第6話 猿声

 日の暮れる前の、橙に色付く閑静な避暑地は、草木の芳醇な匂いを煮だして漂わせる。

 木漏れ日は遠海に輝く光のように、皆のおもてを過ぎてはまた表れる。

 僕は程好い倦怠感と、夕暮れに重くなる頭を支えて、友人と呼ぶべき者たちの会話を聞いていた。


 「なあ、そろそろ夏休みだ。このみんなで何かしよう。」

 

 良助が僕の肩を抱きながら言う。

 彼は片時も、僕の傍を離れない。

 僕の家に、姫花が来るときも、時雨が来るときも、大抵は一人ずつであって、良助もまた、僕ではなく陸人さんに会いに来る。

 だから気遣っているのだ。

 それだけではない。

 気を遣われているということに、僕が気付いていることにも、彼は気付いている。

 だからこうして、ほとんど強引に、僕を縛る様にしてそこに押し止めているのだ。

 

 「何かってなんだよ。良助はいつも唐突で、曖昧だ。」


 芹沢が最後尾を危なっかしく付いてくる。

 隘路あいろで、滑りやすい道に、彼は苦戦するようだった。


 「私は端から賛成よ。むしろそれ、私の台詞だから。」


 ポニーテールを振って、先頭の姫花が一寸こちらを振り向く。

 白い糊の効いた半袖のワイシャツに、紺のフレアスカートを翻して。

 

 「今年こそ、私、タケのこと落とすんだから、どうせなら川でバーベキューとかにして頂戴ね。」

 「肉食だから、バーベキュー?」

 「いや、川に落とすんだろ。酷い奴だな、お前。」

 

 時雨は黒の日傘を悪戯に回して、ひょいと木の根を跨ぐ。

 その後ろ姿を追うようにして、姫花が、

 

 「あ、これ、時雨に対する牽制けんせいでもあるから。」

 「女子って怖えな。」

 「馬鹿ね。人生で追い求めるべき物っていうのは、数えてこの世に二つしかないのよ。」

 

 姫花は一同を見回して、それから傘に隠れた時雨の顔を周りこんで覗き込む。

 ご高説願おう、と良助が茶化すが、気にする素振りはない。


 「――恋と神。これに比べたら後は露店の装飾品アクセサリー。紛い物に安物のぼったくり。」

 「分からないな。他にも、価値あるものは多様にあるはずだ。」


 こうした論には口を挟まずにはいられないのだろう。

 芹沢が慣れぬ悪路に息を荒げながら反駁はんばくする。

 

 「ないね。ぜ~んぶ、ぼったくり。だって、目に見える物は、一つ残らず騙せるでしょ?」

 「それは……恋、だって同じことだ。」

 「いいえ、恋はね、世界を騙して初めてぐことの許される果実よ。他は全て、世界の内で、相対という貨幣で買うことが出来る。そんな物、得た所で虚しいだけ。……分かって?」


