やっぱり、僕のひとりよがりなのか?
店の扉を開けて左右を見渡すと、大通りに向かおうとする亜理寿の背中を見つけることができた。
「亜理――……」
声をかけようとして、思い留まる。
――声をかけて、どうするんだ?
亜理寿は自分でなんとかすると言っていた。いまさら事情を訊こうとしても大したことは話してくれないだろう。
それに篤志が側にいたら脅迫犯も逃げていってしまうかもしれない。
脅迫犯を捕まえるなりなんなりして、正体を突き止めなければ解決にはならないのだ。
「なら、どうしよう……」
距離を取って亜理寿を見守るのはどうかと考え――冷静に考えろ。それだと僕が変質者だ――と頭を振る。
なるほど、庄太郎が首を突っ込むべきではないと言ったのも一理ある。自分にできることというものが驚くほど思いつかなかった。
――やっぱり、僕のひとりよがりなのか?
頭を悩ませながらも、しかしやはり放ってはおけないし他にやりようもない。亜理寿を見失わないように遠目にあとをつけていった。
大通りに出ると、亜理寿は道を南へと進んでいく。どうやら古書店街の方向に向かっているようだ。
亜理寿の歩幅は狭い。
同じ方向に足を進める通行人に次々と追い抜かれながら、ゆっくりと、しかし迷いのない足取りで進んでいく。
――古書店に用があるのか、それともあの辺りに住んでるのか。
考えてみれば篤志は亜理寿のことをまったく知らない。それは当然のことではあるが、その程度の仲の少女を、あとをつけ回すような真似までして気にかけている自分に疑問を抱いた。
――やっぱり、引き返すべきなんだろうか……。
余計なことをしているだけなのかもしれない。
歩みを止めようとしたところで、篤志はようやく気づいた。
「あれは……?」
亜理寿は歩くのが遅い。通行人はみんな彼女を追い抜いていってしまうのに、ひとりだけ変わらぬ距離を保ってずっと後ろにいる人物がいるのだ。
しかも歩くのが遅い老人や子供というわけでもない、若そうな男だ。
――亜理寿ちゃんを、つけているのか?
自分も人のことは言えないが、怪しいと感じた。
亜理寿に合わせているため、男の歩く速度は遅い。篤志は足音を立てないようにして、素早く男の背後に近付いていく。
いったいどんな悪漢なのか、まずはその顔を確かめてやる。
意気込んで男の肩を掴もうとして、篤志はなんだかその背中に見覚えがあるような気がした。
「あれ、笹倉さん……?」
その正体を思い出したら、自然と名前を呼んでしまっていた。
男は飛び上がって驚くと、篤志に振り返る。気の弱そうな顔立ちは、紛れもなく先ほど店にやってきた客――笹倉だった。
――なんで、この人がここに……?
予期せぬ顔に、頭の中が真っ白になってしまう。
「ええっと、なにをしてるんですか、こんなところで?」
いきなり『亜理寿をつけ回してなにを企んでいる』などと言えるはずもなく――というより、半ば思考が停止してしまって篤志はそんなことを問いかける。
笹倉は苦笑した。
「いや、なにか面白い古書でもないかと探してるんだ。というか他にこの辺りをウロウロする理由があるかい?」
まるであらかじめ用意されていたセリフのように、滑らかな口調だった。
確かに、と篤志は閉口してしまう。
こう言われたら篤志も下手なことは訊けなくなってしまう。いまのは動揺せずストレートに問い詰めるべきだったのだろう。
呻いていると、今度は笹倉が首を傾げる。
「君の方こそ……ええと、九条くんだったかな?」
「ええ。篤志でいいです。名字だとなんか堅苦しくて、みんな下の名前で呼ぶんです」
「そうか。じゃあ篤志くん、君こそこんなところでなにをしているんだい?」
思わず視線を逸らしそうになるのをグッと堪えて、篤志はできるだけ平静を装って口を開く。
「店の珈琲豆の在庫がだいぶ少なくなっているんで、いまはお客さんも少ないことだし発注して来るように言われたんですよ。こういうのは店長にやってもらいたいものなんですけどね。そしたら笹倉さんを見かけたもので」
「はは……。確かに、あまりしっかりした店長さんには見えなかったかな」
さり気なく庄太郎に責任を押し付けて、篤志が仕方なさそうな顔をして言うと笹倉もひとまずは納得してくれたようだった。
