第5話 弓
三戸家の敷地にはテニスコートが付設されている。
家よりさらに坂を登り、森の腹中。
今はそこが射場として整備され、開けた空き地となっている。
僕にアーチェリーを教えくれたのは、更衣ちゃんの父である陸人さんだ。
そもそも、僕が療養兼疎開のために三戸家にお世話になっているのは、僕の父と陸人さんが高校時代からの友人であるからで、その縁で幼少期からアーチェリーの指導をしてくれている。
道具の点検と調整をしながら、良助は皺を深くして僕に笑いかけた。
芹沢と時雨、姫花は半ば赤錆びたベンチに座って談笑している。
僕の部屋では常に落ち着きのない姫花であるが、友達といるときはそうして会話に華を咲かせる。
僕が忙しなく視線を転じるのに気付いたのか、良助が手元を動かしたまま声を掛けて来た。
「すまんな、敏明のやつ、あからさまで。」
芹沢敏明の思い人は、どうやら親しい人間の間柄では公認らしい。
側聞したところによると、彼は成績優秀で両親は高名な学者。
そんな人間だ。
恋愛は得意とするところではないのだろう。
「いいえ、非があるのは僕ですから。」
「馬鹿か、お前が学校を休むことと、敏明の恋路にはなんの関係もない、そうだろう?」
良助はえくぼを浮かべて、掠れた笑い声を漏らす。
他人事ながら、芹沢は味方にする人材を間違わなかったのだと思う。
彼なら上手く立ち回るに違いない。
サッカー部に属する良助の、
「でも、僕がいなければ、時雨さんは余計なことに気を回さずに済みます。そうしたら……。」
「お前、頭良いのに変なこと言うな。いなければ、じゃなくて、学校に来れば、だろ?さっさと学校に来い。あそこは辛気臭くてさ、お前みたいな奴がいた方がいくらかいい。」
僕の背を強く叩く良助。
その無骨で大きな手に、僕は少しだけ
十分ほど練習した後、試合を始める。
午後の日差しは時間の経つにつれ輪郭を崩し、ただ熱気の塊となって照り返しと混じりあう。
付いてきた他の三人は、ベンチを木陰に移動させてこちらを背後から眺めていた。
彼女らは家から持って来たお菓子を食べつつ、一体なにを話しているのか、僕には聞こえなかった。
手の汗を頻りに拭い、僕と良助はどちらともなく合意して試合の準備に入る。
試合形式は「ランキング・ラウンド」。
僕たちは一人三十六射、つまり六射×六ターン、三百六十点満点で競う。
本来はオリンピックの予選で用いられる形式の、短縮版。
良助の練習も兼ねた試合なので、制限時間はなく、自由に、ダーツで遊ぶ感覚に近い。
まず、僕がシューティング・ラインを跨ぎ、セットに入る。
標的は見ない。
それ以前に確認する事項は無数にある。
肩の向き、下半身の安定、精神の状態。
矢を番えてからリリースするまでの時間は余りに短く、それらを逐一再確認していたら当たるものも当たらなくなる。
そうしてスタンスを整えてから、ようやく標的を視認する。
この段階に至って、僕の感覚器官は過熱する。
精神を落ち着けようとすればするほど、自分の心音は大きく聞こえ、野鳥の鳴き声も鮮明になっていく。
あらゆる
この一分にも満たない時間が、僕はたまらなく好きだ。
目的と行動の完全な一致。
その連関に自分の体と思考が収まるのは心地よい。
存在が一直線になる。
そこに立つ意味が単純明快となって、呼吸が楽になる。
緊張などとは無縁の、完全な安息が与えられる。
ストリング《弦》を引き、顎の下に
アンカリング。
息を吐いて力を抜き、フルドローに至る。
声もなく。
空を切る音が、限界まで張り詰めた僕の気を裁断する。
飛び出した矢の放物線は日の光で見えず、空に溶け消えていく。
感覚。
軌道は見えずとも、中指に残余した感覚が物語る。
フォロースルーを終えると、良助が苦笑しながら報告した。
「…………十点だ。」
七十メートル先の的をスコープで確認する。
その声が届いたのか、背後で時雨が声を上げた。
「すごい!やっぱりかっこいいね。なんであんな遠い的に
風に流れる栗毛の髪を押さえて、時雨は隣に座る姫花の手を握る。
僕は彼女の声に頓着せず、二射目、三射目と、ルーティンの中に高揚をうまく隠す。
やはりアーチェリーは好きだ。
スポーツというのは、理性的に野生の欲求を解消する行為だ。
その倒錯が、何とも言えない満足感を与える。
僕は結局、六射して五十七点だった。
「お前、えげつないことするな。オリンピアンと遜色ないじゃん。」
良助の手放しの称賛に、僕は微笑み返すなかりだった。
謙遜も自尊も、どちらも人の心を波立たせる。
良助は良い奴だ。
人格者はこの世に存在しないが、良い奴というのは確かに居る。
だが、僕は怖くて堪らない。
信用に足らない。
僕が最も知悉している人間とは、この福浦健彦を除いて他になく、そいつの醜悪さときたら、まるで臓腑を
こうした競技中はさらに注意しなければならない。
