第4話 学園七不思議 呪われた体育倉庫


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 不意に届いた人間国宝、三代原松北条からの茶器セット。超がつくほどの高級な物、というよりは値段がつけられない大変貴重な物に対し、立派な庶民である長野原未散は感動を覚えるよりも先に恐怖にも似た緊張を覚えた。あまりの嬉しさに笑顔を見せるというよりも、人間国宝の作品が醸し出す謎のプレッシャーに思わず顔を引きつらせるのだった。

 同封されていた手紙によれば、二ヶ月ほど前の事件の御礼ということらしい。尋常ではない達筆でその旨が書かれている。口下手なので手紙でご容赦を、ともあった。二ヶ月もの時間が開いたのには、もともとあった作品を譲ってくれたわけではなく、今回の御礼のためにわざわざ一から作ってくれたものだからだそうだ。

 未散のためだけに。あの人間国宝がわざわざ。

 そんな作品、触れることさえ恐れ多い。

 茶器はこれまた高級な桐箱に収められている。同じような箱が三つほど届いていた。

「使いづらいなぁ……」

 あの人間国宝による名品を前にして口にするような言葉では決してなかったが、それが嘘偽りのない正直な気持ちだった。

 日本茶にそれほど思い入れのない未散にしてみれば、持て余すことが目に見えている。これを機会に、ということももちろん考えればいいのだが、まさか初心者が最上級の茶器を使うわけにもいかないだろう。練習するにもまさか名品を差し置いて安物を買うわけにもいかないのが辛いところだ。

 とは言え、埃を被せるわけにもいかないし……。

「勇気を出して使ってみるか」

 意を決したものの、充分な茶葉がこの家にないことを思い出した。専門店に、いろいろと取り寄せて貰わねばならないだろう。

 ここへ来て、まさかライフスタイルの変化を要されるとは思わなかった。

 未散は思わず、自嘲気味に鼻を鳴らした。

 とりあえず、新しい趣味については今夜考えることにした。今は出勤をしなければならない。名品達をそっと炬燵の下へ置き、未散はリュックサックを背負うと自転車とともに部屋を出た。

「寒い……」

 思わず言葉に出すほど、風が冷たかった。体を震わせると、部屋に鍵を掛け、急いで自転車に跨った。

 二月も半ば。暦の上ではもうすぐ三月だというのに、気温はまだまだ上がらず、寒い日が続いている。日が少し長くなったことを除けば、冬がほとんど変わらずに続いている。さすがに昨年のような雪が降ることはないが、それでもときどきちらつくことがある。街行く人々も、コートにマフラーを手放せずにいた。

 本格的な春の訪れはまだまだ先になるようだ。

 天気のいい日が続いているので、ちょっと遠くまでサイクリングに行きたいと考えていた未散だったが、気温の低さに断念している。冬のときの突き刺すような寒さは少なくなっているものの、まだまだ家でのんびりしたいと思うほどの寒さが続いていた。

 暖かくなったらなったで、昼寝に時間を貪られるのだろうが……。

 ここ最近は学年末テストも終わり、学期末及び卒業が近いということも合わせて、学生達の間にも弛緩した空気が流れている。毎年この時期になるとどの学生達も似たようなもので、今さらそれに対して嘆く必要はないのだが、今回は少し様子が違った。どういうわけか、最近になってまたぽつぽつと都市伝説が顔を出し始めていたのだ。

 懲りもせずに、学園七不思議である。

 噂話で楽しんでいるうちはかわいいが、ミステリーサークルという前例があるため、眉を顰めている教師も少なくない。今のところ特に問題になるほどの騒ぎにはなっていないが、いつまで静観が続くのか、微妙なところだ。

 ただ、前回の七不思議、特にミステリーサークルについては、悪戯であることが判明している。そしてそれは多くの人間に周知されていた。その影響もあってか、以前よりも噂話に力がないように感じられる。前のように、誰も彼もが熱狂しているわけではなかった。一度冷めてしまったら、元に戻すのは容易ではない。前回の、それ以上の熱量が必要となる。余程のことがない限り、そんな熱量を生み出すのは不可能だろう。

 学期末を迎えるこの時期、授業も少なく、学生達は暇を持て余しているのかもしれない。だから少しだけ、再燃したのだろうか。

 余計な仕事が増えない限りは、未散にとってどうでもいいことなのだが。

 未散は欠伸を噛みながら、交差点を曲がり、桜の木々が立ち並ぶ急な上り坂へと向かう。あと一ヶ月もすれば、半分ほどは桃色の花を咲かせてくれるだろうか。長い坂に続いている桜並木は、春の時期になるとやはり壮観な眺めだった。

 いつもは一気に駆け上がる坂だが、この時期ばかりはゆっくりと桜の木々を見上げながら走ることが多い。毎日少しずつ開花へ向かっていく桜の様子を楽しみながら、未散は坂を上った。

 校門をくぐり、自転車を職員用の駐輪スペースに駐める。今日は職員用玄関には向かわず、反対方向である体育館の方へ歩を進めた。体育館の横を抜け、奥のテニスコートへ。ボールの弾む音と掛け声が聞こえている。

 未散が顧問を任されているテニス部の様子を見に来た。

 朝から精が出るな、と思うものの、本人達は好きでやっているのだから別に感心することではない。半ば呆れるぐらいが、教師としては失格だが、大人としては正しい反応だろう。

 高いフェンスに囲われたスペースに、ハードコートが四面整備されている。さらにその奥、プールの隣に、洒落た言い方をするならクレイコート、身も蓋もない言い方をするならコートだった名残が二面ほどあった。今はそれぞれのコートでジャージ姿の部員達が数人、ラリーの練習を続けている。

 未散はコート脇のベンチに腰を下ろし、練習風景を眺めるふりをしながら、これからの生活スタイルについて考えた。

 せっかく最高級の茶器を頂いたのだから、それを使わないのはもったいないだろう。最高のお茶を楽しむために、あれこれと勉強しなければならない。とすると、しばらくは日本茶中心の生活をすることになる。献立も和食中心に考えなければ。それに、やはり最初から三代北条の急須を使うわけにもいかないだろう。手頃なもので練習する必要がある。

「…………」

 ふと我に返り、未散は笑ってしまった。通俗的な自分に、呆れも通り越してただただおかしくなった。

 それでも人間国宝からの贈り物である。現代最高の名匠と謳われる三代北条の作品で日常的にお茶が飲めるとあれば、他人に自慢をするつもりはなくても、多少舞い上がってしまうだろう。それくらいは大目に見てもらいたい。それでも文句を言う人間がいるとするなら、狭量なお局体質くらいだ。

「おはよう、先生」

 顔を上げると、そこには穂波涼太の笑顔があった。

「ん、おはよう」

「何か、ご機嫌じゃん。いいことでもあったの?」

「そう見える?」目敏い生徒もいるものだな。

「見えるよ。いつもはもっと陰鬱というか、そこまではないにしても、憂いを帯びた感じしてるし」

「酷い言われようだな……」未散は肩を竦めた。

「まま、機嫌いいようならさ、俺と一勝負しない?」穂波は笑顔を見せながら、ラケットでボールを弾ませる。

「嫌よ。あんた、びっくりするぐらい下手じゃない。私からポイント取れるの?」

「先生が無茶苦茶強過ぎるんだよ」

「あんたが弱いだけよ」

 未散はベンチに置かれていた出席表に手を伸ばし、目を通した。寒さのためか、最近の出席率は低くなっている。熱心に活動をしている部でもないので、朝練に参加する学生は半分もいれば充分だ。

「それより」視線を穂波に戻し、未散は足を組みながら軽く睨んだ。「もうすぐ二次試験でしょ。こんなところで遊んでいてもいいの?」

 穂波涼太は未散が受け持つクラスの三年生で、卒業、そして受験を間近に控えている。テニス部は去年の時点で引退していた。どちらにせよ、この場にそぐわない人間である。

「息抜きも必要だよ」苦い笑みを見せて、穂波は上体を反らした。「あんまり根詰めても、気が滅入るじゃん」

「現実逃避じゃなければいいけど」

「ほら、あれだよ、あれ」

「どれよ?」

「マリッジブルーだよ」

「いつ結婚したんだ馬鹿やろう」未散は呆れて肩を竦める。「そんな調子で大丈夫か、ほんと」

「なんとかなるっしょ」

 当の本人はどこ吹く風で、気楽に答えてくれた。

「何でもいいけど、後悔だけはするなよ」

「しないしない」穂波は笑うと、未散の隣に腰を下ろした。「でもさ、何かこう、モチベーションを維持するのも大変じゃん? 推薦組なんて去年から遊び呆けてんだよ? そんな状況でずっと机に向かうなんて、拷問だよ、拷問」

「まあ、気持ちはわからないでもないけどね」

「そういや、聞いた? また都市伝説か何かが流行ってるみたいなんだけどさ」

「みたいね」

「あれだって、進路が決まって暇になった連中の遊びじゃんか。あぁー、羨ましいなぁ、もう」

「都市伝説ね……。話の出所はどこなの?」未散は穂波に尋ねた。

「さあ」穂波はラケットでボールを遊ばせながら、首を傾げる。「やっぱ、石川達?」

 前回の騒ぎは石川めぐみを始めとする、未散が受け持つクラスの生徒達と学年主任である中山教諭が主導だった。前科がある以上、今回も疑われて然るべきだが果たして……。

「まあ、学校中の机と椅子が運び出されるようなことでもない限り、放っておいても大丈夫でしょうけどね」

「でも有名らしいよ?」

「何が?」未散は聞き返した。

「その都市伝説」言うと、穂波は後ろを振り返った。「ほら、あそこ」

 未散も振り向き、穂波の視線を追う。視線の先には運動部用の部室ぐらいしかない。

「あそこって、どこ?」

「部室棟の隣だよ」

 コンクリートの打ちっ放しの部室が建ち並ぶその奥に、一際老朽化が進んだ小屋がある。何の用途で使われている建物なのか、未散も知らなかった。

「あれは?」

「開かずの体育倉庫」

「開かず……」

「まあ、実際は使われてないだけで開くんだけどね」

「開くのかよ」

 普段使用されている体育準備倉庫は、校舎正面のグラウンド近くに建てられた部室棟の一室に割り当てられている。そちらは主に屋外で使用される器具が保管されており、屋内で使用されるものについては体育館内の倉庫が利用されていた。

 体育館付近に建てられた部室棟には、卓球部、バスケ部、バドミントン部、バレー部、そして未散が受け持つテニス部の部室が入っている。テニス部のみ、男子女子とそれぞれに部屋が設けられており、ボールなどの器具は男子の部室へ押し込まれていた。

「で、そのあんたの言う、開かずの体育倉庫がどうかしたの? 見る限りかなり古いけど」

「幽霊が出るらしいんだってさ」穂波は怖さを演出するためなのか、声を潜めた。

「は?」

「幽霊」

「それは大変だ」未散は思わず吹き出してしまう。「扉も開かなくなるわけだ」

「いやいや、マジなんだって」穂波は片手を振りながら言う。「何でもさ、昔ここに通ってた生徒がその倉庫で死んだらしいんだよね」

「ここに通ってない人間が死んでる方が怖いけどね。まあいいや、それで?」

「それが不可思議な死に方だったんで、呪われてるんじゃないかっていう噂」

「不可思議?」少しおもしろかったので、最後まで付き合ってやることにした。

「首吊り」

「自殺? 特別不思議というわけでもなさそうだけど」

「えっと、ほら、何だっけ。大黒柱? みたいなのにロープ括り付けて首を吊ってたみたいなんだけど」

「梁?」

「ああ、そうそう。天井の、横のやつでしょ? 多分それ」穂波は頷きながら、身振り手振りで説明をしようとする。空中で何かを形成しているのだが、残念ながらそれが何なのか未散には伝わってこなかった。「首吊るときってさ、こう、ロープを垂らしてきて先に輪っかを作るじゃん」

「そうね」

「それがさ、ロープが垂れてなかったんだって。その梁に直接括り付けられるようにして首を吊ってたらしい」

「他殺?」馬鹿馬鹿しいと思いつつも、未散は尋ねた。

「だから、自殺でも他殺でもなく、呪いだっていう話だよ」穂波はおもしろそうに笑顔を向ける。「梁は高い位置にあるから自殺はできない。発見時は多分密室でしょ、こういう場合は。だから他殺も無理。幽霊に呪い殺されたっていう噂」

「都合のいい噂だな」未散は笑った。「もしもそんな事件が実際に起きていたのなら、調べればすぐにわかる。それに、呪いっていうのは何? 物理現象を伴うわけ? 原因不明の病死とかじゃないの?」

「そんなの俺に聞かないでよ」穂波は口を曲げ、首を竦めた。「そういう噂があるって聞いただけだよ」

「呪いも大したことないな。街中で通り魔に遭う方が怖い」

「先生なら通り魔くらい返り討ちにしそうで、そっちの方が怖いけどね」

「よし、コートに立て。ぼこぼこにしてやる」


 2


 午前中は体育館で卒業式のための会場作りと、段取りの確認を同僚の教師と行い、午後からは全体練習をした。高校生というだけあって、全員淡々としている。歌の練習に至っては、ほとんどの人間が口パクをしているという、何とも微笑ましい光景が繰り広げられていた。

 特に、校歌斉唱は酷いの一言に尽きる。ほとんどの人間が歌っていないだけならばまだ救いようがあるが、残念と笑い飛ばすことができないほど、歌えないのだ。多くの生徒が校歌の歌詞を覚えていないのである。

「おい、どうした? お前達の卒業式だろう。今から感極まってどうする」

 教師の一人が発破を掛けるように、三年生を見渡した。今どき流行らない熱血教師はこういうイベントものになると鬱陶しいぐらいに張り切るから迷惑だ。生徒達がうんざりするのも理解できる。もちろん、正当性は向こうにあるのだから、誰も何も文句を言うことはできない。

「まだ終わらないですかね」

 未散の隣に立っている副担任の永田行雄が、顔を生徒達に向けたまま聞いてきた。相変わらずの無表情で、生徒達以上につまらなそうな顔をしている。

「どうでしょう」未散も前を向いたままで答えた。「長くなりそうですけど」

 未散達は体育館の壁際に立って、全体練習の様子を眺めていた。指示やら説教やらは、他の教師が務めてくれている。底冷えするような体育館の寒さに目を瞑れば、比較的楽な仕事ではあった。

 実は未散も永田も、校歌はまったく歌っていない。未散は歌詞どころか旋律すらもあやふやな状態で、とても歌うことができなかった。永田は歌えないのか、それともただ単に歌う気がないのか、判断に困る男だった。

「そういえば、長野原先生にとって初めての卒業生ということになるのでは」永田が思い出したように言う。目線は相変わらず前を向いたままだ。

「ええ、そうですね」未散も生徒達の方を見たまま、相槌を打つ。

「感慨深いものなどはありますか?」

「どうでしょう」少し考えてから未散は答えた。「特にないですね」

 担任とは言っても、高校では担当科目ぐらいでしか生徒達と触れ合う機会がない。受け持ちのクラスでも、朝と夕方のホームルームで事務的な出欠確認をするだけだ。希薄な関係性を穴埋めするだけの時間にはならない。

 残念ながら、本番を迎えても未散が涙を浮かべることはなさそうだ。それは冷静な自己分析だった。

 まあ、泣く方が受けはいいのだろうけど。

「もうこんな時間ですね」永田が腕時計を見ながら言った。

 未散も自身の腕時計で時間を確認する。午後二時半になったところだった。

「僕はこの辺で……」

「あ、はい」

 頷いたものの、内心では顔を歪めていた未散である。退屈なのはわかるが、勝手に抜け出していいものではないだろうし、何よりも学年主任であるお局様がヒステリーを起こしかねない。

 しかしそんなことお構いなしに、白衣姿の化学科教師は静かに体育館を出て行ってしまった。

 副担任の永田はともかく、担任である未散は抜けるわけにはいかない。このあと、全体練習としてクラスの生徒達の名前を順番に読み上げることになっている。ただ、歌のあまりの出来に予定よりも時間が取られてしまっているので、どうなるかわからなくなってきていた。

「明日は他の学年との合同練習も控えている」

「そんな調子で恥ずかしくないのか」

「誰のためだ、お前達のためだろう」

 などという熱血教師による説教はまだ続いている。未散が担任を務めているA組の生徒数人が、助けを求めるような視線をこちらに飛ばしていた。追い詰められた小動物みたいで少しかわいかったが、窮鼠だって猫に噛みつくものだ。熱血教師を殴れとまでは言わないが、未散がわざわざ助け船を出してやる義理もない。あと少しで卒業していく連中と、今後も関係が続く同僚。どちらを未散が選ぶかは明白だった。

 未散は舞台を見上げる。

 一番可哀想なのはずっと待たされている音楽科の非常勤講師だ。彼女はピアノの前で、行儀よく膝の上に手を重ねて座っている。ときどき楽譜を捲ったりして時間を潰しているのを見ると、何とも言えない切ない気持ちを覚えた。

 歳は未散よりも少し上くらいだろうか。音楽科の講師とは接点がまるでないので名前もわからないが、あまり社交的ではなさそうな印象を受けた。

 未散は近くのパイプ椅子に腰を下ろすと、小さくため息をついた。

 無駄な時間だ、と言うつもりはないけれど……。

 本来の予定時間よりもかなりオーバーしていることは事実だ。ちゃんと歌わない生徒達も悪いが、先ほどから注意の時間が長すぎる。長く怒ればいいというわけでもないだろうに。

 未散は教室にいる生徒達の様子が気になった。卒業生の中にはまだ受験を控えている者も多く、特に国公立の前期日程まではもう時間がないので、該当する受験生は教室で追い込みをしている。

 そちらの様子を見に行くという口実のもと、この空間から抜け出したかった。

「…………」

 甲子園に出場するような高校、そして野球部ならば校歌に思い入れを持っていても不思議ではないが、それ以外の生徒にしてみれば校歌は歌うどころか、耳にする機会だって非常に限定されている。多くても、片手で数えられるほどだろう。音楽の授業にしても必修ではない。まともに歌える方が不思議なくらいだ。

 せめてもの雰囲気として口パクをしている生徒達を健気だと微笑むのか、それともサボっていると見て憤慨するかで教師の力量が問われるだろう。生徒達に人気が出るのは前者で、教師として正しいのは後者だ。

