第3話 牙は目覚める
1
明津は、本能的に危険を予知したことを、所長たちには一言も告げなかった。この感覚は、持ち主以外には理解できない。よけいな邪魔が入れば、事態に不確定要素が増えて手こずることにもなる。所長には、天日と“メデューサ”の警護のために、一晩、「臨床治験センター」に残る許可を頼んだだけだった。
敵のターゲットは、研究員・天日由利香と“メデューサ”のプロトタイプ試薬の未完成品だ。このふたつが、敵の手に落ちるのを防ぐ。それが、最優先だった。
所長の許可をとって、その晩は「治験センター」のフロアに残った。名目は、天日由利香の、父親への投薬と、彼女の研究の手伝いということだ。
明津は、ナースステーションに隣接する仮眠室にいた。時計は午前一時をまわっている。フロア全体の明かりが落とされ、足元がやっとわかる程度の夜間灯が、わびしく天井から弱い光をなげかけるばかりだ。ほかについている明かりといえば、非常口の緑と白の表示灯と、火災報知機の赤だけだ。
そろそろ、天日由利香が父親に、あの“メデューサ”から抽出した肝臓治療用のパックを投与する時間だ。
薄暗い仮眠室の、固いベッドの上で、あおむけになったまま、明津は天井を見上げていた。自分の腕を枕に仮眠室にいるからといって、眠っているわけではない。
マッコールと二人で、交代でこのフロア全体を見回っている。いやます危機の予感は、神経をたかぶらせ、警戒心をかきたて続けていた。
そろそろ、マッコールと交替だ。明津は、むっくりと身を起こした。
今、このフロアにいるのは、天日一家と明津たちだけだった。看護婦たちも、彼らにまかせて帰宅している。本当は、“メデューサ”関係の投薬の事実を知られないために、わざとナースステーションを空にしたのだが、彼女たちは知るよしもない。所長もスティーブンも、通常の時間通りに帰っている。ほかの人間といえば、警備員がときどき見回りにくるだけだ。
そのとき、開け放しにしたドアのところに人の気配がした。明津は、反射的に重い口調
で呼びかけた。
「だれだ、そこにいるのは」
背の高い白衣の女、天日由利香が立っていた。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら」
「なんでしょう、なにかお手伝いできること、ありますか」
明津は、ベッドから立ち上がりかけたが、天日が首を横にふったので、また腰をおろした。
彼女は白衣の前をあけたラフなかっこうで、ドアの上によりかかり、長い足を軽く交差させ、腕組みしながら、こちらを上目づかいに見つめた。薄闇の中で、美しい女の白い顔が、固く光っている。
「ひとつ、きいておきたいの」
明津は、返事のかわりに、眠そうにわざとあくびをしてみせた。女は、疑惑のこもったまなざしで、冷たくいった。
「あなたたち、なにもの?」
「どういうことですか。いった通り、厚生労働省の人間ですよ。寝ぼけてますから、へんな質問は……」
女は容赦なく、男の弁解をさえぎった。
「おふたりとも、医学や薬学には、まったく無縁なように見えますけど」
「いけませんね。みかけで、人を判断しちゃ」
「笑わせないで」
言葉にあらわな敵意があった。顔だちににあわず、勇気があった。
彼女は、胸の上で白い手首を持ち上げ、明津を指さして続けた。
「どこの会社のスパイ? それとも、諜報員かしら」
明津は、後頭部に手をやりながら苦笑した。
「まいったなあ、こういう髪形だから、疑われちゃうのかな」
「正体のわからない人たちと、ひとばん過ごすなんて、あたしも運が悪い女ね。しかも、親子三代で。所長と、どんな取引をしたの?」
「夜中に、そういう難しい話はやめにしてくれませんか。まったく身におぼえないことですよ。スパイドラマがお好きなんですか」
「これでも、極秘の新薬を開発してる研究員よ。すべてを信用してるわけじゃないわ。いつ、だれが、スパイになって、内部情報を売ってるか、わからない業界よ」
明津は、時計をみて、廊下の方へ視線を向けた。
「おとうさんに、投薬しなくていいんですか」
「あなたたちがいちゃ、安心してできやしないわ。母も、子供もいるのよ」
女の直感だ。これも超能力の一種といっていいだろう。鋭くも的確に、明津たちがまったくの外部者だと確信している。
天日は、そこでためいきをついた。天井をあおいで、胸にたまった想いを吐くように唇を開く。
「ごめんなさい。いまひとつ、決心がつかなくてね。不安なのよ。あのパックがほんとに効くかどうか」
話題を前置きもなく、ころりと変えるのも、女の超能力のひとつだ。
明津は、女のためいきと不安につけこんだ。
「どんな副作用があるかが、こわいんでしょう。あのマウスの実験を見せられたら、だれでもそうなる」
「……」
「昼間、はっきりききそびれたんですがね、やったんでしょ? 人体実験」
女の眉間に、かげりが走った。
「その質問には、答えたはずよ。ノーよ」
「顔にうそだと出てますよ。事実は、どうだったんです」
女は、左手の手首を裏返し、細い銀色の腕時計をみながらいった。
「あくまで、うわさだけど、“メデューサ”の原液を、あるエイズ患者の男性に注射したとかいう話を、聞いたことはあるわ。もちろん、デマよ。根拠のない、うわさ話」
「それで、うわさ話では、そいつはどうなったんです?」
「結論からいえば、エイズはなおったの。でも、精神に異常をきたして、病院を脱走して……犯罪にまきこまれて、刑務所の中で半年後に、老衰で死んだって話」
「そいつの歳は、いくつだったことになってるんですか」
「三十よ。三十で老衰死。いかにも、作り話なうわさね」
明津は、両手をだらりと、腹の前にたらして床をじっと見つめた。
「なるほど、そういううわさ話があるんじゃ、さしもの専門家もこわくなるわけだ」
天日は、きっと強く眉をひそめ、すかさずつっこんできた。
「あなたたちは、どの分野の専門家なの? 正直におっしゃい」
明津は、唇をゆがめて立ち上がった。
「こっちも、そろそろ交替の時間だ」
廊下に出ようとする彼に、天日がたちはだかった。
「待ちなさい。いったい何を狙ってるの。“メデューサ”なら、絶対に渡さないわよ」
「疑りぶかいですね。性格悪いと、せっかくの魅力が半減しますよ。スティーブンくんが、せっかく気があるそぶりを見せているってのに」
天日は、露骨に嫌悪感を顔にだした。
「あんなやつ。スパイに決まってるわ」
「おやおや、だれでもスパイにするのは感心しませんね」
「あいつは、オーストリアの本社に、所長を無視して“メデューサ”の情報を流してるわ。証拠の送信記録も握ってるんだから」
「本社もなにも、ここは資本合併した外資系の会社でしょう?」
天日は、無理に皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「実態は、本城製薬がのっとられたのよ。パーリア製薬は、ゼネラル・メディコムの命令でやったの。生化学分野で実績のあるここを、とりこむためにね。ひどいものよ。パーリアの人間は、経営でも開発でも、本城側の社長や重役を無視して、好きほうだいやってるわ。合併とか提携とか、うわべだけよ。経営陣もスタッフも、外国人におしのけられてるってわけ。日本側の権限なんか、パーリアの連中はすこしも考えてないわ。何かあれば、切り捨てて、すぐ自分たちの国に帰ればすむんだから」
ここまで、一気に吐き出すと、また大きくためいきをついた。
「とにかく……」
そのとき、マッコールの警戒心に満ちた思念が、明津の胸に飛び込んできた。
(ちょっと来いよ。警備員が倒れてるぜ)
ちょっとばかり勘のいい素人の美人との夜中の会話は打ち切りだ。いよいよ、敵がゴングを鳴らしたようだ。
2
明津は、言葉を継ごうとする天日を、てのひらを向けて乱暴にさえぎった。
「ちょっと待った」
天日女史の下手に出る演技はやめにした。彼女に対する気づかいに見せかけた態度を、一気にかなぐり捨てる。
「そこを、どいてもらおう」
低く重い声で命じ、手で有無をいわさずおしのける。明津の眼光に、ただならないものを感じたのか、さすがの女もたじろいだ。
「な、なにを……」
明津は、すでに任務に入っている。仮面をぬぎ捨てて、いやでも協力を強制せねばならない。一億二千万を手にするか、命ごとパーになるか、瀬戸際なのだ。
天日由利香に向かって、軽く目をほそめて警告する。
「ひとつだけいっておく。おれたちは、あんたと、“メデューサ”を守るためにきた。よけいな詮索はしないことだ。はやいとこ、病室へいった方がいいぜ」
天日の気丈な美しい顔に、激しい恐れと驚きが、さざなみのように広がった。うって変わった男の粗暴な雰囲気に、すっかり圧倒されたのだろう。
「あなた、いったい、だれなの? そんなこと、信じろっていうの?」
そういいながらも、本能的にあとずさりし、よろめくように廊下に出る。
明津は、ドアから出しなに、うつむきながら、すぐマッコールに思念を送った。
(ひとりで処理できないか?)
