最近の悩みなら、ひとつだけあります
最初の男性客が帰ってから数分ほど経つと、入れ替わるようにまた真鍮の鈴が鳴った。
目を向けると、飴色の扉を重たそうに開いてひとりの少女が立っていた。
わずかに息を切らせながらもまるで変わらない表情。真っ赤なカチューシャとケルト十字のイヤリング。
今度こそ亜理寿だ。
「いらっしゃいませ、亜理寿ちゃん」
時計を見ればまだ十一時半。小学校では四時間目が始まっているころだろう。もちろん本日は平日である。
なのに小学生の亜理寿は堂々と珈琲店の扉を叩いていた。
篤志に顔を向けると、ペコリと頭を下げる。
「おはようございます、篤志さん」
「おはよう。今日も早いね」
篤志が笑い返すと、庄太郎が胡乱げな顔をする。
「亜理寿……。俺には、挨拶ないの?」
「はい。ありません」
ピクリとも表情を変えず、幼い少女は淡々と告げた。
うぐっと怯みながらも庄太郎は負けじと言い返す。
「というかお前、いつも篤志がシフトに入ってから来るよなあ。んん? なんでだ?」
どちらが子供かわからなくなるような言動に、亜理寿は無感動にこう答えた。
「美味しい珈琲を飲める時間がわかっているのに、不味い珈琲しか飲めない時間に来る意味があるんですか?」
「ぎゅはっ?」
胸を押さえて庄太郎が悶絶した。
――まあ、この人の珈琲、本当にひどい味だからなあ……。
客どころか他人に出せる味ではない。苦いとか薄いとかそういう次元の話ではなく、胃が爛れるような不快な刺激なのだ。篤志もひと口飲んだだけで涙が滲んだ。
庄太郎自身、なりゆきでこの店を相続したらしいので仕方がないのかもしれないが、それでももう少しまともな珈琲を淹れられないものかと思う。
亜理寿は庄太郎の祖父が経営していたころからの常連客だという。
突然行きつけの店の店主が違う人間になって、味も落ちたのでは文句のひとつくらいは言いたくなるだろう。
「まあ、おじいさんの珈琲も負けず劣らずひどい味でしたけど」
……前の店主も、庄太郎似だったようだ。
小学生に言い負かされた可哀相な大人を横目に、篤志は口を開く。
「それより、そんなところに立っていると疲れるだろう? いつもの席、空いてるよ」
いつもの席どころか、ひとつとして席は埋まっていないが。
庄太郎と言い争っても不毛だとはわかっているのだろう。亜理寿は篤志に体を向けてペコリと腰を折った。
「失礼しました。本日の珈琲をお願いします」
このメニューは日替わり珈琲と言うべきか、毎日種類の変わる珈琲だ。客にいろんな味を楽しんでもらいたいというのが本来の趣旨なのだが、庄太郎は『在庫の偏り解消』などと身も蓋もないことを言う。
だから篤志はせめて一杯一杯丁寧に淹れようと心がけている。
注文を済ませると、亜理寿は窓際の席へと腰掛ける。扉から一番遠い隅っこで、ここが彼女の指定席だった。庄太郎も泣きべそをかきながらカウンター席に腰掛けると、またしても新聞を開いてしまう。
それを眺めながら、篤志は新しいコーヒーサイフォンを取り出す。また珈琲豆を挽くところから始めると、五分と経たず店内にほろ苦い香りが広がった。
珈琲が出来上がるとトレイに角砂糖とミルクの小瓶を載せ、小さな常連客の席へと向かう。
「お待たせいたしました。本日の珈琲です」
亜理寿は左右で色の違う瞳をじっと向けてくる。
今日も銘当てをしたいのだろう。篤志も慣れた調子でテーブルへカップを並べていく。
サイフォンから珈琲を注ぐと、亜理寿は改まった様子でカップを手に取った。
「………………」
亜理寿の眉が難しそうに跳ね上がる。
――今日のはブレンドだからなあ。
それも篤志のオリジナルである。香りだけで配合まで当てるのはプロの珈琲係でも難しいだろう。
すぐに銘を当てられない亜理寿に、庄太郎がからかうような声を上げる。
「お、珍しいな。今日のはわからないのか?」
「庄太郎さんはわかるんですか?」
「はっは、なに言ってんだ。飲んだってなんの珈琲かわからねえのに、においだけでわかるわけないだろう?」
「なら黙っていてください」
ピシャリと言い放つと、亜理寿はカップに唇を近づける。
「砂糖やミルクは入れなくていいのかい?」
「大丈夫です。銘を当てるんですから」
そう言ってちろりと舌先で舐めるようにブラックのままの珈琲を口に含む。
苦そうに眉間にしわを寄せながらも、亜理寿はハッとしてまばたきをした。
「これ、篤志さんが初めて入れてくれたときの珈琲です」
完璧な正解を言い当てられ、篤志は口笛を吹いた。
「正解。よく覚えてたね」
「忘れるはずがないです。わたしにとっては運命の一杯だったんですから」
なにやら恥ずかしいことを言われているような気がするが、篤志は初対面のときのことを思い出す。
◆
当時、篤志は一浪が決まった直後で生活費を得るためのアルバイトを探していた。
フラリと迷い込んだ通りで、張り出されていたアルバイトの募集を見て、そのまま店に入った。