 それらを端で眺めているだけのどっちつかずの未散は、静かに欠伸を噛んだ。

 この調子だと時間いっぱいまで説教は続きそうである。

 生徒達の中には、うんざりしている顔、無関心な顔、苦笑を浮かべている顔などが見て取れたが、反省している顔はどこにも見当たらなかった。

 しおらしくしていればいいものを。

 結局、六時間目の終了を告げるチャイムが鳴るまで、歌の練習は続いてしまった。おかげでその他の練習については後日に回されることになる。生徒達とは違い、教師には段取りの確認が必要なので、こうした練習時間が潰されるのはあまり好ましくない。

 未散自身は特に問題はないのだが、鈍くさい人間はどこにでもいるもので、その者がミスをするといろいろと波及していって最終的には惨事を招くことだってある。書面で充分に理解できる者ばかりではないのだ。その者のためにも何回かはあわせて練習をしておきたかった。生徒達の歌よりも、質の悪い問題だと言える。

 とは言え、仕方ない。若手の未散には物事の中心に立つ資格、権利は与えられていないのだ。そんな彼女にできる最大限の抵抗は、大人しく端から眺め、ニヒルに笑うことぐらいだろう。

 社会などそんなものだ。わけもわからずに怒られ、納得もしないままに、ただただ頭を垂れ下げて時間が過ぎるのを待つ。それが正しい、と。みんなそうしてきた、と。そんな上辺だけの毒に冒され、感覚が麻痺してきたころに、慣れてきたのだと成長したのだと錯覚する。そして気づかぬうちに、無垢な人間に毒を振りまく側に立っているのだ。それをずっと繰り返す。馬鹿みたいに。

 安い共有感に浸っては安心を得ているのだろう。何も考えずに、意味のない優越感に抱かれながら。

 未散はため息をついた。

 恐らく、これから職員室でお局様にねちねちと陰湿な嫌味を聞かされることになる。「A組の生徒達が歌っていなかったようだけど?」とわざとらしい入りから、小一時間、ストレスの捌け口にされるのは目に見えていた。

「もー最悪だよ、何だよ、田伏たぶせのやつ」

「だよねー。てか、校歌とか知らんし」

「歌えるわけないよな。歌い出しがどこかもわかんねーよ」

「アイドルだって口パクの時代だろ? 俺達に何を求めてんだかな。学校に思い入れはあってもさ、校歌にあるわけじゃないし。俺さ、一年の時書道だったんだけど、音楽のやつらはどうなの? 校歌とか習ったりすんの?」

「したような、しなかったような」

「覚えてねーじゃん!」

 教室に着いた早々愚痴をこぼす生徒達に未散は苦笑しながら、ホームルーム前の掃除を指示した。

 生徒達は不満そうな顔をして口々に愚痴をこぼしつつ、それぞれの持ち場へ移動していく。

 未散は教室の黒板を綺麗にしたあと、日直の生徒から日誌を受け取り、その内容を確認しながら教室に全員が戻ってくるのを待った。

 日誌にはその日の授業と簡単な内容の他に、日直による感想などコメントを書き込む欄がある。男子の多くは面倒そうに嫌々といった様子でその日の天気についてのコメントが目立ち、女子は長々とした意味のない日記を繰り返す傾向が強い。代わり映えしないコメントも多いが、生徒の性格が上手く反映されており、日々のちょっとした楽しみでもあった。

「さて、今日は山田か……」

 成績も常に上位という優秀な女生徒である。彼女は推薦入試ですでに進学を決めており、残りの高校生活を友人達と楽しんでいた。

 そんな彼女のコメント欄には、綺麗な字に似つかわしくない、おどろおどろしい文面が踊っていた。日直日誌に「首吊り」「自殺」「呪い」「幽霊」などの単語が飛び込んでくると、さすがに苦い笑みしか出てこない。

 古い体育倉庫で起きた事件の噂は本当なのか。最近では幽霊の目撃情報も耳にした。他の学校の友達からも話を聞かれた。などなど。山田の半信半疑なコメントが寄せられていた。

 山田ほど直接的ではないにせよ、ここ数日の日誌には複数の生徒から七不思議に関する話題が書き込まれている。おもしろおかしく楽しんでいるというよりは、眉を寄せているようなコメントが多かった。それには、ミステリーサークルの前例が影響しているのかもしれない。

 前回の一件により、特にこのクラスにおいては、七不思議は単なる悪戯だったということを説明している。そしてそれを証明するかのように、以降、七不思議などの噂話も鳴りを潜めていた。ところが最近になってまた顔を出した噂話。また何か企んでいるのでは、と勘繰っている者も多い。

 間接的ではあるが、未散に訴えているのかもしれない。

 クラス全員が教室に揃ったようなので、帰りのホームルームを手短に済ませることにする。

「受験組を除いて明日も卒業式の練習があるからね。明日はちゃんと歌いなさいよ」

 未散がそう言うと、教室からは不満の声が漏れた。

「無理だってー」

「あなた達が通う高校の校歌よ? 歌えなくてどうするのよ」

「それはそうだけどさぁ」

「あんなもの、適当に声出しておけばいいのよ。下手とか音程がどうとか関係ないんだから」

「恥ずかしいわけじゃなくてさ」

「何でもいいから、歌いなさい。声さえ出しておけば馬鹿は満足するんだから。あなた達も今日みたいな説教で時間を潰されたくはないでしょう?」

 生徒達からは渋々といった表情が見られた。

「じゃあ、気をつけて帰りなさい。卒業前に事故なんかに遭うなよ」

 解放感に溢れた笑顔を見せながら、生徒達は教室を出て下校していった。

「先生、この問題なんだけどさ」

 多くの同級生達が帰っていく中、穂波涼太がノートの開いたページを差しながらこちらにやってくる。

「何?」未散はノートを受け取り、問題文となる数式を読んだ。

 ノートには数ページにも渡る、問題文に挑んで破れた数式の亡骸があった。かなり悪戦苦闘したのだろう、後半は支離滅裂な意味のない書き込みになっている。

「もうだめ、お手上げ」穂波はそうため息をつくと、手を上げるどころか深く項垂れた。

「途中まで計算は合ってるから、あとはtを右辺に移項して、積分してみなさい」

「積分?」穂波は顔を歪めた。まるでその発想がなかったのだろう。大きく肩を落とした。「無理無理。わかるわけないよ、そんなもん」

「本質を理解しているか見極めるために、ごく稀にこういう問題も出るのよ。良い問題だけどね。でも、本番は無視して他の問題に手をつける方が賢明」未散は穂波にノートを返した。

「はぁ……。大丈夫かなぁ、俺。自信なくなってきた」

「少なくてもこれでこの問題はもう解けるようになったんだし、前向きにいきなさい」

「不安で不安でしょうがないんだよ」

「よくそれで朝練に顔を出せたな」未散は呆れながら穂波を見た。「息抜きはわかるけど、この時期は追い込み掛けなさい」

「うん……、そうする」穂波は素直に頷いた。

「あとは体調管理をしっかりね。風邪なんか引くなよ」

「それはそうと、七不思議の方はどうなったの?」

「どうって、別に何も」

「ええ? 何も調べてないわけ?」穂波はつまらなそうに口を尖らせる。「実際に起きた話なのか、先生は気にならないの?」

「勉強に集中しろ」

 未散は腰に手を当て、ため息をついた。

「大体、噂にしてはリアリティの欠片もないじゃない。よくそんな話に耳を傾けられるな、あんた達は」

「えー、でもおもしろそうじゃん」

「どこが」

「現実に不満を持ってるとさ、そういう非現実的な日常に憧れたりするんだよ」

「高校生が何を不満に持つことがあるのよ」

 これからお局の餌食にされるかと思うと、学生のころに戻りたいと本気で願ってしまう。

 現実に不満を持っているのは誰でもそうだ。が、誰もが同じ悩みを抱えているわけではない。高校生の悩みなど、一蹴されるような、そんなあえかなものだ。

 大人を振りかざすわけでもないが、その中でも特に、未散は強い不満を抱いていた。そんなものを競い合ったところで何の意味もないが、それでも、未散ほど不満を持っている者も少ないだろう。贅沢な女だと、眉を顰められるかもしれないが、それは事実だ。

 都市伝説、学園七不思議、呪い、か。

 馬鹿馬鹿しい。

 一番厄介なのは言うまでもなく、生きている人間である。呪いなどという目に見えないものよりも遙かに恐ろしく、そして厄介なものだ。

「うつつを抜かしていると、本当に落ちるぞ」未散は呆れて嘆息すると、生意気な高校生を睨むようにして見つめた。

「ああ、それは、どんな呪いよりも怖いなぁ……」穂波は苦笑を見せた。


 3


 二月十四日木曜日。午前六時三十分。

「ああっ」

 何気なくつけていたテレビがやたらとチョコレートの特集ばかり組んでいるので不思議に思っていた未散だったが、バレンタインという単語を聞いて、素直に焦ってしまった。

「しまった……」未散は思わず舌を鳴らした。

 慌てて納戸を確認してみるが、そこにあるはずもない。昨日の夜に雑誌を読みながら食べたばかりだった。

「ったく、面倒なイベントを」

 職場における贈答習慣が強い日本のバレンタインは、ただの迷惑なイベントでしかない。だからといって何もしなければ角が立つ上、派手にやってもお局の反感を買いかねないという。じゃあそこそこの、となるのだが、そのそこそこの基準が制定されていないのだからお手上げである。

 少し早めに出てコンビニで袋詰めのものでも買って行くか。

 ため息一つを代価にすることで、未散は身支度を手早く済ませて家を出た。

 高校が建っている丘の手前の交差点にコンビニがあり、学生達は普段そこをよく利用している。そこで買うのが一番合理的ではあったが、最寄りのコンビニはいろいろと危険だと判断し、少し遠回りして、高校から離れた位置の店へ向かうことにした。

 当日の朝、最寄りのコンビニで買ったチョコレートだと知られたら、さすがに気まずいものがある。特に学校関係者は職員も生徒もよく利用している店だ。どこに目があるかわからない上に、店員から情報が漏れる可能性だってある。他の店で買う方が賢明だ。

「ああもう、鬱陶しいなぁ」

 誰に八つ当たりをすればいいのだろうか。行き場のない怒りはただのストレスとして体内に蓄積されていく。溜め込んだ老廃物の処理をどうするかで人間性が現れるが、ストレートな者ほどお局になるのだろう。未散も歳を重ねた際に、ああならないという保証もない。

 七時前と朝の早い時間帯ということもあって、国道の大通りでも人通りは少なかった。交通量自体も少なく、走っているのは8ナンバーの車くらい。

 産業道路沿いに、目的のコンビニが見えてくる。小さいながらもこの街では古くからあるコンビニの一つで、仲のいい老夫婦が営んでいた。この地域には珍しく、駐車場が狭い。これも昔からある店の特徴だ。自転車を駐め、自動ではないドアを引いて中に入ると、七十近い白髪で小柄な男性が元気な挨拶で出迎えてくれる。

「いらっしゃいませー!」

 気持ちのいい挨拶だ。老夫婦で営んでいるためか、二十四時間営業ではない。にもかかわらず、二十年以上も潰れずにいるのには、それなりの理由があるのだろう。ただの挨拶ではあるものの、何度も利用したくなる大切な要因になっていることは間違いない。

 入口の一番近いコーナーが、バレンタインの特別コーナーとなっていたが、さすがにピークは昨日までだろうか、売り切れの商品もいくつかあった。ざっと見てみたが、個人向けの贈答用ばかり。

 学校の男性職員に一つずつ渡す義理もないので、徳用と書かれた袋詰めのものを分け与えておけばいいだろう。未散は裏の菓子コーナーに回って、適当なものを三つほど見繕った。

「ありがとうございます。えー、三点で、千百九十四円になります」店員の男性がレジに表示された数字を、目を細めながら読み上げた。

 未散は千二百円をトレイに出す。

「千二百円。えー、六円のお釣りと、レシートになります」

 未散がそれを受け取ると、店員がレジ袋に入れた商品を取りやすいように持っていてくれた。

「どうも」

「ありがとうございました!」

 店員は気持ちのいい挨拶とともに、深く頭を下げた。心が晴れるような対応に、未散も思わず笑みが漏れる。コンビニを利用する際には、多少自宅から離れていても、なるべくこの店にしようと思った。

 買ったチョコレートをバックパックにしまい、腕時計で時間を確認する。まだいつもよりも余裕があった。

 自転車に乗り、学校へと向かう。空を見上げると、雲が厚く張っていた。予報では一日中曇った天気になるようで、気温も平年を下回ると話していたが、その平年が何度なのかは結局最後まで女性キャスターは言わなかった。

 最近の女性キャスターは、容姿はたしかに綺麗な者が多くなっている。ただ、未散としてはそんなものを求めていないのだ。滑舌が悪く、原稿を読むことすらままならないアイドルみたいなキャスターに、何の価値があるというのだろう。せめて天気予報くらいは、ちゃんとした人間にやって欲しいものだ。

 暗く、厚く張った雲は、雪雲のように見える。

「降ってこないだろうな……」

 折りたたみの傘を持ってくればよかった。

 今からアパートに戻っても学校には充分間に合う時間だったが、それもなかなか面倒だった。直進する信号が青だったこともあり、未散はそのまま学校へ自転車を走らせることにした。

 いつもの七時半よりも十分早く校門をくぐり、職員用の自転車置き場へ向かう。愛車に鍵を掛け、テニスコートへ。

 グラウンドから朝練に励んでいる連中の掛け声が聞こえてくるが、いつもよりも多いような気がした。珍しいな、程度に思っていた未散だったが、テニスコートで打ち込みをしている部員の数を見て、苦笑と合わせて納得した。

「なるほど……」

 近くのベンチの上に載っていた出席表を手に取り、未散は笑いながら頷いた。ここしばらく朝練に参加していなかった者も今日は顔を出しており、男子の出席率は八割を超えている。

「何を期待してるんだか」

 呆れながらも、どこかかわいらしいと感じてしまう。職員に配るチョコレートが余ったら、部活の帰りに渡してやってもいいかもしれない。

「あ」

 いつもよりも多い男子部員の中に、穂波涼太の姿を見つけた。

「穂波!」

「え、あ、先生おはよう」

 未散の呼び掛けに気がつくと、穂波はラケット片手にこちらへやってくる。

「何やってるのよ、あんたは」

「いや、気分転換に……」

「気分転換が必要なほど勉強してるの?」

「ははっ」穂波は白い歯を見せる。「全然」

「おい」

「わかってるけどさぁ。ほら、家にいると親からのプレッシャーがさぁ、結構あるんだって」

「期待されているうちが華よ」

「そうかもしれないけどさ」穂波はため息をつき、肩を落とした。「いろいろと感慨に耽る時期なんだよね」

「それで受かるなら誰も文句は言わないけどね」

「そんなことよりさ、先生。今日バレンタインだよ。チョコちょうだい」穂波は笑顔で右手を差し出した。

「どうしてあんたに」

「えー、じゃあ誰にあげるの?」

「職員室で配るだけ」未散は自身のかばんを見ながら答えた。「余ったら、分けてあげてもいいけどね」

「マジで? どんなやつ? ベルギーの王様だかが食べてるやつ? それとも手作りだったりするの?」

「コンビニのよ。一口チョコの袋詰め」

「うわ」穂波は顔を曇らせた。

「うわって何だ、おい」

「夢も愛もないじゃんか、そんなの。ただのやっつけじゃん。美人が台無しだよ」

「うるさいな」

 しかし穂波の指摘するとおり、夢も愛もない、ただのやっつけである。否定はできなかった。

「女子からは貰ったの?」

 未散は横目で女子部員達を見ながら、穂波に尋ねた。

「全然」穂波は後輩達を見て肩を竦める。「義理もくれないよ。女子同士で交換はしてたみたいだけど」

「モテない男は辛いな」未散は笑った。

「まあ、別に期待してるわけでもないからいいんだけどね」

「にしては、随分な出席率だけど」未散はテニスコート全体を見渡すと、鼻で笑った。

「チョコから始まる恋も素敵じゃん?」

「日持ちしなさそうな恋だな」

 未散がそう微笑んだときだった。

 部室棟の方から大きな声が上がった。

 その場にいた全員が手を止めて、一様に振り返る。

 未散と穂波も怪訝な表情を浮かべ、声がした方へ目をやった。

「何……?」穂波が眉を顰める。

 練習中の掛け声のようなものではなかった。もっと、鬼気迫る感じのものだったが、悲鳴とも違う。

 多くの人間が反応しているので、聞き間違えたわけではない。耳を澄ませて、じっと待った。

「……誰かー! おーい、大変だ!」

 ジャージ姿の男子生徒が声を張り上げながら、こちらに駆け寄ってくる。五厘ほどの丸刈りで、がっしりとした体格。見たことない顔だった。

「イッチーだ」穂波が男子生徒を見てそう言った。

「イッチー?」

「バレー部の伊藤だよ。二年でエースの。知らないの?」

「初めて聞いたし、初めて見た」

「よくそれで教師が務まるなぁ」穂波が呆れるように未散を見る。

「生徒の顔を覚えるのが仕事じゃないからね」

「おーい、イッチー! どうした?」穂波も伊藤へ駆け寄り、事情を尋ねた。

 伊藤は穂波と教員である未散を視線に捉えると、部室棟の方を指差しながら蒼い顔を向ける。

「あ、そ、倉庫が、大変なんすよ!」

「倉庫って、体育倉庫?」

 穂波が聞き返すと、伊藤は何度も頷き、そして未散を見た。

「先生、は、早く来てください!」

「大変って、どういうこと?」未散も部室棟へ歩を進めながら聞いた。

「呪われてるんすよ!」

「は?」

 丸刈りの、いかにも体育会系の口から飛び出てきた単語とは思えなかった。

 どいつもこいつも。

「何が呪い……」

 飛び込んできた光景に、言葉を言い掛けた口が塞がらなくなる。

「ひっ」

 未散の後ろで、野次馬でついてきていた女生徒数人が短い悲鳴を上げた。

「うわぁ……」

 穂波も眉を寄せ、その異様な光景に声を漏らした。

「…………」

 問題の体育倉庫。生徒達に言わせるならば、開かずの体育倉庫だ。古びた木造モルタルの建物で、一目見ても老朽化がかなり進んでいる。そのところどころひびが入っているモルタルの壁面に、真っ赤なスプレー塗料のようなもので、『呪』『死』『殺』『怨』などの文字が大きく落書きされていた。

