第2話 託されたバトン

 家に帰った僕は眼鏡を外し、そのままベッドに飛び込んで枕に顔を埋めた。橘との会話が嫌でも思い出される。そのたびに、胸が締めつけられる思いに駆られる。

 僕は弓道を捨てた。

 でも、弓道は大好き。

 これ以上、嫌いになりたくないからこそ決めたこと。

 それなのに改めて考えると、自分の気持ちに矛盾点があることに気づかされる。

 こんな考えのままじゃ橘だって納得してくれるはずがない。


「僕は……どっちなんだろう」


 ふつふつと煮え切った脳内に聞いてみようとするも、当然のように答えは返ってこない。それでも、僕は答えを求めようとしている。

 高校生になって弓道を辞めた選択は間違っていたのだろうか。

 好きなものを続けることこそが、好きの証明になるのだろうか。


 ブーブー。


 携帯電話が震えている。着信音の長さからしてメールではなく電話みたいだ。

 枕元に置いてある携帯の画面を見る。瞬間、自ら犯した過ちに気づいた。たちの後にりんと会う約束をしていたのに、そのまま帰ってきてしまった。鳴りやまない携帯の通話ボタンを押して、恐る恐る電話に出た。


「もしもし」

『バカ!』

「うぐっ」


 キーンと耳鳴りがするくらい大きな声で怒鳴られた。無理もない。


「ごめん……声かけようと思ってたんだけど」

『言い訳はいらない。帰った事実は変わらないでしょ』

「そうだね……」


 勝ち誇った態度で僕を罵ってくる。凛は相変わらずだ。


『でも、今日はありがとう。本当に来てくれるとは思わなかったから』

「一応幼馴染だし、僕だって行ってあげるくらいの分別はついてるから」

『何それ? 社交辞令みたいな言い方して。私にいつも怒られてばっかりのくせに』

「凛が勝手に怒ってるだけだろ」


 凛はいつも上から目線で話しかけてくる。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


『あーもう。後で一に奢ってもらおう』

「えっ、ちょっと待てよ。どうして僕が――」

『文句あるの?』

「……ありません」

『それでよーし』


 電話越しからでも伝わってくる殺気めいたものに、僕は竦んでしまった。昔から凛には頭が上がらない。


「それで、いつこっちに戻ってこれるのさ?」

『十七時くらいかな。先輩の応援もあるし』

「わかった。それじゃ、また後で」

『うん』


 通話が切れる。先程までうるさかった耳元が、一瞬にして静寂に包まれる。しばらくの間、静けさに浸っていると、悩みがどうでもよくなってきた。

 僕は弓道を辞めた。

 ただ、それだけのことなんだから。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴り響く。外した眼鏡をかけなおし、僕は玄関のドアを開けた。


