第9話 病の重さ

 中学校での練習は予定通り、休日と祝日にすることになった。毎週道場に出向いては中学生の練習を手伝う。自主練習の時は僕達も的前に入り、練習に精を出した。

 高瀬は初心者ということもあり、射法八節通りの形を身につけるところから始まった。宝の持ち腐れだった知識も、本格的に取り組むことができる今なら有効に利用することができる。知識がある人とない人では、当然吸収力も変わってくる。何より高瀬本人が、楽しそうに弓道をしていることがとても嬉しかった。

 中学の頃から弓道をしていた古林は、立の練習で必ず一中以上のあたりを出していた。特に顕著だったのが、最後の一本を必ず中てていたことだ。本人にそのことを聞くと「最後は中てるだろ」と余裕をみせる返答をしてきた。

 順調に練習を行っていく中、二月の練習試合に向けて考えなくてはいけないことがある。

 弓道は主に三人立と五人立の試合がある。僕達が出るのは、間違いなく三人立。弓道の試合では的中数はもちろん、四本の矢の何本目を中てることができるかを考えることがある。今回の練習試合では周囲よりも練習量が少ない分、より慎重に射る順番を考えないといけない。とにかく上位に食い込まないと、先がないのだから。

 三人立では最初に射る人のことを大前おおまえと言い、二番目はなか、三番目をおちと呼ぶ。これを高瀬と古林と僕にあてはめていく。

 古林は間違いなく落の素質を持っていると思う。冷静に物事の判断ができて、全体を見渡す能力がある。さらに的中数も期待できる。中でも最後の一射を中てることができるのは、落として十分な素質があると断言できる。

 一方の高瀬は初心者なので、中に入るのが無難。そうすると、残る大前は僕が担当することになる。

 大前は一射目の的中率が高い人がよく選ばれる。一射目を中てることは、チームに勢いをつける。皆を引っ張っていける人がなるべきポジションだ。僕には皆を引っ張ることができるか自信がないけど、どの立ち位置も経験したことがある。なにより初心者の高瀬に任せるには荷が重い。

 何となく試合に向けての展望が見えてきたけど、試合では的中数を意識していかないといけない。

 弓道は的中数によって勝敗が決まる。その試合形式のせいもあるのかもしれないけど、高校生のほとんどの人は的中を求めて中りにはしってしまう。中りにはしると、今度は射形を崩してしまい、徐々に中りが遠のいていく。的中にばかり気をとられていると変な癖がつき、今の僕みたいに早気になったり、中らなくなったりと悪いことばかり起こってしまう。

 こうして多くの弓道部員は、射形と的中数のジレンマに陥っている。高瀬も、古林も、そして僕も。ようやく練習環境が整ってきた今だからこそ、両方のバランスを意識して取り組んでいく必要がある。

 僕達の練習は、道場が使える時間いっぱいまで続いた。






早気はやけの克服方法ですか?」

「うん。とりあえず、この一ヶ月で大前さんの射形をある程度把握できた。今日からは、僕が実際に試した克服方法をやってもらおうかなと思って」


 僕は大前の目の前に克服アイテムを出す。


「電子メトロノームですか?」

「そう。このメトロノームの音を聞いて、弓を引くリズムを身体にしみこませるんだよ」


 道場で練習するようになって一ヶ月。高瀬も古林も徐々に射形が固まり始め、自分の課題が浮き彫りになっていた。各々がその課題に向け、練習に精を出している。僕も大前の課題を克服するために、対策をあれこれと試していた。


「電子音のリズムは、一コマ一秒に設定する。射法八節のそれぞれの節を四秒の間で引くことを意識するんだよ。特に会の時は、四秒後になる音で離れに移ることを意識してね」

「なるほど。音があるので、意識しやすいわけですね」

「うん。とりあえずやってみようか」


 はい、と元気よく頷いた大前はメトロノームのスイッチを入れ、弓を引きはじめる。

 最初に大前を見た時から、綺麗な射形をしていると思っていた。こうしてメトロノームのリズム通り引いても、射形は綺麗に保たれている。

 大三をとった大前はそのまま引分けに入り、四秒経った音と同時に口割りまで矢を下げる。そこから会に入る。

 一秒、二秒。次の瞬間、大前は矢を放してしまった。


「二秒二五。少し保てるようになったんじゃないかな」


 手に持っていたストップウォッチで計った時間を僕は読み上げた。一ヶ月前に初めて見たときは、会に入った瞬間に矢を放していた。その大前が、今は二秒も会を保つことができている。


