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第15話 不明瞭な答えの先へ
春休みになった。
四月に行われる関東大会予選に向け、僕達はひたすら練習に励んでいる。
練習試合以降、男子弓道部はようやく女子と一緒に練習することを許された。道場に足を運ぶと、僕達のことを待っていたように、女子弓道部の人達が温かく迎えてくれた。以前は嫌われていた男子弓道部にとって、驚かずにはいられない出来事だった。こうして道場で不便なく練習できるのも、今の環境を整えてくれた人がいたからだ。
女子弓道部部長の雨宮先輩。
僕達のことをはじめから理解してくれて、味方になってくれた人。
先輩には感謝してもしきれないくらいの恩がある。
「それじゃ、今日も立を組んで練習しましょう」
「「はい」」
雨宮先輩の声に、周囲の女子が声を揃えて返事を返す。
「関東大会に向けて新しいチームを組んだから、黒板を見てから立に入ってね」
雨宮先輩の声に反応した皆が、ぞろぞろと黒板の前に集まる。
「私、Bチームに上がってる!」
「Dチームか……」
「よしっ! Aチーム」
道場にある黒板には、部員の名前が書かれたマグネットが貼られている。三人一組で成績順にAチームからEチームに分けられていた。春休みの練習の間、このマグネットの位置が毎日変わる。そして、春休み最後の練習を終えた段階でのマグネットの位置が、四月の関東大会予選のチームとなる。
「俺達は女子の後だね」
「うん」
高瀬の笑みに僕は頷く。女子陣の後に、男子Aチームとして僕達の名前が書いてあった。
「ごめんね。男子のマグネット、まだ準備できてないんだ」
二年生の先輩と思われる人が、咄嗟に声をかけてくれた。僕達に気をつかってくれたのかもしれない。
「はい。マグネット、楽しみに待ってますね」
高瀬が笑みを浮かべ、先輩の配慮に応える。周囲にいた先輩達は、高瀬の爽やかな笑顔に頬を赤く染めていた。
僕は再度黒板を見る。僕達の名前は、マグネットではなくてチョークで書かれていた。それでも、道場の黒板にしっかりと名前が刻まれている。
翔兄ちゃんの練習していた道場で、ようやく男子弓道部が動きだす。
そう思うだけで、僕は十分満足できていた。
春休みの練習も今日で終わり、明日からは新学期を迎える。学年が一つ上がり、上級生になった僕達男子弓道部は、数週間後に控えた関東大会予選に向け、順調に練習を積み重ねていた。個の練習に加え、チームの練習。そして女子の形を見て、いいところを自分のものにする。見取りの時間が新たに増えたことにより、技術的に不足していた部分を補えるようになった。
「真弓君。この後って暇かな?」
部活終わりの道場で道具の整備をしていると、雨宮先輩が話しかけてきた。
「道場の施錠があるくらいで、暇ですけど」
「そう。今日一緒に帰れるかしら?」
「いいですよ」
僕の返事を聞くと、先輩は笑みを浮かべて、そのまま女子更衣室に入っていった。
先輩の家にある道場に行くのかなと思った僕は、先に高瀬と古林を帰らせた。二人には先輩の家に道場があることや、一緒に練習したことがあるといった情報は一言も話していない。言うべきか一時期迷ったこともあったけど、これは言わないでいいことだと僕は判断した。
道場が静寂に包まれる。
先程まで差し込んでいた日差しもなくなり、徐々に夜の帳が下りはじめている。いつの間にか道場にいるのは、僕と更衣室にいる先輩だけになっていた。
中学生の時は、いつも最後まで一人で道場に残っていた。静けさに浸れる場所が好きだったこともあり、しきりに一人になれる空間を追い求めていた時期があった。
でも、最近は高瀬や古林といつも一緒にいる。
だからかもしれない。
こうして一人でいると、懐かしい気持ちが蘇ってくる。
「お待たせ」
引き戸が開き、先輩が更衣室から出てきた。
「帰りましょうか」
「ちょっと待ってくれる?」
「えっ……」
「ここでお話したいことがあって」
シャッターを閉め、帰る準備をしようと思っていた僕は、先輩の一言に思わず手を止めた。
「ここでですか?」
「うん」
「……わかりました」
僕は先輩の方に歩み寄り、腰を下ろした。先輩もその場に腰を下ろす。
「男子の調子はどうなの?」
身構えていた僕は、先輩の質問に拍子抜けしてしまう。
「順調ですよ。関東大会予選に向け、頑張っていますから」
「私達と一緒ね」