「よっ、元気にしてたか」

「翔……兄ちゃん」


 目の前に忽然と現れた年上の男性。神道翔しんどうかける

 弓道を好きになるきっかけをくれた人。

 僕の憧れで、弓道を輝かせてくれた憧れの存在。凛の従兄で、昔から僕と凛は翔兄ちゃんを見て育ってきた。


「どうしてここに?」

「久しぶりに帰って来たんだよ。俺も大学入って一年半経つしな。少しは地元に帰って親孝行しないと」


 微笑みながら語る翔兄ちゃんは、以前と変わらず輝いていた。


「とりあえず、あがってよ」

「おう。一の家、久しぶりだな」


 昔から翔兄ちゃんは友達のように僕と接してくれた。四つ歳が離れているにも関わらず、僕と同じ目線で話をしてくれる。まるで同級生のような存在だった。


「そっか。一も、もう高校一年生だもんな」

「そうだね」


 家に上がるなり、翔兄ちゃんは二階にある僕の部屋に向かった。後を追うようにして僕も向かう。部屋に着くと、翔兄ちゃんは壁に飾ってある表彰状を眺めていた。


「そういえば、一は部活入ってないんだって?」

「うん。でも、どうして知ってるの?」

「凛が言ってたからな」


 翔兄ちゃんは、僕が中学生の頃に貰ったトロフィーを見ながら話を続ける。


「凛の奴、弓道部入ったらしいじゃん」

「そうだね」

「お前は入らないのか?」


 低く重みのある声だった。翔兄ちゃんは僕に視線を向け続けている。


「男子弓道部は、対外試合禁止中なんだ」

「知ってるよ。凛から聞いた」


 草越高校男子弓道部は、昨年の四月に行われた関東大会の予選で生徒が喫煙をしたことが発覚して、半年の対外試合禁止。その後、処分に不服を申し立てる生徒が相次いで暴力沙汰の問題を起こした結果、一年半の対外試合の禁止という非常に重い処分が下されることとなった。不祥事が発覚するまで草越高校男子弓道部は、八月に行われるインターハイで三連覇を成し遂げていた。前人未到の四連覇がかかっていたこともあり、他校の弓道部員からも「どうして」「なぜ」といった落胆の声が多く上がった。


「正直、俺のせいだと思ってる。今の男子弓道部が廃れたのも。本当にごめんな」

「どうして翔兄ちゃんが謝るのさ。全国三連覇の立役者なのに」

「立役者だったからこそ、当時部長だった俺が後輩の面倒を見なければいけなかった」


 翔兄ちゃんの表情が曇った。僕はかける言葉が見つからず、翔兄ちゃんから視線を逸らしてしまう。


「なあ、一」

「何?」

「俺のお願い、聞いてくれるか?」

「お願い?」


 首を傾げる僕に、翔兄ちゃんは視線を向けると言い切った。


「俺の代わりに、男子弓道部を復活させてほしいんだ」


 現実味のないことを言われ、僕はしばらく口を開けたまま硬直した。どう返事をすべきかわからない。そんな僕を見かねてか、翔兄ちゃんが口を開いた。


「今年の十月末でちょうど一年半経つんだ。男子弓道部の対外試合禁止が解ける。俺は、草越高校男子弓道部の再開を一に託したいんだ。卒業生として」

「……無理だよ」


 小さく呟いた。僕は弓道を捨てた。翔兄ちゃんの頼みを叶えることは無理だ。今更、戻ることは許されない。


「無理じゃない。一ならできる」

「無理だよ。僕には……無理なんだ」


 翔兄ちゃんは僕の病気について何も知らない。知らないまま京都の大学に行ってしまった。草越高校弓道部に全国三連覇の偉業をもたらした後、僕の前から消えていった。そんな翔兄ちゃんに僕の気持ちがわかるはずもない。


「一は、弓道好きか?」

「えっ」

「好きか、嫌いか。どっちなんだ?」

「そりゃ、弓道は好きだよ。好きだけど……」

「早気なんだってな、お前」

「どうしてそれを……」


 言いかけた言葉を胸にしまった。これも凛が伝えていたのだろう。

 呆然としている僕に視線を向けた翔兄ちゃんは、一度深呼吸をしてから口を開いた。


「俺は早気になったことがないから言っても説得力がないと思うけど、早気の克服は本当に難しいと思う」


 弓道をやっている人なら知らない人はいない病気。もちろん、早気になりたくてなるわけではない。皆わかっていることなのに、早気になった人に対しての解決策が見つからず、自分は関係ないという態度を取る。結局、当時の僕は一人で抱え込んで駄目になった。


「でも弓道が好きなら、早気くらいで諦める必要はないんじゃないか」


 翔兄ちゃんの言葉が僕の耳を掠める。何を言っているのか僕には理解できなかった。そんな僕を見て、翔兄ちゃんは笑みを見せた。


「試合に出なくても弓道に関わる方法はあるだろ?」

「関わる方法……」

「選手ではなく、指導者として」


 翔兄ちゃんの提案に僕は驚愕した。


「そ、それこそ無理だよ。僕は弓道を教えるほどの実力はないし、翔兄ちゃんみたいに上手くない」


 絶対に無理だと思った。

 たった三年間しか僕は弓道に関わっていない。

 しかも三年間のうちの一年は、まともに弓道と向き合えていない。


「上手い、下手は関係ない。一は中学の時、誰に弓道を教わったんだ?」

「それは、顧問の先生と……あっ!」

「気づいたな」


 僕の声が上擦ったのを聞いた翔兄ちゃんは首肯すると、肩に手を置いて視線を合わせてきた。


「一は、少なくとも同級生と同等かそれ以上に弓道やってきてるんだ。弓道で大事なことは、的に向かって射ることだけじゃない。先輩から教わったことが一番大切だと言っても過言ではないんだから」