「嘘……音やテンポを意識していただけなのに……」

「早気って、ほとんどが精神論で語られているんだ。中てようとする意識が強いだとか、的を意識しすぎだとか。中には、心の弱さや私生活の悩みから早気になる人もいるんだって。だから今回は大前さんに精神論よりもわかりやすい、音やテンポを意識してもらったんだ。それでも、ここまで成果があるとは思っていなかったよ」


 目の前で起こったことに、僕自身驚きを隠せなかった。自分で試したときは、全く効果がなかったから。


「これからは、練習時にはメトロノームを使うことにしようか。会以外でも同じテンポで弓を引くことができれば、より良い射形で引けるようになると思うから」

「はい!」


 元気よく返事をした大前は、自信を取り戻したような笑顔を晒している。

 昔の経験がうまく利用できている気がした。たとえ自分には効力がなくても、他人になら絶大な薬になることもある。僕も大前を見習わないといけない。自分の問題を解決しないと、二月の練習試合で廃部の可能性があるのだから。それだけは絶対に避けなくては。

 探さないと。僕にとっての早気に効く薬を。いったいどんな薬なんだろう。






「あれ、真弓君だよね?」


 練習後の帰り道。コンビニに寄って買い物をしていると、後ろから肩を叩かれた。聞き覚えのある声に振り向くと、見知った顔がそこにあった。


「雨宮先輩」


 挨拶をすると、先輩は笑顔をみせた。


「買い物?」

「はい。飲み物を切らしてて。先輩も買い物ですか?」

「そうね。それと、真弓君にもちょっとね」


 含みのある発言に、思わず先輩の顔に視線を移す。先輩は先程と変わらず笑顔だったけど、どこか冷めた表情で僕を見つめているような気がした。


「ちょっと外で話さない?」

「はい」


 僕が頷いたのを確認すると、先輩はそのまま外に出て行った。後を追いかけるようにして僕も外に出る。しばらくの間、先輩は無言のまま歩き続けた。隣に並ぶのが怖くて、僕は一歩後ろをついていく。

 先日のふささら祭りでは普通に話せていた。だけど目の前にいる先輩は、先日とは違う雰囲気を醸し出している。

 あれこれ考えていると、先輩は歩みを止めて後ろを振り向いた。


「ちょっとってかない?」

「いいですけど。道場まで戻るんですか?」

「戻らないよ」

「それじゃ、どこで射るんですか?」


 先輩は僕の質問を気にせずに笑みを見せると、踵を返してそのまま歩き出した。

 僕は冷静に考える。まず言えることは、近くに弓道場がない。一番近くてもここからだと一時間以上かかる。それなのに先輩は射るための場所に向かおうとしている。

 先輩の発した言葉の真意を考えていると、大きな家の目の前で先輩は足を止めた。


「ここ、私の家なの」


 目の前に屹立する建物に、開いた口が塞がらなかった。豪邸と形容できる立派な家が目の前に広がっている。ここまで大きな家を僕は見たことがなかった。


「もしかして先輩……社長令嬢なんですか?」

「ええ。そうね」


 あっさりと答えた先輩に、僕は驚きを通り越して笑うしかなかった。


「こっちよ」


 先輩に連れられて敷地内を進む。見えてきたのは小さな道場だった。目の前の安土あづちには二つの的が設えてある。


「弓道場……」

「真弓君と練習してみたくて。ここなら誰の邪魔も入らないし、集中できるかなって思って」


 少し頬を赤らめながら話す先輩の意味深な言葉と家の大きさに、僕はとにかく圧倒されていた。そもそも敷地内に弓道場があるなんて、誰が想像できただろうか。こんないい環境を持っている先輩を憎く思ってしまう自分がいる。


