第7話 投身


 「ったく。タケのやつ、逃げやがったな。」

 

 櫻木姫花さくらぎひめかは、羽織った赤いパーカーのポケットに手を突っ込みながら、藤堂時雨の隣に立ってその肩を小突く。


 「時雨に虐められているとこを、私が恰好よく助けるはずだったのになぁ。失敗、失敗。」

 「もう、本当に邪魔するんだね、姫花は。」


 剣呑な目で、からかうように姫花を見上げる時雨。

 モデルのような体系の姫花と並ぶと、彼女の体の曲線は際立って、いじらしさを増す。


 「ちなみにだけど、私は時雨に賛同しないから。今回は間違いなく、更衣きさらぎちゃんの我がまま。」

 「でも、私はね。間違った優しさでもさ、それはいつでも、肯定されなきゃいけないと思うんだよ。」

 「例えば今日の一件でタケが自殺しても?あいつは結構弱いんだ。人には何でもない日であっても、時雨のさっきの正論のせいで、あいつが今ごろ部屋でくびれていても、私はまったく、驚かないけどなぁ。」


 そう言った姫花の顔は、内容の残酷さを裏切って好奇に満ち満ちていた。

 時雨がどう返答するのか、それを待ち侘びている。

 それをあえて焦らすようにして、時雨はトングをかちかち鳴らしながら、大袈裟に悩んでみせた。

 所作の全てがしなとなり、まるで告白された男の前で悩む乙女のようである。

 そして、一度小さく頷いてから、くゆる白煙に向かって、


 「……それでも私は言うと思うんだよ。今日、健彦君がすべきだったのは、こんなの余計なお世話だって最初に叩きつけるか、無理にでも私たちの中に飛び込んでいって愛想を振りまく、その二択を、今日は更衣ちゃんに提示されていたんだから。」


