第2話 メドューサ

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 明津は、東名高速を、静岡県側の富士の裾野にある本城パーリアのバイオ開発研究所に向かっていた。美しさで有名な富士山の稜線が、東京からたまに見える姿よりも、ずっと大きく圧倒的な迫力をもって、車窓の外にそびえていた。

 ハンドルを握るマッコールは、適度にくたびれたスーツを身につけ、ガムをかみながら、何も知らぬげに窓の外に視線をやる。

「へえ、富士山がこんなに近くに見えらあ。青木が原はどっちかな」

「自殺でもしたいのか」

「まさか、ひとつしかない命だぜ」

マッコールは運転しながら肩をすくめ、シルバーの櫛でバックミラーを鏡にして器用に髪を整えた。器用なのは、その仕種だけではなかった。運転もすこぶるうまい。二百キロ以上でとばしながら、次々と車間のつまった先行車両を抜き去っても、退屈そうだった。

 だが、二人とも気をぬいてはいない。いつ、敵が現れてもおかしくなかった。ここで攻撃をゆるめるほど、まぬけな敵ではない。

高速道を降りて、田園のまんなかを北上する国道に入ったとたん、マッコールの表情が、瞬時に変わった。目つきが野獣の鋭さを放つ。底光りする豹の目そっくりだ。あたりにちらと、刃物じみた視線を走らせ、低くつぶやく。

「来やがったぜ」

 マッコールは、つぶやいたきり、速度を落として慎重に運転を進める。敵の存在を感知したのだ。ただでさえ狭いスポーツタイプの車内が、一挙に緊迫して息苦しくなる。彼の遠感能力、つまりテレパシーの力が、敵意の思念を感受しているのだ。運転しながら、五感外の超感覚で索敵し、意識が別世界に半分とんでいるのがわかる。

 明津は、固く前を見たまま、マッコールにいった。

「運転をかわるか」

 ほんの少しの間をおいて、マッコールが低く叱咤した。

「ばかいえ。車をとめてみろ。やられるぞ」

 警戒する獣のうなり声だ。窓の外には、郊外のガソリンスタンドやDIY、安売り量販店がにたてこんでいる。

 後ろから、黒いスポーツカーが、鈍く重いエンジン音をたてて迫っていた。ついさっき、十字路の横あいから飛び出してきたやつだ。マッコールほど強い遠感能力はないが、明津にもその黒いひらべったいスポーツカーが、こっちに意識を向けているのがわかる。

 次の交差点で、信号が赤になった。速度を落とすわけにはいかない。信号を無視する。左右から、激しく長い悲鳴のような驚愕のクラクションをならし、トラックや乗用車が迫り、接触寸前ですりぬけてゆく。

 だが、うしろのスポーツカーも、信号無視で追いすがってきた。みるみる後ろについてくる。ドライバーの顔を、さりげなくバックミラーでうかがう。サングラスをかけた、日本人の若い女だった。助手席には、やはりサングラスをかけた、体つきの大きな白人男が座っている。わかるのは、それだけだ。

 クラクションを悲鳴のように鳴らしながら、マッコールが舌打ちをくりかえす。

 国道を百二十キロ以上の速度で、猛然とふりきろうとするマッコールに、敵の車は遅れもせずにぴったりくっついてくる。敵には、近距離から幻覚を見せる精神波を送る能力者が多くいる。その思念波の射程距離を維持しようとしているのだ。何度も敵が使った手口だ。

 すでにその影響が現れていた。猛速で疾駆する車の窓の外に、断続的に異様な変化が起こっている。

 大型量販店舗が立ち並ぶ国道沿いが、まるで異次元のアブストラクト絵画のように、いきなり鬱蒼とした杉の巨木の林に変わる。瞬間的な幻覚だが、原始の森林と、現代の建物や道路が、交互にモザイクのように空間に切り貼りされる映像は、心臓が止まるほどの異様さだった。

 明津は、シートベルトを無意識のうちにつかみ、送り込まれる幻覚の思念に抵抗する。

「だいじょうぶか」

 マッコールは、にやけた表情をかなぐり捨て、獰猛な闘志に歯をむきだした。

「バカ野郎っ。これが楽しいんじゃねえか。問題ねえよ。いいかっ、幻覚に飲まれそうになったら、やるこたあ、わかってんな」

 急ハンドルで信号を左折し、けたたましいスリップ音とともに車体の尻が大きく流れる。体が惰性で横に倒れて、ベルトがきつく食い込む。

 玉突き衝突や、正面衝突大破の危険を、かろうじてかわしながら、マッコールは決死のハンドルさばきを続けていた。ブレーキとアクセルを素早く微妙に使い分け、ドリフティングし、右に左に交差点ごとに唐突に曲がって走る。

 幻覚を放つ方はいいだろうが、受ける方は大変だった。走っている道路が、脈絡なく砂漠や荒野、岩だらけの高山に変わる。信号機が、瞬間的に林立する岩柱となり、富士山の半分が消えて宇宙空間がいきなりそこに現れたりする。

 幻覚の別世界が、ばらばらのツギハギ状態で出現する。断続的な虫食い状態は、激しいめまいを呼ぶ。幻覚の異次元空間が、ひっきりなしに明滅する。めまぐるしく異様な空間の蚕食ぶりは、訓練を受けていない人間には、発狂ものだ。

 しかも、それらは国道をゆきかう車の騒音さえ、荒野を渡る風や流れる水の音に変えてしまう。

道路の両側から迫る幻覚の巨木の森林と砂漠、荒野が拡大し増殖してゆく。敵は、思念波を二人がかりで増幅しているのだ。整備された国道の路面も、いつしか急流の瀬にかわる。白い波をけたてる川が、瀬音もすさまじく浸食し、ボートに乗って川くだりをしている錯覚に襲われる。

 川くだりといえば、次に来るのは滝だ。そう感じた瞬間、前方にもうもうと水煙をあげる滝の落ち口が、いきなり出現した。大量の水が落下する轟音を発している。このままでは幻覚の滝にのまれる。みるみる迫る滝の実体が、現実世界では何なのか、はかっているひまはない。

 明津は、とっさに自分の左手の甲を口にもっていった。おもきり噛みつく。血が出るほど噛んだ痛みが、赤い稲妻となって脳裏を走り、次の瞬間、現実が見えた。

水面をおおった油の膜が割れて、水底が見えるようなものだった。

 大手都銀の支店の張り出したエントランスが、ひび割れた幻覚の壁の向こうに見えた。銀行の前の街路樹と、信号機が並ぶ十字路が真昼の日差しに、やけに明るかった。分厚いガラスのロビーが、陽光にぎらついている。

自動ドアが開いて、客が出入りしているのがわかる。その客たちの顔が、こちらをいっせいにふりむき、驚愕に目と口を裂けそうなほど開き、叫んでいる。赤ん坊を抱いた若い母親が、恐怖に悲鳴をあげ、体を丸めるようにして逃げ去るのが見えた。

 マッコールも、おのれのほほ骨を左手の拳で激しくうち、返す裏拳で反対側の頬をも打つ。その痛みで、現実世界への割れ目をつくった。

「見えたぜっ」と叫ぶなり、いきなりハンドルを左にきる。次の瞬間、明津はすばやくバックミラーで、背後からつっこんでくる敵の車を確かめた。ドライバーの女と白人男の眼に、意識の照準を合わせる。

急ハンドルの遠心力に、椅子から投げ出されそうになる。シートベルトが肺と腹にくいこんで、息がとまる。サングラスを粉砕する念動力を敵につきさす。

 一瞬間に集中された思念の力が、後方からつっこんでくる敵のフロントガラスを貫いた。敵のサングラスが、粉微塵に砕け、両手で顔をおおうのが見えた。激痛と絶叫の思念が、明津の脳裏に真紅の確かな手応えとして返ってくる。

 鋭い無数の黒いガラスの破片が、敵の二人の眼球につきささり、瞳孔も虹彩も、角膜ごとずたずたにするのがわかった。眼球を切り刻まれて完全に失明し、ハンドル操作は、激痛と闇の混沌のうちに失われた。

時速百二十キロ以上で爆走し、コントロールをなくした敵のスポーツカーは、すさまじい勢いの凶器と化した。歩道の通行人を、何人も高くはねとばし、銀行のエントランスに、まっすぐつっこんでいった。無差別に客をひきつぶしながら、ガラス扉のエントランスに激突して破り、大惨事のクラッシュ音を響かせる。

 微塵に砕けた大量のガラス片が、砕けた波しぶきのように、外にむかって爆裂するのが見えた。ビル全体をゆるがす、ものすごい激突音がとどろいた。続いて、黒煙がぱっとたちのぼって、青空をひとすじ汚すのがわかった。クラッシュして発火したのだ。

