第3話 真贋の境界


 1


「あ」

 ゆっくりと落下していく自身のマグカップを、長野原未散はただ見つめていた。

 自由落下運動ではなく、わずかな外力が加えられての落下だった。中に残っていた黒い液体が、いくつか球体の形になりながら外に飛び出している。

 そんな様子を、ただただ見つめていた。日誌を書いていたため、とっさに反応することができず、落ちていくそれを見つめることしかできなかった。

 右利きである未散は、マグカップは基本的に左手で持つことが多い。そのため、仕事中である今は机の左端に置いていた。

 いつものことである。ただ、今日はいろいろな雑務に追われていて、少しだけ忙しかった。コーヒーを楽しむ時間も満足に取れないまま、中途半端に残したものはすっかり冷めてしまい、今さら手をつけるのも、と考えていたのも事実だ。

 そこへ、お局様である嵯峨根が未散の横を通った。その際に、彼女の持っていた荷物がマグカップを引っ掛けてしまったのである。嵯峨根が小さな声を漏らし、未散が振り返ったときにはカップは落下していた。

 マグカップは床に落ち、音を立てて割れる。中に入っていた液体も飛散し、周りを汚した。

「わっ」

 職員室にいた者が音に振り返る。

 未散も思わず、嵯峨根を見上げた。

 百円ショップで買った安物とは言え、人のマグカップを割ってしまった彼女はどう謝罪するのだろう。あまり褒められたものではない変な期待が、未散にはあった。あのお局の謝罪の言葉など、そうそう聞けるものではない。それを考えれば、まだまだ使えたマグカップには申し訳ないが、上々の仕事ぶりである。殉職し、二階級特進するようなものか。

 しかし。

「ちょっと長野原先生」嵯峨根は鋭い目つきを未散へと向ける。「気をつけなさい」

 甘かった。

 謝られるどころか、強く睨まれるとは。さすがの未散でも予測できなかった。

「早く片付けなさい」

 嵯峨根は短く言うと、自身の足下を見て、鼻息を漏らす。彼女のスリッパの先に、飛び散った液体が掛かっていた。

「ったく、汚れちゃったじゃないの」

「すみません……」

 我慢しながら、なぜか未散が謝ることになった。世知辛いを通り越して理不尽な世の中である。残念なのは、そんな世の中にすっかり慣れてしまっていることだろうか。

 まったく、本当に。惚れ惚れする。

 笑いたくなった。

 チャイムが鳴り、六時間目が始まる。嵯峨根を始め、多くの職員が授業のために、それぞれ担当する教室へ向かっていった。

「…………」

 未散はため息をついて、マグカップを片付けるために立ち上がる。舌打ちもしたかったし、文句の一つでも言いたかったが、我慢した。

「先輩らしくもない」

 後輩である海椙葵が箒と塵取りを持ってきてくれた。

「それともあれですか? 隠れどじっ子属性でも持ってるんですか?」

 どうやら彼女は未散がうっかり落としてしまったと思っているみたいだ。

「何よそれ」未散は肩を竦める。「落としたのは私じゃない」

「え?」海椙は目を丸くする。

「嵯峨根先生よ」

「ええ? 自分で落としたのに、詫びるどころか先輩を注意したんですか? ふふ、さすがですね」言いながら、海椙は途中で吹き出した。「昼ドラに出てくる意地の悪い姑も真っ青ですよ」

「そりゃあ、意地は悪くても姑は結婚してるしね」割れたマグカップを拾いながら、未散は海椙を見る。「おっと。あんたに釣られて毒を吐いてしまった」

「よく言いますよ。毒の塊の癖に」

「事実を言うだけで毒に聞こえてしまう方に問題があるのよ」

「それも立派な毒です」

 未散は鼻を鳴らし、机の上の載っているティッシュを数枚取った。床に飛び散ったコーヒーを綺麗に拭き取ったが、臭いが気になる。水拭きもしないといけない。

「余計な仕事を」未散はため息を吐くついでに、愚痴もこぼした。

「よく我慢してますよ、ほんと」海椙が呆れたように言う。

 まるで他人事なのが多少癇に障ったが、たしかに彼女の言うとおり、自分でもよく我慢していると思う。

「大丈夫ですか?」

 同僚の三木智文も眉を顰めながら声を掛けてくる。彼は給湯室から濡らした雑巾を持ってきてくれていた。

「ええ。すみません、お騒がせしちゃって」

「長野原先生が謝ることでは」三木は眉を寄せ、口を結んだ。

「しっかし強烈なお局様って実際いるものなんですねー」声を抑えることもなく、海椙はのんびりと言う。「割れちゃいましたね、先輩のマイカップ」

「まあ、わざとではなかったみたいだし」言いながら、なぜ自分がフォローするのだろう、と苦笑が漏れた。「安物だったしね。ま、今度は割れにくい材質のものを買わなきゃな」

 ステンレスか、プラスチックか。いずれにしても百円ショップで買えるだろう。大抵の生活雑貨は、百円で揃えられる時代である。面倒なのは、田舎町ではそのような店舗さえ少ないことだが、隣町まで足を伸ばせば済む話だ。百円にこだわらなければ、近所のスーパーでもどこでもマグカップは買える。

 未散は拾った破片を手元にあった古い新聞紙で包み、ビニール袋に入れて『割れ物』と太いマジックで書いた。三木から受け取った雑巾で汚れた床を拭いたが、拭いたところだけ他の部分よりも綺麗になってしまった。日常的に積もった汚れには、見て見ぬふりをすることで消化することにした。

「でも今日はもうコーヒー飲めませんねー」

「そうね。ま、あと数時間だし、いいけどね」

「あ、とっておきがありますよ」海椙は両手を合わせ、明るい声を上げた。

「とっておき?」ビニール袋の口を結びながら、未散は首を傾げる。

「ちょっと待っててください」

 そう言うと海椙は自分の席へ戻っていった。彼女は机の下のスペース、お世辞にも綺麗に整頓されているとは言えないところから、埃被った汚い箱を取り出して、こちらに持ってくる。

