beauty addict

諸根いつみ

beauty addict

 ◆

 少女は怯えるということを知らなかった。悲しむということを知らなかった。短く丸かった手足は、もう既にすらりと伸びていたが、彼女の頭の中身は、大人になるための痛みを受けてはいなかった。

 おばあさんはいつも、村の外へ出てはいけない、と言った。この村の子供たちは、みんなそう言い聞かされている。外には、こわいものがたくさんいる。一歩でも、村の境界線である川を越えてしまえば、すぐに殺されてしまうのだと。

 少女は、そんなことを聞かされても、少しもこわいと思わなかった。村の中は安全だと知っていたし、村の外に出たいなんて、少しも思わなかった。村には、畑もあれば、牧場もあった。花畑もあるし、たくさんの小鳥が巣を作っている森もあった。誰が外へ出たいと思うだろう。誰かが外へ出て殺されたなんて、聞いたこともない。誰も外へ出ないなら、こわいものが本当にいるかどうかも、わからないはずだ。昔はいても、今はいなくなっているかもしれないし。そう思うこともあったが、少女にとっては、どうでもいいことだった。少女は、村の生活に満足していた。

 一年くらい前までは、よくおばあさんに連れられて散歩をした。おばあさんは、植物の名前や、森を駆ける小動物の名前や、どうやって村のみんなが畑で作物を育てているかなど、たくさんのことを教えてくれた。夜、家でも、様々なお話をしてくれた。昔、実在したという、悪者を退治した英雄の話、妖精のおとぎ話。しかし、最近は体調を崩しがちで、外に出ることも、お話をしてくれることも少なくなっていた。機織りも、休み休み、ゆっくりとしか進まなくなって、疲れた顔をすることも多い。

 少女は、一人で出かけても、おばあさんに文句を言われることがなくなったので、嬉しかった。本当のことを言えば、おばあさんとの散歩の日課がなくなったことも嬉しかった。散歩のたび、おばあさんは、前に教えたことをちゃんと少女が覚えているかどうかをテストするのだ。勉強には飽き飽きしていたし、お話を聞くのも退屈になってきたところだ。もう小さな子供ではない。少女は、おばあさんとの時間が短くなったことで、自由に遊ぶことができるようになった。

 少女は、自分の部屋の大切なものを入れる箱に、お気に入りのものを仕舞っていた。押し花やドングリなど、子供じみたものもあるが、一番大切なのは、丸くて青い手鏡だった。自由に出歩けるようになってから、村の反対側の市まで足を伸ばした時に、手に入れたものだ。

 少女はその日、一人でそんなに遠くまで来たのは初めてだったので、わくわくしていた。立ち並んだ出店を見て回っていた時、その鏡を見つけた。

 その鏡を覗き込んだ時、少女は思わず、わあ、と小さく息を吐いた。

 家には、おばあさんの古い鏡しかなかった。汚れてくすんでしまっていたし、日当たりの悪い家の中では、よく見えなかった。しかし、その手鏡は、おばあさんの古い鏡よりも、覗き込む池の水よりも、はっきりと少女の顔を映し出していた。

 少女は、暖かい日差しの中でこっちを見ている自分を、一瞬で好きになった。驚きの表情が、笑顔になった。この美しい女の子は、ほかでもないこの自分なのだ。

 少女は、おばあさんが織ってくれたハンカチと、その手鏡を交換してもらった。お店のおじさんは、ハンカチを手にして、少し渋っていたが、ちょっと頼んだら、すぐに折れてくれた。

 それ以来、手鏡は少女の宝物になった。しょっちゅう箱から取り出しては、覗き込んでみる。そうすると、いつでも深い満足がこみ上げてきた。

 少女には、鏡のほかにも、お気に入りがあった。家から、森に近づく道を少し進んだところに住んでいる、盲目の少年だ。

 少女は、幼なじみの女の子と歩いている時、森のはずれの草地で少年と出会った。少女は、その少年の美しさに素直に感嘆し、幼なじみそっちのけで、少年に話しかけた。それから、それまで仲のよかった友達よりも、盲目の少年とばかり遊ぶようになったのだ。

 ある日も、少女は待ち合わせ場所の森のはずれの草地へ向かっていた。その途中で偶然、隻腕の少年と会った。

「またあいつのところに行くのか?」

 隻腕の少年は言った。その少年は、隻腕ながら、父親の牧場の手伝いで力仕事をしているせいか、がっしりとした体つきをしている。

「そうよ。それがどうかしたの?」

 少女は気取って言う。

「みんな、きみは変わっちゃったって言ってるよ。あいつとばっかり一緒にいるから。あいつ、みんなと一緒にいたがらないし、変わってるよ」

「あの子は繊細だもん。ガサツなみんなとは遊びたくないんじゃない?」

 少女が笑うと、隻腕の少年はむっとした顔をした。

「あいつなんかのどこがいいんだ?」

「あら、嫉妬してるの?もしかして、わたしと付き合いたい?」

「そ、そんなこと言ってない」

「そうよね、残念。あなたがもうちょっと繊細で、その目でわたしをよく見てくれたら、わたし、あなたが好きになってたかもしれないけど」

「俺、目はいいよ」

「よく見えるだけじゃだめなの。感想を言ってくれなくちゃ」

「きみはとっても綺麗だよ。あんなもやしみたいなやつとは釣り合わないと思うな」

「ありがとう」

 少女は、顔を赤くした隻腕の少年を置き去りにして、笑いながら道を歩いて行った。隻腕の少年も、それなりに整った顔立ちをしていた。しかし、盲目の少年にはかなわない。盲目の少年が盲目ではなく、さっき隻腕の少年が言ったように、きみは綺麗だと言ってくれればいいのだけれど。それが唯一の不満な点だった。

 いつもの場所に着くと、盲目の少年が木の根元に座っていた。少女が近づいてくることに気づいていて、驚きもしない。彼曰く、足音で誰なのかがわかるという。

「やあ」

 少年は言った。少年が撫でていたリスが逃げていく。

「リスと遊んでたの?」

 少女は笑いを含んで言った。

「うん。きみを待ってたら、小っちゃいリスが自分から近づいてきたんだ」

 少女は少年の隣に、ワンピースのひだを整えつつ座った。

「あなたは動物には人気ね。いつから待ってたの?」

「うーん。かなり早くから」

「あなたはおうちが嫌いだもんね」

「まあね。お父さんとお母さん、いつも喧嘩してさ」

「わたしには元からお父さんもお母さんもいないから、よくわからないけど」

「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」

「いいの。わたしもそういうつもりじゃない」

 少女は、いつものように、少年をじっと見た。プラチナブロンドの短い髪と、曇りのない白い肌。まぶたは閉じられていて、まつげが勤勉な番人のように並んでいる。まぶたが開かれるのは、ふとした瞬間のほんの短い間だけで、その時には、ミルク色の大きな瞳が垣間見えた。

 粗末な服に包まれた胸板は薄く、手足は長く、立ち上がれば、その華奢な体は、目が見えないことを忘れさせるほど滑らかに動くのだった。

「ねえ」

 少女は、少年の細い腕をつかんだ。

「まだ行ったことのない場所に連れてってあげる。本当のこと言うと、おばあさんに頼まれて、行かないといけないの」

「そこって、ほかの人もいる?」

 少年は不安げな顔になった。

「ううん。誰もいない。行こう」

 少女は、少年を引っ張って立たせた。

 少女は、静かな道を歩いて行った。少年は、少女の腕に手を触れ、よどみない足取りでついていく。

「この匂いはなに?」

 少年は、顔を上げた。少女にはなにも感じられないが、少年にはわかるらしい。

「もうすぐよ」

 少女は、うっとりした少年の声に微笑んだ。

 古びた鉄の門にたどり着くと、少女はポケットから鍵を取り出し、門を開けた。

「すごくいい匂いがする」

 そう言った少年の手を引き、少女は門をくぐる。門の中にあったのは、小さな薔薇園だった。真紅と純白の薔薇が咲いている。

「おばあさんの薔薇園なの。水をやってきてって頼まれちゃって」

「薔薇園、ってなに?」

 少年は、閉じたまぶたでじっと空中を見つめるようにしながら言った。

「薔薇を知らないの?」

 少女は笑った。

「それって植物?これは花の匂いなの?」

 花弁を広げた赤い薔薇の前に、二人は並んでしゃがんだ。

「目の前にあるのが、薔薇よ」

 少女は少年の指を花弁に導く。

「ほんとだ。花だね。この匂い、くらくらしそう」

 少年は、柔らかい花弁を優しく指で挟んだ。

「気に入った?」

「うん。素敵な花だね」

 少年の笑顔を見て、少女は楽しくなった。

「じゃあ、一輪、わたしのために摘んでくれる?」

「でも、いいの?おばあさんに言わないで勝手に摘んでも」

「バレないわよ。おばあさんは、ここまで出かける気力も体力もないんだから。ずっと一人の楽しみで育ててきたらしいけど、見る人もいなくて薔薇がかわいそうよね。摘んで愛でてくれる人がいたほうが、薔薇も幸せだわ」

「そういうものかな。じゃあ、摘むね」

 少年は茎に手を伸ばした。

「いたっ」

 叫んですぐに手を引っ込めた。白い指先から、赤い血の玉が盛り上がる。

「な、なに?」

 そう言って慌てる少年を見て、少女はわざとらしく言う。

「ああ、棘があるって知らなかったのね。わたしがうっかりしてたわ」

「棘?薔薇には棘があるの?僕の指、どうしよう。血が出てるよ」

 少年は不安そうに指を差し出した。その様子がおかしくて、少女は笑いを抑えきれない。

「こんなのたいしたことないわよ」

 少女は顔を近づけ、少年の指を素早く口に含んだ。少年は声を上げ、指を引き抜いた。その時に少女の顔を軽く引っかいてしまう。

「ご、ごめん」

 少年は一瞬目を開けて言った。

「ごめん。びっくりして。大丈夫?」

「もお。ひどいなあ」

 少女は、自分の唾液のついた顔をゆっくりと指で拭った。

「ごめんね……許して」

 歪んだ少年の顔を見ると、本当に楽しくなってしまう。でも、いじわるばかりもしていられない。

「大丈夫よ。怒ってないから」

「本当?よかった」

 少年の表情は正直に変わる。

「じゃあ、もう一回なめて?」

 少年は無邪気に言う。

「なに言ってんの」

「そのほうが早く治るかも。もう一回」

「嫌。もうだめ」

 またすぐにいじわるをしたくなってしまう。

 少女はひらりと立ち上がり、鋏で赤い薔薇と白い薔薇を切り取ってきた。

「ねえ、これが赤い薔薇で、これが白い薔薇よ。違いがわかる?」

 少年の前に差し出す。

「赤とか白って、色のことでしょ?よくわからないけど……」

「あなたにはこの重大な違いがわからないのね。そしてわたしの顔を見ることも決してないのね」

「ちょっと待って」

 少年は少女の持つ二つの花を引き寄せた。

「なんか、匂いが違うよ。これがその色の違いなのかな」

「匂い?匂いは同じに決まってるじゃない」

「同じじゃないよ。嗅いでみて」

「同じよ。本当に馬鹿ね。わからないならわからないって言えばいいのに」

「嘘じゃないよ。うまく言えないけど……本当に違うんだ」

「はいはい、わかったわよ、お坊っちゃん」

 少女は薔薇を後ろにポイと投げ捨てた。

「僕……本当に、いろいろなことの違いはわかるつもりだよ。例えば、きみがほかの人とは違うってこととか」

「どこが違うっていうの?」

 少女は眉をひそめた。

「きみは、一人ぼっちが好きだった僕を変えてくれた。僕と仲良くしてくれるのはきみだけ。だからきみは特別な人間なんだよ」

「なに言ってんの。本当に馬鹿ね」

 少女はひとしきり笑ったあと、少年の隣に寄り添って肩に手を置いた。

「きっと、みんなあなたの美しさに尻込みして近づけないのよ」

「え?」

「なんでもない。言ってもわからないことだから。あなたも、湖の水面を覗き込むことができたらいいのにね」

 少女は笑い、すっと少年の頬を指でなぞって体を離した。薔薇の香りを吸い込み、幸せに胸が満ちるのを感じた。


 ◆

 暗くなってから家に帰ると、おばあさんが夕飯の支度をしていた。

「ちょっと、咳き込みながらお鍋かき回さないでよ。わたしがやる」

 少女は乱暴に場所を替わった。おばあさんは、大儀そうに食卓の椅子に腰を下ろす。

「水はやってきてくれたかい?」

「うん。やってきましたよ」

 少女は、まだ時間のかかりそうなシチューを苛々と覗き込んだ。

「今日、氷屋の奥さんが来たんだけどね……あんたのことを話してたよ。あんたが最近、付き合っている男の子がいるらしいって」

「あ、そう」

 少女は落ち着き払って言う。誰が知ろうが知ったことではない。

「あのね、あんたはまだ子供だけど、もう初潮を迎えているし、本当に慎重にならないとだめだよ」

「あら、そんなに心配?」

「もう教えたけれど、子供を産むには、村長さんの許可が必要なんだよ。許可を得ずに妊娠したとしたら、おろさないといけないし、そうなったら今までの体でいられるとは限らないし。隠れて子供を産んだりなんかしたら、それこそ大変なことになるんだよ」