明津たちに見えて聞こえたのは、そこまでだった。あとは、バックミラーの中に、急速に遠ざかってゆく。

敵の車は、粉々に砕けた玄関を飛び越え、カウンターまで激走し、銀行の内部をメチャメチャにした。暴走する車体は、何人もの客や行員を犠牲にしたあげく、金庫か壁か、車がそれ以上進めないところで自爆し、ガソリンに引火したのだ。敵ふたりも、失明どころか、命まで失ったはずだ。



都銀に暴走車がつっこんで、善良な市民が巻き添えをくって死んだ。犯人は全身打撲と自動車火災で焼死。マスコミは、そう書くだろう。明津たちの車を目撃した者たちも、証言するだろうが、警察がとりあげて調査することはない。特破本部がからんだ事件の全容と真実が、正しく報道されたことは一度もない。

 今ごろ、特破本部の情報担当係が、眉ひとつ動かさずにマニュアル通りの行動をとっているはずだ。関係各庁やマスコミの裏人脈に向けた、ニセ報道のシナリオを、急いでつくりだしているだろう。

“敵”との戦闘によって生じた事件は、すべてもみ消される。昼の日中に起こった惨事でも、本当の原因と犯人は、情報操作によって、夜よりも深い闇の中へと葬りさられる。

もし、真相を知ろうとする民間人がいるなら、彼もまた闇の中へと消えてゆくことになる。

明津たちは、速度を落とさず、本城パーリアの研究所に向かった。

 しだいに大きく迫る富士山を横目に、マッコールは涼しい顔つきで、無言のまま車を飛ばす。

 だが、その浅黒い顔の奥では、特破本部の通信要員と、定期的に連絡をとっている。彼の生身の脳そのものが通信装置だ。

 彼は、特破本部の思念伝達通信の要員“Tジェント”すなわち「テレパシイ・エージェント」のひとりだからだ。今の事件について、思念によって新しい情報と指令を伝えてくるはずだ。

「本城パーリア」のある地方都市との市境を示す標識が、前方の道路の上方に見えたかと思うと、すぐに市内に入る。人口十万をちょっと越えたぐらいのF市だ。そこの市街から離れた富士山よりの林の中に研究所はある。

 だまりこくっていたマッコールが、市内を避けてまわり道に入ったとき、やっと口をきいた。

「さっきの銀行な。十人死んだとよ。事後処理はいつも通りだぜ」

別の“Tジェント”から、彼に通信があったのだ。口調はさりげないが、眼底がうわずっている。意識が半分とんでいる感じの眼つきだ。テレパシーを受信したときは、いつもこういう感じになる。半トランス状態だ。

テレパシー通信による事故情報を、マッコールの口から聞いても、明津にはなんの感慨もなかった。彼にとって、死者数はただの数にすぎない。その十人の中に赤ン坊がいようと、主婦がいようと、サラリーマンがいようと、任務に支障がなければ、ただのデータだ。

明津は、かすかにうなずいた。

「で、おれたちには、なにか伝えてきたか?」

マッコールは、軽くあごをしゃくって速度をあげた。

「このまま行けとよ・・・・」 十分も走ると、「本城パーリア/バイオ研究所」と書かれたポールつきの看板が、緑の濃くなってきた街道ぞいに現れる。

「きたぜ。美人先生が、おまちかねだ」

 山麓の牧場や野菜畑がひろがるゆるやかなスロープの上に、研究所がたけだかく緑濃い林の奥にあった。白く真新しい大きな建物だ。地上十二階の本棟と六階の付属棟の二棟からなる。現代建築風の、変わった形の建物だ。

 研究所への道はきれいに整備されていた。敷地をぐるりととりまく、ものものしく高いコンクリートの塀をのぞけば、いたってきれいなたたずまいだ。そのコンクリート塀をも覆い隠すように、高い街路樹に囲まれており、遠目からは敷地をとりまく緑のベルトにしか見えない。

マッコールは、街路樹がならぶ、あまり車の通らない広い道路を、研究所の敷地に沿って回り道しながらぐるりと一周する。施設全体の外観を、四方から確認してゆく。

 研究所の門までやってくると速度を落とし、開いたゲートから、守衛所に向かった。守衛所のすぐ向こうには、頑丈なバーの降りたゲートがある。守衛が操作しないと、自動車は入れない。

頑丈なコンクリート製の門柱の間を静かに通りぬけるとき、眼のすみで内側をすばやくとらえる。頑丈な二重の箱型になった鉄柵のゲートが、門柱の内側にひきこまれている。分厚い車輪の構造から、電動式なのがわかる。門柱や、門を見下ろす街灯にも、各種のセンサーがついている。素人眼にはわからない街灯にカムフラージュされた監視装置だ。

 塀に沿って隠しモニターや、各種のセンサーがはりめぐらされている。美しく手入れされた並木や、しゃれた花壇がもうけられ、花が咲き誇っているが、正体はきわめて厳重な監視体制だ。

 一瞬で、それだけのものを見てとる。車は守衛所にゆっくりと進む。前がつかえていた。守衛所の窓口のわきの受付通路に、先客の車がいたのだ。左ハンドルのドライバーが、守衛と押し問答している。

 ドライバーは、美しい女だった。乗っている車もドイツ製で美しかったが、女の美貌に比べれば、とるにたりなかった。マッコールが思わず軽く口笛をふいた。

 明津も思わず眼をすいよせられた。眉間をけわしくして、横顔をみせている美しい女は、資料ファイルで見たあの女だった。化粧した白い顔は、やや日本人ばなれした感じで、整いすぎているといってもいい。

全体にまだ少女っぽさを残している。それが、ともすれば冷たくなりがちな、彼女の美貌の鋭さをやわらげていた。

マッコールが、クラクションを鳴らすかわりに、ハンドルをぽんと拳でたたいた。

「おでましだ。たずねる手間が、はぶけたってもんだ」

窓口で守衛が、身を乗り出すようにして両腕をつきだし、女性のドライバーを制止していた。二人とも、こちらにちらと視線を向けたが、すぐに押し問答に戻る。

 守衛は、五十がらみで、きょとついた顔つきの痩せ男だった。口許にいつも薄笑いを浮かべているような意地の悪そうなタイプだ。

 守衛と美しい女の会話が、開けた窓から聞こえてくる。

「とにかく、天日さん、そりゃ、困りますよ」

「でも、そちらの手違いでしょう?」

 女の声は責めをふくんでいたが、品があってしっかりしていた。口紅をぬった形のいい唇の動きを、マッコールがにやにやしながら見つめている。なるほど、そのすきとおるほど白い喉から出るのは、美貌を裏切らない大人の女のいい声だった。

「しかし、事前に許可をもらいませんとねえ」

答える守衛の声は、かんだかく厭味なものがあった。ふだんは研究所の職員に下手に出ているのだろう。好色さのちらつく目つきで、職員の落ち度をねちねちと責めて、日頃の鬱憤を晴らしている。

「わたしは、ちゃんと申請しました」

 女の美しい澄んだ目が、怒りをはらんでいる。おさえてはいるが、憤然とした口調だった。さらりと流れる漆黒の豊かな黒髪が、つややかに光を帯びている。

明津は、眼でマッコールにうなずき、そのまま車から下り、割って入った。

「通してやればいいだろ、守衛さんよ」


    3


守衛と女が、はっとしてふりかえる。

明津は近づきながら、女の車の中を目のすみでうかがった。助手席にベビーシートがあった。可愛い赤ん坊がひとり乗っている。データにあった通りだ。たしか、生後十カ月のはずだ。

