第6話 山奥の研究所



四、 鹿児島県A市 山奥の研究所


「本当にこんな山奥に研究所が?」


 ガタガタと揺れる車内で天城が山田に尋ねる。隣の席で藤森が気分が悪くなったのか、口元を押えて下を向いている。道の舗装がところどころ剥げていて、周囲には南国特有の植物が茂っている。自分たちが乗っている車以外は、他の車が走っている様子もなく、時折、ギヤァーという何かの鳥の鳴き声が響く。


「ええ、私も最初は同じことを思ったのですが……あ、そろそろ見えてきますよ」


 山田の言葉通り、それまで車一台が通るのがやっとだった道路が急に開けて、広い場所に出る。新しい、というには少し年季が入っている感じがするものの、丁寧にメンテナンスを受けていて、白い外壁には蔦やヒビが走っているわけでもなく、目立った汚れもない。駐車場スペースには車が四台止まっていて、中にまだ人がいることを示している。


 正面の入口には『古藤研究室 鹿児島ラボ』と書かれている。やはり、山田の言う通り此処が古藤のもう一つの研究室で間違いなさそうだった。


 後部座席の天城と藤森が降りると、助手席の山田、それに運転席から男が一人続けて降りる。藤森はまだ車酔いで気持ち悪いらしく、天城の左手の袖あたりを弱々しく掴んでいる。


「中に入る前に、前回、私と赤瀬川さんで来たときの事を軽く話しておきますね。此処はそこの入口に書かれているように古藤清彦氏のもう一つの――彼らは『鹿児島ラボ』と呼んでいる研究室で、中には東京から来ている研究者が二名、それにこの阿久根市の人間がパートタイムの研究補助員として二名、合計四人が働いています」


 山田は手帳のページをめくり続ける。


「研究所の開設は2007年。建物は新築で、中の機材なんかも東京の研究室のものを運んできたわけではないようで、すべて新規で購入していたようです。その……私はこの業界のことを詳しいわけではなかったので知らなかったんですが、随分と高額なものなんですね」


 山田がそう言って顎鬚を摩ると、隣の赤瀬川という男が続ける。浅黒くがっちりとした体形のこの男は鹿児島県警の刑事で、今回の事件の捜査支援ということで、鹿児島空港から此処までの運転手を務めてくれていた。

「当時は県内のすべての理化学機器屋が大繁盛したと、鹿児島市の業界人が言っていました」

 それはそうだろうな、と天城も藤森も頷く。古藤研究室は国内最難関の東都大学のなかでもかなり有名な部類の研究室で、それと同じ研究を行っているのであれば、この小さな二階建ての建物の中には数億――あるいは十数億の機器が詰め込まれているはずである。

「……それもあの笹嶋生命科学研究振興財団に作っていた違法な『預け金』で賄っていたのかな……」

 藤森が悲しそうな声で言う。

 亡くなった恩師の不正行為、それにお世話になった人の死を目の当たりにしたのだから、気が重いのは当然なのかもしれない。

「さぁな。それを今から確かめに行くんだろ?」

 天城はなるべくいつも通りの口調で返す。それに気づいたのか、天城の横で藤森が天城だけに聞こえるように、小さく「ありがと」とつぶやく。


「此処で行っている研究は――実はこれは少し驚いたのですが――様々な疾患の患者から細胞を採取して、それを培養してからiPS細胞に誘導する研究をしているようです」

「えっ、それって……」

 山田の言葉に藤森が反応する。



「そう、あの谷崎氏が書いた偽の研究費申請書と似たような研究を、此処ですでに開始していた――ということになりますね」



 意外なことを聞き、天城は事前に赤瀬川から受け取っていたこの研究所に勤めている研究者の履歴書のコピーに目をやる。少なくとも東京からやってきた二人の研究員については特筆するような経歴ではない。