 翔兄ちゃんの言うことに、僕は静かに頷いた。

 確かにそうだ。中学校の弓道部では、顧問の先生をはじめ多くの先輩方に射形を教わった。何より、目の前にいる翔兄ちゃんから大切なことを学んだはず。でも、今の僕は早気の克服ができないことを理由に弓道から逃げようとしている。こんな僕に、誰かを指導することなんてできるのだろうか。


「初めて弓道をする人達に、弓道の楽しさを伝えてやれ。お前にならできる」

「……少し考えてみるよ」


 笑顔を見せる翔兄ちゃんに僕は頷いた。以前よりも気持ちが軽くなった気がした。






「えー翔兄ちゃん来てるの?」


 快活な声が響き渡る。翔兄ちゃんと別れてから、僕と凛は近所のファミレスで合流した。予定よりも早く大会が終わったみたいで、凛は十五時過ぎに連絡をいれてきた。


「声のボリューム下げろよ。公共の場だぞ」

「そんな大事なことを言わなかった一が悪いんだからね。あー翔兄ちゃんに会いたい」


 凛が騒いでいると、店員さんが急いで注文した品物を持ってきてくれた。駄々をこねていると思われたのかもしれない。僕は店員さんに申し訳ない気持ちを込めて、軽く頭を下げた。


「それで、パフェでいいの? 僕は夕飯を奢るつもりだったんだけど」

「まだおやつの時間でしょ。だからパフェでいいの」


 目の前にはクリームたっぷりのチョコバナナパフェが屹立していた。凛がスプーンでクリームを取り、口にいれる。


「あっ、もちろん夕飯も奢ってもらうからね」

「おい、そんなの僕聞いてないぞ」

「翔兄ちゃんのこと黙ってる一が悪いんだから!」


 憎たらしい顔を晒しながらクリームを頬張る凛は、鼻歌を歌いながらパフェを食べていた。能天気な凛を見ていると、何故だか嫌なことも忘れて気楽になれる。


「翔兄ちゃん、今日は凛の家に泊まるって言ってたぞ」

「うそ! マジで」


 目を輝かせながら、凛は身を乗り出して喜びを表現した。

 凛は翔兄ちゃんのことが好きだと僕は思っている。小さいころから色々と面倒を見てくれたのもあるけど、二人は従兄妹同士で僕よりも親密な関係。身近にルックスも抜群で、弓道もできる人がいるんだ。凛が翔兄ちゃんに惚れないわけがない。


「夕飯、凛の家で食べるみたいだし、僕なんかと食べないで早く家に帰ったら?」

「今日は……いい。ここで食べる」

「……そう」


 凛が喜びそうな情報を教えてあげたけど、さっきみたいに騒ぐことはなかった。急に静かになった凛に対して、かける言葉が見つからない。


「あのさ、今日の私の試合どうだったかな?」

「新人戦にしては上出来じゃないかな」


 思ったことをそのまま凛に伝えた。高校で弓道を始め、最初の大会で一本中てることができたのだから。


「でも、橘君は個人戦で三位入賞したんだよ。一年生なのに」

「橘……」


 今朝、橘と交わした言葉が脳内を駆け巡る。既に橘は僕の知らない世界に飛び込もうとしている。僕との力の差はかなりついたと言ってもいいだろう。


「私、もっと上手くなりたいって思った。たしかに橘君は中学でも弓道をしていたから、今日の結果は当然かもしれない。だけど私も練習すれば、きっと橘君以上に成績を残せると思うの」


