第19話 復活の舞台
関東高等学校弓道大会予選会のルールは、最初に一チームが二十四射を行い、的中数の多い上位十六チームを決める。上位十六チームはもう一度二十四射を行い、最初の二十四射と合算した総的中数で順位を決める。上位四チームが埼玉県の代表として、関東大会に進めるという仕組みになっている。
橘と和解した後、道場に戻ると控えの順番が回ってきていた。
準備を念入りにしていた高瀬や古林の顔は、自信に満ち溢れている。僕も二人と同じ気持ちだった。
今日は僕達がずっと目指してきた最初のゴール。
埼玉県には草越高校男子弓道部がいる。
その印象を植え付けるのにはもってこいだ。
「入ります」
前射場の岩月Aチームがゆっくりと道場内に入っていく。それに続いて僕達も入場の準備をする。
「入ります」
「「はい」」
高瀬の掛け声に僕と古林は応える。
僕達の声を聞いた高瀬は笑みを見せると、ゆっくりと射場に入っていった。
すり足で一歩ずつ、控えの座る椅子の所まで進む。
僕達が歩いている途中も、試合は続いていた。
的に中るたびに「よっしゃー」と各校の生徒や観客が歓声を送っている。
練習試合の時にも同じ場所で試合をした。だから緊張はしないと思っていた。
でも、そんな安易な考えではだめだと直ぐに気づいた。
椅子に腰を下ろしてから、徐々に身体が震えはじめた。
これが試合なんだと改めて実感させられる。
僕は真横に視線を移した。隣に居る古林はいつもと変わらない表情をしている。
高瀬の様子は僕の位置からだと見えなかった。
でも、立が始まると直ぐに様子を窺えるはず。
目を閉じて深呼吸をする。
大丈夫。
このメンバーで多くの練習をしてきた。
周りに比べたら、練習量は少ないかもしれない。
それでも、どこの高校にも負けないチーム力があるはず。
僕達は廃部の危機を乗り越え、この道場で試合ができているのだから。
「起立!」
掛け声と同時に目を開けた。そのまま立ち上がると、一歩前に足を踏み出す。
「始め!」
合図を皮切りに、足踏みをして射る準備に入る。皆が一斉に矢番え動作を行う。
先に打起しに入ったのは岩月Aチームの大前、橘だった。
先手必勝を心掛けているのか、高瀬よりも倍のスピードで打起しに入っていた。
でも、これは驚くことではない。
練習試合でも経験済みの出来事。無理に焦る必要はない。
橘が引分けに入る頃、ようやく高瀬が打起しに入った。
様子を見る限り、落ち着いているように見える。打起しのバランスも悪くない。
パンッ。
「「ッシャアアアアアア!」」
橘が一射目を中てた。
当然のように歓声が沸き起こる。
練習試合の時に感じた歓声よりも一段と強さを感じた。
岩月は歓声の大きさも、試合用と練習用があるのかもしれない。
そんなことを思っていた僕は、徐々に近づく自分の射へと意識を集中させる。
目の前を見ると、高瀬が会に入っていた。
古林は既に打起しに入っている。僕も取懸けをして、打起しの準備に入る。
パンッ。
爽快な音が響き渡った。
高瀬が一射目を見事に中てた。
しかし岩月の時みたいな歓声は一切上がらない。
それは試合前からわかっていた。
草越高校男子弓道部は、部員が試合に出ている三名しかいない。つまり、応援してくれるチームメイトがいないのだ。
仲間の応援は、時にして選手の気持ちを変えることがある。
それは決して弓道だけではない。
数多くのスポーツは観客がいてこそ、真の力が発揮される。
今の僕達にはその力がないだけ。
だからこそ、チーム力でカバーするしかない。
大前の仕事をしっかりと成し遂げた高瀬を目に焼き付けた僕は、そのまま打起しに入った。
呼吸のリズムでゆっくりと射法八節に則って引いていく。
大三をとり、引分けに入る。徐々に僕の目に的が見え始める。口割りをつけ、そして会に入る。
詰合いと伸合いを意識しながら、離れの瞬間を待つ。以前の僕は、この詰合いと伸合いを意識することができなかった。意識し始める頃には既に矢は安土に刺さっていたから。
