第3話 百合
鳥の鳴き声を「Peace」と聞き取ることは、日本人の僕には無論できない。
するとどうか、他人の言葉というのもまた、正確に伝わることはない。
人には自身の属する文脈というものがあり、故郷を同じくする者同士は、それが僅かに似通っているというだけの話。
典型と類似。
僕らの交流は、こうしていつも崩壊の危機に接している。
いや、崩壊が常態となって、その常態もまた崩壊して、最早あべこべだ。
人と人との交流とは、常に誤解の可能性を
僕らはそれを綱渡りしている。
僕には、姫花が人の死に
それと同じように、彼女もまた、僕の行動の指針や理念は理解できないだろう。
それを語り合おうとすれば、僕らには知性があって、相互に理解することは可能だ。
だが、理解するということは、同時に相手を投げ捨てることでもある。
僕らはこの不可能に目を瞑ってようやく、生きることができる。
相手のことを理解するのは自分であって、相手本人ではない。
すると、これは相手をダシにした、自己完結する交流でしかなくなる。
自分が納得するために。
これらは全て、原理的に修復不可能な誤解を生じる。
人が芸術を求めるのは、おそらくそのためだ。
人が直観的に感情を伝える手段は、芸術しかない。
言葉は不可能による影絵だ。
誤解を前提とした道具だ。
ならば、そうではない道具を僕らは用いるしかない。
だが、現代において芸術は軽視されている。
それだけではない。
人と人を結びつける
個々人は根無し草のように、各々孤独に、洞窟の中で日々を暮らしている。
――だからだ。
あの大災害が起こった時、僕は不謹慎にも心が沸き立つのを感じた。
非常時では、解けかけたその紐帯が強く結び直される。
僕はあのとき悟ったのだ。
人は寂しさを紛らわすために、不幸を買い求める生き物なのだと。
戦争なんてものはその最たるものだ。
人々は戦争を欲している。
争いは人を高揚させ、安易な存在意義と信念とを与え、何もかもが共同体に帰属する。
忘我と、充足。
不連続な存在からの、脱却。
僕も、姫花も、きっとそういう物を求めているという点では同類であった。
だからこそ、彼女といることは苦ではない。
そんな益体もないことを考えながら、
水音が思考に熱くなる頭を冷やして、心を落ち着かせる。
梢が空に
結局は、いくら頭の中で言葉を弄したところで意味はない。
こうして素直な心で自然を愛でる方が、いくらも有意義であった。
「……僕はやっぱり、子供なのだろうか。」
心に刻まれた言葉を、そのまま誰かに届けたい。
口に出る言葉では駄目だ。
思考を介さない、心に銘記された固有の言葉。
それをそのまま、伝えたい。
痛々しい願望だということは
きっと大人になれば、こういったことには少しも懊悩せずに、生きる振りをすることが出来るようになる。
でも、今はどうしても駄目なのだ。
それに僕には時間がない。
川の水面は、月明かりを弾く。
あたかも魚の鱗のように、あちこちで銀色に照り輝く。
「ねえ、そろそろ体が冷えてしまうよ。」
僕は岸から声を掛ける。
川の中央、
僕は彼女を「
いつもこうして、夜更けの
僕の声が聞こえたのか、その白髪の少女は川に飛び込み、そのままこちらに泳いでくる。
彼女が立っていた岩のところだけ水深が深く、すぐに浅瀬となって、彼女は重たい衣服を引きずって僕の傍に来る。
「ほら、バスタオルと、着替え。」
僕は準備していた物を手渡す。
肩甲骨を覆うほどに延びた髪が、滴を垂らして頬やら首筋に張り付いている。
おそらく小学生ぐらいの年齢。
だが、彼女が果たして人間なのかどうか、僕には未だ確信が持てない。
あまりにも端正な顔立ちと、なかんづく、その赤い瞳と白髪は明らかに日本人のそれではない。どころか、異国の人間でもないだろう。
僕は彼女を幽霊か、それとも自分が見ている幻覚だと思っている。
「今日はまた、飛び込みでもしていたの?」