「はいはい。子供が増えすぎるとまずいから、でしょ?村の外へは出ていけないから。もう何度も聞いたわ」

「大事なことだからね。その男の子とは、純粋な付き合いをしてるってことでいいんだね?」

 少女はふき出した。

「純粋ってなによ」

「あのね」

「自然な形で付き合ってるわ。相手が男の子だってことはもちろん忘れてない。男と女として付き合ってるんだから、忘れるなんてありえないわよね」

 実際には、少女はキス以外の性的なことはなにもしていなかった。しかし、訊かれてみれば、事実とは違うことをほのめかしたくなってしまう。

「心配しないで。ちゃんと自分のことは自分で責任取るから」

 少女は余裕の表情でわざとゆっくりと言いながら、鍋の中をかき回した。


 少女は道を歩きながら、昨夜のことを思い出し、不愉快になった。

 おばあさんは、あのあと口をつぐんだ。やかましく言ってくると思ったのに、意外だった。少女が見栄を張ったことに気づいたのかもしれない。

 それならそう言えばいいのに、と少女は思った。黙られると、子ども扱いされているか、馬鹿にされているみたいだ。

 あの場所へ着くと、少年は、いつもの木の根元に座っていた。

「やあ。これ、あげようと思って」

 少年のそばには、いくつもの編んで作った花飾りが転がっている。

 少女は気にせず、いくつかの花飾りの上に座った。

「ありがとう」

 少年の手にあった作りかけの花飾りを手に取って、少女は少年にキスをした。それから抱きついて、もう一度強く唇を少年の唇に押しつける。

「どうしたの?」

 少女が離れると、少年は言った。

「うん……なんとなく」

 少女は、キスの軽い興奮のせいで生まれた頭の中のもやを振り払った。

「わたしのこと好き?」

「うん」

 少年は即答した。

「僕、ほかの人といると、どうしてもなんだがぎこちなくなっちゃうけど、きみといるとそんな感じがしないんだ。きっと、きみが僕のことを好きになってくれたからだと思うな」

「ずいぶんな自信ね」

「ほかには僕のことを好きな人なんていないけど」

「ほかの人にも、好きになってほしい?」

「ううん。きみだけでいいよ。それで充分だもん」

「そうね。あなたにはわたし一人でいいわよね」

 少女は少年の手を取って、自分の小さな胸に押し当てた。

「あなたにはわたし一人だけ。わたしにもあなただけ。今日から本当にその契約を結びましょ」

 少女はワンピースのボタンをはずし、胸をあらわにした。少年の手を触れさせる。少年は一瞬戸惑った様子を見せたが、少女がじっとしていると、優しく乳房をつかんだ。

「ねえ、なめて」

 少女は少年の頭を抱き寄せて、乳首をなめさせた。

「きもちいい?」

 従順に舌先でなめたあと、少年は尋ねた。

 少女は、友達とのぞき見をした若い夫婦を思い出しながら、少年を草の上に押し倒し、細い体を撫でさすってから、ズボンのひもを引っ張った。

「ちょっと待って」

 少年は少女にしがみつくようにして動きをとめようとする。しかし、少女が構わずズボンの中に手を入れると、諦めて少女の背に腕を回して抱きしめた。

 少女は、抱きしめる力に逆らって体を離し、少年の顔を覗き込む。少女は少年の性器を、小さな動物をなでるような気持ちでなでた。次は、小さな動物の喉を押しつぶすような気持ちで締めつけた。

 少年の目が開き、少女は夢中でその瞳を覗き込んだ。なんて美しい目だろう。

 少女は、少年に気持ち良くなってもらおうと努めた。しかし、少年は反対に、苦しそうな顔になり、少女を押しのけた。

「ちょっと待って。待って」

 少年の精液が草の上に散らばった。

 少女が少年を抱きしめると、少年も強く少女を腕で締めつける。

 少女は、少年が少女の体のどこに触れているのかわかるように配慮しながら、少年の手をスカートの中に入れた。

 少年の指は少女の脚を滑り、奥へ到達し、少女の手によって下着の中に入れられた。少女の襞に触れ、濡れた中にも触れる。

「きもちいい?」

 少女は眉を寄せて「うん」と言った。少年の手に手を添えながら膝を立てて脚を開き、自分でする時を思い出しながら、奥へ導いていった。

 二人でひとつひとつ確認するような動きが、少年自らの動きに変わっていった。少年の愛撫は、少女が期待したよりもずっと優しく奔放だった。

 少女は気がつくと、少年の下になって腰を浮かし、少年に合わせて動かしていた。ため息が乱れて声になった。

 少女が達したあとも、二人は草の上でじっと絡み合っていた。

「そんなにきもちよかった?」

 少年は少し驚いたようにささやく。少女は、さっきまでの自分を思い出して少し恥ずかしくなり、ふんと鼻を鳴らした。

 少年は少女の胸をなでながら言う。

「きみがいなくなったとしたら、僕はどうしたらいいんだろう」

「わたしはいなくなったりしないよ」

 少女はふざけて少年の耳に息を吹きかけた。


 ◆

 暖かい季節から、暑い季節になっても、少女と少年の関係は続いていた。

 二人は、森の奥へ入るようになり、そこでは服を全部脱いで木の枝に引っかけておいてしまうこともあった。少女は、四つん這いになって後ろから愛撫を受けながら激しく腰を動かすことも、少年を口で刺激してあげることも、恥ずかしくなくなっていた。

 二人は、森の中を歩き回っている時、小さな湖を見つけた。そのそばはぬかるみになっていて、邪魔になるものはなかった。

 そこで初めて二人は本当に愛を交わした。泥だらけになったが、地面は柔らかかったし、服は汚れないようにきちんと枝に避難させてあった。

 少女は、背を地面にのめり込ませてのけぞった。少年の指は少女の髪に絡まり、髪を引きちぎった。

 二人は体を離したあとも、しばらく手を握り合ってじっとしていた。少女は、腹にかかった精液を泥と混ぜて笑った。

 それから二人は泥を落とすために湖へ入った。浅くて澄んだ湖で、本当にわたしたちのためにあるみたい、と少女は思った。

「もう、髪がどろどろ」

 少女は、わざとうんざりした口調で言い、水の中にもぐる。水の中で思い切りかき乱すと、少しはましになった。

「ここの水、本当に気持ちいいね」

 少年は、場所を確認するように少女の肩に手をかける。少女の後ろへ回り込むと、少女の髪を口に含みながら、乳房と股間に手を置いた。

「またするの?」

 少女はあきれて笑う。

「水の中でする?」

「ちょっと待ってよお。岸に手を着かせて」

 その時、少年が愛撫の手をとめた。

「ねえ、なんか音がしない?」

「なんの音?」

 少女はもう甘えた声になっている。

「誰か来る」

「別に誰が来ても構わないわ」

 少年は少女の腕を引っ張り、水面にあごまで潜った。仕方なく少女も同じようにする。

 しばらくすると、なにかが向こうからやって来る音がした。少女は遠くに目を凝らし、馬だ、と思った。村の中には数頭の馬が飼われている。以前に、農作物を運ぶ途中の馬に出くわし、飼い主のおじさんに頼んで少しだけ背に乗せてもらったことがあった。

 木々の間に、黒い影が見える。馬に人が乗っているようだ。それは、人物の姿がはっきりと見えない距離を通りすぎていった。村の中心のほうへ向かったらしい。

「もう見えないわよ」

「馬だったよね?」

 少年は、危機は去った、というように伸びをした。

「うん。誰か乗ってたみたいだけど」

「向こうはもう境界線なんでしょ?新しい人が来たのかな」

 少年は言った。森の向こうが境界線であることも、たまに新しい人が村の外からやって来ることも、少女が教えた。

「そうね。森の奥に用事があって帰ってきたんじゃない限り、そういうことになるわね」

「でもさ、思ったんだけど、村の外にはこわいものがいるんでしょ?なのにどうして村の外から人が来るの?」

「ほかの村から来る、っておばあさんが言ってたわ。でも、この村から出ることはできないのよ」

「どうして?なんか対策をすれば、村の外に出られるってことじゃないの?ほかの村から来る人は、どうしてこわいものに襲われないの?」

「きっと、襲われてるのよ。生き残る人が少ないから、たまに一人二人しか来ないのよ。この村は特別に守られてるけど、ほかの村はそうじゃないのかも。それでみんなこの村を目指すんだけど、途中でほとんどの人は死んじゃうのかもしれないわ」

「それ、本当?」

 少年の顔がかすかにゆがむ。

「わからないけど……自分で言ってみたら、本当っていう気がしてきたわ」

 少女はわざと少し低い声で言った。

「こわいね……でも、村の中は安全だから大丈夫だよね」

「でも、大人たちがそう言っているだけで、本当はどんな力でこの村が守られてるのかは知らないわ。考えてみれば不思議ね」

 少女は、青くなっていく少年の顔を見て、笑いをこらえる。自分のいい加減な言葉を真剣に受け取る少年がおかしい。少女には、村の外のことも、村を守っている力のことも、どうでもよかった。

「う、うん……もう上がって体乾かそうか」

 離れようとする少年を捕まえる。

「だめ。まだ泥が落ちてないもん」

 少女は後ろから抱きついて少年の性器を握った。腰を動かして体を擦りつけながらしごく。

「ちょっと待って……」

「臆病な子にはお仕置きね」

 少女は少年の肛門に指を当てたが、体をひるがえした少年に岸に押しつけられた。

 激しく舌を絡ませながら、少女は黒い影のことも、この二人以外の世界のことも忘れた。


 ◆

 数日、おばあさんは寝込んで起き上がることができなかった。少女は、仕方なくずっと家にいて、おばあさんの看病をしていた。いつになったら出かけられるのだろう、と少女は思った。ふとした瞬間だけミルク色の瞳を見せるあの顔を毎日見たい。銀色の髪を触りたい。何日も会えないなんてありえない。少女の体の下のほうは、早くもまた少年に貫いてほしがっていた。

 少女は、スープを作っておばあさんのベッドへ運んだ。おばあさんは、ぐったりと横になっていた。

「スープを作ったわよ。起きられる?」

 少女はスープの乗った盆をテーブルに置き、おばあさんの毛布をちょっと引っ張る。

「ん……ありがとね」

 おばあさんは、顔だけを動かして言った。

「ごめんね……世話かけて」

「起きるの手伝う?」

「いや、もう少ししたら自分で起きるから。それよりも、お前に頼みがあるんだよ」

「スープ冷めるわよ」

「あのね、本当に悪いんだけど、薬草を取ってきてほしいんだよ。このままだと、早く治りそうもないからね」

「薬草?」

「ちょっと珍しい草だけど、岩場に行けば、必ず生えてるから。それを煎じて飲めば、よくなるはずなんだよ」

「それならそうと早く言ってよ」

「お前を危ないところへ行かせたくなかったんだよ。岩場といえば、森の反対側にある崖のところしかないからね」

「崖から落ちなければいいんでしょ。そう簡単に落ちないわ」

「ありがとね。充分に気をつけるんだよ」

「じゃあ、今から行ってくるわ」

 少女はすぐに身をひるがえす。

「明日にしなさい。日が暮れてしまうかも」

「大丈夫よ。早く治ってもらわないと、わたしが迷惑するじゃない」

 少女は強引に草の特徴を聞き出した。おばあさんは、くれぐれも気をつけるように、と咳き込みながら念を押した。

 少女は家を出た。一瞬、少年がいるかどうか草地に寄っていこうかとも思ったが、それよりも、早くおばあさんに少しでもよくなってもらうことが先だ。

 少女は、森の反対側へ急いだ。

 果樹園の前を通り過ぎ、木々の間の細い道を行く。前に、おばあさんとの散歩で来たことがある。ここを抜ければ、急に視界が開けて、崖の下に続く果てしない森が見えるのだ。

 確かに視界は開けた。そこには、予想していなかった人影があった。

 黒いベストを身につけた長身の男だった。栗色の毛並の艶やかな馬の手綱を握り、岩壁の横でこちらに背を向けている。森か空を眺めているのだろうか。

 男が少女の気配に気づいて振り向いた。少女は息をのむ。

 無造作な黒い髪。鋭い切れ長の目と、張り詰めた肌。冷たい印象の、すさまじい美青年だった。

 見とれてしまって、身動きが取れない。

「こんにちは」

 青年は表情を変えないまま、少し首を傾けて言った。

「こんにちは」

 少女は素早く微笑む。

「ごめんなさい。人がいるなんて思わなかったから、驚いてしまって」

「そう」

 青年も少し微笑んだ。少女は、その瞬間に貫いた快感が悟られないだろうかと心配になる。

「いい景色のところだなあと思って。お嬢さんはここへなにしに?」

「えっと、おばあさんが病気なの。おばあさんのために薬草を取りに来たのよ」

「そうか。大変だね。どんな薬草?」

 説明すると、青年は、岩壁の少し高い所にあった薬草を摘んでくれた。

「これで間違いないかな?」

「ええ、これだわ。ありがとう」

 薬草を渡す時に少し手が触れ、少女は青年の顔を間近で見た。伏せられた瞳は、緑の斑点が散った茶色だ。なんて綺麗な色。この人と二人でめちゃくちゃになれたら、どんなにいいだろう。でも、わたしはこの人には子供すぎるかな。でもわたしだって二、三年すれば、もっと大きくなって、この人と釣り合うくらいにはなる――少女はそんなことを考えてしまった。