直ぐに離れてしまうのを避けるため、会に入ると保つことに必死になっていた。そのせいで、詰合いや伸合いを意識することを忘れてしまうこともあった。
でも、今日はしっかりと会を保てている。一射の重みを十分に理解できている。
今まで僕を悩ませていた問題が消えたからなのかもしれない。
今日の射は、僕にとって忘れられないものになりそうだ。
そう思うことができる余裕が、今の僕にはある。
パンッ。
爽快な音が耳に入ってくる。
的のど真ん中を貫いた矢が、道場からもはっきりと見えた。
何年ぶりだろう。
会をしっかり保っての中りは。僕の意識の中に、今の一射がしっかりと刻まれる。
しばらくの間、僕は残心の姿勢のまま動けなかった。
込み上げてくるものがあったのか、目頭が熱くなっていく。
そして、堪えきれなかった涙がゆっくりと頬を伝っていった。
立の途中。大切な試合の合間なのに、目からは絶えず涙が溢れ出てくる。
「……やったよ……」
嗚咽を漏らしつつ、弓倒しをする。
パンッ。
「「ッシャアアアアアア!」」
歓声が聞こえた。今日の歓声は、僕達のチームには上がることはない。
全て一緒の立に入る他校への歓声。
わかっていることなのに、何度も強く意識してしまう。
岩月は本当に強い。鉄の塊のような強心臓を持っている。
それでも僕達だって多くの困難を乗り越えてきた。
今日に向けて練習してきたのだから、岩月のように中て続けることもできるはず。
信じよう。今は皆の射を信じるしかない。
目じりに溜まった涙を拭い、顔を正面に向ける。
高瀬が会に入ったところだった。僕はそのまま物見を入れて、看的の方を見る。
パンッ。
的に中る音と同時に「○」と記された表示が目に映る。
僕達のチームはまだ一つも外していなかった。
二人とも必死に頑張っている。その思いがひしひしと伝わってくる。
たった一本うまくいっただけで泣いてしまった自分に、恥ずかしさを覚えた。
まだ試合は始まったばかり。ここから中て続けなければいけない。
試合が進むにつれて、緊張感がさらに増してくる。二射目を終えた僕達は、まだ一人も外していなかった。チーム力の賜物と言ってもいいのかもしれない。僕達は確実に的に中てることができている。
一方の岩月は、王者の風格漂う試合運びをしていた。
橘の先手必勝から始まり、二射目を終えた僕達とは試合運びのスピードが桁違いだった。岩月は僕達が三射目に入る頃には、四射目に入ろうとしていた。
岩月の三射目までの結果は直ぐにわかった。
看的の表示に「○」以外の記号が見つからない。三人とも全て的中させていた。
流石、全国常連校。対戦相手に対してのプレッシャーのかけ方を熟知している。
先行して中て続けることで、後手に回った僕達は外すことが許されない状況に追い込まれる。
心理を上手くついた戦術は、強豪チームならではだ。
でも、僕達はそんな重圧に押しつぶされるようなチームではない。
今まで数多くの困難に打ち勝ってきたのだから。
パンッ。
高瀬が三射目を中てた。中て続けることによって、僕達の強さは徐々に証明されていく。このまま繋ぐ思いを意識していれば、必ず結果はついてくると思っていた。
パンッ。
「「ッシャアアアアアアアアアア!」」
大歓声とともに、周囲から拍手の嵐が巻き起こる。
鳴りやまない歓声が、道場に漂っている緊迫した空気を一気に変える。
橘は四射皆中を成し遂げた。
皆中は道場の空気を変えるだけの力を持っている。
自チームを勢いづけるだけではなく、相手チームにも精神的ダメージを与える。
それは弓道を長く続けている人にも影響を及ぼすだけの力を持っている。
ましては公式戦という場所では、他校の声援が魔物へと変わる。
古林は魔物に取りつかれてしまった。
古林が放った三射目は、的に中らなかった。
ついに均衡が破れた。