 キラキラした双眸で僕を見つめてくる凛の純粋さは、昔からずっと変わらない。


「それでさ、頼みがあるんだけど」

「頼みって?」

「一に、弓道のコーチをしてほしいなって。駄目……かな?」


 上目使いで顔を覗き込んでくる凛に対して、僕は大きく息を吐く。そして、凛の頭めがけて軽くチョップをくらわした。


「痛い! 何するの。一のくせに」

「そういうあからさまな態度を見せられると、教える気なくなるんだけど」

「えっ? 今、何て……」

「だから、いつもの凛でいてくれないと、教える気がなくなるって言いたいの」


 言い終えた僕はコップの水を一気に口の中に流し込んだ。頬が熱くなっているのが自分でもわかる。


「それじゃ、また弓道をやる気になったってことだよね?」


 僕に詰め寄るように身を乗り出した凛の顔は、期待に胸を膨らませている子供のようだった。


「……やらないよ」

「何でよ?」

「まだ……怖いんだ」


 僕の心中には、早気の恐怖がまだ取りついている。翔兄ちゃんにできると言われたのは、正直嬉しかった。嬉しかったけど、自ら弓を引くことにまだ抵抗がある。


「早気だよね。翔兄ちゃんから色々聞いたよ。弓道で最も恐れるべき病気だって」

「やっぱり凛が言ってたんだね。翔兄ちゃんに」

「ごめん……でも、私じゃ力になれなかったし、一の弓道について一番知ってるのは翔兄ちゃんだと思ってたから」

「謝らなくていいよ。そのおかげで、翔兄ちゃんからアドバイスをもらえたから」


 アドバイス? と小首を傾げる凛を前に、僕はゆっくりと頷いた。


「指導者としてどうだって言われたんだ。弓道は嫌いじゃないし、別に選手だけが弓道の全てじゃないと僕も思っているから」

「…………」

「それに経験値が上の僕が教えれば、少しは凛も上手くなるんじゃないかな」

「……一のくせに、生意気言うな」


 今度は凛が僕にチョップをくらわした。自然と笑いが溢れた。


「でも、女子弓道部に僕が行くのは抵抗あるから、形の指導だけになると思うけど」

「えっ、男子弓道部に復帰するんじゃないの?」


 パフェのフレーク部分を食べようとしていた凛が手を止め、表情を変えた。


「弓道部って、まだ活動の見通しがたってないんじゃ」

「男子弓道部は試合ができないだけで、ちゃんと活動してるから」

「それなら、部員は今何人いるんだよ?」

「一人……かな」

「帰る」

「ちょ、ちょっと待って」


 僕が席を立つと同時に、凛が袖口を掴んで阻止してきた。


「一人は活動してるうちに入らないだろ。だいたい、僕は弓道部に復帰するなんて一言も言ってないよ」

「そうだけど……私は一が弓道部に入って、一緒に形を教えあうのが一番だと思ってたから」


 凛の言うことは間違っていない。実際に弓道は教えあうことで大きく成長していく。男子も女子も関係なく教えあうことができるのも弓道の魅力だ。


「僕はあくまで弓道について知っていることを教えるだけ。弓道部に入るのは……無理だよ」

「……わかった。とりあえず、私の指導よろしくね」


 追及するのを諦めたのか、凛は笑顔を見せると残っていたパフェを口に頬張り、席を立った。


「あれ、夕飯食べるんじゃないの?」

「気が変わった。やっぱり翔兄ちゃんと一緒に食べたい」


 じゃあねと手を振った凛は、スカートを翻しながらそのまま出口へと向かっていった。






 家に帰ると、僕はベッドに倒れこんだ。本日二回目の行為。だけど一回目とは違う気分だった。少しだけ見えていなかった答えが見えた気がする。

 顔を上げ、部屋の隅にある棚を見る。全国大会個人の部で二年連続優勝した時のトロフィーや表彰状が飾ってある。たった二年間だけの栄光がそこにはあった。

 一度輝けたんだ。それなら、もう一度輝くことも可能なんじゃないか。

 弓道に触れ、関わることで見えてくる何かがあるんじゃないか。

 決意を固めようとしてみるも、僕の頭に浮かんだのは早気だった。

 どうしても早気が僕を縛り付ける。僕に弓道をするなと問いかけてくる。


 ――初めて弓道をする人達に、弓道の楽しさを伝えてやれ。お前にならできる。


 翔兄ちゃんの言葉が脳内で再生される。

 昔から憧れの人で、僕の中で弓道を輝かせてくれた張本人。どうして翔兄ちゃんは僕にできると言ったのだろう。今の僕には楽しい気持ちを伝えられる自信はない。中学の弓道部で皆の期待を裏切った。今日だって大切なライバルを失望させた。そんな自分がいきなり弓道部に入って指導するなんてできるはずがない。

 色々と考えていたら眠くなってきた。

 今日は久しぶりに早起きをして外に出た。

 休日に外に出ることがめったになかった僕の身体は、疲労で悲鳴を上げているみたいだ。とりあえず週明けからは凛の形を見なきゃいけない。

 今日の凛をさらに輝かせたい。

 そんな願望にとらわれながら、まどろみの世界に記憶が吸い込まれた。

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