「これを煎じて飲めば、きっとおばあさんもよくなるわ。本当にありがとう」

「どういたしまして」

 青年の柔らかい声をあとにして、少女は行こうとしたが、でもどうしても気になることがあって足をとめた、という風を少女は装った。

「もしかして、あなたは村の外から来たの?」

「そうだよ」

 青年はなんでもないことのようにうなずく。

「それは、大変だったのね……新しくこの村に引っ越してきたのね?」

「まあね」

 青年は、大人しい馬に腕を載せて撫でる。

「やっぱり、新しい顔はすぐにわかるんだね」

「そういうわけでもないのよ。知らない人はたくさんいるわ。でも……あなたみたいな綺麗な男の人、初めて見たから」

「そうかな。きみのほうがずっと美しいよ」

 少女は目を丸くする。こんな男の人に、こんなにあっさりそんなことを言ってもらえるなんて。少女は、やはり自分は美しいのだと確かめられて嬉しくなった。

「可愛いお嬢さんと知り合えてよかった。でも、もうお帰り」

 見れば、空が紫色になっていた。

 少女は、その美しい空と青年をずっと見ていたかったが、必死に自分を抑える。

「そうね。じゃあ、また」

「じゃあ」

 少女は道を駆け戻った。途中で薬草を落とし、慌てて拾って足を速める。夕闇迫る中で、今まで経験したことのないほど息を上がらせていた。


 おばあさんは、薬草の効果があり、数日後には起き上がって動けるようになった。

「あたしの薬草の知識は、昔あたしのおばあさんに教わったもので、この世で一番信頼できるからね」

 おばあさんは得意げに言った。

「あたしが子供の頃は、ここよりももっとたくさんの種類の草が生えているところに住んでいたし、図書館で図鑑を見ることもできたしね」

「としょかん?ずかん?なによ、それ」

 少女は、小麦粉をこねる手をとめて振り向く。

「ああ、なんでもないよ。昔の言葉さ……」

 おばあさんは、洗濯物を干しに外へ出て行ってしまった。

 少女は肩をすくめ、クッキーの生地を作る作業に戻った。

 少女はその日の午後、バスケットを腕に下げ、村をぐるりとめぐる道を歩き回った。さもどこかへ向かう様子をして颯爽と歩いていると、幼なじみの女の子と出くわした。

「久しぶりね」

 幼なじみは、嬉しそうに話しかけてきた。

「どこかへお使い?そのバスケットはなに?」

「お世話になってる修理屋さんへの届け物よ」

 少女は澄まして言う。

「そうなんだ。わたしのところはお父さんが具合悪くなっちゃって、お母さんの世話も家のことも全部わたしがやらなくちゃいけなくなって大変。今から牧場に牛乳をもらいに行くの」

「あなたのところはお母さんがああだから太変よね。うちもおばあさんが具合悪かったけど、まあ少しはよくなったわ」

 幼なじみの母は、知的障害があり、普段は穏やかなのだが、発作を起こして暴れまわることがあった。小さい頃、あざを作っている幼なじみを見るのもしょっちゅうだった。

「あ、おばあさんが具合悪かったから、彼と会えなかったの?」

「え?」

「付き合ってる彼、いるでしょ。毎日あなたが来ないかって、ずっと待ってるらしいよ」

「彼と会ったの?」

 少女は眉をひそめる。

「違う違う。うちに野菜を届けに来てくれた友達が言ってたの。村に新しく越してきた人の家に届け物をするために、朝に草地を通った時に彼を見て、午後に森に遊びに行った時にも彼を見て、森から出て帰る時にも彼が同じ場所にいたって。もしかしたら夜までいたんじゃないかって言ってたよ。あなたを待ってるんじゃない?」

「新しく越してきた人って?どこに住んでるの?」

「え?うーんと、森の近くの草地の奥のほうに、ずっと誰も住んでない鍵のかかった小屋があったでしょ?そこに住み始めたみたいって友達が言ってた」

「その人って、若い男の人?」

「そこまで知らないけど。それよりも、彼に会いに行ってあげたほうがいいんじゃない?さすがにちょっとかわいそうかもと思って」

「ご忠告ありがとう」

 少女はさっさと歩きだす。またうろうろと道を歩いた末に、草地に足を運んだ。

 そこには、いつもの木の根元に、盲目の少年が座っていた。

「やあ」

 少年は、いつもと変わらない様子で声を上げた。

「なんかいい匂いがするね。クッキー?」

「あ、うん。そう」

 少女はバスケットを見下ろす。

「焼いてきてくれたの?」

「まあ、そうね」

 少年は空腹だったらしく、クッキーをすぐに食べつくしてしまった。少女は、ある程度満足したらしい少年を見つめ、空になったバスケットを静かに引き寄せる。

 沈黙した少女に、少年は気遣わしげに尋ねる。

「どうかしたの?」

 少女は首を振った。

「ううん。なんでもない」

 それでも少女がなにも言わないので、少年は言葉を重ねる。

「なんかあったの?言って?」

「なんでもないの。ただ、ちょっと用事があって、もう行かないといけないの」

「そうなんだ」

 少年は明らかに残念そうだった。

「どうしても、っておばあさんに頼まれちゃったのよ。新しく越してきた人のところへ行って、布がいるかどうか訊いてきてくれ、って」

「そっか、おばあさんは機織りをしてるもんね。それなら、僕も一緒に行くよ」

「大丈夫よ、一人で行くわ」

「その人って、この前馬に乗ってきた人でしょ?どういう人なのか気になるな」

「実は何日か前、たまたま会ったのよ。おばあさんのために薬草を取りに行った時に。別にどうということのない人だったわ」

「そうなの?でも、ついていっちゃいけないの?」

「いけないってことはないけど……」

「じゃあ、一緒に行こうよ」

 二人は、そこからそう遠くない場所にある小屋へ向かった。そこは、開かずの小屋として知られていた。窓からのぞいてみたこともあるが、カーテンの隙間から、粗末な木のテーブルと、転がった汚いマグカップを見た覚えしかない。

木々に挟まれて立った小屋は、無人だった時と変わらないように見えた。少女は、木のドアをたたいた。

中から出てきたのは、あの青年だった。特に驚く様子もなく、少女と少年を見つめる。

「こんにちは」

 少し首を傾ける。

「こんにちは。ごめんなさい、突然訪ねてきてしまって」

 少女はもぞもぞとバスケットの位置をずらした。

「そちらは友達かい?」

「ええ、そう、友達」

「こんにちは」

 少年は、少女の腕に手を触れたままで言った。

「ごめんね。今はちょっと散らかってるから中に入れてあげられないんだ」

「大丈夫。おばあさんに、布が要らないかどうか訊いてくるように頼まれて来たの。機織りをやっているから」

「わざわざありがとう。でも、今のところは間に合ってるかな」

「そう。それならいいの」

 青年は、じっと少女の目を見つめた。少女は恥ずかしくて目を逸らしそうになるが、我慢する。

「せっかく来てもらったのになんだから、これからちょっといいところへ連れてってあげよう。ちょうど、馬の様子を見に出かけようとしていたところだし」

「そういえば、馬がいないのね」

「別のところに厩舎を借りたからね。そのほうが小屋の周りにつないでおくよりもいいかと思って」

「確かに、そのほうがいいわね」

 青年は小屋から出てきて、少女と少年の前に立って歩き出した。

「どこへ行くの」

「だから、ちょっといいところだよ」

「わたしたちは、村の中のことならなんでも知ってるつもりなんだけど」

 少女は不思議そうに言う。青年がなにを考えているのかわからなかった。

「きみたちが知らないところもきっとあるよ」

 青年は、そう言うだけで口をつぐんでしまう。

「ねえ」

 少年は少女の腕をつついた。

「この人が言ってること、わかる?」

「わからないわ」

 少女は正直に答えるしかなかった。

 青年が向かったのは、小高い丘の上にある一軒の家だった。

「あそこって、村長さんの家じゃない」

 少女は言った。新年のあいさつも兼ねて、おばあさんと一緒に布を届けに行ったことがあった。

 青年は黙っている。

 青年がドアをたたくと、村長が出てきた。青年を見て、それから少女と少年を見て、まるで見たこともない動物を見るように目を丸くする。

「ええっと、なんでしょうか」

 少女は、右足の代わりに杖をついた、白髪のなくなりかかった村長を見て、なぜそんな驚いた顔をするのだろう、と思った。

「突然お邪魔してすみません。ちょっと失礼します」

 青年は、さも当然という風に、家の中へ入った。

「さあ、きみたちも」

 ためらった少女と少年を振り返る。

 村長は目をぱちくりさせて少女と少年を見ていた。

「えっと、お邪魔します」

 少女と少年はそそくさと青年についていった。わけがわからないが、そうするしかない。

「村長さん、すごく驚いてるみたいな声だったね。あの人に驚いたのかな」

 少年が少女の耳元でささやいた。少女も同じことを思ったが、口には出さなかった。

 青年は、迷わずに家の中を進み、地下室へ続く階段を下りた。ベストのポケットから鍵を取り出し、地下室へのドアを開けた。

 廊下があり、突き当りのドアを開けると、そこには予想もしない光景があった。

 広い部屋に、小さなベッドがたくさん並んでいる。ベッドには赤ん坊が寝かせられていて、二人の女性が赤ん坊の世話をしている。赤ん坊は十人以上、ベッドの数はその三倍はありそうだった。

 女性の一人は、泣きだした赤ん坊を抱きあげてあやしている。もう一人は、おしめを取り替えている。二人はちらりとこちらを見ると、青年に会釈をしただけで、特に仕事を中断する必要は感じていないようだった。

「なあ、可愛いだろう」

 青年は振り向いた。

「え、ええ」

 少女は入り口に立ったままうなずく。

「赤ちゃん?いっぱいいるの?」

 少年が不思議そうに言った。

「そうよ」

「結構いるように感じるけど、誰が産んだんだろう。いっぺんにみんな産んだのかな」

「まさか。冗談言わないでよ」

 少女は吐き捨てるように言う。

 青年は、ベッドの周りを歩き、赤ん坊たちを覗き込んでいた。その中の一人を指差し、おしめを替え終わった女性に話しかける。

「この子はひどいね。ぐちゃぐちゃじゃないか」

「ああ、その子は、父親が娘をレイプしてできた子らしいです。ひどいこともあるもんですね」

「おいおい、子供たちの前だぞ」

「すみません。あなたがここに連れてきたんだからいいのかと思って。なんですか?あの子たち二人は」

「気まぐれ、かな。ちょっとした教育」

 青年は、顔を上げた。

「きみたち二人は恋人なんだろう?どうだい、将来、この子たちみたいな子を一緒に育てるっていうのは」

 少女は、なんと答えればいいのかわからなかった。ベッドに並んだ小さな赤ん坊たちを見つめ、身を固くしていた。


 ◆

 不思議なことに、特に説明も、口止めもなにもなかった。少女は、村長の家の地下室で見たことをおばあさんに話してもよかったのだが、なんとなく黙っていた。少年とも、詳しく話し合うことはしなかった。なにを言えばいいのか、わからなかったのだ。

 ただ、少女は、もう一度青年に会わなければいけないと思った。必死に口実を考えた末、まだ咲いていた薔薇園の薔薇を詰められるだけバスケットに入れてスカーフをかぶせて隠し、いそいそと小屋へ向かった。

