第一章 魔法使いのお仕事

ブラジルもあと少しじゃありませんでしたっけ?

「じゃあ、行ってきます」


 玄関で靴を履き、家の中へ振り返る。


 篤志の声に、応えはない。

 毎朝しつこいくらいに見送ってくれたあの声は、もう二度と聞くことはできないのだ。


 無人の家に出かけの挨拶を投げることにはなんの意味もないのだろうが、まだそんなふうに割り切るのは難しかった。


 篤志は気合いを入れるように自分の顔を叩く。


「よし。今日も一日がんばっていこう」


 篤志には幽霊なんてものは見えないし、いるとも思っていない。それでも、ここにいない彼らが見ても恥じない自分でいたいとは思うのだ。


 だから、今日も篤志はなんでもない顔で出かけていく。


 貯金はまだあるが、生活していくには働かなければならないのだから。


                  ◆


 家を出て十数分ほど歩くと、大勢の人でごった返す通りに突き当たる。

 文学の街、あるいは古書の都、この辺りはそんなふうに呼ばれていた。


 この街を歩いていると古い本独特のにおいが鼻をつく。嫌がる人もいるのだろうが、篤志はこのにおいが嫌いではない。


 もうじき梅雨に入ることもあって、通りに沿って陳列する平台には透明なビニールがかけられているところが多かった。


 篤志が歩く通りを進めば大小二百に及ぶ古書店が出迎えてくれ、さらに北に向かえば著名な作家たちが籠もって執筆に勤しんだという老舗ホテルがある。その向こうには環状線列車の駅と楽器店が集まっていた。


 見飽きることがなく、いつ歩いても時間を忘れてしまうような街ではあるが、これから外を出歩くこと自体が億劫な季節が来てしまう。


 気温はまだそこまででもないが湿度は早くも七十パーセントに達し、今年も猛暑になるだろうと予想されている。篤志もジーンズのズボンにシャツ一枚という、ラフな格好だった。


 篤志が初めて“魔法”というものを目の当たりにしたのは、そんな五月のある日のことだった。


                  ◆


 明らかに客の多いこの街だが、北と南の境になると人の通りがぱたりと途絶える地点がある。その通行人が少ない境目をさらに脇道に入ると、寂れた珈琲店があった。


 真鍮製の鈴を下げた、飴色の木製扉。窓にはアンティーク調の格子が嵌められ、屋根からぶら下がる古びた一枚板の看板には『Rocco』と書かれている。イタリア語で“休息”という意味なのだそうだ。


 壁は漆喰で塗り固められ、秘密の休息場所のような空気を醸し出している。決して店としての雰囲気は悪くないと思う。


 しかしせっかくの休憩場所も人通りから完全に隠れた場所にあっては、客足が近付くはずもない。


 まだ午前十時という時間とはいえ、今日も今日とて『ロッコ』からは客の気配がまったく感じられなかった。


 ……いや、客が入らないのは立地以前の問題だったようだ。


「……閉店中になってるじゃないか」


 篤志は扉のかけ札を“CLOSED”から“OPEN”に変えると扉を押し開ける。


「いらっしゃい……って、なんだ、篤志か」


 飴色の扉の向こうから、すぐにそんな声がかけられる。

 果たしてカウンター席にはひとりの青年が腰かけていた。


 まだ二十代半ばといったところだろう。スラリとした長身ながら、野暮ったい不精髭にぼさぼさの髪。『ロッコ』の制服を身につけてはいるが、シャツの襟元はだらしなく開いている。


 経営者としては若すぎるきらいはあるが、彼はこの『ロッコ』の店長だった。

 口には煙草を咥えていて、もくもくと紫煙が立ち上っている。手に広げているのは新聞……には違いないのだが競馬新聞だった。


 篤志はじとっと男を睨む。


「なんだ、じゃないですよ庄太郎さん。扉のかけ札、閉店中になってましたよ?」


「おいおい、そこはきちんとかけ直しておいてくれよ。商売あがったりじゃないか」


「ここの店長は庄太郎さんで、朝に店を開けてるのも庄太郎さんなんですが」


 青年――庄太郎はへらっと笑うと肩を竦める。


 絵に描いたような駄目な大人だ。この駄目な大人が珈琲店『ロッコ』の店長だと考えると悲しくなる。


 ため息をもらす篤志に、庄太郎は悪びれた様子もなく新聞を畳む。


「固いこと言うなって。人間、娯楽を楽しむゆとりってものがないと豊かな人生とは呼べないもんだぜ?」


「人生が豊かでも店が潰れそうなんですが……」


「そいつは困るぜ。なんとかしてくれ」


「一介のアルバイトにどんな責任負わせるつもりですか」


 頭が痛くなってきて、篤志は乱暴に扉を閉める。

 庄太郎は身を縮ませると、そそくさと新聞と灰皿を片付け始めた。


「んじゃ、早いとこカウンターに入ってくれ、篤志」


「……着替えの時間くらいくださいよ」


 この店長はまるで働こうとはしない。おかげでいまではただのアルバイトだというのに店の仕事はほぼ全て篤志が仕切っていた。


 ――僕がここで働き始めて、まだひと月くらいなんだけどな……。


 時給もそれほどよいわけでもなく、アルバイト初日に勤める店を間違えたことには気づいていたのだが、なぜかいまもこうして働きに来ている。


 ――まあ、こんな職場だけど珈琲は自由に飲めるものな。


 珈琲豆は一度淹れたあともまだ搾り出すことができる。それにカップに注ぎきれなかった分が残ることもある。そういったものをアルバイトは好きに飲んでいいのだ。


 もちろんお客さんのいない時間に限られるが、この店に客が入っている時間など一日の何割もない。


 篤志は駄目な店長を置いてカウンターの奧へと入る。


 スタッフオンリーと書かれたここは、従業員のための部屋だ。経理用の古い型のパソコンが一台、折りたたみ式のテーブルがひとつに、背もたれのない丸椅子がよっつ並んでいる。


