じゃあ、今日は死なないようにがんばらないとな

 入ってきた客は青年と呼ぶほど若くはないが、中年と呼ぶほど老けてもいない男性だった。三十路に足を突っ込んでいるかいないかといったところだろう。困ったような笑顔からはなんだか普段から苦労していそうな印象を受ける。


 薄手のジャケットに肩ほどもある長髪。よれたシャツにブラウンの革靴を履いていて、くだけたその格好は会社員というよりジャズマンかなにかに見えた。

 北は楽器、南は本に埋もれているのがこの街なのだから。


 男性客はザッと店内を見渡してから、カウンター席へと腰をかける。


 ――なんというか、勇気のある人だな。


 普通は店員がダラッとカウンターに腰掛けているような店に入ってしまったら、回れ右をするか隅っこの席に座るだろう。


 そこで退くどころかカウンター席を選んだのだからもはや挑戦者でさえある。


 篤志はそんな客に敬意を払うようにメニューを差し出した。


「ご注文はなんにいたしましょうか?」


「そうだな。……とは言っても、こういう喫茶店に入るのは初めてなんだ。なにがいいかな?」


 厳密には喫茶店と珈琲店は別物だが、初めてのお客さまにそんなウンチクをぶつけても引かせるだけだ。


 篤志は軽く頷き返してメニューを示す。


「そうですね。気軽に楽しんでいただくなら本日の珈琲などがお勧めです。ストレート珈琲ならブラジルを推しております。あとは、アルコールもご注文いただけますが」


 ここで品切れのストレート以外のものに誘導するのも忘れてはいけない。

 説明を聞いて、男性客は意外そうに目を丸くする。


「喫茶店なのにアルコールもあるのかい?」


「当店は営業免許的には喫茶店ではなく飲食店になりますから」


 喫茶店営業許可ではアルコールが出せないらしいのだが、両者の違いはそれくらいのものだろう。あとは呼び方のイメージくらいのものだ。


 しばらくメニューと睨み合って、男性客は首を横に振った。


「いや、今日は酔いたい気分じゃないから本日の珈琲というのを頼むよ」


「かしこまりました」


 メニューを回収して、篤志はコーヒーサイフォンの準備に入る。

 男性客は独り言のように呟いた。


「しかし、この辺りは何度も歩いているんだけど、こんなところに喫茶店があるとは知らなかった」


「よく言われます。表の通りの方に看板でも出した方がいいとは思ってるんですが」


“この先何メートルで珈琲店『ロッコ』”という具合の看板だ。大通りに設置すれば少しは効果があると思うのだが。


「まあ、そうするといろいろ手続きが面倒でね」


 責任者がこんな寝言を呟くために一向に実現できないのだった。

 もちろん、看板一枚設置するにも法的な手続きや料金というものが発生するのだが、それをやるのが店長の仕事だろうに。


 ――働いてください。責任者はあなたでしょう?


 男性客の意識が自分から外れているのを確かめてから、篤志は苛烈に庄太郎を睨みつけた。


 視線だけで射殺せそうな眼差しに、駄目な大人はビクリと身を震わせる。


「……? どうかしたのかい?」


「い、いやあ、なぜか天から怒りの声のようなものが聞こえてね! ははは……」


「はあ」


 男性客は怪訝そうな顔をしていたが、彼が体を正面に向けるころには篤志も温和な笑顔を貼り付けていた。


「どうぞ。本日の珈琲――当店オリジナルブレンドになります」


「ああ、ありがとう」


 この珈琲は篤志の自信作だ。

 男性客も口を付けようとして、まずはその香りにため息を漏らす。


「へえ、やっぱりちゃんとしたお店の珈琲は香りも違うんだね」


「恐縮です」


 褒め言葉は素直に嬉しい。頭を下げて返しつつ、横目で庄太郎を睨みつける。


 ――きちんとした店に見えるんだから庄太郎さんもきちんとしてください。


 目は口ほどにものを言う。庄太郎が額から冷や汗を伝わせていた。

 そんな密かな戦いを繰り広げる間に、男性客は満足そうにカップを傾けていた。


「うん。美味いな。こんな珈琲を飲めたのが今日だったのは幸運だ」


「……? とおっしゃいますと?」


「あ、いや……」


 男性客はうっかりしていたというふうに口を押さえるが、やがて躊躇いがちに訊いてくる。


「そうだな。店員さんは、今日が人生最後の日だったらなにを食べたいとか、そういうのはあるかい?」


「それは……難しい質問ですね」


 とうとつな質問に、篤志は腕を組んで頭を捻る。

 庄太郎が呆れたような顔をした。


「なんだ、死刑囚みたいなことを言うな」


「ちょっと庄太郎さん、お客さんに失礼ですよ」


 人前だが、さすがに諫める声を上げると客はなんでもなさそうに首を横に振る。


「いや、いまのは俺の訊き方が悪かった。気にしないでくれ」


 それから、カップの中の珈琲を揺らす。


「ただ単に、それくらい美味しかったというだけだよ」


 男性客は苦笑するが、その顔を見るとなぜか不安が込み上げてきた。


 ――この人、自殺を考えてたりするわけじゃないよな?


 初対面の客に失礼かもしれないが、そんなふうに見えた。

 戸惑ったものの、篤志はコホンと咳払いをして笑い返す。


「そこまで仰っていただけるとは光栄です。気に入っていただけたのなら、明日もまたいらっしゃってください。明日は明日で別の珈琲をお淹れしますよ」


 男性客は驚いたようにまばたきをして、それから笑った。


「それは楽しみだ。じゃあ、今日は死なないようにがんばらないとな」


 最後に残った珈琲を飲み干すと、男性客は立ち上がって財布を取り出す。


「美味しい珈琲をありがとう。俺は笹倉成悟というんだ。また寄らせてもらうよ」


「はい。僕は九条篤志といいます。ありがとうございました」


 会計を済ませると、その男性客は去っていった。


 ――明日も、来てくれるといいんだけど……。


 来てくれないと、そのまま死んだのではないかと不安になりそうな客だった。

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