ。

「わたし、ちゃんと生きるから、幸せになるからね!」

 メイエルの姿は、老婦人とともに人の壁の中へ消えた。引き返してくることはなく、ざわめきが小さくなり、誰の声も消えた。

「ひどいですねえ、みんなも。簡単にうつるわけでもないのに」

 一人の駅員だけが、カイのかたわらに残っていた。

「いいんです」

 カイはかすれた声で応える。

「聞きましたよ。何日も前から、十二歳くらいの女の子が来たら知らせてくれっておばあさんに言われてたもんで。おばあさんの甥っ子さんは、娘さんを親友に託すって言ってたってね。信頼できる方なんだなあとは思いましたが、まさかこんなになってまでとは」

 カイは立ち上がった。なんだ。立てるじゃないか。

「では、お世話になりました」

 カイは頭を下げる。

「あ、病院にお送りしますよ」

「ご親切にどうも。でも、結構です。ちょっと、歩きたいんです。人があまりいなさそうなのはどっちですか?」

「線路の向こう側はのっぱらですけど。本当にいいんですか?」

「ええ。もう、行きたいところへ行けるのも、あと少しですし」

「でも……」

 カイは日の当たるホームを進み、駅員に手を振った。

 ホームから降り、線路を渡って草をかき分ける。なぜか体が軽く、今なら、ずっとどこまでも歩いていけるような気がした。

 野原の向こうには畑が広がり、そのさらに向こうには海があった。東の青空に浮かぶ太陽、その下に真っ直ぐな青い帯がきらめいている。

 いいところじゃないか。

 突然喉の奥からこみ上げてきて、体を折って吐き出す。青い草に血が飛び散った。

 もう少し、もう少し、と足を進めるうち、唐突に、たったひとつの切株に行きあたった。これはもう運命かと、草の上に腰を下ろし、硬い木の皮にもたれる。

 カイは、かすむ目に海を収めて瞬いた。口の端から血が漏れるが、もう拭うこともしない。

 ずいぶん遠くまで来た。誰もいない。もうすぐ終わるのか。たった一人で、看取る人もなく。

 これはなにかの罰なのか。子供を殴ったせいだろうか。罪に先回りして、病気という罰が与えられたのか。

 いや、違う。だったら、キサトもなにか罪を犯したということになってしまう。キサトはそんなやつじゃなかった。子供の頃、共に遊び回ったキサト。危ないからだめと言われていた川や森に一緒に入って、叱られた。久しぶりに会った時、妻の自慢をしたキサト。自分から話したくせに、からかうと照れた。あいつに罰が与えられたわけがない。

 考えてみれば、自分のこの状況も、そんなに悪いものじゃない。役目は果たせたし、風は心地いい。全然悪くないじゃないか。多分、爽やかな風っていうのは、世界で一番いいものだ。

 むしろ、こんなに幸せでいいのだろうか。こんなどうしようもない俺が、こんなに素晴らしい最期の景色を用意してもらって、いいのだろうか。

 広がる意識の中で、子供の頃のキサトと自分が笑って駆ける。緑の瞳が点滅し、太陽に重なる。

 太陽が空を滑り、空を赤くして沈む頃には、カイはそこからいなくなっていた。

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八日目の旅人 諸根いつみ @morone77

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