(死にかけてるんだぜ)
マッコールが脳裏に送りこんできた警備員の顔は、昼間、天日に門のところでいやがらせをした、あの警備員だった。
(ほっとけ。どうせ、助からん)
敵にやられた通常人が、生きていたためしはない。敵の姿を見たものはおろか、その犯行の現場に触れた人間は、明津たちのような特殊工作員の守りがなければ、だれひとり生きて帰ることはできない。少なくとも、敵との戦闘にかかわった普通人で、生きのびた者は皆無なのだ。
これからの戦闘によっては、天日一家が、そろって無事に朝を迎えられる可能性は、きわめて低い。明津たちも、そのことは最初から織りこみずみだった。
明津は、廊下に出たものの、おびえたように立ちすくむ天日由利香に、すれちがいざまに横顔をむけた。
「病室へ行きな。悪いことは言わん」
明津は、そのまま天日一家の病室とは逆方向、フロアの奥、廊下のはじの方へ小走りに近づいていった。全身の神経を、最大限にはりつめて、敵の気配が急激に濃密になっているのを感じる。
うしろから、よせばいいのに天日由利香が、薄暗い中を、おぼつかない足取りでついてくる。何度もふりかえり、手で「来るな」と制止しても、女はきかなかった。
薄暗がりの向こう、建物のはじにある、もうひとつエレベーターホールに、マッコールと倒れた男がいた。エレベーターの扉の前で、倒れているのは、警備員の制服を着た男だった。マッコールは、厳しい顔つきで、そいつのそばに腰をかがめていた。
明津を見ると、処置なしといいたげに、唇をつきだし、肩をすくめてみせた。
倒れている男は、あおむけになって、片足をくの字に曲げて、もう一方の足に重ねていた。両腕は万歳のかっこうに広げられていた。右の脇腹とその下の床が、天井の弱い夜間灯の光を反射して、濃い色のペンキ缶をひっくりかえしたように、大きく黒々とぬれ輝いていた。ぬれているのは、脇腹の肝臓の部分にあいた、こぶしふたつがすっぽり入るほどの大穴からの大量出血のせいだった。
ねばり気のある赤黒い血のにおいが、なまあたたかくあたりを漂っている。警備員はすでに意識を失っている。顔色はすでに死相を呈し、死にかけていた。肝臓をまるごと破壊されているのだ。体を裏返せば、肝臓を破壊した力は、片方の腎臓も砕いているはずだ。もう助からない。
天日が、そばによってきて、うっと口をおさえて顔をそむけた。吐き気をもよおしたのだろう。声もたてられずに、壁にもたれて空えずきをくりかえす。
血と死体に気をとられたら、罠にはまる。明津は、あたりにすばやく目を配った。この警備員は、見回りにきたところを、敵に「狙撃」されたのだ。あるいは、敵の姿を見とがめ、逆にやられてしまったのかもしれない。
そのとき、後ろから、何か生き物のせわしい息づかいと、近づく足音をきいたような気がした。
ふりかえると、廊下のすみの暗がりから、灰色と白と黒のまじった一頭の犬がやってきた。あまりにも唐突な出現だった。今まで何もいなかったのに、みごとなシベリアンハスキー犬が、ハッハッと舌をたらしながら、こちらにやってきて、明津たちをじっと見つめる。土佐犬ほどもある大型犬だ。しかも、金色に光る首輪をしている。
天日の驚きの声があがった。
「ト、トヨ……トヨじゃないの」
彼女の声に、大型エスキモー犬は、銀色と白のまじるふさふさした尻尾をふって見せた。天日は、犬のかたわらに腰をおとし、その首輪を確かめ、大きな頭を抱きかかえるようになでた。
「トヨ、ここがわかったの? どうやって入ってきたの?」
犬は、愛する飼い主にやっと会えたように、さかんに彼女の顔をなめる。
明津は、その犬に見まちがいようのない「敵」の気配を感じた。
「その犬から離れろっ」
吠えるように命じるが、天日は、後ろ脚で座りこんだ犬の頭をかかえたまま反駁した。
「この犬は、離婚した元の主人が連れていった犬よ。この首輪、まちがいないわ」
「いいから離れろっ」
マッコールが、天日を引き離しにかかる。
「冷静になれ。こんなとこに、こんな時間に、なんで現れる。おかしいと思わねえか」
とたんに犬が、ぐるるるとうなりざま、いきなりマッコールに襲いかかった。ろくに吠えもせずに、いきなり押し倒して首筋にかみつこうとしたのだ。
明津は、その瞬間をのがさなかった。脳裏に意識を集中し、犬を撃退する念動力を発動する。やつの腹に、おもいきり念力でけりを入れる。
犬が、ぎゃうんと苦しげな悲鳴をあげた。マッコールの腹の上からふっとび、横ざまに廊下に倒れた。天日が、犬を助けあげようとする。
「トヨっ!」
そのまま、犬は廊下を駆けて逃げ出した。その先には、天日の父親の病室があり、そこには“メデューサ”がある。
天日が夢中で、犬を追いかけた。
「待って、トヨっ」
明津たちも、死にかけた警備員を放置して駆けだす。天日に追いついて肩をつかんで引き止める。
「待つんだ。あれはあんたの犬じゃない」
「トヨよっ、律男さんが連れてった犬よ」
「あんたの別れた旦那は、ドイツだろうが。ドイツにいるはずの犬が、なんでここにいるんだ?」
天日は、そこで、はたと立ち止まった。当惑もあらわな顔で、眼を大きく見開き、明津をまじまじと見つめる。
「なんで、それを知ってるの?」
「今はそれどころじゃない。あとでな」
マッコールが、息をはずませながら、犬の行く先にあるものを、低い声で指さした。
「あいつあ、だれだ」
ナースステーションの脇の廊下の真ん中に、ひとりのスーツ姿の背の高い男が立っていた。
犬は、その影しかみえない男の足元に立ち止まった。両脚にまとわりついてよりそい、こちらを向いて低いうなり声を上げる。犬の両眼に、にわかに緑色と青色のまじった光が燃えあがった。燐光さながらに、ぼっと光ってぶきみだ。
明津は、天日に向かって、魔物のように前方に立ちはだかる犬を、あごで示した。
「どうだい、あれでも、あんたの知ってる犬かね」
天日は、明津の言葉を聞いていなかった。予想外の相手を見たまなざしで、ふらふらと、その男に近づいてゆく。口からは、うわごとじみた声がもれる。
「信じられない……あの人だわ」
明津とマッコールは、天日をひきとめるため、二人がかりで肩に手をかけようとした。だが、その手をすりぬけて、由利香は駆けだした。
「律男さん、やっぱり、来てくれたのね」
二人は、苦い憤りの顔を見合わせ、首を横にふった。
3
なんとか、彼女を助けたかったが、間に合わなかった。天日由利香は、犬が足元に座りこむ男の前に立ち、その胸にみずからとびこんだ。
「ちっ、これだから素人は」
マッコールが、吐き捨てるようにいった。
「律男ってのは、妊娠中にほかの女つくって、ドイツに高飛びしたんだろうが」
天日由利香は、「敵」の術中にすっかり落ちてしまった。心にひっかかっていた離別した夫と、その飼い犬の幻覚に、まどわされている。
「敵」がよく使う手だ。相手の心理的な弱点をつき、幻覚を見せて罠にはめる。家族や恋人、未練を持っている相手、感情的になんらかのこだわりを持っている人物などの像に、意識を投射させるのだ。
明津は、そんな罠にはひっかからない。第一、そんな人間関係など一切ないし、持つつもりも毛頭ない。対人関係が原因の幻覚など、つけいるすきを見せては、命がいくあっても足りない。
色恋や家族、しがらみ、優しさなど、「敵」の前では、ただの無防備でまぬけな弱点に過ぎない。自分の喉や腹を、わざわざ食い破って殺して下さいと、飢えた野獣の前につきだすようなものだ。
愛とか優しさとか、普通の人間にとって、なくてはならないものが、明津には不要だった。無慈悲、冷酷、非情、これこそが、彼には水と空気のように不可欠だ。生きのびるために、愛だの恋だの未練だの、かかずらわってはいられない。
愛は人のもので、非情こそ、彼のものだった。
明津には、眼前の男の正体がわかっていた。犬が駆けだした先に、その黒い影を見つけた瞬間に、わかった。
(……やりやがったな)
そう心の中で歯をかむと、顔が黒い影になっている男は、笑った。悪意のこもった笑いの波動を放ちながら、天日由利香のウェストを、きつく抱きすくめた。彼女の黒髪に顔を埋め、てのひらで背中を愛撫していた。そいつの眼が、強酸のように凶々しい光にきらめく。見る者の心を侵食する、特殊な磁力と影響力を発する視線だ。
明津は、由利香に、よく顔を近づけて、その男の顔を見ろといおうとした。
だが、その瞬間、彼は、男が静かにもう一方のてのひらを、こちらに向けるのを見た。
そのてのひらのまんなかに、小さなオレンジ色がかった赤い光の玉が燃える。それは、死の光だった。
「ふせろっ」
叫ぶと同時に、明津とマッコールは、とっさに冷たい床にふせた。
同時に、いやな音が廊下に響きわたった。いつ聞いても、この音だけは、寿命が縮む。シュッという圧縮空気に似た音だった。
パンッと強い破裂音が、すぐ側で炸裂した。伏せた後頭部に、ばらばらと石のかけらが降ってくる。ゆっくり顔をあげて、破裂音のした方を見ると、コンクリートの壁に、こぶしがすっぽり入るぐらいの穴があいている。灰色のコンクリートの内部と、鉄筋の一部が見えている。何か強いハンマーか何かで、たたき割られ、そこだけえぐられたようだ。
降ってきた石は、その破壊されたコンクリートの破片だった。あたりに粉砕されたセメントの臭いがたちこめ、むせるようなコンクリートの粉が漂う。
そのとき、病室から、由利香の母親が顔を出した。胸に赤ん坊をかかえていた。
「由利香、どうしたの? 今の音はなんなの」
制止する暇はなかった。
男は反射的にふりむき、てのひらを由利香の母親に向けた。眼の前で、品のある清香の白い額に、ぽつっと大きな黒子ほどの穴があき、次の瞬間、パンッという音とともに、頭部が、血しぶきと骨片と脳漿をぶちまけ、こなごなに粉砕された。行き場を失った頸動脈の血柱が、天井近くまでしゅーっと噴き出した。
首から上がなくなり、肩から腹まで、ガウンのように血と脳髄の飛沫でどろどろに染めた母親の体が、赤ん坊を抱きながら、背中からゆっくりと、あおむけに倒れた。
立っていた部屋の入口が、つぶしたトマトをぶちまけたように、一面に赤黒く染まった。血と粉砕された脳髄と頭蓋骨の破片が、すりつぶしたトマトの果肉と種さながらに、真っ赤にしぶいている。廊下もドアも壁も、人間の頭部だったものの残片で染まる。髪の毛を載せた、無数の頭皮の断片が、あたり一面にちらばり、血のりといっしょにべったりとはりついた。