 その光景が与える圧迫感は異常なものだった。

「なんだ、これ……」

「気持ち悪い」

 この場にいる者が口々に嫌悪の言葉を漏らす。質の悪い悪戯に、全員が顔を顰めた。

 未散はため息をつく。それと同時に舌も鳴らした。

「余計な仕事が……」

「これって、誰かに侵入されたってこと?」穂波が未散を見ていた。「噂を聞いた街の不良とかが忍び込んで、とか?」

「学校関係者だろうな」

 倉庫の落書きを見つめながら未散は言った。

「噂を聞いただけなら、どれがその開かずの体育倉庫かわからないはず。似たような建物は学校敷地内にいくつもあるんだし。落書きがここだけだとするなら、まず学校関係者の仕業ね」

「そうか。え、じゃあ、やっぱりこれもあいつらの?」

 先に起こったミステリーサークルの件について言っているのだろう。未散は短く首を振った。

「それはわからない」

「でも、いくらなんでも質が悪すぎない? これ、器物損壊とかに適用されるんじゃないの?」

「微笑ましい悪戯でないことはたしかね」

「警察呼ぶの?」

「うーん」未散は唸りながら首を捻る。「そこは微妙なラインだなぁ……。くだらない会議をすることにはなるだろうけど」

「てかさ、誰も気づかなかったのか?」

 穂波は周りの後輩達の顔を見渡すが、わずかに首を傾げる者がいたくらいだった。

 テニス部は部室棟の中でも一番端に位置しており、問題の体育倉庫はその反対側にある。そのため、特別意識しない限りは見逃しても不思議ではなかった。それにテニスコートからは離れている上、障害となる建物も多いので気づかなくても無理はないだろう。一応、視界に入る場所もあるが、使われていない体育倉庫など気にも留めないのが普通だ。

「とりあえず、私だけじゃあれだから、誰か他の先生を呼んできて。できれば優秀な人をね」未散は生徒達に指示を出す。「あとは、バケツと雑巾を持ってきて、手分けして落とすか。美術室辺りにシンナーって置いてない?」

「この学校って美術室なんてあんの?」

「あるでしょ」

「そうだっけ? え、どこ?」

 穂波を始め、ほとんどの生徒が首を傾げた。

 昨日の三年生の校歌といい、自分達の母校にまるで関心がないという姿勢には、呆れを通り越して感心してしまう。まったく淡泊な連中だ。

「じゃあシンナーはいいから、他の先生を呼んできて。他は、掃除道具」未散は言うと、手を叩いた。「はい、行った行った」

 ジャージ姿の生徒達は手分けして校舎の方へ走っていった。

 その様子を眺めながら、穂波は頭の後ろで両手を組み、肩を竦める。

「先生は指示出すだけかよ」

「教師の特権よ」

「それにしても、何か不気味じゃない?」穂波が落書きを見ながら言った。「悪戯でもちょっとなぁ」

「ただのラッカーでしょ」

「塗料はそうだろうけど……」穂波は何か言いたそうに口を曲げた。

 未散は体育倉庫に近づき、落書きされた部分に手を触れる。塗料は乾いていた。

「昨日の帰りはこんなことなってなかったけど」穂波も顔を顰めながらスプレーで書かれた文字を追う。「いかにも、だよなぁ。怖がらせるような文字ばっか」

 未散は倉庫の横や裏へ回る。こちらの壁面には落書きは見られなかった。木やブロック塀が横や後ろにはあることが影響しているのかもしれない。落書きは倉庫正面に集中していた。

「こんなことして何の意味があるんだか……」

 未散はため息を重ねた。

 教師を困らせる、という目的ならば、効果的であるし達成されたと言える。

 警察への通報は、他の職員達と話し合わねばならない。犯人が生徒にいる場合、あまりいい傾向とは言えないが、大きな騒動にするわけにもいかないのだ。この手の悪戯が多く続くようであればそれも検討する、ということに落ち着くだろう。日和見主義の多い職場では、そうなることは目に見えている。

「これやったのって、やっぱあれ? 噂を流してるやつになるのかな?」穂波が正面のドアに手を掛けながら言った。

 倉庫のためか窓はなく、中へ入るためには正面のドアを使うしかない。開かずの体育倉庫と呼ばれているだけはあり、鍵は掛かっている様子だった。

「噂を広めたいという目的ならば、こんな手段は得策じゃない。インパクトは大きいけれど、実害を出した以上は教師も黙ってはいられなくなる。何より、スプレー塗料での落書きなんて現実味がありすぎて、オカルトという本来の立場とのギャップを生じさせるだけ。合理的ではない」

「じゃあ、都市伝説とかの噂を快く思ってない連中の仕業?」

「それにしては、単語のチョイスが引っ掛かる」

「援護してるみたいだよね」

 未散は腕を伸ばし、一番高いところに書かれている文字までの距離を測った。未散の手の届く範囲よりもさらに十センチ近く高いところにまで塗料は及んでいる。スプレーであることを考慮しても、百八十センチ近い身長の人間が書いたと想像することができる。脚立などを使えばその限りではないが、深夜学校に忍び込んで、ということを含めて考えると、そうした道具を用いた可能性は低いように思えた。

「合理的な考えができないような馬鹿だったら?」

「考えるだけ無駄でしょうね」

 未散が鼻を鳴らしたところで、何人かの生徒が職員を連れて戻ってきた。連れてこられた職員を見て、未散は顔を露骨に顰めた。

「よりによってお前か」

「えー、何でですか。私のどこに不満な点を見つけたんですか」

 未散は舌を鳴らし、海椙葵を連れてきた生徒を睨む。

「優秀な、って言ったでしょう」

「他に誰もいなかったんですよ」生徒の一人は未散と海椙を交互に見ながら、気まずそうな上目遣いを見せた。

「うわぁー、これはまた大胆なことになってますねー!」

 未散がため息をつくその横で、海椙が笑顔とともに黄色い声を上げる。

「先輩、呪いですよ、呪い」

「何が呪いだ、馬鹿。幽霊がスプレーを吹き付ける呪いなんて、シュールすぎるでしょ」

「いやぁ、これは、えらいこっちゃですよ。阿波踊りを踊らないといけませんね」

「それはえらいやっちゃ。えらいこっちゃは京言葉よ」

「へえ。ま、日常生活で使う言葉じゃないんで別にいいんですけどね」海椙は舌を出して微笑む。

「す、すげー……」感心か、呆れか、未散の隣で穂波が口を開けて海椙を見つめていた。

「で、どうするんです?」海椙が顔を向ける。

「今用具を取りに行ってもらってるから。とりあえず塗料が落とせるなら、あまり大事にならなくても済む」

「一応、鍵持ってきましたけど。ここって、旧東体育倉庫でいいんですよね?」海椙が黄色いプレートのついた鍵をポケットから取り出し、持ち上げた。

 未散は倉庫を見上げるが、どこにもプレートらしきものは出ていない。ドアの上部にそれらしい日焼けのあとがあるだけだった。

「鍵なんかどうして持ってきたのよ?」

「え? だってほら、侵入されたってことでしょう?」落書きの方へ顎を突き出しながら、海椙は言う。「何か盗まれてるかもしれないじゃないですか」

「普段使っている倉庫ならともかく、使ってない倉庫に何が置いてあったか正確に把握できているとも思えないけど……」

「でも落書きだけが悪戯とも限らないでしょう? やっぱり中も確認しておいた方がよくないですか?」

「そうね」一理あるな、と思い、未散は頷いた。

 海椙は体育倉庫の鍵付きのドアノブに鍵を差し込む。錆び付いているのか、なかなかスムーズにいかなかった。

「合ってる?」

 未散はもたつく様子を見ながら、声を掛けた。

「うーん、あ、大丈夫です大丈夫です。入りました入りました」

 笑顔を見せ、海椙は鍵を回した。解錠音がする。

「やっぱり古いんですかねー? ちょっと固いです……」

 笑顔を見せながらそう話していた海椙だったが、ドアを開けると、一気にその表情を硬くさせた。目を見開き、顔を引きつらせる。

「何?」

 未散は海椙の横へ立ち、倉庫の中へ視線を向けた。

「……っ」

 飛び込んできた光景に、思わず息を呑む。

 未散達の反応を不審に思ったのか、周りにいた生徒達も不思議そうな顔を浮かべながら倉庫の中を覗き込もうとした。

「だめ」未散は腕を伸ばし、生徒達を制した。「見るな」

「え、どうしたの、何があったの?」

 穂波が怯えた表情を見せる。その場にいた生徒達も同様の顔を未散へ向けていた。不安や恐怖、そして好奇や興味に駆り立てられた顔。眉を顰めながらも、中の様子が気になるようだった。

 未散は頭を振り、短く息を吐く。自身の腕時計を見た。一般の生徒が登校してくるまでまだ時間があった。

「ねえ……、どうしたの?」

「死んでる……」

「え?」

「首を吊ってる」

「……嘘、え、マジで……?」

「ちょっと、やだ……」

 生徒達が一様に顔を顰め、嫌悪を顕わにする。

「海椙、聞いてる?」

 未散は声を掛けながら、彼女の肩に触れる。一瞬、海椙は体を震わせたあと、強張った表情のまま未散を見た。

「警察に連絡して」

「あ、あ、はい」

 海椙は慌てて頷くと、自身の携帯を取りだした。

「うわああああ!」

 好奇心に負けた生徒が中を覗き、悲鳴を上げる。

「教室へ行ってなさい」

 未散は舌を慣らし、倉庫のドアを閉めた。生徒達を睨むようにして見て、教室へ戻るように促した。

 中を覗きたがる生徒は多かったが、さすがに事態の重さを感じ取ったのか素直に応じてくれた。

 未散は静かにため息をつく。震えるように息を吐き、自身の腕を強く抱き締めた。

 何も変わらない。何かが和らぐわけでもない。

 それでも、ただ……。

「もう……」

 未散はゆっくりと目を閉じ、声にならない弱音を吐いた。


 4


 生徒達に部活を切り上げて教室で待機するように言ったあと、警察が来るまでの間、未散は倉庫の前でただ黙って立っていた。海椙は顔を蒼くさせたまま、近くの木の下に座り込んでいる。

 体育倉庫の中には、何もなかった。用具はおろか、棚すらも置いていない。そんな埃だらけの空間に、不自然に浮いている人の形があった。

 この学校の制服を着た少女が、首を吊って死んでいる。

 直接触れて確認したわけではないが、あんなものが、生きている人間の持つ表情であるはずがなかった。

 目を見開き、舌を奇妙に突き出している。顔は蒼白し、とても生きている、あるいは助けられるとは思えないものだった。

 そして何より。

 死体は梁に直接結びつけられるようにして首を吊っていた。

 一般的な首吊り自殺に連想するような、そんなものではなかった。

 穂波涼太から聞いた、七不思議の噂話に酷似している。

「…………」

 未散は口元をハンカチで押さえながら、ドアを開け、もう一度中を覗くことにした。

 倉庫内には何もない。首吊り死体があるだけだ。

「……っ」

 後頭部を思い切り殴られたような、そんな衝撃が走った。

 未散は思わず顔を背け、拳を握り締める。

 首を吊っている女生徒を見て、未散はやっとの思いで息をついた。

 石川めぐみ。彼女だった。

 未散が受け持つ三年A組の生徒で、この春に卒業を控えていた。

 それなのに……。

 未散は叫びたい衝動を抑え、奥歯を噛み締めながらドアを閉めた。

 早く下ろしてやりたかったが、手の届く位置にない。梁まで三メートルほどあり、足場になるようなものは周りにはなかった。

 通常の自殺ならば、ロープの一方を梁に括り付け、もう一方の端に輪を作る。台座になるような足場を設け、そこへ乗ってロープの一端に作った輪に首を通す。それが普通だ。そのため、台座の高さとロープの長さを調節する必要がある。

 しかし、今回の場合はロープが垂れているわけではなく、梁に直接作った輪に首を通していた。

 七不思議の噂話をなぞるようにして。

「…………」

 未散は舌を鳴らし、海椙の隣に腰を下ろした。彼女は膝を抱え、そこに顔を埋めるようにして俯いていた。

「大丈夫?」未散は声を掛ける。

「先輩は、平気なんですか?」

「わからない」未散は首を振る。

「あれ……、死んでるんですよね……?」海椙は声を震わせながら言った。

「うん」

「自殺?」

「わからない。少なくとも普通の自殺とは考えにくい。足場となるような台もなかったし、道具や他人の力を借りずにあんな風に首を吊ることは無理なはず」

「冷静ですね、先輩は……」

「どうかな」

 未散は適当に返しながら、平生を努めた。

 何度か呼吸を繰り返すことで、ニュートラルに戻そうとする。いつもの自分を、手探りの状態から見つけようと、取り戻そうとした。

 体が重い。頭も重い。真珠を飲み込んだように、息をするのさえ苦しかった。

 人が死ぬ。

 たったそれだけで、無価値だった色のない日常が、掛け替えのないものだったと気づかされる。思い知らされる。

 突きつけられた現実に、吐き気も覚えた。

「何なんですか、これ……」

 海椙が痛みを帯びた言葉を落とす。

「わからない」

「何かの事件に巻き込まれたんですか?」

「たぶん」

「呪いじゃありませんよね?」

「馬鹿馬鹿しい……」

 未散は吐き捨てるように言うと立ち上がった。少し立ち眩みを覚え、近くの木に寄り掛かった。

「大丈夫ですか?」海椙が心配そうな顔を向ける。

「正直、泣きたくなる。夢ならいいのに……」

「…………」

 遠くからサイレンの音が聞こえてきたが、安堵のため息は出なかった。何も考えたくない。それが素直な気持ちだった。

 他の職員達も数人、慌てた様子でこちらに向かってくる。ただ、ほとんどの人間が未散や海椙に対して訝しむような目を向けていた。人が死んでいる、なんて聞かされても、それをすぐ鵜呑みにする人間は少ないし、そしてそれが正常だ。

 ただそれでも、体育倉庫の酷い落書きを目にすると職員達は顔を強張らせた。未散や海椙の顔をちらちらと見ながら、職員の一人が恐る恐るといった様子でドアに手を掛ける。間髪入れず、情けない悲鳴を辺りに撒き散らした。

 それとほぼ同時に、体育館脇の通路からスーツ姿の刑事が姿を見せた。海椙茉莉刑事は未散を見ると、硬い表情のまま会釈した。そして素早く問題の体育倉庫へ視線を走らせる。穏やかではない落書きにわずかに眉を顰めると、引き連れていた数人の警官に指示を出した。

 海椙刑事は倉庫の周りにいた職員達を下げさせ、白い手袋をはめた手でドアを開いた。

「ああ……」

 海椙刑事は顔を顰めると、小さな声を漏らした。そして顔をこちらへ向ける。

「第一発見者は、葵と、長野原先生ですね?」

「はい」

「では、詳しく話を聞かせてもらいたいのですが、どこか部屋を、会議室か何かを開けてもらえますか?」

「ええ、わかりました」

 海椙刑事は振り返って同僚の刑事や警官達に目配せをすると、妹である海椙葵の背中に手を軽く添えながら校舎に向かって歩き出した。

 校舎内は静寂に包まれていた。

 静まり返った空間は、どこか現実味がなく、いつもの見慣れた廊下も、少し歪んで見える。どこまで続くかわからないような、そんな迷宮に囚われている錯覚すら覚えた。

「先生は、大丈夫ですか?」海椙刑事は顔だけ振り返り、未散を心配そうな表情で見つめる。

「どうでしょうか……」未散はゆっくりと答え、息を吐いた。

「無理もないです。あれを見てしまったら」海椙刑事も眉を顰め、わずかに首を竦めた。

 三人はそのまま廊下を進み、突き当たりの階段で二階へ上がる。渡り廊下で南館へ渡り、職員室隣の小会議室へ入った。

 窓際の席に未散と海椙が並んで座り、その対面に海椙刑事が座る。彼女は手帳を取り出し開くと、こちらを見た。

「辛いでしょうけど、よろしいですか?」

「ええ……」

「どういう状況だったのですか? ゆっくりでいいので、順を追って説明をお願いできますか?」

 ほとんどの説明を未散が話した。海椙はときどき確認を求められたところで頷いたりする程度で、自分から口を開くことはあまりなかった。相当なショックを受けたのだろう。まだ顔は蒼ざめたままだった。鏡を見たわけではないのでわからないが、未散も恐らく似たようなものだろう。

 未散の説明を聞き終えた海椙刑事は、頬杖をしたまま神妙な顔を崩すことなく、低く唸った。

「倉庫に落書きされていたため、盗難の可能性も考えて中を確認したわけですね」

「ええ」

「で、鍵は掛かっていたと」

「はい」

「その倉庫の鍵は、他にはあるのですか?」

 海椙刑事の質問に、未散は首を振った。

「わかりません。本来使われていない体育倉庫なので、その辺りのことは私では……」

「鍵の保管場所は決められているのですか? えっと、つまり、誰でも持ち出せるようになっているのか、ということが聞きたいのですけど」

「体育倉庫の鍵なら、職員室で他の教室などの鍵と一緒に、一括して保管してあります。職員が残っている時間帯ならば、基本的に誰でも持ち出せるようになっています」

「勤務時間外はどうなるのですか?」

「職員以外には持ち出せないはずですけどね。時間外は当然、玄関や職員室も施錠されます。その保管場所の鍵は全常勤職員が持っていますが、それに加えて暗証番号を入力する必要がありますし、職員以外でとなると難しいでしょう。それに、通常の時間外に職員室が開けば、警備会社に連絡がいくようになっていますから」

「なるほど、そうですか」

「あ、でも防犯カメラがあったか」

 未散は思い出したように言うと、隣の海椙を見た。彼女は静かに頷く。

「防犯カメラ?」海椙刑事はわずかに首を傾ける。

「鍵の保管場所前に、防犯カメラを設置してあるんだけど。もしかしたら、それで何かわかるかもしれない」

「褒められた話ではないけど、去年、ちょっとした悪戯があって。それ以降、セキュリティが厳しくなったんです」海椙の後を受け、未散が説明した。「誰が倉庫の鍵を借りたのか、あるいは盗んだのか、その映像を見ればわかるかと」