 守衛は露骨に、むっとした顔を向けた。言われる前に、用意しておいた偽装書類と、マッコールと二人分の偽名のIDカードを鼻先につきつける。

 守衛は、怒りと仕事の遂行義務との板ばさみになり、反射的にカードを受け取り、奥にいったんひっこんだ。

 再び、窓口に顔をだしたとき、守衛は別の表情を浮かべていた。不満そうな顔つきだが、そのくせどこか卑屈な、こちらをうかがう犬じみた目になっていた。

 ふりかえると、マッコールが女と明津を交互に見て、唇を軽くゆがめてウィンクする。

 明津は無視して守衛にむきなおった。

「何が気にいらないんだ? 守衛さんよ」

 相手がひるんだところにつけこむ。守衛は、苦いものを飲んだような顔で、女の方を横目で示した。なぜか声を低めて、

「いえね、あの人は、ここの研究員なんですがね」

「そんなこたあ、見りゃわかる。何が問題かって訊いてんだ」

 守衛は少し口ごもり、「お子さんが……」と車を目で示す。

「事前に申請をいただかないと、お子さん連れでは入れない規則に」

 明津は、わざと少し間をおいて、ゆっくり告げた。

「おれたちが、所長の許可を得てやってきたのは、知ってるな。もし、明津たちが、責任をもつといったら、どうする?」

 守衛はかすかに気色ばんだ。

「それと規則は、話が別ですよ、いったいなんの権限で」

 そのとき後ろからマッコールの声が答えた。

「決まってるだろ、客員研究員の権限だ」

 いつのまに車から降りたのか、マッコールがそこに立って、にやついていた。明津たちの会話を“盗聴”していたのだ。

 マッコールは、女に向かって、軽く手をふって見せる。女は怪訝な表情で、あいまいに会釈する。

 しゃあしゃあとした顔で、マッコールは受付窓口にひじをついた。

「つまり、おれたちもここの研究員だから、あとのことはまかせろってこった」

 マッコールの口調はさりげないが、目つきは猛禽さながらに鋭かった。守衛が、鷹に狙われるウサギみたいに、みるみるすくみあがるのが分かった。

「し、しかし、き、規則ですから……」

 明津もマッコールのとなりに立って、さらに視線の圧迫をかけた。わざとらしい猫なで声を出してみせる。

「おれからも、頼んでるんだがなあ……」

 喉にものがつまったように守衛が、目を白黒させはじめた。顔に汗が浮んでくるのが見てとれる。

 明津は、この気の毒な守衛に、少しばかり助け船を出してやった。これ以上、遊んでいる時間はなかった。

「なんなら、所長に直接、きいたらどうだ?」

 守衛は血の気のなくなった顔で、ぎくしゃくとうなずいた。明津たちへの恐れと不審感に心臓をつかまれているのが、ありありとわかる顔で、奥へひっこむ。

 一分もしないうちに、守衛は窓口に戻ってきた。今度は、安堵の表情だった。制帽をとって、ハンカチではげあがった頭の汗をふいている。つくり笑顔で頭を下げた。

「所長の許可、でました。どうぞ」

 明津は、運転席に座ったままの美女を、目で示した。

「あの先生は?」

「も、もちろん、オーケーです。どうぞ、天日さんも、お通りください」

 マッコールが、肩をすくめた。

「調子のいいやつだね」

 美しい女は、不機嫌な固い表情のまま、こちらに頭を下げ、先に車を発進させた。笑顔ではなかったが、印象に残るはなやかさと上品さがあった。この守衛のような男が、本来とおせんぼできる相手ではない。

 明津たちも車にもどり、すぐに女のあとをついてゆく。

 赤ん坊づれの美貌の女は、なめらかなハンドルさばきで、職員駐車場に入っていった。高級車のボディが陽光を反射して、水面におどる美しい魚のようだった。

 マッコールも、駐車場に入り、女の車の隣にぴたりと止める。

女が赤ん坊を抱いて、車から降りるのと、明津たちがドアを開けるのとは同時だった。まぢかで女の目と明津の目があった。きれいな黒髪がよく似合う、黒目がちの大きくて澄んだ、意志の強そうな目だった。

 女の目は一瞬、小さな当惑と、大きな疑念をこめて、二人の男を見た。無理もない。どこから見ても、薬学の研究員らしくなかったからだ。

 すぐに自分のまなざしに気がとがめたか、女は車のドアをしめながら、必要もないのに、固い笑顔を浮かべた。

「さきほどは、どうもありがとうございます。助かりました」

 ベビー帽をかぶった赤ん坊を抱き上げたその姿は、若くて美しい母親そのものだ。

 マッコールが、赤ん坊に近づいてあやすまねをした。

「可愛いお子さんじゃないですか。何ケ月ですか?」

 女は、照れくさそうに笑った。

「十カ月ですわ」

 美しいはにかんだような笑顔には、なぜか微妙なかげりがあった。明津は、車のロックを確かめたあと、握手を求めて手をさしだした。

「田端浩一といいます。こっちは、上野。今日づけで、ここの客員研究員として赴任してきました。よろしく」

 田端も上野も、もちろん偽名だ。山の手線の駅名からとった使い捨ての名前だ。

 女は赤ん坊を抱いたまま、窮屈そうに手を差し出して握りかえす。

「もうしおくれました。天日由利香です」

 肌のきめこまかさのわかる、なめらかで温かい女の手だった。

 明津が自分とマッコールの配属先を告げると、女は赤ん坊をゆすりあげて、驚きの表情を浮かべた。

「それじゃあ、新しい方がみえるって所長からいわれてましたけど、あなたがたが?」

 二人は、顔を見合わせた。マッコールが、さりげなく赤ん坊の頭を帽子の上からなでていった。

「われわれの在任は、あまり長くないですが。ま、よろしくお願いしますよ」


    4


 地上十二階、三百人の従業員がいる研究所の本棟に入った二人は、退屈な顔あわせとあいさつの時間をさっさと終わらせた。

目的地は、いわば奥の院というべき場所だ。生死にかかわる細菌や生化学物質をあつかう、ホットな部門なのだ。

高く広く、学校か病院のようにすみずみまで磨かれた廊下を、白衣をつけた明津たちは、所長たちに連れられてゆく。

隣を白衣姿のマッコールが、黒い精悍な顔に白い歯をみせてにやつき、ぶらぶらと足を運んでいる。

 眼の前の、先頭を切っていくのは、第一印象から気にくわない外人だった。背の高い四十代なかばの白人、ベケット・スティーブンとかいう名だった。いっけん穏やかそうに見えるが、目つきや態度に、有色人種への蔑視がちらつく。

 その証拠に、黒人と日本人の混血であるマッコールと握手するときに、べケットは一瞬、手を出すのをためらった。その目の奥に、おさえた嫌悪感と軽蔑の色が、ちらっと走るのが見えた。パーリア化学製薬のオーストリア研究所から、合併にともなって派遣されてきた人間で、今は研究主任だそうだ。

 あとに続くのは、背の低い小山という白髪まじりの所長、そして髪をアップにした天日由利香のすらりとした白衣の背中だ。明津たちの正体と、この研究所にきた目的を知っているのは、所長の小山だけということになっている。

 任務に入る直前にレクチャーされた付け焼き刃の医学知識で、所長やベケットに適当にあいづちをうちながら、周囲に「敵」の気配を探して歩く。もちろん、しょっぱなから連中が尻尾を出すとも思えない。

建物の内部は、全体にだだっぴろく静かで白かった。塵を落とす防塵送風室と、あらゆる雑菌をゆるさない滅菌コーナーが、要所要所に設けられ、二人はそのいくつかをくぐっていく。

途中で、関係部門の研究室や開発にたずさわっている現場も、いくつか見学する。

 学校の理科室を何倍にも広げ、おそろしく複雑化し、高級にしたような、各種の実験装置や器具がならぶセクションがめだった。

 いずれも一台何百万もする高価な顕微鏡、遠心分離機、培養装置、実験用機器、薬庫が、部屋の周囲と中央を占領している。

そうかと思うと、パソコンの列が全体を占め、数名のスタッフを前に、データが静かに吐き出されているだけの部屋もあった。

 奥へ入るたびに、薬品臭がきつくなる。白衣が防塵抗菌服となり、濾過マスクをつけ、頭も無帽から髪をすっぽり包むフードで覆うようになった。廊下も狭くなり、扉とロック方式だけが分厚く複雑になってゆく。

 部屋の器具や収納容器、壁に貼られたステッカーや注意書きが、「注意」から「警告」「危険」、「絶対禁止」“DANGER”、ドクロや毒薬マークなど、物騒きわまりない内容にとってかわる。

 最後は、シャワーを浴びて専用の気密性の強い滅菌防護服に着替える。会話はフードの中のマイクとイアホンを通じておこなうことになる。そして、彼岸花のように真っ赤で不吉な「バイオハザード」マークが、大きく描かれた銀色の気密扉をくぐる。

 奥には、これまで以上に精密で大型の電子医療機器や、複数の隔離実験ブースをふくむ実験設備が並ぶフロアが広がっていた。気密性を完備した部屋の中央に、大きな中央実験台が数台置かれ、電子顕微鏡や測定機器など、必要な機材が整然と並んでいる。

そのテーブルのまわりでは、真っ白なまぶしい滅菌灯の下、滅菌防護服に全身をすっぽりと覆った十数人の職員が、実験器具や測定装置、試薬を前に働いている。

 隔離ブースにしきられた実験台のガラスの向こうでは、実験動物たちが、それぞれのケージに入れられて、落ちつきなさそうに動き回っている。

 背の高い中年白人の研究主任ベケット・スティーブンが、防護服の中のイアホンを通じて、達者な日本語でいった。

「ここで、わたしたちは、最新の効果的な抗ガン剤を研究しています」

 スティーブンの、どこか人をこばかにしたような灰色の目が、小柄で白髪の小山所長に向けられた。

 小山は、六十過ぎのわりには、ずっとふけてみえる。フードの下、しょぼしょぼした目でうなずいた。

「正確には、新種の生理活性物質を応用した、抗生新薬の開発ですが。われわれは“メデューサ・プロジェクト”と呼んでおります」

 小山所長は、まぶしいものをみるように、あたりを目をほそめて続けた。

「田端さんも上野さんも、国の医療関係者だからいいますが、特に、この研究は部外秘ですから、お忘れなきよう」

マッコールが、フードの奥でにやけて、軽く手をふった。

「同業他社にもれたら、ひとたまりもない。わかってますよ。十分に気をつけます」

隣に立った天日由利香も、どこかいぶかしげなまなざしをこちらに向けた。明津たちの身分は、所長以外には、ここの職員全員に対して「国立の医療機関の派遣研究員」という触れ込みだが、無理もない。外見がにつかわしくないのだ。

