アイスハート・マザー

佐々木君紀

第1話 地獄の門


自分の心臓が大型リヴォルバーでぶちぬかれ、激痛と血潮が爆裂する。着弾のショックで、心臓どころか、首までちぎれとぶ。上体が引き裂けて、内臓を噴き出しながら、首なしの体が、血の海にどっと倒れる。

明津祐二(あくつゆうじ)は、自分の血まみれの生首が、粉砕された白い頚骨と神経線維の筋をひきずり、どす黒い血潮がしぶきとなって広がる海に落ちて沈むのを見た。

撃ったのは、一人の背の高い、漆黒のライダースーツ姿の若い女だ。たっぷりした量感あるつややかな長髪が、ぬれぬれと闇に光る。サングラスをかけているが、きめ細かい真っ白な肌と、冷たく整った美貌がわかる。

 何が燃えているのか、黒と真紅のソラリゼーションの業火が、闇の背景に踊り狂っている。サングラスに音もなくひらめく地獄の炎が、悽愴な殺戮のイメージを演出している。

 背の高いすばらしいプロポーションの持ち主だ。長大で銃身の長い黒光りするリヴォルバーを片手で持ちあげる。

得物は、弾をこめる輪胴に溝がない、のっぺりしたルーガー・スーパー・ブラックホーク、44マグナムだった。女はものもいわずに、熊撃ちの援護射撃用の拳銃で、腰だめに明津をぶちぬいた。

 二メートルもあるオレンジの火矢が、銃口から爆発した。左胸に真っ赤な大花火が炸裂する激越な熱感が走り、胴体がまっぷたつにちぎれ、原色のはらわたをバラまく。

真紅と漆黒の炎の中で、首がふっとぶ瞬間、女の冷酷な美しさに、明津は妙に鮮烈な感動をおぼえながら、血の海の底へ沈む……。

ヒューッと、眠れる男のむさぼる息が、切り裂くような風の音を発した。

夢魔の深淵から、一足飛びに浮上する。全身が冷や汗にまみれ、胸にひびが入るほどの激しい鼓動の乱打で目覚める。昨夜とまったく同じ衝撃的な夢で飛び起きた。

 彼が見る悪夢は二種類しかない。十才のときに、目の前で両親と兄を殺されたときの夢か、自分が殺されるシーンか、どちらかだ。ここ数日、連続する悪夢は後者だった。

一瞬、夢の余韻に惑乱するが、現実は2LDKのマンションの寝室のベッドの上だ。

彼は、無理やり頭の芯に活を入れた。野性動物の敏捷さで、全神経を覚醒させる。

かすかな物音でも目覚め、ただちに起き上がれる臨戦態勢をとる。寝ていても、意識のどこかに常に警戒線をはりめぐらせているのだ。職業柄、起き抜けのもうろう状態や寝ぼけは、彼には無縁だった。

 ダークグリーンのカーテンのすきまから、朝の光がさしこんでまぶしい。その光の下に、ゆうべスナックでひろった自称はたちの女の、白くなまめかしい豊かな肉体が寒そうにうねる。女は、シーツを一糸まとわぬ裸身にからんでよせた。

「んーん、もう、さむいよう」

すっかりのんきに寝ぼけている。両足を肩までかかえあげ、女が失神するまで思いきり貫いたのは昨夜のことだ。女の肌は、すいつくような弾力があり、若いはりつめた乳房と脚線美がすばらしい。真っ白な太腿の付け根もあらわで、無防備きわまりない。暗紫色がかった性器と黒々とした茂みが、折り曲げた膝とかかとの向こうに見える。

 彼の好みの着やせするタイプの女だ。服をきてみると、これほど豊かで抱きがいのある体をしているとは想像できない。すべてを脱ぎ捨てたときとの落差が、刺激的だった。

 ゆうべの淫欲の残り火が、くすぶりはじめるが、明津の男性自身は、悪夢の余韻に、その機能をひどく阻害されていた。

蒲色の乳首を乗せた大きな白い乳房が、シーツのしわの上ではりつめている。濃い女の匂いが、ベッドの上にわだかまり、寝返りであおられてたちのぼる。その無意識の蠱惑も、連夜の悪夢の暗い磁力を破ることはできなかった。

明津は立ったまま、女をみおろしていた。ゆうべさんざん、精気をしぼりとった若々しい肉体だ。彼の方もだいぶ、この女をのたうちまわらせた。絶頂(アクメ)のときの声がもれないように、口をふさぐのがけっこう大変だった。はずみで右手の小指側をかまれたほどだ。見ると、赤く歯のあとが残っている。

ベッドの足元には、女の濃いオレンジ色のスキャンティとブラジャーが、ほうりなげられ、コンドームをつつんで丸めたティッシュのかたまりが、くずかごから遠く離れて、いくつか転がっている。

女の目が、まぶしさにしかめられる。寝ている猫がまぶしがっているようだ。栗色がかった髪をみだして抱きつく枕に、光をさけて顔をおしつける。

 女は、明津が起き上がると、つられて肌寒さにふるえながら寝具をひきよせた。子供のような口調で、恥ずかしそうに笑った。

「すごいんだ。あんた、見かけはヤクザっぽいけど、そっちもヤクザなみね」

 抱きがいのある女だったが、一晩つきあっただけなのに、もう同棲相手を見るような目つきだ。明津は、うんざりして吐き捨てた。

「ヤクザとやったことあんのか」

「やられたの。無理やり。とにかくすごいんだから」

「たいしたほめ言葉だぜ」

明津は、勃起しかけてしずまったペニスにちらと視線をおとし、ぬるりとした冷や汗まみれの体を流すため、シャワーを浴びに立ち上がった。

 風呂場で襲われたときのためのサバイバルナイフを、特製の防水もの入れから取り出し、洗面ユニットに置く。刃渡り二○センチの大物だ。いかなるときも丸腰だけは絶対に避ける。バスルームに入り、熱い湯をたっぷりと浴びる。脳裏に、黒いライダースーツの悪夢の女の姿がこびりついて離れない。これは、彼の仕事にとって好ましいことではなかった。

 鏡に顔を写しながら、カミソリでひげを当たる。ひげも眉も濃いほうで、頭はパンチパーマにしているので、たしかにヤクザっぽく見える。眼光は、できるだけおとなしくみせようと努力していても、底からの光は消せない。ひきしまった頬と顎は、不敵そうだという評価だ。角度によっては、人を馬鹿にしているように見えるので、いいがかりをつけられることもある。

 明津はヤクザではない。刺青はないし、小指も両方ちゃんとある。

だが、彼はヤクザよりもはるかに危険で、得体の知れない世界を相手にしてきた。彼の本職と経歴を知ったら、ベッドの上の女も、悲鳴をあげて裸で逃げていくだろう。

 彼の体には、いくつかの大きな傷がある。右の脇腹には大きなやけどの痕があるし、背中には、なめし皮のように光るいく筋かの切り傷も走っている。

傷はよくみないとわからないが、顔面にも多い。こめかみのあたりや、顎や鼻などに、目立たないがたくさんの小さな縫い跡がある。

 普通の人間なら、とっくに死んでいる経験の持ち主であることを、無言でそれらは証明している。彼は死にたくないし、生きのびたかった。彼が死んでも、悲しんでくれる身寄りなど、どこにもいはしないが、生まれつきの特殊能力をフルに駆使し、赤熱した剃刀の刃の上を渡るような修羅場を切り抜けてきた。