「確認してみます」

 海椙刑事は手帳にペンを走らせると小さく頷いた。そして彼女は咳払いを一つすると、未散と海椙の顔を見据え切り出した。

「被害者に心当たりはありますか?」

「…………」海椙も、未散に視線を向ける。

「……石川めぐみ。私が、受け持っているクラスの生徒です」

 未散は下唇を噛みながら、静かに言った。

「それは……、さぞお辛いでしょうね」海椙刑事も顔を歪める。

「…………」

「あの、その石川さんは、何かに思い悩んでいたり、あるいは誰かに恨まれていたりとかはありませんか?」海椙刑事はそう尋ねた。慎重に言葉を選んでいるようだった。

 未散は首を振り、そしてため息をつく。

「わかりません……」

 担任だというのに。

 自分は何もわからないのかと、腹が立った。

 廊下側のドアが素早く二回ノックされたかと思うと、見慣れない男が顔を覗かせる。意志の強そうな眉が特徴的なその若い男は、未散と海椙に軽く頭を下げたあと、部屋に入ってきて海椙刑事に耳打ちをした。二言三言のやりとりがあったあと、彼はもう一度未散達に頭を下げ、足早に部屋を出ていった。

 海椙刑事は手帳をしまうと、居住まいを正し、未散達に顔を向ける。

「校長先生がお見えになったようです」

「そうですか」

「すぐに、正式なアナウンスとして休校が伝えられると思います。これから登校されてくる生徒には先生方で協力してもらって、そのまま帰ってもらうことになると思います」

「すでに登校している生徒は? 一応、教室で待機させていますけど……」

「ひと通りの話を聞かせてもらってからの帰宅、という形になるでしょうね」

「そうですか」

「何かわかれば、先生には私から報告します」そこまで言って、海椙刑事は微笑んだ。「本当はいけないことなんですけどね」

「お願いします……」未散は頭を下げた。

「精神的なショックはどうですか? 自分ではわからなくとも、心に傷を負っていることは多いですからね。もしあれならば、カウンセラーの者をつけますが」

 未散は海椙と顔を合わせた。海椙刑事に向き直り、首を振る。

「私は、大丈夫です」

「そうですか」海椙刑事は頷くと、妹を見た。「葵はどう? 真っ青よ、顔」

「うん……。でも、私もいい。大丈夫」

 そうは言う海椙だったが、いつもより元気がないのは明らかだった。相当なショックを受けているのは間違いなかった。

 そしてそれは、未散にも言えることだった。

 石川めぐみの最後の顔が頭から離れない。思考を遮るようにして、脳内に焼き付いてしまっている。

 不意に、口元を押さえながら海椙が立ち上がった。

「ちょっと、大丈夫?」

 姉である海椙刑事が心配そうな声を寄せる。

「トイレ……」

 苦しそうにそれだけを言うと、海椙は小走り気味に廊下へ出て行った。彼女の後ろ姿を追っていた海椙刑事は、大きく息をつくと未散を見た。

「先生は、本当に大丈夫ですか?」

「ええ、今のところは」

「普通は変死体を間近で見る機会なんてないですからね。刑事の私でさえ、慣れてるわけでもありませんから。さすがに堪えたんだと思います」

「…………」

「ああ……、先生、すみません、被害者の名簿など見せていただけますか」

「あ、はい。職員室にあるので」

 未散が椅子から立ち上がると、海椙刑事も席を立った。

「私も一緒に」

「ええ」

 二人は隣の職員室へ移動する。緊急事態に出払っているのか、職員室には誰もいなかった。

 飲みかけのコーヒーカップがところどころのデスクに置かれている。まだ淹れたばかりなのだろう、湯気が出ていて、辺りに香りを漂わせていた。その光景と、室内に誰もいないというギャップが、やはり現実感を希薄なものにさせていた。

 夢なら、ただの悪夢なら、舌を鳴らすだけで片付くのに。

 未散は自分の席へ向かうと、サイドキャビネットの鍵を開け、中からファイルを取り出した。中身を確認してから、それを海椙刑事に渡した。

「お借りします」

「石川めぐみなんですが」

「はい、何でしょう」

「彼女は孤児で、養護施設で暮らしていました」

 未散の話を聞きながら、海椙刑事はファイルの資料に目を通した。

大野おおのの施設ですね」

 この街の北部に位置する、海沿いの小さな地区だ。そこの施設では、二十人近い入所児童がいたと未散は記憶していた。

「わかりました。施設にはこちらから連絡しておきます」海椙刑事はそう言って頷くと、未散を見つめ、心配そうに眉を寄せる。「やはり、少し休まれた方がいいのではないですか? あの子ほどじゃないにしても、先生も顔色が優れないようですけど……」

「お気遣いありがとうございます」

「……何かあれば気軽に言ってください。先生にはお世話になってますし、できる限りのことはしますので」

「ええ、そのときは、お願いします」未散は頭を下げた。

 海椙刑事は職員室をあとにし、現場である旧東体育倉庫へと戻っていった。

 一人きりの職員室。未散は自分の席に腰を下ろすと、短く息を吐き、静かに目を閉じた。


 5


 事件が発覚してからの数時間は何とも表現しがたいものだった。

 時計が壊れたかと思うほど、時間の進みの遅さに苛立ちもしたが、瞬く間に過ぎ去ったという感覚も同時にあった。周りが慌ただしく騒ぐ中、そんな安定しない時間軸に未散は立たされていた。

 この学校に通う生徒の一人が不審な状態で死んでいるのを、その学校敷地内で発見する。

 たしかに、創立以来の大惨事だ。自殺や他殺、死因に関係なく、前代未聞という言葉で表現されるに然るべき事件である。目も耳も覆いたくなるような、心に傷を負うには充分すぎるものだった。

 それぞれが対応に追われ、ある職員は頭を抱え、ある職員はヒステリックに叫ぶ。

 誰も、石川めぐみの死を悲しんではいなかった。悲しむ暇がないと言えば聞こえはいいが、現実など、そんなものである。残酷ではあるが、脚色のない事実だった。

 そんな事実を目の前にして辟易するほどの子供でもない未散は、特に何もしないで座っているだけだった。

 精神的に参っている。それはたしかにあったが、なぜか大人は強がらなければならない。防衛本能の一種なのだろうか。自身の弱い部分を見せるつもりはなかったが、かといって気丈に振る舞うほどのものでもなかった。

 ただ静かに、事実を受け入れている。それだけだ。

 様々な対応に追われながらも、何とか今日一日の終わりは見えてきていた。各職員へのひと通りの聴取も終わり、役職に就いていない職員や、事件にあまり関与していない、少なくとも今そう判断されている者から帰宅が許され始めている。

 未散と海椙も帰宅することになった。いつもと違う、異質な雰囲気に包まれた廊下を歩きながら、海椙がため息をついた。

「とんだことになっちゃいましたね」

「そうね……」

「早く解決してくれるといいですけど……」

「うん」未散は頷く。「そればかりは、祈るしかない」

「でもお姉ちゃんの話だと、難儀してるみたいです。自殺も、他殺も不可能な状況にあるって……」

 他殺の場合、問題となるのは言うまでもなく密室だ。

 自殺の場合はどうやって首を吊ったのかが問題になる。地面から三メートルほどの位置にある梁に直接ロープを括り付けて首を吊っていたが、足場となるような台座などは倉庫内からは見つからなかった。

「密室もそうですけど、遺体に外傷は特に見られなかったみたいです。だから、ベクトルとしては自殺に向きそうですけど、梁に掛けられていたロープは垂れ下がっていたわけじゃないから、絶対に台か何かが必要だと思うんですけどね。それもなかったから……」

「体調はもういいの?」未散は、事件について話す海椙に尋ねた。彼女の顔色は今朝ほどではないにしても、いいとも言えなかった。

「なんか、こうして話している方が楽なんです。黙っていても、結局頭ではそのことばかり考えちゃうし……」海椙は肩を竦めながら話した。「こう、話している方が、嫌な考えを溜め込まなくても済むっていうか、そんな気がして」

 海椙の話すとおり、しばらくは思考は引きずられるばかりだろう。考えまいとしても、そんな抑制が利くはずもなく、毒に冒されたように苦しむことになる。それならばいっそ、考えていることを吐き出す方が楽になるのかもしれない。他人と苦しさを共有しているということが、少しだけ、気持ち程度にしか過ぎないが、体を軽くさせるのかもしれなかった。

 職員用玄関で靴を履き替え、二人は外に出る。寒空が申し訳程度に赤く染まり始めていた。同時に、東の空が闇を迎えようとしている。

 学校敷地内に複数駐まっている警察車両が何とも言えない雰囲気に拍車を掛けていた。

 事件現場となった旧東体育倉庫のある体育館脇の通路から、険しい表情を浮かべた海椙刑事が歩いてきた。彼女は気がつくと、歩調を早めて、こちらに近づいてくる。

「お帰りですか?」

「ええ」

「もしあれなら、家までお送りしますけど」

「いえ、自転車なので」

「そうですか」

「事件について何かわかった?」海椙が自身の姉に聞いた。

 海椙刑事は肩を竦め、わずかに首を横に振る。彼女の端麗な顔にも疲労が色濃く映っていた。

「正直、芳しくない。現場が現場だけにね、周辺の聞き込みを行なっているんだけど、まるで手掛かりがないの」海椙刑事は一つため息を落としてから、辺りを見渡した。「民家もない、丘の上だし、高校の敷地内だからね」

「ロープとか、あとは落書きのスプレーとかはどうなの? そっちの方面からは何かわからないの?」

「もちろん調べているけどね。主要のホームセンターだけでも数店舗、小さな店も挙げたら市内だけでもかなりの数になる。それに、学校関係者に絞って考えてみても、高校の特性上、市外からの通学通勤者も多い。それらの街まで範囲を広げるとなると、骨が折れる作業になるから」

「最近買ったとも限らないもんね」

「そう。だから、そこから何か掴めれば儲けもの。そのくらいに考えておかないといけないのよ」

「石川は、遺書とかは……、どうですか?」未散は海椙刑事に尋ねる。

 未散の問いに、海椙刑事は残念そうに首を振るだけだった。未散も思わず唇を噛む。

「それらしいものは何も。所持していたものは携帯電話と学生手帳、ポケットティッシュにハンカチ、あとは財布ですね。学生手帳なども詳しく見ましたが、自殺を仄めかすような記述はどこにもありませんでした」

「そうですか……」

 未散は呟くように言いながら、安堵するべきなのか迷った。

 自殺ならば安心するのか。

 他殺ならば救われるのか。

 どちらにしても石川が戻ってくることはない。

「ただ、目立った外傷、特に第三者と争ったような形跡も見つかりませんでした。詳しくは明日の解剖待ちですけどね」

「他殺に繋がる証拠もなかったということですか?」

「ええ、そうなります」

「死亡推定時刻はいつなの?」海椙が質問する。そして未散の方を見た。「アリバイとか聞かれてないですよね、私達」

「それもまだ詳しい、正確なものは言えないけど」海椙刑事はそう前置きをしてから、手帳を取り出して開いた。「死亡推定時刻は昨日の深夜午後十一時から日付を跨いで午前一時くらいまでの間と見られている。解剖の結果で、さらに絞り込めると思う」

「そんな時間だと、ほとんどの人はアリバイが成立しないと思うけど」軽く口を尖らせた海椙だったが、何かを思い出したかのように口を開いた。「私お風呂入ってたけど、これってアリバイ成立だよね?」

「ならない」刑事である姉は冷たく言い放った。

「ええ?」

「まあ、誰も疑ってないから安心していいけどね」少しおかしそうに言って、海椙刑事は口角を上げた。そして未散に向き、微笑む。「もちろん、先生も大丈夫ですよ」

「どうも」

「でも実際、アリバイの線から捜査できないんじゃ、大変なんじゃないの?」

「まあね」

 ふぅっと息を吐き、海椙刑事は空に向かって両手を伸ばした。

「今のところはやることがたくさんあるけど、それらが空振りに終わったときが怖いかな。少しでも進展すればいいんだけど、ちょっと、きな臭さもあるのよ」

「それって、刑事の勘?」

「どうかな」海椙刑事は首を竦めると、振り返って体育倉庫のある方を見つめるように、目を細めた。「それでも、厄介に感じているのは私だけじゃない。事件そのものもそうだし、世間に与える影響、話題性を考えれば頭が痛くなる」

「…………」

 女子高生が自身の通う学校内で不審な死を遂げていたとあれば、こぞって周りは騒ぎ立てるだろう。各メディアが、そんなインパクトのある、話題性の高い事件を放っておくわけがない。

 そしてさらには、メディアに不安を煽られた生徒の保護者達からは辛辣な言葉が浴びせかけられるだろう。そういった処理も面倒な仕事として若手に押しつけられるのは目に見えていた。

 もちろん、そんな先のことを憂うほどの余裕はまだない。まず何よりも、事件を解決しなければならない。悲観するのはそのあとだ。

「そういえば、呪いの話を聞きましたよ」海椙刑事は視線を未散に向ける。「ここ最近、生徒達の間で体育倉庫の呪いの話が流行っていたみたいですね」

「ああ、ええ……」

 未散を見つめる海椙刑事の目には、責めるものがあった。どうして話さなかったのか、そう尋ねられているようだった。

「その噂話に出てくる呪いの内容と、今回の事件が酷似しているとか……」

 未散は海椙刑事から視線を逸らし、短く息を吐いた。

「そういう話があったことは認識しています」

「噂はいつ頃から?」

「正確なところは。ただ、私が聞く限りでは今年に入ってからぐらいだと」

 未散の話を受けて、海椙刑事は自身の妹に視線を移した。海椙は慎重に、ゆっくりと頷いた。

「うん。私も、それぐらいだと思う。熱を帯びてきたのは最近だと思うけど」

「この噂話の出所はどこかわかりますか?」海椙刑事は再び未散へ視線を戻し、尋ねた。

 未散は首を振る。

「わかりません」

 少し間を置いて、未散は考えを巡らせながら、海椙刑事に話すことにした。

「実は、七不思議や、そういった都市伝説の噂話が流行っていたことが以前にもありました。そのときは、石川めぐみを始めとした数人が悪戯でやっていたみたいなんですけど」

「石川めぐみ本人が、ですか?」

「ええ」

「その数人の名前も教えていただけますか?」

「糸井茂、竹田佳人、宍原優子、師崎詩乃、の生徒四人。あとは、学年主任である中山先生」

 手帳に名前を書き込んでいた海椙刑事の手が止まり、顔を上げた。彼女の表情には怪訝なものが表れている。

「教師も、ですか?」

「ええ。残念ながら」未散は肩を竦めた。

「大変な職場ですね」海椙刑事は呆れたように言うと、名前を書き終えた手帳をしまった。「参考になりました」

「やっぱり、噂話や、この事件も、関係してるんですかね?」

 海椙が眉を寄せながらそう言った。

「どうかな」

 未散はため息をつくと、自転車置き場に向かって歩き出した。

「事件を解決して、誰かが救われるのならいいけどね」

 未散は弱々しく呟くように言う。辺りでは、冷たい風が吹き始めていた。


 6


 二月十五日。金曜日。午後七時五十五分。

 国道沿いのファミレス。店内の奥まった、壁際の禁煙席。

 長野原未散と海椙葵は食後のコーヒーを飲みながら、海椙刑事から話を聞いていた。

 状況を判断する材料は増えているものの、事件そのものについては特に進展は見られていないという。ただそれでも、ということで未散は食事に誘われていた。

 警察というよりも、海椙茉莉が個人的に未散を高く評価しているみたいだった。

 未散としては妙な期待を寄せられても困るばかりだが、事件についての詳細は聞きたかったところである。自分に何かできるとは思っていなかったが、何もしないでいるよりは、心は救われる。

 自己満足に過ぎないと言われれば、その通りだろう。反論の余地はない。そしてそれはもう、趣味と変わらない。

 安い正義を振りかざすわけではなく、高尚な理念を持つわけでもなく。

 ただ救われたいのだ。

 心に掛かる圧力を減らしたい。それだけだ。醜いほど、情けないほどに身勝手な動機である。死んだ石川めぐみを想ってのことではない。自身が救われたい、楽になりたい、それだけなのだ。

 そのためだけに、未散は事件解決に身を乗り出した。

 胸を張って綺麗事を言えなくなったのは、いつのころからだっただろう。まったく、情けない話だ。

「死亡推定時刻ですが、一時間ですが、さらに絞り込めました。十三日の午後十一時半から翌十四日の午前零時半までです」

 海椙刑事は手帳を開きながら淡々とした口調で続けた。

「解剖の結果、アルコールや薬物反応は見られませんでした。睡眠薬なども検出されていません」

「これで自殺に見せかけた他殺の線は消えたってこと?」海椙が聞く。

「完全に消えたわけじゃないけど、候補として力が弱まったのは事実ね」

「索条痕などはどうですか?」

「特別な異常は見られませんでした。遺体には争った形式もなかったですし、当然、外傷もなし。他殺を匂わせるものは今のところ台座がなかったことくらいです。もっとも、それがかなり強力なものですけどね」

「ということは警察は自殺の方面では動いていない、と?」

「正直に言えば、どちらも微妙で、捜査関係者は全員頭を抱えているというような状況です。自殺なのか、それとも他殺なのか。どう判断すればいいのか、悩ませられているんですよ」紅茶にミルクを落としながら、海椙刑事はため息をつく。「どちらの場合も不自然で不可解ですからね」

「足場がないと首吊るのは自殺では無理だもんね」海椙は天井を見上げるようにして言った。店内の天井まで三メートルほどの高さがあり、体育倉庫の梁までの高さと近かった。

「仮にこのテーブルを足場にしても、届かないでしょうね」海椙刑事は目線だけを動かして言う。「もっと脚立かなんかの、高いものを用意する必要がある」

「他殺の場合は密室を、自殺の場合は足場をどうしたのか」海椙は頬杖をしながら、カップの中の濁った液体に視線を落とす。そしてちらっと横目で未散を見た。「呪いは……、ないですよね」