先輩は微笑むと、大きく両手を広げて伸びをした。先輩の無邪気な姿に、自分の表情が緩んでいるのがわかる。
「あの、ありがとうございます」
「急にどうしたの?」
「今の環境で練習できるのも、先輩のおかげなので」
「私は何もしてないわ」
落ち着いた声音で先輩は語る。先輩の醸し出す雰囲気が、僕の気持ちを楽にさせてくれる。
「そんなことないです。先輩が僕達のことを道場内で話してくれたこと、凛から聞きました。先輩の働きかけがなかったら、こんなに早く環境が整っていなかったと思います」
「私は当然のことをしただけ。いいと思ったことを言っただけよ」
先輩はおごることなく、自分の信念を最後まで貫いている。僕には持っていないことだ。
「あの、先輩が話したいことって何ですか?」
「えっと……」
先輩は俯いたまま、考え込む素振りを見せている。
言いにくいことなのか、僕と目を合わせてくれない。
しばらく沈黙が続く。
静寂に包まれている道場が、余計に空気を重くしているようだ。
「真弓君は、私のことどう思う?」
「えっ?」
「最近の私、変わったかな?」
返答すべき言葉が見つからなかった。先輩は何を望んでいるのだろうか。
「先輩は出会った時からずっと変わらないですよ。優しくて、綺麗で。みんなの憧れではないでしょうか」
素直な言葉が口から放たれた。先輩に対しての思い。知り合ってから、まだ数ヶ月しか経っていない。それでも、先輩の優しさは十分に伝わってきた。迷いがなくて、自分の信念を貫くことができるのが、先輩だと僕は思っている。
「……そう……」
先輩の声音が徐々に弱くなっていく。俯いたまま放たれた言葉は掠れていた。
「先輩……」
今度こそ先輩にかける言葉がなくなった。
静謐な空気が僕に重くのしかかってくる。
どうして顔を上げてくれないのか。
どうして掠れた声で話しているのか。僕は間違ったことを言ったのか。
――真弓君は、私とは違うから。
あの日、先輩は僕に向けて違うと言った。僕にあって、先輩にはないことがある。でも、僕はそれを見つけることができない。
「前にも言ったけど、真弓君は人を引き付ける射ができるよね。私にはそれがとてもうらやましかった。私は真弓君みたいな射はできないから」
「そんなことないです。この間の練習試合の最後の一本。緊張する中で、見事に中てた先輩はとても格好良かったです」
「それは、中てたからじゃないのかしら?」
冷めた声が道場に響き渡る。静寂に包まれているせいか、いつも以上に先輩の声が大きく響いてくる。
「最後の一本を中てれば、嫌でも注目される。それが勝敗を決めるならなおさら。でも……」
言葉に詰まった先輩は顔を上げると、僕に向けて言い放った。
「一射目から注目されるような射は、私にはできないの」
先輩の迫力に、圧倒されるしかなかった。
僕の考えはとても浅はかだった。他人の考えを勝手に決めつけているだけ。本心を探ろうともせずに、思ったことを口にしているだけにすぎない。
「どうして、真弓君は引き付ける射ができるのかな?」
弱気になっている先輩を初めて見た気がした。
ここまで僕の射形を褒めてくれたのは、先輩が初めてだ。
射形はずっと褒められてきたこと。
だけど射形がいい人なら、僕以外にもたくさんいる。
どうして先輩は僕に固執するのだろう。
「先輩!」
知りたかった。先輩の本当の気持ちを。
今の僕が先輩にできること。やれることをしようと思った。
「僕でよかったら、話を聞きます。だから、はっきり言ってください。先輩が悩んでいること。抱えていること。言わなきゃ伝わりません!」
目の前の先輩は、ついこの間までの自分を見ているようだった。誰にも頼ることをしないで、ただ一人で考えてしまう。そんな先輩に僕ができることは、先輩の話を聞くこと。
双眸から零れ落ちる涙を拭った先輩は、ゆっくりと口を開いた。
「私、友達がいないの」
振り絞るように放たれた言葉は、とても弱く、今にも消えそうだった。それでも僕は、消えそうな言葉をしっかりと受け止めるため、先輩に視線を送り続ける。
しばらくして、先輩が再度口を開いた。
「小さい頃から、ずっと一人で弓道をしてきた。だから弓道は一人でするスポーツだとずっと思ってた。でも、それは違ったの。全国大会で優勝した真弓君の周りには、祝ってくれる人が沢山いた。その時に初めて、弓道は一人でやるスポーツではないって思えたの」
先輩の言葉の節々が響いてくる。まるで僕に諭すように、一言一言に重みがある。