 所長は、天日由利香に目でなにか指示した。彼女は、電子顕微鏡の小型テレビほどの大きさのモニターがならぶ受像装置の前の椅子に座り、準備をはじめる。防塵服姿で、二面のCRT画面がならぶ電子装置の調整に入る。

 小山所長は、天日由利香の方を指さしていった。

「ことのはじまりは、数年前です。ある特殊なバクテリアが、海底の泥の中から発見されました。そのバクテリアに、最初に目をつけたのが、彼女でしてね。天日くんは、ひとつの仮説を立て、バクテリアを培養して、ある物質を抽出し……」

 そのとき、スティーブが、所長を無視して、無遠慮に割って入った。外見の穏やかさとは裏腹な、がさつなふるまいだ。上役である所長を、所長とも思っていない。

 好色ななめるような目つきで、ちらと天日をながめる。その視線を、ひきはがすようにして、スティーブは説明した。

「天日さんの発見した物質は、ふしぎなものでした。動物の血液の中のタンパク質と結合して、驚くような効果をもたらすのです」

 所長が、一瞬、でしゃばりなスティーブの態度に、苦虫をかみつぶす表情を浮かべる。

 マッコールが、さも感心したようにいった。

「いやあ、頭いいんですなあ、天日先生は」

 所長が苦笑してうなずいた。

「そのバクテリアに“メデューサ”とあだ名をつけたのも、天日くんです。もちろん、抽出した生理活性物質も、“メデューサ”を意味するMという頭文字がついてます。今では、実質上、“メデューサ・プロジェクト”の責任者は、彼女ですな」

 小山所長は、天日由利香が椅子から立ち上がり、準備ができた旨を告げると、てのひらを電子顕微鏡の方へ向けた。

「では、その“メデューサ”をまず、ごらんください」


    5


 医療用のラテックス手袋をつけた天日の手が、座ったまま電子顕微鏡の対象物を映すモニターを指さした。

「これが、“メデューサ”の全体像です」

 電子顕微鏡の二つのモニター画面に映った、細部まで克明な青みがかったモノクロ画像には、ぞっとするようなイメージがあった。

 さすがのマッコールも、にやつくのをやめていた。鋭い真剣さが目元に現れる。それほど、画像に映し出されたバクテリアの姿は不気味だった。

 それは、蛇そっくりにくねり踊る髪の毛を生やした、逆三角形の首のように見える。髪の毛に見えるのは移動のための鞭毛で、逆三角形の頭部に見えるのは本体だと、天日由利香は説明した。

 たしかに、それは見る者を恐怖で石に変えるギリシャ神話の魔女“メデューサ”を想像させた。ゴルゴーンとも呼ばれる神話の怪物だ。

「神話では、メデューサの首を、英雄ペルセウスが切り落とし、その血は死者をよみがえらせたとあります。実は……」

 天日は、モニターの片方に、保存してある映像を呼び出した。

「このバクテリアから抽出した生理活性物質にも、偶然ですが、似たような作用があります。最初は、驚異的な殺菌現象がみられました」

 モニターに、各種の凶悪な疫病の病原体と、それに投与された「メデューサ」の写真が、数分間隔で映し出される。たしかに、恐ろしい速さで、伝染病の病原体が殺され、崩壊してゆくのが映っている。

 明津は、そのときふと、かたわらにいるスティーブンの表情が気になった。どこか笑っている感じがするのだ。ふつうに見れば、まじめに観察しているとしか見えないが、その白い顔の奥に、もうひとつ陰湿な笑いを浮かべる顔が、二重うつしに感じ取れる。

 マッコールも同じ感触を得ているのを、横目で確かめた。モニターから一瞬だけ視線をはずし、軽く唇をゆがめて、こっちをちらっと見たからだ。

 天日は、電子顕微鏡での説明を終え、椅子から立ち上がった。二人を、ガラスで隔離された無菌実験台の前へいざなう。

 実験台のガラスの向こうでは、ケージに入れて分類された十数匹のマウス(ハツカネズミ)とラット(ドブネズミ)が、動きまわっている。そのうちの白いマウスの一匹を、天日は部下のひとりに命じて、隣の実験作業台の上にもってこさせた。ウサギと同じで赤い目の白マウスは、尾をのぞいた大きさが十センチ以下で、てのひらの上に乗ってしまう。ラットの方は、その二倍から三倍の大きさがある。

 天日は、明津たちが見ている前で、ステンレスの天板の上に据えられた実験トレイの上に、もがくマウスをおさえつけた。

「これから、このマウスの頸動脈を切開します」

 用意したメスをとりあげ、その小さな生き物の耳の下から首筋にかけて、なんのためらいもなく、手ぎわよく、さくっと切断した。日常の光景なのだろう、だれも顔色ひとつ変えずに、冷静なおももちで見つめている。

 たちまちトレイは、マウスの首筋からふきだす血で、みるみる真っ赤になった。マウスは、ものの数分で、天日のおさえた手の下でぐったりし、薄いまぶたを閉じて動かなくなった。

「死にました」

 天日はそれだけいうと、メスをおいてマウスから手をはなした。マウスは、ぴくりとも動かなかった。マウスをもちあげると、腹の下と四肢の白いはずの毛が、新鮮な血潮でぐしょぬれだった。首から腹をひたし、脚までつたった鮮血が、だらんとたれた尾の先から、ぽたりぽたりとしたたりおちている。

 天日は、死んだマウスの血を洗いながし、傷口を手当てし、止血処置をほどこした。

「これに、メデューサから抽出した生理活性物質を、注射します」

 部下にもってこさせた細い注射器と、指先ほどの小さな褐色の密閉ガラスびんを、マウスの死体の前に置く。その褐色のガラスの容器の中身が、「特殊な生理活性物質」というわけだ。細かい横文字を数行にわたって手書きしたラベルが貼ってある。「M・3BP」の太い大きな文字と、濃度を表すのだろう「10%」の数字だけ読めた。

 天日は、蓋の中央部に注射針をつきさし、すばやく内溶液をすいあげ、さかさにピストンを押して空気をぬく。

 わずかな量だったが、注射器に吸い上げられた溶液は、美しい琥珀色をしていた。ウイスキーなどの色とはちがう。もっとふかみがあって、それでいてまぶしい金色の光を帯びる液体だった。

 なぜかそのとき、明津は魅入られるように、その液体に視線をうばわれていた。背筋を強い戦慄が何度も走りぬける。なぜかはわからない。めったにないことだったが、たしかに彼は、体の奥底からとめどなくあふれる、理由のない予感めいた戦慄を感じていた。

 天日は、注射を、切断したのとは反対側の頸静脈に刺し、ほんの数病で溶液を注入しおえた。そのあと、すぐにマウスを元の無菌実験台のガラスの中のケージに入れた。命を失った小動物がどうなるのか、ぬれそぼったマウスの死体に、仲間たちがおそるおそる近づくのを観察する。

「三~四分で変化が現れます」

 冷徹な実験者らしく、天日由利香は淡々と説明を続ける。

 実験台の上のデジタルクロックのストップウオッチが、二分を表示したとき、早くも変化が訪れた。

 失血死したはずのマウスの口とひげが、ぴくぴく動きだしたのだ。ついでピンク色の口を半開きにしたまま、何かをかむように歯をむきだし、横腹をみせたまま、ぬれた白毛につつまれた体をふるわせる。

 マッコールが、目の玉がとびでそうな顔つきで、凝視している。

 死んだはずのマウスは、四肢をひきつらせながら痙攣しはじめた。ほんの数秒の間、全身がぼおっと青く輝いたように見えた。錯覚なのか、全身がふたまわりぐらい、膨張したように見える。

 天日が、冷静な口調で続けた。

「致命的な失血死の状態から、蘇生しかけています。全身が青白い光を発しているのは、蘇生時に特有の現象です。同時に、体重と体積が、なぜか二割ほど増加します。すぐ元に戻るのですけど、どうしてそんな現象が起きるのか、まだよくわかっていません。おそらく、細胞分裂にともなって、特殊な異変が起こっていると考えられます」

 確かに彼女は、この研究所で重要な極秘の研究をまかされるに足るプロだった。仕事となれば、感情は度外視される。相手が生き物だろうと薬品だろうと、客観的な研究対象物にすぎない。眉ひとつ動かさず、職業的によく訓練された手で、切り刻み、生かすも殺すも自由自在なのだ。