 ひげを半分ほどそったとき、けたたましい女の悲鳴が寝室から聞こえてきた。顎の半分に白いシェービングクリームをぬりたくったまま、彼は腰を落としてドアを細く開き、外をうかがった。シャワーを出しっぱなしにして、サバイバルナイフを逆手に握りなおす。

ぬれた体を、すべらないよう足ふきマットで足だけすばやくぬぐう。音をたてずに、寝室に全裸の姿勢を低くしながら走りよる。

 女の悲鳴は、泣き叫ぶ声だ。何かにひどくおびえている。寝室のドアのすきまからベッドの上をのぞく。女が、シーツと毛布をつかんで固くくるまり、おびえきったうさぎのように全身をちぢめている。ベッドの足元の床を凝視していた。顔面はひきつり、蒼白で、血走った目が、悩乱の涙を浮かべている。

 静かに細くドアをあけ、女が明津の視線をうけとめて、発狂しそうなすがりつく目を向けた。パニックに顔をぐしゃぐしゃにしていた。

 ナイフを構えている彼の姿に、ぎょっとするが、女はわななきながら、凍りついた視線でひとつの場所を指さした。

「へ、ヘビ! ど、毒ヘビ……」

 女の指先が、ぶるぶる震えてさす方には、なにもいなかった。安物のパイル地のカー

ペットがあるばかりだ。

「なにもいないぞ」

「に、逃げたのよ。ひどいよ、あんなヘビを飼ってるなんて。ヘビ、大嫌いなんだから」

「ペットなんかいない」

「じゃ、あれ、なんなのよ!」

 明津は油断なくナイフをかまえ、手近のバスタオルを左手にぐるぐるまきにし、ゆっくりと膝をおってベッドの下をのぞきこんだ。

 やはり何もいない。念のため、マグライトですみずみまで照らしてみるが、蛇などどこにもいない。

「ひいいいっ。へ、へびっ」

 女が死にそうな悲鳴をあげた。すばやく女の視線の先を確かめる。耳元に、マラカスの音をこまかく振ったような、ぶきみな音が聞こえてくる。

明津が、ちらと視線を走らせると、ベッドサイドのガラスのテーブルの上に、一匹のガラガラ蛇がとぐろを巻いていた。白黒まだらの尾の先にふくれあがったガラガラを、ぴんとたてて盛んに震わせ、激しく威嚇している。

ベッドの脇のガラスのテーブルの上に、ゆうべ飲んだウィスキーのボトルと、ふたつのタンブラー、アイスペールがある。ガラガラヘビは、それらを抱くようにからみ、黒い無表情な目が、鋭く明津を見つめている。


    2


 ガラガラ蛇は、尾をふる音をたてながら、ずるりとテーブルから床へはいおりた。鎌首もたげ、ちろちろと先の割れた舌で、こちらをうかがうさまは、無気味さのかたまりだった。ハンドバッグや財布に、ちょうどよさそうな柄の黒と白、茶色のまだらだ。

 明津は、カーペットの上にS字型にはう毒蛇の頭めがけて、サバイバルナイフをはなった。ナイフはあやまたず、蛇の頭をつらぬいて斜めに突き立った。

 頭を床に串刺しにされ、くねりもだえて苦しむガラガラ蛇を、女があんぐりと口をあけて見つめている。

 明津はそのまま、ナイフから逃れようともがく毒蛇を凝視する。とたんに、蛇の姿が薄れ、急速に幻のように消えていった。あとにはナイフだけが残された。

明津は、なにごともなかったのように、それを抜き取って女にふりかえった。

ちらと壁の時計をみあげると、朝の五時を少しすぎたところだった。

「もう、帰った方がいいな」

「き、消えちゃった……」

 女は蒼白になって震えていた、ひどく体が冷えて固くなっていた。鳥肌だっているのがわかる。彼女は、これ以上ないくらいの懇願をこめて明津を見上げた。

「ね、どうなってんの? 毒ヘビはどうなったの? ねえ、一匹じゃないんでしょ?」

「安心しろ。幻覚だ」

「幻覚って? どういうことよ」

「よくあることだ」

「冗談じゃないわよ。なんでそんなに涼しい顔をしてるの。なんとかしてよ!」

 たしかに、明津にとっては「よくあること」だったが、この女には初めての、そして二度と味わいたくない経験だろう。

 これは、明津に対する「敵」の軽いジャブがわりの「接触」だ。闇の中に設立され、活動し続ける「組織」の人間が、テレパシー幻覚攻撃をかけてきたのだ。普通の人間なら、十分ともたない。

 明津は女の腕をつかむと、立たせようとひっぱった。

「起きろ、この部屋から出ていくんだ」

「いやよっ、ヘビがいるっ。噛みつかれる」

 女は立ち上がるどころか、頑強にベッドの上にいすわり続けようとする。動く気がまるでない。死体同然だった。死体というものは、信じられないほど重いものだが、気力を失った女の体もそれに似ている。見てくれ以上に重くなる。

明津は苦労して立ち上がらせようとするが、徒労に終わった。ゆうべはあれほど柔軟で、熱く鋭敏に反応した同じ肉体が、今は石のように固く冷たく重い。

 事態を知らない素人は恐ろしい。自分がガラガラ蛇に噛まれるより、もっと途方もない状況にあるのだが、まるで自覚できないでいる。尻をけとばしてでも追い出すべきだろうが、そんなことをやっていたら、こっちが背中をやられる。

 明津は、ちらと歯をくいしばると、全裸のままベッドサイドに立った。

「目をつむってろ。いいか、これから起こることは、絶対に見るな。見たら、死ぬぞ」

 昨夜の快楽にのたうった跡がしめっぽいシーツと毛布をつかむと、女にほうりなげ、横顔をむけていう。

「死にたくなければ、こいつをかぶって、おれがいいというまでおとなしくしてろ」

 女は、明津のドスをきかせた低い声と、横顔を見て、目がとびだしそうな脅えの表情を浮かべた。凶暴な野獣を間近にした者の目だ。顎の骨がはずれたように、がくがくとうなずくと、ものもいわずに毛布をひっかぶる。

 毛布の中で、女がすすり泣く。明津にとって、お荷物がひとり増えた分だけ、手間がかかるのはまちがいなかった。

 彼は、ナイフをかまえなおした。手入れをおこたらない切れ味最高のそれは、格闘のあげく、「敵」の血を吸うことも少なくない。

 台所で、バンッと何かが開く音がした。“強盗”が入り込んだようだ。ガチャンと何か重いものが倒れ、食器やガラスが、激しく砕ける音がした。食器だなが倒され、テーブルのひっくりかえる音がする。バキバキと木の折れる音は、テーブルの脚でも折っているのだろう。

 音だけで台所が手当たりしだいに荒らされているのがわかる。陶磁器やガラスが砕けるいやな音が、たて続けに部屋中をゆるがす。“強盗”のやつは、こちらが動けないのをいいことに、やりたい放題しているらしい。「接触」の第二段階だ。

 あんまり派手にやってもらっては困る。毛布の中の女の体が、小刻みにふるえているのがわかる。気が狂いそうなほどの恐怖にうちのめされているのだ。女の泣き声が、さらにあわれで、声をおしころしたものになる。

