応援コメント

「常磐木の木の葉ちるなりこの夕べ」への応援コメント


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    2019年6月7日、追記
     断定の意で取ると「詩」みたいになると思います。例えば、断定の場合、散っている常緑樹を目の前にしないと断定できないでしょうから、樹の目の前に立ち、

      常緑樹の葉が散っているのだ この夕べに
      けど僕は この寂しさに負けたりなんかしない
      たとい……なことがあろうとも 決して 決して

    とかなんとか、このような感じでしょうか。
     ですから、大野城みずきも、「伝聞推定」または『ベネッセ全訳古語辞典』に掲載の「聴覚による推定」「音・声が聞こえてくる」を取ります。

    ----- 「作者からの返信」と対応させるため、アーカイブ -----
    2019年6月5日 0:14
     大野城みずきの、古文を読んだ印象として、「なり」が断定の意になるときは、文末の「体言+なり。」、また、「連体修飾の文節(例えば、『なる+体言』『なりし+体言』)」また、「歌のことば書き」ぐらいです(評論において「なり」が断定の意になりやすいのは言うまでもありません)。
     さらに、昔も今も日本人は、心中表現において、文末の断定を避ける傾向が強いです。例えば、古文の文末の「なるなり。」「なるめり。」の「なる」は断定ですが、この断定は、後ろの推定「なり」「めり」を導くための飾り・前置きに過ぎません(詠嘆「なりけり」も同様)。そもそも、日本の短歌や俳句において、断定の意が前面に押し出されることは、まれだと思います。(一方、詩は、ヨーロッパの影響が強く、断定がたくさん出てくると思います。)
     ですから、大野城みずきも、「聴覚による推定」「音・声が聞こえてくる」を取ります。

    作者からの返信

    コメント有難うございます。
    なるほど、日本人が断定的に物事を言いきるのを避ける傾向が強いという発想がそこにはありませんでした。ご意見に感謝いたします。応援機能を使わせてしまったようで恐れ入ります。

    編集済