「か、かあさん……」
由利香が、ぼうぜんと首なしの母親の死体と、つぶれたゼリーの球に似た、血まみれの眼球の一つが足元に落ちているのを見つめる。発狂したような顔で、母親が最後まで抱いていた赤ん坊を見下ろす。顔じゅうに、祖母の血と脳髄のまざった生温かい肉泥を浴び、赤ん坊が激しく泣きだした。
「尚人っ!」
叫んで駆けよろうとする女を、男ははなさなかった。もがいてふりほどこうとするのを、乳房をわしづかみにし、もてあそびながら、余裕たっぷりに封じている。
事態にふさわしくない淫らなふるまいに、女は泣きながら、別れた前夫と信じている男を、首をねじってみやった。
「まさか、あなたが、やったの?」
マッコールが、伏せたまま叫ぶ。
「よくみろ、そいつぁ律男じゃない!」
半狂乱の由利香が、まなじりが裂けるほど、涙に濡れた眼を大きく見開き、男の顔をまじまじと見つめた。そして、衝撃を受けて、かすれた悲鳴を上げた。
「ス、スティーブン!」
そいつは、天日の同僚のスティーブン・ベケットだった。昼間の意地の悪い軽薄な白人の雰囲気をかなぐり捨てている。はるかに獰猛で、欲望も悪意も強烈な、肉食獣じみた素顔をあらわにしている。
やつの足元にいる犬も、シベリアンハスキーではなかった。今のスティーブンにふさわしい、凶猛な大型猟犬のドーベルマンだ。真っ黒なそいつは、らんらんと緑と青のまじった眼光で、明津たちを見つめ、恐ろしいうなり声を上げながら、白人男の足元を右に左にいったり来たりする。
白人男は、にたりと笑って告げた。
「別れた男の夢をみせてやったのに、こわすとは無粋だね」
男のてのひらに、また赤い光の球がまたたき、シュッと音をたてながら、マッコールめがけて飛んだ。
明津は、その殺人光球に、意識を集中させた。マッコールの肉体を直撃する直前に、進路をねじまげる。
彼の瞬間的な念動力にはじかれた光の球は、手近の壁にぶつかって、ぽつんと穴を開けて吸い込まれた。次の瞬間、パンッと音をたてて、穴のあいた場所が、白煙をあげて爆発した。コンクリート片をまき散らし、壁にてのひらがすっぽり入るすりばち型の穴が開く。
勝ち誇った白人男は、もがいて逃れようとする由利香のふり乱した髪をかきわけ、汗ばんだ真っ白ななめまかしい首筋に、音をたててキスを浴びせる。もちろん、その殺意の光を放つ眼だけは、こっちを凝視している。
「ユリカ、おまえはいい女だ。殺す前に、楽しもう」
「放してっ、人殺しっ」
病室に向かい、泣きもだえながら必死で叫ぶ。
「逃げてっ、とうさんっ」
スティーブンは、もがいて悲鳴をあげ、泣き叫ぶ由利香を人質にひきずって動きだした。清香の死体と、血の海をはう赤子をまたいで病室に入る。
追いかけようとしたが、ドーベルマンが腹まで響く吠え声をあげて、襲いかかってきた。同時に、病室から、パンッという死の音が聞こえた。「とうさんっ」という天日の絶叫が空気を引き裂く。首をふきとばされた祖母に抱かれた、血染めの赤ん坊が、はいはいしながら、さらに激しく泣きだした。
もうひとつ、パンッと破裂音が近くで鳴った。飛びかかってきたドーベルマンが、空中で首から血をふき、横ざまにふっとんで壁にたたきつけられた。血の跡を壁にひきずりながら、四肢をふるわせてあがく。
マッコールが、伏せたまま小型の自動拳銃を握っていた。今の破裂音は、マッコールの銃声だった。ドーベルマンは、首から血を流して、よろめきながら起き上がる。マッコールは、そのまま犬の心臓と頭に一発ずつ射ちこむ。至近距離からではひとたまりもない。犬は即死した。
その犬は、死とともに、犬ではない正体をあらわにした。そいつは、ちょうどドーベルマンほどの体格しかない、黒髪のラテン系外国人の男だった。口に鋭い肉食獣の牙を生やした入れ歯をし、両手の指には金属の熊手状の鉤爪をはめている。この子供のような背恰好の男が、犬の幻覚を見せ、その上、天日の飼い犬のまねまでしていたのだ。
明津は、足首のホルスターから、自動拳銃のHK(ヘッケラー&コック)-P7を抜き出した。マッコールが、拳銃片手に泣く赤ん坊を抱き上げる。足元が血ですべらないように気をつけながら、病室に腰をかがめて飛び込んだ。
病室に入ったとたん、ベッドのかたわらに、由利香の父親が倒れていた。胸にあいた大きな破裂孔から、大量の鮮血が泉のようにあふれ出している。胸の上に血のラフレシアが咲いていた。ひとめで心臓ごとやられて即死したのがわかる。
その死体を見下ろすように、スティーブンが由利香をはがいじめにしたまま、てのひらを向ける。また赤い光がちらちらしはじめた。
「来るな、この女を殺すぞ」
明津は、鼻でせせら笑った。
「はじめから、助けるつもりなんかないだろ」
スティーブンはてのひらを、油断なくこちらに向けたまま宣言する。
「“メデューサ”は、もらっていく」
ベッドのかたわらの引き出し式の投薬台の天板の上に、処方用のトレイが乗っている。あの肝臓病治療用のパックがあった。それを片手でつかみながら、由利香にかみつくように吼えた。
「改良型原液はどこだ。あれをよこせ」
由利香は、顔じゅうを涙でぬらし、なかば意識を失いかけて、ぐったりしていたが、もうろうとしながらもつぶやいていた。
「だれが、人殺し、人殺しなんかに……」
「あれをずっと待っていた。それさえあれば、もう用はない」
明津は、のどの奥からうなり声をあげた。
「未完成品なのに、いるってのか」
スティーブンは薄笑いを浮かべる。
「ある程度までできればいい。今までじっと待っていた。おまえらのような、余計なものが、くっついてきたが、やむをえない」
明津とマッコールは、二人同時に銃口を向けて命じた。
「女を放せ。スティーブン」
白人男は、息をはずませて笑った。
「本物のスティーブンくんは、ウィーンと東京の間のどこかで、今ごろ死体になっている」
嗚咽する由利香が、ぎょっとして身を固くし、のけぞった。
「じゃあ、いったい……」
明津は、静かに告げた。
「ほんものの、スパイ兼テロリストというわけだ」
マッコールが、泣き続ける赤ん坊を片腕で抱きながら、にがそうにつぶやく。
「本物が日本に来る前に、入れ替わったのさ」
明津は、拳銃を右手でかまえたまま、左の袖口にしこんだ細身のペーパーナイフを、しずかに振りだし、てのひらにおさめた。
金属探知機にひっかからない、ナイフ投げに適当な重さをもつ、セラミック製の特注ペーパーナイフだ。手のひらの中に、すっぽりおさまる長さと細さのそれを、左手でも自由にあつかえるよう、十分なトレーニングを積んでいる。
ペーパーナイフというのは見かけだけだ。戦闘の補助用として十分な切れ味と実用性を持たせてある。実際は、ごく薄い鞘に包まれているが、それをはずせば、ペーパーナイフ型の細身の短剣になる。木の厚板など、数枚重ねで簡単に貫通できる。
由利香が、激しくもがき、白人男の手から逃れようとする。彼女の上体が前に折れた瞬間、明津はがらあきになった敵の胸めがけ、弾丸を二発、連続発射した。その直後、左手でナイフを投げつける。
4
敵のてのひらが、シュッという音ともに、また赤く光った。明津の放ったふたつの弾丸が、はじかれて天井の夜間灯を粉砕した。部屋はたちまち真っ暗になった。
敵のうめき声が聞こえた。顔をおさえてよろめく。由利香が、そのすきに白人男の腕をふりほどいて逃れる。
血でよごれた白衣を着たまま、由利香はマッコールに駆けより、その手から赤ん坊をひったくった。
廊下からもれる夜間灯の光めがけて、由利香は駆けだす。明津たちも病室からとびだす。よろよろと、偽物のスティーブンも、顔をおさえて出てくる。
白人男の右目には、明津の放ったナイフがつきささっていた。激痛に小刻みにふるえるナイフが、グロテスクな前衛彫刻のように、敵の顔から飛び出している。
その握りを、白人男はつかみ、一気にひきぬいて投げ捨てた。貫かれた眼球から血を流しながら、獣じみたうめき声をあげる。
そのとき、明津は全身をいきなり、眼に見えない巨人の手でつかまれた。窒息して呼吸ができない。すさまじい圧搾の力だった。眼前の白人男のものではない、別の“力”が襲いかかったのだ。
マッコールも、呪縛されて動けなくなっていた。銃把を固く握っていた指が、眼に見えない力で一本一本むりに広げられ、自動拳銃が床にがちりと落ちた。しかも、窒息している。白目をむきながら、浅黒いのどを、両手でかきむしっている。
明津の拳銃を握った右手も、見えない力におさえこまれ、まったく上にあがらない。
三人目の敵がいるのだ。そいつが、不意をついて、念動力による攻撃をしかけてきている。息ができないため、耳元で血の逆流する音が聞こえる。なんとか、この念動呪縛をとかねばならない。
二人を呪縛するために、敵も相当の思念力を使っているはずだ。ひとりを呪縛するだけでも大変だ。二人となれば、かなりの無理をしなければならない。
窒息の苦しみにもだえる明津の視界の中で、わが子を抱いた天日由利香に、偽スティーブンが迫る。
「こないで……」
恐怖のためか、由利香は駆けだすこともできずに、壁に背中をおしつけたままあとずさりする。
「どこだ、渡せ。“メデューサ”を」
てのひらを向けるスティーブンの前で、由利香は涙と血によごれた顔に、突然、悲壮な決意の表情を浮かべた。追いつめられた優美な生き物の顔だ。そのしなやかな手が、血のしぶきをあびて赤黒くなった白衣のポケットに、すっと入った。
ポケットから抜き出した手には、一本の細い注射器が握られていた。針カバーのついたシリンダーには、琥珀色の液体が入っているのが、夜間灯の光でわかった。
由利香は、うらめしさと恐怖にすすり泣きながら、わが子をひしと抱きしめた。
「この子は、殺させないわ。“メデューサ”も、わたさない」
白人男は、片目にぎょっとした表情を浮かべた。
「まさか……」
由利香は、赤く晴れた眼に、決死の覚悟の光をたたえて告げた。
「そうよ、改良型原液……」
そういうや、針カバーをはずし、やにわに注射器を、自分のまっしろな首筋に突きたてた。
「うっ……あっ……」
前かがみになり、固く眼をつむって、注射の苦痛に耐える。由利香の指は、注射器のピストンを押し、琥珀の液体を、自分の体内に注入していった。