 唯一、気になるのは隣の部屋の住人だった。一応、防音構造はしっかりしているが、よけいな関心を持たれたくない。警察に通報されても、所轄に手をまわし、なかったことにするのはたやすい。だが、隣の人妻は、明津に気があるそぶりを見せるので、なにかと接触の機会をつくろうとするのが気がかりだ。

 自称二十歳の独身女でさえ、このざまだ。人妻だったら、手に負えないことになる。夫がかまってくれなくて、子育てに疲れているらしいが、そんなことは明津の知ったことではない。平凡な庶民の暮らしが、彼の命を守ってくれるわけではないからだ。


    3


 彼は全裸のまま、自分と女の身を守るため、脳裏の中央に強く意識を集中させた。目を半眼にし、胸の前にナイフの切っ先を正眼に構え、予想される次の攻撃にそなえる。左手にはバスタオルを巻きつけたままだ。

 最初に、ダイニングと寝室の間にあるドアが、激しい音を立ててあいた。ついで、銀色や白に光るものの集団が、ざあっとドアの向こうから飛びこんできた。明津めがけて、獰猛な蜂の大群さながらに押しよせる。

 そいつは、包丁やナイフやフォーク、砕けたガラスや食器の破片、ささくれたテーブルの脚が、ごちゃまぜに空中を飛んで殺到してきたものだった。だれも手を触れないのに、台所じゅうの刃物と鋭い壊れ物の破片の山が、空中に投げ出され、鋭利な折れ口の牙をむくテーブルの足とともに、とびかかってくる。ホラー映画のSFXならともかく、毛布の下の女が見たなら、発狂する光景だろう。

これはあきらかに、暴力以上の異常な破壊力の発現だった。明津と同じ、強い念動力の持ち主の攻撃だ。騒霊現象(ポルターガイスト)などというレベルのものではなかった。

彼は、めったにつかわない大事な念動力を、瞬時に発動させる。念動力は命にかかわることが多いので使いたくはないが、やむをえなかった。使いすぎが寿命を縮め、発動の仕方によっては、心不全の死をもたらしかねない特殊な能力なのだ。

ふつうは、相当な荒事でも、事態が腕力と武力で解決できるうちは、最大限に暴力や武器を使う。だが、相手が相手だけに、この好ましからざる力に、頼らざるをえなくなるのも事実だ。

切っ先も切れ味も最高のナイフをかまえながら、明津は襲撃してくる包丁やフォーク、ガラスや食器の破片の突進を、意識の力をしぼって「おさえ」こんだ。

 拡大した精神の触手をもった念動力に、激しく強烈な「手ごたえ」があった。脳裏のまんなかに、がつんと眼に見えず、きなくさい衝撃が走る。敵の思念波と激突したのだ。空中から矢の速さで飛来する危険物の雲の速度がにぶる。こちらの念動力の抵抗がきいているのだ。肉体ならば、両手を組み合って、力比べの状態だ。かなりの念動の使い手だった。

 強引に押して、こっちの抵抗を破ろうとする力は、猛々しい若者の精神力だった。これまで何人もの念動力の持ち主と渡り合ってきたのだ。攻撃されながらも、敵の正体の一部が読み取れる。

 眼前の上空、天井近くにがちゃがちゃと耳障りな音をたて、渦巻いてわだかまる危険な破片の群れを、いつまでおさえておけるか。かなりの回転力と突進力が与えられている。かけらひとつでも肉体を直撃すれば、骨まで達する重症は避けられない。ひとつひとつの破片が、それぞれ好きなように、体の中をひっかきまわすことができるからだ。

 強烈にしぼりこまれた鋭い念動の一波が、いきなり強制的な破壊力で明津を襲った。こちらの抵抗と念動の障壁の一部がやぶられた。滞空する危険物の渦から、テーブルの脚と刺し身包丁が射出され、明津の顔面めがけて突進してくる。

 ぎらつく柳刃包丁の刃と、ささくれて突き出したテーブルの木製の脚のするどい切っ先が、彼の眼と口を狙ってくる。ナイフをふりおろして包丁をはじくと同時に、左手のタオルをぱんとはってはらい、テーブルの脚をはたき落とす。

 キュインという胸の悪くなる音を発して、加速度のついた刺し身包丁が、ナイフとぶつかり瞬間的に火花を散らす。はじけとんで天井に斜めに突き刺さり、ビーンと音を立てながら小刻みに震える。

 テーブルも、骨折のような不気味な音を立て、ドスッと床に落下する。回転力があまって、ヘリコプターのローターのように、ぐるぐると安物のカーペットの上で回転する。はげしく部屋中をはねまわり、やっとベッドの向こう側の床の上でとまった。

 どちらも、女のいるベッドを直撃しないようにするのが、ひと苦労だった。

 手榴弾や散弾のように、部屋じゅうに爆裂して殺傷しようとする敵の力と、それを封じこめて排除しようとする明津の力が、眼にみえない格闘を演じていた。渦巻く瓦礫と刃物の空中の固まりは、ふたつの力の間で、激しい破砕音をたてながら、台風の眼さながらに回り続けるだけだ。

 こちらの防御の網の目をぬけて、ときどきフォークやアイスピックが、ガラス食器の破片といっしょに飛んでくる。速度を鈍らせ、いちいちたたき落とすが、頬や二の腕をかすめてゆくのは避けられない。

 念動の戦いは、攻める方も守る方も、瞬間勝負だ。短い時間で、一気にかたをつける。その点、格闘技と変わらない。勝負にでなければやられてしまう。ためらった方が負けるのだ。

 敵もそれを熟知しているとみえ、すぐに次の動きが起こった。眼前の頭上で渦巻いていた瓦礫の雲が、一挙にざあっとその場に落ちた。ガシャガシャ、パリパリと激しい音を立てて、ただちに大量の危険な破片の山ができる。

 だが、それもほんの一瞬のことだった。破片の山は、すぐに舞い上がり、とんでもない攻撃に出た。瓦礫自体が、高さも幅も輪郭も、ちょうど人体そっくりの形をとって、立ち上がったのだ。

 こういう念動の使い方は初めてだった。危険な殺傷力をはらんだ瓦礫の山が、今や敵の念動のままに、等身大のあやつり人形と化した。両足と両腕を広げ、こちらに歩いてくる。空中を舞う大量の食器の破片、箸、フォーク、スプーンなどが、人の形に漂いながら、フランケンシュタインさながらに迫ってくるのだ。

 明津は驚くが、すぐにこれが敵のこけおどしなのを見抜いた。しかも、こちらをなめたアホウの若造のようだ。あんまり見えすいた手なので、裏になにか別の罠が用意されていることを警戒する。

 明津は、敵の陥穽にいつでも対処できるように構え、即座に瓦礫のフランケンシュタインの心臓と頭の部分に、撃破の念動力の鉄槌(てっつい)をたたきこんだ。肉体にたとえれば、顔面フックと心臓直撃だ。

 それは文字通り、「パンチをぶちこむ」以外の何ものでもなかった。破壊の意志の凝集した精神波が、物理的な爆発力となって、敵の人型の力場を直撃する。

 パンという爆竹じみた音とともに、瓦礫の渦でできた頭部が瞬時に爆裂し、破片をあたりじゅうにまき散らした。心臓の部分にも、大きな空洞がずぼっとあく。背中がわに、ねじれたスプーンや皿やグラスのかけらが、噴き出すようにはじかれ、床じゅうに散乱する。

