うちに、なにか用かな?

 翌日、夕方になったころ、篤志は亜理寿と並んで歩いていた。


 篤志も私服に着替えており、これからある場所へ向かうところだった。『ロッコ』の勤務時間が終わるのを待っていたため、こんな時間になってしまった。


「遅くなってごめんね」


「いえ、お仕事は大切ですから。理由がなんであれ、お仕事をちゃんとしなくなったら庄太郎さんみたいになってしまいます」


 やはり亜理寿から見ても庄太郎は駄目な大人らしい。ちなみに彼は本日も煙草を吸っているか、新聞を読んでいるか、懐中時計のネジを巻いているかの、みっつしかやっていなかった。


 亜理寿は大真面目な様子で首を横に振る。ケルト十字のイヤリングがキラキラと光を反射して揺れた。


 ――笹倉さん、今日は来なかったな。


 昨日のことがあるので気まずかったのかもしれないが、おかしなことをしていないか気がかりだった。


 ひとまず、亜理寿は無事なようなのでなにもなかったとは思うが。


 篤志は、昨日の出来事の続きを思い出す。


『わたしの両親は、秘密のお仕事をしていたんです』


 そんなふうに亜理寿は語り始めた。


 ――秘密のお仕事って、まさか……。


 殺し屋――現実的ではないとはわかっているが、殺すだの殺せだのという話からどうしてもそんなことを連想してしまった。


『わたしの目、左右で少し色が違うのは篤志さんも気づいてますよね? これは母が北欧人だったせいなんですけど、だからそのお仕事の才能がわたしにもあるそうで……』


『じゃあ、もしかして笹倉さんも……?』


 コクンと、亜理寿は頷く。


『どこかでお仕事のことを聞きつけてきたんだと思います。いまはもうお仕事は引き受けていないと説明しても納得していただけなくて……』


『それで、君にやれと?』


『……はい。できないのかと訊かれて、とっさにできないと答えられなかったものですから、それで気づかれてしまったみたいです』


 その“秘密のお仕事”が具体的にどういうものなのか、亜理寿は語ってはくれなかった。篤志の想像通りなら、こんな幼い少女に言わせるのも酷な内容なのだろう。


 そして亜理寿はこう言った。


『今回のことは、笹倉さんに思い直してもらうのが一番だと思います。それで納得してもらうのに“あるもの”が必要なんですけど、どうやって手に入れたらいいかわからなくて……』


 だからそれを手に入れるのを、篤志にやってほしいということだった。

 だが、篤志はその会話で気になったのは笹倉のことでも亜理寿の“秘密のお仕事”のことでもなかった。


 ――亜理寿ちゃんは、両親のことを全部過去形で語るんだな……。

 その両親の仕事を亜理寿が請け負わざるをえないこと、そして幼い彼女が本来助けを求めるべき相手に助けを求めないこと、そこから両親の現在というものに想像がつく。


 つまり――


 ――亜理寿ちゃんも、僕と同じだったんだ。


 だから、篤志は彼女を放っておけなかった。


                  ◆


 そうして、亜理寿が言う“必要なもの”を探しに行くことになったのだ。


 篤志の仕事の邪魔をするわけにはいかないという、亜理寿の強靱な意志によって日を跨ぐことになってしまったが。


「――それで、僕はなにをすればいいんだい?」


 改めてそう訊くと、亜理寿は言葉を詰まらせた。


「……の…………を」


 よほど言いにくいものなのか、亜理寿の声は小さくて聞き取れなかった。


「ごめん、よく聞こえなかったんだけど」


「だから……笹倉さんの……の……を」


 先ほどよりは大きくなったが、やはり肝心なところが聞こえない。

 篤志が首を傾げていると、亜理寿は観念したようにこう言った。


「笹倉さんが死なせてしまったある人の、遺品を手に入れてほしいんです」


「……へ?」


 これには、篤志も目を見開いた。


「ち、ちょっと待った! あの人、待ちきれずに人を殺してしまったのかい?」


 それを亜理寿に依頼していたのではなかったのか?

