山の霊異記 幻惑の尾根/安曇潤平(角川文庫)

典子ちゃん

典子ちゃん

 逗子の鷹取山を歩いて以来、三浦半島がすっかり気に入ってしまった。


 灯台下暗しとはよく言ったもので、自宅から保土ヶ谷バイパス、横浜横須賀道路を乗り継ぎ、渋滞にさえぶつからなければ、一時間もかからずに辿り着くことができる距離にありながら、僕がこれまで三浦半島を訪れたことは数えるほどしかなかった。それはやはり、海で遊ぶという行為に対して、子供のころから僕がまったく興味を持っていなかったことが大きな原因になっているのだろう。また、海で遊んだ数少ない記憶の中で、学生時代に、友人と乗った小型ヨットが高波を受けて転覆し、自分だけ海に放り出された挙句、台風襲来前日の太平洋の荒波の中で、二時間も漂流して遭難騒ぎを起こしたことが、強烈なトラウマになっていることも間違いない。


 しかし、まったく同じ理由で足を向けなかった伊豆半島で、低山歩きの楽しさ、漁港巡りの愉快さ、そして下山後の海の幸の美味さにすっかり味をしめてしまった。海以外の楽しみ方があることを見つけてしまった僕が、その規模こそ伊豆に比べればずいぶんと小さいが、その分小回りが利き、そしてわずかな距離で古都鎌倉をも訪ねることができる、この三浦半島に興味を持ったのも、実はごく自然なことだったのかもしれない。


 ふた月ほど前、鷹取山を歩いた時と同じ東逗子駅の前にあるコインパーキングにマイカーを止め、「そういえばこの車を最後に洗ってやったのは何時だったか?」などと埃にまみれた愛車を横目で見ながら身支度を整える。


 休日の早朝、駅前のロータリーにもほとんど人の姿は見えず、商店も軒並みシャッターを閉じている。駅のトイレで用を足し、改札口の横にある「二子山ハイキングコース」の案内板でコースの概略を確かめてから、鷹取山に向かう道とは逆にたった今マイカーで来た道を戻るように進み、静まり返った商店街を抜ける。


 すぐに逗子と葉山を結ぶ広い通りに出て信号を渡り、さっきから鳴き続けている腹の虫を抑えるためにコンビニに寄って、クッキーとペットボトルのお茶を買った。


 二子山の登山口は、通りの目の前にある小学校を回りこんだ裏手にある。


 のん気にクッキーを頰張り、小学校の広い土の校庭を見下ろしながら五分ほど歩くと、二子山ハイキングコースと書かれた手作りの看板が現れた。小学生の作品なのか、イラスト入りで描かれた大きな看板が、公道ではなく民家の軒先に掛かっているのがなんとも微笑ましい。


 登山口から先は、細く登る土の道が民家の脇に沿うように続いている。


 わずかに登れば、すぐに民家は途切れ、ほんの数分前までの街の景観が噓のように登山道は静かな林の中へと入っていく。


 ウグイスの声が朝から元気だ。


 駅から程近いにもかかわらずこの山には多くの野鳥が生息している。


 中にはサンコウチョウなどという幻の鳥も営巣しているらしく、運が良ければ「三つの光 来い来い」と聞こえる、名前の由来にもなった独特の鳴き声を耳にすることができるという。


 ほぼ水平に続く檜林の登山道にはシダ草がびっしりと茂っており、自分がいま「シダ沢」と呼ばれる場所を歩いていることを教えてくれる。


 昨日の雨をたっぷりと含んだ山中には草と木の香りが満ちており、シダの緑を一層引き立てている。


 頭の上で小気味良く木の幹を叩く音がした。キツツキだ。


 僕は足を止め、しばらく乱立する檜を見上げていたが、森の働き者の姿を見つけることはとうとうできなかった。


 二子山の標高は二百八メートル。山というほどの高さではない。


 しかし、谷底を整地して建てられた住宅街を取り囲むように続く馬蹄形の尾根道は、刻々と移り変わる景観と多くの鳥たちのさえずりとあいまって歩いていてなかなか楽しくなる。


 木々の間から住宅街を隔てた正面に、山頂のシンボルである巨大なパラボラアンテナを眺めながら、僕は立ったままタバコを一本吸った。


 その時、山ズボンのポケットに放り込んでいた携帯電話の着信音が鳴った。


 ポケットから携帯電話を取り出し、タバコをくわえたまま画面を見る。


 電話の主は典子ちゃんだった。


 一時期、丹沢や大山、鎌倉の山を日帰りで毎週のようにいっしょに歩いた、一回り近く年下の女性である。お互いの仕事のこともあり、いつの間にか山行を共にすることも無くなっていたのだが。