 芹沢は納得しないようだった。

 が、姫花の若さに任せた暴論に、食らいつくような視線を向ける時雨を見て、彼は渋々口をつぐんだ。

 温和で、ただそこに居るだけ。

 微笑みと寛容。

 それが時雨の為人やくわりであったのだが、今は違う。

 何か思う所があるのか、それは直ぐにいつもの柔らかな笑みに取って変わり、誰も追求することができなかった。


 結局、陸人さんは射場に来なかった。

 というのも、家の庭でバーベキューの準備をしていたからだ。

 僕は携帯電話を持たないので、その旨は直接良助に伝えられていた。


 森を抜け、家の裏手に着くと、すでに炭の匂いがほのかにする。

 足早に表に回ると、逞しい腕でトングを少しだけ持ち上げ、仏頂面のまま挨拶する陸人さんがいた。


 「お久ぶりです」と、駆け寄るのは良助。


 彼は陸人さんを慕っている。

 他の面々も彼に倣って次々に挨拶した。


 「うん。みんな、食べていきなさい。」


 陸人さんはそれだけを言って、また炭を起こす作業に戻る。

 ジーンズに、無地の白いTシャツ。

 服にまるで頓着しない彼は、同じ物を一度に数着買って満足する。


 およそ一か月ぶりに会う僕も、変わらぬ坊主姿の陸人さんに会釈だけをして済ます。

 開けっぱなしにした家のサッシの向こう、リビングでは更衣きさらぎちゃんがせっせとおにぎりを握っていた。


 「僕らも手伝いますよ。」


 良助がそう言って、すぐさま陸人さんの傍につく。

 芹沢も男手ということで焼きを担当することになり、後の面々は縁側に靴を脱いで具材の下準備を手伝うことになった。

 アイランドキッチンの向こうでは、香澄さんが包丁を片手にピーマンと睨み合っている。

 

 「ああ、香澄さん、駄目ですよ。ピーマンの種は食べられないんです。」


 時雨が慌てて台所に立つ。

 いつも夕食は僕と更衣ちゃんで作っているのだ。

 香澄さんはいつも、感謝や謝罪の代わりに食事代を食卓において、また仕事部屋に戻って行く。

 一度、更衣ちゃんが熱を出し、香澄さんが林檎の皮むきをした時だ。

 何を思ったか、いきなり林檎を真っ二つにしようとしたらしい。

 芯に当たり、無理に刃を押しつけたために手元が狂って、結果指を派手に切った。

 それ以来、基本、香澄さんは包丁を持たなくなった。


 「こうです。ここを手で取って……ええ、猫の手ですよ。」

 「私、猫、嫌いなのよねぇ。」


 そうして香澄さんに包丁の扱いを教える時雨。

 香澄さんの散漫な集中を、あの手この手でなんとか俎上そじょうに連れ戻す時雨は、もはやどちらが大人かわからない。

 僕はといえば、更衣ちゃんに誘われるがまま、おにぎりを握ろうとして手を塩水につけていた。

 が、はたと思い至ることがあった。


 「ちょっとお兄ちゃん!サボり?」


 更衣ちゃんの咎めを聞き流し、僕は逃げるように靴をつっかけ外に出る。

 振り向いて網戸を閉める瞬間、台所の時雨と目が合ったような気がしたが、まさか僕の意図に感づいた訳ではないだろう。

 ただ、どうにも穏やかではない目つきに映った。

 僕の与り知らぬところで、何か不快にさせる言動でもしたのかもしれない。

 

