第8話 早気

 週明け月曜日の放課後。男子弓道部全員が的場先生に呼び出された。


「よし、お前ら荷物持ったな。それじゃ、行こうか」

「どこに行くんですか?」

「練習場所だよ」


 高瀬の質問に答えた的場先生は、そのまま職員室を出て行った。僕達も慌てて後を追う。まさか的場先生が練習場所を見つけているとは思ってもみなかった僕達は、言われた時に拍子抜けしてしまった。

 電車を乗り継いでやってきた駅は、僕をさらに驚かせた。


「ここって、真弓君の最寄り駅だよね?」

「そうだね。でも、ここら辺に練習できる場所なんてないと思うけど」


 心当たりのない僕は、的場先生の言う練習場所の推測が全くできなかった。それでもしばらく歩いていると、僕にも練習場所となる場所が推測できた。


「着いたぞ」


 視線の先には中学校が屹立している。間違いない。僕の出身中学校だ。


「中学校って、まさか先生!」

「高瀬の思っている通りだ。ここで練習する」


 高瀬の反応に的場先生は笑みをみせる。


「ここって、真弓の中学だよな?」

「そうだよ。僕の中学だよ」


 古林は中学で弓道をやっていたと言っていた。僕の出身中学校を知っていてもおかしくはないので、そこまで驚くことではない。問題は、的場先生が中学校を練習場所に選んだことだ。確かに道場はあるから練習はできるけど。


「先生は中学生と一緒に練習することを想定してるんですか?」


 僕は気になったことを的場先生にぶつける。先生は素直に答えてくれた。


「そうだ。お前らがここで練習できるのは休日と祝日だけ。ただし、とある条件をのんでもらうけどな」

「条件?」

「まあ、後でのお楽しみだ」


 的場先生はそのまま職員玄関まで行くと、手続きを済ませる。しばらくして、とある先生が僕達の前に現れた。


「的場! 久しぶりだな」

真矢まやも元気そうで何よりだ」


 初めてあった空気を感じさせないくらいフレンドリーな二人を見て、高瀬がすかさず声を上げた。


「的場先生。そちらの方は?」

「おっと。悪い。紹介が遅れたな。こいつは松草まつくさ中学の真矢先生。この中学の弓道部の顧問の先生だ。それと、俺の高校時代の同級生」


 にっと笑みを見せた的場先生は、真矢先生とじゃれ合う。一方の真矢先生も、久しぶりに会った同級生との再会を楽しんでいるみたいだった。


「なあ、真弓?」

「何?」

「道場ってどんな感じなんだ?」

「普通の道場だよ。五人立の練習ができるくらいの広さがあるよ」


 そうか。と古林は頷く。自分の中学校との比較でもしているのか、あごに手を添え考える素振りを見せる。


「中学生と練習か。こりゃ下手なとこ見せられないな」


 高瀬が威勢のいいことを口走る。高瀬も初心者だろって思わず突っ込みたくなる。


「おーい。お前ら行くぞ」


 会話を終えた的場先生が、僕達の元に駆け寄ってくる。その後ろからゆっくりと歩み寄ってきた真矢先生と目が合う。僕は思わず視線を逸らしてしまった。

 中学時代の嫌な思い出が蘇ってくる。正直、ここに戻ってきたくはなかった。忘れていた嫌な出来事が思い出される。僕は動揺を隠せなかった。

 真矢先生に連れられて校内を歩き続けると、目の前に懐かしい風景が見えてきた。


「ここが道場です。ちょうど部員の子たちが練習しているので、ぜひ見学していってください」


 真矢先生のご厚意に甘える形で、僕達は道場の中へと入る。丁度、立が行われていた。

 目の前で繰り広げられる練習と道場の静謐な雰囲気は、大会の時とは違う違和感みたいなものを覚える。立に入っている人との距離が近いからなのかもしれない。弦音が大きく聞こえる。それにかつて練習に打ち込んだ懐かしい道場の空気に、感慨深い気持ちを抱かずにはいられなかった。

 僕達は立の真後ろに場所をとり、腰を下ろした。松草中学校の道場は、最大六人まで的前に入ることができる。中学校でここまで設備の整っている道場があるのは珍しい。大会では三人立と五人立の試合が行われるため、どちらも練習ができる道場は優秀だと言っていいと思う。