人はちょっと理性の紐を緩めると簡単に増長してしまう。
良助は僕に助言を乞いながら、一射一射、丁寧に射ていく。
彼は標的から三十メートルの位置から狙う。
彼もまた陸人さんに指導して貰ってるので、射形は綺麗だ。
ただ、どうにも
力がないわけではないので、おそらく性格から来るものだろう。
「……だぁ!また駄目だ。ったく、やっぱりこういうスポーツは性に合わないな。」
彼はそういうが、何もアーチェリーが嫌いな訳ではない。
むしろ好きなようだが、人には得手不得手がある。
僕らはそうして小一時間。
互いにアドバイスし合いながら汗を流した。
良助は、僕が芹沢の事を意識しないように、ただ競技のことだけを話した。
だが、試合が終わってしまえばそうもいかない。
僕に飲み物を運んで来てくれたのは、どんな嫌がらせか、時雨だった。
「ありがとう、時雨さん。」
「いえいえ、良い物見せてもらったから。学校にアーチェリー部があればいいと思うんだよ。そうすれば健彦君、絶対人気者になれるよ。」
「いや、そんな小学生みたいには……。」
僕は無垢な笑顔で上目遣いしてくる時雨から顔を背け、逃げを打つ算段を立てる。
「もう少し練習していきます?」と、良助に水を向ける。
「ああ、もう少しで陸人さん帰ってくんだろ?色々とチェックしてもらいたいし、付き合えよ。」
そうして僕が時雨から離れとき、芹沢が入れ替わりに近づいてくる。
「お前、すごいんだな。」
「そんなことは、ないですけど……。」
僕は反射で言ってしまった。
芹沢は標的の方を見たまま本題を切り出す。
「この機会だから聞くが、どうしておまえ、学校こないんだ?そういうタイプには全然見えないけど。」
きっと社交性とか、そういう意味でタイプと言うのだろう。
引き籠っている人間が、こうして炎天下スポーツをしていたら訝しく思うのも無理はない。
そうとう踏み込んだ発言をしているということに、彼もまた自覚的だった。
ゆえに、僕の返答を静かに待っている。
彼は僕の病気のことを知っている。
琴川高校に転校する折、諸々の手続きのため事前登校したその日に、先生を介して彼を紹介された。
おそらく、学年で一番信用されている生徒なのだろう。
僕の事情は、その時に自分の口で説明した。
「僕には時間がない、だから、好きなことをして過ごしたいんだ。」
これが最も無難な答えだろう。
この主張を否定できる人間はそう多くない。
だが、芹沢の顔は問いを発したときと変わらすに冷淡なものだった。
「そうか、お前、ずるいんだな。」
「え?」
「そうやって口実、使ってるんだから。」
僕は芹沢の顔をまじまじと見つめてしまった。
細い顎と、少し張った頬。
癖のない髪に、銀縁の眼鏡。
彼はきっと、僕に似ている。
世俗の
でも僕と違って、立ち向かって生きている。
芹沢がなぜ、変わり者の姫花や良助と一緒にいるのか、その片鱗を垣間見た様な気がした。
僕が口を
それから、唇を不自然に動かして、
「……なあ、病弱な女は魅力があるだろう?」
「まあ、そうですね。」
「それは男にも適用されるのか?」
「えっと……なんとも……。」
僕が返答に困っている間に、芹沢の顔はみるみる赤らんで、不覚にも僕は笑ってしまった。
その隙に、良助が僕たちの間に割って入る。
「な?敏明のやつ、これで隠してるつもりなんだぜ。周りが馬鹿を見るだけ、俺の苦心が分かったか?」
「……ええ、これはもう、本人にもばれているんじゃないですか?」
僕にしては珍しく、冗句がするりと舌に乗った。
「おい、僕は何も!」
そうして男三人、寄り集まって盛り上がる。
こんなことは久方ぶりだった。
怯えがないわけではない。
でも、ああして相手を憚らない言葉は、その分、真摯で血が通っている。
僕はこの二人の前なら、きちんと「人」でありたい。
そう自然に思えたのだった。
一方、置いてかれた女子たちもただ傍観していた訳ではなない。
「なに、あれ?」と、まず姫花がお菓子を広げたテーブルに肘をつく。
海水浴場にあるような、テーブルに差すパラソルの影で、不機嫌な顔がさらに陰影を濃くして圧を持つ。
「私の一年間の努力をほんの一瞬で越えてってるんだけど?」
「それはほら、男の友情ってものでしょう?」
「勘弁して頂戴。性別は越えられないじゃない。っていうか、タケの、誰とも仲良くしません宣言はどうしたのよ。」
「ふふっ……でも敏明君のあれは、ちょっと私には真似できないなぁ。」
「あいつ心根からしてもう失礼だからね。半端に頭良い奴ってああだよね。」
女子の会話は芹沢の耳にも入り、彼はよりいっそう顔を火照らせた。
理知的な顔つきの彼がそうして恥じらう姿は、いじらしくもあって、また良助にからかわれるはめになった。
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