「馬鹿なことを」未散は呆れるように短く息を吐くと、カップに口をつけた。

「体育倉庫の鍵についても、いくつかわかったことが」海椙刑事はカップを置くと、再び手帳を開く。「現場である旧東体育倉庫は、この数年はまったく使用されていなかったみたいです。これは先生を始め、複数の職員から同様の証言が取れました」

「ええ」

「しかし、鍵の使用状況は事情が違うみたいです」

「と言うと?」海椙は不思議そうに首を傾げながら、視線を姉に向けた。

「今年に入ってからしばしば多くの生徒がこの鍵を借りていることがわかったの」

「え?」

 未散と海椙は同時に声を上げた。

 海椙刑事は手帳から紙片を取り出すと、それをテーブルの上で広げた。四つ折りにされたコピー用紙。校内の鍵の貸し出し記録、そのコピーだった。

「ご存知だと思いますが、各教室の鍵の貸し出し記録です。今年に入ってからの分しかありませんが」

 未散はそのコピーを手元に寄せ、文字を追った。

 貸し出し記録には、持ち出す鍵の他に、クラス、氏名、学籍番号、借りた時間と返却した時間などを記入する必要がある。しかし、職員がその都度確認しているわけではなかった。

 真面目に書く生徒は多くない。授業で使用する特別教室の鍵は、毎時間のこともあって面倒に思う生徒も多く、また職員が逐一チェックしていないことが厳格なルールではないという認識を助長させてしまっていた。

 教師と生徒の信頼関係、などという言葉で濁し誤魔化しているが、職員も、そして生徒達も、面倒だという本心を隠しきれてはいない。

 ただ、普段使わない場所、特に使用目的が授業ではない場合は、真面目に書く傾向が強かった。

「体育倉庫の鍵、結構貸し出されてますよ」海椙が未散を見つめながら言った。

 コピーを見る限り、旧東体育倉庫の鍵は今年に入ってから十数人の人間に貸し出されている。学年も男女も日付や時間もばらばらだった。比較的下校時間以降に多く借りられているが、それに次いで昼休みも多い。そして平均して十五分ほどで返却されていた。

「この体育倉庫は数年使われていなかったと、多くの職員が話していますが、これだけ多くの生徒が鍵を借りています」

「都市伝説の影響じゃないかな」海椙がコピーから顔を上げ、カップを持ち上げながら言った。「噂話を確かめるためとか。あとは、肝試し感覚っていうのかな。おもしろ半分で」

「その可能性の高さは認めるけど……」未散は思わず苦笑した。「こんなに気にしてる人間がいたのか」

「それで本題なんですけど、最後に貸し出された時間と人物を見てください」

 海椙刑事に言われ、未散と海椙は再びコピーに視線を落とした。

「糸井茂……」

 未散はその名前を読み上げながら、表情を曇らせた。

 旧東体育倉庫の鍵が貸し出された最後の記録には、糸井茂が十三日の午後六時に借り、そしてその十五分後に返却したとある。

「防犯カメラの映像も記録されており、確認が取れています」

「でも六時十五分には返されてるってことでしょ? 死亡推定時刻と大分時間が開いてると思うけど」海椙が疑問を口にする。

「糸井茂本人にも確認を取った。最近周りで噂になっている都市伝説を友人達と確かめるために借りた、と証言している。貸し出し記録や防犯カメラの映像の通り、彼の証言に矛盾はなかった」

「じゃあ、その六時まではまだ異変というか、倉庫は何もなかったの?」

「糸井茂の話によれば、そういうことになる。埃っぽいただの倉庫だったんで、がっかりしてすぐに鍵を返したそうよ」

「警察は彼を疑っているのですか?」

「今のところ特には」海椙刑事は未散に質問に首を振る。「ただ、先生が話していた名前の中にあった人物ですので、他よりも意識しているというのは事実です」

「…………」

「でもこの記録やカメラの映像が確かだとするなら、糸井茂に犯行は無理なんじゃ」海椙は自身の姉や未散を交互に見ながら、眉間に皺を寄せた。「ううん、糸井茂だけじゃなく、他の誰にも……」

「防犯カメラの映像を確認する限り、糸井茂が返却した以降は、体育倉庫の鍵は持ち出されていない。それはたしかよ」

「他に鍵は?」未散が聞く。

「合鍵が二つ。どちらも職員室の金庫で他の合鍵とともに保管されていました。こちらの場合も防犯カメラに映っていましたが、ここ数日は開けられた記録はありません」海椙刑事は淡々と事務的に話し、手帳を捲る。「現在捜査中ですが、今のところは近隣市内にある鍵屋で複製されたという報告も挙がっていません」

「鍵を閉め忘れていたとかは?」

「その可能性も低い。帰りに見回った職員の話では、鍵は掛かっていたと証言している。えっと、たしか……」海椙刑事は手帳の文字を追いながら小さく唸る。「あ、三木先生という若い男性。十三日は日直だったみたいで、彼が校内を見回った際、時間は午後八時前ということだけど、異常はなかったと話している」

「三木先生は真面目だから、ちゃんと確認してそうですよね」海椙は未散を見ながら言った。せりふとは対照的に、どこか呆れたような言い方だった。

「スプレーなどの購入先はわかりましたか?」

「分析の結果、塗料が模型に使用されるタイプであることはわかったのですが、購入店などは未だに掴めていません。ホームセンターに売られているタイプと違って、プラモデルなどの模型店が主に販売しているものですし、そういう店の多くは防犯カメラなど設置していませんからね」海椙刑事は肩を竦めた。「さらに言えばネットで購入したかもしれませんし、そもそも今回のために備えたものとも限りません。ここから犯人を、というのはまず無理かと」

「そうですか……」

「じゃあ結局捜査は全然進んでいないんだね」海椙は残念そうに姉を見ながら言った。

「昨日の今日だからあれだけど、正直参ってる」そう言う海椙刑事の表情には疲労が色濃く出ていた。「調べれば調べるほど、自殺も他殺も否定する材料ばかりだから。ほとんど手詰まりに近いって、そりゃ嘆きたくもなるよ」

 長いため息のあと、海椙刑事は椅子に深くもたれた。

 自殺か。

 他殺か。

 どちらの場合も不自然、不可解な点が存在し、関係者の頭を悩ませている。

 そして一部の者は……。

 この状況さえも、この事件さえも、都市伝説だ、呪いだ何だのと、まるで楽しんでいるかのように、時には笑顔さえも見せていた。

 未散は舌を鳴らした。

 何とも言えない感情が自分の中で蠢いているのがわかった。

「石川めぐみは、遺書とかは残してなかったの?」

「今のところ見つかってない。ひまわりにも行ったんだけど」

「ひまわり?」海椙は首を傾げた。

「ああ、石川めぐみが入所していた大野の児童養護施設、『ひわまりの家』のこと。彼女の部屋も見せてもらったんだけど、それらしいものは何も出てこなかったのよ」

「でも、他殺だと、争った形跡もないし、密室も問題でしょ?」

「自殺の場合はどうやって首を吊ったのかがわからない」

「容疑者はいないの?」

「親しい人間には注意を払ってるけど、容疑者とまではいかない。自殺か他殺かも絞り込めていないのに、容疑者も何もないってのが現状ね」

「そっか」

「細々とした情報はこれからも集まってくるだろうけど、事件解決に繋がる有力なものは期待できそうにない」そこで言葉を切ると、海椙刑事は姿勢を正し、未散を見つめた。「だから、早いうちに先生の意見を聞いておきたくて」

「…………」

「でも、本来はいけないことなんでしょ?」海椙はコピーを折り畳んで返す。「ばれたら大変なんじゃ?」

「解決が遅れることに比べれば問題じゃない。それに、誰彼構わず話しているわけでもないしね」

 未散は静かにコーヒーを飲んだ。口の中に広がる苦みは、果たしていつもと同じものなのだろうか。いつもよりもやわらかいと感じるのは、それよりも苦いものを味わっているからだろうか。

 平穏で、つまらないとさえ感じるような日常に、劇的な変化を促す触媒として人の死を選択するというのは、恐ろしく浅はかで幼稚であるものの、しかし一定の効果を上げている。ただ、人々が過剰に装飾された非現実的な日常を心の底から求めているかと問われれば、懐疑的にならざるを得ない。

 メッキを張るために、人の命を捧げる必要はあるのか。

 価値観が違うと言えばそれまでなのだろうが。

 何とも不愉快な話ではあった。

「犯人はどうして、倉庫に落書きをしたんだろう?」海椙が独り言のように、メニューを見ながら呟いた。

「都市伝説の呪いだと印象付けるため、とか?」言いながら、海椙刑事は自分で首を振る。「あまり効果があるとは思えないけど」

「先輩はどう思います? まあ、倉庫の落書きの件が、事件と関連しているという保証はないんですけど」

「幽霊とか呪いとか、そういったものをどれだけの人間がどの程度信じているのか、私にはわからない。本当に信じているのなら心配だし、見えないものが見えるのは統合失調症の恐れがある」

「辛辣ですね」海椙も眉を顰め、苦笑を見せた。

「だから、あの落書きが事件と関係があると仮定したとき、その目的としてはだったんじゃないかと」

「注目を?」海椙刑事が聞き返してきた。

「都市伝説をネタに肝試しをするような、一般的ではない生徒を無視した場合、何年間も使われていなかった倉庫に入ろうとする者はまずいない」

「まあ、そうですね」

「なら、石川めぐみは、つまり事件は、発覚するまでにかなりの時間を要するはず」

「あ」

「少なくても、死亡した翌朝に見つかるなんてことはまず考えられない。季節的に腐乱する速度も遅いから、倉庫の異変に気づく者もしばらくは出てこないでしょう。養護施設の人間が捜索願を出して、警察や職員が捜索に出たとしても、あの倉庫を調べるとは限らない。彼女の遺体が見つかるまで、もっと時間が掛かったはず」

「犯人は事件を早めに発覚させたかった?」

「普通に考えるなら」未散は横目で海椙を見ると、頷いた。

「そうか。倉庫に落書きをすることで、職員に中を調べるように仕向けた……。ああ、なるほど」海椙刑事は感心したように何度も首を上下させる。

「でも、その目的は? どうして犯人は事件を早めに発覚させたかったんです?」

「そこまでは」飲み干したコーヒーカップを手元で遊ばせながら、未散は軽く首を振った。「ただ、犯人にとって、早めに発見されることが好ましかった。逆に言うなら、発見が遅れることは好ましくないことだった」

「それって、普通とは逆ですよね?」

「そう。まあ、何を持って普通とするかは難しいところだけど」

 海椙は難しそうに顔を顰めると、刑事である姉を見た。海椙刑事も同様の表情を浮かべている。

「事件の発覚する時期によって左右される要素、それが犯人にとって不都合をもたらすのだとすれば、候補はいくらか絞り込める」

「捜査機関の介入時期……?」自信なさそうに、海椙は小さな声で言った。

「あ、アリバイですかっ?」

 突如閃いたのか、海椙刑事は勢いよく聞いた。軽く身を乗り出すようにして、未散を見つめている。

「ただの想像です。確証はどこにもない」未散はそう断ってから、続けた。「石川めぐみの死亡時刻の判定。これが正確であれば正確であるほど、用意されたアリバイは強固なものになる。判定するのが死亡してから数時間か、それとも数日かでは、誤差の開きは大きくなると想像に難くない」

「え、じゃあ犯人にはアリバイがあるってことですか?」

「死亡推定時刻の判定が正確ならば、その分だけ鉄壁のアリバイを持っている。逆に死亡推定時刻の幅が広がると、意味を成さなくなるほど、諸刃のアリバイ。十三日の午後十一時半から十四日の午前零時半が死亡推定時刻ということだから、その付近の時間帯、数時間だけは絶対的なアリバイを持っている可能性が高い」

「アリバイを持っている人間が怪しい……」

「もちろん、あくまでも仮定の話。実際はもっと別の目的で落書きをしたのかもしれない。例えば、卒業式を中止にさせたいとか。あるいはそれこそ、都市伝説の呪いと結びつけたかったのかもしれないしね。いくらでも考えられる以上、想像の域は出ない。犯人に直接聞くしかないでしょうね」

「でもこれで、関係者のアリバイを洗い出せば……」

「でもでも、でもさ、もし仮に先輩の推理通りだとしても、犯人には鉄壁のアリバイがあるわけでしょう?」

「あ」海椙の指摘に、海椙刑事は声を出すと、未散を見た。

「密室に加えてアリバイまで用意されていたら、それこそ手詰まりじゃないですか? 大丈夫なんですか、その辺りは」

「少なくとも捜査の方向性は定まると思うけど。容疑者を絞り込むことで、やりようはいくらでも生まれる。手をこまねいているよりは幾分もマシでしょう」

「そうですね。このままでいるより進展する可能性があるのなら、調べる価値は大いにあります」海椙刑事は力強く頷いた。

「でも鉄壁のアリバイって、犯人は複数いるってことですか?」海椙は未散を見つめながら首を傾けた。

「わからない。すべては仮定の話だから。もしかしたら、全然的外れかもしれない」

「珍しいですね、先輩が自信ないなんて」

「私にだって弱気になることはあるのよ」

 未散は短く言うと、肩を竦めてみせた。

 自分の教え子が死んだ。

 関係性が薄いとか、そういった言葉で誤魔化してみても、それでも精神的に受けるものはある。いつもの自分とは違うと自覚もしている。それが何に起因することなのか、目を背けていても消えることはない。

 弱い存在なのだと。改めて突きつけられた現実に、何よりも耐え難い苦痛を覚えた。

 未散は人間が嫌いだった。

 それはたぶん、誰よりも大人という存在に憧れを持っていたからだろう。幼少期に掛けられる言葉、教えられる大人達の行動はどれも正義に充ち満ちていた。大人は全員立派な存在なのだと、子供ながらに感心し、尊敬さえした。

 だが自身が成長するに連れ、社会に触れる機会も増え、多くの人間と出会う。そして目と耳を覆いたくなるような醜い現実に、酷く落胆、絶望した。

 こんなものか、と。大人も子供も、自分とさして変わらない存在だとわかると、途端に吐き気を覚えた。誰もが自分のために嘘をつき、自分をよく見せるために偽っている。

 笑いたくなる。

 大人全員に聖人君子であることを望んだあの日の少女は、今の未散を見たらどんな顔を向けるのだろうか。汚いものを見るように、蔑むだろうか。それとも、悲観するだろうか。自分が否定する存在に、自分もなってしまうと、絶望を抱くだろうか。

 石川めぐみ。彼女は……。

 未散は俯き、ため息をついた。

 わからない。

 自分が何を考えているのか。自分が何を考えるべきなのか。

 強い存在でありたい。小さな憧れだが、ずっと胸に抱いてきた想いでもある。

 自分は、弱い存在なのだろうか。掃いて捨てるほどの、有象無象の欠片でしかないのだろうか。

 自分の価値は?

 自分の大切なものは、いったい何だっただろう。


 7


 二月十六日。土曜日。午前九時。

 現場である旧東体育倉庫付近の花壇に、ジャージ姿の小柄な人影があった。

 その人物が化学科教師の永田行雄であると気づくまでに、未散は少しだけ時間を要した。いつもの白衣姿でなかったことが主な原因である。

 彼は几帳面に植木鉢を並べ、そこに土を入れていた。

 理科以外にも、農業の教員免許を持っているとどこかで聞いたことを思い出す。そのためか、中庭を始めとした花壇の世話を、ほとんど彼が請け負っていた。

 現場の体育倉庫の周りには、警察によって黄色いテープが張られている。倉庫の落書きはまだ消されていない。単純で、幼稚な単語ばかりが書かれているものの、事件の影響か、それらが与える不気味な雰囲気は、無視できないほどに大きなものになっている。

 そんな明らかに異常な空間で、永田はいつもと同じように、作業をしていた。

「永田先生、おはようございます」未散は作業をしている永田に近づき、声を掛けた。

 永田は屈んだ状態のまま顔だけを振り返り、こちらを見た。相変わらず無表情の顔があるだけだった。

「ああ、長野原先生。おはようございます」

「早いですね。部活もないのに」未散は永田を見てから、視線の先を倉庫へと動かした。

「ええ。事件と花の生長には関係ないですから」永田は無表情で淡々と答えた。

「石川めぐみが死にました……」

 言葉を口にして、未散はすぐに後悔した。

「ええ、知ってます」

 永田はいつもと変わらない調子で頷く。

 未散と永田は、三年A組の担任と副担任の関係だ。そして石川めぐみは、そのクラスの生徒である。彼女は、未散と永田の教え子ということになる。その生徒が、死んだ。

 何も思わないわけでも、何も感じないわけでもない。ただ、永田はいつもと変わらない様子に見えた。それがもしかしたら、悔しかったのかもしれない。頭に来たのかもしれない。

 そして、あるいは……、羨ましかったのかもしれなかった。

「優秀な生徒でした」

 永田は立ち上がり、倉庫を見ながら、抑揚なく言った。

「ええ……」

「化学も生物も、常に上位だったと記憶しています」

「数学もです。体育は苦手だったみたいですけど、筆記の方でカバーしていました。総合成績でも、学年で上位でした……」

「そんな生徒がこういうことになるとは、残念です」

「ええ……」

「悩んでいるようですね」

「え?」

 顔を上げると、永田の無表情の顔があった。未散をじっと見据えている。すべてを見透かされてしまうような、そんな目だったが、不思議と嫌悪感は抱かなかった。

「生徒が一人死んだという事実は、特に事故でもない変死というのは、ささやかな日常を壊すだけの事件でしょう。それが、あなたはショックだったのですか?」

「わかりません……」

「迷っているのですか?」

「え……」

 迷っている?