古林が外したことにより、岩月とは一本差がついてしまった。
それでも古林はいつも通り、平常心だった。
誰も外したくて外しているわけではない。弓道は少しの気の緩みや周囲の空気にのまれてしまうと、中りが途端になくなることがある。
それを古林は熟知しているのかもしれない。
熟知しているからこそ、ここで焦って最後の一射を外してしまうことを恐れているのかもしれない。
一本外したことにより、僕達のチームに勢いがなくなったように見えるかもしれない。それでも、僕がまた勢いを復活させればいいだけのこと。
物見を入れて打起しに入る。無駄な力が入らない様に、深く息を吐いて肩の力を抜く。 大三をとり、引分けに入る。均等に引き分けること、呼吸のリズムを意識すること、練習の時に使用していたメトロノームの音を頭に浮かべながら引いていく。
矢が口割りの位置まで降りて、ここから会に入る。
誰かが外した時は、外した次に射る人が必ず中てる。そうすれば、悪い流れは最小限で食い止めることができる。僕達は繋ぐ思いを胸に、チーム一丸で練習をしてきた。 新学期を迎えてから大会までの二週間ちょっと。一人で練習は絶対にしないことを三人で約束した。だからこそ、僕達は互いの形や間を熟知している。おそらく高瀬も古林も思ってくれているはず。
僕が必ず中てることを。
悪い流れを止めることを。
パンッ。
放った矢は真っ直ぐ的に向かい、的を射ぬいた。
瞬間、周囲がざわつき始めた。僕が中てたことに驚いているのかもしれない。それでも、そのざわつきが少し妙だと思った。
僕達は岩月に何とかしてくらいついている。
決して変な射を見せていない。
それとも、王者岩月を追い詰めていることに驚いているのかもしれない。
そう割り切った僕は、弓倒しをして最後の一射の準備にとりかかる。
パンッ。
「「ッシャアアアアアアアアアア!」」
大歓声が再度上がり、それと同時に拍手が聞こえる。
岩月から二人目の皆中者が出た。道場の雰囲気が一気に変わる。
このまま落の神津も中てると、岩月は予選一回目の立から十二射全中という素晴らしい結果を残すことになる。
そうなると、予選とはいえ僕達は岩月に負ける。既に一本外している僕達に勝ち目がなくなる。
僕の目の前では、高瀬がようやく打起しに入ったところだった。
高瀬は緊張をしているようには見えなかった。表情にも余裕がうかがえる。まるで心から試合を楽しんでいるように笑顔を見せている。
緊張感のない奴。
そう言ってしまえば簡単なことなのかもしれない。それでも、初めての公式大会で笑う余裕があるのは、すごいことだ。追い詰められているのにもかかわらず、笑っていられる。
そんな高瀬に僕は嫉妬を覚えた。
高瀬の前では、神津が最後の一射を放つところかもしれない。
視線を高瀬のさらに前へと向ける。
瞬間、僕は開いた口が塞がらなかった。
前射場にいるはずの神津の姿が見えない。僕は直ぐに前射場の看的に視線を移した。看的の表示がすべて埋められている。岩月の立は既に終わっていた。
十二射十一中。
岩月の結果を見て、僕はようやくざわつきの意味を理解できた。岩月の中の人が最後の一射を外した。そのことを意味するざわつきだったのだと。
そうなると今の僕達は、岩月に並ぶ権利をまだ失っていない。僕達が負けない可能性は残っている。
高瀬に視線を戻す。高瀬は会に入っていた。
それを見計らって古林が打起しに入った。僕も取懸けに入る。
中ててくれ。
僕は必死に願った。
気持ちを声に出して伝えることができない。励ましの言葉すらかけることができない。弓道をしていて、もどかしくなる瞬間。
試合中は仲間を信じることしかできない。でも、その信じることこそが弓道では大切になる。
チーム力が問われる団体戦。一人の結果がチームを左右する。
だからこそ、生半可な気持ちで取り組むことは許されない。