「真弓君?」

「……あっ、すみません」


 気づいたら目の前に先輩の顔があった。間近で見る屈託のない笑顔に、僕の心が支配されそうになる。


「びっくりしました。家に道場があるなんて」

「お父さんが弓道好きなの。それで、私も弓道やりたいって言ったら建ててくれたの。いつでも練習できるようにって」

「す……すごい」


 もはや笑うことすらもできなかった。敷地の広さ、大きな家に弓道場の完備。恵まれた人間に僕は嫉妬を覚える。今の男子弓道部には、喉から手が出るほど欲しい場所だと思う。


「さあ、練習しましょう。真弓君の射形、もう一度見たかったの」


 笑みを見せた先輩は、道場に設えてある個室へと消えていった。僕は一人きりになった道場でジャージに着替え、持参していたゴム弓を引いて先輩を待つ。

 静寂に満ちた道場が妙に気になって仕方がなかった。最近の練習では、誰かしらの話し声が聞こえていたからかもしれない。小鳥の囀りが聞こえるほど静かなこの空間は、大会の時に味わえる雰囲気に近いと思った。


「お待たせ」


 引き戸が開き、声のする方に視線を向ける。個室から現れた人に、僕は思考の全てを奪われた。

 整った顔立ちに、清楚感溢れるたたずまい。腰まで届きそうな艶やかな黒髪と袴姿が、先輩の魅力をより一層引き立てている。まさに大和撫子。これ以上、美しい人がこの世にいるのだろうかと思わせるほどの破壊力があった。


「……綺麗です」


 思わず両手で口をふさぐ。自分が発した言葉に恥ずかしさを覚える。顔が赤くなっているのが自分でもわかった。


「ありがとう」


 そんな僕に先輩は優しく微笑むと、弓置場から弓を取る。


「真弓君もここにある弓を使ってね。あまり種類はないけど」

「ありがとうございます。お借りします」


 種類はないと言っても、目の前の弓置場には数十本の弓があった。この量なら、学校にある本数と同じくらいありそうだ。

 素引きをして、自分に合う弓を選んだ僕は入念に形の確認に入る。弓道は立の前の準備がとても大切で、少しでも妥協すると実際の立で中らなくなることがほとんどだ。さらに精神面によっても中りが左右されるので、準備不足と思ってしまうだけで全く中らなくなることも十分ある。弓道はまさに心技体全てが求められるスポーツだ。


「私から射るね」


 的前に立った先輩は弓を引き始めた。

 静寂に包まれている道場で、凛と咲き誇る花のような先輩が引く姿は、とても美しかった。

 先輩の美しさに見とれていた僕の意識が、弦音つるねによって引き戻される。その後、パンッと大きな音が響き渡る。先輩の一射は見事に的を射ぬいた。


「どうかしら?」


 アドバイスを求めるように、先輩が僕に聞いてきた。見とれていて、形を見ていなかったとは口が裂けても言えない。それでも美しい射形だからこそ、素直な気持ちが自然と出てきた。


「とても綺麗でした。全体的に射形が整っていて、完成されていると思います。正直、先輩の射に見とれてしまいました。特に引分け後の会。弓手、馬手の両方が同時におさまって、そこからの伸合いに詰合い。じりじりと限界を迎えて、最後は自然な離れ。緩みもなく綺麗な離れでしたので、的を見なくても中ると確信できました」

「ありがとう。真弓君にそう言われると、本当に嬉しい」


 先輩の仕草に、さらに僕の心は引き寄せられそうになる。目の前の美しい人に魅力を感じない人は絶対にいない。そう思わせるだけの美しさがそこにはあった。

 二射目も一射目と遜色ない綺麗な射形で的の中心を射ぬいた。これだけできる先輩がいるんだから、藤宮先生が全国を目指せると言っていたのも十分理解できた。


「さあ、次は真弓君の番ね」

「はい。よろしくお願いします」


 技術力がある先輩に見てもらうことを誇りに思って、僕は的前に立った。翔兄ちゃんや真矢先生以来、久しぶりに自分の形を評価してもらえるのかもしれないと思うと、わくわくが止まらなかった。

