奇談その四 忘れもの

 私は記憶を失っている女である。


 全て失ってしまった訳ではなく、二十歳以前の記憶が一切ない。


 だからと言って天涯孤独という事ではなく、両親とも健在で、姉と弟がいる。


 何かの拍子に私が、


「それでさ、どうして私は二十歳より前の事を何も覚えていないの?」


 そう問いかけると、口をつぐみ、俯いてしまう。


 そんな反応をされれば、余計に興味をそそられ、知りたくなる。




 その切っ掛けになったのは駅で山伏風の老人と会った事だ。


「ちょっといいですか?」


 騙されると思った私はハゲ頭に烏帽子を載せたその老人から逃げ出した。


「私は決して怪しい者ではない……」


 それでも立ち止まるなく、一気に改札を通り抜けた。




 次の日も老人は駅にいた。足早に通り過ぎようとすると、


「貴女は思い違いをされている。貴女は恨まれてはおりませんぞ」


 行く手を遮られてしまった。私は思わず、


「助けて! 痴漢!」


 あらん限りの声で叫んだ。たちまち人が集まってきた。すると老人は、


「忘れてしまったのですね、私の事を」


 悲しそうな顔をして走り去ってしまった。


 忘れてしまった? 老人のその言葉が引っかかり、それから昔の事が気になるようになった。


 家族は話してくれないので、職場の同僚に尋ねたりした。しかし、同じ事だった。


 誰も教えてくれなかった。


 そしてまた次の日、駅で老人に会った。私が近づくと、


「ついて来なさい」


 老人は歩き出した。




 私はコインロッカーの前に連れて来られた。


「ここで何があったのか、覚えていませんか?」


 老人の言葉が記憶の封印を解き放った気がした。


 怒濤の如く過去の記憶が甦ってくる。


 私はそこで暴漢に襲われた。


 その時、暴漢を捕らえ、私を助けてくれたのがその老人だった。


 助かりはしたが、うしなったものもあった。


 新たな命。お腹の子供は助からなかった。


 更に記憶が解きほぐされていく。


 暴漢はお腹の子の父親。彼は中絶しろと言っていた。その揚げ句の凶行だった。


 そして、助けられなかった我が子を思い、私はそれから以前の記憶を封印してしまったのだ。


「あの子は貴女に前を向いて生きて欲しいと願っている。もういいのですよ」


 老人の言葉で私の懺悔はやっと終わりにできた。

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