 亜理寿は静かに首を横に振る。


「違います。なんというか、笹倉さんは、本当はその人を助けたかったんだと思います。でも、助けられなかった人はもう、いまから助けることはできないんです。それをわかってもらえたら、この事件は解決すると思うんです」


 まるでとんちのような話だった。


「よくわからないな。やっぱり、詳しくは話せないようなことなのかい?」


「……すみません。わたし、説明が下手で」


 別に彼女も隠しているわけではないらしい。どちらかというと、上手く言葉にできないといった様子だ。

 篤志はなんでもなさそうに頷く。


「気にしないでいいよ。いまはやれることをまずやってみよう」


「……はい」


 そうして並んで歩くこと十数分。

 亜理寿が足を止めたのは一軒の民家の前だった。


「ここです」


 壁は白く、二階には大きなバルコニーまである小綺麗な家だ。小さいながらも車庫があり、敷地は優雅な鉄柵で囲われていた。


 車庫に車は見当たらない。家主は留守のようだ。

 それから門のすぐ隣にある標札に目を向け、篤志は目を見開いた。


「ここ……って、笹倉さんの家?」


 そこには間違いなく“笹倉”の二文字が刻まれていた。


 ――まあ、考えてみれば当然か。


 亜理寿の話では彼が死なせた“誰か”というのは、彼が助けたいと思うような大切な相手だったらしいのだ。


 とにかく、この家に忍び込んでその遺品を手に入れなければならない。


 ――これってやっぱり、泥棒になるんだよな。


 人の命が懸かっているとはいえ、これが犯罪だと考えると気後れしてしまう。

 それでも門を開け、家の扉へと手をかける。


「……まあ、開かないよな」


 扉にはやはり鍵がかかっていた。


「まずは、どうにかして鍵を開けないと……」


 そのときだった。


「――うちに、なにか用かな?」


 背後から、そんな声が聞こえた。


「笹倉、さん……」


 この家の主であり、亜理寿を脅している犯人がそこに立っていた。


「なにをしにきたのかは知らないけど、家宅侵入というのは感心しないな」


 それから亜理寿に目を向ける。

 幼い少女は身を震わせて篤志の後ろに隠れた。


「どうやら、依頼を受けに来てくれたというわけじゃなさそうだね」


 亜理寿は篤志の裾をキュッと握り、怖ず怖ずと声を上げた。


「ご依頼は、お受けできないと、言ったはずです」


「そう言われて、納得すると思うかい?」


 それはあの人のよさそうな顔からは想像もつかない、暗い悪意に満ちた顔だった。篤志たちの態度次第では、本当に殺されかねないと感じた。


 ――亜理寿ちゃんだけでも逃がさなきゃ……いや、先に進ませなくては!