注射器が空になるとそのまま投げ捨て、由利香はわが子を抱きしめながら、くるりと背中を向けた。うすぐらい血の臭いのたちこめる廊下を、よろよろと駆け出す。
白人男が、憤怒に燃える眼で、逃げる由利香の背中を見つめた。
「許さん、“メデューサ”を……持ち逃げする気か」
敵のてのひらに、死の赤光の球が光った。その光球は、シュッという音と同時に、逃げる由利香の背中に吸いこまれた。
パンッという音がした。由利香の背中の真ん中が破裂し、真紅の花が咲いた。女は、その瞬間、ぎくんと背をそりかえらせた。みぞおちの裏側あたりから、血がとめどなく噴き出して廊下にふりまかれる。
女は、ぐううっと、うめきとも悶えともつかない声をあげ、そりかえったまま立ち止まった。ぐらりとよろめきつつ、体をこちらに向ける。美しい顔は、激痛と衝撃でゆがみ、
口と鼻孔から、がふっと大量の血を吐いた。鼻の下から胸まで、おびただしい吐血の滝で
黒々とぬれる。
抱いている赤ン坊の体のまんなかにも、血を噴き出す大きな孔があいていた。幼い口か
ら、血を吐き出し、弱々しく泣く。が、すぐにその泣き声は、血のあぶくを吐く、咳の音
に変わった。敵の念動弾は、親子の肉体を貫き、致命傷を与えたのだ。
「……なお……と……」
由利香は、血を吐いてぐったりした息子の顔を見つめ、死の慟哭にあえぐ。
柔らかな髪の毛の生えた赤ン坊の頭を抱きしめながら、彼女の眼に、血のまじった涙が
流れてあふれだした。
「なぜ……」
悲愴さと無念さ、信じられないといいたげな苦悩をこめて、由利香は白人男を見つめた。
血まみれの唇とあごが、最後の言葉をよわよわしくつぶやいた。
「なぜ、こんな目に……」
息子を抱きしめたまま、由利香は膝を折って、自分と息子の流した血の中に倒れ、そし
て動かなくなった。
呪縛の念動を破ろうと苦闘する明津たちを尻目に、片目をなくした白人男は、由利香の
死体を足でけった。彼女の白衣のポケットに手をつっこんでかきさぐる。
すぐに、親指ほどの小さな注射液の瓶を、ふたつとりだした。それを握りしめて立ち上
がり、動けない二人にふりかえった。
「これで目的は達した。あとは証拠を消すだけだ」
白人男は、のどをかきむしって苦しむ明津たちに、皮肉っぽい笑いを浮かべた。
「おまえらも、うわさほどじゃなかった。薬も、女も、自分も、守れなかった」
どこに三人目の敵がいるのか、つかめなかった。このフロアのどこかだと、明津の本能
が教えていた。病室で戦っている間に、別の階から昇ってきた可能性がある。
せめて拳銃だけでも動かせれば牽制できる。明津は、自分を圧搾する目に見えない“力”をおしのけようと、何度目かの脱出をこころみた。
そのとき、明津の脳髄に、マッコールのものではない、他者の思念が通過した。彼らを
襲っている念動力の持ち主のものだった。ふつうなら傍受できない思念通信が、同じ人間
の念動の磁場を通じ、こちらにもノイズとして伝わってきたのだ。
(隊長、すでに予定時間が過ぎています。こちらの攻撃も限界です)
白人男が、一瞬、信じられないという表情になってどなった。
(ばかものっ! まだ終わっていない)
明津は、そのときを逃さなかった。今の思念の持ち主に向かって意識をこらし、念動の衝撃波を飛ばした。致命傷にはほど遠いが、少しの時間だけ戦闘不能にさせるだけの、確実な手応えがあった。
敵の念動の呪縛が、即座に解けた。明津は、とびかかって銃口を偽スティーブンの頭につきつきけた。
「まぬけな部下もいたもんだな」
マッコールも、銃をひろいあげ、狙いをつけた。浅黒い顔に、剽悍な笑いを浮かべる。
「二対一だぜ、隊長さんよ。あんたの“クラッカー”と、こっちの弾丸とどっちが早いかな。一回に一発しか、発射できないだろ」
明津は、動けない白人男のポケットをまさぐり、やつのスーツのポケットから、“メデューサ”の注射薬の瓶を取り戻した。手帳や財布、ハンカチなども、どうせろくな証拠にはなるまいが、すべて自分のポケットに移した。
「さて、隊長さん。武装解除しようじゃないか」
明津は、静かに笑いかけた。
「最高の武装解除の方法はなにか、知ってるかい」
手にした拳銃の銃口を、白人の汗にぬれたこめかみに、ごりごりと押しつける。
「それはな、殺すってことだ」
引き金をひいて、やつのこめかみを撃ち抜こうとしたとき、突然、廊下の夜間灯と非常口の灯火が、パリパリと音をたててすべて砕けちった。あたりは、瞬時に闇に包まれた。頭上から降る蛍光灯のガラス片を避けてとびのくと、その一瞬のすきに、偽スティーブンが明津を突きのけ、駆けだした。
5
闇の中で、無事な灯火は、火災報知機の真っ赤なランプだけだった。
駆けだして体勢を整えようとする偽スティーブンが、天日由利香の死体につまずいてよろめいた。
そのとき、明津は、由利香の死体に、信じられない異変が起こっているのを見た。漆黒の闇の中、真っ赤な報知機のランプのもと、彼女の全身がぼおっと輝きだした。青白く燃える炎のような燐光に包まれているのだ。
明津もマッコールも、驚愕にわれを忘れた。死んだはずの由利香の体が、びくびくと痙攣(けいれん)しはじめた。どこから発しているかわからない、木がねじれてこすれあうような、ギッ、ギッという音とともに、彼女の手足が動きだした。のろのろと、血のりで汚れた廊下に、両手をついて四つんばいになる。
死者は、今、確実によみがえりつつあった。まとめていた髪がほどけて、顔の両側を覆う。女は、ぐはっと、激しい嘔吐の音とともに、口から固まりかけた血塊を、ぼとぼとと吐き出す。
復活した呼吸音は、溺死しかけた者が、空気をむさぼるように、激しく深かった。
ぜいぜいと、荒くにごった息をつきながら、よつんばいになった女の体がふるえながらそりかえる。
何かとてつもないことが、女の体の中で起こっている。それは、“メデューサ”による激しく爆発的な、生理反応にちがいない。闇の底で青い燐光に包まれた女のからだが、大きくふくれあがった。静まりかえった闇の中に、ビッ、ビッと布地の裂ける音が響きわたる。
青く底深い鬼火に包まれた由利香の全身が、膨張現象を起こして白衣の縫い目をほころびさせている音だ。復活した女の深奥からわき出る苦悶の声とともに、その爪が、みずから流した血にあふれる床をかきむしる。
「……あ、つ、い……くるしい……」
驚きに足のとまった偽スティーブンの足首を、生き返った由利香の青い鬼火に燃え上がる手が、ふるえながらつかんだ。白人男の片目の顔に、激しい恐怖の色が浮かんだ。
「……くも……」
つぶやきとも呪詛ともつかない、深淵からもれる女の底深い声だった。
「……よくも、わたしの子を……」
その言葉とともに、青い燐光は薄れ、体の膨張現象がおさまった。もとの体型にもどった由利香は、こちらにふりむくことなく、よつんばいのまま偽スティーブンの足首をつかんで、いきなり引き倒した。
普通の人間の体力では不可能なわざだった。よつんばいでつかむ手の力よりも、立って逃れようとする人間の脚力の方が、通常はるかにまさっているからだ。
うめき声とおさえた驚きの声を発し、偽スティーブンが片目を見開く。
「はなせっ、はなすのだっ」
つかまれた足をけり放そうと、もう一方の足で、生き返った由利香の頭を、靴のかかとで、容赦なくけりつける。男の渾身の力をこめた靴底で、ゴッゴッと、女の頭蓋骨が鳴る。
普通の人間なら、今のけりの衝撃と激痛で、首をいためて放すはずだ。だが、女の血によごれた赤黒いてのひらは、白人男の頑健な足首をつかんで放さない。はるかに体力があるはずの偽スティーブンの足首も、女の手指をほどくことは不可能だった。はめたら外れない鉄の足輪さながらだ。
白人男は、眼前で死人が生き返るという現象に、激しい衝撃を受けていた。心理的に圧倒され、攻撃力が弱まったのがあらわだ。まさに、墓場からよみがえった死体に、足をつかまれたような気持ちだろう。得意の“クラッカー”の赤い光球を爆発させる集中力さえ、失われていた。
白人男は、体をねじまげながら右手のてのひらを向けて、ようやく念動弾を発射しようとした。だが、よつんばいの由利香の方が動きがはやかった。
足首をものすごい速さでひきよせ、自分の体の下に、白人男の体をひきずりこむ。同時におおいかぶさって、片手で男の右手をおさえこんだ。しなやかなその動きと速度は、もはや人間わざではなかった。野獣が、獲物をすばやくおさえこんだ。
もがく男のスーツが、床に流れた由利香の血で、たちまち赤黒く汚れた。
激しくあえぐ由利香が、顔にかかった長い髪の間から、今にも喉笛に噛みつきそうな、青白い悽愴な形相を見せてうなった。
「なぜ……なぜ、ころした。わたしの、子を、親を……」
「ばかなっ、死にぞこないがっ……」
由利香は、汗まみれで、狂的な野獣の精気を放っていた。血の匂いのする荒い息の下から、呪いをこめた声を放つ。
「欲しかったのだろう? “メデューサ”が……」
瞳孔が大きく見える青白い微光を放つ眼が、男を見つめる。せわしい息の下から、苦しげにささやいた。
「見せてやろう。おまえの欲しがったものが、なにか……」
男の右手を封じた彼女は、手首を握ったこぶしに、ぎゅっと力を入れた。スポンジを握りしめたも同然だ。メキリと音がし、ボキッという鈍い音が重なった。ものすごい握力の証拠だ。骨がつぶれて折れ砕ける音だった。
「ぐああっ、うああっ」
白人男が、手首を骨ごと握りつぶされた激痛に悲鳴をあげた。由利香は片手で、その口をおさえて声が出るのをふせいだ。
「静かになさい。この程度のことで、悲鳴をあげられちゃ、困るわ」
由利香が手をはなすと、男は激痛にもがきながら、唾の泡をちらしておめく。
「お、おまえの子も親も、“メデューサ”を使って生き返らせばいいっ!」
「改良型は、あれしかなかったの……」
そう答えながら、今度は、男の右足首を握った手に、圧搾の力をこめた。今度はゴキリ、、バキリとこもった嫌な音が響いた。足首の関節がはずれ、砕けて折れた音だ。大のおとなの足首を、骨ごと握りつぶす握力は、想像を越えていた。
男が眼から涙を流し、裂けんばかりに口を開いて絶叫をあげようとする。その口を、ふたたび由利香の血まみれの手がふさいだ。
「うるさい男ね」
由利香の荒い息づかいが静まりつつあった。かわりに、女の声が冷たく、固く、凍りついてゆくのがわかる。