「三雪、この二人の研究者知ってるか?」

 藤森は頭を横に振る。その拍子に後ろにまとめていたポニーテールがひょい、ひょいっと左右に大きく揺れる。

「……どっちにしても、中で詳しく話を聞くしかないか」

 天城はそう言うと、山田の案内で建物の中に入る。




「遠いところご苦労様です。私はこの鹿児島ラボの責任者をしています、立浪です」

 白衣を着たひょろ長い男が名刺を渡してくる。実験中だったのか、両手には手術用の使い捨てゴム手袋をしている。

「私は天城修平。古都大学で発生生物学の研究者をしています。それでこっちが――」

 天城が藤森を紹介しようと、藤森の方に手を向けると、立浪と名乗った研究者は驚いたように話しかける。

「えっ、まさか白山義塾の藤森先生!?」

「あ、あの私を知っているんですか?」

 面食らったように藤森がやや怯えた様子で尋ねる。

「もちろんですよ。超難関の白山義塾でわずか三十二歳で教授になったわれわれの分野でも超がつくほどの有名人ですし……いやぁそれにしても、噂通り、お綺麗だ」

 藤森の顔に似合わないほど存在感を強調する胸のあたりを見ながら言った立浪の最後の言葉に、天城がムッとする。この数年で、この隣にいる後輩にこれほどまでに差をつけられたのかという一種の焦りもあるのかもしれない。

 何かを察したのか、山田が短い咳払いをする。

「ああ、すいません。此処で行っている研究内容の話でしたよね」

 天城はまだ内心いらだっていたものの、「ええ、お願いします」と努めて冷静に返す。


「それでは実際の研究室の様子をみながら紹介します。こちらへどうぞ」

 そう促されて、やや薄暗い廊下を歩く。



「……段ボールがやけに多いですね。 新しい機材ですか?」

 天城が廊下の脇にいくつも積み上げられている引っ越し用の段ボールに気づく。

「ああ……実は、今回の件で『本国』から引き上げの指示が出ていまして……」

「本国?」

 天城が聞き返す。

「ああ、すいません。我々のなかでの呼び方です。こちらを『生産所』、東京の東都大学にある研究室を『本国』と呼んでいるんです」

「やはり古藤先生が亡くなったことが理由ですか?」

 今度は藤森が歩きながら尋ねる。

「ええ。此処の運営は古藤先生の個人的な寄付がほとんどでしたから……」

 立浪の『個人的な寄付』という言葉に、やはりあの財団の預け金を使っていたのかと、山田刑事と目が合う。


「あ、着きましたよ。此処がこの鹿児島ラボのメインの仕事をしている部屋です」


 扉には『P3』『BSL3』という部屋の中で行われている実験の危険度と、その対策のレベルを表す記号が示してある。

「申し訳ありませんが、患者様の細胞を扱っている場所ですので、部外者は中には入れません。このモニター越しに見ていただくことになりますが……」


 廊下側に設置されたモニターには、クリーンベンチと呼ばれる細胞を無菌的に扱う実験台で作業をしている女性が映っている。無塵衣という特殊な服を着て、帽子、マスク、それに保護眼鏡をしているので、その顔はわからない。映し出されている部屋には、その他には細胞の培養器、遠心機、倒立顕微鏡、それにPCRマシンなど細胞培養に一般的な機材が並んでいて、特に変わった様子はない。


「次の部屋に行っても、よろしいですか?」

 立浪がそう言うと、「ええ、お願いします」と天城が応える。



「次は、亡くなった古藤先生がここ数年、特に力を入れていたセクションです」

 山田の目の色が変わる。おそらく前回刑事だけで来たときにはそういう説明はなかったのだろう。


 さっきと同じように『P2A』と書かれた部屋の前にたどり着く。


「こちらは中で説明できますので、そこのロッカーの白衣と手袋、マスク、帽子をつけていただきますか? それと手荷物はこちらの前室に置いてください」


 立浪の指示に従い着替えると、先ほどの部屋と同じように細胞培養用の機器が並んでいる部屋に入る。さっきの部屋と違うのは、二台の倒立顕微鏡に、マニピュレーターと呼ばれる細胞に対してマイクロメートルの操作を行う機器が取り付けられていることだ。


