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第1話 戻れない場所

「よっしゃー!」


 静謐せいひつな道場に向け、声援を送る大勢の袴姿の集団。的に矢が中るたびに、各校の弓道部員が声を大にして叫んでいる。初めて弓道の試合を見に来た人は、この光景を見ると驚きを隠せない表情を晒す。僕自身初めて弓道の試合を見た時、開いた口が塞がらなかった。

 弓道は地味で堅苦しいスポーツといった印象が強い。僕が弓道をしていた時、同級生のほとんどは声を揃えて同じことを言ってきた。僕からすると、そう言ってくる人は弓道を知らない人達だと思っている。弓道は他のスポーツと同等、それ以上に熱いスポーツなのだから。

 袴姿の学生の脇をすり抜け、鉄柵越しに見える道場内を見渡す。先程まで歓声があがっていたたちは終わりを迎える頃となり、それに合わせて次の立の生徒が入場してくる。

 先頭で入場してきた立には幼馴染がいた。

 楠見凛くすみりん。ショートカットが似合っている、元気で明るい女の子。髪型や性格、男勝りな口調も重なり、クラスの男子から「男女」と呼ばれている。昨日の発言も踏まえると、そう言われても仕方がないと僕も思ってしまう。

 でも、今日の凛は明らかに雰囲気が違った。

 袴姿と道場の組み合わせが、相乗効果を生み出しているのかもしれない。それでもその効果を除いたとしても、今日の凛は格好良く見えた。決して男としての格好良さではなく、女の子としての格好良さを見せていた。

 各校、最初に矢を放つ大前おおまえの人が矢番やつがえ動作に入る。凛も矢を番えると、的の方に顔を向けていた。しっかりとした物見ものみ。そしてここから「打起うちおこし」に入る……と思ったけど、凛は打起しをしなかった。凛の双眸そうぼうは一度捉えていた的ではなく、観客席に向いている。その視線はまるで誰かを探しているようだ。

 そう考えていた僕の予想は見事に当たった。僕と凛の視線が重なる。

 瞬間の沈黙。静謐な空間から眺めてくる一人の女の子に、僕は虜になっていた。身体が思うように動かない。まるで金縛りにでもあったかのようだ。

 一方の凛は、凛々しい表情を緩めたかと思うと、ニッコリと笑顔を見せてきた。

 瞬間、他校の大前が一射目を放った。

 静謐な空間に響いた弦音つるねを皮切りに、凛の表情が一瞬で変わる。僕を見つける前の凛々しい表情に戻った凛は、再度物見を入れると打起しの動作へと進んだ。

 打起しには「正面打起し」と「斜面打起し」の二通りある。草越くさこし高校では正面打起しを採用している。このように各学校で打起しをはじめ、矢を放つまでの動作に違いがある。大会ではあたりが求められるけど、各々が身につけた射形を見せる場にもなっているため、人によっては二通りの楽しみ方ができる。このように試合の観戦は、弓道の知識を深めるためにも最高の場となっている。

 打起した凛は、弓道の基本動作である「射法八節しゃほうはっせつ」通りの流れにそって動作を進めていく。大三だいさんの姿勢をとった凛は「引分ひきわけ」の動作に移る。

 そして僕が弓道の一番の見どころだと思う瞬間が訪れる。

 引き切ったままの姿勢を数秒間保つ。

 この「かい」こそ、僕が弓道にのめり込むきっかけだった。

 会には今までの動作の全てが含まれている。そしてその後訪れる「はなれ」へと続く大切な時間。

 この時間をしっかりと保つことこそが、弓道の美へとつながると僕は思っていた。

 そして、凛にも離れの瞬間が訪れた。

 パンッ。

 放たれた矢が、的の真ん中を射ぬいた。

「「よっしゃー!」」

 突然、周囲が賑わい出す。隣にいた草越高校の刺繍が入った袴を身に纏う、女子弓道部の人達が一斉に声を上げた。つられて僕も一緒に叫ぶ。

 弓道は立の間、しゃべることが一切ない。聞こえるのは離れの瞬間に鳴る弦音と、的に中った時の爽快な音だけ。観客は話してもいいけど、基本的にはしゃべらない。

 しかし唯一大きな声を出す場面がある。

 矢が的に中った時だ。このとき、観客やチームメイトは喜びを爆発させる。

 たいていの学校は「よっしゃー」と言う。これは「良い射」だったことを表しており、そこから「よっしゃー」へと転じていると言われている。学校によっては、ただ叫んでいるようにしか聞こえないところもあり、僕は意味を知るまで喜びを表現しているだけだと思っていた。

 歓声の残響が残る中、凛は離れの姿勢のまま佇んでいた。この姿勢は「残心ざんしん」または「残身ざんしん」とも言う。正面から見ると、大の字を彷彿とさせる姿勢。その姿には今まで行ってきた動作を一気に爆発させた直後の美しさ、儚さを感じることができる。

 初めての大会で一射目を的中させた凛は、嬉しさを爆発させるかのように大きな残心をとっていた。しばらく余韻に浸っているのか、通常よりも長い残心だった。

 残心から解放されると、凛は再度観客席へと視線を移した。そして僕を見つけると、先程と同じく満面の笑みを見せつけてきた。


「何やってるんだよ。試合中だろ」


 思わず呟いていた。ここまで感情豊かでわかりやすい人間は、今まで出会った中で凛しか見たことがない。僕の目には、輝いている凛の姿しか映らなかった。



 凛の立が終わった。結果は四射一中で予選落ち。的に中ったのは、結局最初の一本目だけだった。それでも高校から弓道を始めてこの結果なら、誰も文句は言わない。むしろ上出来だと褒めてもらえると思う。