女は、死刑宣告のように、手首と足首を折り砕かれた激痛に、女の手の下でおめく男に告げた。
「“メデューサ”はね、生きてるうちか、死後30分以内に、射たなければ、生き返れないの……」
男の右足首と右手首は、もがくたびにぶらぶらと、そこだけ軟体動物のように血の海の上で転がった。
第三の敵のために、拳銃をかまえながら警戒する明津たちを尻目に、由利香は獲物をなぶる女豹のように、冷酷そのものの表情で男の顔を見つめた。
「痛がる資格なんか、ないのよ。おまえは、殺した……私の大切な子供を……親を……。どんな罰を受けるべきかしら……」
由利香の声にも表情にも、死ぬ前までの優しさやけなげさは、ひとかけらも残ってはいなかった。ひたすら、冷酷で深刻な憎悪と復讐心の放出があるばかりだ。
激痛におめいて逃れようとする白人男を、由利香は一瞬も一ミリたりとも、放す気になれないらしかった。
砕けた右足首のさらに上、ふくらはぎの部分をつかみながら、女はゆっくりと立ちあがった。
女がふくらはぎを握った瞬間、男がふたたび悲鳴をあげた。もちろん、由利香はすばやく口をふさいだ。そいつのつかまれた足を見て、さすがの明津もぞっとした。
女の白く長い指が、ズボンを貫通し、ふくらはぎの筋肉に、ふかぶかと突き刺さっている。その証拠に、女の指の第二関節まで、ズボンの中にめりこんでしまっている。そこから血があふれてくる。
粘土に指をつっこむたやすさだった。由利香の指は、男のふくらはぎの皮膚をやぶり、第二関節まで筋肉繊維のただ中に、ずぶりとつきささっている。
なおも悲鳴をあげようとする男の口を、由利香はふさいでいた。その化粧気のうせた、血の跡を残す唇に、笑みとも嘲りともつかない表情が浮かんだ。眼だけは、呪詛と憎悪をたたえて狂的に輝いている。
「静かになさい」
そうつぶやくと、由利香はかためた左手の拳を、白人男の開いた口のまんなかに、素早くまともにたたきこんだ。ゴギッと音がして、男の口は、一瞬にして真っ赤につぶれてしまった。すぐに抜き出した由利香の拳も血まみれになった。手の甲や指の根元に、白人男の折れた歯が、何本もささっていた。
そのまま、由利香は歯のささった拳で、男の顔面をむぞうさに激しく、何度も殴った。顔面の骨を打撃する音が、ゴキリゴキリと響きわたる。男の顔はみるみる真っ赤になってふくれあがる。
ぐぼっ、げほっという咳と嘔吐の声が、男ののどからもれた。由利香はまるで痛みを感じない様子で、男のふくらはぎに五本の指をつきさしたまま、深い怨念のこもった声で告げた。
「どう? 自分の血の味は」
その声には、冷酷でありながら、復讐者を果たすものの愉悦があった。
天日由利香の性格は、たしかに一変していた。
白人男は、歯を折られ舌も裂け、口じゅうを血まみれにしていた。顔面が内出血で腫れあがり、口にあふれる血と裂傷のせいで、もはやろくな言葉がきけなかった。
由利香は、男のふくらはぎをつかんだまま、ゆっくりと立ち上がった。鋭く冷たい精気のほとばしる眼で、砂袋のようにぐったりしている白人男を見下ろす。ふくらはぎから、指をひきぬき、真っ赤に汚れた指先で、まだ無事な方の男の足首をつかみなおした。
彼女は、背筋をのばして昂然と立ち上がった。背の高い白人男の全身を、足首をつかんで、片腕でむぞうさにつり上げた。ひとりの若い女が、腕一本で、大の白人の男を、空中に高々とぶら下げてしまったのだ。
男は、射殺された狐さながらに、ぶらりと頭を下にして、虚空を揺れていた。裂けてはぜた口から、おめき声をあげているが、それは無意識のうちに発するうわごと同然だった。
6
マッコールは、激変を遂げた天日由利香を見つめ、おぞけをふるったように首を横にふった。
「なんてえこった……人間わざじゃねえ」
たしかに、彼女が生き返ったことからして、なにもかもが人間ばなれしていた。
だが、驚愕と動揺に心をゆだねるわけにはいかない。まだ敵がいる。明津は、わざと平然とうそぶいた。
「あいつは、彼女の獲物だ。好きにさせるさ」
冷たく凍った青白い美貌の由利香は、足首をつかんだ男をぶらさげながら、壁際にゆっくりと近づいていった。
女は、男の全身を片腕だけで、ぶんとふりまわした。次の瞬間、鞭をうちつけるのに似た、激しい打撃音がした。壁に激しくうちつけられたのは、鞭ではなく、生きた男の肉体そのものだった。壁に一度、廊下に一度ずつ、鞭がわりに思いきりたたきつける。ビシッ、ベキッと肉体組織のつぶれる音が響く。
骨がくだけ肉がつぶれ、内臓が破裂する。たたきつけられるたびに、男の全身から血と折れた骨と内臓が、破裂した皮膚から飛び出した。壁と床に、男の吹き出した血と肉と内臓で、赤黒い人の形をした跡がついてゆく。
男はついに、砕けた骨肉と内臓がざくざくにつまった、人の形をした血の皮袋になって、廊下の真ん中に投げ捨てられた。もはやぴくりとも動かなかった。頭蓋骨も陥没して割れ、脳髄が崩れた灰色の豆腐のようにこぼれて、顔を汚していた。薄く白目をむいたその顔には、もはや生の痕跡はかけらもなかった。
白人男が、息絶えると同時に、フロアの奥に敵の気配が動いた。
明津は、マッコールにつぶやいた。
「ちっ、やつら、なかなか出てきやがらねえ。様子をみてやがる」
「やだねえ、仲間を見殺しにして、“メデューサ”の効き目を見たっての?」
「やつらは、いつもそうだろ」
明津たちは、腰を低くして、策敵の思念の網をはりながら、じりじりと壁ぎわを、奥へと移動する。
かたわらに、血だらけの白衣をつけた天日由利香が、ゆっくりと歩いてきた。両足とも裸足だった。ストッキングはとうに破れ、血でかたどった足跡が、背後の廊下に点々とついている。
女は、今の人殺しに、何の罪の意識も感じていなかった。当然のことをしたといった平静さがあった。声をかけるのが、はばかられるほど、得体の知れない静けさをたたえていた。
女は、明津の側で止まり、棒を飲んだように廊下の真ん中に立って、奥を凝視していた。
まだかすかに青い燐光を帯びた天日由利香の、漆黒の髪の間からのぞく横顔が、低くしっかりした声でたずねた。
「まだ、敵はいる?」
明津は、女の真意をはかりかねたが、思わず答えていた。
「ああ、あと二、三人はいるかもな」
横顔を向けたまま、由利香はかすかにうなずいた。
「なら、殺さなくちゃね。尚人も父も母も、殺されたのだから」
冷静な口ぶりが、かえって憎悪の深刻さをうかがわせる。
彼女は、明津たちに顔も向けずに、火災報知機の赤色灯火がともるだけの、闇の廊下を駆けだした。
それは、想像を越える猛然たるダッシュだった。天日由利香のプロフィールに、短距離走の選手だったという経歴はなかったはずだ。学生時代に陸上部にいたという事実もない。
ストップ・ウォッチがないから計れないが、まちがいなく短距離選手の俊敏さと速度だった。あっというまに、音のない裸足の疾走で、黒髪をなびかせて奥まで疾駆する。
だが、警備員の死体の転がるエレベーターホールの直前で、彼女の猛烈なダッシュは止まった。正確にいえば、眼に見えない壁にぶつかり、車にはねられた通行人さながらに、空中高くはじきとばされたのだ。
勢いあまった由利香は、そのまま十メートルもはねとばされ、放物線をえがいて廊下の上に背中から落ちた。
衝突と落下の打撃は、普通なら大怪我をして気絶するところだが、由利香は赤色灯の光のもと、むっくりと起き上がった。
何もないはずの空中で、なぜ由利香ははねとばされたのか。
明津は、そこに新しい念動の“力場”が生じているのを感じとっていた。敵の一味がよく使う防御フィールドのようなものだ。いわば念動の「楯」だった。こいつを貫通できるのは、より強い念動の「槍」しかない。
明津とマッコールは、起き上がる由利香のもとへ、足音をしのばせて接近する。
彼女は、明津たちを見なかった。ただ、膝立になりながら、敵の念動の見えない楯の向こうにいる敵の影を、血のこびりついた指で黙ってさししめした。
そこには、ふたつの影があった。背の高い男と、もうひとりはシルエットから女とわかる。両方とも、やはり白人らしい。暗闇なので、細かいところまではわからない。男の方が、肩口から二の腕にかけて、自分の手でおさえているところを見ると、けがをしているらしい。
マッコールが、にやっと笑って、明津に小さくつぶやいた。
「あいつの肩、やったの、おまえだろ」
「お仕置きだ。人をしめあげて、窒息させるからだ」
由利香が“メデューサ”を射つ直前、念動力で明津たちの動きを封じたのが、肩をいためた眼前の敵のひとりだろう。そいつに反撃して手応えはあった。ちょうど肩や腕の骨折を起こすていどのお返しだった。
明津は、ちっと舌打ちした。
「けっこう、ガードが固そうだぜ」
マッコールは、はうほど姿勢を低くして先をゆきながら、ふりかえる。
「さっさと、ぶちやぶってほしいね」
そういいながら、念動の不可視の楯の前に立っている由利香の背中を見やる。
「あのお嬢さんが、やられないうちによ」
明津は、喉の奥から苦いものがこみあげそうになりながら、唇をゆがめた。
「やられる? 一度、死んだ女だぜ」
明津たちの接近を気にしたのか、敵にふいに動きが生じた。念動の楯が後退し、肩をおさえた男の方が、負傷者にしては意外なすばやさで由利香に近づく。そこで、やっと相手の姿がわかってきた。くすんだ金色の髪を短く刈った若い男だった。頑強そうな体格をしている。
由利香は、そいつにつかみかかろうと、怒った鷲が翼を広げるように、両腕をふり上げて、指をまむしにかまえた。そのとき、近づく男の眼が、きらっと黄色っぽく光った。
猛禽さながらに、床をけって飛びかかろうとした由利香の体が、とたんに動きをとめた。片足を踏み出した姿勢で、ストップモーションがかかる。
敵の念動にやられたのが、すぐにわかった。肩をおさえた男は、由利香の体を楯にして接近した。拳銃では攻撃ができない。
男は片手を、すばやく自分の腰のベルトにのばし、小さな銀色に光る円筒形のものを取り出す。明津は、眼をみはった。それは、ステンレス製の保護カバーのついた小型の注射器だったからだ。動けない由利香の汗と血でよごれた首筋に、そいつは注射器をつきたて、ピストンを持ち上げた。シリンダーの中に、由利香の赤い血液が吸い上げられてゆく。
