1-5 逃げる少女

 第三外周区の安価な土地に目を付けた中央企業が試験的に配置し、そのまま廃棄された弐型動力炉歯車製産工場。真夜中の闇を落とされた廃工場を唯一照らす月明かりに二人分の影が生み出され、再び闇へと溶け込んでいく。かつてこの工場で生産された動力炉歯車は、僅か十数センチにも満たないにも関わらず、途轍もない量のエネルギーを出力することが可能だ。


 そんな危険物が散乱する通路に、一筋の白銀が駆け抜ける。


「はぁ、はぁ……っ!」


 闇夜の中でも存在を明らかにする白銀の正体を、月明かりが容赦なく暴く。

 それは幽霊のように非科学的な存在でもなければ、動力炉歯車の鈍色が月光に煌めいたというだけの凡庸な風景描写でもない。


「く……っ!」


 降って間もない雪のように純白の髪、それが白銀の正体である。

 その幻想的な色彩の持ち主は華奢な身形の少女であり、ただ触れただけで簡単に壊れてしまいそうな繊細さを感じさせた。まるで自分という存在の軌跡のように、腰ほどまでに伸ばされた髪を靡かせて、少女は廃工場を走り抜ける。


 生き物の血管のように、工場に張り巡らされたパイプが少女の疾走を阻害する。複雑に絡み合った導管は少女の足を絡ませ、一際大きな導管は少女の足止めとなる。かつては短期間ではあるが工場の命を繋いだ導管が、必死に生きようとする少女の邪魔をした。


「おいおい、逃げるこたぁないんじゃねぇか?」


 そうする間にも、死神の声が背後から迫ってくる。

 闇夜に溶け込むような色合いのスーツを着た死神の足音は間違いなく近付いて来ていた。


「ひ、ひあぁぁっ!」


 あまりの恐怖と焦燥で頭が一杯になってしまい、裸足であるにも関わらず少女は出せるだけの脚力でどうにかパイプを飛び越えた。

 そして、飛び越えた先にある激痛に耐えるべく、思い切り歯を食いしばる。


 ぐさ、ぐさ、ぐさり。


「ぎゃっ……」


 両足の裏に耐えがたい激痛が走り、少女は思わず悲鳴を漏らした。足の裏から熱い鮮血が吹き出し、激痛に我慢できずに少し歩いただけで冷たいコンクリートに腰を突いてしまう。


 ここは廃工場である。尖った鉄片やガラス片が散乱しており、間違えても裸足で来るような場所ではない。しかし、彼女には両足を守る靴がなかった。それどころか、服装でさえも機械油を拭き取るための襤褸切れのような布一枚を羽織っているだけだ。


 何故、自分がそのような格好をしているのかわからない。

 何故、自分が死神に追われているのかさえもわからない。

 自分自身の記憶がないのだ。


「おい、大丈夫か? あんまり無茶はするもんじゃねぇぜ」


 足が痛みに支配され、立ち上がることができない。

 それ故に、少女が視認できるほどの距離にまで彼の接近を許してしまう。


「俺としちゃあ、別にお前を殺す必要はねぇんだよ。今のところは、な」


 ゆっくりと距離を縮めながら、死神――スーツを着た青年が呟いた。

 声色や体格から判断するに二〇歳ほどであろうか。夜の闇に包まれているにも関わらず黒いサングラスを掛けており、それ故に彼の表情を窺うことはできない。


 笑っているのか、怒っているのか、あるいは――

 ――いや、そうではない。


 少女が彼の表情を判別できないのは、ある物体に目が釘付けになっているからだ。

 彼の右腕で回転している、破壊欲を塗り固めたような本紫色の歯車。

 本能的に、直感的に、少女はそれが『危険の象徴』であることを識っている。


 だからこそ、彼から逃げているのである。


「――ッ!」


 このままでは殺される。

 そう思った少女は周囲を見渡し、貧弱な自分でも扱うことのできる武器を探す。へし折れたパイプも投擲できる大きさの瓦礫も無駄だ。近接では間違いなく勝ち目はないし、少女の華奢な腕で重い瓦礫を相手にぶつけることができる可能性は低い。


「無駄な抵抗は止めて、大人しくこっちに来な。その足、手当してやるからよ」


 思考が切迫感に満たされ、吐き気が込み上げてくる。

 相手は蕩けるような甘言を吐くが、それに乗るのは愚の骨頂に過ぎない。『あのライオンは優しいから、一緒の檻に入っても大丈夫だよ』と言われて檻に入るのと同じである。


 ふと、少女の瞳に転がっている動力炉歯車が映った。


「あっ」


 専用の設備がなければエネルギーを出力することができない動力炉歯車であるが、それでも凄まじい熱量を凝縮内包した物体だ。加えて、この廃工場で放置された動力炉歯車はいわゆる不良品のレッテルを貼られており、少々の刺激で暴発を起こす可能性がある。