 空のへりはもう赤くただれ、夜が迫る。

 夜が近づくほどに、僕はユリのことを思わずにはいられない。

 あの子は、今、どうしているのか。薄情だが、そういったことはさほど気にならなかった。

 ただ夜に逢瀬を。

 それだけが僕の願うところで、心に平穏を与える一服の薬であった。

 今日の夜はきっと、僕は眠れない。

 先程の時雨の視線もそうだ。

 きっと僕は今日、上手くやれていない。

 射場からの帰り道、僕は彼女ら友人たちの雰囲気に馴染めたような気がしていた。

 が、そんなはずはないのだ。

 良助は明らかに僕の為に立ちまわっているし、時雨にもそのような節がある。

 芹沢とは射場以降会話していないし、普段通りなのは姫花だけだ。

 それに時より、学校の話をしているところに僕が近づくと、会話が不自然に途切れる。

 良助と芹沢が二人で笑みを零しながら談笑している時、ふっと僕を気にして自然と黙ってしまうときがある。


 僕は今、彼らの繋がりの、交わりの中心にいる。

 それは言わずもがな、良くない意味でだ。

 人と人が会話しているとき、僕にはそこに赤い琴線が見える。

 それは蜘蛛の巣のように、一寸見ぬ間に家全体に張り巡らされている。

 するとどうだ。

 僕が歩く度に、その一本一本が柔らかな体に食い込み、皮膚を裂きながら、ぷつんと音を立てて切れる。

 どこに行っても、その赤い蜘蛛の巣は僕の四肢を絡め捕り、逃れんと欲して暴れると、呆気なく切れて解けてしまう。

 何本も、何本も。

 僕がいくら裂傷を負おうが、そんなことはどうでもいい、構わないのだ。

 だが、切れた糸がくずとなって床に溜まっていく、その惨状を見るのがたまらなく嫌なのだ。

 僕が歩く場所に、塵芥となって積もる糸くず。

 それは同時に、他者にとっての心労や不快、ストレスをも意味している。


 俯瞰してみれば、僕は今、哀れみの対象でしかない。

 弱者とは、本当にどうしようもない。

 違う。そうじゃない。

 この場合、僕は弱者の冠を被ってはいけないのだ。

 ただの意気地なしで、落伍者だ。

 弱者は救済されるべきだ。

 その論理は、別にロールズの正義論に寄っても、コミュニタリアリズムでも良い。

 でも、選択肢という財産があるのに、それを利用しない人間は屑でしかない。

 僕は屑だ。

 それを痛感した日は、どれだけクラシック音楽を聞こうが、眠れない。

 叫び声をあげ、涙を流そうが、どうしても睡魔は僕に寄り添ってはくれない。

 そんな夜が、僕は怖くて堪らないのだ。


 僕はユリの赤い瞳と白髪を想起し、なんとか精神に包帯を巻いて時が過ぎるのを待つ。

 その前にまず、やらなければならないことがあった。

 

 「あの……芹沢くん。僕、少し陸人さんと話たいことがあるから、代わりに中を手伝ってくれますか?」


 彼はすぐに了承してくれた。

 きっと時雨のいる中の様子がずっと気になっていたのだろう。

 その二つ返事には、隠しきれぬ期待が込められていた。

 僕が、芹沢の、駆けるようにしてリビングに上がる背を見送っていると、頭にタオルを巻いた良助が見咎めて寄って来る。


 「似合わないことをするな。」


 僕もそう思う。

 判断も決断もしない、それが僕の行動理念だ。

 今のは俗にいう、余計なお世話、ということで、僕が最も避けるべき行為の一つであった。


 「いや、陸人さんに話したいことがあったのは本当なんです。」


 僕の指名に、陸人さんが鉄板から顔を上げて答える。


 「うん。香澄の世話を、いつもありがとう。」


 短い頭髪に汗が玉となっている。

 感謝するタイミングがおかしい気もするが、それが彼の会話のリズムである。

 もう四十を超えている彼だが、そのきびきびとした所作も相俟あいまって、高校球児と言われても僕は信じてしまうかもしれない。

 

 炭火の煙を避けながら、僕は帆立の焼き具合を見張る。

 落ち着き胎動するような赤い火に、僕は魅入られるようにして言った。


 「陸人さん、お願いしていた、あの子の……」

 

 僕の言いかけた言葉を遮るようにして、陸人さんは首を振った。

 

 「すまない。」


 寡黙な人だ。

 あるいはそうとしか言えなかったのかもしれない。

 僕はまた、頭だけを下げて、焼けた帆立を皿に取る。

 

 三戸家の庭は、およそサッカーコートぐらいある。

 周囲は森に囲まれ、手入れは全くと言っていいほど行き届いていない。

 雑草もそのままに、名も知らぬ背丈の高い草や花があちこちで我が物顔をして屹立している。

 

 その庭のおよそ真ん中で、僕らのバーベキューは始まった。

 陸人さんが以前に片手間で作ったテーブルにみな座り、更衣ちゃんが乾杯の音頭を取っる。

 陸人さんが帰って来たときは、こうしてパーティを催すのが三戸家の恒例である。

 今日はそこに、更衣ちゃんの謀略で僕の級友たちが相席することとなった。


 僕は席につかず、時雨と肉を焼きながらみなの表情を眺めまわす。

 芹沢以外は、三戸家の面々とすでに顔見知りだし、僕が憂慮することは何もないわけだが、どうにも落ち着かない。


 それに、時雨とも何を話していいのか、分からない。

 彼女が香澄さんのデッサンに来るときは、僕は大抵部屋に閉じこもっているか、散歩に行ってしまうし、玄関やリビングで顔を合わせた時は、挨拶と近況を伝え合うぐらいの言葉しか交わしたことがない。