 十五センチ立方の木箱で、使われている木材は桐だろうか。周りを紺色の紐で結ばれている。ぞんざいな扱いをされている割には、高級感があった。

「これは?」

 未散は木箱から顔を上げ、海椙を見た。三木も興味深そうに見ている。

「とっておきのティーカップですよ」

 海椙は埃を払いながら笑顔を見せる。綺麗にしたばかりの床に埃がゆっくりと落ちた。嵯峨根の席の方にその埃を除けながら、未散は眉を寄せた。

「ティーカップには見えないですけど」

 未散が思っていたことを、三木が言葉にした。

「とっておきですからね」

 含みを持たせる言い方をして、海椙はその木箱を未散の机の上に置いた。紺色の紐を解き、蓋を開ける。中から出てきたのは、朱泥しゅでいの湯呑だった。二度焼きされたのか、赤黒くなっている。埃を被せていたとは思えないほどの、立派な湯呑だった。

常滑焼とこなめやき?」

 未散は海椙に聞いた。

 常滑焼というのは、愛知県常滑市を中心とし、その周辺を含む知多半島内で焼かれる陶磁器の総称だ。全国の陶器の中でも最古と言われ、平安時代から続く日本六古窯の一つとして数えられている。

 有名なものとして、鉄分を多く含んだ陶土を、釉薬ゆうやくを掛けずに堅く焼き締めた朱泥の急須がある。全国にある陶器の中でも、赤い急須を見ればそれだけで常滑焼とわかるほどの、特徴的なものだ。

「はい。朱泥窯変ようへんの湯呑です。私の叔父だか何だか、遠い親戚のような、そんな可能性がある海椙敏久としひさの作品なんですよね。市場価格だと三万円くらいだったかな」

「三万っ?」

 未散と三木は同時に大声を出し、高価なそれを見た。

 湯呑でその値段をつけるとなると、余程の名工でなければ無理だろう。地元とは言え、それほど詳しいわけではない未散は、海椙敏久なる陶芸家の名を聞いた覚えはなかった。名工の作る、セットである夫婦湯呑でも一万円程度という相場を考えれば、やはりその値段には目を見開いてしまう。

 そんな一品を埃被せていたのか、この娘は。

「ねー、ぼったくりですよねー」海椙はのんびりと笑う。

「不勉強で申し訳ないですけど、その、海椙敏久さんという方は著名な陶芸家なのですか?」三木が朱泥の湯呑を見つめながら尋ねた。

「いやぁ、そんな立派なもんじゃないですよ。おなかはでっぷり出てるし、頭は禿げ散らかしてるし。そんなろくでもないおっさんの手でこねくり回された湯呑なんて、とてもじゃないですけど使う気になれなくて」

 海椙は微笑とともに、最大級の罵声を湯呑に浴びせかけてから、未散に顔を向けた。

「あ、どうぞ先輩、使ってください」

「…………」

「ああ、やっぱり嫌ですよね、どこぞのおっさんが弄くり回した土でできたものなんて。二度焼いているとは言っても、何せおっさんですからねー。いかにもな桐箱に詰めて、三万円という法外な値段で装飾しても、所詮は太って禿げ散らかしたおっさんの手で作られたものですからね。うひゃあ、セクハラ紛いですよ」

 思いつく限りの罵詈雑言を口にする海椙。

「私が教師になった記念ってことで押しつけられたものなんですけど、この際やっぱり割って突き返しましょう」

「こらこら、やめなさいって」

 未散は慌てて恐ろしい後輩の暴走を止めた。この女ならやりかねないところが何よりも恐ろしい。

「仮にも三万円もするものでしょう?」

「そんなもの、言ったもん勝ちですよ」

 身も蓋もないが、的確な指摘ではある。

「とにかくこれは受け取れない」

「気持ち悪いですもんね」海椙は口を曲げながら頷いた。

「そうじゃなくて。高価なものだからよ。それに、あなたのお祝いで貰ったものなんでしょう?」

「湯呑貰って喜ぶ乙女なんていませんよ」

「あんたが乙女かどうかは知らないけど」

「あ、そうだ」何かを思いついたのか、海椙は手を叩いた。「どうせですからもっと高いものを貰いに行きましょう。で、ネットオークションで売りましょう」

 未散は顔を顰める。嵯峨根にマグカップを割られたときよりも、眉を寄せ、目を細めた。不満や不安、不機嫌さが顔に表れる。露骨に嫌な顔をした。

「嫌よ」未散は先に言った。

「じゃ今週末にでも」

「嫌だって」

「何でですか!」海椙が頬を膨らませる。

「絶対に嫌」ここはさすがに未散も譲らなかった。「刑事の姉を持ち、些細なことに首を突っ込みたがるあんたと、貴重な休みを返上してまで付き合うなんて、もう考えるだけで嫌」

「いいじゃないですか。ちょっと高い陶芸品を貰いに行くだけですよ」

「それだけで済まないのが目に見えてるのよ」

「先輩はエスパーか何かですか?」

 海椙は怒った顔を未散に向ける。

 未散は諦めて笑った。

「エスパーか何かでなくてもわかるから怖いのよ、あんたは」


 2


 十二月十五日。土曜日。午前七時。

 カーテンが閉まっている真っ暗な室内からでは、十二時間ずれていても気がつかないだろう。しかし、ある程度規則正しい生活を送っている未散が、昼寝でもしない限りは、夜に目を覚ますことはなかった。

「寒っ……」

 布団の中で小さく丸まっていた未散は、気温の低さに体を震わせた。ゆっくりと二度寝を楽しむ気もなくなるほど寒かった。

 名残を惜しみながら、暖かい布団に別れを告げる。椅子の背もたれに掛けていたストールを手に取り、窓辺へ移動する。体を震わせながら、カーテンを開けた。

 外の景色を見て、未散は迷った。

 シニカルに笑えばいいのか、盛大なため息をつくべきか。

「これはまた……」

 銀世界とはまさにこのことだった。見慣れた風景が綺麗に、しかし過剰とも言える雪化粧をしている。

 積雪量は十五センチを超えているだろうか。ここまで雪が降ることは、この地方ではまずない。岐阜ならまだしも、太平洋に面している愛知、その中でも知多半島では積雪自体が珍しかった。ここまで積もったことを思い出すには、七年以上記憶を遡らなければならない。