 青年はまた変わらない様子で少女を迎えた。

「こんにちは」

 表情は変わらない。

「こんにちは。これ、おばあさんの薔薇園の薔薇で、毎年親しい人だけに配っているんだけど、あなたにもあげたいなと思って」

 澄ました顔をしてバスケットを渡した。

 青年は、ぎっしり詰まった薔薇を見て、一瞬の沈黙のあとに、声を上げて笑いだした。

 綺麗に並んだ歯をむき出して笑う青年を見て、少女は口を開けてぽかんとしてしまった。なにかまずいことをしてしまったのだろうか。

「どうしたの……?」

「いや、ごめんよ。ありがとう。嬉しいよ」

 冷ややかな顔が輝く笑顔になっているのを見て、少女はとにかく安心することにした。

「そう。それならよかった」

 少女は気を取り直して息を吸う。

「それと、この前のこと、教えてもらえないかなと思って」

「この前?」

「村長さんの家に連れて行ってくれたでしょ?」

「ああ。あの赤ん坊たちのこと?あの子たちは、村の外から来たんだよ」

「村の外……」

 少女は眉をひそめた。

「詳しい話をしてあげたいところだけど、もう時間がないんだ」

「どういうこと?」

「僕は明日、この村を出て行くから」

 少女は一瞬沈黙してから、声を上げた。

「え?出て行くって?」

「そのままの意味だよ」

「引っ越してきたんじゃないの?」

「実は、そうじゃないんだよ。もともと、少し滞在するだけと決まっていたんだよ」

「でも、村の外は……」

「きみの知らない世界が外にはあるんだよ」

 青年は、さも当然のことのように言うが、少女にとっては、突然正体不明のものを差し出されたのと同じだった。

「えっと、じゃあ、もうあなたと会うことはできないってこと?」

「まあ、そうなるね」

 青年の緑の斑点のある茶色の目は、少女を真っ直ぐ射る。

「明日?本当に明日、出て行ってしまうの?」

「残念だけど、決まってるんだよ」

 少女は、青年の頬の輪郭と真っ黒な髪を見つめた。もうこの人とは会えなくなるのか。

「それを決めた人がいるのね。外の世界で暮らしている人がいるのね」

「そうだよ。きみは理解力のある子だね」

 少女は、子ども扱いされたようで、むっとした。

 青年はその表情に気づいたらしく、弁明するように微笑む。

「とにかく、仕方ないんだ。明日の夜明けごろ、あの崖を下って、森を抜けて外へ出るよ」

「あの森の向こうに、帰る場所があるのね?」

「そうだよ」

「ねえ、教えて。今までずっと、村の外にはこわいものがいるって教えられてきたの。それは嘘なの?」

「なにをもってこわいとするかにもよるな」

 青年は、そう言ったきりで口を閉ざしてしまう。

「教えてくれないのね。もう会えなくなるっていうのに、教えてくれないのね」

 青年は黙ったまま、じっと少女を見ている。本当に、腹が立つほど綺麗な目だ。

「外の世界に、奥さんとか恋人はいるの?」

 気がつくと、そう問いかけていた。

「さあ、どうだろうね」

 青年は笑って言った。

 また少女がむっとした顔をすると、青年は唐突に言う。

「きみは、機織りをしているおばあさんと二人で暮らしているんだね?」

「そうよ」

「北側の、二階建ての小さな一軒家で、お父さんとお母さんはいない」

「そうよ。そんなことまで話した覚えはないけど、なんで知ってるの?」

「いや、なんでもない。ごめん、もうそろそろ、明日出発する準備をしないと」

「ちょっと待って」

「きみと知り合えて楽しかった。元気でね。薔薇をありがとう」

 青年は、ほとんど強引にドアを閉めてしまった。別れの際の感慨もなにもない。少女は、ただあっけにとられ、一瞬ののちに、青年に対して怒りが湧き上がるのを感じた。

 少女は憤慨しながら、道を引き返した。


 少女の頭の中の風景に、盲目の少年の面差しと、外から来た美青年の謎めいた表情が駆け巡っていた。少女が心を決めるのは早かった。深夜、少女はおばあさんを起こさないように用心しながら、おばあさんの織った大きな布を失敬し、衣類と少しのパンと、宝物の手鏡を包んだ。

 空が白み始める頃、少女は包みを手に下げ、スカーフをあごの下で結んで、青年と初めて会った崖にいた。

 そこに、馬に乗った青年がやって来た。青年は、少女を見ても驚かなかった。

「おやおや、どうしたんだい」

 青年は、冷たい顔の下で面白がっているように見えた。

「わたし、あなたと一緒に行くわ」

 少女は高らかに言う。

 暖かみを帯びてきた日光が、青年の顔に鼻梁の影を落とした。

「おばあさんには言ってきたの?」

「言うわけがないわ。冗談言わないで」

 少女は強気だった。

「僕についてくれば、すぐに帰れるとは思わないほうがいいよ」

「すぐに帰ろうなんて思ってないわ。おばあさんのことはほかの誰かが面倒を見てくれると思うから、大丈夫よ」

「あの目の見えない彼は?きみをずいぶん慕っているようだったけど」

 昇ってくる太陽を宿した目は、少女の中を見透かすようだ。

「彼はきっとわかってくれるわ」

 少女は、心からの確信を持って言った。

「わたし、あなたが好きなのよ。一緒に行かせて」

 このセリフは、夜のうちから決めてあった。

「どうして、僕のことが好きなんだい?」

「美しいから」

 少女のきっぱりとした答えに、青年は身を反らして高らかに笑い、少女に手を差し伸べた。

「じゃあ、一緒に行こうか」

 その日、少女は初めて村を出た。


 ◆

 青年は、少女を自分の前に乗せて手綱を握った。

 少女は、後ろから抱きかかえられるようにされながら馬にまたがり、背に接する青年のぬくもりに胸躍らせていた。

「昨日の薔薇、ちゃんと持って来たよ」

 青年は言う。

「鞄に詰め込んだから、ぐしゃぐしゃになってると思うけど」

「まあ、ひどいわね」

 少女はくすくすと笑った。

 馬は、木漏れ日の降る森の中を駆けた。村の境界線の川はまだ見えない。

「ねえ、境界線はまだ?」

 少女が尋ねると、青年は少女の感情を殺した声を楽しむように言う。

「もう越えているよ」

「えっ、嘘でしょ?」

「多分ね」

「もう、からかってるの?」

 川はきちんとあった。馬に揺られ、予想よりも幅が狭く、目印程度にしか境界線の役割を果たしていなさそうな川を渡る時、少女は肌がざわつくを感じた。

「こわいかい?」

 じっと黙っている少女に、青年は柔らかい声で言った。

「いいえ。ちょっと緊張してるだけ」

 少女は、このくらいは素直な発言をしたほうがいいと思った。

 境界線を越えても、森の様子はなにも変わらなかった。休憩をはさみながら静かな森を進み、太陽が中天に差し掛かる頃、ついに視界が開けた。

 そこには畑があり、家があった。見慣れた村とは確実に違っているが、見たこともない新しい景色という感じでもない。

「ここが、外の世界……?」

「まあまあ、もう少し辛抱して」

 青年は、馬を悠々と歩かせた。

 田園風景を横目に、さらに進んでいくと、徐々に見慣れない建物が増えてきた。そして、林の中の均された道を抜けた時、少女は目を丸くした。

「ずいぶん、にぎやかなのね」

 とっさに出てきた言葉がそれだった。今までこんなにたくさんの人々を一度に見たことがない。道は石でできているし、馬が大きな荷車のようなものをひいていて、それに人が乗っている。男性も女性もみな、少女の目には上等すぎると思える服を着ていて、女性は頬や唇になにかを塗って色をつけているようだ。

「今日はパーティーかなにかなの?」

 少女の問いに、青年は微笑んだ。

「いいや。ここではいつもこうなんだよ」

「みんなどこへ行くの?パーティーじゃなくて?」

「仕事とか、買い物とかじゃないかな」

「それなのに、みんな着飾ってるのね。みんな急いでるし、変ね。それに、手足が欠けているとか、障害のある人がいないみたい」

「そうだね。ここには、そういう人はいないんだよ」

 少女は、自分に向けられる人々の視線を感じた。

「なんだか、みんなわたしを見てる。もしかしてわたし、みすぼらしいの?」

「そんなことはないよ。試しに、そこの花屋に声をかけてごらん」

 少女は馬上から、道端に屋台を出して花を売っている男性に声をかけた。

「こんにちは。綺麗な花ね」

「こんにちは、お嬢さん。可愛いお嬢さんと比べればかすんでしまうけど、この小さな花束なんかどうかな?」

「ええ、とっても可愛い花束。でも……」

 青年は馬を進めようとする。

「ちょっと待ってください、旦那さん。ぜひお嬢さんにこの一輪を」

 花屋は青年を制止し、花束から一輪の竜胆を抜いて少女に渡した。

「いいの?」

 少女は竜胆を手にし、首をかしげて花屋を見る。

「はい。可愛いお嬢さん、よい一日を」

 花屋から離れたあと、青年は言う。

「ほら、きみが綺麗だからその花」

「本当?みすぼらしいから同情されたわけじゃなくて?」

「違うよ。でもそんなに心配なら、もっと綺麗な服を着てみるか?」

「そういう意味で言ったわけじゃないけど……」

「洋服屋へ行こう」

 青年は、迷いもせずにある店の前で馬を降りた。少女を抱き下ろし、馬を付属の厩舎に入れ、木目の暖かな店内に入る。

 そこには、少女が見たことのないような服がたくさんかかっていた。少女はなにを選べばいいのかわからなかったが、青年がいいと言った水色のドレスを着てみると、今までの自分とは違ったような気持ちになった。

「気に入った?」

 青年が、試着室の鏡の中の少女と目を合わせる。

「ええ。すごく」

 少女は自分を見て、大真面目にうなずく。

「じゃあ、それを買おう。それと、それに合う靴も」

 青年は、巾着からコインを取り出し、ドレスと靴をそろえてくれた。少女には、そのコインがどれくらいの価値なのか、ぴんと来なかった。

 少女はそのドレスを着て、手綱を引く青年と並んで歩いた。いつもと違う感触の服と靴に戸惑いもあったが、胸の高鳴りが心地いい。

「ありがとう。こんなに嬉しい気持ち初めてかも」

 少女はふんわりとした裾をつまみながら、青年を見上げる。

「大げさだな。明日、きみを特別なところへ連れて行ってあげるから、そのためだよ」

 青年は光を集めたような魅力的な目で少女を見下ろした。

「こういう服装をして行くところ?」

「そうだよ。今日は僕の家で休もう」

「特別なところって?あなたの家はどんなところ?」

「いっぺんに質問しないでくれよ。どっちも行ってみればわかるさ」

 青年の家は、にぎやかな通りから少し奥まったところにある一軒家だった。青年がドアを開けると、一人の女性が出迎えた。

「お帰りなさい、旦那様」

 少女はまじまじとその女性を見る。白いエプロンをつけた、丸々と太った中年の女性だった。

「ただいま。留守中は特になにも?」

「ええ」

 化粧気のないその女性は、目を丸くして少女を見た。

「なんて可愛い子!」

「客人に食事と部屋の用意を頼む。馬の世話もよろしくな」

「はい、旦那様」

 女性はなにも訊かず、奥へ引っ込んだ。

 青年は、荷物を床に置いた。

「ここには、手伝いのあの女性以外誰もいない。夜には彼女も帰るよ」

「この家に一人で住んでいるの?」

 少女は漂うように頭をめぐらす。

「こんなに広い家に?」

「そうだよ。そこの椅子にかけたら?」

「あのおばさんは、恋人や奥さんではないのね?」

「違うよ。お手伝いさんだ」

「わたしを可愛いって言ったわ」

 少女は、磨き上げられた立派な窓に駆け寄った。

「わあ、綺麗!」

 思わず声を上げ、ガラスに触れんばかりに顔を寄せる。

 家と家の間から、奇抜な建物がのぞいていた。それは山のような三角形をしていて、ふもとに当たる部分に群がる木々がとても小さく見えた。表面は白いが、よく見れば薄桃色に日光を反射している。その光沢は金属のようにも見え、磨き上げられた石のようにも見えた。

