僕の珈琲店には小さな魔法使いが居候している

ファミ通文庫

プロローグ

美坂亜理寿は魔法使いである。

 珈琲店『ロッコ』――カウンター席を含めても十六席しかない小さな店だ。


 床や壁は磨かれた樫の木でできていて、天井やその近くの壁は真っ白な漆喰で塗り固められている。珈琲係が歩くたびに木の板が小さく軋み、ケルト調の静かな音楽が流れる店内にメトロノームのように響く。


 時刻は午前十時。まだ開店直後ということもあり、店内に客はひとりしかいない。

 そんな寂れた喫茶店だが、ここにはひとつだけ秘密があった。


                  ◆


「いらっしゃいませ」


 本日最初の客は、小さな少女だった。


 腰まで覆う真っ黒な髪は赤いカチューシャで整えられている。大きく瑠璃のような瞳は長いまつげで縁取られ、幼いながらも鼻はツンと尖り、整った顔立ちをしている。あと十年もすればさぞや美しい娘に成長するだろう。そんな可憐な少女だ。


 細い指で顔にかかる長い髪を掬い上げると、片耳に下げられた大きなイヤリングが揺れた。


 金色の十字架だが、その中心に輪を重ねた独特な意匠だ。ケルト十字という種類のものらしい。よほど大切なものなのか、彼女があのイヤリングを外しているところは見たことがない。


「……本日の珈琲を、お願いします」


 ペコリと頭を下げて注文を済ませると、そのまま窓際の席へと腰を下ろす。

 ただ、その格好はセーラー服なのだが、背中には赤いランドセルを背負っていた。


 どう見ても小学校高学年くらいの女の子だ。


 義務教育も満了していない、そんな幼い少女が、なぜか平日の午前中から珈琲店の片隅で分厚い本を広げている。奇妙な光景だ。


 九条篤志はカウンターの内側からそんな少女を眺め、コーヒーサイフォンをアルコールランプにかける。


 サイフォンは下半分は閉じた球体で、上半分はビーカーのように口の開いた形状の器具だ。下部に水を、上部に挽いた珈琲豆を入れるようになっており、火にかけると湯が独りでに上へと移動する。蒸気に押されてそういう現象が起きるらしい。


 見栄えがよいので、客引きの意味もあって外からも見える場所で注ぐようになっているのだが、あまり効果があるようには思えない。


 やがてロートを伝って湯が昇り始め、珈琲豆が収まる上部へと移動すると篤志は火を止める。透明から黒へと染まっていく湯を、マドラーで軽く混ぜるのだ。


 このまま湯が落ちるのを待てば完成だが『ロッコ』ではもう一度火にかける。


 この方がより深い味わいの珈琲を搾り出せるという効果はあるのだが、この店の場合はただ単に経費節減のためだ。少ない珈琲豆でよりよい味を出そうとするとこうなる。


 そうして珈琲ができあがると、サイフォンをアルコールランプから下ろし、カップと共にトレイへと載せる。小さな容器にミルクを注ぎ、角砂糖の詰まった小瓶も忘れない。


 篤志はカウンターから出ると、トレイを片手に唯一の客である少女の元に向かう。


 近付いてみると少女には表情らしい表情が浮かんでおらず、よくできた人形が座っているのではないかという錯覚を覚えた。


 それでもコホンと咳払いをして、篤志は声を上げる。


「お待たせしました。本日の珈琲です。銘柄は……」


 篤志の言葉を遮るように、少女がじっと瞳を向けてくる。


 その瞳は両方とも瑠璃色のようでいて、よく見ると左目は翠だった。虹彩異色というもので猫などの動物によく見られる症状だ。日本の女性芸能人にもこういう瞳の人物がおり、人間でも稀にいるものらしい。