「高校に入ってから、私は変わろうと思った。一人じゃなくて、仲間と力を合わせて弓道をしようって。でも、ずっと一人で弓道をしてきた私は、人と話すことすら難しかった。話そうと思っても言葉が出てこない。コミュニケーション能力がなかったの。そしてその時に思いついたのが、部長になることだった。部長になれば、必然的に人と話すことが増えると思ったから。そこに人を引き付ける射が加われば、あの時の真弓君みたいに祝福してくれる人が、私の周りにもできると思ったの。私にないものを真弓君は持っている。だから私は真弓君みたいになりたいの。私、間違っているかしら?」
先輩になくて、僕にあるもの。
ここまで言われると、僕にも十分理解できた。
先輩が言いたいこと。
望んでいること。
そして、今の僕ができること。
「先輩はすごいです。一人でも、ずっと頑張ることができたのだから。僕にはできなかったことです」
早気になってからずっと一人で努力し続けた。でも、結局は放り出してしまった。先輩は弓道を始めた時から、今日までずっと一人きりだった。
「でも、先輩の考えは間違っています」
僕は言い切った。先輩は俯いたまま微動だにしない。
「弓道は人を引き付ける為にするわけじゃない。弓を引くのが好きだったり、活躍したいと思ったことがあるからこそ、弓道をしてるんじゃないですか?」
先輩にだって弓道を始めたきっかけがあるはず。先輩は見せつける為に弓道をしているとは、僕には思えなかった。
「私は……一人になるのが怖いの。でも今のままじゃ、私はまた一人になっちゃう」
先輩の口から放たれた言葉に、僕は返す言葉が見つからない。
ずっと一人で取り組んできた先輩は、とてつもなく固い信念という名の殻に包まれているみたいだ。その殻は、先輩の家柄が関係しているのかもしれない。
周りの人とは待遇が違う空間で育ってきた先輩は、誰かしら守ってくれる人がいた。周りの関係を断ち切ってもどうにかなっていた。でも、弓道を知って友達の意味を知った。そして先輩は気づいてしまった。自分の周りには友達がいないことに。
「僕は弓道が大好きです。もっと射形がきれいになりたいし、もっと中りが欲しいと思っています。でも、それは弓道をやっていく上での目標みたいなもので。僕は……」
凛の顔がふと浮かび上がってきた。
僕がわからなかった、もやもやしたもの。忘れかけていたことが蘇ってくる。
僕が弓道を続ける理由。
「大切な人の笑顔を守る為に弓道を続けています。決して一人でやっているとは思っていません。周りの友達や教えてくれる人達がいてこそ、弓道をやっていけると思っているので」
自分の信念を述べ、先輩に視線を向ける。
「先輩は一人じゃありません。正直な気持ちを打ち明ければ、必ず周りの先輩達も心を開いてくれるはずです。たとえ引き付ける射ができなくても」
「無理よ。私のことなんて、受け入れてくれる人がいるわけない」
「それでも、まだ僕がいます」
「えっ」
虚を付かれた表情を先輩は晒す。その綺麗な瞳から一粒の涙が頬を伝った。
「もし、それでも先輩のことを悪く言う人がいたら、僕に言ってください。先輩のいいところ、たくさん話しますから」
言わなきゃ伝わらないことがある。
過去に僕が言われたことは、先輩にも当てはまるのかもしれない。
先輩と僕はどこか似ている。
それは何かしら一人で抱えている問題があったからなのかもしれない。
「あ、ありがとう……真弓君に言われると、頑張れる気がしてきた」
涙を拭った先輩は、そっと呟いた。
「先輩の射だって、きっと憧れている人がいるはずです。僕は先輩の射形、好きです」
先輩の家で一緒に練習した時に見た射形は、本当に綺麗だった。ずっと弓道と真摯に向き合って、射形を大切にしてきた先輩だからこそ、見せれた射形だと思う。
「私は関東大会とインハイで自分にないものを見つけたい。私が求める本物を手に入れたい。だからこそ、真弓君にはずっと私の理想の人であってほしい」
先輩はそう告げると立ち上がり、帰り支度を始める。
「今日はありがとう。とてもスッキリした」
先輩は決意に満ちた表情で、僕の方に振り向いて言った。
「僕の方こそ、ありがとうございます。大切なことを思い出せました」
「大切なこと?」
「はい」
先輩のおかげで一歩進むことができた。
本当に感謝してもしきれない。
大切なことを思い出せた僕は、先輩の背中を追うようにして道場を後にした。
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