 少女は、壮麗な巨大ピラミッドを指差して振り向いた。

「あれはなんなの?あんな綺麗なもの、初めて見たわ」

「驚くのも無理はないね。あれは王宮だよ」

「おうきゅう?」

「王様が住み、この国を統治なさる拠点だよ」

「おうさまって、なに?」

 少女は、テーブルに手を着いて身を乗りだした。椅子に座った青年は苦笑する。

「村長さんみたいなものさ」

「きっと、村長さんよりもずっと偉い人なのね。そうでないと、あんなところに住めるはずがないもの」

「鋭いね」

「馬鹿にしないで。それくらいわかるわ」

 少女は再び、光を内側から発しているような、この世のものとは思えない謎めいた巨大建築に目を移した。

「あの中にいるおうさまって、どんな人かしら」

 青年がかすかに笑うのが聞こえた。


 その夜、電燈とろうそくの光のもとで、手伝いの女性が作った、ミートスープと蒸し野菜のサラダとじゃがいもとバターと白パンの夕食を食べた。

「おいしいわ」

 少女は思わずそう言っていた。

 配膳をする手伝いの女性は微笑んだ。少女がどこから来たのかなど気になるだろうに、なにも尋ねはしなかった。同じテーブルで向き合った青年も、なにも説明しない。少女は、自分も黙っていたほうがいいのだと思った。

 食事の後片づけを終えた女性が帰ると、少女は口を開いた。

「まだまだわからないことだらけだけど、ひとつわかったことがあるわ」

「なんだい?」

 青年は、奥から出してきた革靴を磨きながら、チラと目を上げた。

「村の外にはこわいものがいるというのは、嘘だったのね」

 青年は微笑み、黙っていた。

「おばあさんや村の大人たちは、わたしを、村の子供たちをだましていたのよ。きっと、なにも言わなければみんな村の外へ出て行ってしまうから、そうならないように、村に閉じ込めようとしていたんだわ」

「そうだね」

 青年は静かに同意する。

「まあ、心の底から信じていたわけじゃなかったけど、ほんと、子供じみた脅し」

 少女は脚を組み、頬杖をついた。

「わたし、これからいろいろなことを知りたい。いろいろなところを見て回って、いろいろな人と会うの。それで、自分の世界を広げるの」

「そんなことを考えてたの?」

「ついさっきそう思ったの。今まで、わたしは本当に狭い世界で生きていたのね。もっと広い世界に出て、あなたに馬鹿にされないようになりたいな」

「馬鹿にしてないよ。きみは聡明な子だ」

「でも、やっぱり子供扱いしてるでしょ」

「きみの年に合った接し方をしてるつもりなんだけどな」

「やっぱり子供だと思ってるのね」

 少女はため息をついてみせる。

「そう思われるのも仕方ないけど。自分で思うよりも、わたしって子供に見えるわよね」

「子供でいられるのは少しの間だけだ。くだらないこと言ってないで、もうおやすみ」

 青年は、二階の客用の寝室までついてきてくれた。こぢんまりとした部屋には、見事な刺繍が施されたカバーのかかったベッドがあり、小さくて上品な化粧台や、光の灯ったランプや黒いペンやちょっとした白い紙などが置いてあるサイドテーブルなどがあった。そして、小さな窓からは、月明かりを反射する王宮を望むことができた。

「じゃあ、おやすみ」

 青年はあっさりと出て行こうとしたが、少女は追いかけて青年に抱きついた。

「連れてきてくれて本当にありがとう」

 少女は言う。

「おやすみのキスをしてもいい?」

 輝くばかりの笑顔で青年を見上げる。今は子供の自分でいい。まだ今は。

 青年は顔を下げて、唇を少女の唇に当てた。少女は、軽い一瞬の接触を予想していたが、強く押しつけられる感触に驚いた。さらになんと、舌が口の中に入りこんできた。

 少女は頭の中が真っ白になり、青年にしがみついた。青年の指が少女の髪の中に埋まる。

 青年が離れた時、少女は必死に強い視線を作ろうともがいた。

「からかってるの?もしそうだとしたら許さない」

 少女は青年の答えを待たず、再びしがみつく。生々しい熱が湧き上がってくるのを感じた。今まで感じたものとは比べ物にならない強さ。

 青年は、少女を放り投げるようにしてベッドの上に押しつけた。少女は、のしかかってくる青年の姿がほとんど認識できないほどの心臓の鼓動を感じていた。

 もう一度唇をふさがれ、青年の手がいつの間にかドレスの中に入っていた。

 青年の手の感触に、少女はほとんど無意識に脚を開いて腰を持ち上げた。下着の上から、青年の指がまさぐる。

「もう濡れてる?」

 青年の声に、少女は腰を引くどころか、さらに脚を開いた。

 青年が体を離して立ち上がった時も、少女は脚を開いたまま口を開けて荒く息をしていた。

「じゃあ、おやすみ」

 青年は背を向けて行こうとした。少女は体を起こす。

「ちょっと待って……」

 追いかけて手をつかむ。

「行かないで……」

「うん?どうして?」

「わかるでしょ」

 青年は優しく手を振りほどいた。

「悪い子だな。今日はゆっくり休まなきゃ」

 青年はすがりつく少女を無視し、部屋を出て行った。少女は、追いかけても意味のないことを知っていた。

 からかわれた。少女はドアの前に膝をつき、怒りと悔しさに唇をかんだ。

 なんとか涙が引っ込んだのがわかると、少女は乱暴に立ち上がり、部屋の隅の荷物へと向かった。

 手鏡を引っ張り出す。ひびひとつ入っておらず、いつものように明瞭に少女を映した。

 眉間にしわは寄っているし、頬は不自然に上気している。でも大丈夫。充分に美しい。悩ましげな美少女という感じだ。

 青年には、子供にしか見えないのかもしれない。でも、すぐに大人の美女になる。

 少女は、鏡の中の自分を見て、自信を取り戻した。鏡を静かにサイドテーブルに伏せる。服を脱いで明かりを消してベッドに入り、まだ熱を帯びている股間を繊細な指で慰めた。


 ◆

 翌朝、少女は昨日買ってもらった水色のドレスを着て、何食わぬ顔をして一階に降りていった。日はすっかり昇り、暖かい光を窓越しに投げかけている。

「おはようございます」

 少女は部屋の入り口で立ち止まり、朝食を摂っている青年と、キッチンからパンを運んできた手伝いの女性に挨拶をした。

「おはよう。遅いから先に食べてしまってるよ。きみも座りなさい」

 青年は明るく言う。

「ありがとう」

 少女は青年の向かいに座り、ライ麦パンとバターとポーチドエッグとハムと、ナッツのケーキが運ばれてくるのを見て、空腹が走り回るのを感じた。今まで、朝からこんなに豪華な食事をしたことはなかった。

 朝食を平らげ、紅茶も飲んでしまうと、出かけよう、と言って青年は立ち上がった。少女は笑顔を見せて従った。

 今日は馬を使わず、徒歩だった。青年がゆっくりと歩くので、迷いなく目的地へ向かっているのか、ふらふらとなにかを探しているのか、定かではなかった。少女は、後ろにつき従っていたが、笑いかけながら隣に足を進めた。

「どこへ行くの?」

 青年はチラと少女を見下ろす。

「きみが昨日のことを気にしてないみたいでよかった」

「なに言ってんの」

 少女は震えながら笑った。

「あなたって本当にひどい人ね。なかったことにしようとわたしが頑張ってるのに」

「ああ、それは失礼」

 少女は、青年の滑らかな頬を思い切りたたいてやりたくなった。美しい目は驚きの色を見せるだろうか。きっと動揺させることもできない気がする。憎らしいが、それでもずっとその顔を見ていたいのは変わらなかった。

 青年が道を歩くと、微笑みながら会釈してくる人がかなりの数でいた。道端のパン屋のおかみさんなど、

「王宮に行くところ?」

 と話しかけてきた。

「ええ、そうです」

 青年は愛想よく答える。

「このサンドイッチ、ちょうど焼きたてだから、ほら」

 と、金も取らず、紙にくるんだサンドイッチを青年に与えた。

「前にも言いましたが、発注するパン屋を替えるように進言するような権利は僕にはありませんよ」

 青年は笑って言う。

「まあ、そんなことは言ってないよ。これはあんたがいい人だからさ。でも、王様によろしくね」

 青年は礼を言い、足を進めた。

「王様によろしくって、どういうこと?挨拶かなにか?」

 少女の言葉に青年は苦笑する。

「これから王宮に行くんだよ」

「え?あの綺麗な建物に?わたしも一緒よね?」

「もちろん」

 少女は慣れない靴で軽く躍り上がった。

「あの中に入れるの?嬉しい!中も外みたいに綺麗なのかしら」

「それは自分の目で確かめてごらん」

「あなたはあの中に入ったことがあるの?」

「あるよ。というか、ほとんど毎日入っているよ」

「え?じゃあ、王様にも会ったことがあるの?」

「あるよ。幸いにも、近しい場所に置いてもらっているからね」

「どういうこと?もしかして、王宮で働いているとか?」

「その通り」

「誰でも働けるというわけじゃないんでしょ?」

「そうだよ。僕は貧しい家の子供だったけれど、猛勉強をして、いい学校に入らせてもらって、試験に合格して、王宮で働くことになったんだよ」

「そんなに王宮で働きたかったの?」

「そういうわけでもなかったけど。ただ、昇りたかったというのかな。勉強すれば、貧乏な生活から抜け出せると思ってた。王宮で働けることで、そう思った通りにはなったよ。それに、王様のもとで働くことは、この上もなく光栄なことだしね」

「どうして光栄なの?」

「王様は長年この国を平和と繁栄のもとに保ってきたお方だよ。そんなかけがえのない方のところで働けるなんて、光栄以外のなにものでもないだろう?」

「そんな方のところへ、あなたはわたしを連れて行ってくれようとしているのね。それは、昨日わたしがいろいろな人と会ってみたいって言ったから?そうなの?」

「まあね。予定の時刻に遅れないようにしよう」

 少女は、高鳴る鼓動で足取りを軽くした。向かう先にある、あの美しい建物、国の最重要人物。どんな感動が待っているのだろう。

 ちょっとした緑の庭園の先に、幅の広い堀と、その上にかかる長大な跳ね橋があった。堀に満たされた深い緑の水、橋につながった塔のような柱、そしてなにより、その正面に見えるピラミッドに、少女は目を見張った。

 橋のたもとの衛兵は、青年の顔を見ると、なにも言わずに青年と少女を通した。変わらぬ足取りで進む青年に、少女は、突然橋が動き出しでもしないかというように、落ち着きなくついていく。

 天空に向かって斜めに駆け上がっている薄桃色の城の壁には、ぽっかりと四角い穴が開いていた。近づくと、とても高さのある穴だとわかる。そこの衛兵にも通され、青年と少女は、王宮の中へ入った。

 城の中は、外側の輝きとは対照的に、薄暗かった。暗い赤の絨毯と同じ色の布が張られた壁には、なんの装飾も施されていない。

 せわしなく頭を巡らせ、視線をあちこちへ向ける少女を背に、青年は迷いなく廊下を進んでいった。

 向かう先には、金の縁取りがされた扉があった。ここの衛兵も、青年が扉を開けるのをとめなかった。

 中はより一層暗かった。縦に長いテーブルの奥の椅子に何者かが座っているのが、かろうじて見える。

 青年は深く頭を下げて挨拶をした。奥の人物は声を発さず、身振りだけで、椅子にかけるように示した。

 青年は、奥の人物の正面の椅子に座った。少女はどうしてよいのかわからず、そのまま立っているしかない。

 奥の人物に目を凝らすと、なにか布をまとって、体の形も頭の輪郭さえもおぼろげだった。頭からシーツかなにかを引っかぶっているようにしか見えない。

「特定一区の調査報告に参りました」

 青年は、少女に言及することなく、唐突に明瞭な口調で言った。

「人口調査は書類にまとめて統領庁に提出いたします。村長になった片足の老人は、穏やかで従順な人物であり、規定の仕事はこなしております。子供の数が少し多いようにも感じましたが、今すぐ手を打つ必要はないでしょう。村は全体的に穏やかで、秩序が保たれています。理想形に限りなく近いと言っていいでしょう」

 奥の人物はなにも言わなかった。うなずいたようにも見えたが、気のせいかもしれない。

「そしてこの少女ですが」

 青年は初めて少女を示した。

「私について村を出たいと言いだしまして、そのまま村に残すよりも、連れだしたほうが、村への影響が少ないと判断いたしました。この通り、五体満足で五官も正常、それなりに明晰な頭脳を持っているようですし、この美貌です。母親が狂女で、大量殺人を犯したために村にいましたが、それも一興かと。奥の宮にどうでしょうか」