 念動フランケンシュタインの頭と心臓が散華し、破片と瓦礫が、激しい雹の音をたてておびただしく床に散らばる。同時に、人の形をたもっていたのが、一瞬に崩れて床に山をなしてつもる。

 危険な瓦礫の人型が倒れた瞬間、頭上からけだものの咆哮じみた絶叫があがった。

身も世もない狂ったような男の叫び声だ。だれもがぎくりとする凄絶なそれは、たった一回でしずまりかえる。

 毛布をかぶった女の方を見るが、なんの反応もない。はぐってみると、白眼をむいて気絶し、失禁している。

床や通路は、破片だらけで眼をおおうばかりだ。壁も刺さった危険物で、手をつくこともできない。もちろん足の踏み場もない。

彼は、毛布とシーツを裂いて、足と手に何重にも巻きつける。ありあわせの下着と、スポーツシャツで急いで身支度を整える。

腕や顔や脚に、破片で傷ついたこまかい出血が十箇所近くあるが、軽くぬぐってすます。いまは、絶叫の主がいるはずの階上の部屋に向かうこと最優先だ。


    4


 階上は403号室だった。住んでいるのは、二十台半ばの外資系企業につとめるOLだったはずだ。そこに、「敵」がひそんでいる。明津に念動力の攻撃をかけた相手こそ、あのすさまじい吼え声の主だ。

 早朝の男のたった一度の絶叫に、住人はだれも起き出してこない。無関心なのか、恐れているのか、まだ夢の中なのか、階段にも廊下にも人影はなかった。

 あたりをうかがい、ドアの鍵をたしかめ、用意した特殊な開錠具で、すばやく開けて中に入る。念動力を用いて鍵をあけることもできるが、すでに心臓のあたりに重苦しい疲労感が生じている。何かあったときのために、細かいところで念力を浪費したくなかった。

 中に入ると、入口に女ものの靴が何種類もちらかっている。台所には洗い物があふれ、下着も上着もパンストもごっちゃに、あちこちに散乱していた。香水とあつぼったい女の体臭がこもって、息苦しい。この部屋の主は、整理整頓ということを知らないようだ。何か盗まれても文句もいえないところだ。

 乱雑をきわめ、両側から服や雑誌やDVDなどのディスク類、こまごました生活雑貨が崩れ落ちてきそうな中を、注意ぶかく足音を殺して進む。寝室らしい奥の部屋は、さらに多くのものであふれかえっていた。ごちゃごちゃしたベッドの上に、ひとりの長身の男が倒れている。海老のように身をよじり、頭を両手でかかえ、もがき苦しんでいた。

 明津は、そいつのそばに注意深く近よった。淡褐色の髪と青灰色の瞳の白人の若い男だった。思った通り、いつもの連中の一人だ。そいつは、鼻血を噴き、口と眼からもよだれや涙のかわりに血を流している。悲鳴と絶叫をあげたいのを、必死にこらえてうめいている。

 大した克己心というべきだったが、明津はいきなり、苦しみもがく男のえりくびをつかんで持ち上げた。

「起きろ、このやろう。日本語わかるだろうが」

 血に眼の縁を赤くぬらした白人の眼が、驚きに大きく見開かれる。白人の白い肌に、赤い血の縁どりは、ぶきみに生々しく、また凶々しかった。

白人は血のまじった唾液の泡をふきながら、つぶやく。

「ア・・・アクツ」

「何が狙いだ。いいやがれっ」

 無力化した白人男をひきずりおろし、女物の下着や未使用の生理用品、なまがわきの洗濯物をおしのけ、フローリングの床にうつぶせに押し付ける。あたりのものに、血がついて汚れるとまずい。手近の新聞紙をひろいあげ、男の顔の下にしく。

 後頭部の髪をつかんでもちあげる。鼻っぱしらをつぶすため、顔を二度三度と、床にたたきつけた。ぐしゃりと軟骨がつぶれ、前歯の折れる手応えがある。くぐもった悲鳴とうめきがあがり、苦悶にやつの指が床をかきむしる。新聞紙がたちまち真っ赤になった。

「鼻ならあとで整形がきくぜ」

 これでもまだ、だいぶ手加減している方だ。念動を使う気力を奪うには、まず肉体から痛めつける。敵の戦意をまずそぐのが基本マニュアルだ。

「おれを簡単に消せると思ったか。あん? なめんじゃねえぞ。このヤロウ」

 白人男は、不敵にも、ウサギの口のように上唇が裂けた血まみれの口で笑う。具体的なことは、なにひとつ答えようとしない。ただ、血のまじった歯を吐き出し、唾液にむせて激しく咳をすると、慣れた日本語でうめく。

「念力で、勝負ではないのか・・・」

 明津は、よけいなセリフは聞きたくない。もうひとつ、床に敵の顔をどかっとたたきつける。

「人を殺そうとして、そんなごたくをいうか。短刀(ドス)や拳銃(チャカ)でやるか、念力や催眠波でやるか、道具のちがいだけだろが」

「われわれの理想は……おまえのようなのとは、ちがう」

 明津は、男の首がへしおれそうなほど、髪の毛をつかんでのけぞらせる。

「テロリストどもが。理想だと? くだらねえ。ここの女はどうした」

 血のあぶくにまみれ、男は虚ろな笑いを浮かべる。

「われわれの仲間が、ナンパした。当分、帰ってこない」

 部屋を留守にさせるために、敵の仲間の白人が、ここのOLをたらしこんだのだ。

今ごろどこかで、犯されまくっているという寸法だ。白人だと、疑いもせずにひょいひょいついてゆく、軽薄さをまんまと利用されたのだ。

 明津は、自分の仕事ではない尋問を、これ以上つづける気はない。もともと本部の連中のやることだ。自分の仕事は、こいつの身柄を拘束し、所定の部署に突き出すことだ。

 息をゼイゼイいわせ、眼の焦点があわない白人の髪をわしづかみにしたまま、

「話のつづきは別のところでやれ。眠ってもらうぞ」

 といいざま、二回ばかりまた床に顔面をたたきつける。ぐったりしたところで、血のとびちった両の襟をつかみ、柔道の締めわざを使って、思いっきり落とす。白人男は窒息の苦悶に、手足をばたつかせたが、すぐに気絶して動かなくなった。

 念のため、電気コードやタオルなど、ありあわせのものを使い、両手と両足を後ろ側に固くしばる。目隠しをした上で、さるぐつわをかませた。

 毛布でぐるぐる巻きにされた白人男をかつぎあげる。すばやくドアをあけ、あたりに人影のないことを確認する。階下に足早に下りてゆき、自分の部屋にもどる。毛布でくるんだ男を、風呂場の空のバスタブに放りこんでおく。本部から始末しろと命令があれば、そのままバスタブに水を満たしてやればいい。声もたてずに溺死体になってくれる。

 気絶した女は、まだ白眼をむいていた。失禁は大量で、はやくも異臭を放っていた。これでベッド一台がオシャカだ。

「なんてこった。茶碗もベッドもなしか」

明津は、ちっと舌打ちすると、携帯で本部に連絡をとる。いくつもの連絡回線があるうち、いちばん確実なものを選ぶ。留守番電話サービスの録音応答が出るとふきこむ。

「新しい仕事の急ぎの依頼だが、ものになりそうだ。ひとりあたり時給いくら出すか、ききたい。まだ白紙なんで、だれか事情にくわしいやつをよこしてくれ。それと、ハウス・キーパーをやといたい。以上」