 そう思ってからの行動は早かった。


「――っ、亜理寿ちゃん、行って!」


 叫んで、篤志はドアノブを捻る。


 ガチンッと鈍い音がして、施錠されているはずの扉が開いた。


 笹倉だけでなく亜理寿までポカンと口を開く。篤志はその隙を逃さず、亜理寿を扉の中に押し込んだ。


「篤志さん!」


「いいから行って」


 そして、扉を守るように篤志は立ちはだかる。

 笹倉は困ったように頭をかいた。


「……おかしいな。鍵はかけていたつもりなんだけど」


「開いていたみたいですよ。少なくとも、いまは普通に開きました」


 ふむ、と笹倉は頷く。


「なにをしたんだ? もしかしてそれは君が大学受験に落ちる原因になったという事件と、関係があるのかな?」


 図星だった。

 冷や汗を滲ませる篤志に、笹倉は試すように呟く。


「君はその過去を変えられるとしたら、やり直したいとは思わないかい?」


「どういう、意味です……?」


 篤志が眉をひそめると、笹倉は大仰に肩を竦める。


「言葉のままの意味だよ。普通なら考えられないことだけど、彼女にはそういうことができる力がある」


「亜理寿ちゃんのことを言っているんですか……?」


 訊き返すと、笹倉は意外そうな顔をした。


「なんだ。知らないで協力していたのかい? 君も物好きだな」


「うちの店、暇なもので」


 せめてもの強がりを返すと、笹倉は歪んだ笑みを浮かべる。


「俺には娘がいたんだ。妻も早くに亡くなっていてね、娘は俺にとって生き甲斐そのものだった。いつも俺が吹くサックスを嬉しそうに聴いてくれていたんだ」


 そう語る笹倉の顔には、一瞬ではあるが本当に優しそうな姿が見えた。この状況でもそんな表情を見せてしまうほど、大切な存在だったのだろう。


 だが、それゆえに憎悪の色はさらに増す。

 髪を振り乱し、笹倉は叫ぶ。


「なのに、俺はあの子を死なせてしまった。……交通事故だった。あのときいっしょにいてやれば、あんなことにはならなかったはずなのに!」


 胸が裂けるような声だった。

 気圧されて、篤志は息を呑む。


 笹倉が門を潜り、篤志へと近付く。

 いや、篤志の後ろ――扉の奥に隠れた亜理寿の元へと近付いているのだ。


 ――ここで言い負かされたら、駄目だ。


 逃げ出したくなる足を踏みしめ、歯を食いしばる。

 そんな篤志の強がりを嘲笑うように、笹倉はこう告げた。


「その娘を生き返らせられるかもしれないと知ったら、君なら諦められるかい?」


 篤志には、笹倉がなにを言っているのか理解できなかった。


 だが、それでも妄想や思い込みで語っているのとは違う、なにか確信めいたものがあった。

 なにより、篤志もこう思ってしまったのだ。


 ――亜理寿ちゃんには、なにか不思議なところがある。


 もしかしたら、そんな奇跡みたいなことができるかもしれない、と。

 それを認めないように、篤志は頭を振る。


「なにを、言ってるんですか……? あんな小さな女の子に、そんなこと……」


「まあ、そう思うよな。俺も最初はそう思っていた。だけど、彼女はできないとは答えなかったよ。まあ、それなりに代償は必要になるらしいけど」


「――ッ、誰かを殺すっていうのは、そのためですか?」


 笹倉は噴き出す。


「まあ、そういうことだよ。ちょうど、生きていても意味のない人間に心当たりがあるものでね。代わりに死んでもらうことにしたんだ」


 交通事故――笹倉はそう言った。


 ――笹倉さんが殺したいのは、その運転手か誰かか?


 憎い相手がいて、その人物を殺せば最愛の娘が帰ってくるとしたら、やらない理由はないだろう。


 少なくとも、笹倉はそれくらいには娘を大切に想っているはずだ。


 ――でも、だからってそんなこと認められるわけがない。


 笹倉の話を鵜呑みにするつもりはないが、それは結局亜理寿に人殺しの片棒を担がせるということだ。


「……そんなこと、許されると思ってるんですか?」


「許すとも。外ならぬ、俺が許してるんだからな」


 思わず、篤志は後退っていた。すぐに後ろの扉にぶつかってしまうが。

 亜理寿を逃がした扉だ。


 ――逃げるわけには、いかないよな……。


 篤志は睨み返した。


「あなたの言っていることは半分も理解できませんが、だからって亜理寿ちゃんに人殺しの片棒を担がせることなんてできませんよ」


「まあ、君はそう言うと思っていたよ」


 笹倉の瞳から友情の色が消えた。


「話は終わりだよ。誰にでもひとつは命を懸けられるものがあると言ったよな。俺にはこれがそうなんだ。あの子を取り戻せるんなら、人殺しだって喜んでやるさ」


 笹倉は、懐から光るものを取り出す。


 折りたたみ式ナイフだった。

 小さくとも、刃物だ。


 気圧されてしまった。


 なにより、こんな執念を向けられたのは初めてだ。


 と、そのときだった。

 後ろの扉が、内側に向かって独りでに開いた。


「篤志さん、見つけました!」


 亜理寿だった。


「いま出てきたら駄目だ!」


 しかし篤志の叫びも虚しく、笹倉は亜理寿に飛びかかっていった。


「逃がさないぞ。今度こそ――……え?」


 その顔が、困惑に染まる。


 ナイフを握るその手を、篤志はヒョイと掴んで止めていた。


 それこそ糸くずでも取るような優しさでだ。それでいて、笹倉が押そうが引こうがその腕はピクリとも動かない。


 篤志はその手からそっとナイフを取りあげる。


 笹倉も抵抗しなかったわけではないのだろう。それこそ力の限りで握り締めていたはずだ。なのに、自分から手放してくれたように簡単に取りあげることができた。


 彼は気づいただろう。


 篤志がこじ開けた扉のドアノブが、カラカラと空回りしていることに。鍵は開けられたのではなく、内部の構造をへし折られて意味を失ったのだと。


 すっかり青ざめて、笹倉は篤志を見上げた。


「なにが、どうなって……」


「すみません。僕は、握力に少し異常があるんです」


 生まれつきのものではない。いつの間にかこうなっていたのだ。


 異常に気づいたのは、大学受験をひかえた冬の日のことだ。

 そのときも篤志は目の前で暴漢に襲われている学生を見て、助けに入っていた。しかし自分の握力が異常を来していたことに気づいていなかった篤志は、暴漢の腕を握り潰してしまったのだ。