 なにも答えはない。青年はそれを肯定と受け取ったようだ。

「ありがとうございます。では、そのようにさせていただきます」

 青年は深々と頭を下げる。

「ねえ、どういうこと」

 少女は口を開いた。

「母親が狂女って、大量殺人ってどういうこと?」

「ほら、もう出るよ」

 青年は立ち上がり、少女の腕をつかんだ。優しいとは言えない動作だった。

「嫌、どういうことか説明して」

「いい子にしなさい」

 青年は少女を引きずるようにして部屋を出た。

「離して」

 少女はもがくが、青年にしっかり抱えられて、逃れられるはずもなかった。

 青年は、少女を捕まえたまま、階段を下りて行った。壁にはろうそくが灯されているが、足元がかろうじて見えるか見えないかといった暗さだった。

「わかったから、大人しくするから、その忌々しい手で触るのをやめてくれる?」

 青年は答えなかった。

 長い階段をやっと降りた先には、廊下があり、そこにはいくつもの牢があった。どれも開け放たれ、誰の気配もなかったが、青年は少女をそのひとつに入れ、鍵をかけた。

 少女は、毅然とした表情を崩さなかった。少女は今まで牢を見たこともなく、その意味もわからなかったが、不本意な事態になっていることだけは理解できた。青年が、自分の考えていたような、ただ軽薄で優しい男ではなかったことも。しかし、取り乱した姿を見せる気はなかった。

「ちょっとここで休憩しててくれ」

 青年も冷静な顔をしていた。

「はいはい、わかりました。で、あなたにはこれがどういうことか説明する気はないってわけ?」

「あの村に、機織りをしているおばあさんと二人で暮らしている少女は一人しかいなかった」

 青年は言った。

「きみの存在はきちんと記録に残っていたよ。きみのお母さんは、きみのおばあさんとお父さんと赤ん坊だったきみと一緒に、この王宮の膝元の都市で暮らしていた。しかしある日、商売をしていたきみのお父さんが強盗に刺し殺されると、悲しみのあまり発狂し、街に火を放ったうえ、無関係の人々に見境なく襲いかかり、次々に殺し始めた。憲兵がきみのお母さんを捕えて殺すまでに、十人の人々がお母さんの持った刃物の犠牲になり、火事の犠牲者は五十人にものぼった。きみとおばあさんは村に送られた。最初は、きみだけが村に送られるはずだった。狂女と血がつながっているのはきみだけだったからね。しかし、おばあさんは自らも一緒に村に入ることを望んだ。家族の責任としてそれも妥当だろうと、申し出は受け入れられることになった。あの村は、障害者が一生を暮す場として提供されている場所なんだ。大人たちはそれを知っている。きみは知らなかったけれど」

「そんな……」

 いきなりそんなことを言われても、実感がわくはずがなかった。しかし、少し落ち着いてみると、村長の家で見た、何人もの赤ん坊が目に浮かんできた。

「じゃあ、あの赤ちゃんたちは」

「先天性の障害を持った子供は、直ちにあの村へ送られる。そんな子を育てようなんて親はいないからね。送られた子供は、村の中の里親に育てられる」

「え……じゃあ、彼の親は実の親じゃなかったの?片腕のあの子の親も?」

 思わず、盲目の少年のことを口にしていた。

「そういうことだね」

「幼なじみの女の子で、わたしと同じでどこも欠けたところのない子がいたわ。その子のお母さんはちょっと頭がおかしかった。ってことは」

「村長の許可を得れば、村の中で子供を作ってもいいことになっている。村長の許可はすなわち、王宮の特区管理課の許可ということになるわけだけど」

「事故かなにかで障害者になった人はどうなるの?」

「そういった場合も特区に送られる。きみの村にも、時々引っ越してくる人がいただろう」

「なにも知らなかったのは子供だけだったのね。おばあさんも、全部知ってて黙っていたのね」

「おばあさんは、きみのことを案じて、一生をあのなにもない障害者だらけの村で暮らすことを決めたんだろう。そんなおばあさんを置いて、きみは村を飛びだした」

 少女は牢の中に立ち、混乱する思考に息を整える。

「そして、きみを慕っている盲目の少年も放ってきた」

 青年は言う。

「愛しい人が殺されたからといって、誰もが発狂するわけじゃない。きみのお母さんは、人一倍、愛の強い人だったんだろう。でもきみはそうじゃない。家族も恋人も捨て、外見がいいからという理由で、男にふらふらとついていくような娘だ」

「わたしよりも、何人もの人を殺したお母さんのほうがいい人間だって言うの?」

「きみには人を愛する気持ちがまるでない。きみは愛ゆえに狂ったお母さんのようになることはないだろう。完全な健康体だよ」

 青年の皮肉に、少女は牙をむいた。

「社会から障害者を排除することに加担してる人に言われたくないわ」

「きみからそんなことを言われるとはね」

「目が見えなくたって、ちょっと頭がおかしくたって、同じ人間よ。村に閉じ込めて出さないなんて間違ってる」

「それは直接陛下に仰ったらどうだ。これからきみは王宮の奴隷になるんだから」

「どれいってなに?」

「それはこれから、僕よりきみのほうがよく知ることになるだろうよ」

 青年は背を向け、呼びかけても振り返らなかった。

 少女は薄闇に一人取り残された。


 ◆

 それから少女は、一人で考えた。こんなにも考えるということに集中したことはない。今、生まれて初めて、考えるということをしているのかもしれない、と少女は思った。

 長い時間、誰も来なかった。冷たく暗い牢の中で、少女は仕方なく隅に用を足し、飢えに耐えた。もうどれくらい経ったのかわからず、意識がもうろうとし始めた。しかし、そんなことはどうでもよかった。自分と自分の知っていた人が、世界から隔離された人々だったこと、そして、おばあさんと恋人を置いて、村を出てきたことがなにを意味するのか――

 少女は、自分が社会にとって邪魔者と認定された存在であることを知った。それだけならまだいい。少女は、自分の醜さに気づかずにはいられなかった。おばあさんと盲目の少年よりも、出会ったばかりの青年を信じ、自分が受けてきた愛情に気づかず、愛してくれた人になんの価値も見出さなかった。

 もし、村に帰ることができたとしても、おばあさんと盲目の少年は許してはくれないだろう。軽蔑し、無視するだろう。少女と付き合ったことで、それまで孤独だった盲目の少年は、みんなに注目されるようになった。もしかしたら、誰かほかの子と付き合い始めて、少女のことなど忘れてしまうかもしれない。そうなってください、と少女は祈った。少女がいなくなったことを知ったら、少年は傷つき、悲しむ。少し前の自分は、そんなことなどこれっぽっちも気にしなかったなんて、信じられなかった。少年のつらい時間が、できるだけ早く終わることを祈るしかない。

 少女は、世界でたった一人になったように感じた。そして、自分をこんな惨めな状況に追い込んだ自分自身を憎み、所詮、自分はこんな場所で死ぬ運命を負った、価値のない人間だと悟り、生まれて初めて悲しみを感じた。

 牢の中で死ぬ運命だと思ったのは間違いだった。

 冷たい床に横になった少女を檻の中から抱え出した者があった。おぼろげな意識の中、少女は抱えられて移動するのを感じた。それから、どこかの部屋のベッドに横たえられ、ぬるいミルクを与えられた。自分の荷物は戻ってこず、宝物だった鏡も失ったが、もっと大きな鏡と自分一人の部屋が与えられた。

 そのずっとあと、監禁されてから解放され、優しく食べ物や衣類を与えられたのは、人間を物として支配するための手法なのだと気づいた。

 そのあとの日々は、毎日同じようなことの繰り返しだった。あの青年とは二度と顔を合わせることはなかった。少女が接するのは、同じ境遇の女性たちか、青年よりももっと年の行った高官たちだった。王がその中にいようといまいと、少女にはわからないことだった。世話をしてくれる女性たちも、元は同じ立場だったことを知った。このまま時を重ねれば、いずれ少女も、彼女たちと同じになるのだろう。

 少女は、この生活の中に埋もれ、ただ痛みと屈辱をやりすごすつもりはなかった。

 少女は、ある高官の一人に取り入ることに成功した。気に入られようと精一杯努力し、そのほとんど老人と言ってもいい年の男をすっかり虜にした。その頃にはもう、少女は少女と呼べる年齢ではなくなっていた。

「ああ、きみを引き取って私の妻にできればいいのに。世界で一番愛しい人が陛下のものだなんて」

 高官は暗がりでため息をつく。

「そうですねえ。わたしは夜、一人でいる時に、もういっそ、すぐにでも命を絶ってあなたのところへ飛んでいきたいと考える時もあるんですよ」

 奴隷の女はけだるい声を出した。

「なんてことを言うんだ、私の姫」

 高官は大げさに驚いた声を出す。

「だってそうでしょ。もうずっとこのままなんだから……」

 彼女は色気を含めて、諦めを色濃く漂わせた声を作る。

「きみが陛下のものでさえなければ、ほかの誰のものであろうと、私が奪ってやるのに。夜の道を、きみを馬にくくりつけて駆けるのに」

「ああ、まさにわたしが夢に見たことだわ。わたしの騎士が、ここからわたしを連れだしてくれる……暗い空がやがて明るくなって、赤い太陽が昇るの。太陽なんて、もうずっと見ていないわ」

「太陽を仰ぎたいかい?」

「ええ。そうね」

 彼女は精一杯の静かな感情を込める。演技と本当の気持ちが混ざって、めまいがするようだった。

「でも、奴隷の身分でこんなことを口にするのは許されません……」

「そんなことはない。人間としての自然な欲求だよ」

「あなたは、わたしを人間だとお考えなのですか?」

「なにを言う。それ以外のなんだというのだ。やはり、きみがここにいるのは間違ってる。そう、間違っているぞ」

 高官の明晰であるはずの頭脳からは、理性が吹き飛んだようだった。彼女が待ち望んだ瞬間だった。

 彼女は、ほとんどを自分で立てた綿密な計画のもと、高官の腹心の部下たちによって、真夜中の城から連れだされた。部下たちの担ぐ籠から後ろを透かし見ると、月光を反射する巨大ピラミッドが見えた。もう二度とその壮麗な姿を目に入れたくはない。

 城から出られたからといって、彼女は気を緩めはしなかった。彼女の目標は城から出ることではない。城に連れ戻されることなく、永遠に自由でいることだ。

 彼女は時を待った。高官の屋敷の奥の間のベッドの上で、じっと身を起こしていた。城から持ち出した手鏡を覗く。

 日に何度も鏡をのぞいていた頃の少女のあどけなさはもうない。化粧は剥げかけ、髪は乱れている。しかし、肌はみずみずしく張りつめ、目は強い光を失っていなかった。ほかの誰かの目には、今のほうが、少女の頃よりもずっと美しく映るだろう。

 しかし、もう彼女には、自分を素直に美しいと思える心はなかった。美貌が利用できるならするだけだが、それ自体に価値はない。自分の美しさではなく、別のものを見るべきだった。空っぽの中身を包んだ美しさなど、なかったほうが、もっと早く気づくことができたかもしれないのに。

 王宮の人々は、村の人々とはまったく違った。彼女は、人が優しくしてくれるのは、当たり前ではないのだと、そこで初めて学んだのだ。

 そして、おばあさんと盲目の少年が、いかに自分を愛してくれていたのかということも。どうして、わからなかったのだろう。

 彼女は、極力、おばあさんや少年のことは思い出さないように努めてきた。心配になったり、悲しくなったりするだけだからだ。代わりに、青年のことは、よく思い出した。

 何度その美しい顔を憎々しく思い返し、美しいものに惹かれすぎる自分の心を恨んだことだろう。

 確かにあの青年は彼女を暗い運命に突き落とした。出会った時には天使かと思ったが、実際には、村を調査に来たただの役人だった。王のことを信じ、決められた仕事をこなす青年でしかない。天使でもなければ、悪魔でもなかった。彼にとって、彼女がどうでもいい存在だったというだけだ。

 本当に悪魔のような人物であったほうが、恨みやすかっただろう。実際は凡人であったから、恨むのも馬鹿馬鹿しくなった。自分自身のほうがずっと憎かった。

 時には、事実を教えてくれた青年に感謝の念さえ抱ける気持ちになる。彼は、少女にとっての世界の秘密を教えてくれた。気まぐれだったのかもしれないし、そのあと、運命に反抗させにくくするための計算だったのかもしれない。どちらにしろ、重要だったのは、彼女が愛されていたこと、その愛を彼女がないがしろにしていたことに気づかせてくれたことだった。

 気づいたからといって、取り返しのつくわけでもないのだが。もはや彼女を本当に愛している者など一人もいない。彼女が村を出た時点で、すべては終わっていたのだし、おばあさんに至っては、生きているかどうかも怪しい。

 しかし、城を出た今、思いは村へ舞い戻り、かつて通った道や森の中をさまよった。もう一度戻れたら、この目はなにを見るだろう。

 その時、高官がまったく落ち着きのない様子で部屋に入ってきた。

「なにか問題ですか?」

 彼女は落ち着き払って言う。

「きみがいなくなったと王宮で騒ぎになっている」

 高官は、ごく当たり前のことを言った。

「もしかして、奴隷一人のことで騒ぎにはならないかもと希望を持っていたんだが、やはりきみがいなくなったことは重大事とみなされてしまったようだ。どうしよう。隠し通せるだろうか。私はなんということを――」