 篤志も休憩時間はここで食事を摂るのだが、庄太郎がいつもここで煙草を吹かしているため、紫煙のにおいが強く残っている。


「換気扇くらい、つけてもらいたいものだな」


 煙草にはそれほど抵抗はないつもりだが、さすがに空気が悪くなるほどだと苦情も言いたくなる。


 ……まあ『ロッコ』の経営状態では無理な相談だというのもわかっているが。

 空気の入れ換えに窓を開けてから休憩室のさらに奧に進むと、カーテンで仕切られたスペースがある。そこには小型のロッカーがむっつ並んでいて更衣室になっていた。


 篤志は更衣室に足を踏み入れると、後ろ手にカーテンを閉めながら自分のロッカーを開く。中には篤志の制服とくたびれた上着が入っている。上着はそろそろ季節外れなのでもう少ししたら持ち帰らなければならない。


 上着はともかく、制服の方は週に一度は自宅に持ち帰ってアイロンをかけている。今日も皺ひとつなくピシッとしていた。


 着替えといってもシャツとズボンだけなのですぐ終わる。


 篤志はさっさと制服を着ると、店内に戻る。


 せいぜい一、二分しかかかっていないはずだが、カウンターでは庄太郎がまた新しい煙草に火を点けていた。


「篤志さん、休憩なら奧へ行ってくださいよ」


「あん? うちは喫煙自由だぞ?」


「そういう問題ではなくてですね……」


 この店は特に喫煙と禁煙で席を分けてはいないが、さすがに店長がここまでだらけきった姿をさらしていては、なにかの間違いで扉を叩いてくれたお客様も回れ右をしてしまうだろう。


「わかったわかった。まあ、この店を潰したら死んだじじいが化けて出そうだしな」

 庄太郎は仕方なさそうに煙草を灰皿に乗せる。彼がこの若さで店長を務めているのは、祖父から相続したかららしい。


「ならもう少し真面目に働いてくださいよ」


 篤志が呆れた声をもらすと、庄太郎は立ち上がる前にポケットから鎖に繋がれた金色の円盤を取り出す。


 真鍮製の懐中時計だ。


 庄太郎は時計の竜頭をキリキリと回すと、再びポケットに戻す。


「その時計、いつもネジ巻いてないですか?」


 時計のネジなど一度巻けば一日くらいは保つだろうに、庄太郎は気がつくと懐中時計をいじっているように思える。確かめたことはないが、下手をすると一時間おきくらいには巻いているのではないだろうか。


 駄目な大人は仕方なさそうに肩を竦めた。


「おんぼろだからな。こまめに巻いてやらないと効果がなくなっちまうのさ」


 なにやら奇妙な言い回しに聞こえて、篤志は首を傾げる。


「それもおじいさんの形見とかだったりするんですか?」


「似たようなもんだ」


 そう言い残すと、庄太郎は灰皿と新聞紙を抱えて立ち上がる。

 それを横目に、篤志は腰にエプロンを巻いてカウンターに立つのだった。


                  ◆


 仕事の支度を始めると、背後の壁に不自然な空白ができていた。


 この店ではカウンターの壁が丸々食器棚になっており、そこに美しいカップが規則正しく並べられているのだ。いわばカップも装飾品のひとつなのだが、そのうちのひとつがなくなっているのだ。


 流しに目を向けると、案の定というか汚れたカップが転がっていた。恐らく庄太郎が飲んだものだろう。


 じとっと庄太郎を睨むと、彼はペタンと額を叩く。


「おっと悪い。片付けておいてくれ」


「悪いとは微塵も思ってませんよね?」


 ため息をつきながらも手際よくカップを洗っていると、庄太郎が業務連絡をする。


「本日の珈琲はお前が適当に決めておけ。あとストレートはマンデリンに続いてコロンビアが品切れだ」


「……ブラジルもあと少しじゃありませんでしたっけ?」


「あと十杯ってところかな。飲むならいまのうちに飲んどけ」


「お客さんのために取っておくとか、補充するとかいう概念はないんですか」


 珈琲の種類は産地ごとに分かれている。産地がそのまま珈琲の名になっていて、そのまま淹れたものをストレートと呼ぶ。しかし『ロッコ』のストレート珈琲は品切れのものが多かった。


 ――きちんとしたお店なら、品薄になる前にちゃんと補充するだろうに……。


 店長に小言をもらしながら、カップを綺麗に磨いて棚へと収納する。


 続いて店内に流す音楽を設定し――基本的には篤志が持ち込んだCDだ――サイフォンとアルコールランプの手入れを始める。ケルト調のBGMに耳を傾けていると、店の扉が遠慮がちに開かれた。


 本日最初の客が来てくれたらしい。


 ――亜理寿ちゃんだろうな。


 真鍮の鈴の音で篤志には客の顔が想像できた。


「いらっしゃいませ……?」


 そう言って振り返ると、そこにいたのはあの幼い少女ではなかった。


「やあ、このお店は営業中……で、いいんだよね?」


 戸惑い混じりにそう言ったのは、まだ若い男性客だった。

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