8、大うつぼのはなし

 伊豆いずの船番所に入るすこし前、数里ほどさかのぼったあたりの海にはとても大きながいるというはなしだったのです。

 とても大きいものだというはなしであるから船に覆いかぶさったり、当たって来たりするのだろうかと思っていましたが、聴いてみると、そのようなはなしは全く無いんだそうです。


 七十年ほど前、匠野しんの太六たろくという男が、うっかり潮に流されてどうにも動けなくなり困っていると「おまえは誰だ」という声がどこからともなく耳に入って来ました。左右や前後を見渡してみても太六の目には何も映りません。

 太六はきもが太かったので「わしは匠野の太六さまだ」と返答すると、ふしぎな声は「名のある偉い人物だったのか、失礼をした」と威儀を正した口振りになり、船尖ふなさきに大が頭を下げていました。あまりの大きさに太六は少し驚きましたが、肩を張ってすこしでも身を大きく見せつけます。

「おまえのほうこそ誰だ」

「わしは、この沖をあずかっているものだ。親王しんのうのおはこびとはうれしい限りだ」

 そう言うと、は深々と頭をまた下げるのでした。

 船が戻れずに難儀をしているとの太六のことばを受けたは、彼の船を背に乗せてすいすいと走り、あっというまに船番所のあたりまで運んで来てくれました。

「これはたのもしい」

 と、海の上を走る太六は安心をしていましたが、は太六の船を海面におろすと、下げた頭をおもむろにもたげて次のように言い放ちました。

「親王さまをお届け出来たのは名誉なことだ、何か仲間に誇れるをお授け下され」

 潮にもまれたときに荷をすべて失ってしまっていた太六は弱ってしまいましたが、むげに断って船ごと呑み込まれてしまっては身のおわりなので、羽織ってた褞袍どてらを手渡したのでした。

 

 匠野の太六が着ていた褞袍にはちょうの模様が染められてたといいますが、伊豆の船番所の沖の大ぶち模様も蝶のようなかたちをしてというのは、そんな話があるからなのだそうです。

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