 一射ごとに上級生と思われる生徒がアドバイスを送っている。実際に目の前で繰り広げられている練習は、僕の理想とする練習風景だった。

 そんな中、僕はとある生徒が気になった。前射場の大前に入っている女性。一射目を放ったときの弦音がやけに早かった気がした。後ろ射場の大前の人は引分けに入ったところなのに。気になった僕は、そのままその生徒を見続ける。打起し、大三。ここまでは何も問題を感じられない。引分けに入っても綺麗な形を保っているように見えた。

 大丈夫そうだなと思った瞬間、矢が的に向かって飛んでいった。あまりの早さに、僕は空いた口が塞がらなかった。そして、最悪な状況が僕の脳内をよぎった。

 気のせいであってほしかった。そう思う気持ちが強くて、僕は三射目を眺める。しかし先程と同じように会に入った瞬間、離れてしまう。

 僕は受け入れるしかないと思った。どうして病気なんてものがあるのかと思った。楽しいことは、楽しいだけで十分じゃないか。弓道をして、嫌になる出来事なんてなくなってしまえばいいのにと心の底から思う。

 早気なんて、なくなってしまえばいいのに。






「さあ、今日は高校生のお兄さん方が来てくれたぞ。これから休日と祝日に来てくれるから、みんなも学べることはしっかり吸収しよう」


 真矢先生に簡単な紹介をしてもらった後、僕達は中学生の皆に一人ずつ自己紹介した。高瀬は中学生からも人気で、特に女子からの黄色い声援が凄かった。古林は自らの名前を言うだけで、そのまま無言を貫き通した。中学生の皆も反応に困っている様子だった。そして僕の番がきた。


「初めまして。真弓一です。松草中学は僕の母校であり、みんなと同じで弓道部に入ってました。よろしくお願いします」


 簡単に挨拶を終えた僕は、改めて皆を見渡す。皆の視線が僕に注がれているようだった。妙な空気に、思わず一歩後ずさりしてしまう。重い空気が漂う中、真矢先生が口を開いた。


「みんなも知っていると思うけど、真弓君は当時の全国大会個人戦で二連覇した経験があるんだ。弓道が上手いから、みんなもわからないことは教えてもらおう」


 真矢先生は笑顔で言い放った。正直僕にとっては全国大会二連覇なんて誇れることではなかった。過去の栄光に縋り付いているみたいでいい気がしない。今の自分を知っているからこそ余計に腹が立つ。


「それじゃ、みんなもう一度立に入ろうか。今度はお兄さんたちに見てもらおう」

「「はい!」」


 皆が声を揃えて返事をする。中学生の無邪気さがとてもかわいい。僕も弓道に取り組む中学生と同じ気持ちでいたいと思った。

 真矢先生の指示に従い、再度立に臨む中学生を僕達は見ることにする。高瀬は初心者ということで、先頭の立の前に座らせて見取りをさせる。弓道では他人の形を見る「見取り稽古」がある。見取りでは先輩や同級生、後輩の形を見て、いいところを吸収していく。目の前で高瀬に見られている女の子は、照れているようにも見えた。

 一方、経験者である古林は気になった生徒に向け、身振り手振りでアドバイスをしていた。いつも無言を貫き、教室では話すことがなかった古林が活き活きしている。弓道が好きなんだと実感させられる光景だった。

 僕もアドバイスをしようと思い、生徒の元に足を向ける。視線の先には、僕が一番気になっていた女の子がいた。先程の立では、僕と同じ早気を思わせる射をしていた。それでも、荒さはあるけど射形は綺麗なほうだ。しかし、早気のせいでその射形が薄れてしまっている。

 じっくりとその子を眺めていると、真矢先生に肩を叩かれた。


「真弓。ちょっといいか」

「……はい」


 僕は行くべきか迷ったけど、真矢先生に従った。

 道場の外に出ると、真矢先生は振り向きざまに僕に向かって頭を下げてきた。


「すまん。真弓の中学時代のことを謝罪させてほしい」

「ちょっと先生。やめてください」


 目の前で頭を下げる先生に対して、僕は必死になって頭を上げるように促す。やっとのことで頭を上げてくれた真矢先生は、僕の目を見て話を続けた。


「俺は真弓の早気に気づかなかった。精神的にも不安定だったはずの真弓のことを配慮せずに、最後の大会からも外してしまった。本当、指導者として失格だ」


 自らの過ちを語りだす真矢先生に、何も言い返せなかった。先生の言っていることは事実だとしても、僕には先生の言葉が胸に響いてこない。言葉ならいくらでも言えると思っている自分がいる。


