第2話 病

 福浦健彦ふくうらたけひこは大病を患っている。

 この一文は、僕よりも他者によって強く綴られることが多い。


 生来、弱者として己の生を全うしてきた者は、右にも左にも道が残されていない。

 何故か。

 不幸を披瀝ひれきされるのは鬱陶うっとうしい。

 さりとて、不幸に同情する人間も愚かで、短絡的である。

 人の感謝は心から遠く感じ、人の悪感あっかんは何よりも心に近く感じる。

 ならば、と。

 弱い部分を必死に隠して愚直に生きようとしても、それは作為に過ぎず、周囲にはお見通し、痛々しいだけだ。


 だから、僕、福浦健彦は、日がな一日、己の死と向き合うだけの日々を選んだ。

 それ以外の事については、主体的な行動も、選択も、決断すらしない。

 それらは息をつく間もなく人格とやらを形成し、根腐りをしている僕の人格は確実に不快を撒き散らす。


 恵まれていたのは、僕の両親が裕福で、かつ蒙昧もうまいであったこと。

 命を優先し、人の幸福はただ享楽に生きることだと思っている人たち。

 社会の潮流に乗ることには長け、それ以外の価値を知ろうともしない出来た大人。

 僕には都合が良かった。


 「タケ、た~け~!」


 ――だから僕は、ここで孤独に死ぬはずであった。


 「……上がってきていいですよ。」

 「ほい、ほ~い。」


 かように陽気な声は耳に痛い。

 罵倒よりなにより、僕の心を苛む明るい彼女の声。


 階段を軋ませて、櫻木姫花さくらぎひめかが僕の部屋に舞い込んだ。

 セーラーの制服が陽を弾いて眩しい。

 僕は本を読み止しにして、木目調のテーブルにそっと置き、ベッドから上体を起こす。

 それから手を差し出して、姫花に椅子を勧めた。


 「よっ、不登校、今日も元気にサボったね。」

 「姫花さんこそ、今日ものっけから辛辣しんらつですね。」 

 「はいはい。いいから遊びに行くべ。」


 姫花の能天気は、まるで筆に描いたようにひねりがない。

 愚直で、その分、恐ろしい。

 そういった僕の怯えた反応すら、世にありふれたものとならざるを得ないように。

 

 「写生だよ、写生、沢向こうに良いスポット見つけてさ。」

 

 本棚の背表紙を眺めつつ、彼女は雑然とした僕の部屋の中を自由きままに徘徊する。

 椅子に座って会話をするということを、彼女はほとんどしない。

 僕を遊びに誘っているはずのに、そんなことはどうでも良いと言わんばかりだ。


 「今日は日差しも強いし、遠慮しときますよ。」

 「それぐらい大丈夫だって、香澄さん言ってたけど。」

 

 姫花は僕の寝るベッドの足先、木造の家には無骨に過ぎるオーディオ機器を弄って、無断で音楽をかけ始めた。


 「……一曲、百円です。」

 「けちくさいなぁ。……あぁ、カザのチェロはやっぱり洗練だね、結婚したい。」

 「本人と?」

 「うん、私、かなり年上好きだし。」

 「年上というか、もう亡くなってますけど……。」


 こうして彼女は学校帰り、わざわざ森を抜け、裸根の這う獣道を潜り、坂を登ってこの別荘まで足を運ぶ。

 小麦に焼けた肌に、草いきれの香りを染み込ませて、いつも僕を外に連れ出そうとする。

 これもまた、ありふれたことだ。

 寒気と暖気が受動的に混じり合うように、人も自ずから明暗で惹かれ合う。

 だからこそ僕は、恣意的に精力を消費して、彼女を遠ざけなければならなくなる。


 「あ~あ、眠くなってきちゃった。ちょっとタケ、紅茶淹れて来て頂戴。」

 「相も変わらず、自由なことで。」

 「いらぬ自由を享受し尽くすことが、うら若き乙女の義務な~のよ~。」

 「それには賛同します。僕もその為に不登校なんです。」

 「屁理屈はいいの~。紅茶、アールグレイでよろしく。」


 僕は薄い毛布をはいで、スリッパに足を突っ込む。

 姫花の来訪を予期して、服はパジャマからポロシャツに着替えていた。

 

 ロッジのような趣のある別荘、一階に降りると何やら物音がする。

 僕はその一室の扉を気取られないようにそっと開いて、中を窺った。

 が、声がすぐに飛んでくる。


 「……そうこそこそしなくても良いんですよ、健彦さん。」


 耳聡く、気配を察して背で語る女性。

 三戸香澄みとかすみは髪をシュシュで纏め、クリーム色のエプロンで両の手を擦る。


 「集中、していたのでは?」

 「いいえ。どうにもそぞろで。きっとお昼に食べたインスタントラーメンの所為ね。味が薄かったのよ、ねえ、健彦さんもそう思ったでしょう?」

 「いいえ、とても美味しかったですよ。」

 「どうにも得心いかなくてね。」


 香澄さんは絵筆を置いて、白枠の窓をがたがたと無理くりに上げる。

 夏の濃い空気は、活発な生命の排出した呼気が綯交ぜとなって、僕はむっと顔をしかめた。

 夏は嫌いだ。

 何もかもが、燦然さんぜんと、溌剌はつらつと、脈を打ってうごめき、絡み合う。

 呼吸すらままならない。

 自分の汗も、熱にぼうっとした頭も、嫌が応にも生きていることを実感させる。

 だから冬が良い。

 冬は空虚で、森閑としている。


 僕は階段を降りただけで額に汗をし、香澄さんの後ろについて台所に向かった。


 「僕が淹れると、姫花さん、不貞腐れてしまうので……。」

 「そうかしら、文句もコミュニケーションの一つの窓口じゃない。」

 「僕は、彼女と仲良くなりたい訳じゃ……。」

 「それは自分がもう死ぬから、ということかしら。安直ねえ。」


 香澄さんは湯を沸かしながら、冷凍庫を開けて氷を一つ摘む。

 口の中で氷を転がす、硬質な音が静寂を埋めた。

 僕はしばらくしてから言い訳を試みる。

 