 早速、近所の子供達が珍しい雪の中をはしゃぎ回っていた。

 ただでさえ億劫だというのに。

 未散は盛大なため息をつくことにした。

 顔を洗って、着替えることにする。

 今日は海椙葵とともに、彼女の親戚筋で陶芸家でもある海椙敏久の工房へお邪魔することになっていた。彼女とは、駅前のコンビニで午前十時に待ち合わせている。

 昨日の晩に作ったシチューの残りを食べながら、ノートパソコンで海椙敏久のことを検索に掛けた。すると、多くのページがヒットし、かなり有名な陶芸家であることがわかった。姓が海椙である者にしては、かなり立派な人間らしい。正直なところ、安堵よりも驚きの方が大きかった。

 海椙敏久自身も陶芸の世界で高い評価を受けているのだが、何よりも、彼の師である人物が偉大な陶芸家だった。

 三代原松北条はらまつほうじょう。全国的にも名が知れた名工である。

 三代原松北条(本名一二三ひふみ)は名工初代原松北条の孫として生まれ、幼少の頃から直々に陶技を学んだ。父である二代北条の没後、三代北条を襲名。その三十七年後、常滑焼の急須について国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された、とある。

 三代北条には二人の娘がいるがどちらも跡を継ぐことはなく、海椙敏久と瀬木透せぎとおるという二人の弟子を取り、常滑焼最高峰と謳われる自身の陶技を叩き込んだ。

 三代北条の作る茶器類は総じて評価が高く、人間国宝に認定される前から、一般的な市場価格の五倍から十倍の高値がついていたという。その後人間国宝に認定され、作品の価値は急騰。今では安いものでも数十万はするらしい。

「何にどんな価値がつくか、わからないものね」

 感心、あるいは呆れながら、未散は左手のマグカップを見た。先日職場で割って(割られて)しまったものと一緒に買ったものだ。こちらも同じ百円である。

 高い湯呑で飲めば、何か味が変わるのだろうか。

「…………」

 酸化鉄を多く含んだ土で作られる常滑焼の湯呑では、お茶に含まれるタンニンと反応して、苦みを柔らかくする。考えられるとすれば、こんなところだろうか。あとは素人と玄人の技術の差によって生まれる意匠の違いだが、それだけで値段が何倍、何十倍も変わってくるというのは、あまり馴染みがない所為か、ぴんとこない。絵画などもそうだが、芸術に明るくない未散には頭の痛い世界だ。

 ネット上にある情報を見ると、海椙敏久よりも、それに関連した三代北条の情報の方が多く載っていた。海椙敏久でヒットする情報はそのほとんどが通販サイトに掲載されている作品だった。

 海椙敏久自身、名工と呼ばれるに相応しい技量の持ち主であるらしいが、やはりその名を有名にしているのは師である三代北条の存在が大きいようだ。

 それに、北条の名を継ぐ正式な後継者はどうやら瀬木透らしく、そちらの方が評価は高いみたいである。通販サイトを見ても、瀬木透の作品の方が海椙敏久のものよりも二割ほど値段が高い。実力は甲乙つけがたいと評する文面が多く見られるが、後継者という付加価値がすでに出ているようだった。

「高いなぁ」

 呟きながら、未散は首を捻った。

 どれも似たり寄ったりの湯呑に見えるのだが、一万数千円から三万数千円の値がついている。

 玄関に立て掛けている自転車に視線を移した。未散の愛車も、一般的なママチャリと比べると数十倍の値段がする。未散自身はそれだけの価値があると納得して購入し、それに大変満足している。それでも理解できない者にしてみれば、自転車なんかに、と眉を顰めるものだ。

 価値観の違い。そんな一言で片付けるのは簡単ではあるが……。

 未散は気象庁のウェブサイトにアクセスし、気象情報を確認した。愛知県全域に大雪注意報が出ている。今夜から明日に掛けてがピークのようで、この分だと警報に切り替わるのも時間の問題だろう。雪国の人間にしてみれば鼻で笑うような積雪量ではあるが、この地方に住む者にしてみれば数年ぶりの大雪だ。事故は多く起きてしまうだろう。土曜日であることが幸いか。