「真弓の弓道人生を台無しにしたんだ。だから真弓にどう思われても仕方ないと思っている」


 真矢先生はそう言うと、道場内に視線を向けた。


「卒業した真弓に、俺は何もしてあげられることはないと思っていた。そんな時、的場から連絡が入ったんだ」

「的場先生……」

「弓道部の練習場所を提供してくれないかって。はじめはもちろん、断ってしまった。こっちも色々と問題を抱えていたから。だけど弓道部員のメンバーを見て、俺は引き受けるべきなんだと思った」


 真矢先生は僕に顔を向けると、笑顔をつくった。


「決して償いとまではいかなくても、俺は真弓の力になれることをしてあげたい。それが、自分の思い上がりでもいい。俺が、俺自身が真弓にしてあげたいと思ったことだから」

「先生……」


 僕は勘違いしていたのかもしれない。今までは早気になった自分自身に腹が立っていたはずだ。それなのに、その感情をいつの間にか真矢先生にもあてはめていた。最後の大会で試合に出れなかったのは、自分の的中率が下がっていたから。真矢先生は顧問として勝てる布陣で臨んだはずだ。いくら僕が個人で二連覇していたからと言って、チームとして大会に出ているのだから。


「おっ、いたいた。真矢に真弓」


 道場内から声をかけてきた的場先生はゆっくりと近づくと、僕と真矢先生を一瞥する。


「あれ。なんか俺、ここに来ないほうが良かったか?」

「いえ、そんなことは」


 僕は言葉に詰まりながらも、的場先生の問いに答える。その様子を見て、的場先生は真矢先生に視線を向けた。


「そういえば、真矢。例の件、真弓に任せていいから」

「でも、やっぱりこの件は荷が重いだろ。第一、俺だってまともに答えが見えていないことだぞ」

「だからだ。当の本人が克服するには、これしかないんだって。嫌なことを克服するには向き合うことが必要だろ?」

「で、でも……」


 二人の会話に僕はついていけなかった。何かを任せるらしいけど、的場先生の言っている例の件について僕は一言も聞いていない。


「的場先生。例の件って何ですか?」


 待ってましたといわんばかりに、的場先生はしたり顔を見せてくる。


「実は、お前にとある生徒の指導をしてほしいんだ。しかも密着でな」


 にやりと笑みを浮かべる的場先生に対して、真矢先生は未だ迷っている顔を晒している。


「密着っていったい……」

「すみません、私に何か用ですか?」


 的場先生の背後から顔を覗かせたのは、先程僕が気になっていた女の子だった。


「あっ、ごめんね。えっと、確か君は……」


 名前を忘れてしまったのか、懊悩する的場先生に女の子は名前を告げた。


「大前です。大前おおまえ早希さきです」

「そうだった。大前さんの形の指導だけど、これからそこの人が見てくれるから。まあ、仲良くしてやってくれよ」


 的場先生の勢いに、大前は一歩後ずさっていた。見知らぬ相手に話しかけられたのだから、当然の反応だ。的場先生は誰に対してもフレンドリーに接するから、少しやりにくいところがある。