彼女の説明の通り、マウスの発光と膨張現象はすぐにやんだ。閉じていた小さな薄いまぶたが、まぶしげに開かれた。

 だが、その小動物の赤く丸い目がたたえていたのは、単なる復活の生気だけではなかった。なにか別のものが、そこには宿っていた。うまく言葉にはならないが、蘇生する以前とはちがった光が、見てとれるのだ。

 それは、不吉な印象をともなってつきささる光だった。

 マッコールの方を見ると、嫌悪感を必死にこらえているのがわかる。今にも唾を吐きそうだ。口をゆがめ、眉間にしわを刻んでいる。

 天日に殺される前とは、雰囲気のちがうマウスは、むっくりと起き上がった。全身をふるわせて、ぬれそぼった毛から水気をはらおうとする。

 のぞきこむ人間たちにも臆せず、鼻先をあげてしきりに臭いをかぎ、ひげをさかんにひくつかせる。門歯をのぞかせた口をつきあげ、意志さえ感じられる赤い目が、どこか凶暴性を帯びて、ケージとガラスごしに見上げている。

“メデューサ”の抽出液を注射されたマウスは、もはや以前の個性のないマウスではなかった。その証拠に、近づくかつての仲間のマウスたちに目もくれない。おまけに、ほかのマウスが近づくと、歯をむきだして前脚をつっぱらせ、キイキイと鋭い声で威嚇し、おっぱらう始末だ。

 マウスは、生まれかわったのかもしれなかった。少なくとも、そう思わせる変化が明らかに見てとれる。



この“メデューサ”というバクテリアの効果が、見た通りのものなら、確かにとんでもないことだった。信じがたい発見で、驚異的すぎる。多くの意味で危険な発見といえた。

明津は、心に思ったことを顔には出さず、腕ぐみしたまま、マウスを指さした。

「こいつ、前と性格がちがうんじゃないですか」

 天日が、冷徹な表情のまま、マウスを注視して答える。

「これから、この被験体が、どう変わったか、ごらんいただきます」

 ケージの列のはじに、一匹だけ黒灰色のラットの収容されたやや大きなケージがあった。そのラットは、落ちつきなく、うろうろしている。ときどき金網につかまり立ちし、となりのマウスたちを鋭い声で威嚇する。

 部下の研究員が、そのケージを、復活したマウスのいるケージといっしょに、無菌実験台のガラスの仕切りの中、別の密閉された広い一画に移動させた。

 ケージの金網仕切りがあき、まず最初に問題の蘇生マウスが、あたりを警戒しながら、細かい金属メッシュを貼った床の上に出てくる。

 天日は、黒灰色のみるからにきたならしい感じのするラットをさした。

「これは、捕獲した野生のドブネズミです。飢えて凶暴になっている上、興奮剤を投与してあります」

 ドブネズミの側のケージの出入口があく。やはり、しきりに警戒しながら、鼻をうごめかせて、二十センチ以上ある図体で外へ出る。

 ドブネズミとハツカネズミの金網の床をはう音が、かさこそと聞こえる。ネズミたちと、観察者をへだてるものは、強化ガラスのしきり一枚だけだった。

 白くて小さなハツカネズミと、黒くて大きなドブネズミの大きさの違いが、はっきりとわかる。幼稚園児と大人のような体格差がある。ケンカをしたら、まるきり勝負にならないだろう。

 飢えたドブネズミは、すぐにハツカネズミを見つけ、ひげをひくつかせ、貪婪(どんらん)さを帯びた真っ黒な目でじっと見つめた。げっ歯類に、共食いのタブーはない。飢えればなんでも食うのだ。

 ハツカネズミが食物に見えているのだろう、ドブネズミは品定めをするように動かず、視線をすえている。

 ハツカネズミの方は、ドブネズミに怯えるようすもない。ひげを動かしてはいるが、落ちついている。

 ハツカネズミの赤い目が、やっとドブネズミを認識したようだ。飢餓を満たす対象にされているのに、ちらと視線を向けただけで、あとは口をもぐもぐさせている。ドブネズミには尻をむけて、ガラスのしきりに前脚で体を支えて立ち、しきりに鼻をひくつかせる。またこっちを見上げている。人間の方がずっと気になるらしい。

 マッコールが、鼻の下を手の指でこすって笑った。

「こいつ、ほんとに死んだマウスかよ……それにしても……」

 といいながら、部屋中をぐるりと見渡すと、鼻をならしてつぶやく。

「なんか、ネズミくさいですな」

 天日たちが、一瞬、おかしな顔をしてマッコールの浅黒い顔をみた。

 明津は唇の片端を、ちらとゆがめてマッコールを横目でみた。「ネズミ」というのは、実験動物のことではない。侵入している「敵」の痕跡を感じ取ったということだ。

 天日たちに気づかれないよう、あたりの気配をじっとうかがい、探索の網を強化する。

 十数人の研究員のほかに、「なにか」がいる感じがあった。もちろん、実験動物たちではない。人間の、それもかなり周到に隠された「意識」が通った痕跡がある。普通の感覚でたとえれば、ある種の体温や残り香のようなものだ。

「敵」のそいつは、今この瞬間にも、明津たちを監視している。ずいぶんと手なれた隠れ方だった。

 じっと意識をこらして、「敵」の気配のかすかな跡をたどろうと試みる。よほど、慎重に隠蔽工作しているとみえて、うまくいかない。

 そのとき、目の前のドブネズミに動きが起こった。いきなり後ろから飛びかかり、ハツカネズミを襲撃したのだ。

 三倍以上の体格差のあるドブネズミは、ハツカネズミから見れば、巨体そのもののはずだ。それが、いきなり獰猛な歯をむきだし、小さなハツカネズミにおおいかぶさり、首の上に噛みついたのだ。

 ハツカネズミが、キイーッと声をあげてもがいた。ドブネズミの歯は、ふかぶかとつきささって、洗ったはずのまだ湿りけの失せない白毛に、またたくまに血があふれはじめる。もはや逃れるすべなく、このまま首の骨までかみくだかれてしまうだろう。

 だが、次の瞬間、ハツカネズミはおどろくべき行動を起こした。真っ赤な目を、かっと見開くと、首をかまれる激痛をものともせず、ドブネズミを背負ったまま、ずるずるとはいだしたのだ。

 その姿には、恐慌も逃避もなかった。ハツカネズミは、四つ足で立ち上がりざま、信じられない身軽さで駆けだした。背中にはうつぶせにのしかかり、白い首をかむドブネズミが、血と肉を食おうとしがみついている。その体重と苦痛を無視して、ハツカネズミはぐるぐると、ガラスの仕切りのすそを駆けだした。

 ドブネズミの荒い毛の生えた黒灰色の太い尾の先だけが、メッシュの床の上にたれ、しゅるしゅるとひきずられていく。

 ドブネズミの体重をものともせず、ハツカネズミは走る。いきなり、一直線に駆け、ガラスに激突する直前、勢いをつけてぱっと方向転換した。ドブネズミの全身がぐらりと揺れる。勢いに乗ったまま、ガラスにそって、ハツカネズミはまた直進する。

 ところが、全力疾走にうつると見せかけ、急に四つ足でふんばって止まった。前のめりにころげそうになりながら、全身を左右に激しくふる。反動でドブネズミの図体が、宙たかくあっというまにはじきとばされた。

 ドンッと音をたてて、ドブネズミが背中から落ちると、今度はハツカネズミが攻撃に移った。態勢を立てなおすすきも与えず、ドブネズミの灰色ののどぶえに食らいついた。

 ドブネズミが、ギーッと悲鳴を上げた。そのまま、二匹でもつれあい、床の上をころがりのたうちまわる。ドブネズミも必死だ。夢中で身をふりたて、ハツカネズミをかろうじてもぎはなした。

 ハツカネズミの白い体は、そのままガラスにたたきつけられるかに見えた。

ところが、まるまって床の上をころがるや、すぐに体勢を立て直し、ガラスを駆け上がり、四つ足でひらりと反動をつけ、ドブネズミの背中にとびついた。

 小さなハツカネズミの白い体と、大きな黒灰色のドブネズミの体が、ぐるぐるまわって、くんずほぐれつの格闘となった。ハツカネズミは、格闘しながら、再びドブネズミののどぶえをとらえた。

 喉に食いついたまま離れず、白いマウスはしつこく歯をつきたて続けた。ドブネズミの喉から、血がぴゅっぴゅっと噴き出しはじめた。血まみれの大量出血だ。

 数分ののち、ドブネズミは、マウスをふりおとせず、自分の血の中をころげまわったあげく、ぐったりして動かなくなった。返り血で、全身が真っ赤になったハツカネズミは、なにごともなかったかのように、ドブネズミの体から身をはなした。