「落ち着いてください」

 彼女は高官の肩に手を置いた。

「こうなっては、もうご迷惑はかけられません。わたしを外へ出してください。わたしは一人で逃げます」

「なんということを。なにを言うのだ」

「聞いてください。あなたはわたしを逃がして、王宮へは、警備の目を盗んで抜け出したわたしを見つけたと報告するのです。そして捕えて王宮へ連れ帰る途中、わたしは盗み出したマッチで焼身自殺を図ったことにするのです。実は、もうあなたの部下には話して、準備を進めてもらっています。身元不明の遺体を遺体安置所から盗んで身代りにする準備を。多少不自然なところがあっても、王宮は深くあなたを追及するような面倒はしないことに賭けましょう。この賭けに乗るか、わたしを本当に殺して差し出すか、二つにひとつです」

「きみを殺すなどできるわけがない。きみの言う通りにしよう」

 高官がすでに自分のしたことを後悔しているのは伝わってきた。奴隷を連れだすという大胆なことをしたのだから、もう満足だろう。彼女は、判断力の焼切れた老人に感謝した。

 一緒に逃げるなどと言われたら面倒なことになるところだったが、そうはならなかった。高官がまだ自分の地位にしがみつくつもりでいてくれて、彼女にとっては幸運だった。

 彼女は再び夜を待ち、伴もなく、たった一人で外に出た。街の路地は空虚で、彼女の目には、道は道として映らなかった。


 ◆

 頭から頬に流れるスカーフを涼しい夜風がはためかせる。

 彼女は、月明かりの下、何気ない足取りで歩いた。スカーフと同じく、高官の家から持ち出させてもらった召使の服を着ている。

 彼女はスカーフの陰から、静まり返った街を眺める。何年も息をひそめ、焦がれ続けた外の世界が、この目の前の景色か。出てしまえばあっけないものだった。世界は輝いてもいないし、彼女を歓迎してもいない。ただ少し見慣れない場所が広がっているだけ。

 彼女は冷静に足を進めた。適当な場所で夜明けまで身をひそめ、なんらかの手段で街を出て行くつもりだった。その先にも、輝く場所は見つかることはないだろう、と思った。それほど期待していたわけでもなかったが、なんの高揚もないことに少しだけ悲しくなった。人生に悦びを求めること自体、どうかしているのだが。

 彼女は、街のはずれまで歩き、林の木の陰に身をひそめて朝を迎えた。

 じっと動かないまま、研ぎ澄まされた意識で朝日を見る。久しぶりに仰ぐ太陽。思ったよりも頼りなく、肌寒さを吹き飛ばしてはくれそうにない。やがて、街を出る乗合馬車が通りかかった。人が並んで乗った黄色の馬車が乗合馬車というものだと、話には聞いていて、記憶に焼きつけていた。

 彼女は馬車に乗った。てっきり、乗り込んだら行先を訊かれるものだと思っていたが、なにも言われないまま動き出した。

 誰も彼女に声をかける者はいなかった。怪しまれないだろうかと少し不安だったのだが、まるで彼女が透明になったかのように完全に無視されていた。

 街を出て岩と木の間に続く道を進み、次の街に着いた。そこで次々と人が降り、少しの人が乗り込んできて、次の街ではさらに人が減った。ついに、太陽が傾いて赤くなる頃、馬車に残っているのは彼女一人となっていた。

「なあお前さん、もうこの街で終点なんだが」

 御者は振り向いて言う。

「ここから引き返すんだが、降りないのかい?」

 彼女はひらりと立ち上がって馬車を降りた。

「これは失礼。少し居眠りしていたもので」

「ちょっと、お代は」

「ああ、お代ね」

 金など持っていなかった。彼女は、今にも走って逃げだそうとした。が、御者が口を開く。

「あんた、顔色が悪いよ。大丈夫かい?」

「ええ、大丈夫」

 彼女はスカーフを直す。

「それにしても、綺麗な娘さんだね」

「口説いてるの?」

「まさか。こんなじいさんが。そういえば、真夜中に、王宮から奴隷が逃げ出したとかで、不審な乗客に注意するように、王宮から命令が来たんだ。その奴隷は、世にも美しい若い女だとか――」

 彼女はついに走りだそうとした。

「ちょっと待った!金がないならお代はいらないよ!でも待った!」

 彼女は思わず足をとめてしまった。

「この先の、白髭亭という食堂へ行ってみな。バター茶がうまいから。それと、なにか助けになってくれるかもしれん」

 御者は、それで口を閉じた。彼女は、走って道を曲がった。

 土に黄色の光が差す道を歩くと、白い柵に囲まれた家が見えた。民家だと思ったが、白髭亭とドアに小さな看板がかかっている。彼女は通りすぎようとしたが、どうせ失うものがないならと、中へ入った。

 そこは民家を改装した食堂のようだった。

「いらっしゃい」

 エプロンをつけた背の高い中年女性が笑顔を浮かべる。

「お好きな席にね。お一人なの?なんだか綺麗な娘さん……ちょっと顔をよく見せて」

 彼女はスカーフをはぎ取られた。悪気があってのことではないようだが、彼女は顔をしかめる。

「ちょっと待って、叔母さんと似てるかも。いや、似てる。そっくりだわ!」

 女性の声に、テーブルを拭いていた娘が近づいてきて、奥のコックも身を乗りだした。

「ねえ、この人、叔母さんに似てない?」

「うーん、言われてみれば」

「写真で見た人と同じ人みたい!」

 コックは曖昧にうなずき、布巾を持った娘は大げさに同意する。

 なにも言っていないのに、シチューが運ばれてきた。

 どうやら、この三人は親子で、女性の叔母の若い頃に彼女が似ているという話らしかった。

「叔母は結婚して子供を産んでからすぐに亡くなってしまいまして。あまりに急だったもので、葬式も向こうで勝手に済ませてしまって、駆けつけられなかったのを覚えてます」

 中年の女性はテーブルから離れずに言った。

「ところで、乗合馬車の御者の知り合いはおいでですか?」

 彼女は尋ねる。

「ああ、お会いになったんですか?主人の兄ですよ」

 その三人は、彼女が叔母に似ているからか、必要以上に親しげな態度で、親切だった。どこからなにをしにきたのかという質問には、ほかの街から用事を言いつかったとはぐらかしておいた。すると、今夜はうちへ泊っていけと言う。

「もしかしたら、あなたは叔母さんが挨拶に遣わした使者かもしれないわ」

 そう言われても、彼女はそんな思想にはなじみがないので違和感しかなかった。しかし、行くあてもない彼女は、二階の小さな客用の寝室に収まっていた。

 それぞれ大きさも色も違う布をつなぎ合わせて作ったシーツの上に座り、白い天井を眺める。

 女性の叔母というのは、自分の母なのではないか。彼女は思った。しかし、尋ねてどうなるものでもない。それよりも、いきなり赤の他人を泊めるなど、この家族は少しおかしいのではないか。もしかしたら、料金を請求されるかもしれない。

 彼女は、のこのこと寝室に案内された自分が滑稽に思え、少し休んだあとに立ちあがった。

彼女は、数少ない荷物を持って階段を降りた。弱い光と、水音。

「どこへ行くの?」

 この家の主人とおかみさんが皿洗いをしていた。女性は皿を磨きながら彼女を見る。

「ちょっと外の空気を吸おうと思いまして」

 彼女は何食わぬ顔で言う。

「二階の窓、開かなかった?」

「修理する必要があるか」

 と主人。

「そうね。頼むなら林の近くに住んでるほうの修理屋さんね。広場に近いほうに住んでる人は高いから」

「日曜日もやってくれるんだっけ?」

「日曜日はだめ。でも絶対自分でいじっちゃだめよ。逆に壊すから」

 違う方向へ発展する夫婦の会話の隙に外へ出ようとしたが、彼女の目には、皿を持ちながら心配そうな表情を浮かべた女性の顔が飛び込んだ。

「なんだか顔色がよくないみたい。どうかしたの?」

「いえ、なんでもありません」

 彼女は目を逸らす。

「荷物を持って、もう戻らないつもりですか?」

 主人の言葉に、彼女は肩を落とした。

「ご迷惑かと思いまして」

「どうして。もう夜も更けているし」

 女性は不思議そうだった。

「大丈夫です。本当にもう」

「なにか困ったことがあるの?言ってちょうだい」

「本当に大丈夫です」

 彼女は扉を押し開け、外へ出た。

 外は真っ暗でなにも見えなかった。それでも小走りに進む。

「待って!」

 おかみさんが追いかけてきた。彼女は思わず足を止める。

「行くあてはあるの?」

 彼女は答えない。

「戻りましょう。大丈夫だから」

「料金は払えませんよ」

 彼女は硬い声で言う。

「なに言ってるの。そんなことを心配してたの?お金を取るわけないじゃない」

 女性は、傷ついたような声を出した。

「親切にされることに慣れていないの?怯える必要なんてないのよ」

「怯えてなんかいません」

「じゃあ、戻って話をしましょう」

 戻ると、おかみさんはバター茶を淹れてくれた。主人は、何食わぬ顔で後片づけを終え、奥へ引っ込んだ。

 彼女は温かいマグの中のものを飲むと、息をついた。

 しばらく二人とも黙っていたが、彼女は自ら口を開いた。

「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。自分でも、どうすればいいのか、わからなかったんです」

「いいのよ」

 薄暗い中、おかみさんの手がひらひらする。

「もしよかったら、しばらくここにいたっていいのよ」

「それはできません。行きたい場所があるんです」

「どこ?」

「ふるさとに帰りたいんです」

 彼女は素直にそう言っていた。

「わたしは特定一区からの脱走者です。そこに帰りたいんです」

 特定一区。一度聞いただけで、何度も心にこだました言葉だった。これを言えば、向こうから出て行ってくれと頼まれるかもしれないと思った。

「特定一区から脱走?」

 女性はさすがに驚いたようだった。

「それじゃあ、とても大変な思いをしてきたのね」

「わたしがこわくありませんか?」

「どうして?あなたは普通の娘さんだもの。特定一区のことはよく知らないけれど、やっぱり普通の人もいるのね」

「普通の人しかいませんよ。でも、社会から排除された人の掃き溜めであることには変わりありません」

「ごめんなさいね。よく考えたことがないの」

「謝ることはありません。そういうものだと思います」

「家に帰りたいなら、明日送ってあげます。だから、今夜はゆっくり休んで」

「特定一区への行き方をご存知なんですか?」

「王宮の向こうの森の先でしょ?」

 女性はどこかを指差す。

「とにかく、明日、近くまで送ってあげますから。きっとあなたは中に入れるでしょう」

「どうしてそんなに親切にしてくださるんですか?わたしの母は大量殺人鬼なんです。ついでに言うと、わたしは……卑しい者です」

「母と子は別の人間です。そして、誰も自分で自分を卑しいと言う必要なんて、ないんですよ」

 女性は確信に満ちた声で言った。

 この数年、彼女が接してきた人間には、絶対に言えないような言葉だった。彼女は、女性の言葉に上手く返答できず、曖昧にうなずくと、逃げるように二階へと戻った。


 翌日、食堂の主人が、近所から馬を借りてきてくれた。一頭の馬に、おかみさんと一緒に乗って、特定一区を目指すことになる。

「窮屈だけどごめんなさいね」

 おかみさんは、彼女を前に乗せ、慣れた様子で手綱を握って言った。

「いえ。ご迷惑をおかけします」

 彼女はスカーフにくるまり、縮こまった。

「落馬しないように大人しくしててくれれば、迷惑なことなんてなにもないよ」

 女性は笑って馬を走らせた。

 馬は軽快に走り、乗合馬車で来た道を引き返した。王都へ戻ってきた時、彼女は不安の目を街に走らせた。遠目に、二度と見たくなかった城が見える。街は穏やかで、街ゆく人々は、なんの不満もないように見えた。

 彼女は、ここで今夜は休もうという提案に逆らうことはできなかった。女性は、王都に来たのは二年前の休暇以来だと言って、はしゃいでいた。

 夜、宿の食堂で白湯をすすりながらも、彼女は被ったスカーフを外さなかった。

「どうしてスカーフを外さないの?」

 女性は遠慮がちに言う。

「あまり顔をさらす気にならないので」

 彼女はそっけなく言い、マグカップに口をつけた。

「傷があるわけでもないし、すごく美人なのにもったいないね」

 おかみさんの言葉は感じのよいものだった。しかし、考えてみれば、災厄は彼女が美しいがゆえにやって来た。彼女が美しくなければ、村を出ることにはならなかっただろう。そもそも、傲慢な性格になることはなかったかもしれない。しかしなににせよ、原因は自分の心にある。そして、顔を隠す心も、傲慢さの表れのように思えてきた。街の人々が王宮の奴隷の顔を知っているわけではない。