 立の入れ替わりを区切りに、僕は鉄柵から離れた。凛の立も終わったし、とりあえず一言くらい声をかけなくては。会いに行く約束をしていた僕は道場に向け歩を進めた。


「あれ、もしかしてはじめか?」


 前方からとある男性に声をかけられた。袴姿ということは、今日の大会に出場している生徒だろう。男性の顔に視線を向けると、懐かしい顔が僕の双眸に飛び込んできた。


「……橘?」

「久しぶりだな」


 清々しい笑みを見せる好青年。橘琢磨たちばなたくま。同じ中学校出身で、弓道部では一緒に自主練習をしたり互いの射形を見合ったりと、弓道の技術を一緒に磨いた良き友でありライバルだった。


「試合、見に来たのか?」

「うん。凛が大会出てるから」

「楠見か。お前、中学の時からいつも楠見と一緒だったもんな」

「家が隣だから、必然的にそうなっただけだよ」


 そうか。と橘はケラケラ笑う。久しぶりの会話だったけど、昔と変わらない橘に上手く乗せられたおかげで、意外にも平常心を保つことができていた。


「なあ」

「ん?」

「一は試合に出ないのか?」


 先程とは打って変わり、頑なな表情で語り始める橘に僕はありのまま答えた。


「うん。部活にも入ってないし」

「入ってないって……本当に弓道辞めちまったのか」


 鬼気迫る勢いで詰め寄って来た橘に、思わず委縮してしまった。

 橘とは互いに切磋琢磨できる仲だった。もし弓道を続けていたなら、僕は橘に臆することなく対等の関係を築けていたのかもしれない。


「辞めたよ」


 橘から目をそらし、小さく呟く。そんな僕の反応を見透かしているかのように、橘は理由を聞いてきた。


早気はやけが理由か?」

「……うん」


 早気。

 僕が陥った、弓道をする人にとって致命的な病気。射法八節の一つである、会の時間が短い人や無い人のことを指す。

 早気にかかる人は、的に中てることに対する欲が強いだとか、会を意識していないだとか色々と言われており、原因のほとんどが精神的な面によるものだと言われている。


「で、でも、一は必死に形を直そうと努力してたじゃないか。俺は、早気の克服に全力で取り組んでいるお前を見てきた。実際に中りだって、徐々にだけど取り戻せてたじゃないか」


 橘の言いたいことは僕にも理解できた。当時の僕も、少しずつ克服できていると思っていたのだから。


「なあ、橘も知ってるだろ? 早気は簡単に治せるものじゃないってこと」


 発言に納得したのか、橘は何も言い返してこなかった。それを見て僕は続ける。


「そもそも、僕は早気だって自覚はなかったんだ。射形が悪くて中らないとずっと思っていたから。意識すべき根本が間違ってたんだよ」


 冷めた声が周囲に響き渡る。そんな重い空気を切り裂くように、後方から歓声が聞こえてきた。どうやら次の立が始まったみたいだ。


「それじゃ、僕はもう帰るよ。試合、頑張って」


 最低限のエールを送った僕は、橘の横を通りすぎようとした。


「なあ、待てよ」


 歩みを止め、橘の方に視線を向ける。怒っているのか、先程よりも橘の発する声音の節々に棘があるような気がした。


「何?」

「早気だってわかったなら、今からでも克服すればいいだろ? 一なら、克服できないことじゃないと俺は思うし、高校一年生の今なら時間だってある」

「……無理だよ」

「無理って、どうして?」


 橘が僕の顔を覗き込んでくる。橘の瞳は僕みたいに腐っていなかった。弓道を心から好きだって物語るような綺麗な目をしている。


「僕には治す根気がないんだよ」

「嘘だ!」


 僕の発言は橘に真っ向から否定された。橘にはすべてを見抜かれている。


「中学三年生の最後の大会に僕は出れなかった。今まで自信があった中りにも見放されたんだ。結局、本来の中りを取り戻せなかったし、早気だって自覚するのだって遅かった」

「でも、最後まで諦めずに克服するのが一のすごい所だろ?」

「……僕のことを買いかぶりすぎだよ」


 先程から視線を逸らさない橘に代わり、僕から視線を逸らした。橘と目を合わすことが苦痛で仕方がなかった。


「気づくのが遅かったんだ」

「一……」

「それに、これ以上弓道を嫌いになりたくないんだ」


 偽りの笑顔を橘に向けた。こうして無理にでも笑ってないと、心が潰されそうな気がしてならなかった。


「俺は……確かに買いかぶっていたみたいだな」

「……そうだよ」

「一は、俺の憧れでライバルだった。だけど、今日でそんな気持ち何処かに飛んでいった。俺はお前を超える。俺の中から、お前の存在を消してやる。二度と思い出さないくらいに強くなってやる」

「……ああ」


 橘の叫びに頷くことしかできなかった。今の僕には橘と対等の立場にいる資格がない。


「それじゃ、今度こそ帰るよ」


 さよならのあいさつ代わりに橘の肩をポンッと叩いた僕は、駅に向かって歩き出す。

 もうこの場所に来ることは二度とない。

 来る権利すら僕にはない。

 僕は大好きな弓道を捨てた。

 そしてたった今、大切なライバルすら失ったのだから。

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