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第18話 憧れの存在

 関東高等学校弓道大会予選会当日。

 僕はいつも通り目を覚まし、集合場所である大宮公園弓道場に向かった。

 今日の大会は特別な意味を持っている。

 男子弓道部にとって大きな一歩になる大会。

 決して試合に勝つことだけが目的ではない。

 今日は学校名を背負って試合に出場することが、最も意味を持つ。

 そこに結果が上乗せされるならなおさらだ。

 気楽に行こう。

 そう思って家を出たけど、会場に着く頃には気楽どころではなかった。

 周りの空気にあてられたのか、変な感覚に溺れそうになる。

 今までの大会では、緊張したことがなかった。

 それなのに今日は、心臓の高鳴りが止まらない。

 それは僕にとって、大切な試合だからかもしれない。


「真弓君! こっちこっち」


 声のする方へ視線を向けると、高瀬が笑顔で手を振っていた。


「いよいよだね」

「うん。あれ、古林君は?」

「的場先生と一緒に資料をもらいに行ったよ。そろそろ帰ってくるんじゃないかな」


 高瀬は道場内へと視線を向けている。どうやら古林は既に道場内にいるみたいだ。


「なら、僕達も行こうよ」

「ちょっと待った!」


 高瀬が僕の肩に手を置く。


「真弓君、予選に出るチーム数って知ってる?」

「いや、知らないけど」


 今日参加するチームなんて意識したことがなかった。

 僕が知っているのは、比較的強豪校が多いということぐらいだ。


「チーム数だけでも、百五十チームくらいにはなるんだよ。だから立順の早いチームが優先的に道場に入って準備するんだよ」

「そうなんだ。高瀬君、詳しいね」

「そりゃ弓道好きだからね。それに部長だから」


 胸を張る高瀬はどこか誇らしげだった。部長なら的場先生と資料を取りに行くべきじゃないかと思ったけど、心に留めておくことにする。


「来たな。真弓」


 古林が肩をポンッと叩いてきた。


「立順どうなった?」


 高瀬は古林の手から資料を奪い取り、草越の名前を探し始める。

 そんな高瀬を見ながら、古林は軽く笑った。


「ある意味、最高の結果と言っていいのかもしれないな」

「それってどういう意味?」


 古林の発言の真意が気になった。

 それに、さっきまで元気だった高瀬が資料を見てから急におとなしくなってしまった。良くないことでもあるのだろうか。


「もしかして、最初の立とか最後の立ってこと?」


 僕の問いに、古林は首を横に振る。

 高瀬は資料を見たまま硬直している。

 いったいどういうことだろうか。


「お前らの立は、ちょうど真ん中だな」


 割り込んできたのは的場先生だった。

 僕と目が合うと、手を振ってきた。本当に友達みたいに気軽な先生だ。


「真ん中って。特に問題ないですよね?」

「まあな。ただ、一緒に立に入るチームがお前らの問題になるんじゃないか?」

「問題ですか?」

「お前らは、昨年のインハイ出場校にして埼玉県で一番のチーム、岩月Aチームと一緒の立だ」


 にやりと笑みを浮かべる的場先生の発言に、心臓の鼓動が早くなる。

 岩月Aチーム。

 その言葉を聞いただけで身震いした。

 一番のチームだからではない。

 僕にとって、公式戦で岩月Aチームと同時に試合をするのは特別だった。

 岩月Aチームには橘がいる。

 戦力層の厚い岩月Aチームに今も入っている橘は、さらに強くなっているはず。

 二月の練習試合の時、橘とは一度も話すことがなかった。試合が終わってから話そうと思っていたけど、橘とは結局会えず話すことすらできなかった。

 でも、今日は必ず話せる。

 控室で隣に座るし、立の前後に橘を捕まえることができるはず。


「緊張はしてないみたいだな」


 的場先生と視線が合う。そのまま僕の肩をポンッと叩いてくる。


「緊張は……少ししてます」

「ほう。珍しいじゃないか」

「でも、僕には心強い仲間がいるんで大丈夫です。」


 高瀬と古林に視線を向ける。二人とも頷いて僕に応えてくれる。