あっという間に、注射器一本分の血をぬきとり、キャップをつけた。男は、凝固した由利香の体を楯がわりに、再び後退した。後退しながら、背後の仲間の女に向かって注射器をほうった。肩まで髪をのばした外人の女は、注射器を両手のてのひらで受け止める。
マッコールが、眉間にしわをよせて、顔をゆがめた。
「はあ、生き血ごと、“メデューサ”持ってくってわけ?」
今度は、明津が念動でやりかえす番だった。こちらを向いたまま、注射器をにぎって後退する男の腹に、念動のパンチをたたきこむ。
男が、はぐっと声をあげ、腹をおさえて体をくの字に折った。由利香を縛っていた念動が解ける。とたんに男に襲いかかって、胸ぐらをつかんで、首をしぼり上げる。
明津は男をしめ上げている由利香に叫ぶ。
「おい、殺すな。訊くことがある」
由利香は、表情ひとつ変えずにちらと横目を向けて答えた。
「難しい注文ね。私には、殺す権利があるのよ」
リレーされた注射器を、てのひらの上に載せ、敵の女の青い眼がじっと凝視している。激しい精神集中をおこなっているのが、その瞳孔の光でわかる。てのひらの上で、注射器がこまかく振動し、輪郭がぶれはじめる。
(まずいっ)
女が何をしようとしているか、すぐに悟った。女の頭に狙いをつけ、引き金をしぼった。パンッという破裂音とともに、銃弾は女の右目の眉を撃ち抜いた。女は、あおむけにひっくり返って動かなくなった。
すばやく近づく。顔の半分が血まみれだった。右の眼球は破裂し、眼窩が血の泉になっていた。眉の上で、頭蓋骨ごと砕けた裂け目からも、とめどなく血が噴き出している。後頭部の髪の毛を濡らし、床に広がる血の匂いがあたたかい。青い左眼をかっと見開いて絶命した女の手から、注射器はすでに消えていた。
明津は、拳銃を由利香がしめあげている男に向け、舌打ちしながらマッコールに叫ぶ。
「本部に報告だ。“メデューサ”が敵の手に渡っちまったぞ」
いま射殺した女は、物質転送(アポーツ)の能力の持ち主だったのだ。思念の力で、物体を目的地まで瞬間的に送ることができる。おそらく、どこかあまり遠くない場所で、受取人が待ちかまえているはずだ。いまごろは、“メデューサ”のたっぷりふくまれた天日由利香のなま温かい血の入った注射器を、受領しているだろう。
そして、受け取ったそいつも、アポーツ能力の持ち主で、すぐに別のアポーツの持ち主が待機する場所へ転送するのだ。最終的な届け先がわかっていたとしても、もう明津たちの手では、どうすることもできなかった。
7
由利香の人間ばなれした鋼鉄じみた腕につかまれ、ひとり生き残った男は、口から窒息のあまり泡をふいていた。だが、まだ生きていた。苦悶のあまり、うわずった眼をしているが、死んではいない。
由利香は、拳銃をかまえたままの明津に、冷たい氷の視線を向けた。つりあげた男の爪先が、やっと床につくぐらいに下ろし、呼吸をゆるす。
ぜいぜいと死にそうな吐息で、白人の男はうめき声をあげながら、とっさに自分のふところに手をつっこもうとした。それを、由利香のもう一方の手が、やすやすと捉えた。捉えただけでなく、そのまま手首を骨ごと、ぐしゃりと握りつぶす。
「おごぉお……」
男は、激痛に血走った眼をかっと見開き、くぐもった悲鳴を上げる。
明津は、由利香に男を下ろさせた。床におさえつける。
マッコールが、そいつの頭に手をあてて、直接、心を読み取る。
「ちくしょう、うまく読めない。こいつ、防壁を築いてやがる。よく訓練されてるぜ」
「おいおい、テレパシーのプロなんだろ。こじあけてでも……」
「金庫やぶりみてえに、いうなって。待ってろ、圧力かけてみる」
マッコールの浅黒い額に汗の粒がうかんでくる。眼は鋭く真剣そのものだ。
「ん、見えてきた……。くっ、こいつら、ずいぶん周到な準備を……」
敵の防壁を破って、読み取るマッコールの眼に、いきなり愕然とした表情が浮かんだ。
「……なんだ? 爆弾だとっ?」
そのとき、男の眼がぎらっと、強烈な意志の光に輝いた。とたん、明津たちは、男の放った念動に、十メートルもはねとばされ、壁にたたきつけられ、床に落ちた。眼から紫色のこげくさい火花がとんだ。口の中が切れた。血の味と匂いが鼻の奥まで広がる。気がつくと、自動拳銃が廊下のはじまでふきとんでいた。
右肩と右手首を負傷した男は、明津たちが起き上がるより早く、ナースステーションの方へ駆けてゆく。両手で起き上がりながら、念動でやつの足を止めようとこころみる。
フックで、明津の念動のパンチを受け、横ざまにふっとんだ。壁にたたきつけられ、ずるずると廊下に崩れる。
だが、男は意識を失ってはいなかった。由利香が、はね起きて飛びかかるよりも早く、男は、ふところに手をつっこんだ。その手に、小さな携帯電話のようなものが握られていた。
マッコールが、床の上で頭をかかえながら、悲鳴のようにさけんだ。
「逃げろっ、起爆スイッチだ。三十秒後に爆発する!」
その言葉と同時に、敵は親指で、手にしたスイッチを入れた。
明津は、マッコールとともに、階段に飛び下りた。たった三十秒で、一階まで逃げなければならない。ここを爆破して、生還するのに必要とふんだ時間だ。逃げられないはずはない。こけつまろびつ、階段の踊り場から、踊り場へはねるようにダッシュする。
一階についたとき、頭上からすさまじい爆音と振動がとどろいた。雷鳴を何十倍にもした恐ろしい衝撃と轟音だ。全身の骨をがたがたにして、吐き気をもよおすほどの爆発だった。ものが焼け焦げる異臭と、白煙まじりの爆風が、背中をドンとたたいて、つきころばせた。
建物全体が、崩壊しかねないものすごさだ。床がずんと揺れ、天井がばりばり音をたてた。
床に伏せたまま、天井から衝撃でこわれた破片がふってくるのを避ける。
「…………」
マッコールが、悔しそうに何か叫ぶが聞き取れない。今の爆風と轟音で、鼓膜が破れるか、麻痺してしまったのだろう。
耳が聞こえなくなった場合の発声法と、唇を読む術はこころえている。
「耳をやられた」
と自分の耳をさしながら、口を大きく開く。同時に、思念の会話をおこなう。
(やけに派手にやったな)
と、明津がうなずくと、マッコールも、慎重に立ち上がりながら、服についたほこりやゴミをはらって応じる。
(爆薬しかけて、証拠隠滅しやがった)
爆発の激震の衝撃がまだ体に残っているが、ふらつきそうな足でなんとか立ち上がり、建物から脱出する。
外に出ると、六階建ての建物の四階から上は、ものすごいことになっていた。建物じゅうのガラス窓のほとんどが割れて、地上に散乱していた。五階からは、黒煙と火炎があちこち立ちのぼり、フロア全体がクラッシュして、上から弓なりに真ん中がたわんで崩れ落ち、押しつぶされていた。
四階と六階も道連れで、やはり大きくたわんでつぶれかけ、窓は窓枠ごと消えている。中のあらゆるものが爆風でふっとび、ガラスやコンクリート片、焦げた金属やベッドの断片など、無数のものが、下の駐車場や植え込みや庭に散乱している。黒こげの残骸や、灰色の焼けカス、黒や白の粉状の粉塵が、おびただしくあたりに積もっていた。
明津たちは、駐車場に出たが、足元はガラスとコンクリートの破片がいっぱいで、裸足はもちろん、サンダルばきでも歩くのが危険な状態だった。まだ上から、ガラス片や焦げたものが、異臭を放ちながら落ちてくる。
マッコールが、敵の念動でふっとばされたときに傷つけたのだろう。口のはしから血が流れているのをぬぐいながら、あたりをきょろきょろと見回した。
(あの女、いねえぞ)
てっきり後ろから、ついてきたと思ったのだが、後ろにも側にも、天日由利香の姿はなかった。
明津は、本気とも冗談ともつかない気持ちで答えた。
(あの体力だ。あんがい、先回りしたかもな)
ふりかえると、一台の車が、駐車場に止まっているのが眼についた。爆発した建物の真下にある。ちょうど、ナースステーションの下あたりだ。散乱したガラス片や金属片が降りつもり、ひどく傷ついて穴だらけだった。
そのシルバーの車は、屋根の上に、何か大きな重いものが落下した跡があった。爆発で何かが屋根を直撃したらしく、大きくへこんでつぶれている。フロントガラスも粉々に砕けていた。
その車の下から、血に赤黒く汚れた人間の手が現れた。続いて黒髪の頭、肩、上体、全身だ。ひとりの女が、車の下に隠れていたのだ。血染めでぼろぼろになった白衣の女だ。
彼女は、なにごともなかったかのように、車のそばに立った。どこも怪我していないし、痛い箇所もないらしい。マッコールが、幽霊を見るような眼で、女を見つめた。
明津は、平然としている女に告げた。
「よく、間に合ったな」
女の声は、彼の耳がだめなので、聞こえなかったが、唇の動きがこう語っていた。
『飛び下りたのよ』
明津とマッコールは思わず、爆発炎上している五階を見上げた。
「あそこから?」
女は眉ひとつ変えず、凍りついた冷徹さで応じた。
『そう。これ、手みやげ。いるならあげるわ』
女は、屋根がつぶれた車のシートに片腕をつっこんで、あるものを取り出した。
マッコールが、げっと唇をゆがめて顔をそむけた。
それは、あの爆破スイッチを入れた念動使いの白人の男の生首だった。女は、そいつのくすんだ短い金髪を、つかんでぶら下げていた。
ろう人形のように真っ白で、薄く白眼をあけたまま、口のまわりを血だらけにしている。喉ぼとけのあたりから切断されていた。灰色がかった白い脊椎の折れ口が、神経繊維ごと飛び出し、気管や食道の断片、真っ赤な筋肉繊維も、ぎざぎざした生肉の断面からぶらさがっている。
この女は、三十秒以内に、男にとびかかり、その首をもぎとり、窓から地上まで飛び下り、車の下に隠れたのだ。
明津は、その首をうけとることにした。マッコールの白衣をぬがせ、それで敵の生首を運ぶことにした。さすがのマッコールも、吐きそうな顔つきだ。背中をむけるようにして、首を手ばやくくるんでわきにかかえる。
「こんな土産は、初めてだぜ」
明津は、由利香がクッションがわりに飛び下りた車のボンネットの上の灰を、手で軽くはらいながらきいた。
「しかし、この車、派手につぶしたな」
『いいのよ、持ち主から苦情はこないわ』
「だれの車だ?」
『スティーブンのよ』