そのときもすでに亜理寿はいつもの席に座っていたのだが、なにをどうしたのか面接代わりに彼女に珈琲を入れることになった。
もともと篤志は自分でブレンドを配合するくらいには珈琲好きだったが、これにはさすがに躊躇した。しかしだんだん入れてみないことには店からも出してもらえないような雰囲気になっていき、観念して一番自信のある一杯を入れたのだ。
篤志の珈琲をひと口飲むや否や、亜理寿はガタリと立ち上がってこう宣言した。
――採用です。この人以外には考えられません――
そして、そのままなし崩しに珈琲係にされたのだった。
◆
そんなわけで、篤志がここで働くきっかけを作ったのは亜理寿なのだ。
彼女もそのときのことを思い出したのか、ほうっとため息を漏らす。
「まさにひと目惚れでした」
「女の子がそういうセリフを簡単に口にしたら駄目だよ?」
篤志は珈琲の話だと理解しているが、万が一学校で口にしたら近くにいた男子生徒は可哀相な勘違いをしてしまうだろう。
小学校高学年は男女で対立が起こりやすい時期ではあるが、それはお互いへの関心の裏返しでもあるのだから。
「でも、事実です。あのときのわたしには、この一杯は本当に救いだったんですから」
言いながら亜理寿は愛おしそうにカップの縁を指先で撫でていた。
表情は硬く口数も少ないこの少女だが、珈琲のことになるとよくしゃべる。
――それは庄太郎さんの珈琲飲んだあとならどんな珈琲でも美味しいと思うよ。
あの不味い珈琲を出されるとわかっていながら、先代のころから通い詰めている理由も気になる。というかもっと美味しい珈琲を飲ませてあげたい。
それに彼女と珈琲の話をするのは純粋に楽しくもある。
いつの間にか、篤志もこの少女が珈琲店に来るのを楽しみにしていた。
それでも――ただの珈琲係と常連客――ちょっと親しいだけの他人――それだけの関係だった。
この日までは。
――しかし、それにしたって学校はどうしてるんだろうな……。
亜理寿は珈琲に角砂糖をみっつとミルクを加え、満足そうにそれを味わう。
いつもなら篤志はここでカウンターに戻るのだが、遠慮がちに問いかけてみた。
「それはそうと、今日も学校はお休みかい、亜理寿ちゃん?」
庄太郎からは亜理寿のことは気にしなくていいと言われているが、だからといって放っておけるはずもない。
亜理寿は薄い胸を張って頷く。
「ご心配なさらずとも、成績に支障が出ない程度には出席しているので大丈夫です」
「そうなの?」
「はい。そうなんです」
あまり踏み込むべきではないのだろうか。
曖昧に笑い返すと、亜理寿も小首を傾げた。
「篤志さんこそ、勉強は大丈夫なんですか?」
「まあ、僕の方は無理のある進学先じゃないからね。学力が落ちない程度に勉強していれば大丈夫だよ」
篤志は大学入試に失敗した身で浪人中だった。生活費のために働いてはいるが、家に帰ったら参考書や問題集との睨めっこをしている。
――このままここに就職してもいいような気もするが。
庄太郎は駄目な大人ではあるが、悪い人間ではない。忙しくなるほど客が入ることもなく、なんだかんだで、居心地はよいのだ。
しかし就職を決断するには店の経営状態が不安すぎる。
そんな篤志の葛藤をよそに、亜理寿は満足そうに呟いた。
「これからもこの珈琲が飲めそうで安心しました」
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
こうして話していても、亜理寿の表情はほとんど変わらない。よく見ると眉が揺れたりもしているが、その程度である。表情筋が固まってしまっているのではないかと心配になるほどだ。
そんな横顔を眺めて、ふと不安が込み上げてきた。
――まさか、学校でいじめに遭ってるわけじゃないよな?
このひと月の間で、亜理寿がまともに学校へ行ったのはせいぜい四、五日程度だ。学校にも行かずこんなところに入り浸っている小学生を見れば、心配にもなる。学校に行きたくない理由でもあるのではないだろうか。
篤志は思いきって問いかけてみた。
「ところで亜理寿ちゃんは、困っていることとか悩みとかはないのかい?」
「……? どうしたんですか、急に?」
「いや、少し気になってね」
面と向かってイジメられているのかなどと訊けるほど、篤志も無神経ではない。かといって器用でもないので、こんな訊き方が精一杯だったのだ。
少し悩む素振りを見せてから、亜理寿はふむと頷く。
「そうですね。最近の悩みなら、ひとつだけあります」
「どんなことだい?」
できるだけ柔らかく問いかけると、亜理寿は無表情のままこう呟いた。
「ある人から、人を殺してほしいようなことを言われました。断ると今度はわたしが殺されてしまうそうで、少しだけ困っています」
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