「真弓もなんか言えよ」


 的場先生にせかされ、大前の前へと押し出される。


「えっと、その、とりあえずよろしく」


 何を言うべきか考えていなかった僕は、状況を理解できないまま挨拶をする。一方の大前は僕のことを一瞥しただけで、そのまま道場内へと戻ってしまった。


「的場先生。いったいどうなってるんですか? 僕、こんな話聞いてないんですけど」

「道場を使えるんだから、こっちも何かしてあげようと思ってな。中学時代に全国大会二連覇したんだろ? それなら、問題なく教えられるだろ」


 はははと笑いながら、的場先生は道場内へと戻っていった。


「すまんな、真弓。的場は昔からマイペースというか、能天気な奴なんだ」

「そうですね」


 僕は呆れて開いた口が塞がらない。やはり先生としてどうなのかと思ってしまう。


「それで、大前についてなんだが。さっきの立を見てわかったと思うんだけど」

「僕と同じですね」

「……ああ。その通り。大前は早気なんだ」


 真矢先生の言葉に自分の身体がピクリと震えた。早気という言葉に無意識に反応するようになっているのかもしれない。僕の様子を窺うようにして、真矢先生は続ける。


「そこで、真弓にぜひとも早気克服の指導をしてほしいんだ」

「早気って……無理ですよ。早気の僕が、早気の人を指導するなんておかしいですよ」


 当然のように僕は否定する。真矢先生と的場先生の考えが理解できない。


「そうか。でも的場と交わした約束には、真弓が大前を教えることも条件に含まれてるんだ。だからもし条件を飲むことができないようなら、道場の使用許可は出せないな」


 的場先生がさっき言っていた条件の意味を、僕はようやく理解した。


「先生……卑怯ですね。さっきは力になりたいって言ってたのに」

「もちろん、真弓の力になりたいと思ってる。だけど、これは的場との約束なんだ。俺も決して無理じゃないことだと思っている。大前に教える条件を飲めないとなると、今回の話は無しにするつもりだ」


 真矢先生はそう言い残すと、道場内へと戻っていった。

 僕は大人の卑劣さを実感した。もしこのまま僕が教えるのを断ったら、練習場所がなくなることになる。そうなると、高瀬と古林にも迷惑がかかる。チームとしてようやく動き始めたところなのに、僕のせいでチームを潰したくはない。

 やってやる。自らの知識を存分に活かして、先生達を圧倒させてやる。早気になってしまった場合の治し方はこうだと示してやる。二度と僕と同じ過ちは起こさせない。僕が一泡吹かせればいいだけなんだ。






 道場に戻ると、自主練が始まっていた。高瀬はいつの間にかジャージに着替え、中学生の練習に交じっている。古林は一人ずつ的確なアドバイスを送っている。古林の教え方を見る限り、やはり弓道経験者だと実感する。

 弓道では射法八節全ての形が重要になってくる。しかし、それ以外にも大切なことは多くある。弓手のうち、体のバランス、三重さんじゅう十文字じゅうもんじ五重ごじゅう十文字じゅうもんじ伸合のびあいと詰合つめあい、呼吸のリズムで引くことができているかなど。指導者によって教え方、考え方はさまざまだ。その中でも古林は手の内について教えていた。弓をもって、自ら手の内について指導する古林の姿は指導者そのものに見える。僕なんかいなくても大丈夫だと思ってしまうくらいだ。

 各々の練習を見ながら、道場の一番端の場所で練習している大前のところに向かう。取懸とりかけが終わり、打起しに入ろうとするタイミングだった。僕は形が良く見える距離まで近づく。