僕の問いに、ユリは答えない。
ただ黙して髪を拭いている。
僕が彼女を幽霊だと推測しているのは、その恰好も助けてのことである。
和服、それもおそらく上等な生地で仕立てられている。
無地で青いそれは、
「ほら、そうして無造作に拭いたらだめだよ、こう丁寧に……。」
僕は髪をタオルで挟んで水気を取る。
その間もユリは嫌がらず、ただされるがまま、そこに立ったままだ。
彼女が着替える時、一応、僕は背を向ける。
衣擦れの音に、僕も誘われないではないが、相手は年少だ。
情欲とは無縁の、言うなれば美的好奇心の為であった。
ユリと自然の
髪も瞳も、人工的なものではない。
むしろ僕のような黒髪の方が非自然的に思えて来る。
ユリは黒を基調としたワンピースに身を包んで、比較的大きく安定した石の上に腰を下ろした。
服は香澄さんの娘、
僕もまた、手近の石を見繕って座る。
ユリの横顔を斜め後ろから見ながら、僕は独り
「……今日はさ、また姫花さんが来たんだ。結局、夕方まで寝て、そのまま帰ったよ。」
「……彼女は、きっと将来、何かを成すような気がするんだ。それが良い事かどうかは、残念ながら責任もてないけれど。」
ユリは体育座りをしたまま、振り撒かずに対岸の絶壁と木々を見やっている。
そうして座っていると尚のこと小さい。
小学五年生となった
だが、その峻厳として一言も発さない顔つきは、僕よりも大人びている。
彼女は時より、警戒しているのか、ふと僕の方を振り向いては、すぐに視線を逸らす。
とても冷ややかで、にも関わらず、どこか僕のことを
睨みつけるようでありながら、その分、泣きそうな顔。
「ねえ、ユリ。川に溺れて死ぬのは……苦しいかな?」
「……。」
「きっと僕はさ、こうして病気じゃなくても、きっとすぐに死んでしまっていると思うんだ。僕は……欠陥品だ。」
「……。」
「考えなくても良いことを考えて、考えるほど、弱虫になって、人が怖いんだ。」
「……。」
「いつも思うんだ。多くの人が死ぬようなことが起こって、みんなが、誰か他の人の悪口や、差別や、お金、そういったことを全て放り投げて、ただ自分の命を守るために協力しあうような、そういう事態を、僕は求めてしょうがないんだ。最低だ……最低の、逃避を、僕は希求しているんだ……。」
「……。」
「ねえ、ユリ。僕は、生まれたときに、誰かに言ってもらいたかった。誰かを助けることはいつでも正しくて、誰かを殺すことはいつでも悪なんだと……。人に優しくすることは正しくて、人を排斥するのは悪なんだと。すべて、法律のように、絶対の基準に当てはめて、何もかもを判断したい。何も、何も、考えたく……ないんだ……。」
僕は全てを吐露した。
ユリは言葉を知らないのか、ただ話せないのか、僕には判然しない。
だから、つい言ってしまった。
僕の醜い心の在り様を。
僕も姫花と一緒だ。
誰かが、大勢が、死ぬことを望んでいる。
どうしようもない、この生きているという浮遊感から逃れたい。
地に足をつけたい。
ユリはまさしく、行く雲、流れる水のごとく、僕の告白にも
僕はいざり寄るようにして、彼女の隣に座る。
「……これもまた酷い言いようだけど、僕は君が、僕の妄想だと良いと思っているだ。こんなに綺麗で、超然としたものを生み出すことが出来る、つまりそれは、まだ僕の心が死んでいないということなんだ……。」
僕はユリの手を取る。
その手は雪が積もったような白さと冷たさ。
僕は咄嗟に触れてはいけないと思った。
溶かされてしまう、そう錯覚した訳だが、僕は手を離さなかった。
僕の熱で彼女が消えてしまうなら、それほどの幸福はない。
ユリは僕の顔を無表情で見つめている。
葉擦れの音が僕らの間に流れて、僕は今一度強く、彼女の手を握った。
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