 しかし。

 未散はこたつの上の携帯電話に目を向ける。そして一つのため息。

 こんな日でも中止にはならないだろうな。

 むしろあの海椙の性格を考えるならば、近所の空き地で雪だるまを作っている子供達と同様に、この雪にテンションを上げていそうである。

 こたつの布団を引き寄せ、未散は体を丸くした。週間予報では、雪がちらつくかもとは言われていたが、ここまでの積雪は予想されていなかった。

 こんな日に、苦手な海椙葵と、大して興味のない陶芸に、付き合わされるなんて。

 たとえ数万もする湯呑が貰えるとしても、やはり家で眠っている方がよかった。

 食器を突き刺すような冷たい水で洗っていると、携帯電話がシンプルな音を奏で、着信を知らせる。午前八時四十五分。海椙葵からだった。

「はい」

「先輩ですか? 雪ですよ、雪!」

 案の定、はしゃいだ声が聞こえてくる。高く、明るく、耳障りな声だった。

「雪ぐらいわかるよ」未散はため息をつく。「ねえ、今日止めにしない?」

 聞くだけ聞いてみた。

「何言ってるんですか」

 だめだった。

「こんな雪、滅多に降りませんよ。楽しみましょうよ」

「テンション高いな」

「そりゃあもう。雪だるまでも作りますか?」

「いやいい」

「むぅ」

「それよりあんたはよくても、向こうの都合もあるでしょう?」

「大丈夫ですよ。私の親戚ですよ?」

「ああ……。これ以上ない説得力ね」

 未散は諦めて窓の外を見た。今はあまり吹雪いていない。牡丹雪がゆっくりと降っており、風はあまり吹いていないようだ。顔のない雪だるまがいくつか完成されていた。

「めぼしいものがあるといいですねぇ。人間国宝の原松北条の作品でも転がってればいいんですけど」

「それが目当てなの?」

「ついでですよ。本来の目的は、憎きお局様の嫌がらせにより割られてしまった先輩のマグカップの代わりを見つけに」

「だから代わりなら近くの店で買うからいらないってば」

「遠慮しなくてもいいんですよ。どうせだったら、うん十万もする湯呑でコーヒーを飲みたいでしょう?」

「湯呑でコーヒーは飲みたくないなぁ」

「何だったら紅茶でも」

「日本茶という発想はないのね」

「とにかく、自分の不注意で割ったわけでもないのに、お金を使う必要なんてないんですよ。無駄な出費じゃないですか」

 無駄な出費には違いないが、数百円に対してあれこれ思うほど切迫した生活をしているわけでもない。どちらかと言えば時間の出費を抑えたい未散だった。

「大丈夫ですよ。エロ親父ですからね、美人な女教師が訪問するとなれば、数十万の茶器セットの一つや二つ、ぽーんとくれますって」

 いろいろと不安が募る。

「そう。じゃあ、期待しておく」

 名工の作品を買うのも悪くない。自宅で日本茶を飲むことは多くないが、これを機会に手を出してみるのもいいだろう。

 雪のため約束の時間を三十分ほど早めることに決め、電話を終えた。

 未散は残りの洗い物を済ませ、コートとブーツをそれぞれクローゼットと下駄箱の奥から取り出し準備した。簡単な準備を済ませたあとは、待ち合わせの時間まで適当にネットを徘徊することに決める。せっかくなので、常滑焼を専門的に扱っている通販サイトでいろんな作品を見ていくことにした。

 名工の作品となると、一万円を超えてくるものが多い。興味がないためか、割高に感じてしまう。百円ショップなどで大量に購入できる時代だ、そちらで済ませる人間は未散を始め少なくないだろう。常滑焼に興味を持つ外国人も多く、街中でもよく見かけるのだが、彼らは名工の作品よりも自分達で作ることに強い関心を持っているので、売り上げという面ではあまり貢献していない、という話を聞いたことがあった。陶芸一本で食べていける時代は過ぎており、兼業や引退に追い込まれる者も多い、という地元の新聞記事を読んだこともある。

 未散の同級生にも陶芸家を親に持つ者は多かった。しかし、その跡を継いだという話は聞いていない。やはり、業界全体が厳しい立場に立たされているのだろうか。

 それを考えれば、三代北条の後継者として瀬木透、同じ弟子である海椙敏久が期待されているのも頷ける。

「どれも似たようなものに見えるけどなぁ」

 色違い、くらいにしか未散には感じられない。その色に技量の差があるのかもしれないが、どちらにしても、未散にはよくわからなかった。

 時計を見て、パソコンをシャットアウトし、戸締まり、火の元の確認をする。コートを着て、ニット帽も被った。ブーツを履き、傘を一本手に取って外に出る。

「寒いなぁ……」白い息を吐きながら、鍵を掛けた。

 路地にはまだ踏み荒らされていない場所も多く残っている。こんな日に出掛けようとする人間は少ないのだろう。苦笑混じりにため息をついた。白くなったものが風に流され、すぐに消える。

 いつもの見慣れた風景も、どこか淡泊で、寂しい印象を受けた。世界がいかに色彩に富んでいたのかよくわかる。白に覆われて、とても静かな風景だった。

 子供のようにはしゃぐ気にはなれないが、この風景は嫌いではなかった。まだ踏まれていない道を歩くのは、大人になった今でも、どこか気持ちよさがある。歩きにくかったが、楽しかった。

 大通りでも交通量は少なく、道に人の姿はほとんど見られない。子供の小さな足跡があるくらいだ。ゆっくりと足下を確認しながら、コンビニへと向かった。

 待ち合わせのコンビニに着くと、海椙がすでに到着していた。店内に海椙以外の客の姿は見えず、眠そうな表情をした店員が欠伸を噛み締めているだけだった。

 傘を入口前のスタンドに立て掛け、中に入る。来店のベルに気づき、海椙が雑誌から顔を上げた。

「ああ、先輩。おはようございます」

「おはよう」

「すごい雪ですねー」目の前の真っ白な駐車場に目を向けながら、海椙が微笑む。

「ほんとね」未散もそちらを見て肩を竦めた。こんな日でも出掛けようとしている自分達に呆れてしまう。

 休日の朝とは言え、駅前の大通りでも交通量はほとんどなく、出歩いている者もあまり見られない。防寒装備で犬の散歩をしている人がいたが、飼い主も犬もそれほど喜んでいるようではなかった。

「あとで雪だるま作りましょうよ」

「嫌」未散は即答し、ホットドリンクのコーナーに回った。

「あ、かまくら派ですか?」

 どんな派閥だ。

 煎茶の缶を取り、未散は海椙に尋ねた。

「工房って、どこなの? 散歩道沿い?」

 常滑の観光スポットとして有名なものが(少なくとも地元の人間はそう思っている)、やきもの散歩道である。中心市街地の小高い丘にある散歩道で、レンガ造りの煙突や陶器の廃材を利用した坂道などを、迷路のような細い路地を回って見ていくのだ。地元の小学生は社会見学としてこの散歩道を歩かされるのである。

「土管坂近くの民家を改造してるんですよ」

「ああ、じゃあ近くね」

 ちょうど、このコンビニの裏にある細い路地を登っていくと、やきもの散歩道の中でもメインを張る(少なくとも地元の人間はそう思っている)土管坂があった。明治期の土管と昭和初期の焼酎の瓶がそれぞれ左右の壁面を覆っている細い坂道だ。

 未散はお茶を、海椙はお菓子やパンなどを買い込み、コンビニをあとにした。外は相変わらず大粒の雪が降り続いているが、風はそれほど強くない。

 細い路地に入り、散歩道へ。廃材となったものを地面に敷き詰めているため、この積雪でも安心して歩くことができた。

 傘を差しながら、先ほど買ったお茶を懐炉代わりに手の中で転がす。冷たくなってきていた頬に当てると、暖かさが気持ちよかった。

 五分ほど歩いたところで、細い十字路に出る。左手に有名(と地元住民は信じてやまない)な土管坂。右手を下りていくと、駅前の通りに出ることができる。

「雪化粧した土管坂も綺麗ですねー」海椙が立ち止まって指を差した。

「そう?」

「地元愛が希薄な人ですね」

「まあ、否定はしないけど」白い息を吐きながら、未散は苦笑した。「身内に陶芸家がいるくらいだから、あんたは地元愛が強いんでしょうね?」

「私は愛に満ち溢れてますから」海椙は笑う。「でも陶芸家の存在は関係ないですよ。陶芸家って言っても大した者じゃないですし。所詮、原松北条のネームバリューで何とか誤魔化しているだけですからね」