 隠語で「突発事態が生じて襲われた。人数はひとり。尋問はなし。早くひきとりにきてくれ。同時に襲撃の痕跡を消すスタッフも頼む」という意味だ。

 一分もしないうちに携帯が鳴った。番号を見ると、明津が表向きつとめている業界新聞の編集部からだ。聞き慣れた編集長のぶっきらぼうな声が告げる。

「そちらの条件はすべてのむ。急いでやってくれ」

「わかった。今度のは、ちょっと簡単すぎやしないか?」

「ハウスキーパーから聞いてくれ」

 電話はあっさり切れた。敵の白人の攻撃と戦闘の結果は、激越だが単調すぎて、明津は気にくわなかった。裏があるはずだが、気絶した男から読み取ることはできない。部屋の“掃除屋”に伝言を持たせているそうだから、何が起こっているのか、朝飯がわりに聞かせてもらうしかない。


    5


 配管工事の業者に偽装し、“掃除屋”がやってきたのは、きっかり五分後だった。外から見れば、部屋の水まわりがつまって、工事をしているとしか見えない。水洗トイレがおかしくなったと、隣近所にぐちってみせれば、いいわけに数時間はかせげる。もっとも“掃除”するのに数時間もかかることはない。

 三名の“掃除屋”と、ひとりの“つきそい”が、明津の部屋に入ると、すぐに作業がはじまった。大型の無音の掃除機が三台入れられ、驚くべき速さで瓦礫をすいとってゆく。天井に刺さった刺し身包丁とともに、今回の敵の使った能力の分析に、サンプルとして本部に持ちかえる。

“つきそい”は、こんな場所に現れるのが珍しい男だった。父親を黒人に、日本人を母に持つ混血の背の高い二十代なかばの男だ。全身にばねがあって、顔つきも色こそ黒いが、女たちをとろけさせる精悍さを放っている。

 男は、配管業者のかっこうをしたまま、ポケットに黒い手をつっこみ、女が気絶しているベッドに平然と腰かけた。野性味たっぷりの黒い顔が、ばかにしたように明津を見上げ、白い歯がにやりと笑いかけた。

「よお、アクツ。ざまあねえな。夜討ち朝駆けってやつか」

「うるせえ、マック」

 男は、顔色をかえて腰をうかしかけた。

「俺をマックと呼ぶな。ハンバーガーじゃねえぞ。マッコール=泉屋って、ちゃんとした名があるんだぜ」

「わかったよ、マッコイ。今度、マックとよぶときゃ、ピクルスとカラシもつけようじゃないか」

泉屋は、眼つきは鋭いが、目鼻だちがととのっているので、エキゾチックな色気がある。白い歯をみせて笑うと、どこか飄々とした突き抜けた雰囲気もあり、女たちはそこに惹かれるという。同性愛者にももてるらしい。泉屋自身、その気はまったくない。マッコール=泉屋につきまとって、交際を迫り、半殺しにされた同性愛者は星の数ほどいる。なにが悲しくて、こんなやつのカマをほったり、ほられたりしたがるのか、明津には理解の外だ。

 泉屋は、うつぶせに気絶した女のむきだしの尻と陰部に、好奇の視線をはしらせ、すぐに食傷したといいたげに肩をすくめた。

「ゆうべは、お楽しみだったわけだ。ところで、味はどうだった?」

 掃除屋が目鼻をつけるまで、することがないのでこうしたくだらない雑談で時間をつぶすことになる。明津は、ティッシュではなをかみながら答えた。

「中の上ってとこか」

 泉屋は、なっちゃいないといいたげに首をふった。

「ったくよ、俺なら“中”の部類にゃ手をださねえぜ。女は絶対“上”でなきゃな」

「女たらしが、グルメぶるな。ところで、マッコールくん」

 いぶかしげな泉屋に、明津はさりげなくベッドを指でしめした。

「そこは、ションベンですっかりぬれているんだが」

「shit!」

泉屋は、眼を丸くしてとびあがった。もともとバイリンガルだが、父親が黒人米兵だったせいか、びっくりしたり感情が激すると英語になる癖がある。いきりたった泉屋は、尻をばたばた手でたたきながら、ののしり叫ぶ。

「Fuck you!」

「ファックなら、ゆうべしたぜ」

 泉屋は、しょうがないといいたげに、尻がぬれていないかどうか、気にしながら、

「しかし、この隠れ家を見つけられんの、今度はちょいと早かったな」

「三十五日だ。次の場所にうつらんとな。それより、獲物に処置はしないのか」

「今やるとこさ」

 泉屋はそういうと、掃除がすんでついた破片の間の通りみちを、バスルームへ歩いてゆく。

 本部につくまで白人男が目覚めないように、麻酔薬を射ちにゆくのだ。

 泉屋は、バスルームの扉を後ろ手に静かにしめて、すぐに出てきた。手には空になった注射器をもっている。

 明津は、バスルームから、二人がかりで毛布にくるんだ白人をかついでゆく掃除屋を呼び止めた。耳に手をあてがい指で天井や壁をぐるりと示す。“盗聴装置はあったか”というしぐさだ。掃除屋は、黙ってうなずき、取り除いたからだいじょうぶだと、手ぶりで答えた。

 すべての段取りは、掃除屋がやってゆく。ベッドの上の女も、しかるべき処置をして、彼女の住所に届けるため、かろうじて引き裂かれずにすんだ服を着せて運んでゆく。ここに明津がいた証拠も、じきになくなる。

掃除屋は、すっかりあたりをきれいにし、余計な女も闖入者も運び去った。

明津と泉屋は、掃除屋が帰ったあとを、念入りに点検してから、本題に入った。

泉屋が、作業用の用具袋から缶入りの水割りを出した。冷蔵庫の中身もやられたので助かる。この男は、こういうとき妙に気がきく。

 二人は床にじかに座りこみ、乾杯などせず、プルトップをあけた。泉屋が、うってかわった真剣な表情で警告した。

「今回は陽動だ。おまえもおかしいと思ったろ。とっつかまえたやつは、下っぱだ」

「何か、つかんだのか」

「つかんだどころじゃねえよ。おまえが襲われると同時に、やつらの一味が、本城パーリア製薬の研究所に潜入しやがった。捜索中だが、まだ見つからねえ」

「本城パーリア? 本城製薬と合併した外資系の中クラスの製薬会社だろう」

 色の黒い泉屋が、缶に口をつけたまま眼を丸くした。

「おまえ、知らんの? 世界最大手の製薬会社ゼネラル・メディコムの傘下企業だぜ。本城もパーリアも、もともと抗生物質系の新薬開発が主力だ。そこの研究所っていったら、やつらが狙ったのは、バイオ兵器開発に決まってるぜ。少しは頭を回転させろ。女とやりすぎて、にぶったな?」

「体の中を、血のかわりに精液が流れてるようなやつに、言われたかないね」

 泉屋は、ぐびっと缶の中身を飲み干すと、また作業袋に入れた。ちびちびやっている明津の前に立った。

「本城パーリアに潜入したやつらについては、すぐに指令がくる。いつものように、いつもの手はずで、指令は伝達するってことだ。いずれにせよ、やつらに目の敵にされてるあんたが、気の毒だよ」