 流れ出たドブネズミの血が、格闘の跡をとどめて、床のメッシュの網目を埋めて血泥のようになっている。

ハツカネズミは平然としていた。人間なら、息ひとつ乱れていないといった風情だ。

 この死んだはずの小さな生き物のどこから、こんな攻撃性と戦闘能力が生まれるのか。“メデューサ”が原因なら、まさに息をのむ効果といえた。

 ドブネズミは、のどぶえをかみ切られ、傷口が大きくはぜて無残だった。噛み破られたどす黒い血の穴があき、こと切れている。

 勝利したマウスは、それに目もくれなかった。ガラスごしに正面に向かい、こちらを見上げる。四つ足でふたたび血まみれの床にふんばり、とびかかる態勢に入る。血にぬれた門歯をむきだし、人間にむかって敵意をあらわにしたのだ。

 マッコールがあきれたように口笛をふいた。

「なんてこった。いかれてるぜ、こいつ」

 何に怒り狂ったのか、マウスはガラスにとびあがり、人間に向かって体当たりしはじめた。小さな体に、激越な怒りと闘争心をたぎらせ、ガラスを破って突進しようと全力でぶつかってくる。肉とガラスのぶつかる音が鈍く響く。そのたびに、ハツカネズミが全身に浴びたドブネズミの血が、ガラスを薄赤く汚してしぶく。

ネズミとは思えない、凶暴な迫力があった。

 執拗に何度もガラスに体当たりし、闘志を燃やすマウスの口から、ついに血がふきだしはじめた。われとわが身をガラスにたたきつける衝撃に、自分の肉体の方が傷ついてしまったのだ。

「いけない」

 天日が血相をかえた。すばやく命じる。

「ガスをっ」

 部下が実験台の反対側で何かを操作した。とたんに、ハツカネズミの様子がおかしくなった。ふらふらしはじめ、足元がおぼつかなくなる。よたよたと、なおも攻撃しようとするが、四肢がうまく動かないらしく、ずるずると尾をひきずるばかりだ。

 ガラスをぶちやぶって人間を攻撃しようとする、とんでもない闘志の持ち主は、そこでぐったりし、はいつくばったまま動かなくなった。

 明津は、思わずたずねた。

「死んだのか」

天日は、真剣な表情で、首を横にふった。

「麻酔ガスです。通常の十五倍の濃度の」


    7


“メデューサ”の実験は終わった。明津たちは、研究室から、退室するため、消毒室に入った。ついで、平服に着替えるためクリーンルームにうつる。

 全身をすっぽり包む防塵服をぬぎはじめる。さっきの蘇生したマウスの実験のせいか、だれも言葉を発しない。

 天日由利香が、背中のジッパーを開き、かがんで防塵服の脚を抜きさろうとする。しなやかでほどよく丸みを帯びた若々しい背中の線が現れる。ぴっちりしたスラックスに包まれた、のびやかな形のいい女の脚だ。

マッコールが、彼女の布地ごしの下半身に、ちらちらと視線を走らせている。子供を産んだとは思えない、なだらかでひきしまった腰の線、ほどよくくびれた足首、なめらかな爪先から、色々と想像しているのだろう。

あきれたことに、同僚のスティーブも、天日由利香の着替えを、ときどきなめるように盗み見ている。かなり気があるようだ。

 ぬぎおわった防塵服と手袋を、自動殺菌・洗浄・乾燥する、ランドリー型の大型洗浄機の中に放り込む。マスクは別の気密型殺菌処理ケースに入れる。一定時間、熱と薬液で処理したあと、専用の洗浄機で洗浄するためだ。

 洗浄機がうなりだす。天日も、新しい白衣をロッカーから出して羽織る。豊かに隆起した胸の前をあわせる彼女に、明津はさりげなく告げる。

「“メデューサ”のこと、あとでデータ、見せてもらえますか」

「いつでも、どうぞ」

「公表したら、えらいセンセーションだ。ノーベル賞も夢じゃないですな」

 天日は、ロッカーの扉を閉めながら、そっけなく言い放った。

「学会から無視されるのがおちですわ。言葉だけでは、信じてはもらえませんもの。あらゆる角度から検証した緻密なデータの集積がなければ、うそつき呼ばわりされて終わりですわ。発表については、もっと時間をかけて慎重にデータをとり続けなければならないんです。それに……」

「それに?」

 天日が、所長に、ちらと気がかりな視線を走らせながら、思い切ったように告げる。

「この発見は、へたをすると“万病に効く”どころか、“不老不死”の薬になりうる可能性さえあります。製薬会社を倒産させ、医者を失業させるかもしれません」

明津は、なかば皮肉めかして笑った。

「ご冗談を」

「本気ですよ。だから、当分は表ざたにできません」

 彼女は、ひややかな真顔で、そういってのけた。

マッコールが、おもしろそうにいった。

「秦の始皇帝がきいたら、泣いてよろこぶ発見だ」

 そのとき、天日が低く驚きの声をあげた。部屋の床のすみの一角を指さし、気持ち悪そうに凝視する。

「どうしました?」

「ネズミが……」

 不快さと不安のまじった表情で唇をかむ。「マウス」といわずに「ネズミ」といったのだ。いてはならない場所に、いてはならないものがいた。そういいたげだった。

 小山所長が、眉をしかめて天日の白い指先のさす方を見た。

「マウスが、逃げたのか?」

 スティーブンが、灰色の目を丸くした。

「そんなことは、ありえないです」

そういいながら、わざわざ天日の隣までいって、肩に腕をまわそうとする。露骨なやりかただ。天日は顔に出さずに、さりげなく身をかわす。

 所長は、眉間にしわをよせた。

「もし、ラットやマウスが、ここにいるとしたら、大変なことだ」

 実験で使った細菌や薬物を体内にしこんだまま、あちこちはいまわられたら、確かに物騒きわまりない。

 所長は、研究室と通じる社内電話の送受器をとりあげた。通話ボタンを押そうとしたとき、そのしょぼついた小さな目が、部屋の別のすみの一角で止まった。

「なんだ、今のは? そこで、何か動いたぞ」

 ロッカーと大型洗浄器のある壁側の下だった。所長は何かを見たらしい。明津とマッコールは、ロッカーと大型洗浄器の間や、壁とのすきまをのぞきこんだ。

 天日が、身をすくませるようにつぶやいた。

「さっきの、ネズミじゃないかしら」

 所長が、険しい顔で、社内電話のボタンをおした。観察窓をかねたガラスの仕切りの向こうの実験室を呼び出す。

「……ああ、小山だ。ちょっと、調べてくれないか。そっちのマウスとラットの管理は、ちゃんとできてるかね? 全体の数に異常がないか、すぐに報告してくれ。一匹たりとももらしてはならん、正確な数字を確認したい」

 送受器を置いて、所長は手近の椅子に腰をおろし、一同を見渡した。

「すまないが、ちょっとここで待機してほしい。田端さんも、上野さんも」

 全員、白衣姿になり、そのへんの椅子に適当に座った。マッコールが、テーブルの上に腰をおろして、あたりをながめ、スティーブンだけが、ネズミの姿をさがして、落ちつきなくあちこちをチェックしている。

 マッコールが、自分の唇を手の指先で軽くはじいて、スティーブンに笑いかけた。

「おちつけよ、ミスター」

 スティーブンは、黒人に話しかけられたのが、面白くないといわんばかりだった。ちらと灰色の目に不快さを走らせる。黙って、長身の腰を折りながら、窮屈そうに、床のあちこちを探し続ける。

 明津は、椅子に浅くこしかけ、脚を高く組み上げ、腹の上に両手を組んで置いた。

 リラックスした態度をよそおいながら、策敵の思念をとぎすませる。この部屋と隣の研究室全体に、「敵」の影を見いだそうと、精神感応力をフルに発揮する。スティーブンは、動物のネズミを、明津たちは人間のネズミを探すというわけだ。

(妙な感じだな)

さっき、研究室で感じた「痕跡」に、かすかな「動き」が加わっていた。しかし、それは明確なものではない。「動き」の大本は、ここにはなかった。離れたところにあるのが感じられる。研究所の敷地内にちがいないが、このあたりではない。確かに「敵」はこの研究所の中にいる。