「今日は男子弓道部復活の日ですから。真弓君も気合が入ってるんですよ」

「高瀬。お前は緊張感なさすぎだ。古林を見てみろ。いつも通り落ち着いてるだろ」


 古林は僕達の会話を、腕組みしながら静観していた。


「古林君は、友達いないだけですから」

「おい、高瀬。お前何言ってるんだ。殴るぞ」

「冗談、冗談だって。真弓君どうにかしてよ」


 今日は僕達にとって大切な日。

 それなのに、二人のやり取りはいつも通り変わらなかった。

 大切な日にいつも通りの関係を築けているのは、リラックスできている証拠だ。それに変に奇を衒うことがなく、ありのままの自分達を出せている。

 今の僕達は緊張で足元が浮ついている人とは違う。

 しっかりと地に足がついている。

 今日の大会は忘れられない大会になる。そんな気がして仕方がなかった。






 大会が始まり、立順が近づいてきた。

 道場に入ることが許された僕達は、控室で着替えを済ませ、弓を持って外に出た。

 弓道場の外には、練習の為に使用するわらがいくつか置いてある。

 的前以外で矢を放す練習ができるのは、巻き藁の前と決まっている。

 僕達三人は巻き藁で練習をするために、道場裏に足を運んだ。

 順番待ちの列が続く中、巻き藁矢を持った高瀬と古林が先に並ぶ。

 二人を横目に、僕はひたすら素引きをして自分の形を確かめる。

 凛と話してから今日まで、とにかく自らの形を信じて練習に励んだ。

 会はまだ取り戻せてはいない。

 だけどきっかけは掴めた気がした。

 二月の練習試合以降、多くの人と会話を交わした僕は本当に恵まれていると思った。弓道を続けられるのも、全ては周りの人のおかげ。今日の試合は、今まで支えてくれた人達に捧げる試合になる。

 頑張らないといけない。


「一」


 突然、名前を呼ばれた。

 聞いたことがある声に、僕は直ぐには振り向かなかった。

 一回深呼吸をしてから、声のする方に視線を移す。

 去年の新人戦と全く同じ素顔。

 変わらない顔が目の前にあった。


「久しぶり……だね」


 目の前に袴姿で現れた旧友は、以前のような輝いた目をしていなかった。弓道をはじめた時とは違う、勝利に飢えた目をしている。


「向こうで話そう。二人きりで話がしたい」


 言い終えた橘は、そのまま僕に背を向けると横道を歩いて行く。

 僕は橘の後ろを黙ってついていく。

 僕だって話したいことがあった。

 橘に対して謝りたいこと、伝えたいこと。

 今がそのタイミングなのかもしれない。

 僕達は道場の隣にある公園に足を運んだ。

 大会が開かれていることもあり、公園内には人がほとんどいなかった。


「そこ座れよ」


 橘が指さした先にはベンチがある。

 僕は頷くとそこに座った。僕が座るのを見計らって、橘も腰を下ろす。


「あのさ、たちば――」

「今日の大会出るんだな」


 僕の言葉を遮って話し出した橘は、正面を向いたまま言葉を紡いでいく。


「二月の練習試合。俺は一が選手として出てるってわかったとき、むしゃくしゃした。殴りたくなった。どうして今更弓道をやっているんだって。新人戦の時、さんざん言ってやったのにふざけるなよって」

「ごめん……」


 橘の言い分はもっともだ。決して否定などできない真実。僕だって同じことをやられていたら、橘を殴っていたと思う。


「正直、ひやかしで参加しに来たのかと思った。一が慕ってた神道選手のことまでも、馬鹿にしているのかと思った。だから練習試合の時、俺はお前を徹底的に無視した」


 橘は右手に持っていた弓を左手に持ち替えた。

 空いた右手には握り拳が作られている。


「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。何度そう思ったか。練習試合で一緒に試合した時の一射目。先頭の奴が外して、やっぱりひやかしに来たのかと思った。でも、中の奴が中てたと思ったら、一もそれに続いて中てた。そこから息を吹き返したかのように、中りが増えていった。不思議な感じだった。まるで、中学の頃の俺らを見ているようだった」