高瀬も、古林もそれはわかっている。僕達は繋ぐ思いを胸に、どこにも負けないチーム力があると信じている。
だから高瀬は必ず中ててくれる。
カッ。
高瀬が放った矢は、的を掠めて安土に刺さった。僕達の思いを乗せた矢は、無情にも的に中らなかった。
高瀬は残心の姿勢のまま、しばらく動かなかった。そしてゆっくりと弓倒しをして、退場していく。
古林は目の前の高瀬を気にすることなく、そのまま会に入った。その横顔からは、どんな気持ちを抱いているのか理解することができなかった。
パンッ。
古林は四射目を中てた。古林の射を見届けてから、僕は打起しに入った。
高瀬と古林の射が終わり、残すは僕の射を残すのみとなった。
大三をとった僕は引分けに入る。
観客の視線が僕に集まっているのがわかる。
注目される中で射をするのも落の役目。
チームの集大成である落は、最後の一射は必ず中てなければいけない。
落はチームの花形。
高瀬と古林が落に推薦してくれた。僕がチームの顔だと言ってくれた。だからこそ僕は、そんなチームメイトにも見せないといけない。
ずっと見てくれている、多くの観客に見せないといけない。
今まで僕を支えてくれた、翔兄ちゃんや雨宮先輩。
僕のことを最後まで引き留めてくれた橘。
そして、早気で苦しんでいる時、いつも傍に居てくれた凛。
僕の弓道人生に関わってくれた人達に、見せないといけない。
これが、この一射こそが。
真弓一の弓道だと。
パンッ。
静寂が道場を包み込む。
残心の姿勢のまま、僕は的を見続ける。そしてゆっくりと弓倒しをした。
瞬間、大きな歓声が道場内に広がった。
僕達に対して、初めて大きな声援が飛び交う。
「そっか。皆中したんだ」
小さく呟いた僕は、足踏みを戻して退場口に向かう。
その間も拍手は鳴りやまない。
立の最後の一人となった僕は、惜しみない拍手に礼をして退場口から出た。
「真弓君!」
退場口付近にいた高瀬は、頭を叩いて祝福してきた。
「あ、あ」
「ありがとう!」
僕が口にしたかった言葉を、高瀬が先に口にする。
「どうして高瀬君がありがとうって言うのさ」
「だってこんな最高の試合ができたのも、真弓君が弓道部に入ってくれたから。入ってくれなかったら、こうして試合すら挑めなかったんだから」
「そうだな。真弓のおかげだ。ありがとな」
普段はお礼を一切言わない古林までもが、お礼を言ってくる。
古林の顔が赤くなっていた。
「僕は……僕は、みんながいたから弓道を続けようと思えた。こんな僕と一緒に弓道を続けてくれて、本当にありがとう」
僕は二人に向かって頭を下げた。
今日の試合は本当に楽しかった。
勝つことに執着したり、チームの為に諦めない射ができたり。
まるで昔から一緒に弓道をしているような錯覚に陥った。
それくらい、今の立は素晴らしかったと思う。
「一!」
頭を上げ、声が聞こえてきた方に視線を移す。そこには橘の姿があった。
「橘……」
「最高の試合だったな」
「うん」
僕は橘に左手を差し出す。それに応えるように、橘も左手で僕の手を握った。
「俺は言ったよな。一なら、早気を克服できるって」
「うん」
「やっと戻ってきてくれた。俺の知ってる一が」
「……うん……」
橘の一言に、溜まっていたものが一気に溢れた。立の時に必死にこらえたものが、今になって僕の頬を伝う。
「一のチーム、いいチームじゃん。本気でぶつかってきてくれて、嬉しかった」
橘の言葉に、僕はひたすら頷くことしかできなかった。
目の前の親友と呼べるライバルに、僕自身が背負った問題を背負わせてしまった。橘に対して、本当に頭が上がらない。
今日の試合で僕はまた歩み出すことができた。
橘とは大きな差がついてしまったと思う。
でも、ここから始めればいい。
僕達にはたくさんの時間が残されているのだから。
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