「此処は……胚操作を行っているんですか?」

 藤森が尋ねる。


「さすが! そうです、此処は古藤先生の肝いりで作られた哺乳類の胚を操作するための部屋です。現在は彼女たち二人で、豚の受精卵にCRISPR/Cas9(クリスパーキャスナイン)を使ってゲノム編集を行っています」


 立浪の紹介に、マニピュレーターを使って作業していた女性たちが軽く頭を下げる。


 ゲノム編集は、2005年以降に爆発的な勢いで発展してきた遺伝子の人為的な書き換え技術である。特に2012年にCRISPR/Cas9と呼ばれるRNAとタンパク質を使った簡単で素早い書き換えが可能な方法が報告されると、あっという間に世界中で研究や医薬品の製造、それに農業分野などで応用されるようになってきている。

 先端技術をいち早く取り入れるところは、さすが古藤研究室といったところだ。


「豚でゲノム編集……ということは、免疫不全豚を使ったヒト臓器の構築とかを想定されているのですか?」


 藤森が事件とは関係なく目を輝かせながら尋ねる。


「なんと……まいったな。さすがは藤森先生ですね。その通りです。此処では今、いくつかの免疫応答に関わる遺伝子とある種のウイルス感染に関わる遺伝子をゲノム編集を使って欠損させて、免疫機能とヒトに感染させるウイルスを持たない――つまりヒト臓器を安全に豚の体内で作り出す研究をしています」


「凄い! まさに最先端の研究ですね」

 藤森が素直に感心していると、「いやぁ」と立浪は苦笑いをする。


「実はこちらの研究室では、必要なガイドRNAの設計や合成、豚受精卵の調達、それに実際の遺伝子操作を行った豚受精卵の母体への胚移植もやっていないんですよ。主に受精卵へのガイドRNAとCasタンパク質のインジェクションだけを担当しています。それに私も、そこにいるもう一人の研究員である南野も、もちろんパートの方も発生工学が専門というわけでもないんですよ」


「それは意外ですね。では凍結受精卵を持ってきて、こちらで解凍して、その受精卵にインジェクションしたものを東京に運んで……ってことですか?」

 藤森の質問に立浪は「ええ、そうです」と答える。


 ゲノム編集などの発生工学はどちらかというと天城の専門に近いのだが、立浪の説明は若干の違和感はあるものの、ありえないことではないし、実際にそういう分業でゲノム編集動物を生産している研究室はいくつかあるのを知っている。

 小声で「どうですか?」と聞いてくる山田に、やはり小声で「特に」と返す。



「折角ですし、ゲノム編集した豚の受精卵を見てみますか?」

 と、立浪が提案すると、藤森が「もちろん! お願いします」と即答する。藤森のこういう科学的な興味の多さは、素直に凄いと天城は思っている。


 倒立顕微鏡のサイドポートに取り付けられていたモニターに、真円状の透明な細胞が映る。細胞の中には前核と呼ばれる父親と母親のDNAをそれぞれ持つ構造体が見える。

 そして、細胞の外周りには、細胞そのものよりも少し白っぽく見える外膜が覆っている。この透明帯と呼ばれる受精卵を包む外膜には、マニピュレーター操作の跡である穴がうっすら確認できる。教科書に出てきそうなほど、綺麗な受精卵だ。しばらくの間、天城と藤森は、立浪と南野に学術的な――おそらく事件には関係ないような質問を繰り返す。



「他には何か質問はありますか? なければ先ほども言いましたが、『本国』からの引き上げ指示が出ているので、そちらの作業に戻りたいのですが……あと、二階に私と南野の居室と分子生物学用の実験室がありますが、見ていかれますか?」


 立浪の質問に天城が答える。


「いえ、見たところ特に変わった様子はないですし、結構です。今日はありがとうございました」


 確かに立浪の説明通りに普通の実験室でしかなく、これ以上の調査は必要ない。天城はどこかに引っかかるものを感じていたものの、山田に合図をして外に出たのだった。




(続く)

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