 「僕はそんな、善良じゃありません。」

 「そう、じゃあ面倒くさい、のかしら。……厭世的なのも、子供っぽくて悪くないけど……。」


 ……はやく大人になりなさい。

 香澄さんは余韻にそう言ったようだった。

 

 「ほら、持って来ましたよ、姫花さん。」


 二階の部屋に戻ると、姫花は僕のベッドに俯せとなって眠っていた。

 快晴の空から、日差しが窓を通して彼女の背を照らす。

 これもまた木で出来たベッドは、僕が仰臥ぎょうがすると棺のようだが、彼女ならば一幅いっぷくの絵、それも童話の一頁のようだった。


 手を枕の下に入れ、持ち上げられたセーラー服の裾からは、素肌の背中が露わになる。

 年中ポニーテールの、容姿にあまり気を払わない香澄。

 ここで出会ってから一年。

 別荘の家主である三戸夫妻に絵を習っている彼女とは頻繁に顔を合わせるものの、いつも変わらぬ髪型、そして麗しいかんばせ。

 唇の右下に黒子ほくろがあり、女性にしては背も高く線の細い彼女は、きっと学校でも特別な存在なのだろう。

 そうでもなければ、ああして横柄に同年代の男子のベッドに寝れやしない。

 僕が病気によって全てを定義されるなら、彼女もまた、その花顔でもって行為はすべて色付けされる。

 それもまた不憫か。

 

 僕と姫花は友人ではなかった。

 僕は家の外で彼女とは会わないし、あてどない会話もしない。


 部屋にはまだ、チェロの抒情的な旋律が響いていた。

 僕はティーセットを机に置いて、手製の木造ベンチにクッションを置いて座る。

 冷たいアールグレイが喉を通ると、少しだけ憂鬱を忘れることが出来た。


 「……Peace、Peace、Peace」


 僕は瞳を閉じて呟く。


 「……Peace、Peace、Peace」


 夕暮れにはまだ早い。

 うだるような暑さも、近ごろ息が長くなってきた。

 蝉の鳴き声と、チェロの音色。

 それらが僕の夏の景色となって脳裡に迫る。


 「……なんだ、タケもカザ、好きなんじゃない。Song of the Birds。」

 

 頬を枕で潰したまま、姫花は鋭利かつ半月型の大きな瞳を僕に向けていた。


 「好きじゃなきゃ、なんでCD持ってるんですか。」

 「だって私がかけるといつも、不服そうな顔するでしょう?」

 「それは姫花さんが長居するからですよ。」

 「だってここ、居心地良いし。タケは余計なこと言わない、香澄さんはいい人、更衣きさらぎちゃんはかわいい、木の良い匂い、おしゃれな部屋、それに聞き放題のクラッシックと、良い眺望。」


 姫花は泳ぐように脚をばたつかせながら、指折り数え上げるように並べ立てる。

 

 「僕は困っているんですよ。姫花さんが来ると、もれなく不興を買うことになるんですから。」

 「病弱を餌に姫花を釣ったって?」

 「そうです。」

 「釣れたならいいじゃない、大物なんだから、もっと喜びなさいよ。」


 姫花は顎を突き出すようにして、僕をからかう。

 ゆっくりと起き上がり、ティーカップに口をつける彼女の背後で、とんびだろうか、鳥が空を旋回するのが見える。

 彼女の胸の赤いタイは乱れて、僕はなにとはなしに目を逸らしてしまった。

  

 「ねえ、一度でいいから、一緒に散歩しようよ。最近は夜中にひとりで歩いてるんでしょ?」

 「そうですけど、なるたけ構わないでください。僕には……。」


 それは僕の定型句であるわけだが、彼女に通用しないことは疾うに知っている。


 「い~や。いやだね。だって私、人の死ぬとこ、それも友達が死ぬところが見たいんだから。悲しくて悲しくて、どうしようもなくなって、自分の心を持て余す、そういう経験がしてみたいんだもの。恋人ならなお良し。」


 姫花は人差し指の爪を甘噛みしながら、喜々として僕に夢を語る。

 ベッドの上で足を折り、女の子座りをする少女。

 彼女には、美しい植物の御多分に漏れず、毒があった。

 僕が強硬に彼女の訪問を断らないのは、その倫理にもとる来訪の目的が、あながち嫌ではなかったからだ。

 むしろ心地よさすら感じていた。


 「だから、びて媚びて、タケの恋人にして貰うんだから、この果報者、覚悟して頂戴。」


 そうして首を傾げて微笑む彼女は、確かに目もくらむほど美しかった。


 

 


 


 

 

 

 

 

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