 明津はマッコールに、さりげなく告げた。

「上野くん、まだネズミくさいかね」

 マッコールは、ちらと横目で明津に答えた。

「そうでもないね。ほかの場所は、どうか知らないが……。おっと、失礼、みなさん。ほかの部屋に、ネズミがいるという意味じゃないですからね」

 やはり、マッコールも同じことを感じ取っているのだ。

 社内電話が鳴った。所長がすぐにとりあげる。

「どうだ? まちがいはないな……そうか。すまなかった……」

 送受器を置いた所長が、深いためいきとともに、顔をあげて告げた。

「異常はなにもないそうだ。実験動物の数は、一匹も減っていない」

 室内にほっとした空気がながれた。スティーブンも、額の汗をぬぐいながら、天日にいちばん近い椅子に、どかりと腰をおろす。

 天日が、まだ納得がいかないといいたげに、さっきの場所に視線を向けた。

「でも、たしかにいたんですよ。所長も見ましたでしょ?」

 所長は、白衣の下のネクタイをゆるめながら、痛みでもあるように目を閉じた。

「たしかに、何か動くものがいたように見えた。しかし、実験動物の数に異常はない。

かといって、外部から入ってくることはありえない」

 所長はなだめるように、天日を見た。

「“メデューサ”の研究は、神経を使う。最近、疲れがたまっているせいだろう。きみも、息子さんの世話や、ご両親の看病で、だいぶ無理をしているじゃないか。少し、休暇をとった方がいいな」

 天日は、なおも不審げだった。

「気のせいかしら……目の錯覚だったのかしら……」

そのときだった。明津は、自分の足元を、黒い小さなものが走りぬけ、部屋のまんなかを横切るのを見た。

 今度は、ほかの連中も目撃した。室内は凍りついた。所長が棒立ちになって、首を横にふった。

「……ばかな、そんなばかな」

たしかに、それはネズミぐらいの大きさだった。そいつは、ちょろりと現れたかと思うと、壁にぶつかる直前、溶けるように消滅した。

 天日が、美しい顔を恐怖にゆがめた。

「き、消えちゃった……」

 スティーブンが、なかば半狂乱になって、椅子や机をひっくり返さんばかりに探しはじめる。所長が、それを制止した。

「やめないか、ベケットくん。壁の中に消えるネズミなどいない。いるとしたら……」

 所長は、いまにも吐きそうな表情で、言葉をしぼりだした。

「そいつは、幽霊ぐらいなものだ」

 天日が、椅子からたちあがった。

「実験動物の幽霊だと、おっしゃるんですか」

「そうはいってないが、緊急に調べる必要はある。わたしが責任をもつから、今みたことは、全員、しばらく黙っていてくれ」

 だが、明津とマッコールだけは知っていた。あれはネズミの幽霊などではない。慎重にこちらをうかがう「ごあいさつ」、まぎれもなく「敵」の幻覚攻撃のひとつだ。

「敵」が、デモンストレーションをかねて、自分たちの存在をさりげなく誇示してくれたのだ。もちろん、それは、宣戦布告でもある。


    8


 明津たちは、極秘の“メデューサ”研究室から、普通のフロアへと戻った。「敵」のかすかな気配は、消えてはいない。ネズミの幻覚を見た部屋ほどではないが、敵の存在感が静かに深く潜行しているのがわかる。

 ならんで歩くマッコールも、白衣の襟をなおすふりをしながら、ときおり目で合図してくる。敵はこちらのようすをうかがっている。どういう出方をするか、息をひそめて観察しているのだ。

 今のところ、はっきりしているのは、敵がまだ、この研究所に潜入した目的を達していないということだ。

 目的とは、もちろん“メデューサ”のことだ。特破本部の高倉は「生体強化の生物兵器」といったのだ。

 たしかに、マウスの実験で見た効果が、人間にも発揮されるなら、最強の兵士をつくることができる。“メデューサ”を射った不死身の戦闘員、重傷を負ってもすぐに復活する不死身の兵士の誕生だ。

 だが、人間用の試薬は、まだ完成していないようだ。完成しているなら、「敵」が明津たちが来るまで待っているはずはない。

 明津たちは、所長室の隣にある第一会議室という小さな部屋に通された。十人が中央のテーブルのまわりに座るといっぱいになる、密談用に使えそうな部屋だった。

 座りごこちのよさそうな椅子と、視聴覚に必要な機材が、壁面を占めるスライド式のホワイトボードのまわりに配置されている。

 だれが置いたのか、背の高いガラスの花瓶にいけた花が、テーブルの中央にある。それだけが、無機質になりがちな部屋の雰囲気をかろうじてやわらげていた。

 手近の椅子に、マッコールとともに座る。

 所長の小山の両隣には、天日とスティーブンが座り、すぐにスライドの準備をはじめた。天日のしなやかで白い指が、分厚い書類をバインディングしたファイルをくばる。目を通すと、“メデューサ”のデータだった。

 天日とスティーブンが、交代でひと通りの資料データを説明する。部屋の明かりが落とされ、スライドによる解説がはじまった。

“メデューサ”研究は、現在のところ、初歩的な動物実験をしばらく繰り返して、慎重に効果や副作用の傾向を見ている段階だ。マウスやラットのほか、ウサギなどにも投与して、ある程度の効果はわかっているらしい。

 人体実験どころか、サルなどの人間に近い動物への実験にさえ、まだ着手できる状態ではないと、天日は説明する。

 ラットの脳や内臓、筋肉などの解剖写真が、各種の顕微鏡写真といっしょに拡大投影される。

 大した医学知識などない者でも、写真をならべて比較されれば、さまざまな点で異なるのがわかる。たとえば、普通のマウスの筋肉繊維と、“メデューサ”を投与されたマウスのそれは、あきらかにちがうのだ。

 筋肉自体の密度が増して、筋繊維の太さは変わらないのに、強靱なものになっている。それだけではない。内臓も各器官の微小構造体が増加し、赤血球、白血球などの血液の構成要素も、数倍から数十倍も多くなっている。免疫機構が、高度に強化されており、極度の活性化状態といっていい。

 メカニズム自体はあまり難しくない。ただ、なぜそうなのか、“メデューサ”の中の何が原因なのか、その究明は今後の課題だそうだ。

 ひと通りの説明が終わり、部屋の明かりがつけられた。ご質問はとたずねられ、マッコールが、手元のコーヒーの紙コップをもって、ぐびりとひと口のんだ。さりげなく、コップを置くと天日に顔を向けた。

「それ、ほんとに、人間で試したことないの?」

「も、もちろんですわ」

奇妙な沈黙とためらいが、天日たちの間にするどく走った。流れるような解説を、冷静におこなっていた美しい女研究員の表情が、聞いてはならない言葉を聞いたようにこわばる。所長が息をのむのがわかった。スティーブンも、ひきつるように顔色を変えた。

 もちろん、彼らの不自然な凝固ぶりは、一秒もたたずに、すぐに消えた。

人体実験を、したことがあるのだ。

マッコールは、すでに天日たちの頭の中をスキャンしている。その上で、人体実験をしたかと、わざと口にしたのだ。スキャンの結果は、もちろん「人体実験したことがある」だ。

 明津は、そのことはじっくりと、あとでこの美しい女にきくことにしようとひそかに決意する。眼前の研究者たちの「顔色」のかわりように、内心、苦笑しながら、なにごともなかったようにきいてみる。

「ところで、“メデューサ”の副作用についてなんですがね。これは、どういう理由なんでしょうか」

 平静をよそおった天日が、助けられたようにうなずいた。

「実験でも見た通り、原液ではかなり強度の攻撃性が発現します。個体にもよりますが、温和な性格が一変して、戦闘能力が飛躍的に増強されるんです。脳神経に極度の興奮作用をおよぼす、何かとしか、申し上げられませんが」

「そいつを、なんとかおさえこめないと、製品にはならない、というわけですか」

 天日は、言葉なくうなずいた。深刻な表情だった。所長が口重に、窓の外をながめやってつぶやく。

「“メデューサ・バクテリア”を分解するバクテリオ・ファージが存在すれば、話は別なのですが、今のところ発見されていない」

 スティーブンが、へんに底びかりする目で、明津たちを見ながら言った。

「しかし、ある程度の役立つ成分は分離できました。副作用の少ないものです」

 天日が、ファイルを閉じて、その上に手を置いた。

「老化と正常細胞の組織崩壊をおさえる、一部のホルモン成分だけ、抽出に成功したばかりです。まだ不安要因があるので、完全ではありませんが、ほぼ実用化寸前にきてます」

 マッコールが、軽く手をたたいた。

「そりゃ、すばらしいじゃないですか」

 天日は、微苦笑した。

「でも、期待される効能の千分の一ですわ。もちろん、それでも相当のものですけど」

 小山所長が時計を見ながら、背中をまるめて立ち上がり、話をうちきった。

「それじゃ、休憩をはさんで、付属棟の方へもご案内しましょう」

 この十二階の本棟と連なる付属棟の五階と六階は、内部でしか通用しない「臨床治験センター」という名称をもっている。おもて向きは、外部の病院や薬局、医師や薬剤師などのデータを研究し、直接かかわる営業のために、さまざまな調整をおこなうという場所だ。が、その実態は、研究所の職員とその家族だけが入院・加療できる特殊な診療所になっている。要するに、新薬を、まず職員や家族にためすという、ていのいい「実験」センターのことだ。


