14、水久保の甚吉のはなし

 三十年ばかり前のことだったといいます。

 水久保みずくぼ甚吉じんきちという男は、品川しながわから沖の魚を捕る漁に出て、そのまま潮に流されて何年も戻って来なかったのですが、三十年前の嵐の日にひょっこりと故郷の水久保に姿を現わしました。


「どこに行ってたのだ」

「よく帰って来た、うれしいぞ、一体どうして生きていたのだ」

 と甚吉の兄夫婦が聴いてみても甚吉は「ふしぎなことを兄たちは尋ねて来るものだ」といったふうで、目をうろうろさせて驚いているだけだったのです。

「潮に流されて、わしは二日ばかり難渋しただけなのに、妙なことを家族は言って来る、何だか居づらくなってしまった」

 と考えたのか甚吉は、翌日の昼間にはぷいと家を去ってしまい、東海道に出て高輪たかなわで荷物はこびの手伝いをしてしばらく暮らしてたそうですが、ある日のこと、二三人の人足といっしょに昼寝をしていた甚吉が「ああぁ」と声をあげたかと思うとぼうっとした足どりで海のほうに歩いていってしまいました。

 そして海べりに行くと小舟に乗って沖に出て、やにわに海に飛び込んでしまいました。ふしぎなことには、その直後に沖から小さな子鯨こくじらがやって来て、甚吉の飛び込んだあたりをぐるぐるまわったり、もぐっては浮かんだりを繰り返してたそうで、甚吉の行方はまた、どことも知れないままになってしまったのだといいます。


 知っているあるひとは、甚吉は竜宮城りゆうぐうじようだかくじらみやこだかにでも行ったり来たりしているのではないのだろうかと語っていますが、これ以後は三十年近くも帰って来ないところを見ると、は、やめてしまったのかも知れません。

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