「中学の頃……」

「俺が外した後は必ず一が中てる。一が外した後は必ず俺が中てるって。よくやってただろ」


 橘に言われるまで、思い出すことができなかった弓道の記憶。

 早気になってから、僕は弓道に関する記憶を忘れようとした。

 大切なことさえもおかまいなしに。

 でも、心に刻まれた出来事は決して消えることがなかった。

 消そうと思っても消せるものではなかった。

 思い出した瞬間、今までの記憶が一気に蘇ってくる。


「橘。本当にごめん」


 僕は立ち上がると、橘に向かって頭を下げた。蘇った記憶が、僕の口を開かせる。


「橘があの時、必死になって止めてくれた意味がわかった。僕は早気から逃げていた。親友も信じられない最低な人間だったんだ」


 あの時の僕は最低だった。だからこそ、橘に言わなきゃいけない。


「でも、今の僕は昔の僕とは違うんだ。草越高校で最高の仲間に出会えた。僕に仲間の意味を気づかせてくれた多くの人達に対して、向き合わないといけない。そのためにも橘とも向き合わないといけないんだ」

「一……」


 顔を上げ、橘に向け僕は続けた。


「僕は、橘と向き合うためにも弓道を続ける。決して冷やかしではない、僕の弓道を見せる。だからそれを阻もうとするなら、僕はなぎ倒してでも前に進む。進んでやる」


 ため込んでいた気持ちを一気に吐き出した。


「ははは。それでこそ一だな」


 笑顔を見せた橘の双眸は、勝負に飢えた目ではなく、輝いた目をしていた。


「俺も一に言わなきゃいけないな。弓道から、一から逃げていたことを」

「逃げていた……橘が?」


 橘の真意が理解できなかった。そんな僕を見透かすように、橘は話を続ける。


「新人戦のことがあって以来、直ぐに一から卒業しようと思った。ずっと近くで、同じ競技者として一を見てきたからこそ、真剣に取り組まない奴をライバルとして認めたくなかった」


 橘は立ち上がると、一歩前に足を踏み出した。


「でも、卒業できなかった。簡単にライバルを変えられなかった。俺の中で一は偉大だったんだ。弓道の神様みたいな存在だった」

「神様って。大袈裟だよ」

「大袈裟じゃない。俺にとってはそうなんだ。だからこそ、一には弓道を諦めてほしくなかったんだ。俺にとって、弓道を続けようと思ったきっかけは一だったんだから」


 橘は左手に弓を持ったまま、右手で左肘の近くまで弦を引っ張り、弾く。


「弓返り、角見の練習。これだって一に教わった。弓道の基礎を教えてくれたのも一だ。そんな大切な存在を記憶から消すことは、俺にはできなかった。もし消してしまったら、俺の弓道を否定することになるって気づいたから」


 橘の訴えは真剣だった。その真剣さに僕の心は少しずつ動かされているのか、心臓の鼓動が徐々に早くなっているのがわかった。


「だから一は、ずっと俺の憧れだ」


 橘の言葉に目頭が熱くなった。

 僕も同じ思いを抱いたことがあった。弓道を始めたきっかけ。

 それは人によって違うと思う。

 だけど少なくとも僕と橘は同じみたいだ。

 憧れる人がいたからこそ、弓道を始めることができた。

 そのきっかけとなる人を、僕だって失いたくない。


「今日の試合、お互い最高の試合にしよう。そして、関東大会でまた戦おうぜ」

「……うん。僕達は負けない」

「それはこっちのセリフだ」


 橘は持っていた弓を再度右手で支えると、左手を差し出してきた。

 僕はそれを力強く握って応える。

 橘も笑みを見せ、強く握り返してくれた。

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