「辛辣ね」

「事実ですよ。原松北条の跡を継げなかったんですから」

 海椙はため息をつき、十字路をそのまま真っ直ぐ進んだ。未散もゆっくりとそれに続く。

「ネットで見たんだけど、もう一人のお弟子さん、瀬木透が後継者らしいね」

「そうなんですよ。後継者を決める最終選考に落ちたんですよ、あのエロ親父は」

「へえ」

「技量的に劣っていたわけではないようなんですけどねぇ」

「何か別の要因があったっていうこと?」

 海椙姓ならば人間性に欠陥を抱えていても不思議ではない。

「鑑識眼がなかったんですよ」

「鑑識眼?」

「エロ親父ですからね、土くれよりも裸の女ばかり見ていたんでしょう。もちろんモテないですからね、ビデオの中の、ですけど」

「……それで、瀬木透よりも鑑識眼が劣っていたと」

「原松北条が作った贋作を見極められなかったようです」

「北条が作った贋作?」未散は聞き返した。

「ええ。何でも、北条を継ぐ者にはその名の他に、特別な名品が渡されるそうなんです。明治初期の名工、えーっと、何ちゃらが作ったものらしいんですけどね、どうも原松流の本流だか何だか」

「曖昧ね」

「私だって詳しくはありませんよ。それで、その作品を北条が模して作り、二人に選ばせたんです。本物を選んだ者が、北条の名を継ぐに相応しい人物だと」

「そこで贋作の方を選んじゃったってことか」

「二択を間違えるんですよ? しかも、いい格好しようとして、わざわざ瀬木透と違う方を選ぶなんて。まったく、どうしようもないエロ親父ですよ」

「ふうん」

 話を聞いていても、彼女の個人的感情が先行しているために、情報としての正確性に欠ける。海椙敏久が北条の後継者になれなかったことに不満を抱いているのか、それとも二人の間に何かあったのか。節々に、悪意や敵意を感じられる。

 細い路地を進み、突き当たりの民家へ。表札などはなく、庭付きの古い木造平屋建てで、軒下に玉葱がいくつも吊り下げられていた。外壁に使われている黒く塗られた木材が、ところどころ剥がれそうになっている。いかにも田舎らしい、古くてぼろぼろな家屋だったが、陶芸家の工房と聞けば、そういう趣のあるものだと見られなくもない。雰囲気で誤魔化されそうだ。

 立て付けが悪くなっているのか、開けにくくなっている引き戸を海椙は全身を使って無理矢理こじ開けようとする。未散が止める間もなく、海椙は引き戸の下部分を蹴った。

「アルミサッシが生意気な」

 海椙は苛立ちながらそう言う。

 未散は周りを見渡し、インターフォンがないか探したが見つからなかった。

 庭にも雪が積もっているが、誰も足を踏み入れていないため、道路や他の場所よりも深く積もっているようだった。奥には小さな蔵が見える。

 大きな音を立てて海椙が引き戸と格闘していると、黒系統のジャージの上に紺色の半纏を羽織った中年の男が出てきた。まるでバラエティ番組のコントなどで使用されるかつらのような、そんな禿げ上がった頭に、だらしない腹が突き出ている。

「おいおい、わやだがや。相変わらず乱暴だな、葵」男は低い声で唸ると、呆れたような苦笑を見せた。

「いい加減直したら?」

「金がないもんだで、直そうにも直されへんの」

 そこまで言って、ようやく男の視線が未散を捉えた。未散が頭を下げる前に、男は目と口を大きく開き、海椙に詰め寄った。

「なんだ、お前、こ、こんな超のつくべっぴんさん連れてきて!」

 言ってなかったのか、こいつ。

 未散も海椙を見る。

「え、だめだった?」海椙はのんびりと首を傾げた。

「お前が俺の姪か何かでよかった……!」男は力強く頷くことで喜びを表現すると、未散に向き直った。「ようこそおいでくださいました。ささ、どうぞどうぞ、外は寒いでしょう。中へお入りください」

「どうも、長野原未散です。突然お邪魔してしまって申し訳ありません」未散はニット帽を脱ぎ、跳ねた髪を押さえながら、頭を下げた。

「ああ、ご丁寧にどうも。私、あの人間国宝三代北条の一番弟子、海椙敏久でございます」海椙敏久はとびっきりの笑顔を見せる。

「人の名前を使ってまでちっちゃい見栄を張らないでよね。しかも一番弟子って、微妙な嘘までついて」海椙は軽蔑の眼差しを、海椙敏久に向けた。

「ささ、どうぞどうぞ。何でもゆっくりとごらんになってください」

 身内の扱いには慣れているのだろう、海椙を無視し、未散を中に招き入れた。

 中に入ると、懐かしさ漂う土間が広がっている。敷かれているコンクリートはところどころにひびが入っていた。左手に居住空間があり、今は黒い板戸が閉じられている。右手には炊事場となっており、かまども見られた。そして正面奥には、轆轤ろくろがあった。近くにはビニール袋で包まれたブロック状の土が置かれている。天井からぶら下がっている照明も、古い家屋らしい裸電球だった。

「あ、じゃあ私はちょっと着替えてきますので」

 そう言うと、海椙敏久は奥へ引っ込んでしまった。

 土間に二人きりになり、未散は海椙を睨んだ。

「話してなかったとはね」

「話したつもりだったんですけどねぇ、忘れてたかも。でもまあ、いいじゃないですか。年中ここに引きこもってるようなエロ親父なんですから」

「そういうことじゃないでしょうに」

 未散が嘆息すると、海椙は反省する素振りも見せずに早速物色を始めた。いくら身内とはいえ、その根性には呆れてしまう。これで姉が刑事だというのだから、悪い冗談にしか聞こえない。