「ご同情、いたみいる。名前もばれちまってるんでな。隠しようもない」

「まったく、忙しい男だな。名前でも変えるか」

「ふん、よけいなお世話だ。おれは、自分の名前が、気にいってんだ。それに……」

 明津は、そこで口をつぐんだ。泉屋も、それ以上はきこうとせず、軽く手をふって出ていった。

 二人とも、互いの過去に関心などない。あっても聞けるような話ではあるまい。すべてが闇から生まれて、闇へと葬られ、血と死のただ中に移りゆくこの世界では、生きのびる現在が最優先だ。かえりみる過去もなければ、待ちこがれる明日もない。



明津は、『日本稀少金属新聞』の編集部に呼び出された。赤坂の一等地の政府外郭団体の数々が入っている七階建て雑居ビルの三階だ。この新聞社自体は、国家の安全保障に関する外郭団体網の末端、特殊法人のひとつだった。

一応、建前上は、レアメタルをあつかう金属会社や商社など、読者層のごく限られた業界紙ということになっている。実態は、来客などほとんどなく、記者の数もいないに等しいため、受付すらない。

エレベーターを使わずに階段をあがり、頭ひとつ下げずに、編集部のドアをあけて中に入った。八畳ばかりの広さに、五つのデスクがあり、奥のひとつに、雑誌をめくっている五十代の編集長の姿があった。ほかには、記者らしからぬ図体の大きい男が二人、デスクの上に脚をのせて新聞を読んでいる。

二人とも、外見は普通だが、こちらをちらと見る視線の速さと鋭さが、稲妻のようだ。一方は、明津と同じぐらい三十代の前半、もう一方は二十台なかばといったところだ。

見たこともない男たちだったが、顔見知りになる必要はない。ここは、ただの中継地にすぎない。必要な人材が、宅配便の荷物のように、右から来ては左に去り、北から送られては南へ運ばれる。昨日あった男どもは、今日はどこかへ消え、眼前の男たちも、その多くは二度ともどってこない。そして、明日はまた別の見知らぬ男たちが、そこに座っている。

デスクの上には、申しわけ程度のファイルスタンドや、みせかけの資料本が立ててあり、その隣には店屋もののドンブリや皿、わりばしが無造作に重ねてある。ゴミ用のボックスには宅配ピザや寿司の空容器がつっこんであるのが見える。

壁ぎわに並ぶファイルケースやキャビネットも、中はほとんど空だ。原稿を書いている雰囲気はまるでない。実際、だれも何も書いていないのだ。それでも、新聞が定期的に発行されるのは、別の下請けスタッフがいるからだ。

明津は、男たちを無視して編集長のデスクの前に立った。人の出入りが激しいこの部屋で、いつも同じデスクに座って待つのは、この男だけだ。ぱっとしない鈍い顔つきで、地味なスーツを十年一日のようにつけている。噂では、昔はどこかの官庁のやり手官僚だったというが、キレ者のイメージはまるでない。ものおもわしげな表情だが、いったんしゃべると、ぶっきらぼうだ。

「本部長が、呼んでる。早くいけよ」

明津は、デスクの上に手をついて、軽く身をのりだし眼をいからせた。

「いけだと? おいおい、おれはあんたの部下じゃないぜ。本部長の下で働いてるわけでもない。どっちも、ひっくるめて“嘱託”だ。口のききかたに気をつけな」

編集長は、意外にしたたかな平静さでうなずき、

「本部長が呼んでいるから、行ったほうがいい」

明津の表向きの立場が、一時的に席を置く“嘱託”なのは事実だが、さりげない命令口調でも、なめた口をきかせるわけにはいかなかった。なまじな言い方を許していると、図に乗って無茶をいいだしかねない。人の命が、とほうもなく軽い世界だ。部下や仲間を使い捨てにすることなど、なんの良心の呵責もなくやってのける。

明津の属する特殊すぎる業界では、味方といっても「敵ではない」という意味を持つにすぎない。バックアップや援護を、安心して頼めるわけでもない。自分の力だけが頼りだ。それを忘れたとき、すみやかにわが身が死体になる。

明津は、机についた手をはなし、編集長をみおろした。

「ところで、今日のパスワードを聞こうか」

“本部”へ行くには、ここで毎日ちがう“パスワード”を入手しなければならない。昔なら合言葉というところだ。編集長は、口頭で六桁の数字とアルファベットのまじったパスワードを告げる。毎度のことだった。それをすみやかに頭にきざみこむ。

彼は、エレベーターを利用して地下の二階に降りる。エレベーターのケージの天井には、超小型のモニター用カメラが仕組まれているはずだ。肉眼ではまったく発見できない「本部」の監視カメラだ。

地下の二階は、普通の者には縁の無いボイラーや空調施設で占められていた。うちっぱなしのコンクリートの地下空間に、大型の送風機や無数のパイプ、配電盤がずらりとならび、湿っぽく油臭い。空調装置の送風音や、ボイラーの燃焼する鈍い振動音だけが、さびしい蛍光灯の下に広がる。

どんなに照明を入れても、ごうごう鳴る燃焼・送風音と、うちはなしのコンクリートが湿った陰気さは打ち消せない。その一画に、本部への案内人がいた。ボイラーマン兼空調施設の管理人がつめる、一畳ほどの広さのブースの中だ。

もうしわけ程度の受け付けの窓口に近づく。のぞくと奥の狭い畳の上で、ひとりの小柄な白髪をぼうぼうに生やした老人が横になっていた。歯のあまりない口をだらしなく開けて居眠りしている。いちおうボイラーマンのかっこうをしているが、だぶだぶと着くずしていて、本部の「門番」だなどとは、だれも思わないだろう。

声をかけようとすると、老人はむっくりと起き上がって、頭をぼりぼりやりながら、あぐらをかいた。しわだらけの顔だ。皮膜がかかったような赤い目で見上げる。歯ぬけの口をゆがめ、声なくにやりと笑う。

タヌキ寝入りしていたのだ。いつものことだが、食えない門番だった。

老人は、わざとらしく大きくのびをして、腰をかがめたままサンダルばきで立ち上がった。明津を片目をしゃくるようにして見上げ、ひどいしゃがれ声で告げる。

「きたな、地獄の常連が。おまえさんも、よくもまあ、この地獄の門にくるもんだ。いいかげんに足を洗わんか」

老人はブースから、片足をひきずりながら、ひょこひょこと出てきた。右足が不自由なのだ。本部への入口のある場所まで、足をひきずりながら歩きだす。明津は、うちはなしのコンクリートの狭い通路をついてゆく。

通路のつきあたりに、なんの変哲もない、人の背丈ほどの配電盤があった。各種の配電施設の数ある配電盤の列のひとつにすぎない。

老人は、その前に立ってふりかえった。あごをしゃくって促す。

「パスワード」

「“開けゴマ”じゃ、だめか」

老人は、ジョークに反応しなかった。

「パスワード」

「知らない仲じゃないだろう。たまには、顔パスでもいいだろが」

「パスワードだ。おまえさんがどうだろうと、パスワードをいえ。さもないと、こいつをぶっくらわすぞ」

老人は、その言葉とともに、目にもとまらぬ早さで、腰の後ろに手をまわした。次の瞬間、手のひらほどの大きさのピストル状の武器をとりあげ、つきつけていた。冷たく光るにぶい銀色のそれは、引き金とグリップ、銃身のついたまぎれもない護身兵器だ。

