第10話 変化
年末最後の道場での練習に、大前は遅れてきた。今まで遅れてきたことがなかったからかもしれない。僕は大前のことが気になって仕方がなかった。
通常練習が終わり、自主練習へと入る。そのタイミングで僕は大前に声をかけた。
「遅刻って珍しいね」
僕の問いかけに、大前は渋面をつくった。聞かれたくないことだったのかもしれない。
「今日は……寝坊しただけです」
「そっか。大前さん、しっかりしてると思ってたから、寝坊って予想できなかった。変な心配しちゃったよ」
「心配ですか?」
大前は小首を傾げる。
「うん。早気に嫌気がさして、弓道やりたくなくなったのかなって」
言い終えた瞬間、失敗したと思った。大前に言っていいことではなかった。やりたくなくなったのは自分であって大前ではない。僕は大前から視線を逸らした。
しばらく沈黙が続いた後、大前がゆっくりと口を開いた。
「先輩。ちょっと、散歩しませんか?」
笑顔を向けてくる大前の勢いに乗せられ、僕はこくりと頷いた。
流石に袴姿だと寒かったので、上に羽織るものを着て大前の後についていく。大前も羽織るものにマフラーと、防寒対策を施していた。
大前に連れられてやってきたのは、校舎の屋上だった。屋上の鍵は壊れており、誰でも侵入できる状態。当時と何一つ変っていなかったことに、自然と僕は嬉しさを覚えた。
「懐かしいな」
「ここ、私のお気に入りの場所なんです」
「僕もそうだった」
「本当ですか?」
「うん。一人になりたいときに、よく来てたんだ」
屋上に足を踏み入れると突き当りに設えてあるベンチに腰を掛けた。
この場所も変わっていない。時折吹く穏やかな風が、とても心地よかったのを覚えている。大前は大きく手を広げて伸びた。白い息を吐きながら、気持ちよさそうな表情を晒している。
「先輩は、どうして弓道を始めたんですか?」
唐突な質問に少し躊躇する。それでも、真剣な表情を晒す大前を見たら、何故だか話そうと思えた。
「僕の四つ上の先輩に、弓道がすごく上手い人がいたんだ。その人に弓道の楽しさを教わって、弓道をやろうと思ったんだ」
「その人ってどんな人ですか?」
「一言で言ったら、弓道の天才だよ。優しいし、格好いいし。全ての面で非の打ちどころのない人だった。
「それは……すごいです」
大前は目を輝かせながら話を聞いてくれている。翔兄ちゃんのすごさは、誰の目から見てもわかるからすごい。憧れない人はいないと思う。
「でも、先輩もすごいじゃないですか。中学の全国大会で二連覇なんて」
「僕は……たいしたことないよ」
すごいのは昔の僕であって今の僕ではない。
しばらく沈黙が続いた。当時と変わらない風が心地よい。気持ちが楽になっていく気がする。ふと空を見上げると、雲一つない青空が広がっていた。そんな空気の澄んだ冬の空に、通る声が響き渡った。
「実は今日、寝坊したって言うのは嘘なんです」
笑顔で嘘だと告げてきた大前に、僕は驚きを隠せなかった。そんな僕の反応を見て、大前は微笑んだ。
「今日はその、お姉ちゃんの命日で。お墓参りに行ってました」
「……なんか、ごめん……」
大前の口から紡がれた言葉に、僕は苦し紛れの回答しかできなかった。
「大丈夫ですよ。もう二年前のことなので」
しっかりとした口調で語る大前は、決して落ち込んだりする素振りも見せずに笑顔を晒している。
「私、弓道を始めたきっかけがお姉ちゃんなんです。お姉ちゃんから弓道の楽しさを教わりました。最初は全く面白くなかったんですけどね」
正座なんて足が痺れるだけじゃないですかと言うと、弓道で嫌なことをいくつか挙げた。そのどれもが、僕も共感できることだった。
「お姉ちゃんは絶対に私の為になると言って、形の指導しかしてくれなくて。ずっと弓を握ることを許してくれなかったんです。それなのにお姉ちゃんは、的に向かって練習してたんですよ」
ひどいですよねと大前が言ってくる。僕は大前の気持ちが理解できたので首を縦に振った。
僕も翔兄ちゃんに教わった時に全く同じ扱いを受けた。ひたすら射法八節に習って形の反復練習を行ったり、翔兄ちゃんの
「今はお姉ちゃんから教わったことの大切さに気付けたんでよかったですけど。できれば、お姉ちゃんと一緒に立に入りたかったですね」
辛いことなのにもかかわらず、常に笑顔で話してくれる大前に、僕はただ圧倒された。
僕よりも何倍もしっかりしている。目の前の女の子に僕は頭が上がらない。
「私とお姉ちゃんを唯一繋いでいるのが弓道なんです。私の弓道は、お姉ちゃんの射形そのものなんです。だから私は、お姉ちゃんがどれだけすごかったかを弓道を通して証明したいんです」
言葉に詰まった大前はマフラーに顔をうずめる。
咳払いをして、満面の笑みで僕に答えた。
「だから私は、早気なんかに負けるつもりはこれっぽっちもないんです」
「大前さん……」
「先輩も一緒に克服しましょうよ。何度も挑み続けましょうよ。先輩に弓道を教えてくれた人も、絶対にそう思っていると思いますよ」
大前と出会って、まだ一ヶ月だけど練習パートナーとして常に一緒にいた。本来は僕が大前にかけるべき言葉を逆に言われている。自分が本当に情けない。
「先輩?」
大前の顔を見ることができず、僕は俯いたままでいた。
大切なお姉さんを失くしたにも関わらず、大前は必死に思いを繋げるために努力している。それに比べて僕は怯えてばかりで、ようやく踏み出した一歩ですら大前に比べると、とてつもなくちっぽけだ。小さくてか細さしか感じない。
「なんか情けないな。本当に」
ようやく出てきた言葉も、自分を否定する言葉だった。それでも、今までとは違う感じが僕にはあった。
顔を上げ、大前に視線を向ける。大前は黙ったまま、僕のことを見続けていてくれた。
「これから、もっと指導厳しくなってもいいかな?」
大前の早気を治してあげたい。
大前の力になりたい。
最初は弓道部の練習場所を確保するたに、仕方なく大前の指導を引き受けた。だけど、目の前でこんなに真剣に取り組もうと努力している人間がいる。
今は力になれることを精一杯してあげたいと、心の底から思えた。
「お願いします。先輩! 一緒に頑張りましょう」
大前は頭を下げると、満面の笑みを見せてくれた。
大前の笑顔は変わらなかった。それは大前の強さなのかもしれない。お姉さんを思う気持ちや早気に臆することなく立ち向かう気持ちがあるからこそ、大前はいつも笑うことができるのかもしれない。
大前は僕とは違った。
僕が行ってこなかったことを既に行っている。
早気と真正面から向き合っている。
たとえ苦しくても、決して諦めることを考えていない。
それは大前の目を見ていれば明らかだ。
早気を絶対に克服できる。
大前になら、すぐにでもその言葉をかけることができる。慰めでもない、克服できるだけの根拠がある気がした。
――真弓君は大丈夫。
先輩は大前のように、僕にも根拠があるから言ってくれたのかもしれない。でも、それはいったい何なのか。今の僕には全くわからなかった。
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