そこまでいったとき、天日由利香に異変が生じた。冷たくかわききった視線が、ふっと空中をさまよい、血のこびりついた唇が、あえぐように開いた。いきなり足腰から力がぬけ、壊れた車にとりすがったかと思うと、そのままずるずると崩折れてしまったのだ。
抱き起こすが、意識を失っていた。なぜかはわからないが、気絶している。脈をとるが死んだわけではないようだ。
明津は、由利香の白衣の胸に大きな穴があき、着衣が裂けて乳房が露出しているのを見た。あれだけの負傷をおったはずなのに、傷ひとつない美しい乳房が再生している。
マッコールが、やっかいものを抱えたといいたげに、実に不快そうに悪態をつく。
(ここで死なれちゃ迷惑だぜ。素人が無理すっからだ)
明津は、自分の白衣をぬいで、由利香の首から下をおおった。そのまま両腕で抱き上げながら、マッコールに苦笑してみせる。
(この女が素人? 冗談いうなよ。おれが、本部までつれていく)
明津たちは、生首と気絶した女をかかえながら、自分たちの車のおいてある駐車場まで急いだ。
車に乗りこむ直前、マッコールがドアをあけながら、炎と黒煙を噴き出す建物をみやっていった。
(しかし、派手に燃えてる。あれじゃ、掃除屋はいらねえな)
敵が使ったのはTNT、すなわちプラスチック爆弾だ。爆風と二千度を越える高熱で、すべてが粉砕され、こなごなになったはずだ。明津たちの戦闘の証拠も、敵の遺体も、天日由利香の家族も、瞬時に燃えつき、粉みじんに四散した。
明津は、後ろのシートに横たえた天日由利香にふりかえる。
灰になって消し飛んだのは、この女も同じだ。天日由利香という、一人の女の過去も、粉みじんに砕け散ったのだ。おそらく、二度ともどってはこられないほど、絶望的な遠くまで。
8
ひと仕事の終わった明津は、特破本部の第二応接室のソファに腰をおろし、片目が義眼の高倉本部長の前で、報酬の確認をはじめた。
高倉は、本部長のデスクに、背筋をのばして座っている。明津が応接セットのテーブルの上に置かれたアタッシュケースふたつに、手をかけて開ける音を聞いている。
ひとつのアタッシュケースを開けると、黄金色が眼を射た。99.9%という文字以外は、一切の刻印がない純金のインゴットが、二段重ねでぎっちりと並び、太いベルトでとめてある。インゴットの間には、タバコのパッケージほどの金属の箱があり、それをあけると黒いビロードの小袋が出てきた。
明津は、指紋がつかないように、白い手袋をはめて、その小さな袋の口の紐をゆるめた。静かにてのひらの上に、中身をあける。きらきらと眩しい小粒の宝石が十粒ばかりころげた。ダイヤモンドだ。眼に接眼レンズをはめ、ひとつぶひとつぶ、ピンセットでつまみあげ、カットを確認してから袋に戻す。
「ゴールドとダイヤはOKだ」
接眼レンズをはずし、インゴットとダイヤ入りのアタッシュケースを閉じる。隣のケースをあけると、大判のハトロン封筒で三つ、それぞれ札束が分厚くつまっている。一千万ずつ、ぜんぶで三千万だ。
彼は、高倉に、報酬を受け取るたびにする、おなじみの質問を投げかけた。
「この紙幣、続き番号とか、番号を控えてたりしないだろうな」
答える高倉の言葉も、いつもと同じだった。
「心配は無用だ。きみは犯罪者ではない」
明津は、黄金とダイヤのアタッシュケースだけ持ち上げ、ソファの脇に置いた。紙幣の方のアタッシュケースを閉じながら、高倉につげる
「この三千万は、おれが指定した三つの銀行に、指定した金額通り、振り込んでおいてくれ」
「手配しよう。ごくろうだった」
高倉のものさびた声が、「ところで……」と続けた。
「あの生首の主だが、スウェーデン国籍を持っていた」
「超能力を悪用する国際的犯罪シンジケートだぜ、どこの国籍だろうと、偽造しちまうのは簡単だろが」
「そうではない。今まで判明した敵のメンバーの国籍を考えてみたまえ」
明津は、イギリス、ベルギー、ルクセンブルグ、ポルトガル、オランダ、デンマーク、ノルウェーと、記憶にある限りの国籍を思いうかべた。
「何か共通点を感じないかね」
「どういうことだ?」
「すべて、王家が現存している国のものばかりだ。他に、あってもよさそうなのだが、フランスやイタリア、スイスなどの民主国家はない」
「ロシアをのぞいて、だろ?」
高倉は、いつものようにデスクの上に静かに両手を組み合わせ、少しの沈黙のあと、こう切り出した。
「敵の中枢が、旧ソ連、東欧諸国から流出した超常能力をもった戦闘集団なのは、いうまでもないことだが、なぜ彼らの国籍が、王家の存在する欧州の国々となっているのか。今回の本城パーリアの爆破に使われたプラスチック爆弾は、旧チェコ製の“セムテックス”だったが」
「何がいいてえんだ」
明津はいらだたしさに、テーブルの上を指でトントンとたたいた。
高倉本部長は、明津が返却した自殺用の毒物をしこんだ万年筆をとる。
「敵もまた、雇われているということだ」
万年筆を自分の引き出しへしまい、音をたててしめる。
明津は鼻で笑った。
「やつらの雇い主なぞ、興味ない。おれが、仕事を引き受けて、やつらを片づけるのは、こいつのためさ」
ふたつのアタッシュケースを、手で軽くはじいて続ける。
「やつらが、なんの理由で、どんな思想で活動してるか、そういうコアなこたあ、どうだっていいんだ。大事なのは、一人片づければ、どれだけの報酬になるか。それだけだ。もちろん、あんたは国を守るためというだろうが、おれにとっちゃ、そいつも動機のうちじゃない。ひとつの殺しに、どれだけの金が支払われるかっていう、ビジネスの問題だ」
「それはわかっている。特殊な才能と力をもったプロに、有償で仕事を依頼するのは、当然のことだ」
ドアをノックする音が聞こえた。高倉が、机の内側にあるモニターで、ノックの主を確認し、ドアロック用のリモコンを操作して、ロックをはずした。
「はいりたまえ」というと、一人の若い女が、「失礼します」といいながらコーヒーを運んできた。栗色がかった髪の、いかにもお嬢様といった感じの娘だ。
小柄だが、胸もヒップも大きく、ウェストもくびれて、すばらしいスタイルだ。きらきら輝くふたつの眼が、どことなく猫を思わせて、なかなかキュートだった。膝上二○センチのミニのタイトスカートからのびる、みずみずしい真っ白な二本の脚は、さらにキュートだった。
二十歳そこそこの、その娘は、柳田といった。頭を下げて明津の前にコーヒーを置いた。フローラル系の香水がただよう。
コーヒーを置くとき、つきだした彼女のヒップに、明津は手をのばし、さりげなくなでた。適度な弾力と女性特有の丸みは、なかなかいい触り心地だ。
「んまっ。アクツさん」
きゅっと唇をつぼめて、柳田がにらんだ。
「コーヒーを運んでくれたお礼だぜ」
「セクハラですよ。訴えちゃいますから」
明津は、テーブルの上のアタッシュケースをあけ、まだ封をきらない百万円の札束をひとつとりだした。それをさしだしながら、
「どうだ、これで損害賠償ってことにしてくれないか」
柳田は、ぷっと噴き出した。
「ご冗談ばっかり。お金では、許しませんわ」
「じゃあ、どうやったら許してくれる?」
彼女は、高倉の前にコーヒーを置くと、明津の隣に立ってトレイを抱きながら、耳元に甘くささやいた。
「今度、ふたりきりで、どうやったら念力が使えるようになるか、教えてくださらない?」
「そりゃあ、無理だ。生まれつきなもんだからな」
「んまっ、女に恥をかかせて」
マニキュアがぴかぴか光るこづくりな指が、明津の手から札束をさっととりあげた。
「罰金ですわ」
明津は、ふりかえらず、札束がなくなった手を、あいさつがわりにひらひらとふって見せた。もちろん、たとえウェイトレスがわりでも、この部屋に出入りするからには、彼女も破壊活動にたけた特殊な能力を持っていることはまちがいない。
ドアが閉まる音がして、高倉がふたたびロックをかけた。
明津は、真顔にもどった。
「ところで、おれの質問にも、少し答えてくれ。天日由利香のことだが、いまどうなってる」
「昏睡状態が続いていたが、二日前に意識を回復した。われわれの医療チームが治療と検査にあたっている。きみとマッコールの報告書、カルテを見る限り、彼女は、非常に興味深い」
「だろうな。で、どうするつもりだ?」
「訓練して、われわれのエージェントにできるかどうか、上に働きかけてみる」
明津は、コーヒーを口元まで運びかけて顔をあげた。
「なんだと? “メデューサ”を射ったといっても、素人だぞ」
「だから、訓練するといっている」
明津の脳裏を、ついこの間の悲劇の夜の光景がよぎった。コーヒーを口にふくんで、上目づかいに、高倉に告げた。
「“メデューサ”には、おっかない副作用が、あるらしいじゃないか」
高倉は、義眼の薄く開いた眼に、コーヒーを映しているように見えた。カップに手をのばしてひとくちすすって答える。
「そのことについては調べた。本城パーリアは、極秘で人体実験をおこなっている。三十歳のエイズ患者の男に、“メデューサ”の原液を投与した。エイズはなおったのだが、その男は凶暴化し、医者、看護婦ら三名に重症を負わせて、病院から逃走した」
カップを持ったまま、高倉は淡々と続ける。
「彼は、一週間、ほとんど飲まず食わずで逃げ回り、途中で、チンピラともめて、そいつの手足を素手でもぎとって殺している。結局、それがもとで逮捕されたが、少しも衰弱していなかったということだ。刑務所に収監されて、厳重な監視下に置かれたが、半年後に突然、死亡した」
「老衰で、だろ?」
「正確には、消耗による死だ。肉体を限界まで酷使し、疲労しきって、回復不能な状態におちいる。そのあげくの衰弱死といってよかろう」
明津は、カップをソーサーの上に置いた。コーヒーはたっぷり残っているが、それ以上飲む気になれなかった。
「あの女も、半年後に、そうなるかもしれないんだぜ。それでも、エージェントにするのか」
「敵を一日も早く壊滅させるためだ。 “メデューサ”については、われわれの医療チームでも、すでに研究をすすめはじめた。本城パーリアとも協力すれば、副作用をおさえる方法もみつかるはずだ」
「はずだ……か。で、本人には話したのか」
高倉はポケットから、葉巻をとりだした。セロファンを破り、吸い口を専用のカッターで切り、手元に置いた南部鉄のばかでかい灰皿に捨てた。
葉巻を口にくわえながら、高倉はさりげなく答えた。
「現在、交渉中だ。彼女自身は、敵への報復を望んでいる」