 言葉の選択としては、あまり適切だとは思えなかった。

 もしかして、この男……。

 最初は何だかわからなかったが、永田の言葉が何を示しているのか理解できた瞬間、体が沸き立つように熱くなった。

「あ、あの……」

「どれほど言葉を飾ったところで、他人は他人です。どれほど凄惨な死を遂げようと、無関係です」

「…………」

「もちろん、教師と生徒という関係上、そう簡単に割り切れるものでもありませんが。ただそれも、周りが、です。石川めぐみが死んだところで、悲しむ必要はない。面倒なことをしてくれたと、腹を立てる方が幾分も健全というものでしょう」

 普段と変わらない口調で、普段と変わらない様子で、永田は踏み込んでくる。

 目の前の、小柄で冴えない男に気圧されるように、未散は一歩後ずさった。矯飾することのない、その堂々たる様は、ある意味では恐怖にも感じてしまう。

 偽らないことの強さ。そしてその異常性。

 永田は未散を見据え、淡々と続けた。

「事件の概要については、大体のことを聞いています。この件で、誰かが傷つく必要はないでしょう。悩むことも、迷うことも、悲しむことも」

「あなたは……」

「…………」

「永田先生はいつ、気づかれたのですか?」

 未散の質問に、永田は表情を崩すことなく首を傾ける。

「話を聞けば大体のことはわかります」

「ならどうして?」

 そこで永田は初めて口許を緩め、手についていた土を払った。

「僕は警察が嫌いです。誰にだって後ろめたいことはある」

 教師のせりふとは思えなかったが、妙に納得してしまった。

「事件を解決したいと思っているのは警察だけです。少なくとも、僕にとって事件などはどうでもいい。長野原先生、あなただってそうなのでは?」

「私は……」

「先生もご存知のはずでしょう。犯人が誰かということぐらい。少なくとも、普段の先生ならばわかるはずです」

「…………」

「純なのですね」

 永田はそう言って口の端を上げると、軽く頭を下げて校舎の方へ歩いていった。

 小さな背中を見送りながら、未散はシニカルに笑う。

 自分が情けなかった。

 いつも無表情で、ほとんど無口で、常に無関心な男。そんな男にとは、それほどの顔をしていたのだろうか。

 未散は思わず苦笑し、肩を竦める。

 悲しむ必要はない。面倒なことをしてくれたと、腹を立てる方が幾分も健全。事件なんてどうでもいい、か。

「やさしい男だな、まったく……」

 恐らく、永田が語った胸の内は、偽りのない本音だろう。しかし、だからと言ってそれを曝す必要はない。特に、社会的に非難されるような内容ならば、多くの人間に顔を顰めさせるような内容ならば、嘘偽りのない本音だとしても、デメリットばかりで、メリットは存在しないのだ。

 石川めぐみの死に、いったいどれだけの人間が本気で胸を痛めているのだろう。

 石川に限ったことではない。身内以外の者が天寿を全うしたとき、心から悲しむことができる者は、果たしてどれほどいるのだろうか。

 未散には、それほど多いとは思えない。

 だからこそ、永田の姿は本来の人の姿なのだろう。時に目を背けたくなるほど、残酷で、でもどこか誇らしささえ感じる佇まい。矯飾せずにありのままを映し出す鏡のように、彼は未散の前に立っている。

 未散は永田の冷酷な本音からやさしさを感じ取ると、少しだけ、救われるような気がした。

 教え子が死に、その死の処理を巡って、未散は自己嫌悪に陥っていた。あまり悲しみを感じていない、自己のギャップを消化しきれずにいた自分に嫌気が差していたのだ。

 そんな未散に対して、永田はわざわざ言わなくてもいい本音を言うことで、自身を悪としたのである。

 世の中にはもっと酷い人間がいるのだ、と。

 そうやって自分を悪く見せることで、悩む必要はないと、励ましてくれたのかもしれない。

 そして何より……。

 未散は黄色い規制線の張られた体育倉庫に目をやる。

 不可解な死。都市伝説。呪われた体育倉庫。天井付近の梁で首を吊っていた死体。

 石川めぐみの、最後の光景がフラッシュバックする。

 凛とした態度が特徴的だった女生徒は見る影もなく、ただ不気味な死体がだらしなく、しかし不自然に首を吊っていた。

 問題点はいくつもある。

 自殺の場合は、三メートルもの高さがある梁にどのようにして首を吊ったのか。

 他殺の場合は、密室をどのようにして作り上げたのか。

「呪いの可能性もあったな」

 言って、自分の発言のくだらなさに苦笑した。

 いつまでも下を向いているわけにもいかないだろう。

「誰も悲しむ必要はない、か……」

 そうかもしれない。永田の言う通りなのかもしれない。

 だが、罪を償わせる必要はある。

 せめて教育者としては、それぐらいの責は果たすべきだ。

「あなたにとって、私はどんな先生だった?」

 倉庫に向かって呟くように言って、未散はため息をつく。

「あまりいい先生じゃなかったよね」

 未散にとって、石川めぐみは、初めての卒業生ということになる、はずだった。これから何人の生徒を受け持つことになるかはわからない。ただそれでも、他の生徒よりも印象に残る要因としては、充分すぎるものがある。

 ましてやこんな事件だ。二度と忘れられない。

 未散はシニカルに笑う。

「でも、お互い様よ」

 倉庫を背にして、校舎へ向かって歩き出した。

「あなたも、いい生徒とは言えないからね」


 8


 校舎へ向かう途中、正面グラウンドの縁で話し込んでいる二人の男が目に入った。

 一人は未散の同僚である国語科の三木智文。白のセーターにチェックのパンツ姿だった。

 もう一人は三木よりも若く、幼い顔つきで、自転車に跨っている。穂波涼太だった。紺色のダッフルコートにジーンズ姿の受験生を見て、未散は思わず舌を鳴らした。

「何をしてるんだ、あの馬鹿は」

 未散がそちらに歩いていくと、途中で気づいた穂波が笑みを浮かべながら手を上げる。三木も軽くこちらに頭を下げた。

「長野原先生、おはようございます」

「おはようございます」頷いて三木に挨拶を返した未散は、自転車に跨っている穂波に向き直った。「あんたは何してんだ、こんなところで」

「こんなとこって、学校じゃん」大げさに仰け反りながら穂波は笑う。

「授業も部活もない学校に、受験を控えた生徒が何の用だ、馬鹿やろう」

「いや、事件が気になってさ。それで、勉強が手につかないっていうか……」

「ほう」

「いや、わかってる、わかってるんだけどぉ……」穂波は顔を歪めながら、頭を掻いた。

「でも実際気になっている生徒や親御さんは多いですよ」三木が苦笑する穂波に助け船を出し、後ろの校舎、職員室の方へ視線を向ける。「マスコミへの対応に追われているみたいですし」

 未散は肩を竦め、穂波を睨んだ。

「だからと言って、あんたがここに来ても意味はないでしょう。何ができるわけでもないのに」

「んー、まあ、そうなんだけど……」唸りながら渋い表情を見せる穂波だったが、途中で何かを思い出したように、声を上げた。「あ、でも、おもしろいものなら見つけたんだよね」

「おもしろいもの?」

「そうそう、これこれ」

 穂波はコートのポケットから携帯電話を取り出し、その端末をいくつか操作してから、未散へ差し出した。

「?」

 携帯を受け取った未散は、三木とともに画面を覗き込んだ。

 画面に表示されていたのは、どこかのウェブページのようだった。黒一色のバックグラウンドに白や赤でおどろおどろしく『都市伝説』や『呪い』、『祟り』などの文字が躍っている。

 未散は眉を顰め、携帯から顔を上げた。

「何よ、これ」

「都市伝説とかをまとめたサイトだよ」

「こんなアングラなサイトに日常的にアクセスしてるんじゃないでしょうね?」

「俺はしてないって」

「俺は?」

 穂波はばつが悪そうに顔を顰めた後、舌を鳴らした。

「普段は見てないって。ただ、調べたら出てきたんだよね」

「何を調べたんだ?」三木が尋ねた。

「都市伝説だよ」

「またそれか」未散は呆れてため息をついた。

「だって石川の死に方が普通じゃなかったし、噂と共通する部分が多いし。だからさ、その辺のことを調べたんだよ」

「それがこれ?」

「そう。都市伝説にもいろいろな種類があるみたいだけど、ここは、その……、心霊だったり、そういう怖いやつばかりが載ってるんだよね」

「歯切れが悪いな」

 穂波を見ると、彼は口を曲げ、観念したようにため息をついた。

「要するに、人が死ぬような、残酷なやつばかり」

 未散と三木が露骨に顔を顰めると、穂波は両手を広げ、口を窄めて首を竦めた。

「教師が拒絶反応示すことぐらいわかってるよ。だからあまり言いたくなかったんだ」穂波はそう言うと、開き直って口を尖らせる。「でもさ、二時間サスペンスとかだって人は死ぬじゃん。結局さ、どこに注目するかでしょ? そんな一部分だけを取り上げてさ、年端もいかない若者の趣味を断罪する? 大人ってやつは、過去を美化しすぎてるし、未来に夢を見すぎなんだよ。おまけに今を見失ってんだから、世話ないよ」

「褒められた趣味じゃないのはたしかだけどね。大人批判はいいから、要点を話しなさい」

「……噂が流行ってたでしょ? 呪いの体育倉庫の。で、その内容が多少の変化はあっても、他の学校の奴らも耳にしたことがあるっていうんで、有名な話なのかどうか調べたんだよ。で、都市伝説についてまとめられた大きなサイトから、地域別のすげーマイナーなサイトとかもあったりして」

「みんな好きなんだなぁ」三木はそう言ったが、特別不思議がっているわけでもなさそうだった。みんな、の部分に自分自身も含んでいるのだろうか。

「呪われた体育倉庫なんてフレーズは結構あって、いろんな話が出てきたんだけどさ、どうもうちのはさ、かなりやばいやつみたいなんだよね」

「やばい?」未散は聞き返す。

「都市伝説にもランクがあるみたいでさ、信憑性とその危険度でランク付けされるんだけど、うちのも全国的にやばいレベルに指定されてるんだ」

 未散が端末の画面に再び視線を落とすと、穂波の言うとおり、『首吊り社の呪い』というタイトルの横に、Aと書かれていた。

「記事読めばわかるけど、明らかにこの学校のことなんだよ」

「たしかに、イニシャルも、丘の上の高校という点も符合してるけど……」

 未散はざっと目を通すことにした。

 A県T市の学校に存在する……、という始まりで記事が書かれている。


 始まりは校舎が建てられるよりも前、数十年以上も前に遡る。

 まともな開拓がされていない丘の上には唯一、小さな神社があった。そこには恋愛に関する神様が祀られていたとされ、縁結びの神社として地元では有名だった。その神社で愛を誓い合い、契りを交わした男女二人は、永遠の幸せが築けるという。地元の人間達、特に女性達の間では人気の恋愛スポットだったそうだ。

 ところが、実際は何の御利益もなく、祀られていた神様も恋愛と関係があったのかどうかさえ怪しい始末。まともに考えれば当たり前のことではあるが、色恋沙汰で騒ぐのはどの時代の女も変わらないらしく、御利益が得られなくとも、参拝客が減ることはなかった。

 ここまではどこにでもあるような話だが、ある日、決定的な事件が起きた。その神社で永遠の契りを交わし、夫婦となった男女に訪れた悲劇。夫婦は神社で愛を誓うと、二人の子供にも恵まれ、伝説通りに、幸せな家庭を築いていた。ところが、子供が生まれてから、少しずつ夫婦仲に変化が生じるようになってきた。夫に注がれていた妻の愛はすべて、母の愛と変わり、子供達に向けられるようになる。それに伴い、夫の妻に対する想いも徐々に薄れていった。そんな中で、夫が若い女と浮気に走るのは、自然の流れだったかもしれない。そして、一度や二度ではない不貞が妻にばれるのも、また必然だった。

 夫が自分の知らない若い女と歩いているのを見た妻は、嫉妬に怒り狂ってしまう。最愛の者に裏切られた妻はすべてのものに対して不信に陥り、色のない世界を味わった。今までの生活が、今までの愛が、すべて色褪せていき、偽りのものだったという錯覚を覚え、ただただ破壊衝動を募らせていく。

 そして、事件は起きた。

 すべてを許すことができなかった妻は、夫を惨殺したあと、二人の子供とともに、小さな神社の鳥居に縄を括り付け、それで首を吊ったという。不貞を働いた夫と御利益のなかった神社に対しての、復讐だったのかもしれない。

 そして一家が悲劇の結末を迎えてから間もなくして、夫と浮気していた女が不審な死を遂げる。彼女も神社の鳥居で首を吊っていたのだが、直接括り付けられた縄まで三メートルの高さがあり、女が一人で首を吊ることは不可能な状態にあったという。足場にするようなものはなく、女は呪い殺されたのではないかという噂が飛び交ったものの、結局真相が解き明かされることはなかった。その後も妻だった女の祟りは続き、不審な事故が神社周辺で相次いだという。

 その夫婦の悲劇以外にも、その神社にまつわる悲恋の物語がいくつか存在している。そしてそれに伴い、不審な出来事、特にオカルトめいた話は跡を絶たなかった。

 そして時代は変わり、神社は取り壊され、その土地に学校を建てるということになった。しかしその建設工事の際にも不慮の事故は相次ぎ、女の祟りは消えることなく、今もなお呪い続けているという。


「ここに神社?」未散は画面から顔を上げ、穂波を見た。

「みたいだけど」穂波は両手を広げながら肩を竦める。「別に俺が書いたわけじゃないから」

 次に未散は三木を見た。彼も難しい表情を浮かべ、わずかに首を傾げている。

「どうでしょう。もしここの話だとしても、この学校の創立が五十年以上も前のことですからね。ちょっと僕は聞いたことがないです。うちの親が、うん、生まれるよりも前になりますから」

 未散は続きを読み進めていくことにする。


 その後、神社が学舎に変わってからも、不慮の事故は続いた。体育倉庫周辺で着物姿の女の霊の目撃情報が相次ぎ、そのたびに、学舎に通う生徒達から体調不良を訴えられた。状況を重く見た教師達は有名な霊媒師に除霊を依頼。だがそれは、新たな悲劇を生むことにしかならなかった。

 霊媒師は体育倉庫を中心にかなり強力な女の怨念が渦巻いていることを認め、除霊中は危険なため誰も近づかないようにと警告をしたあと、除霊を始めた。教師の中には心霊に関して懐疑的な者も少なくなかったが、霊媒師の言うとおりに、除霊が済むまで倉庫周辺には誰も近づかないよう徹底した。

 しかし、一向に霊媒師から除霊が終わったという連絡が来ない。除霊に関する知識を持ち合わせてなかった教師達は、時間が掛かるものなのか、と思いながら、待ち続けた。霊媒師が除霊を始めてから三日経ち、さすがに、と不審に思う者も出てきたが、多くの教師達は言いつけを守り、倉庫に近づくことを良しとしなかった。

 それでも一週間が経過すると、さすがにまずいと思った教師達は、新たに呼んだ他の霊媒師とともに倉庫の様子を見に行くことにした。そこで彼らが目にしたのは、変わり果てた霊媒師の姿だった。霊媒師もまた、異臭を放ち、倉庫の梁で首を吊り、とてもこの世とは思えない形相で死んでいたのである。

 その後、その倉庫は複数の霊媒師達によって、二度と使われることはないように封印されることになった。その事件を知っている者達は女の祟りを恐れ、決して体育倉庫周辺に近づくことはなかった。

 だがそれでも、時間とともに恐怖も風化し、事件はオカルトめいた都市伝説として粗雑に扱われるようになってしまう。そうして、忘れたころにおもしろ半分で倉庫に近づく愚かな者が新たな供物となるのだ。それ以降にも、多くの生徒が倉庫で同様の不審な死を遂げている。


 まだ数多くのエピソードが書かれていたが、未散は画面から目を離した。

「ね、そっくりっしょ?」穂波が得意そうな顔を向ける。

「たしかに似てはいるけど……」未散はそれを認めながらも首を捻った。

「実際の話なんでしょうか?」三木も眉を顰めている。

「まさか」未散は鼻を鳴らし、携帯を穂波に返した。「これは有名なものなの?」

「さあ、わかんない」穂波は携帯をしまい、首を竦めた。「でも、これで有名にはなった」

「どういうこと?」

「石川の事件のあと、メールが回ってるんだよ」

「メール?」

「この都市伝説に関連したサイトのアドレスが載ったやつが、回ってるんだ」

「チェーンメールか何かか?」

 三木が聞き返すと、穂波は首を振った。

「ううん、普通の。たぶん、俺と同じように何人かが調べたんじゃないかな。あまりに似てるんで、ってことだと思う」

「あんたもメールで知ったの?」

「違う。俺は先に調べてたから、メールが来る前には知ってたんだ。それに、サイトやこの神社の話なんかは、事件よりも前から知ってた人間もいると思う」

「…………」

「少なくとも犯人は、この都市伝説を知ってたと思うんだよね。じゃなかったら、あんなことしないでしょ」

「そうね。それは間違いないと思う」未散は腕を組み、頷いた。

「俺は犯人がメールを出したと思うんだよね」

「どうして?」

「だって、犯人はその首吊り神社の話を広めるために、石川をそういう風に殺したんだと思うんだよ」

「そんなくだらない理由で人を殺したって言うのか」三木が少し声を荒げた。

「そうでもなかったら、わざわざ都市伝説に擬えたりする必要がないじゃん……」三木の怒気に押され声を小さくしたものの、穂波は自分の意見を下げることはなかった。

「その考えは、そんなに遠くはないと思う」未散は穂波の意見に理解を示す。「犯人にとって、都市伝説が特別なのは間違いないでしょうね」

「でもそんな理由で……」

 三木は露骨に嫌悪感を示した。真面目な彼らしい反応だった。

「今、あんた達の間ではこの騒ぎはどうなっているの?」

「どうって?」穂波は首を傾げる。

「話題になっているのかどうか」

「そりゃあなってるよ」

「それは事件として? それとも、都市伝説の呪いとして?」

「あー、それは、微妙なとこかなぁ。薄気味悪がってはいるけど、本気で呪いを信じ込んでるようなやつって意外と多くないし、でもだからといって普通の事件じゃないし……」

「なるほど」

「これから次第じゃないかな」

「事件が解決するかどうか、か」

「うん。警察に事件が解決できなければ、そりゃあ、呪いってことになるし、そうなれば祭りになると思う」

「祭り?」三木が穂波の言葉に反応する。

「ネット上のスラングですよ」一応、未散は三木に釘を刺した。

「今はまだマシだけど、たぶん、これからもっと騒ぎになると思う。多くのメディアに取り上げられれば、事件として見ただけでもかなりショッキングなものだし、その上都市伝説まで絡んでいたら、冗談抜きで、やばいことになるんじゃない?」