 正当防衛ですまされる話ではなかった。

 当然、傷害事件として高校にも通報され、その事件は受験にも大きく響いたのだ。


 だから篤志はいまも虫を摘むような優しさで笹倉の腕を<6451>む。怪我をさせぬよう、へし折ってしまわぬよう、壊れやすいガラス細工でも扱うように。


 その気遣いと手加減を実感してしまったのだろう。笹倉は動けなくなっていた。


 戦意が失われたことを確かめて、篤志はゆっくりとその手を離す。

 それから、後ろの亜理寿に目を向ける。


 こちらもすっかり硬直してしまっていたが、幼い少女は両手に大きなぬいぐるみを抱えていた。


「それが、遺品なのかい?」


 確かめるように問いかけると、亜理寿も我に返って頷いた。


「はい。これがあれば、大丈夫だと思います」


 亜理寿の翠の瞳が、ほのかに輝いているように見えた。

 小さな少女は真っ直ぐ笹倉を見上げると、毅然とした口調でこう言った。


「笹倉さん。わたしにはやっぱり、笹倉さんの依頼を受けることはできません。笹倉さんを殺して笹倉さんの娘さんを生き返らせることはできないです」


 篤志は耳を疑った。


 ――笹倉さんを殺す……? いや、生き返らせるって、本当に?


 笹倉には憎くてたまらない相手がいたのではなかったのか?


 なのに亜理寿が殺さなければいけない相手は笹倉本人だったというのか?

 篤志の頭に疑問が氾濫するが、亜理寿はそっとぬいぐるみを掲げた。


「でも、もう一度だけ会わせてあげることなら、できます」


 すうっと息を吸い、少女は桃色の唇を震わせた。


   

『――Hush-a-bye,baby,on the tree top,When the wind blows the cradle will rock,ねんねんころりよ木のこずえ風が吹いたら揺り籠ゆれる――』

   

『――When the bough breaks the cradle will fall,Down will come baby,cradle,and all.枝が折れたら揺り籠おちる赤ちやん揺り籠なにもかも――』


 亜理寿が口ずさんだのは、どこか懐かしい旋律の唄だった。


 ――これ、子守歌かなにかか?


 なぜここでそんな唄を?

 疑問に思ったときには、それは起こっていた。


 タタタッと、小さな足音が響く。


「え……?」


 篤志にはその姿が見えなかった。

 しかし足音は篤志と亜理寿の隣を通り過ぎ、笹倉の胸へと飛び込んだように思えた。


『パパ!』


 そして、そんな声が聞こえる。

 信じられないというように、笹倉が跪く。

 そのまま、見えないなにかをかき抱くように両腕を回す。


「美奈……」


 笹倉がその名前を口にして、ようやく篤志にもそこにいる小さな女の子の影が見えてきた。


 亜理寿よりも年下だろう。せいぜい、七歳か八歳くらいの子供だ。

 もう離すまいと、笹倉は顔をすり寄せる。


 だが、彼はそうするだけでなにも言わなかった。


 伝えたかった言葉、かけてやりたい声、きっとたくさんあったのだろう。なのに、口を開くことはなかった。


 それは胸が詰まって声が出ないというのとは、なにか違うように見えた。

 そうしていたのは、どれくらいの時間だろうか。


 十秒か一分か、それほど長い時間ではなかったと思う。

 やがて、女の子の姿は霧のように霞んで消え始めた。


「ああっ……」


 悲痛な声を漏らす笹倉に、女の子は最後にこう言った。


『大好き』


 そして、女の子の姿は消えてしまった。


 全てが夢だったかのように。


 消えた女の子の姿を手繰り寄せるように腕をかき、笹倉は顔を覆って頽れる。


 かける言葉は、篤志には見つけられなかった。


 キュッと、亜理寿が裾を握ってくる。


「行きましょう、篤志さん」


 声を上げて泣くひとりの父親を置いて、篤志と亜理寿はその場をあとにした。

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