「どうしたの? 突然。久しぶりだね」


「なんだか急に懐かしくなって声が聞きたくなっちゃって。今でも山に登っていますか?」


 典子ちゃんの声を聞くのは三年ぶりだろうか。


「昔のようにテントを背負っての山旅はすっかりご無沙汰しちゃっているけどね。ハイキングは続けているよ」


「私もそうです。やっぱりハイキングって楽しいですよね」


「うれしいなあ。電話もらえるなんて。実は最近、あまり元気がなかったんだけど、久しぶりに典子ちゃんの声を聞いたら元気が出たよ」


「相変わらずお上手ですね。あっ。だけどね」


「ん?」


「この前、ちょっと厳しい山に挑戦したんですよ。でもけっきょく越えられなかったけど」


「へえ。どこの山?」


「秘密でぇす」


 携帯電話の向こうから、典子ちゃんの含み笑いが聞こえた。


 話を続けながら歩を進める。


 檜の林がやがて杉になり、自分を取り囲む木々の香りが変わっても、尾根道は山腹に沿って角度を変えることなく相変わらず水平に続いていく。


 あと一ヶ月もすれば満開の花を咲かせ、一年のうちでもっとも華やかな尾根道となるであろう「さくら沢」の道標を過ぎる。


「実はいま、三浦半島の山を登っている最中なんだ」


「えっ。なんという山ですか?」


「二子山っていう小さな山だよ。まだつぼみも付けていない桜並木を歩いている」


「三浦半島の山かあ。懐かしいな。そういえば四年くらい前に鷹取山に登りましたよね」


「ああ。そうそう。途中の神武寺っていうお寺に『なんじゃもんじゃ』っていう樹齢四百年以上の老木が祭られていて、わけもわからず、ふたりで手を合わせて『なんじゃもんじゃ』って呪文を唱えたっけ」


「あの時、実をいうと薄目を開けて潤平さんの横顔を見たんですよ。潤平さんたら、まじめな顔をして手を合わせながら『なんじゃもんじゃ』ってつぶやき続けていて、私、おかしくて、おかしくて」


「ええ! そうだったの?」


「なつかしいなあ」


 やがて森戸川源流を経て、長柄方面に下る分岐を左に見ながら粘土質の滑りやすい傾斜をわずかに頑張ると、南郷上ノ山公園から繫がる広い未舗装道路に出た。


 朝方は太陽も顔を出していたはずなのだが、今は薄い雲に覆われてその姿はおぼろである。


 吹く風が冷たい。僅か二百メートルの山の上でも、肌に感じるその冷たさは下界とは違う。


 携帯電話を耳に当てながら、右に左につづら折りの道路を十分ほど頑張って登ると、見上げる先に先ほど木々の合間から垣間見たモスグリーンのパラボラアンテナが現れ、あとひと踏ん張りで二子山の山頂に辿り着くことを教えてくれる。


「ねえ典子ちゃん。今度、久しぶりにまたいっしょにハイキングしない?」


「いいですね。お誘い楽しみにしていますね」


「楽しみだなあ。じゃあ計画は僕が立てるね」


「はい。それじゃあ。せっかくのハイキングの邪魔をしてもいけないし、そろそろ電話切りますね」


「うん。また連絡するよ」


「はい。久しぶりに声が聞けて本当に嬉しかったです」


「それじゃあ」


「それじゃあ」


 昨夜の雨に濡れて光る木製の階段を滑らないように慎重に登り、登山口から一時間三十分ほどで二子山の山頂に着いた。


 広い草原状の山頂には小さいがしっかりした造りの木製の展望台が建ち、そこに登って見渡せば薄曇りの中、軍港の街である横須賀から広がる東京湾が、水平線をおぼろにして広がり、そして西には逗子の山々がなだらかに連なっている。


 時間が早いせいか二子山の山頂には僕以外人の姿は見えなかった。


 展望台の上でタバコを燻らせながらひとり長閑な景色を眺めていたが、やがて風が強くなってきた。


 地上から僅か二メートル程度の高さしかない展望台だが、それでも気持ちの問題で、下に降りると僅かに風が弱まった気がするのがおかしい。


 僕は展望台の台座に腰を下ろし、ザックから取り出したクッキーをかじりながらバーナーで沸かしたコーヒーを飲んだ。


 ここ数週間。


 僕の心は何故かささくれ立っていた。


 理由のないことでいらつき、理由のないことで自分のペースを見失っていた。


 だから、昔のようにふらりと山を訪れ、昔のように山で立ち止まり、昔のように山で呼吸をして自分のペースで山を歩きたくなったのだ。


 そこに突然、典子ちゃんから電話が掛かってきたのだ。これも何かの縁なのだろうか。


 誰もいない山頂で冷たい風に吹かれてひとりコーヒーを飲み、ぼんやりと長閑な景色を眺めた。


 心に平静が訪れたかどうかはわからないが、悪い気分ではなかった。


 帰りは、山頂直下の分岐から森戸川に沿って小さな沢を下って、集落を抜けてから長柄の町を巡り、逗子駅から電車に乗って隣の東逗子駅まで戻るつもりだった。


 足を投げ出して背伸びをし、携帯電話を通して久しぶりに聞いた、典子ちゃんの優しく温かい声を思い出しながら、そのままの体勢で仰向けに倒れてみる。


 少しだけ、僕の心が自分のペースを取り戻したような気がした。


 


 友人からの電話で、肺炎をこじらせた典子ちゃんが、五日前に病院で亡くなっていたのを知ったのは、僕が二子山を下りて二日後のことだった。

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