「あなたは受験に専念しなさい」

「わかってるけどさぁ」穂波は口を尖らせる。「あ、このサイト警察とかに話した方がよくない?」

「話したところで、とは思うけど。まあ、私から話しておくから、あんたは帰って勉強しろ」

「やれやれ言われるとやる気が起きないんだよね」

「あんたがどこの大学に行こうと私には関係ないからね。好きにしなさい」

「えー、ドライすぎない? それはさぁ」

「構って欲しかったら第一志望ぐらい決めてみせろ」

「うぅ……」

「気をつけて帰りなさいよ」

 穂波を見送ると、未散と三木は職員室へ向かった。


 9


 午前十一時少し前に、海椙刑事が若い男性刑事を連れて職員室に訪れた。彼女は未散を見つけると、小さく目配せをする。外で話そうということらしい。

「何かわかりました?」

 未散は海椙刑事に聞かれ、思わず苦笑を漏らした。

「それはこちらのせりふでは?」

「ええ、まあ、そうなんですけど」海椙刑事もおかしそうに笑う。その仕草が妹の海椙葵とよく似ていた。

「一つ新しい情報として」

「はい、何でしょう」

 静かで寒々しい廊下を歩きながら、未散は海椙刑事に一枚の付箋紙を渡した。そこには穂波から聞いたウェブサイトのアドレスが書かれている。

「これは?」英数字と記号の羅列に目をやりながら、海椙刑事が尋ねた。

「都市伝説がまとめられたサイトです。その中に、今回の事件と酷似した首吊りの話が載っています」

「足場のない、高いところでの?」

「ええ。生徒の一人が見つけ、教えてくれました。その生徒の話によれば、都市伝説の舞台はまさにこの学校だと」

「まさか」海椙刑事は眉を寄せる。

「オカルトですし、信憑性はかなり薄いでしょう。それでも、今回の事件とその都市伝説がまるで無関係とも思えない」

「先生はどう思われているのですか?」

「別にどうも」

 未散は足を止め、そう答えた。それから、どこに向かって歩いているのだろうと、少しだけ考えた。

「呪いなど存在しないものに思考を割くのは愚かなことです」

「そうですね」海椙刑事は頷くと、小さく息を吐いてから微笑んだ。「わかっていても、そう言っていただけると心強いです」

「オカルトを信じているのですか?」未散はおかしくなって、再び歩き出しながらそう聞いた。

「信じてない、そう答えるのは簡単なんですけどね。怖がってる自分も知ってるんです」

「なるほど」

 二人はそのまま廊下を進み、外へ出た。足は自然と旧東体育倉庫へ向かってしまう。今日は比較的風が穏やかであるものの、それでも気温は低かった。海椙刑事はコートを着ていたが、未散はずっと室内にいたためパーカーのままだった。

「アリバイの方はどうですか?」

「まだ何とも。関係者を洗ってはいますが、学校関係者だけでもかなりの数になりますし、まだまだ時間が掛かりそうです」

「…………」

「先生?」

「優先的に調べてもらいたい人物がいるのですが」

「……誰でしょう」

「先日お話しした生徒四人を」

 海椙刑事の表情がわずかに引きつる。

「彼らが、犯人だと……?」

「…………」

「先生、どうなんですか?」

「私の考えが正しければ、その四人には完璧なアリバイがあるはずです。崩しようがないほどのものが」

「それは、犯人だから、ですか?」

 少し間を置いてから、未散は静かに答えた。

「石川めぐみの友人だから、だと思います」

「…………」

「…………」

「四人にアリバイがある方がいいのですか? それとも、ない方がいいのですか?」

 海椙刑事の鋭い視線が未散に向けられる。未散はその視線を受け止めながら、軽く、頭を振った。

「どちらでも、結果は変わりません。石川めぐみはもう死んでいる。それが変わることはない」

「わかりました……」海椙刑事はゆっくり、しかし力強く頷く。「早急に調べます」

「お願いします」未散は頭を下げた。

「最後に聞かせてください」海椙刑事は真剣な顔を向ける。「四人による犯行の可能性はあるのですか? もし、今回の事件が未成年によるものだとするなら、相応の対応をしなければなりません。私は……、刑事として動けばいいのですか? それとも……」

「…………」

 未散は即答することができなかった。

 自分は、この事件をどうしたいのだろう。

 自問したところで、まともな返答が期待できるわけでもなかった。こうした決断力が、未散には欠けている。

 迷って、悩んで、醜くも足掻いて。

 それで正しい答えが出せるとは思えなかった。数式で表現できるような、そんな綺麗な答えが用意されているはずもなく、結局最後は、信じるしかないのだ。曖昧なものを曖昧なままに、信じるなどという馬鹿な行為に縋ることしかできないのである。

「特別なことは、しなくても結構です。相手が誰であろうと」

「そうですか……」

 海椙刑事は難しい表情を浮かべたまま頷いた。

 二人は体育館脇の通路を進み、旧東体育倉庫へと歩を進める。辺りは薄暗く、恐ろしいほどに静かだった。

「どこまでわかっているのですか?」

 海椙刑事は倉庫を見つめながらそう口を開いた。

「何もわかっていないということもありませんが、確証があるわけでもありません」

 未散は倉庫に近づき、海椙刑事を見た。

「中に入りたいのですが、よろしいでしょうか?」

「あ、ええ……」海椙刑事はコートのポケットから鍵を取り出すと、ドアの鍵穴に差し込んだ。

 照明のない倉庫の中は暗く、陰鬱とした空気が淀んでいる。

 石川めぐみの首吊り死体。その映像がノイズのように、未散の頭に割り込んでくる。呼吸するのが苦しいくらいに、その強烈な映像が焼き付いたように離れようとしない。

 震えるように息を吐き、未散は奥歯を噛み締めた。

 倉庫内部には物は何も置かれていない。壁際に棚などが設置されているということもなかった。

 この空間で、石川めぐみは首を吊って死んでいた。高さ三メートルの天井付近にある梁にロープを直接括り付けて。石川の身長は百五十センチくらいだろうか。自身の身の丈の倍もある高さで首を吊っていた。

 海椙刑事も、腕を組みながら天井を睨むようにして見つめていた。

「足場があっても不自然です」海椙刑事は視線を未散に向けながら言った。「普通はこの高さで首を吊ったりはしません」

「でしょうね」

「普通の自殺の場合、ロープを梁に掛けても、二メートルほどのところまで輪の部分を下ろしてきて、そこで首を通します。今回のは、明らかに異質です」

「ええ」未散はロープが括り付けられていた梁を見上げながら相槌を打った。

 普通、という言葉が適切かどうかわからないが、首を吊るのにこれほど大それた高さは必要ない。せめて数十センチの足場が組めればそれで済む。もっと言えば、自殺をするのに高さは必要ない。わずかな長さの紐と、それを掛ける部分があれば充分なのだ。ドアノブで首を吊ることは充分可能で、そうして死ぬ者も少なくない。

 自殺や他殺、どちらの場合で考えてみても、不自然な点がある。だからこれは本物の呪いなんだ、という論理が一部の人間を中心に生まれている。

 呪い、か。

「石川めぐみですけど、外傷はなかったんですよね?」

「ええ。死因は頸部圧迫による脳への血流阻害、縊死であることが確認されています」

「首に対してのロープの掛かり具合で判別できるんでしたっけ」

「そうです。簡単に言うと、首に対して水平だと絞死、ロープなどではなく人の手によるものだと扼死になります」

「それらの痕跡はなかったということですか」

「ええ。外傷や抵抗した痕、薬物反応などが見られませんから、遺体の状況だけを見るなら自殺である可能性が非常に高いです」

「他には、何も?」

「と言いますと?」

「制服とか、靴とか、何か異常のようなものは……」

「特に報告には」海椙刑事は首を振ってから、神妙な顔を見せる。「もう一度調べるように手配しますか?」

「いえ、何もないのなら……」

 未散は言って、倉庫の中を見渡した。

 長年使われていなかったためか、砂埃が酷い。至るところに積もっては汚している。それでも床の部分は多くの人間に踏み荒らされ、綺麗、とは言えないものの、埃は薄くなっていた。

「呪いとかを信じているわけではないんですけど……」海椙刑事はそう前置きをしてから、未散の横に立って首を回した。「どうしてこの倉庫は数年もの間使われていなかったのですか?」

「私も詳しくは。ただ、耐震性を理由に放置されているのでは、という話は聞きました。補強するのにも、撤去するのにも費用は掛かりますから」

「なるほど。まあ、そうですよね」

「何か期待していましたか?」

「いえ、そういうわけではないんですけど」海椙刑事は苦笑を見せながら、辺りを見渡した。「でもたしかに、御札とかは貼られていないですよね」

「…………」

 そういうものの類が貼られていても不思議ではない。

 もちろん、未散は呪いなど微塵も信じてはいない。ただ、首吊り女の都市伝説に信憑性を持たせようと考えるならば、その手のアイテムはそれなりの威力を発揮するだろう。この都市伝説が悪戯であるならなおさらだ。

「……学習したのかな……」

「え?」

 海椙刑事が不思議そうな顔を向ける中で、未散は天井、石川めぐみが首を吊っていた梁を見上げる。床から梁まで約三メートル。梁と天井の間にはわずかな隙間が存在する。それが数十センチ。倉庫の建物が三角屋根であるため、場所によって天井と梁の距離が違う。石川が首を吊っていた梁は真ん中のもので、天井との隙間が一番大きいものだった。

 未散は床を軽く蹴って、垂直に飛び上がる。そのまま梁に向かって手を伸ばした。

「よっと」

 梁にぶら下がり、懸垂の要領で天井付近を覗く。

「先生?」未散を正面に捉えるよう移動しながら、海椙刑事が下から見上げる。「どうしたんですか?」

「綺麗ですね」

「え?」

「この梁に埃は積もってないようです」

 未散は床に下りて、自身の手を擦り合わせたりして確認する。埃などの汚れはついていない。綺麗なものだった。

「それが何か関係あるんですか?」海椙刑事が梁を見上げながら尋ねる。

「誰かが拭き取ったということです」

「え、誰が?」

「もちろん、犯人でしょう」

「犯人が? 梁の埃を? どうしてそんなことを」

「犯人は、今回の事件を都市伝説の話に、呪いの仕業にしたいと考えているのでしょう」

「それは、事件としての捜査から逃れるためですか?」

「まさか。いくら警察でも、呪いなんて馬鹿な話を受け入れるとは思えませんが」

「それはそうですけど……」

「趣味ですよ」

「え?」

 聞こえなかったわけではないだろう。その証拠に、海椙刑事の顔は大きく歪んだ。

「ただの趣味なんですよ、これは」

 未散は短く答え、ため息をつく。

「低俗で、悪趣味で、どうしようもない馬鹿な……、馬鹿な悪戯です」


 10


 未散は、糸井茂、竹田佳人、宍原優子、そして師崎詩乃の四人に対し、学校へ来るように電話で伝えた。四人は全員、すでに覚悟ができているのか、言葉少なに未散の要求に応じた。

 三年A組の教室で四人を待ちながら、未散は静かにため息をつく。

 廊下側の列の一つの席に置かれている、小さな白い花が生けられた花瓶。石川めぐみの席だ。

 まさかこんな光景を見ることになろうとは……。

 分類できない感情が未散の中で走る。

 無性に腹立たしかった。

 教室内には重苦しい空気が漂い、そして張り詰めている。そんな空気を嫌ったのか、海椙刑事が比較的やわらかな口調で未散に話しかけてきた。

「その生徒四人は、犯人ではないのでしょう? アリバイを確かめるために呼んだのですよね?」

「犯人、の定義にもよります」未散は石川の机に載っている花瓶を見つめながら答えた。

「それって……?」窓際の席に姿勢良く座っていた海椙刑事の顔が曇る。

「結論から言えば、石川めぐみは自殺でしょう」

「ええ?」

 海椙刑事は目を大きく見開き、二、三回瞬かせる。

「で、でも足場は? どうやって石川は首を吊ったんですか? 一人じゃ無理です」

「そうですね。石川めぐみ一人だけでは、今回の犯行は不可能です。だからこそ、共犯者がいるとわかります」

「それが、四人ですか?」

「どうでしょうか。その可能性が一番高そうですが、確証はありません。ただ、少なくとも糸井茂が関与していることだけは間違いないでしょう」

「糸井茂……。倉庫の鍵を最後に借りた生徒ですね」

「ええ」未散は頷く。「体育倉庫の鍵が複製されていなかった場合、石川めぐみが倉庫の中に入ることは不可能です。逆に、入るタイミングがあるとすれば、糸井茂が借りた鍵で倉庫を開けたそのときだけ」

「……え、でも、石川めぐみの死亡推定時刻は深夜ですよ? 糸井茂が鍵を借りたのは六時だったはずです。辻褄が……」

 海椙刑事は困惑の表情を浮かべ、手帳を開いた。

「石川が死んだのは、割り出された死亡推定時刻の範囲内でしょう。倉庫に入ってすぐに死んだわけではありません」

「どういうことですか?」

「死ぬ前にしなければならないことがあった」

「それは、アリバイ作り、ですか?」

「はい。糸井は倉庫の鍵を最後に借りている以上、間違いなく捜査線上に名前が挙がる。容疑者の筆頭です。特に、今回の自殺は都市伝説の呪いに見立てているため、自殺にも他殺にも見られないように工夫されている。中途半端なことでは、誤認逮捕によって冤罪を被る可能性もありますから」

「先ほど先生が話していた、石川めぐみの大切な人間だから、ということですか? もしものとき守るために」

「ええ」

 未散は頷く。近くの生徒の椅子を手前に寄せて、そちらに腰を下ろした。

「糸井達が、自分達が犯人でないと証明するためには、アリバイが最も手軽でかつ強力な武器になる。石川は、彼らのアリバイを鉄壁なものにするためにも、死ぬ時間帯を調整する必要があった」

「でもそれだと、石川はどうやって首を吊るんですか? 四人の協力がいるのでは?」

 まるで見当もつかないことに苛立っているのか、海椙刑事の口調は早まるばかりだった。

「まず、糸井が倉庫の鍵を借ります。このとき注意しなければならないのが、その日の最後に借りるということ。犯行準備後に、他の生徒達に来られたら水の泡ですから」

「だから六時に借りたのですね」

「ええ。この時期は午後六時にはほとんどの生徒が下校しますし、職員も帰り始めますから」

 この時期は多くの部活動がそのシーズンから外れているため、残っている生徒もごく一部に限られる。特別熱心な部活動もないこの学校では、生徒の多くが午後六時前には下校していた。それに加え、特別な事情がない限りは六時以降には下校するよう指導することになっている。午後六時以降に鍵を借りる者はまず現れない。

「そして、糸井が借りてきた鍵で倉庫を開け、石川達は中へ入ると準備を始めた」

「返却まで十五分ですから、それほど大きなことは出来ないと思いますが」

「そうですね。準備と言っても、大したことじゃありません」未散は頷き、息を吐いた。「石川を梁の上に乗せるだけでいい」

「梁の上?」

 海椙刑事は怪訝に、顔を顰めた。

「梁と天井の間に、わずかな隙間があります。多少窮屈な格好になりますが、小柄な少女ならば座ることもできるでしょう。多少不格好でも、梁にしがみついてもいいですし。とにかく石川は梁に上ると、あとはじっとしたまま時間が来るのを待った」

「梁の上に……」

「そう。今回の場合、自殺でも、他殺でも、通常のものではない。なぜなら犯人は、都市伝説の呪いということにしたいからです。だからわざわざ、自殺でも他殺でも不可能なように見せかけた」

「…………」

 海椙刑事は口を開けたままでいる。

 未散は構わずに続けた。

「糸井達は道具を使ったのか、それとも男手で何とかしたのか、とにかく石川を梁の上に乗せると、倉庫を出て施錠し、鍵はすぐに返却した」

 未散は足を組み直し、腕時計を見た。糸井達が来るまでまだ時間が掛かるだろう。午後一時を少し回ったところだった。

「それから石川は梁の上で数時間、糸井達にアリバイを作らせるために待つ必要があった。この際、梁の上に埃が積もったままならば制服が汚れてしまう。だから予め、該当の梁を掃除していたのだと思います」

 制服が埃で汚れていれば、梁の上で待機していたことに思考が向けられる。そうなれば、牙城は一気に突き崩されることとなる。

「落書きは?」

「あれは糸井達がアリバイを作ったあと、つまり、石川が首を吊ったあとに、学校へ来てやったものだと思います。職員が帰る前に書けば、その分見つかる危険性も高くなりますから」

「なるほど……」

「体育倉庫の鍵が複製されていない場合、六時十五分以降に倉庫に入ることは難しい。倉庫の中から鍵を掛けることは梁の上にいる石川には不可能なため、誰かが倉庫に残るか、鍵を使って外から施錠するしかありません。そのうち、誰かが倉庫に残る場合はいろいろと矛盾が残るため、その可能性は無視できます」

 未散はため息をつき、舌を鳴らして、繰り返した。

「石川めぐみは自殺です。糸井達はその協力、幇助をした。証拠は何もありませんが、石川めぐみだけでは倉庫の中に入ることはできない。そして彼女の身体能力では一人で梁に登ることもままならないでしょう。倉庫の鍵が複製されていないならば、誰にも石川を殺すことはできない。施錠されていたことの説明がつかなくなりますからね。背理法として充分とは言えないかもしれませんが、最初に出した答えへと帰結します」

「石川めぐみは、自殺……」

 海椙刑事はゆっくりと、結論を復唱した。

「石川は十三日の午後六時に糸井が借りた鍵で中に入り、糸井達の協力のもと、梁へ上った。そして糸井達は倉庫を施錠すると、鍵を返却し、それぞれアリバイを作るために学校をあとにした。三木先生が午後八時に倉庫の施錠と異常がなかったことを確認しているため、倉庫への落書きは八時以降かつ石川の死亡推定時刻を除外した時間に書かれたと予測できます。もちろん、糸井達にアリバイがあれば、の話ですが」

「たしかに、それなら密室のことも、足場のことも説明はつきますが……」海椙刑事は渋い表情を見せる。

「納得できませんか?」

「普通の自殺とは、掛け離れすぎてて」海椙刑事は額に片手を当てて、ため息をついた。「石川めぐみは、なぜ自殺を……?」

「わかりません。なぜこんな馬鹿なことをしたのか、本人以外にはわからないでしょう。ただ……」

「ただ?」

「石川めぐみにとって、都市伝説は、自身の命よりも大切なものだった、ということでしょうか」

「馬鹿なっ」

 海椙刑事は吐き捨てるように言うと、首を振った。

「ええ、馬鹿げています。本当に、くだらない……」

 未散は顔を強張らせたまま、静かに、風に掻き消されそうな小さな声で呟くように言った。

 価値観という言葉を使えばそれまでだろう。他人では理解できなくて当たり前という便利で身勝手な論理に守られ、それで腐らずに風化するまで放置されるのだ。

 何が大切なのか。

 それはたしかに、人によって異なる。しかしだからといって、命を天秤に掛ける行為に嫌悪感を抱かないわけではない。

 石川めぐみにとって、何よりも大切なものが都市伝説だった。

 それを理解することも、またはそれに嫌悪を示すことも、重要なことではない。ただそれを受け入れ、眉を顰めながらも消化するだけでいい。それなら、健全でいられる。

 無理に理解する必要はない。ただ目を背けて逃げ出すことも、いいとは言えない。大人にできることなど、実際はそれほど多くはない。それを認めた上で、時間が過ぎるのを待てばいい。

 こんなもの、こんな馬鹿げたこと、正面から向き合う必要がどこにある?