「この前まで素人だった女に、何ができるってんだ。ただの馬鹿力じゃ、役にたたん」
高倉は、葉巻の先にプラチナカラーのシックなライターで火をつけた。口に煙をすいこんで、ゆっくり香りを味わってから吐き出す。
「彼女が、“メデューサ”によって獲得した超人的な体力、耐久力、運動能力は、そのままにしておくには惜しすぎる。訓練によってコントロールを覚えれば、素晴らしいエージェントになる。今までになかったような戦闘能力をもった、比類のない工作員に」
「半年しか使えねえ、使い捨ての工作員かい。おれたちプロなら、バカにされたと思うところだぜ」
高倉は、葉巻を楽しみながら、紫煙のたちのぼる火口(ほくち)で明津を指した。
「彼女は、敵に心底、復讐したがっている。その意志と闘志のレベルはきわめて高い。“メデューサ”によって発現した形質から考えれば、放置すること自体、きわめて危険だ。工作員という活動の場を与えなければ、彼女は自分ひとりででも、敵をみなごろしにしようとするだろう。コントロールできない破壊力と復讐心が、そのまま社会に放たれたら、何人もの市民が巻き添えになる。ただの凶暴な犯罪者で終わらせていいのかね。犯罪を未然にふせぐという意味でも、彼女を工作員にすることは妥当なのだ。この意見は、上部も納得する見解だと思うが」
「上部のことなんか、関係ないさ。とにかく、気に入らないんだ」
本部長の指が、葉巻を灰皿におしつけた。
「忘れてはいけない。彼女が、そう望んでいるのだ。直接、会って確かめるかね?」
明津は、金塊とダイヤのアタッシュケースの把手をつかんで立ち上がる。
「正直いって、あの女とは、かかわり合いになりたくない。それをいいたかっただけだ。さて、おれはこの辺で、おいとまさしてもらうぜ」
9
金塊とダイヤを分散して、複数の銀行の貸し金庫に預けたあと、明津は都内に三つある隠れ家のうちのひとつに向かった。特破本部も知っている新宿のマンションだ。あとの二つは、向こうも知らないか、知っていても黙認している秘密の場所だ。
この前、敵の攻撃で小便もらし女がベッドをダメにした部屋は、すでに引き払っていた。今は渋谷近辺に新しく部屋を借りている。
築二○年の高層マンションの玄関に入る。郵便受けを、爆弾などがしかけられていないかチェックし、山のようなダイレクトメールやチラシのたぐいを、ゴミ箱に捨てる。十階にあがり、自分の部屋のドアの前に立つ。
ドアの上の方に、接着剤で縦に貼りつけている髪の毛は、二週間前に貼ったときのままだ。だれもドアを開けていない。新聞はとっていないので、新聞受けに新聞が無数につっこまれて、不在が明らかになるようなことはない。
3DKの部屋に入る。中は冷蔵庫と小さなテーブルと椅子、テレビにパソコン、ベッドにエアコンしかない。冷凍庫から氷をとりだし、バーボンの薄い水割りをつくる。それをなめながら、テレビをつける。
盗聴器がしかけられていないか、専用の発見器ですみずみまで点検する。しかけられた形跡はない。
腹がすいたので、冷凍しておいた上質の牛肉と、キャベツ、インゲン、ニンジン、グリンピースなど、自分で野菜をゆでたものを解凍する。自然塩と黒胡椒、乾燥パセリで味つけして炒める。
缶詰のホールトマトと乾燥ニンニクスライスをつかって、ミートソースを手早くつくる。スパゲティをゆであげた上に、ハーブ粉末と、スパイスを十分に利かせ、たっぷりとかけてからめる。
バーボンの水割りで、手製のメニューを腹七分目に流しこむ。ビタミンCの錠剤と亜鉛の錠剤を、最後に栄養のおぎないとして飲む。
自分の健康は自分で管理するのが鉄則だ。この業界も「体が資本」だ。
外食ばかりで栄養がかたより、いざというとき耐久力や瞬発力に欠けるようでは、話にならない。ましてや、外に出れば、いつどこで毒をもられるかわからない。満足に手料理もできないようでは、エージェントとして生き延びることはできない。
食事を終えて、ひと眠りしたあと、家具や調度をまったく置いていない、厚いマットをしきつめたフローリングの部屋に入った。
そこには、家具のかわりに、ダンベルや鉄アレイ、バーベル、サンドバッグなどが置いてある。専用の小さなトレーニングルームだった。ベンチプレス台や懸垂台が、壁ぎわで、汗にぬれるのを待っている。
そこで、腕立て伏せや腹筋、背筋をきたえる反復運動からはじめ、一時間ばかり汗を流した。終わった頃には、全身汗みずくだった。シャワーを浴びて、隣のもうひとつの部屋に入る。
今度の部屋は、六畳の和室だった。家具や道具はない。単純な格子模様のカーテンがなければ、引っ越し直前に見えるだろう。窓とカーテンと畳と壁、そして天井の蛍光灯があるだけだ。ほこりひとつない静けさを保っている。
その清潔な静けさこそ、この部屋の存在理由だった。
押入れから、ざぶとんと、積木一セット、ビー玉二十個ばかり、各種硬貨の数十枚をだし、部屋の手前側に置く。
ざぶとんの上に座禅を組み、精神を統一する。
まず、積木を、手を使わずに、いくつかの形に組み立てる念動の訓練をおこなう。作ってはこわし、崩しては別の形に組み立てる。見えるところに置いた時計で時間をはかりながら、くりかえす。
次にビー玉を畳の上に置き、ひとつずつ向こう側へ、手をつかわずに転がす。その数を増やしてゆき、部屋じゅうを重力を無視して自由にかけめぐらせる。崩してちらばった積木のひとつひとつに、狙いをつけてビー玉をぶち当てる。
眼を閉じて五百円玉から一円玉まではいった箱に手をつっこみ、空中に思いきりよく放りなげる。それを、眼底にやきつけた畳と畳のすきまに、すばやく突きたてる訓練を繰り返す。
それが終わると、カーテンの格子縞のひとつひとつに、ビー玉と硬貨を高速念動で発射し、カーテンをつらぬく直前に停止させ、畳の縁に重ねる練習をおこなう。
これらの小さなものでのウォーミングアップを終えると、押入れの下からスポーツバッグをとりだし、そこからボーリングの球を畳の上に置いた。
重いボーリングの球に思念を集中し、念動力で空中に浮かばせる。それを自転させ、窓に向かって飛ばし、ガラスを砕く直前で止める。あとは、ボーリング球を三つ、空中で手をふれずに「お手玉」する練習だ。
仕上げに、洗面器に水をいっぱいに張り、一滴もこぼさずに、部屋の中を行き来させる。わずかな集中力の乱れでも、水が畳の上にこぼれるという寸法だ。
それらの訓練を終える頃には、体じゅうが汗まみれになっていた。
カーテンをあけると、ベランダにはビール瓶が等間隔で三十本ばかり並んでいる。ベランダから侵入者があった場合、ビール瓶の倒れる音でわかるからだ。
ひと通りの室内訓練を終えると、外へ出て新聞や雑誌を買いこんだ。いつもなら、適当な風俗店か、手ごろな女をひっかけにいくのだが、なぜか頭のすみに天日由利香の姿が浮かんで、その気になれなかった。
ふと足の向け先を変え、尾行を警戒しながら本郷まで行った。医学書専門の書店で、“メデューサ”について何かヒントになりそうな本を物色したが、当然のことだが、めぼしいものはない。「不死」は、人類最大の夢だが、既存の医学の上では単なるファンタジーに過ぎない。
だいたい、半年後に消耗死するような薬剤は、薬剤とは呼べない。たとえ、一時的に超人的パワーを与えるとしても、正常な肉体生命を維持する延命効果という意味では、まったくないに等しい。むしろ、異常な活性状態を一定期間、継続したあげく、ある日とつぜん衰弱死するのだから、寿命を縮める毒薬のようなものだ。
珍しく、後味の悪さをひきずりながら、もやもやした気分で帰宅する。
それから、三日間、明津は休息と訓練をかねて、都内の大きな公園で走り込んだ。もちろん、人目につかない場所で、岩や樹木や鳥を相手に、念動力の訓練をすることも忘れない。
室内ではできない、動く対象相手の訓練も大事だ。昼はカラスやドバトを念動で打ち落とし、野良犬や野良猫を呪縛し、夜はコソ泥やチンピラ、暴走族を標的に、石や空き缶で狙撃する。集中力を維持するためにやるべきことは多い。
四日目、海草をふんだんに使ったサラダと、十種類の野菜と具を刻みこんだチャーハンで夕食をとった後、パソコンをたちあげると、「希少金属新聞社」から、海外での仕事の依頼が来ていた。内容はもちろん暗号文だ。一ヵ月近くの長期滞在で、敵の画策する計画をつぶすため、タイまでゆかねばならない。
偽名のパスポートふたつと、必要書類、チケット、武器を、すぐにとりにこいという。滞在費など必要経費は、すでに現地のふたつの銀行に偽名で開いた口座にふりこんである。かなり急ぎの仕事だ。
明津は、データを頭にたたきこむと、メールそのものを削除抹消して部屋を出た。今度もどってくるのは、一ヵ月後だ。
駐車場から車をだしにゆく途中、マンションの玄関から、高層ビルごしに外を見やる。空はいつしか夕闇につつまれ、陰気な小雨がぽつぽつとふりだしている。
そのとき、彼は背後に、ふとかすかな人の声と気配を感じて立ち止まった。それは、どこかで聞いたことのある女のものだった。
まさかと思いながら、ふりむく。ほんの一瞬、ありえないものが、明津の網膜に映った。それは、天日由利香だった。優しい慈母の微笑をたたえて、赤ン坊に乳房をふくませている。一瞬の残像としかいいようのないそれは、すぐに消滅した。
(やれやれ……未練が残ってやがる)
それが、幻覚でないことだけは、経験からわかった。
彼は、ときどき、生きている人の念、すなわち無意識に発している想念が見えるときがある。
天日由利香の母としての無念が、彼のところに姿を表したのだ。だが、彼女には、もう乳を与えるべき子供はいない。現実には、もういない息子を求めているのだ。子をもっとも残酷な方法で失った、母親のうらみと悲しみが、この都会の空を、生霊となって消えずにさまよい漂っている。
明津は、唇をかんだ。死の現場に立ち会った自分に、うらみをこめて、姿を表したのか。だからといって、いったい、何ができるだろう? 天日由利香自身、以前の彼女ではない。元にもどれもしない。
(だから、かかわりあいになりたくないって言ったんだ)
彼は、首を力なくふると、小雨ふる闇とネオンの中へと駆けだした。
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