実際のところ、こんなところに珈琲豆の問屋は存在しない。あるのは出版社くらいのものだ。もしものときは新しい仕入れ先の資料でも探していることにして誤魔化そう。
ホッと胸をなで下ろしつつ、こっそり亜理寿の姿を探す。こちらの声には気づかなかったのか、どうやらどこかの店に入ったようだ。見えなくなっていた。
それを確かめながら、篤志はさり気ない口調で言う。
「特に行く所もないのでしたら、歩きながら話しませんか?」
「かまわないが、俺に話せるようなことなんてあるかな? 篤志くんとじゃ歳もけっこう離れているし」
「この時代ですからね。僕も進学するか就職するか悩んでますし、社会人の方からそういう話を聞ければ励みになります」
「ああ、なるほどね」
笹倉は人当たりがよくて話しやすい人物だった。
篤志のどうでもいい質問にも真面目に答えてくれるし、他人の悪口のようなことも言わない。自分も大人になったらこんな人格者になりたいとさえ思えるほどだ。
――それが、小さな女の子に誰かを殺せだなんて脅迫するものだろうか?
もしかすると亜理寿の方になにか原因があったのではないだろうか。そんなふうにさえ考えてしまいそうだった。
「――だから俺としては就職を急ぐ理由でもない限りは、大学へ進学を目指した方がいいんじゃないかと思うよ」
さして親しい間柄でもないのに、笹倉は親身な態度でそう語った。
「もちろん大学を出たからといっていいところに就職できるわけではないけど、大学を出ておかないと就職できないところも多いからね。将来の選択肢はできるだけたくさん用意しておいた方がいい。まあ、俺個人の考え方だけどね」
「あ、ありがとうございます。とても参考になりました」
なんだか騙しているような気持ちになってきて、冷や汗混じりにそう返すと笹倉は苦笑した。
「しかし、君は勤勉そうに見えるけどなんで浪人してしまったんだい? 難しいところでも受験したのかな?」
その言葉に、篤志はうっと言葉を詰まらせる。
「……少し、事件のようなことを起こしてしまいまして、内申に響いてしまったんです」
「そうか……。それは、なんというか不運だったね」
同情の意を示す笹倉に、篤志はふと気づく。
――いまなら、探りを入れても不自然じゃないんじゃないか?
もうこんな機会はないかもしれない。篤志は思いきって問いかけてみた。
「笹倉さんは、許せない相手とか殺してやりたいほど憎い相手なんていますか?」
その瞬間、温和そうな表情が一気に凍りついた。
笹倉は暗い声で呟く。
「……ああ、いるよ。本当に生きている価値のない、救いようのない人間だ。やつが死ねばよかったんだ」
篤志は確信してしまった。
――間違いない。亜理寿ちゃんを脅迫したのは、この人だ。
ゴクリと咽を鳴らして篤志は問い返す。
「なにか、したんですか? その人は」
「……なにもしなかったからさ」
仄暗い憎悪を瞳に揺らして、笹倉は言う。
「誰にだってひとつくらいは大切なものがある。命より大切だというなら命をかけられるだろう。なのに、そいつはそれを見捨てたばかりか、いまものうのうと生きているんだ。許せるわけがない」
篤志はなにも言葉を返せなかった。
笹倉の迫力に圧倒されたというのもあるが、それ以上に彼の姿は悲痛だったのだ。
――この人は、いったいどんな目に遭わされたんだろう……。
もちろん、殺人を肯定することなどできない。
それでもどうしたらこの人格者がこれほど他人を憎悪するのか見当もつかない。よ
ほどの理由があるのではないかと思ってしまった。
そんな篤志の反応に、笹倉はようやく我に返る。
「すまない。おかしなことを言ってしまったね。忘れてくれ」
「い、いえ……」
そう言って、笹倉は去っていってしまう。
今度は篤志も追いかける気にはなれなかった。
しばらく呆然と立ち尽くしていると、不意に後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、そこには――
「篤志さん」
亜理寿が立っていた。
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