 奥の棚にはいくつか陶芸作品が並べられていた。やはり茶器類が多い。その中の一つを海椙が手に取り、指で弾いた音を聞いたりして、鑑定士の真似事をしている。

「わかるの?」

「わかんないですよ。どれも同じに見えます」

 なぜか胸を張る海椙に、未散は鼻を鳴らした。

「ほら、スイカとかスーパーで叩くじゃないですか。あれと同じですよ」

「叩いて何かわかるわけ?」

「わかんないですよ。でも叩くじゃないですか」

「よし最初から行こう。おかしいことを言ってるって、自覚はある?」

「え?」

「え?」

 海椙が首を捻り、未散も首を捻った。互いに、互いが理解できないという、怪訝な表情を浮かべている。

「お待たせしました」

「えっ?」

 振り返った二人は、同時に声を上げた。

 目の前には、タキシード姿の海椙敏久が立っていた。

「な、何て格好してんの、それ?」

 海椙が驚きながら尋ねる。

「え、これ? 別に、普段着だけど?」海椙敏久は平生を装うと、未散に笑顔を見せた。

「嘘つけ!」海椙は腹を抱えて、大声で笑い始めた。「馬鹿だ、馬鹿がいる!」

 未散も笑いたかったが、笑ってもいいのだろうか、悩ましいところだった。その隣では涙を浮かべるほど、海椙が笑い転げていた。

「葵、何がおかしい」

「美人が突然訪問したもんだから、浮かれて色気を出したんでしょ。それにしてもタキシードって! どんなチョイスよ! 馬鹿だ、轆轤ばかり回して頭が回ってないんじゃないの?」

 海椙は苦しそうに笑いながら、しかし的確な突っ込みを浴びせかける。

「あー、おなか痛い。もう、いいから薄汚い作務衣にでも着替えてきてよ」

「薄汚い作務衣なんか着ない。いつもこうなんだ」

 海椙敏久はあくまでも普段着であると主張した。

 未散は呆れながらも、心の中で笑っていた。一癖も二癖もある海椙家の人間は、良くも悪くも退屈を知らないにぎやかな者ばかりである。

 陶芸家、特に名工と呼ばれるような者は、頑固で言葉数の少ない職人気質の人間を連想していたが、少なくとも海椙敏久にそういったテンプレートは当てはまらないようだ。むしろ真逆を行く、非常にコミカルな者だった。

「さてどうしますか? 見たいものがあるのなら、自由に見てくださって構いませんよ」海椙敏久は未散に微笑みかける。着替えるつもりは毛ほどもないようだ。

「ね、ここにあるもので一番高いのってどれ?」海椙が間に割って入り、品のない質問をした。

「相変わらず現金な奴だなぁ、葵は」ジャージとは違い、窮屈そうな体を揺すりながら海椙敏久は苦笑を浮かべる。「お前が期待しとるようなものはここにはないでね」

「えー、ないの?」

「あらすか。そんなもん、ありゃあせんて」海椙敏久はため息をつきながら手を振った。「価値があるもんは店だったり、資料館だったりがちゃんと管理しとるんだて。価値のあるものは売らないかんだら? それを、ここに置いておくわけないがね」

「海椙敏久の作品はそうかもだけど、残念だけどそれは価値は低いし、欲しくないもん」海椙は身内に強烈な毒を吐く。「ほら、原松北条からの贈り物とかないの? 一番弟子を名乗るぐらいなら、北条の傑作の一つや二つ、譲り受けてるんじゃないの?」

「先生は生粋のけちだでね。なーんもくれん。ただ静かに黙々と轆轤の前で土と向き合ってるだけだからなぁ、ありゃあ、完全な変態だわ」

 最低にも程がある。

 一番弟子の口から出た言葉とは思えない、これ以上ない暴言だった。国宝に唾を掛けるに等しい行為だが、好意的に受け取るならば、愛ある一番弟子だからこその暴言だろうか。海椙家の者に掛かれば、人間国宝もひとたまりもない。

 怖いもの知らずだな、まったく。

「ていうかさ、実際のところ、原松北条って凄いの?」

「相手は人間国宝だもん、そりゃあ凄いぜ」

「たとえば叔父さんとかと、どう違うの? 作品だけを見てある程度の良し悪しがわかるとしても、同じプロならそこまでの差は開かないんじゃないの?」海椙は棚に並べられている作品を眺めながら聞いた。

「ま、俺は天才だからな。先生と遜色はないだろう」

「真面目に答えろ」

「……。まあ、真面目に答えるとだ、さっきも言ったろう? 先生は変態なんだがね。異常だでね、あの人は」

「変態は叔父さんもじゃん」

「俺は紳士だもん」タキシードの襟を軽く立たせて、したり顔を見せる。

「鏡見ろ」海椙は目も合わせずにばっさり。さらに追い打ちを掛ける。「こんなぼろ家にはないか」

「ま、先生はすべてに秀でとるんだわ。特に急須は、神懸かりと誰もが認めるほどだで。具体的に言うと、形態各部のバランスがすげーんだわ。そりゃあもう、びっくりするぐらい手に馴染むでね」

「そんなに違うものなのですか?」未散は海椙から渡された朱泥の急須を触りながら聞いた。

「全然違いますよ」口調を丁寧な標準語に戻し、海椙敏久は頷く。「色合いなどは素人さんには判断は難しいでしょうけど、少なくとも大量生産されたようなものでは絶対に出せない風味があります。わかりやすいところで言えば、やはり手取りの良さですかね。数ある急須の中から原松北条の作品を探し当てることも難しくありません。手に取れば、どなたでもすぐにわかりますよ。手の感覚ですからね、目隠ししていても、原松北条を知らなくても、わかると思いますよ。それぐらい、手に馴染みます」