 すなわち、少女でも扱える小型爆弾なのだ。

 流石に本来の出力ほどの威力は見込めないが、成功すれば相手を撃退できるほどの爆発力を発揮するはずである。少なくとも、その場しのぎにはなるだろう。


 いちかばちか、だった。


「えいッ!」


 手の届く距離に転がっていた動力炉歯車を掴み、青年に投げつけた。少女の全力で投げつけられた歯車は、そのまま青年の身体へと吸い込まれるように飛んでいく。

 そして、衝突の衝撃が刺激となり、歯車は爆発する。


 そのはずだった。


「……ああ、考えたな」


 投擲された動力炉歯車を、青年は右人差し指と中指で挟むようにして受け止めたのだ。


 少女は絶句する。


 華奢な少女の全力投球とは言えど、それなりの速度が出た。その上、電気すら生きていない廃工場で頼れる光は月明かりだけであり、ほぼ暗黒の世界なのである。

 その状況下で、僅か十数センチにも満たない歯車を指だけで受け止めたのだ。

 ろくに見向きもせず、彼は投擲の軌道を完全に見極めていたのである。


「確かに、不良品の動力炉歯車は爆発の危険性がある。だが、それは規格外の力を加えられた場合だけだ。どうがんばっても、人間程度の力じゃあ爆発はしねぇよ」


 青年はつまらなさそうに、サングラス奥の瞳を動力炉歯車に向ける。

 そして。


「――これくらい、規格外の力じゃねぇとッ!」


 空を切り裂くようにして右腕を横に凪ぎ、少女が居る方向とは逆方向に歯車を投じた。

 投じた、いや、発射したという表現の方が適切かもしれない。

 発砲音と紛うような音響を伴って彼の指先から放たれた動力炉歯車は、少女が視認する暇さえも与えずに巨大なパイプを超え、壁面へと衝突する。

 そうして人間では出力不可能な規格外を押し付けられた歯車は、呆気なく爆発を許した。


 天地をひっくり返したかのような剛烈な音。凄まじい爆風が工場を撫で上げ、朽ちたパイプが弾け飛ぶ。加えて、散乱している他の動力炉歯車へと爆発の衝撃が届き、誘爆と誘爆を繰り返していった。かなり離れた壁面まで投げつけられたようで、誘爆が少女の位置にまで届くことはないが、それでも爆発の余波が彼女の頬をゆったりと舐めた。


「あーあ……やっちまった」


 爆炎という橙色に彩られた世界を背景として、青年が歩を進める。

 ゆっくりと、しかし着実に彼は彼我の距離を詰めた。


「う……あ、……」


 少女には、もはや為す術がなかった。

 情けない声を上げて、スーツを着た死神の接近をただ待つだけしかできない。


「危害を加えるつもりはなかったが、あれは撤回だな。不審な爆発音を聞いた解体師が、ここまで様子を見に来るかもしれねぇ。そうなったら、厄介なのは俺なんでな」


 腕輪のようにして右腕に填められた本紫色の歯車を眺めながら、青年は呟いた。

 かつて世界を滅ぼした機神の核であり、解体師や廃品回収業者の最優先目標。

 そして、枷でありながらも接続者に紛うことなき神の力を授ける禁忌の歯車である。


 すなわち、機神歯車きしんはぐるまだ。


「ど、どうして私を……!」


 走りすぎて乾いた喉から、少女は無理やり声を絞り出した。


「どうして、か」


 青年は目の前で立ち止まり、腰を抜かしている少女の首をぐいと鷲掴みにする。

 そして、そのまま少女の身体を少女と青年の目線が交差する位置にまで持ち上げた。


「それはてめぇが一番良く知っていることだろ。一番の理解者に、俺がわざわざ物語る理由は微塵も見当たらねぇ」


「ぐ、ぐぅ……っ」


 全体重を首が負担する形となり、耐えがたい圧迫感が少女を襲った。喉を締められて息が詰まり、脳へと酸素を運ぶ血の流れが阻害される。自身の首を掴む手を掴み返し、どうにか逃れんと血の滴る両足をばたつかせるが、それは徒労に終わってしまう。


「まぁ、心配すんな。痛みを感じる前に殺してやる」


「……っ!」


 少女がここまで抵抗できているのは、青年が一切の力を加えていないからだ。

 彼が少しでも力を込めれば、少女のか細い首など簡単にへし折ることができるだろう。


「あばよ。恨むなら、自分自身を恨んでくれ。少しばかりの弔いくらいはしてやるからよ」


 青年の眼光が鋭くなるのを見て、少女は直感する。

 彼の着用しているスーツは喪服と呼ばれる類いのものだ。

 彼は対峙する相手を挑発すると同時に、斃した相手に対する最大限の礼儀を払っている。

 その対象は、少女でさえも例外ではない。


「だ、だれか……たすけ……」


 朦朧としていく意識の中、誰にも届くことのない声が喉から漏れた。

 風前の灯火のように、一筋の風が吹くだけで掻き消されてしまいそうな少女の音吐。


 その消え入りそうな儚い声は、もはや眼前にいる青年にさえも届いていない。

 しかし、少女の命が途切れる寸前に。


 決して届くことのない助けの声に応える、一発の銃弾の存在があった。

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