 乱れる思考に、溢れる感情。

 未散は震えるように息を吐くと、いろいろと抑えるために、目を閉じた。

「石川めぐみが自殺であるという、何らかの物証は……」海椙刑事は教室の天井を見つめながら口を動かす。「その、糸井茂達が素直に自供してくれればいいんですが……」

「ここまで来て、抵抗はしないと思います」

 未散は腕を組み、鼻から息を漏らした。急に、頭が重くなり、痛みも出てきた。やりきれない思いが未散を襲う。

「どちらがいいんでしょうね……」

「え?」

 未散の弱々しい呟きに、海椙刑事は不思議そうに目を丸くさせる。

「自殺がいいのか、他殺がいいのか。それとも、本当に呪いなら、幸せになれるんですかね……?」

「先生……」

 未散は真珠を飲み込んだように息を詰まらせると、誤魔化すように立ち上がって窓辺に寄った。

 ただただ、無性に……。

 目許を指で払うと、少しだけ強く息を吐いた。誤魔化すように、何かから逃げるように、未散は微笑もうとしたが、顔は引きつるだけだった。

 しばらく、沈黙が続く。

 休日の校舎は、とても静かで、何の物音もしない。一度静寂に包まれると、無音が一気に襲いかかる。静寂が、うるさいくらい。

 それから五分ほど経ったころだろうか、遠くの廊下から歩いてくる足音が聞こえてきた。

 ほどなくして、四人の生徒が教室に姿を見せた。四人とも私服だった。いつもの制服姿とは違い、変な違和感があったが、それ以上に四人の顔色は真っ青で、雰囲気も沈んでいる。

 彼らは教室に入ったものの、戸口のところで並ぶように立つだけで、何も話そうとはせず、顔も俯いたままでこちらを見ようとはしなかった。

 海椙刑事は彼らから未散へ視線を移す。未散に、委ねるつもりのようだ。

 未散は、体が震えて仕方がなかった。

 何が辛いとか、何が悔しいとか、何が悲しいとか、何が腹立たしいとか、そういうものではなく、ただ体が震えて止まらない。

 自分の世界を守るように、未散は息を一つ吐く。そうしてようやく再構築した決意をもとに、未散は糸井達四人に向かい合った。

「なぜ呼ばれたか、わかってるな?」

「…………」

 四人は一様に、口を結んだまま開けようとしない。ただ、静かに糸井茂が頷いた。

 宍原優子は同級生達よりも一回り小さなその体を震わせており、師崎詩乃は涙ぐんでいた。

「どうして、こんなことを?」

 海椙刑事が四人に尋ねる。口調はゆっくりと穏やかなものに努めているようだった。

「…………」

 しかし四人は口を閉ざしたまま。誰も話そうとしない。

「これ以上、私を怒らせるな」

 未散は低い声で言い、四人を睨みつける。感情を抑えるように強く握り締めていた拳は、指としての感覚はなく、血も滲んでいた。

「…………」

 それでも一向に話そうとしない四人に、未散は怒鳴った。

「答えろ!」

 未散は四人に詰め寄り、糸井茂の胸倉を掴んで引き寄せた。

「どうしてこんなことをしたぁ!」

「ちょっと、先生!」

 海椙刑事が慌てて止めに入る。

「答えろ! 糸井っ!」

「……石川は、守りたかったんだよ」

 糸井茂は声を絞り出すようにして、ゆっくりと話した。

「守る? 何を?」海椙刑事が聞き返す。

「都市伝説……」

「都市伝説を守る? それはどういうこと?」

「……あいつにとって、都市伝説はただの趣味じゃなかった。もっと大事な、特別なものだった。橋と言っていい。他人と自分を繋ぐ、唯一の橋」

「それが、都市伝説?」海椙刑事は眉を寄せる。

「孤児ってことも大きく影響してたと思う。人間関係は特に希薄だったし。よく話してた。自分の価値はどこにあるのかとか、そんな話」

「…………」

「めぐみは、自分の作った都市伝説で人が怖がったり、楽しんでいるのを見るのが好きだった」

 糸井に続き、師崎も石川について話し始める。師崎の顔は蒼く、その対比として目許が赤く腫れているのが目立っていた。

「怖かったって話してた。都市伝説が消えることを、ずっと怖がってた。噂が盛り上がってるときだけは、自分に居場所があるって、そういう風に話してた」

「自分に居場所……」

 海椙刑事は師崎の言葉を繰り返しながら、視線を未散へ移した。

 未散はわずかに眉を動かす。心当たりがまるでなかったわけでもないが、そこまでの熱量だとは考えてもみなかった。

「親に捨てられたことが、大きな傷になってた。施設だって所詮は他人だ、って。自分を必要としてくれる場所がないのは耐えられるけど、邪険にされるのは本当にきつい、って」

 端から眺めるだけの良識者を名乗る第三者ほど、綺麗な言葉ばかり、絵空事を並べたがる。

 人間の本質は、もっと単純で、もっと残酷だ。

 不幸な者を、不幸でない者が理解しようなど、所詮は無意味なことでしかない。

 孤児だった石川めぐみの辛さは、彼女本人にしか本当の意味では理解できないだろう。

 施設に、彼女の居場所はなかったのだろうか。今ではそれも、確認の術はない。

「だから、都市伝説にのめり込んだ、と?」

 海椙刑事は腕を組みながら、糸井達に厳しい視線を向ける。糸井と師崎は小さく頷いた。

「でも、じゃあなぜこんなことを?」

「最近、その都市伝説も下火になってきてたし、信じる人も少なくなってきたから。それに焦った石川は、自分の命を懸けて……」

「命を懸けてまで、する必要があったの?」海椙刑事の口調が厳しくなる。

「あった」竹田が真っ直ぐな目を向け、力強く言った。「命を懸けるだけの価値が、あいつにはあった。だから俺達は……」

「ふざけるな」

 未散は体を震わせながら言った。そして四人を睨みつけるようにして叫ぶ。

「何が命を懸ける価値だ。それを手伝うことが友情だとでも言うつもりか! お前らは!」

「…………」

「友達なんだろうが! 友達の自殺を手伝う? 馬鹿なことを、馬鹿なことを!」

「先生、落ち着いてください」

 未散は海椙刑事の制止を振り切り、糸井と竹田の服を掴むとそれを左右に揺さぶった。

「本人の意思を尊重するのが友情かっ? 自殺を止めずに手伝うことが友情かっ? 何が居場所だ! 何が都市伝説だ! 死んだら、死んだら何も残らないだろうが!」

 溜まりに溜まった感情をぶち撒けるように、未散は叫び続けた。

「お前らは、お前らは……っ! お前らなら救えたんだぞ! 石川を!」

「……!」

「友達の、お前達なら、お前達だけが! 助けることができたんじゃないのか!」

「先生、先生!」

 海椙刑事が未散の腕を引っ張る。

「馬鹿やろうが!」

 四人は俯きながら、涙を落としていた。宍原と師崎は嗚咽を繰り返し、小さな肩を震わせる。

 未散は堪らず、舌を鳴らして廊下へ出た。

「くそっ」

 未散は小さく呟いた。呟くしかなかった。


 11


 二月十八日。

 仕事をずる休みした未散は、自宅アパートで床に伏していた。

 ただ、体調が優れていないのは事実で、まったくの嘘というわけでもなかった。

 処理できないものを無理に抱えているよりも、すべてを投げ出し、逃げ出す方が健全だと言える。そう自分に言い聞かせるようにして、未散は枕に顔を埋めた。

 何も考えたくない。どうでもよくなった。もう、さすがに疲れた。

「…………」

 ここ数日満足に眠ることができていない。眠気も強くある。しかし、それでも寝られなかった。精神バランスに異常をきたしているのだろうか。

 何度目かわからないため息をついたところで、玄関チャイムが鳴り響いた。

 起き上がるのも億劫だった。ましてや応対するなどもってのほかである。

 居留守を決め込んだ未散だったが、珍しい来客はかなりしつこい人間のようで、チャイムを何度も鳴らし続けている。それだけに飽きたらず、無抵抗なドアまで叩き始めた。

 未散は舌を鳴らし、布団を引き寄せるとその中に潜り込んだ。

 訪問者が誰か容易に想像できるが、それこそ気だるさを加速させる最大の要因となっている。

「…………」

 一向に帰ろうとしない、諦めようとしない迷惑な訪問者に対してついに根負けし、未散は布団から這い出ると不機嫌な顔を浮かべたまま玄関へと向かった。

 ドアを開けた先に立っていたのは、海椙葵だった。彼女は軽く頬を膨らませて、不機嫌さをアピールしている。

 未散がため息をつくと、海椙は口を尖らせた。

「どうして居留守なんか使うんですか?」

「応対したくないからよ」

「ずる休みまでして」

「うるさいな」未散は髪を手櫛で整えながら、部屋の奥へ引っ込む。部屋に戻りながら、横目で後輩を睨んだ。「で、何の用?」

「何たる言い草ですか。せっかく心配してお見舞いに来てあげたのに」海椙は不満を口にしながら、後ろ手でドアを閉めると靴を脱いで部屋に上がり込んできた。

「お茶は出さないからね」

「お構いなく。自分で淹れます」

「……そういうことじゃねえよ」未散は呆れて肩を竦めると、ため息をついて傍若無人な後輩を見る。「で、何しに来たのよ?」

「やだなぁ。半分は本当に心配できたんですよ。さすがの先輩も、意外と精神的にまいってるかなって」

「……もう半分は?」

 こたつの電源を入れながら未散は尋ねた。

 海椙は神妙な顔つきで、肩から提げていたバッグから一通の便箋を取り出し、未散の前に差し出した。

 淡紅色を基調としたB5サイズの封筒。表には、『長野原先生へ』と綺麗な字で書かれている。

「石川めぐみからの手紙を預かってきました」

「え?」

 未散は封筒を手に取り、注意深くその筆跡を見つめる。たしかに、石川めぐみのそれに近いものだった。

「どういうこと? 誰から預かって?」混乱する頭を整理しながら海椙に尋ねる。

「お姉ちゃんが『ひまわり』の職員から預かったみたいですよ。それを私が持ってきたんです」

「…………」

「何でも、石川めぐみは死ぬ前に手紙を用意していたみたいです。それを、宍原優子に預けていた」

「宍原に?」

「今回の件が悪戯であると見破られたときに、この手紙を出すようにお願いしていたみたいですね。宍原優子が手紙を出し、それが今朝『ひまわり』の方に届いたみたいです。そこの職員宛と、先輩宛。あとは、ミステリーサークルのときに共犯関係だった中山先生宛の三通です」

「そう」

 封筒は開けられた形跡が見当たらない。

「中身は誰も見てないみたいですよ」

「警察も?」

「ええ。今回の件は四人の証言で何とかなるようだから、これも、特別必要ないだろうって」海椙はやさしく微笑みながら、わずかに小首を傾けた。「ま、お姉ちゃんのやさしさなんじゃないですかね。事件解決に協力してくれた御礼ってことで」

「…………」

 未散は壁際の机からペーパーナイフを取り出し、封筒を開ける。中には数枚の便箋が入っていた。


 長野原先生へ。


 このような手紙を用意することは、

 私にとっては最大の屈辱かもしれません。

 本当ならばこんな手紙は書きたくありません。

 自分から、負けたときのことを考えるなんて、惨めです。


 それでも。

 この手紙だけは用意しなければ、と。

 そんな風に思っているのだから不思議な話です。


 長野原先生なら、もしかして。


 そう考えると、怖いような、少しだけ、楽しみなような。

 不思議です。

 見破られないことが一番の理想なのに。


 でもきっと、先生なら見破っているのでしょうね。

 そんな気がします。

 残念ですが、すべて思い通りになるほど甘くないでしょう。

 だからこんな手紙を用意しているのですが。


 私はどこかでミスをしたのでしょうか。

 それを直せば、見破られなかったのでしょうか。

 今の私では何も思いつきません。

 今度こそ勝てると、そう思っています。


 正直に言えば、楽しみです。

 私が勝つのか、それとも先生が冷酷に見破るのか。


 ミステリーサークルの件、覚えていますか?

 見破られたときはとても悔しかったです。

 今でも時折、夢に見るほどですから、

 私がどれほど悔しかったのか、おわかりになるかと思います。

 それとも先生ならば、淡泊に首を振り、

「わからない」

 と一言で済ますかもしれませんね。

 そちらの方が、長野原先生らしいですけど。


 悪戯だと見破ることのできた先生ならば、

 優子ちゃんと詩乃ちゃん、糸井くんと竹田くんの四人が、

 共犯だということもわかっていると思います。

 四人は私にとって掛け替えのない友人です。

 私の悪戯に付き合ってくれた、本当に大切な人達です。

 ですからどうかお願いです。

 彼らを悪く思わないでください。

 私の意思を尊重してくれただけですから。


 最後に。

 お騒がせして申し訳ありませんでした。

 言葉ばかりの謝罪ですけれど、許してください。

 高校の三年間はとても楽しかったです。

 四人ともいくつか悪戯もできましたし、噂もそこそこ。

 長野原先生の授業は難しかったけれど、

 興味深く、とてもおもしろかったです。

 三年間ありがとうございました。


 できれば、この手紙が読まれることのないように。

 三年A組二十一番石川めぐみ。


「…………」

 未散は手紙を読み終えると、目を閉じて長いため息をついた。

「何て書いてあったんですか?」

「別に。大したことは書かれてない」

「そうですか」

「ったく……」

 未散は手紙をしまうと、こたつに突っ伏すように倒れた。

「元気でました?」海椙がのんきな声を掛けてくる。

「出ない」顔を伏せたまま、低い声で言う。

「出しましょうよー」

「出るか、馬鹿。どんな無茶ぶりだ」

「ほら、月並みですけど、先輩がそんな調子じゃ、死んだ石川めぐみも浮かばれませんよ?」

「勝手に死んだ馬鹿が浮かばれまいと、私には関係ないでしょ。死んだらただの蛋白質じゃない。傍迷惑な」

「わお、辛辣ぅ」

「だから何しに来たんだ、あんたは」

「励ましにって言ってるじゃないですか」

「何であんたが」

「じゃあ何ですか。私以外に励ましてくれる人がいるって言うんですか? 先輩に? 恋人どころか、友達だってそんなにいない先輩に?」

「……励ましに来たのよね?」

「そうですよ」

 胸を張る海椙に、未散は舌を鳴らした。

「ほら、おいしいものでも食べて元気出しましょうよ。先輩が落ち込んでいたって、どうしようもないじゃないですか。事件だって解決したわけだし」

 海椙の言い分はもっともだった。

「ちょっと歩くんですけど、おいしいイタリアンを出すお店があるんですよ。そこ行きましょう」

 嫌な顔を浮かべながら少し悩んだが、未散は海椙の提案に乗ることにした。いつまでも引きずっているわけにもいかない。

 一日休んで、石川からの手紙を読んで、少しだけ気持ちの整理がついた、と思いたい。

 身支度を済ませて家を出ると、外はすでに暗く、風もかなり冷たかった。マフラーに顔を半分ほど埋めながら、未散は息を吐いた。わずかにマフラーが暖かくなり、隙間から漏れた吐息は白くなってすぐに拡散する。いろいろと、寒かった。

「そう言えば、都市伝説なんですけど」

 並んで歩きながら、海椙が顔をこちらに向ける。

「うん?」

「しばらくは消えそうにないですよ」

「そう……」

「自殺だっていう懇切丁寧な説明がない限りは、やっぱり死のインパクトの方が強いみたいです。うちの学校はともかく、他の学校とかではしばらく呪いは解けそうにないですね」

「どいつもこいつも……」

 白い吐息混じりに、未散は苦笑した。

「でも、石川めぐみも満足して成仏するんじゃないですか?」

「どうだか」未散は肩を竦める。「都市伝説としては化けて出る方がいいんじゃないの?」

 二人は最近整備された住宅地への道に入る。

「自分の命を懸けるほど大切なものだったんですよね、石川にとって都市伝説は」

「みたいね」

「先輩の大切なものって何ですか?」海椙が歩きながら興味深そうに、楽しげな目を向ける。「何かあります? これだけは譲れないもの」

「どうかな……」

「えー、教えてくださいよ」

「別に。特別に変わった価値観は持ってない」

「またまたぁ」

「あんたは何なのよ?」

「秘密です」

「何よそれ」

 未散が呆れて吹き出したとき、電飾で彩られたログハウス風の店が見えてきた。その店を見て、海椙がはしゃぎながら指を差す。

 大切なもの、か。

 今までは、穏やかで平和的な日常だったが、それも些細なことで崩れてしまう。

 まったく、思い通りにならない世の中だ。

 それでも、死ぬよりはずっといい。

 死ぬことは、いつだってできるのだ。

 いいことばかりではない。嫌なことだってあるし、もしかしたらそちらの方が多いかもしれない。

 それでも、たとえ明日死ぬとしても、今日をやめる必要はどこにもないのだ。

 命よりも大事なものがあるのかもしれない。他人には理解できないものかもしれない。

 でも死ぬ必要はない。絶対にないのだ。

 あってたまるか、そんなもの。

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