「へえ」

「急須に求められる機能として、大きく三つあります」海椙敏久は三本の指を立て、一つずつ説明しながら順に折っていく。「一つは持ちやすさ。手に馴染み、軽いことが望まれます。日用品である茶器として非常に重要ですね。次に、茶殻が茶漉しで詰まらず粉茶が出ないこと。おいしい茶葉でも急須が台無しにしてしまうことだってあります。そして最後に、注ぎ口の水切りが良いこと。周りを汚してしまうのは見栄えがよくありませんからね。これら三つは、急須としての基本的な機能として常に求められるものですが、これらすべてを兼ね揃えたものとなると、機械による大量生産では難しいでしょうね」

「え、機械よりも人間の方が凄いってこと?」海椙が怪しむような目を向ける。「型とか取っちゃえば済むんじゃないの?」

「そういう手法もあるけど、鋳込いこみ急須って言うやつだな。それは大衆向けの、まあ、言葉悪いけど、程度の低いものぐらいまでだわ。先生を始め、名工と呼ばれる人間が作るものは機械なんかに負けやせんて」

 その日の気温や湿度、土の状態、火の温度など……。変数が多ければ多いほど、機械で再現するのは難しい。職人、名工と呼ばれる者には、何十年という膨大な時間によって培われた経験が、感覚として体に刻まれている。それを真似るのは今の技術では不可能だろう。素人を職人に育て上げる方が遙かに簡単だ。

「やっぱ凄いんだ」海椙は感心しながら、棚から取った紫泥しでいの急須を手の中で遊ばせていた。

「皿とか湯呑とか単純なものはそれっぽい形と釉薬で誤魔化せるけど、急須はなぁ。急須に最も適してるのが常滑焼と言われとるでね。急須には金属や、磁器でできたものとかいろいろあるけども、昔から無釉の土物が最高だと偉い人が言われとるぐらいだもんで。そしてその常滑急須を最大限に引き出せるのが手作りなわけだね。最高の急須である常滑急須の最高を作り上げるのが、先生、三代原松北条だがね」

「へえ」

 そこまで言われると触ってみたくなった。普通の急須で淹れたお茶とどれほど違うのだろう。できることなら飲んでみたかった。

 海椙も同様に興味を持ったようで、目を輝かせる。

「ね、ね、ここにはないの? 触ってみたい」

「だからありゃせんて。先生は超のつくけちだって言っただらぁ?」

 先ほどは超はついていなかったが。

「えー、じゃあお店とかにしかないの?」

「店にもないんじゃないか」たるんだ顎を触りながら海椙敏久は低く唸る。「みんな流行りものが好きなんだわ。人間国宝になってから、どこ行っても原松北条の名がついた作品はすぐに売れるもんだから残らないぞ。俺の作品も原松北条が作ったってことにすれば飛ぶように売れるだらぁけどな」

「詐欺で捕まってしまえ、身内の恥め」海椙が口の端を上げながら毒を吐いた。

 言われてみれば、三代北条の作品はどこにも売られていなかった気がする。未散はすべての通販サイトを隅から隅まで見たわけではないが、それでもあれば気がついただろう。今朝は気にも留めなかった。

「何よ、ここには何もないの?」

「俺のがあるじゃないの」海椙敏久は顎で奥の棚を示した。

 海椙は振り返り、鼻を鳴らした。

「あ、お前鼻で笑ったな?」

「じゃあいくらするのよ」

「高くはないけど……。俺だってそこそこの名工だからな?」

「そこそこの名工」

 海椙は言葉を繰り返し、小馬鹿にしたように笑った。

 たしかに、どれほどの名工でも、人間国宝の名には霞んでしまう。技巧を基準にして買うような客は少ない。大多数は土産として購入するだろうし、そういった客層は高いものには手を出さないだろう。飛び抜けた名工だとしても、人間国宝クラスでもなければ普通の人間は知らないだろう。実際、未散もそうだった。知っている名工など、地元の人間国宝くらいなものだ。

「試しにその急須、蓋を取って立たせてみ?」

「立たせる?」海椙は首を傾げた。

「持ち手のお尻を平らな場所に立たせてみるんだが」

 海椙は周りを見渡して適当な場所を探したが見つからず、最終的に床に急須を言われるように置いた。

「おお」

 持ち手の部分だけで立った急須を見て、未散も海椙も声を上げた。

「バランスの取れてる証拠」海椙敏久は得意気な笑みを浮かべている。

「へえ、おもしろーい」

「これはいい急須の特徴なのですか?」未散は尋ねた。

「持ち手が立つということは、胴体部の重心を貫いているということです。つまり、持ち手を中心に回転させてお茶を注ぐ際、最小の力でできる、ということなんです」

「なるほど」

「急須の形状によって立たない場合もありますし、一概に立つ急須がいい急須とは言えないですけど、作り手がバランスにも気を遣ってなければできないものですからね。一つの目安にはなるかもしれませんね」

「立ったところで、味は変わんないもんねー」

 海椙敏久が満足げに微笑み、未散が感心していたところに、海椙葵の無神経な言葉が飛んできた。


 3


「そういうわけで、先輩の大切な思い出の詰まったマグカップがそりゃあもう無惨に割れちゃったの。もう泣いちゃって泣いちゃって、みんなでわんわん鳴いちゃって」

 それは犬だ、馬鹿やろう。

「それでその代わりをね、探してるんだけど、やっぱりその大切なものの代わりとなったらそれ相応のものじゃないと、釣り合わないでしょ? 心の隙間はおか、値段で埋めるしかないでしょう?」

 言い直した意味があるのか、それは。

 十畳ほどの和室に通された二人は、海椙敏久が淹れてくれたお茶を飲んでいた。使われた煎茶器は、もちろん海椙敏久制作によるものだ。それを飲みながら、海椙葵が事のあらましについて、叔父か何か(二人の話しぶりを聞いていても、叔父か何か)である海椙敏久に説明をしている。

 盛大な脚色も度が過ぎればただの捏造である。

 否定することも億劫だった未散は、常滑急須で淹れてもらったお茶を楽しんでいた。

 苦みや渋みはたしかに角が取れてまろやかになっている。とてもおいしかった。普通の急須だとどうなるのだろう。この一杯だけでは茶葉によるものと言えなくもない。明確に急須の比較、評価をするとなれば、常滑急須ではない別の急須で淹れてみる必要がある。しかしそれでも、こんなにおいしい緑茶は初めてだった。