 彼女はスカーフを取った。ほつれた髪をなでつける。しばらくは世界になんの変化もなかったが、食堂のテーブルにいた男たちの視線が刺さってきた。

「まあ、こういう面倒があることはわかったわ」

 視線に気づいた女性は言う。

「部屋に戻りましょうか」

 女性の言葉に、彼女は席を立った。

 部屋はほぼ二つのベッドで占領されていて、することもないので、二人はすぐにベッドに入り、ランプを消した。

「明日でお別れね。短い間だったけど」

 女性が言う。

「上手く村にたどり着ければ、ですけどね」

「絶対帰れるわよ」

「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」

 彼女は言った。

「どうぞ」

「わたしと似ているとおっしゃった叔母さんって、どういう方だったんですか?」

「そうねえ、あまり親しくしていたわけじゃないのよ。ずっと離れた場所で暮らしていたし」

「そうなんですか。どうして亡くなったんですか?」

「なにかの事故だったのかしらね。旦那さんと一緒に亡くなってしまったみたい。それも、よくわからないんだけど。向こうの親戚ったら、詳しいことはなにも知らせてくれなくて」

「叔母さんのお子さんはどうなったんですか?」

「旦那さんのお母さんに引き取られたはずだけど。どうして?」

「いえ、別に……」

「もしかして、自分がその子供だって言いたいの?」

「いえ、違います」

「そうよね。違うわよね」

 女性は笑って、「明日に備えて寝ましょ」と言い、二人はおやすみの挨拶をした。


 朝の宿は静かだった。通報された気配はない。スカーフを外したことで、逆に怪しまれなかったのかもしれない。拍子抜けしたような気持ちで、宿を発った。馬で森の中を進む。彼女は、背後にくっついた女性に尋ねた。

「あなたは、王をどう思っていますか?」

 話すことで、気を紛らわせたかった。正直なところ、目指す先のことを考えると、不安なのだ。

「王様?いきなりどうしたの」

 女性は器用に馬を操る。

「お聞きしたいんです」

「そうですねえ。王様はわたしたちの生活を守ってくれているんでしょう?でも、雲の上のお人だから、感謝するという感じでもないかもね。普段、王様の意思を身近に感じることなんてないから」

「王がこの国を統治しているという実感がないということですか?」

「まあそうだねえ」

「王が罪のない人々をひとつの地域に閉じ込めていることについては、なにも感じませんか?王は慈悲深い人だと考えますか?」

「よくわからないけど、そういうことをわたしたちが考えても、仕方ないんじゃないかな?すべては王様がお決めになることなんだから」

「そうですか」

 彼女は無気力感に包まれた。

 森はいつまでも続くかと思えた。かつて森を通った時の記憶がよみがえり、これらの木々が、記憶の中のものなのか、実際に見ているものなのか、判断がつかなくなってくる。川を越えた時も、これが現実である確信が持てなかった。

 そして行く手に崖が見えた。彼女はとまってくれるように頼み、剥き出した土を凝視する。

 彼女はそこを越えたくはなかった。引き返してほしいという言葉をすんでのところで飲み込む。

「多分、あの崖の向こうは村です」

 彼女は言った。

「え、そうなの?誰もいないわね。もっと厳重な感じかと思ってた」

 女性の口調はのんびりとしている。

「たいして高い崖ではないので、なんとか登れると思います。今までありがとうございました」

 彼女は馬を降りた。

「そう、気をつけてね……でも、ここからなら簡単に脱走できそうね」

 女性は不思議そうな表情をし、手を振って去って行った。

 彼女は、馬と女性が木々の間に見えなくなるまで見送ってから、崖に振り向いた。スカーフを結び直してから、登りやすそうなところを探す。

 やっと登り切った時には、服が土まみれになっていた。気にせず、彼女は足を進めた。

 曇り空の下にそびえる岩の壁。かつてその前にあの青年が立っていたことを思い出す。記憶を振り払い、さっさと通りすぎた。

 普段、人が通っていることが感じられる道。両側には果樹園が広がっている。少し道が狭くなったかもしれない。それとも彼女が大きくなったのか。

 緊張の中、彼女はかつて自分が住んでいた家を見上げていた。より一層古びて、壁に蔦が這っているが、確かにそこにあった。もしおばあさんが生きていて、この中にいたとしても、おばあさんは決して彼女を許さないだろう。

 彼女はため息を引きちぎるように、家の前から離れた。

 訪ねて行って、おばあさんに罵倒されたいのかもしれない、と彼女は思った。そうすれば、少しは罪を洗い流したような気になれるか。しかし、おばあさんがいないことを確かめるくらいなら、そのまま去ったほうがいい。

 彼女は、崖と反対側の森のほうへと向かった。かつて幾度となく入った森。あの湖はまだあるだろうか。あれば、体の汚れを落とせるかもしれない。そのあとは。

 一人きりで、自由に生きられるはずだ。ここであっても、知らない場所であっても。

 彼女は夢見るような足取りで、森の前に広がる草地にたどり着いた。細い木がまばらに生えている。あの時のままだ。そして木の根元には、白い人影があった。

 その人は、木の幹に預けていた背をさっと起こした。白い顔がまっすぐに彼女のほうを向く。

「誰?」

 強く放たれた声は震えていた。穴の空いたズボンの膝元には、しおれて変色した白と赤の薔薇が何本も横たわっている。

「誰?土のにおいがする」

 ぴったりと閉じられたまぶたを見つめて、彼女は近づいていった。

「……その薔薇は?」

 彼女は、ほとんど無意識に尋ねていた。

「きみなの?」

 彼は明らかに感情の波に押し流されていた。

「本当にきみなの?きみなんだね。ずっと待っていたんだよ。この薔薇は、きみのおばあさんの薔薇園から取ってきたんだよ。きみのおばあさんが亡くなってから、あの薔薇園は放置されてしまっていたんだ。なんとか門を壊して中に入って、僕は薔薇の世話をしながら、少しずつ薔薇を摘んでいった。きみが帰ってきた時に、渡そうと思って。棘で手がぼろぼろになってしまったけど、摘んできた薔薇が枯れるたびに、また摘みに行った。でも、次々に薔薇がしぼんでも、きみは帰って来なかった。もうこれが最後の薔薇だよ。薔薇園は死んでしまった。頑張ったんだけど、やっぱり僕の世話が悪かったんだね。この薔薇ももうだめになりかけてるから、喜んでもらえないだろうけど……でも、帰って来てくれたんだね。わかってるよ。あの男の人に騙されて連れて行かれたんでしょ。でももう大丈夫なんだよね?きみなら大丈夫だと思ってたよ。ちゃんと元気に帰って来てくれるって信じてたよ。もっとそばに来てくれる?これからはずっと一緒にいられるんでしょ?」

 青年になったかつての少年は、手を差し伸べて立ち上がる。彼女よりもかなり背が高くなっていた。袖と裾の短すぎる服が滑稽だった。繊細だった顔立ちは、時が生んだ凡庸の波に洗われていたが、それでもまだ充分に美しかった。

「どうして?」

 彼女は、傷つき、黒ずんだ長い指を避ける。スカーフの陰になった顔をゆがませた。

「わたしを待っていた、ですって?どうして待っているの。わたしのことなんか忘れてよ。こんなところで一人でいないで、誰かほかの人と一緒にいてよ」

「どうしたの?どうしてそんな悲しそうな声をしてるの?きみらしくないよ」

「いろいろあったのよ。もうわたしは前のわたしじゃない……よくなったとは思わないけど。あなたはわたしなんかと付き合うべきじゃなかったのよ」

「どうしてそんなこと言うの?」

「あなたが馬鹿だからよ!」

 彼女は足を踏み鳴らす。

「わたしがいなかった間、ずっとわたしに囚われてたっていうの?ほんとに馬鹿じゃないの?あんなわたしのどこがよかったの?わたしの唯一の取り柄は、災厄を呼んでくるこの美貌だけなのに!目の見えないあなたが、どうしてわたしをそんなに慕うの?わからない!わたしはあなたがわからないわ!」

 彼女は震えながら踵を返した。もと来た道を小走りに行く。

「待って」

 彼の声が追ってきても振り向かなかった。

「お願いだよ!待ってくれ!」

 彼は引き離されずについてきた。彼女は前を向いたまま叫ぶ。

「嫌!やめて、来ないで!」

 彼女はついに崖までたどり着いた。彼女は、崖の縁のぎりぎりのところにうずくまる。

「どうして逃げるの?」

 彼の声には、戸惑いが現れている。

「来ないで」

「もう、僕のことが好きじゃなくなったの?」

「違う」

 彼女はきっぱりと顔を上げ、彼を見つめた。

「もとから好きなんかじゃなかった。わたしはあなたで遊んでただけ。村の外にいる間も、あなたのことなんか思い出さなかったわ。帰ってきたのも、あなたに会うためじゃない。自分でもよくわからない理由のためよ。いいえ、知ってる場所がここしかないからよ」

 彼はなにも言わない。

「これからもあなたと一緒にいるつもりはないし、あなたを好きになることはない。わたしは誰も愛さない。もう自分も愛さない。あなたの大好きなわたしは、あなたを弄んで捨てたのよ。どう、わたしが嫌いになった?」

 息を荒くする彼女に、彼はゆっくりと近づく。

「そう、なんだ」

 彼は落ち着いていた。

「そうだったんだね。ちょっと不思議には思ってたんだ。きみのような強い女の子が、僕みたいな弱いやつを好きになってくれたなんてって。きみは、僕のことが好きだったわけじゃなかったんだね」

「そうよ。納得できた?」

「でも……僕はきみが好きだよ」

 さらに彼は近づき、しゃがめば彼女を抱きしめられる距離になる。

「実は、きみがいなくなって、待つのがつらくて、あんまり悲しかったから、もう忘れようとして、ほかの女の子と付き合ったんだよ。でも、忘れられなかった。きみは確実に、ほかの女の子とは違った。長く付き合った子もいたけど、もうきみを忘れようとするのは諦めた。それは不可能なことなんだよ。きみが僕と一緒にいたくないんだったらそれでいい。なんでもきみの思う通りにしていいよ。でも、どうしてかは上手く説明できないけど、とにかく僕はきみを愛してる」

 彼女は悲鳴を上げ、這って逃げだした。その時、誤って彼の足に足を引っかけた。

 そこは崖の縁だ。彼は不恰好に両腕を振り回し、腰を突き出すようにして宙に身を乗り出す。彼の背を見つめる彼女には、均衡の崩壊との闘いは数秒に及んだように感じられた。彼女は、立ち上がって彼の腕をつかむこともできた。しかし、彼女は動かなかった。

 彼が消えてからも、しばらく彼女は動けなかった。落下の音は聞こえなかった。一瞬目の前が真っ白になったから、意識が飛んで聞き逃したのかもしれない。雲の間から、金色の光が差してきた。

 彼女には、崖下を覗き込む勇気がなかった。耳を澄ませても、静まり返っている。彼は気を失っているだけかもしれない。身動きをしているかもしれない。たいした高さの崖ではない。今から人を呼びに行けば、助かるかもしれない。

 彼女はよろよろと立ち上がり、道を引き返した。

 光が道をなめる。誰もいない。彼女にはそれがありがたかった。誰にも見られたくない。

 彼女は誰に会うこともなく、どの家のドアをたたくこともなく、森の中に踏み込んで走った。薄暗い中、スカーフはほどけ、髪は乱れた。木の根に躓いて転んだ時、初めて息を整えた。

 彼女は土をつかむ。人家の立ち並ぶ村へ戻る気は少しもなかった。彼女は恐ろしかった。彼を殺したことではない。今この瞬間も、彼の心がこわかった。今も昔も醜いこの自分を、どうして愛することができたのか。理解できない。

 恐ろしさに胸が冷え、体が震えたが、次第に収まっていった。彼の心がどうあろうと、もう自分には関係がない。彼女は安堵していた。しかし同時に、自分の救いの道が永遠に閉ざされたことも知っていた。

 もし、彼を一生かけて愛することができたなら、いつか、彼女は本当の心の安らぎを得ていただろう。彼女は確信できた。しかし、そんな日は絶対に訪れない。掴めるとしても、絶対に手は伸ばさない。そうするしかないのだし、それでいいのだろう。彼女自身によって扉は完全に閉ざされ、恐怖も消え、暗い道と森だけが、彼女の下と周りに残った。

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beauty addict 諸根いつみ @morone77

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