 大前は顔を上げて僕を一瞥すると、そのまま物見を入れて打起しに入った。大三をとり、引分けを経て会に入る。

 瞬間、大前の矢が的に向かって放たれる。会は言うまでもなく保てていなかった。

 僕は目の前の女の子にどう対処すべきか決めきれていなかった。ただ、僕と同じ過ちを犯させてはいけない。それだけを考えて大前に話しかけた。


「大前さんって、早気だよね?」

「そ、そうですけど」


 僕の言葉に大前はピクリと身体を震わせる。あえて僕はストレートに問いかけた。遠回しに言うよりも、大前自身が言ってもらったほうが楽だと思ったから。


「今後、大前さんの早気の指導をしていくから。よろしくね」


 僕がそう告げると、大前は直ぐに表情を曇らせた。


「全国二連覇をしたから早気を治せるなんて、ふざけすぎです」

「ふざけてないよ。全国二連覇なんて関係ない。早気は本当に難しい病気なんだ。早めに治さないと、本当に後悔することになるから」

「あなたに言われたくないです」


 びしっと放たれた言葉に、僕は萎縮してしまう。大前は続けて僕に言った。


「弓道でずっといい思いばかりしてきたくせに。弱者のことなんか考えられないくせに。あなたみたいに活躍したことしかない人に、私のことを言われたくないです」


 大前の言葉に僕は何も言い返せなかった。逆の立場だったら間違いなく、僕も大前と同じことを言っていたと思う。

 今の状態だと指導なんてできっこない。弓道は指導者と競技者のコミュニケーションが重要になるのだから。まずは僕と大前の間にあいた溝を埋めなくてはいけない。


「あのさ、使っていい弓あるかな?」

「ありますけど。何するつもりですか?」

「僕の本当の姿を見てもらいたい」


 僕は持参してきたがけを右手に取り付けると、弓を持って素引きを行う。

 久しぶりの感覚に、僕は驚かずにはいられなかった。まるで自分の身体とは思えないくらい、弓が引けなくなっている。会の姿勢を保つのがここまで辛いとは思わなかった。それでも、僕は大前に見せなければいけない。今の自分の姿を。


「使っていい矢ってある?」

「……矢立箱やたてばこにあります」


 矢立箱にあるばら矢の中から、自分に合う矢を選定する。二本の矢を選び終えると、僕はそのまま大前のいた的前に立つ。射法八節に従い、足踏み、胴造り、弓構えまで行う。取懸けを終えた僕は、大前に視線をうつした。


「僕も大前さんと同じなんだ」

「同じって……」


 戸惑う大前の顔を一瞥して、僕は物見を入れて打起しをした。大三をとり、引分けに入る。久しぶりに引く弓は、素引きの時よりも軽く感じた。引きやすく、力ずくなら会を保つことができるのではないかと思ってしまう。

 弓を引ききり、会の体勢に入る。視線の先に的が映る。

 瞬間、僕の手から矢が放たれた。

 会があまりにも短すぎる。典型的な早気だと誰もがわかるはずだ。

 残心をとり、弓倒しをする。足踏みをした状態のまま、僕は大前に視線を向けた。


「嘘……」 


 目の前の出来事に動揺しているのか、大前は口を開けたまま固まっている。周囲の皆も僕の射を見ていたのか、道場内はいつの間にか静寂に包まれていた。

 僕は残り一本の矢を番えると、先程と同様に矢を放った。結局、二射目も会を保てずに矢を放ってしまった。


「真弓君……まさか」


 高瀬が僕の元に歩み寄ってくる。


「そうだよ。見ての通り、早気なんだ」


 僕の発言に、高瀬の足が止まった。周囲がざわめきだす。

 全国大会で優勝しても一歩間違えればこのざま。僕はそのまま大前に話しかけた。


「大前さんの気持ち、わかるよ。僕も早気に苦しんでいる」

「そ、そんな……いつからですか?」

「中学二年生の十二月から。前触れもなく、会が保てなくなったんだ」

「わ、私もです。突然、会が保てなくなって……」


 同じ仲間を見つけたように、大前は僕に歩み寄ってくる。その姿は先程とはまるで別人のようだった。


「僕は一度、弓道を辞めようと思った。それくらい早気は人の心を虫食む病気なんだ。僕と同じ思いを大前さんにはさせたくない」

「先輩……」


 大前の表情が緩んだ。今まで警戒されていたみたいだけど、どうにかして僕の気持ちを伝えることができたみたいだ。


「さあ、練習に戻ろうか」


 僕はそう告げると、周囲の人達を一瞥する。咄嗟に周囲の人達は僕から視線を逸らし、そのまま各々の練習に戻っていった。静寂に包まれていた道場に、活気が戻り始める。その様子にほっと息を吐いていると、大前が僕の顔を覗き込んできた。


「わかりました。先輩を、私の指導者に任命してあげます」


 屈託のない笑顔を見せる大前に、僕は懐かしい気持ちを抱いた。なんとなくだけど、大前は凛と似ている気がする。自分の意志をしっかりと持っていて、年上に対しても強気な発言をしてくる。


「先輩。もう一度見てください」


 大前に対して、今はできることを精一杯やろう。

 今見せてくれている笑顔を消すようなことだけは絶対に避けよう。

 僕だけが苦しんでいるわけではない。

 早気という病気に苦しんでいる人は、沢山いるんだ。

 そんな事実に気づかせてくれた大前に、心の底からありがとうと言いたいと思った。

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