 そうして最後に微笑する時雨に、姫花もまた嘆息するしかなかった。

 つまりは今日の初めから、時雨は納得がいっていなかったのだ。

 門前払いの方が良かった。

 彼女は手厳しく、そう言っているのだ。


 「時雨、お前も相当、こじらせてるねぇ。」

 「……うん。そうだね。私、例え仮定の話であったとしても、健彦君を見殺しにしちゃった。」

 「しちゃったって……。どうする?時雨が迎えに行く?」

 「うーん。私、これでも結構、怒ってるから。止めとくよ。」


 姫花はもの言いたげな顔のまま、手を口に運んで爪を甘噛みし、時雨を残して颯爽と家の方に足を向ける。

 互いに不可侵の領域というものがある。

 姫花は時雨を無二の友人だと思っているが、世間一般に言うその関係とは少し異なっている。

 姫花は時雨の美点しかみない。

 それと同じように、時雨もまた、姫花の欠点には目を瞑る。

 双方、相容れない相手であることを知っているからこそ、互いに片手しか差し出さない。

 それは案外、強固な繋がりとなって、今まで良好な関係を二人は維持してきた。


 低いヒールのサンダルで草を踏みながら、姫花は今日の健彦の様子を振り返る。

 姫花には、健彦が、時雨の怒りを買うほどの失態を犯しているとはどうしても思えなかった。

 優柔不断はいつものごとく。

 姫花たちが夏の予定を、まさに侃々諤々かんかんがくがくいいで話合っていたときも、彼は一人、聞きに回っていた。

 何か意見を乞われても、

 「いえ、僕は……。」

 としか言わず、肯定も否定もしない。

 彼はそうして、最後に予定を決める段になると、いつも何かうまい言い訳をみつけて早々と逃げてしまう。

 だからこそ姫花は学習し、強引に、勝手に、彼の部屋まで上がり込むのだ。


 今日の失態はむしろ、良助や敏明、時雨にあると姫花は考えていた。

 健彦が唯一関心を示すアーチェリーで誘い出し、それから敏明の恋愛を餌にして、彼らは健彦のことをうまく釣れたと勘違いした。

 だが、健彦はすぐに餌を餌と看破して逃げていく。

 バーベキューの準備の間、彼らの間で会話は全くと言っていいほどなかった。

 健彦が下手な世話を焼いて、敏明をおにぎり班に送り込んでから、明らかに時雨の機嫌が悪くなったのは見て知っていた。

 気を遣うところを、健彦は間違っている。

 ただ黙々と、時間をこなすだけの彼を見て、きっと時雨は我慢ならなくなり、彼にああして詰め寄ってしまったのだ。

 失敗だ。

 だが、これは一体、誰の失敗だろうか。

 と、姫花は友人たちの顔を脳裡に思い浮かべる。

 良助はただ善意から、敏明は打算から、更衣きさらぎちゃんの誘いに乗った。

 時雨はどうか。

 彼女もまた、表向きは善意からだろうが、どうやらそれだけでないことは先の言動からみても明らか。

 ならば自分はどうか。

 櫻木姫花は、打算でここにこうして連なっているのか、正直なところ、もう曖昧模糊として自分でも掴み切れない。

 失敗。

 これは更衣ちゃんの失敗。

 それとも、健彦の失敗。

 私たちの……。


 「これでまた振り出しにでもなったら、どうしようか」


 姫花はそんなことを思いながら、健彦の部屋の扉をノックした。

 古めかしいく厚い、西洋風の木の扉は牢獄のようでもある。

 返事はなかった。

 それはいつものこと。

 金属のノブを回して、滑らせるように一歩足を踏み入れたとき、まず姫花の目に飛び込んできたのは、正面の大きな窓から見える夜景だった。

 夜空の中に大きな月が穿たれ、煌々と輝いている。

 だが、次の瞬間、姫花は眩暈げんうんを覚えたように錯覚した。


 「……タケ、それ……。」


 姫花はすぐに気付く。

 眩暈ではなく、紫煙しえん

 それと何かが焦げたような、不快な悪臭。

 煙草の煙が、部屋いっぱいに濛々と籠っている。

 炭火の白煙よりは軽く、するりと鼻の粘膜に溶け込んでいくようなそれは、滞留しつつ月光を受けて青く透ける。

 姫花は形相を一気に転じて叫んだ。


 「馬鹿っ!」


 そう言ってベッドに胡坐あぐらをかく健彦に迫った姫花。

 彼は煙草を吸っている訳ではなかった。

 それよりも、もっと愚かで、幼稚なことだった。

 姫花は愕然としつつも、ベッドに上がり、膝立ちとなって、彼の腕をそっと掴む。


 「……それ、熱くないの……。」

 「熱いに、決まってますよ。」

 「跡、残るんだよ。」

 「残ったて、もう構わないです。」


 健彦は外の景色を茫然と眺めながら、そこに居ない誰かに応えるように言う。

 灰皿に、火を点けたままの煙草が数本並べられている。


 「煙、見てると落ち着くんです。煙草って、初めから最後まで、無意味なものじゃないですか。ただ体を害するだけで、なんの役にもたちません。でも、それが良いじゃないですか。そんな無意味な物、今のこの世にそうそう、ないですよ。でも、そんな無意味な物が、こうして僕を一時だけ、癒すんです。なんか、おかしな話ですよ、本当に。」


 灰皿に乗る数本の他に、健彦の指に挟まる煙草がある。

 先端の火は消えている。

 そして左腕、手首の上あたりに、判子のような跡が一か所、ある。

 月の表面のようにへこむその小さな穴は、黄色い組織液が滲み、皮下の肉が露わらになっている。

 姫花は見るに堪えず、傷口に触れぬようにしながら、そっと手で覆うようにして隠してやった。


 「僕に関わったモノは、全部、無意味じゃ、なくなってしまうんです。物も人も、全部、どうしてもそのままで居てくれないんです。そのままで、僕に関わらず、居て欲しいのに。そうした方が、きっと良いのに。」