 まるで表情が変わらないため睨まれているようにも見えるが、彼女は別に珈琲が気に入らなかったわけでも篤志に敵意を持っているわけでもない。


 銘柄は自分で当てるという意思表示だった。


 篤志は肩を竦めてテーブルにカップや小瓶を並べていくと、最後にサイフォンからカップへと珈琲を注ぐ。


 胸がすくようなこうばしい香りが店内に広がる。

 少女はカップを手に取り、静かに香りを楽しむと口を開く。


「この少し酸味の強い香りは、マンデリンですね」


 鈴を転がすような声に、篤志は思わず口笛を返す。


「正解。よく香りだけでわかるね、亜理寿ちゃん」


 篤志がここの店員になってひと月になるが、未だに味で銘柄を当てるのは難しい。香りだけとなればなおのこと困難だろう。


 なのにこの少女――亜理寿は幼い外見に反して香りだけで銘柄を当ててしまう。

 この才能を使えば将来は素晴らしい珈琲係になれるだろう。


「当然のことです。これだけ丁寧に香りを立てていただいたのに銘もわからなかったら、珈琲に対して失礼ですから」


 奇妙なほど大人びた少女は自慢げに胸を張る。



「でも、砂糖とミルクは入れるんだよね?」



 篤志の迂闊なひと言に、亜理寿の硬い表情がにわかに引きつる。


「あ、いや、別に意地悪で言ったわけじゃないんだ。美味しく飲んでくれるのならなんでもいいんだよ?」


 篤志はあくまでなだめているつもりだが、それは火に油を注いでいるだけだった。


 キュッと唇を結ぶと、亜理寿は宣言する。


「わかりました。では、今日はミルクを入れずに飲んでみます」


 ――砂糖は入れるんだね……。


 さすがに口には出さなかったが、亜理寿はそんな篤志の内心を読んだかのように言葉をつけ加える。


「わたしは勇気と蛮勇を取り違えるほど幼くはないつもりです。砂糖も入れないのは珈琲を美味しく飲むことを放棄する行為だと思います」


 本人は毅然としているつもりなのだろうが、微笑ましくて顔が緩みそうだった。


 亜理寿は砂糖の小瓶を開けると大粒の塊をきっかりみっつ放り込む。スプーンでカラカラと混ぜると、小さく深呼吸をする。


 まるで死地におもむくかのように目を見開くと、熱い液体で満たされたカップに唇をつけた。


 こくりと咽が鳴る。

 それから、少女は静かにカップを受け皿に戻した。


「……どうやら、わたしにはまだ早かったようです」


 心なしか青ざめた顔で、亜理寿は迷わずミルクを全部投入した。真っ黒な液体はまたたく間にクリーム色に染め上げられる。


 ――こういうところは、やっぱり子供なんだよな。


 なんだかホッとする姿だ。


 すでに元の珈琲の味は霞んで消えているだろうに、亜理寿は満足そうに唇をつける。


「今日も篤志さんの珈琲は美味しいです」


「それはよかった」


 このときばかりは少女の澄ました顔も年相応に見えた。


 普段、表情の変化に乏しく、口数も少ないこの少女だが、珈琲のことになると饒舌になる。


 と、その傍らに開かれた分厚い本に目がいく。装丁もずいぶん立派なもので金色の装飾まで施されていた。


「なんだか難しそうな本を読んでいるね。洋書かい?」


 ページを覗くと、並ぶ文字も英語どころかアルファベットでさえないようだった。


 ――何語かはわからないけど、よくこんなものを読めるな。


 こんな昼前から珈琲店に居座っていることといい、謎の多い少女だ。


 篤志の質問に、亜理寿はどこか自慢げに頷く。


「はい。愛蘭辺りから流れてきた本だそうです。虚空堂に置いてありました。珍しいものだったのでつい、衝動買いをしてしまいました」


「虚空堂って、古書店の?」


 珈琲店『ロッコ』の表通りを少し南下すると古書店街が広がっている。各分野ごとに古今東西の書物が揃えられており、脇道に入れば大小二百もの書店があるという。


 虚空堂というのはその中のひとつで、洋書ばかり扱う不思議な店だった。


「へえ、どんなお話なんだい?」


「いえ、文学ではありません。なんというか……植物の育て方、のような本です」


「園芸かな? それは確かに珍しいね」


 大きな書店であれば洋書もそれなりに取り寄せてあるものだが、それでも人気小説くらいのものだ。それ以外ではせいぜい論文などの載った科学誌くらいだろうか。


 海外の園芸本など、篤志も初めて見た。


「なら今度、僕にも教えてもらえるかな? そこの鉢植えなんだけど、育て方がわからなくて枯れさせてしまいそうなんだ」


 亜理寿の席のすぐ近く、壁際には小ぢんまりとした鉢植えが飾られている。


 秋になると小さな赤い実を付ける、クランベリーという植物だ。店長がまるで手入れをしようとしないので篤志が世話を始めてみたのだが、やはり素人では駄目らしい。水のやり方が悪かったのか枯れ始めている。


 亜理寿は鉢植えに目を向けると、コクンと頷いた。


「これならたぶん、なんとかなると思います」


 カップを受け皿に戻すと、亜理寿は分厚い本を掲げてそっと目を閉じる。


 淡い桃色の唇から、震えるような旋律がこぼれた。



『――Ask him to find me an acre of land,Parsley, sage, rosemary and thyme 1エーカーの土地を見つけるよう言つて パセリ、セージ、ローズマリーにタイム――』

  

『――Between the salt water and the sea strand,For then he'll be a true love of mine海水と波打ち際の間に そうしたら彼は私の恋人――』


 どこかの民謡だろうか。短い詩歌ではあるが、独特な響きでいつまでも耳を傾けていたくなるような唄だった。


 思わず聴き入って、篤志は目を見開くことになった。


 枯れかけたクランベリーが、淡い光に包まれたのだ。


 茶色に変色し始めていた葉が瑞々しさを取り戻し、くたびれた茎が見る見る真っ直ぐに伸びていく。さらには小さなつぼみまでもがふくらんでいた。


 そこで、亜理寿は歌声を止める。


「どうやら、上手くいったみたいですね」


 ホッとしたように呟く亜理寿に、篤志は自分の目を疑うように問いかける。


「なにを、したんだい?」


「お花に元気をあげてみました」


 そう言って、自分の顔を隠すように分厚い書物を掲げる。その仕草で見上げられるのは、小動物にでも様子を窺われているような気分だった。


「ちょうど、この本にやり方が書いていたもので」


「あー……つまり、その、あれかい?」


 後頭部をかきながら篤志は問いかける。



「“魔法”……なのかな?」



 亜理寿は無感動にコクンと頷いた。

 硬直しながらも、篤志は乾いた笑みを浮かべた。


「そんな本が一般の古書店に流通していていいものなのかい?」


 魔法の使い方なんてものが書いてあるなら、それはいわゆる魔導書とかそういうものなのだろう。現代日本の古書店に平然と置かれていいものではないと思う。


「大丈夫です。普通の方には変な記号が並んでいるようにしか見えませんから」


 自信たっぷりに答えられ、篤志はなんとかため息を呑み込んだ。


 美坂亜理寿は魔法使いである。


 それがこの珈琲店『ロッコ』の秘密。

 そしてこれは小さな小さな魔法使いと、若い珈琲係の物語。


 ――僕の珈琲店には小さな魔法使いが居候している。

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