 一対一となると、僕は途端に胸が苦しくなってくる。

 そんな僕の心境を読み取ったかのごとく、時雨が話しかけて来た。


 「健彦君は、今、楽しい?それとも、迷惑、かな?」


 僕は彼女の淡い水色のワンピース、その首元のネックレスに視点を置いたまま、


 「僕は皆さんが楽しければ、それで」と、はぐらかす。


 でも、言った瞬間に気付いたのだ。

 時雨は、どうやらやはり、僕に不満があるらしかった。

 美人の不機嫌は、凄絶だ。

 下がった瞼から覗く大きな瞳。

 見られた方はそれだけで、絶望に近い、存在意義をはく奪されたような敗北を感じてしまう。

  

 「……みんな、こうして健彦君の為に集まってるのに?」

 

 時雨の慈愛に満ちた声が、僕には痛い。

 滴る豚の脂に、火が一気に盛り立つ。

 僕の顎から滴る汗が、不快に襟元を湿らせていく。

 そうだ。

 今日はみな、更衣ちゃんに呼び出されてここに来たのだ。

 良助や時雨は、普段世話になっている陸人さんや香澄さんに義理を立てているのかもしれない。

 それでも、僕の為という前提と建前に変わりなかった。

 でも、そんなことは言われずとも分かっている。

 ……余計なお世話。

 それは言ってはいけない言葉だ。

 だが、直感としてそう思ってしまうのは避けられない。


 時雨は猫っ毛の髪を黒いゴム紐で高く結いながら、言葉の尻を掴んで続ける。


 「きっと、健彦君は、感謝とかしてないよね。」

 「……。」

 「勿論、私たちにじゃないよ、更衣ちゃんに。あの子、一人一人に長ーい手紙までわざわざ書いて、高校の校舎の下駄箱まで来てたんだから。きょろきょろして、怯えながら、ずっと待ってたんだよ。」


 震えた手に手紙を握りしめる更衣ちゃんの姿が目に浮かぶ。

 彼女の言う通りだった。

 僕は更衣ちゃんに、感謝の言葉を一度も述べていない。


 「健彦君にとっては、余計なことだったのかもしれない。更衣ちゃんの行動は、健彦くんにとっては間違っているのかもしれない。でも、それでも、私は感謝しなくちゃいけないと思うんだよ。そうしないと、いけないと思うんだよ。」


 時雨の言う事は正論だった。

 きっと僕の更衣ちゃんに対する接し方に、彼女は義憤を抱いたのだ。

 でも、僕は反省するよりも先に、落胆に心が傾く。


 「そうですね、時雨さんの言う通りです。後できちんと、更衣ちゃんにはお礼を言います。」

 

 僕は逃げ出したくてたまらなくなる。

 きっと、その返事すら、時雨には我慢のならぬものだっただろう。

 自分でも投げ槍な言い方になった自覚はあった。

 きっと時雨が求めていた反応は違うもの。

 例えば、ここで僕が悩みを吐露したり、何か打ち明け話でもすればよかったのかもしれない。

 なぜ、学校に行かないのか。

 なぜ、人と距離を置くのか。

 そういったことをきっと時雨は聞き出したいのだ。

 そのために、あえて僕を攻撃するようなことを言うのだ。

 それは分っている。

 ……分かっているんだ。


 「お~い、タケ、ちょっと付き合え。」


 助け船は姫花が出してくれた。

 僕は時雨に一つ、お辞儀をしてそそくさとその場を去る。

 ……ほら見たことか。

 僕はまた、たった一日すら、間違わずにはいられない。


 彼らと友達のように混じり合ったのもいけない。

 更衣ちゃんに感謝を伝えなかったこともいけない。

 時雨ときちんと対話しなかったのもいけない。

 全部、全部、いけない。


 高く蝉の鳴き声が空に昇る。

 どうして、人の死はこの夜空のように遠いのか。

 死に近しい蝉の声は、猿声えんせいのごとく悲哀を帯びて美しいのに、人の苦悶はこうも醜い。

 それは全て、人が死から遠い存在だからだ。

 だからこんなに、間違わなくてはならない、迷わなければならない。


 星々を目でそれとなく追いながら、僕は姫花の方ではなく、よろめくようにして家の方に向かっていった。

 

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