 

 言葉を失った姫花は、思いがけず健彦の頭を自分の胸に抱えていた。

 ……健彦なら何をしてもおかしくない。

 そんな趣旨の事を時雨に言い放った彼女も、実際に自分の体を傷つける彼を見て、動揺せずにはいられなかった。


 「無駄なものは、どうして無駄なままで居られないんですか。美しく、そのままで、いられないんですか。」


 姫花は答えず、ただ彼の頭を抱く。

 髪の中に指を差し込むようにして、強く。

 彼の絶望は、きっと解消し得ぬものだと、姫花は知っている。

 それは神様でさえも、あがなえぬものだ。


 「タケ、優しすぎるんだよ。迷惑だと思ったなら、迷惑だと言って頂戴。それでみんなは、あなたのことを嫌うかもしれない。いいの、それでも、私が付いてるから、あなたが死ぬまで、私は、ずっと傍にいる。」

 

 姫花は無意味な言葉を語る自分に、紋切り型なその言葉に、まるで力が無いことを感じた。

 慰めは、そもそも慰めを前提とした苦悩にしか効き目がない。

 つっと血が流れる様な、傷を持つ苦悩にしか意味を持たない。

 本当の、真なる苦悩は、それを憂鬱という。

 憂鬱は、慰められない。


 健彦とて、時雨に言い負かされたぐらいでこんな浅はかなことをする人間ではない。

 つまり、傷はないのだ。

 ただ憂鬱が、無味無臭で有毒のそれが、知らぬ間にどこからか吹き出してしまったに過ぎない。

 

 「僕は、何にもしないようにしていたのに、それは間違っていて、誰にも迷惑はかけたくないのに、更衣ちゃんに感謝することも出来なくなって、浮かれて……。」


 要領を得ない健彦の独白。

 彼ももう、自分の行動の指針をどこに置いたらいいのか、分からくなってしまっているのだ。

 人に嫌われたくないという思いと、誰も傷つけたくないという思い。

 それは両立しえない傲慢な願いと知っていも、彼は立ち戻ることが出来ない。

 哀れで、どこまでも愚かな。


 「ねえ、タケ、私なら、タケの苦悩を取り除けるんだよ。」

 「そんなこと、出来ないです。だって、僕自身がそれを手放そうとしてないんですから。」

 「違うんだよ。だから、何も考えず、私のところにおいでよ。私はタケの言葉に傷ついたりしないし、嫌ったりもしない。だってそれが、恋って、ものでしょ?」


 そう言って、姫花は灰皿の煙草を一本、指に取る。

 そして、健彦の手も取って、その手に握らせ、自分の腕に押しつけた。

 肌を焼く耳障りな音。

 口から零れる苦痛の呻き。


 「うっ……。」


 姫花はあまりの激痛に視界が霞む。

 腕が痙攣したように震え、それを意志で押さえつける。

 強く嚙み合わさった歯が軋む。


 「姫花さんっ!……そんな、なんで……。」

 「くぅ、っ…………。」


 姫花は掴んだ健彦の手に爪を立てる。

 健彦は煙草を手から離そうとするが、姫花に硬く握られ、それも叶わない。


 「……傷つきたいなら、私が、傷つけてあげる。一緒に、いたんであげる。」

 「どうして、そんなこと……。」

 

 健彦の腕に込められた力が弱まる。

 同時に、火の消えた煙草がベッドの上に落ちた。


 「私……、タケなら、好きになれるかもしれないから。だから、賭けてみるんだよ。」


 姫花は痛みで吐き気を催しながら、健彦の両耳を軽く摘んで引き寄せる。

 重なる唇は、どちらもなく、震えていた。

 

 月光が、物に溢れる室内を照らし出す。

 積み重ねられ、崩れた本の山と、CDのケース。

 虚構の掃き溜めの底で、姫花もまた、欺瞞の恋に身を投げ出した。

 

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妖精大戦 @sadameshi

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