第2話 魔音

 神楽坂の中心の通りである早稲田通りは寿司屋はじめとした日本料理店、カフェといった飲食店が多い。


 そのため夜でも店の看板などのネオンが輝いており、とても明るい。

 

 しかし大通りから外れて自転車も入れないような小路に足を踏み入れると高級料亭が立ち並んでいる。


 その通りは早稲田通りのギラギラとした明かりと比べると大人しく、ぼんやりとした明かりで数も少ない。


 だがその明かりが高級感を引き立たせており、通り行く人々に物静かな雰囲気を味あわせている。


 立ち並んでいる中で一際大きい料亭の一室では二人の男女が向かい合って座っていた。


 しかし料理が無いので食事とういうわけではない。


 なぜか明かりは少なく薄暗い部屋の中で数本の蝋燭がゆらゆらと揺れていた。


「魔音?」


 コスモス色の薄いピンクの着物を着た半玉の十五夜舞音は男が習字筆で半紙に書いた『魔音』という字を読んだ。


「君の芸者名だ。読みは本名と変わらないし、いい名前だろう」


 白い着物に腰より下まである薄黄色の長髪の男、烏兎胡弓が説明した。


「はい!師匠から名前を貰えるなんて光栄です!」


 舞音は嬉しかった。


 師匠から名前を貰うのは芸事の世界ではごく当たり前の話だが、男としても好きな人から自分の芸者名を貰う事は舞音にとってこれ以上無い嬉しさだった。


「魔音、お前には才能がある。半玉から芸者になるのも早いだろう。僕の初弟子として期待に答えてくれよ」


「はい!」


(師匠の期待に答える為にも一生懸命芸を磨いていかないと!)


 魔音は師匠の期待に答えようと心の中で誓った。


「今日、この後何か予定ある?」


「いえ、今日の仕事は終わりました」


「そうか。じゃあ……」


 胡弓は立ち上がって魔音の隣にやってきた。


「師匠?」


 胡弓は魔音と向き合った。


「時間があるなら、今夜は僕の所へ練習に来ないかい?」


「で、でもこんな遅くではお父様とお母様がご心配に……」


「大丈夫。今日、僕の方から泊りがけの練習をさせていいか君のお母さんに聞いたらOK貰ったから」


「そうですか。なら安心ですね」


 魔音は安心した顔になった。


「では今夜、よろしくお願いしますね」


「……」


 胡弓は黙った。


「師匠?」


「魔音。君は今年で十九になるのに本当に世間知らずだね」


「な!?」


 魔音は自分が気にしている事を師匠に間近で指摘されて困惑した。


「今君が言った言葉は男を誘う言葉でもあるのだよ」


「そっ、……そうなのですか?」


 どうやら「男を誘う」という意味の深さはわかっているみたいだ。


「もちろん、君がそんなつもりで言った訳ではないのはわかっている。だけど……」


 胡弓がさらに魔音に近づいた。


「その言葉を他の男に使っていないか心配なんだ。師匠として。そして」


「恋人として」


「!……」


(私を心配して……)


 魔音は嬉しくなって頬を赤らめた。


「心配は無用です。私が愛してるひとは師匠だけですから」


「安心したよ」


 胡弓は魔音を抱きしめた。


「師匠!?」


「これから二人きりの時は名前で呼んでくれないかな?」


「……はい。胡弓、さん」


 胡弓は誰にも聞こえないように魔音の耳元でささやいた。


 もちろんこの部屋には二人しかいない。だが胡弓はどうしても二人だけの秘密にしたかった。


 そうでもしないと気が気でなかったのだろう。


 魔音は師匠を名前で呼んだことがなかったので初めて口にしようとした途端、緊張してしまった。


「遅くなる前に行こうか」


「はい……」


 二人は立ち上り、それぞれ準備をして料亭を出た。


 夜空では三日月が二人を見守るように昇っていた。

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