歯ぬけのしわだらけの口をゆがめ、老人のしゃがれ声が笑う。

「象も倒れる麻酔弾だ。しばらく眠るか?」

明津は両腕をあげた。これが、足を洗えと勧めてくれる老人の親切というやつだ。

老人は、出したときと同じすばやさで、超小型麻酔銃をひっこめた。かわりに、胸ポケットからポケットサイズの電卓を出す。

老人の手が、電卓のカバーを開き、キイのならぶ液晶窓の操作面を明津の顔の前につきつけた。

「名前とパスワードをいってもらおうか」

明津は肩をすくめると、名前と今日のパスワードを告げた。老人は次々と命じる。

「ほれ、指を押しつけろ」

電卓の液晶画面の部分に右手の人さし指を押しつける。液晶窓がにぶい青色に光る。

「つぎは、お目々だ」

言われるとおり、いま指をおしつけたばかりの窓に、今度は右目を近づける。赤いぼおっと輝く光線が、液晶面を左から右へと走査してゆく。

老人は、楽しそうにしゃがれ声で笑う。

「パスワード、声紋、指紋、虹彩紋、これが一致すればよし。でなければ、麻酔銃だ」

電卓に見せかけたリモコン識別センサーにメモリされた情報を、老人はキイをたたいてチェックする。それが終わると、眼前の配電盤の非常停止ボタンに、電卓型リモコンの先端を向け、所定のキイを押す。電磁波で、明津に関する今の識別データが、本部の監視コンピューターに送られるのだ。

老人の電卓型リモコンのオールクリア・キイが青く光った。こちらに体を向けると、少し残念そうに、いたずらっぽく頬をゆがめた。

「地獄の門番が、入ってよいそうだ」

老人の背後で、さっきの配電盤が静かに動きだした。電動音とともに、ゆっくりと後退する。

配電盤が奥にひっこむと、その跡に本部への入口が口をあけた。さらに地下へゆく暗い階段が続く。

両手をジーンズのポケットにつっこんだまま、明津はじいさんにあいさつもせずに、その階段を降りてゆく。背後から老人が、からかうように叫んだ。

「“この門をくぐるもの、一切の望みを捨てよ”」

頭上で配電盤が再び動きだし、入口が閉ざされ、闇が訪れた。

老人の叫びは、ルネサンス期の大詩人ダンテの『神曲』の地獄編にある一節で、地獄の門に刻まれている言葉だ。



暗闇を十メートルほど降りる。つきあたりは行き止まりだった。とたんに、非常灯に似たまっかな光が、天井に灯る。弱い赤光だが、両側の壁と正面が鏡になっているのがわかる。血のしぶきを浴びたような明津の姿が、全身あますところなく三方に映じている。鏡の向こうでは、エックス線と超音波と磁気による走査がはじまり、身体チェックが行われているはずだ。

赤い光が、今度は黄色になった。身につけているものをすべて脱ぎ、全裸になった。時計もはずす。同じ位置のまま、傷だらけの筋肉質の体が、三方の鏡の壁面に映る。数秒後に、光は青になる。明津は服をふたたびつけて、本部への扉が開くのを待つ。

厳重な身体検査は、所持する武器をチェックし、体内に危険物を隠しもっていないかを確かめるためだ。脳内から爪先まで、医療機関のCTスキャンやMRI(磁気共鳴映像装置)以上の精度で、すべてスキャンされる。

許可外の武器や爆発物を持たないかぎり、むこうが何かいってくることはない。たとえ、スキャン像に、脳腫瘍や胃ガンや肝硬変が映っても、明津にそれを教えてくれる親切心はない。ここは病院ではなく、国家のために人殺しを請け負う対テロ機関だからだ。

青い光が消えると、明津は胸のポケットから、サングラスを出してかける。殺菌用の強烈な光線が、目を傷めるとまずい。そのまま床が下がりだした。三方の鏡が上にせりあがってゆくように見える。ここは、突き当たりにみせかけた昇降用ケージだった。

二メートルほど降りてから、眼前にエレベーター用出口の灰色のドアが現れた。

有色灯が消え、頭上にはじめて白いまともな照明がつく。サングラスをはずした。

灰色のドアは、戦車なみの重層構造の鋼鉄製だ。至近距離からバズーカの直撃をくらっても破れない。万全のテロ対策をほどこしてある。

そのドアが、ゆっくりと音もなく両側に開く。しめったセメントのにおいが鼻をつく。前方に、打ちはなしの地下通路が十メートルほど続く。天井の高さは四メートル以上ある。レーザー監視装置と、不審人物だった場合の毒ガスや、水や強力粘着液を放出する各種の砲が、天井と両側の壁に隠されている。

明津は、そのままつきあたりの鋼鉄のドアの前に立つ。さっきのエレベータ用出口と同じだ。分厚く頑丈で両開きのドアが、音もなくなめらかに開いた。

眼前に別世界が開けた。地下とは信じられない施設だ。商社のロビーのような、機能的でこぎれいなエントランスが広がる。商社とちがうのは、大理石のカウンターが、奥に向かうドアのならんだ通路の入口の両側に、ひとつずつあることだ。

大理石と同じくらい美しく冷たい受付嬢が、通路をはさんで一対で座っている。二人とも白人で、驚くほど美貌の持ち主だ。向かって右側は赤毛、左側はプラチナブロンドだ。すごみのある美人で、こんな地下にいるのが場ちがいな女たちだ。

ただの女たちではない。ここは、何らかの攻撃が加えられ場合、いわば地下の「前線」になる。そこに受付嬢の形で、常時配置されている。スタイル抜群の外人女性たちだと思い、すけべ心でなめてかかると、突然に死ぬことになる。襲われても、ただちに男の睾丸を、眉ひとつ変えずに、素手でにぎりつぶせる女たちなのだ。

明津は、カウンターにひじをついて、ブロンド女の方に、油断なく視線を向けた。はりつめたスーツの胸には、IDカードで「エリザベス・ダーウィン」と読める。

何の感情もまじえずに告げた。

「明津祐二、本部長に用がある」

エリザベスは、表情のない青い瞳で、じっと見つめた。同時に背中側を、赤毛の女の方が監視している。

白人女は、事務的にインタカムの送受器をとった。歯切れのいい美しい発音の日本語が、明津のアポを確認する。

「第二応接室にどうぞ」

今まで何度か顔を合わせているが、この不動の冷たさが、今日はなぜか気に入らなかった。彼はどこかで、あの悪夢の女と重ね合わせていたのかもしれない。眉をあげて、初めて口をきいてみせた。

「ミス・ダーウィン。あんたは、これまで男を何人殺した?」

「業務外の質問ですわ。お早くどうぞ」

エリザベスの形のいい整った眉が、警戒心にかすかに険しくなった。視線は、反対側の赤毛の同僚に走る。

「本部長がお急ぎです。お早く指定のお部屋へ」

「おれは、女を殺したことはない。天国にいかせたことは、何度かある。朝になると息をふきかえして、もう一度と、せがまれるが」

エリザベスの冷たい表情に、かすかに蔑笑が浮かんだ。

「天国でもどこでも、いくのは個人の自由ですわ」

「男の血をみないと、天国へいけないあんたらも、自由というわけだ」

エリザベスの白い平手が、刃のように一閃し、明津の顔に飛んできた。その手をすばやくよけて、後ろの赤毛の美人にふりかえった。

「あんたらの趣味が、いつか命取りにならんようにな」

受付嬢に扮した殺人機関の女たちは、男の血を浴び、拷問で殺すのを楽しむサディスト・コンビで評判だ。この二人にかかったら、今朝がたの鼻をつぶした白人など、ひとたまりもない。