    9


 六階建ての付属棟のおもな部署を紹介されてから、明津たちは五階にあがった。エレベーターの扉が開く。正面に、ナースステーションと薬局があるのがわかった。「臨床治験センター」のプレートが、まさしく病院の一画そのものといったさりげなさで、かかげられていた。

 淡いピンク色の制服をつけた、中年と若いのと、看護婦が二名、ナースステーションの中にいた。天日たちが、明津たちのことを手続きしにいくと、にこやかに笑って頭を下げる。彼女らが、したしげに会話している間に、所長が意味ありげに言った。

「実は、天日くんのお父さんが、ここに入院してるんですよ」

 マッコールが如才なく笑った。

「それじゃ、ごあいさつしないといけませんね」

 所長は、病室の番号プレートが、ふつうの病院の何倍もの間隔をおいて、両側に五つばかり並んだ広い廊下の一画を指さした。

「いまは、お母さんが世話をしにきてます。お孫さんの面倒も見てますがね」

 孫というのは、車の中でみた、あの生後十ヵ月の赤ん坊のことだろう。

 所長は、静かな廊下を歩きながら、明るい灯火の下で淡々と説明した。

「ここは、特別な場所で、病棟とはいえないのですが、まあ、患者がいるので、そんなようなものだと思ってください。もっとも、いつもがらがらで、二、三の個室しか使いません。今いるのは、天日くんのお父さんだけです。もうひとり入院していたのですが、ちょうど、きのう退院しましてね」

 今は、ほかの病室はみなあいているというわけだ。この階にいるのが、天日由利香の父だけと聞いて、明津の胸の奥に、きな臭い衝動に似た危機感が、みるみるわき起こる。マッコールも横目で、こっちを見てうなずく。油断のない光で(注意しろよ)と思念を短く送ってくる。

 そのまま、天日由利香の父親が入っている個室の病室に通された。五一五号室だった。

 応接セットと小さなキッチン、一人用冷蔵庫、オーディオ機器つきの広い病室に入ると、父親は奥の真っ白なベッドで点滴を受けながら眠っていた。

 ベットの手前側にある応接セットのソファの上で、上品な感じの中背の五十歳台の母親が、さっきの赤ん坊をだいてあやしていた。あわてて、見舞客用の応接セットから立ち上がり、清香と名乗って、所長と明津たちに頭を下げる。

由利香の親だけあって、ふんいきこそ柔らかいが、筋が通った感じがする。ものごしはていねいで気品にあふれている。

五人の来客の訪問をうけ、父親も目をさまし、ベッドの上からあいさつする。

名前は高利(たかとし)といった。病人の憔悴から、ふけて見えるが、歳のころは五十台後半といったところだろう。由利香はこの父親に似たのだとわかる。若いころは、整った顔だちの美男子だったにちがいない。

 由利香の母・清香は孫を抱き、かわいくてたまらないといった顔で、その無垢な笑顔にかたりかける。

「ほら、ナオトちゃん。ママとおじいちゃんに、こんなにいっぱい、お客さまですよ」

 マッコールが、天日にふりかえった。

「ナオトちゃんってんですか、息子さんは。どういう字です?」

「“なおさら”という言葉の“なお”、“尚”という字に、“人”です」

 赤ん坊が、祖母の腕の中で泣きだした。

「おやおや、尚ちゃん、さっきおしめをとりかえたばかりなのにねえ。ママのおっぱいがほしくなったのね」

天日が、優しく温かい母親の顔でうなずき、息子を母の手から受け取った。

そのとき、室内に館内放送が入った。小山所長と天日、スティーブンを呼んでいる。

 小山は、いっしょに行こうとする天日をとどめた。授乳をすませてからにしなさいと命じられ、息子を抱いたまま残ることにする。

天日は、そこで白衣をぬいでブラウスのボタンをはずした。真っ白な肌が首筋からなだらかな曲線を描き、豊かに隆起する乳房の上まで続いていた。みごとな丸みを帯びて、はりつめた片方の乳房の全貌があらわになる。ブラジャーをしておらず、経産婦特有の色の濃い乳暈と乳首が見えた。若い母親の肌のまぶしい白さと、静脈のすける量感のある豊かな乳房が、明津の目を射た。

 美しい天日は、息子を膝の上に乗せて抱き上げると、そのまま乳首を息子の口にふくませた。赤子は唯一の命の糧となる母の乳を、ちいさな丸っこい手で、乳房にすがるようにして飲みはじめた。

 明津とマッコールは、なごやかそのものの授乳中の母子に背中を向け、さりげなく壁ぎわにより、目線と思念を用いて密談する。

(やつらの気配はどうだ?)

 壁によりかかったマッコールは、ズボンのポケットに手をつっこんだまま、横目で廊下をさししめした。

(この階にきてから、ものすごく匂うぜ。まだ、目立った動きはないが、ここを狙ってやがる。監視し続けてんのは、まちがいないがな。おまえこそ、どうなんだよ)

(やつらは、この階にずいぶんはりついてるらしい。おれたちをぶっ殺して、“メデューサ”をもって帰ろうって腹さ。いつ襲いかかるか、タイミングをはかってるんだ)

 マッコールは、軽く眉間にしわをよせた。

(今度は、よっぽど自信があるのかねえ。だいたい、超能力が使える連中に、なんで“メデューサ”みたいな、危険な未完成の肉体強化剤が必要なんだ?)

(心も体も最強にしたいんだろうよ、欲ばりなやつらだ)

 明津は、ちらと背後の天日たちに視線を向けながら、続けた。

(さっきから、どうも、きなくさい。この「治験センター」は、やつらのやばいやり口に、取りこまれちまってるかもしれない。なんか、はやばやと起こりそうだぜ)

(予感がするのか)

(おれの生存本能が、ささやくんだ)

(闘争本能のまちがいだろ? ま、なんか、ぞくぞくくるもんは感じるわな)

明津たちは、目でうなずきあうと、ふたたびもとの位置にもどった。

 椅子にすわって、見るともなく、天日が息子に乳をふくませている姿に目をやる。優しくわが子を抱いて見つめる母親と、無垢な小さな身をあずけて乳房を吸う赤子は、何もなければそれだけで美しい絵のはずだった。

 だが、胸の奥から、ぐいぐいとせりあげ圧迫してくる危機感が、みとれることを許さなかった。

エレベーターから降りて、「臨床治験センター」のフロアに足を踏み入れた瞬間から、それははじまっていた。胸の奥で、焦慮に似た強い危機感の警告が鳴り続けているのだ。マッコールも、同じ感覚で、緊急に「敵」への迎撃体勢に入っている。

 予感というよりは、「本能」というべき、敵への嗅覚がフルに活動していた。向こうの意志が、切迫してくる。物理的なものと時間的なものと、二つの距離が同時に肉薄しているのだ。

 五感にとらえられない、大事件という火災の炎が、激しく煙を上げ、燃え移ろうとしている。それも、ガス爆発をともなうような大火災だ。早く消火しないと、大変なことになる。

 明津は、足首のホルスターにおさめた小型の自動拳銃を、ちらと意識する。こいつをここで使わずにすめばよいがと思う。マッコールも、護身用拳銃を持っている。超能力を持っているからといって、敵の飛び道具を確実にふせげる保証はない。

 戦闘の基本は「使えるものはなんでも使う」だ。明津たちは、さっそく、毒物や劇薬の保管してある場所を教えてもらうことにした。

 天日由利香が、授乳を終えた。胸元をなおして、衣服をととのえ、赤子にほほえみかけあやしていると、所長たちが、もどってきた。

 小山は、ひどくまじめな表情で、天日の父母に告げた。

「今夜は、これを点滴してください。肝機能不全用の新開発の薬です」

 スティーブンが、小型のアンプル・ケースと、薄黄色の液体の入った半透明の点滴パックを差し出してみせた。灰緑色のアンプル・ケースには「MP-imp03」と印刷されたシールが貼ってある。点滴パックの方は、ワープロ文字で「MLT001」と印刷されたシールだ。

 天日が、息子を母にあずけると立ち上がり、アンプルとパックを慎重な手で受け取った。 所長は、礼をいおうとする高利と清香を、手で制する。やや表情をゆるめ、ぎこちない笑顔を浮かべて続けた。

「点滴と注射をべつべつにおこないますので、やりかたは娘さんに指示してあります。きっとよくなりますよ」

 よくなるかどうかは、やってみなければわからないと、明津はいいたかった。本当は、天日高利氏に教えてやりたいところだったが、それをいう義務も責任もない。

(今夜……今夜、来る)

 明津の胸の中の本能の警告が、さっきからそう告げ続けている。なぜ、そうなのか。どうして、そんなことが分かるのか。彼にも、はっきりした理由はわからない。

 だが、わかるときは、なんの根拠も理由もなくわかる。それが、予知能力という力の表れだった。そして、今までそれがはずれたことはない。一度でも、はずれていたら、明津は、すでにこの世になかったはずだ。



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