 今すぐ引きたい。自分の立ち位置がどこなのか知りたい。

 打起しに入った僕は大三をとり、引分けに入る。ゆっくりと呼吸のリズムで弓を引いて、矢を口割りの高さまで下げる。ここからじりじりと伸びなければいけない。

 しかし会に入った瞬間、僕の病気が発症した。放たれた矢は無情にも安土に刺さる。わかっていたことだけど、自分の射に憤りを覚えずにはいられない。


「駄目でした」


 先輩の方に視線を向けた僕は、直ぐに異変に気づいた。先輩の頬に一滴の光るものが伝っている。


「せ、先輩?」


 どうしていいのかわからず困惑していると、我に返った先輩は急いで涙を拭った。


「ご、ごめんなさい。何でだろう。懐かしくなっちゃった」

「懐かしい……ですか?」

「うん」


 そっと呟いた先輩は、息を吐くと僕の目を見て告げた。


「二年前の全国大会で優勝した時の射と変わっていなかったから」


 先輩の発言に僕は息を飲んだ。

 二年前。中学二年生の頃。そういえば、さっきも先輩は「もう一度見たかったの」と言っていた。まるで、過去に僕の射を見たことがあるかのように。


「僕のことを知ってたんですか?」

「うん。知ってた。だって、私も二年前に全国大会に出場していたから」


 道場内に風が吹き込み、先輩の長髪がなびく。


「真弓君の射は、人を引き付ける力があると思う。中学生の頃からそうだったけど、特によかったのは会だった」


 会。僕が射法八節で一番大好きな節。会の時に生まれる静寂。見た目ではわからないけど、矢を離す瞬間までの緊張感。今までの動作を、後にくる離れに繋げるための大切な節。先輩は僕の会を評価してくれた。


「でも、今は当時のような会は影を潜めている。病気にかかってしまったから」


 早気。弓道の三大病の一つと言われている重い病気。残り二つは「もたれ」「緩み」と言われているけど、諸説あるらしい。三大病の中で一番重いとされているのが早気と言われている。


「私は、真弓君なら絶対に会を取り戻せると思ってる」

「どうして……どうして取り戻せるなんて言えるんですか?」

「だって真弓君。頑張ってるもん」

「……頑張っても無理な時だってあるんです」


 当時の僕は早気の自覚はなかったとはいえ、中りを取り戻すため、皆に迷惑をかけないため、何より自分自身のために精一杯努力を重ねたつもりだ。それでも無理だった。治らなかった。努力が足りないと言われればそれまでかもしれないけど、精一杯やってきたつもりだ。


「でも、今ここにいる。まだ弓道と向き合おうとしている」

「…………」

「真弓君は大丈夫」

「…………」


 もはや言葉が出てこなかった。いろんな人に大丈夫と言われてきた。言われ慣れてしまった。口だけならいくらでも言える。藤宮先生も言っていたけど、その通りだ。目に見える結果がなければ道場だって使えるようにならない。早気が治らなければ、かけられた言葉は慰めにしか聞こえない。このように考えてしまうのは間違いだろうか。


「真弓君の周りには、支えてくれる人が沢山いるから」


 先輩は笑顔で僕のことを見てくれている。絶対に克服できる。先輩の笑顔は僕に訴えかけているみたいだった。


「それに、真弓君は私とは違うから」

「先輩?」

「ううん。何でもない」


 弓を弓置場に戻すと、先輩は弓がけを取り外した。


「今日はもう終わりにしましょう。続きはまた今度ってことで」


 先輩は満面の笑みを見せ、そのまま個室へと入っていった。

 道場に静寂が訪れる。気づけば既に日は落ち、辺りには夜の帳が下りている。ふと時計を見ると十八時を過ぎていた。

 制服に着替えた僕は矢道に靴を持っていき、安土に向かった。目の前には先輩の矢と僕の矢。その二つは対照的で、僕の矢だけが的に中っていなかった。


「クソッ」


 悔しさが口から放たれる。

 以前は当たり前のように中っていた。しかし、今は全く中っていない。目の前の安土に刺さっている矢が、今の僕を物語っている。


 どうして、早気なんて病気があるのだろうか。

 どうして、好きなことなのに、嫌な思いをしなければいけないのだろうか。

 どうして、僕なのだろうか。


 周りの人は簡単に治ると言ってくる。

 今の僕には、どうしても軽い気持ちで言っている風にしか聞こえない。

 だからこそ言える。

 早気になった人にしか、早気の恐ろしさはわからないんだと。

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