明津は、くやしさに唇をかむ美しい二人の白人女の間を、涼しい顔で通った。まるで受付にだれもいなかったかのように、通路の奥へ歩いてゆく。



第二応接室は、重役室のように、調度も内装もしっかりした部屋だった。大きなデスク、深々と座れる柔らかで高級なソファ、大人が隠れるほどの観葉植物の鉢、名画の額。部屋の名は「応接室」だが、実質は第二本部長室だ。ここにも、多数の監視装置や防御装置が備えつけられている。

本部長の高倉は、体格のいい男で、還暦を迎えたばかりだ。デスクの向こうに、仕立てのいい黒っぽいスーツをつけ、背筋をのばして座っていた。色があさぐろく、ほほがややこけているが、独特のいぶし銀のような精悍さがあった。

彼の目だけが他人とちがっていた。その右のまぶたは閉じられ、左目が薄目に開いている。固い動かない瞳が、左のまぶたの間に見えている。初対面なら、その異相にぎょっとすることだろう。冷たくあらぬ方に、不動の視線をそそいで見えるのは、義眼なのだ。

全盲の本部長は、明津が部屋に入るなり、義眼をむけ低いさびた声で告げた。

「ポケットから、両手を出したまえ。くせになると、疑われて撃たれる」

明津がジーンズのポケットに手をつっこんできたのが、盲目なのにわかるのだ。

彼は素直に手をだした。そのまま、ゆっくりとソファに腰をおろした。

「呼び出した用件は?」

高倉は、座ったまま引き出しから、一冊のファイルを出してデスクの上に置いた。

「やつらが、ある新薬を開発中の製薬会社に潜入した。探しだし無害化してもらいたい」

無害化とは、もちろん「抹殺」ということだ。明津は、横顔を向ける。

「本城パーリアのことは、マッコールから聞いてるぜ」

高倉は、ファイルの上に軽く手をのせたまま、義眼で彼を見ていた。

「研究所の極秘計画を、やつらは狙っている。ある種の生物兵器だ。生体強化用に特別に開発されている。どのような兵器かは、直接にいって見た方がいいだろう。ファイルを見てくれ。きみが接触しなければならない職員たちの記録がある」

明津は、かすかに唇をゆがめた。

「その前に、ギャラの交渉だ。ターゲットを探して、発見して、無害化する。ひとり頭、三千万といこうか。もちろん、必要経費別だ」

盲目の高倉は、義眼の奥で、数秒の間、考えてから告げた。

「きみのギャラについては、ほかのものより、いささか割高だと苦情がきているのだが」

明津は、ゆっくりと立ちあがった。

「そんなこたあ、知ったこっちゃねえよ。こっちは身ひとつで、命がけの仕事をすんだぜ。いやなら、おれはおりる。ほかに安く請け負うのを当たるんだな」

ほかに請け負えるやつなど、いるわけがなかった。ギャラが高かろうと安かろうと、この仕事をこなせる者は、この日本には彼しかいない。それを考えれば、一人頭の処分料が三千万というのは、むしろ危険手当てこみでサービス特価のようなものだ。

無表情なまま沈黙している本部長に、明津は背中を向けてドアに向かう。

「じゃましたな。国家保安局特殊調査班、特例破壊活動対策本部長どの」

特例破壊活動対策本部・・略称“特破本部”の最高責任者・高倉は、みじろぎもせずに虚空を義眼で見つめたままいった。

「前金で一千万、その後人数に応じて、三千万ずつ出そう。侵入者の数は、推定で三名いる。全員を処分したら、もう三千万の手当てをつけよう。確実に無害化してほしい」

明津はドアの前からソファにもどって座りなおす。

「知ってるだろ。しそんじたことはねえ」

全部で一億二千万の仕事だ。悪くはないが、よくもない。まずまずの相場だった。しそんじれば、鋭い牙の生えた死の顎(あぎと)が、おれを噛み裂いて飲み下す。そうなったら、いくら札束を積まれても役には立たない。

ソファから立ち上がり、そのとき初めてデスクの前に立った。置かれたままの青いファイルをとりあげた。

「ところで、潜入したやつらを、探知するスタッフが必要だ。マッコールの調子がよけりゃ、あいつの能力を使いたい」

高倉は、あたかも目が見えるかのように顔をあげ、義眼を明津に向けた。

「聞いてみよう」

そのまま、電話の送受器をとった。さびた声が、所定の部署に指示する。

「特破本部だ。透視セクション所属、マッコール泉屋のコンディションを知りたい。ミッション057“メデューサ1”に起用可能か……そうか。すぐに呼び出してくれ」

送受器を置いた高倉は、デスクの上に一本の万年筆を置いた。

「ミッションの義務だ。忘れずに持っていってくれ」

明津はむっとして、それを取り上げた。

「これが必要になることはねえよ」

「わたしもそう思うが、規定だ。所持するように」

しぶしぶそれをとりあげ、ポケットにつっこんだ。この万年筆は、中に自殺用の毒物のしこんである注射器だ。万一、作戦が失敗して脱出不能になった場合、これを射って、みずから口封じをしろというわけだ。毒物は、即効性の神経毒で、心臓が停止して体温が失われると、すみやかに分解するしろものだ。

ソファに座ってファイルをめくって、必要な事項を記憶してゆく。このファイルは、この場で高倉に返却しなければならない。ゆっくりとていねいに見て、目と記憶にやきつけてゆく。いったん返却したら、二度と閲覧は不可能、むろんのことメモなど論外だ。

写真入りの職員名簿で、ひとりの若い女の研究員の顔に、彼は視線を止めた。思わず心が動くような美しい女だ。鼻筋が通って色が白く、顔だちはすっきりと整っている。黒目がちの大きな目が印象的だ。鼻が高くて格調のある、日本人ばなれした知的な美貌といっていい。写真自体は、メタルフレームの眼鏡をかけ、白衣の襟がうつっており、まるでお固い卒業アルバムの写真のようだ。化粧気の薄い、きまじめな表情だが、それでもかなりの美人とわかる。

名前は「天日由利香(てんにちゆりか)」とあった。あまり聞いたことのない姓だ。有名薬学大学の出身で、二八歳。離婚したばかりで、生後十ヵ月の男の子がいる。直接に “生物兵器”の開発にたずさわっている。

目をひいたのは、美しいばかりではない。どこかで見たような気がするのだ。しかし、どこでなのか、思い出せない。研究所に閉じこめておくにはもったいない美貌と、姓と記憶のひっかかりのせいで、明津はその女のことが、一発で忘れられなくなった。

彼は、ファイルを返す前に、高倉にたずねた。

「この名簿の職員たちは、自分たちが生物兵器を手がけていると知ってるのか」

高倉は、こともなげに応じた。

「上の者だけが知っている。下の研究員たちは、新種の抗ガン剤か抗生物質の基礎研究だと思っている。つまり、そういう状況なのを、のみこんだ上で、言動に気をつけてほしい」

明津は、ファイルをばさっとデスクの上に放りなげた。

「無関係の人間を巻きこむと、面倒が増えるだけだ」

今朝の自称二十歳の女で知れたことだ。明津は、高倉に背中を向けて部屋を出た。脳裏になぜか、あの美しい女性研究員の顔が明滅する。それをふりはらいながら、一億二千万の仕事に向かう。


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