 もしも使われている茶葉が特別に高級なものでない場合、これは素直に驚嘆するべきことだろう。正直に言えば、少し馬鹿にしていた部分があった。そんなに味が変わるわけがない、と高を括っていたのだ。しかし、少なくとも常滑焼の急須は、そんな浅はかな考えを覆すだけの価値を有していた。

「これは、特別なお茶葉を使って淹れているのですか?」

 これ以上海椙に大げさな話を吹き込まれても困るので、未散は海椙敏久に尋ねた。

 失礼かとも思ったが、海椙敏久は気さくに答えてくれる。

「お客さんに出しておいて失礼なんですが、特別なものではありません。お茶屋さんで買った一般的なものです。その方が、常滑急須の魅力を伝えやすいですからね」

「とてもおいしいです」

「それはよかった」海椙敏久は恵比寿顔を見せた。「本当は、茶葉に合わせて急須を使い分けるのが一番いいんですが、そこまでする人は滅多にいないものですからね。どうしても丸いものが喜ばれるんです」

「ねえ、人間国宝の作品だともっとおいしいの?」海椙が素朴で無礼な質問をぶつける。

「雰囲気が大きいけどなぁ。でもまあ、作り方で熱の籠もり方とかも変わってくるで、違うは違うな」頷き、唸りながら、海椙敏久はお茶を啜った。「ただ、普通の急須から常滑急須に変えたような、そんな大きい変化はないかもしらん。先生の作品は手の馴染み方が半端でねえことが魅力だからなぁ、それ以上の味ってことになると、葉っぱを変えにゃいかんだらぁて」

「高い急須よりも高いお茶を買った方がおいしいってことか」

「ハードとソフトの問題だがね。お茶は飲みゃあなくなるけど、急須は割らんかぎりは使えるでね」

「でもここに原松北条の急須はないんでしょ?」

「ここにはないな」

「先輩もがっかりですよねー?」

 そこで話を振ってくるのか、この女は。

 未散は肯定も否定もせずに、苦笑を浮かべお茶を啜った。正直に言えば、人間国宝の作品に興味はある。もともと乗り気ではなかったものの、常滑急須に触れてみて、食指が動いたのも事実だ。

 タキシード姿の陶芸家は二重顎を強調するように唸りながら、何やら考え込んでいる。

「透も持ってないだろうしなぁ」

「透って、瀬木透? 原松北条の後継者の?」

「棘があるなぁ、お前は」自嘲気味に笑って海椙敏久は頷く。「そうだよ、時がくれば四代目を襲名する透だよ」

「情けない。真贋も見極められないなんて」

「……ええんだわ、あれで……」

 海椙敏久は呟くように言って、やさしく微笑む。

 その物寂しそうな笑みがとても印象的だった。

「とりあえず、透に聞いてみるかな」湯呑に残っていたお茶を飲み干すと、海椙敏久は立ち上がった。

 すると、それに合わせたかのように、懐かしい黒電話のベルが家の奥から聞こえてくる。

「まだ黒電話なの?」海椙が呆れたような声を出した。

「壊れんもんだい、あれでええんだて」そう言うと、海椙敏久は小走り気味に奥へ電話を取りに行った。

 窓の外を見ると、風はほとんどないものの、雪は激しさを増している。空から白い結晶がふわふわと、しかし大量に落ちてきているそれは、幻想的な光景だった。吹雪いていない点が、美しさを引き立てている。この地域ではあまり馴染みのない光景だ。不思議と、寒々しい感じはなく、むしろどこか暖かみのあるような、そんな気さえする。

「また強く降ってきましたねー」

「こんな日にわざわざ出掛けようなんて」未散は短く息を吐き、お茶を啜った。渋みなどが丸い、甘いお茶であるが、玉露とはまた違う。安い豆のコーヒーから、日本茶をメインにしようかと考えるほどにおいしかった。これを機に、煎茶器について勉強してみてもいいだろう。

「おいしいですね、このお茶」

「うん」

「学校で使ってる急須って、常滑焼でしたっけ?」

「違うと思う」思い出しながら未散は答えた。「地元の工芸品を使っていてもおかしくはないけど」

「学校用にも何か貰っていきましょう」

「やめておきなさい。学校の連中にわざわざそんなことをする必要はない」

「あれ、楽しみは共有しないで、独占するタイプですか?」海椙は首を傾げ、おかしそうに笑う。

「そうね」未散は素っ気なく答える。「少なくとも、楽しみを共有したいと思える人間は職場にはいない」

「あ、酷い。私はどうなるんですか?」

 怒りを顕わにする海椙を横目で見て、未散は鼻を鳴らした。

「あんたはその筆頭よ」

 後輩をからかっていると、奥からタキシード姿の陶芸家が戻ってきた。人間の順応力は凄まじいものがある。すでにその特異な光景も、見慣れてしまっていた。

「四代目は持ってた?」

「いや、持ってない」海椙敏久は首を振ったが、そのまま続ける。「ほいだけどよ、何か、先生の様子を見に行くことになったもんだから、直接工房へ行けば何でもあるんじゃないか」

「え、様子見るって何? 具合悪いの?」海椙は眉を寄せ、聞き返した。

「んー、それがよくわからんだがぁ。ただ、透のやつがちょっと心配だから見に行こうってなってな。ほら、この雪だらぁ? 先生もまあえらい歳だしよ」海椙敏久は窓の外に目をやりながら肩を竦めてみせた。

「電話は掛けてみたんですか?」未散も尋ねる。

「それがですね、出ないみたいなんです」海椙敏久は心配そうに、顔を顰めた。「まあ、作品の制作に入っているとなかなか電話に出られないこともあるので、珍しいことでもないんですけどね」

 三代原松北条の年齢は七十前後だったはずだ。この大雪である。特別に吹雪いているわけでもないが、足を滑らしたりしたら大変だ。この程度ならまだいいが、雪かき中の事故は全国的によく耳にするニュースである。心配になるのも無理はない。

「ね、私達も一緒に行っていい?」

 私達?

 未散は顔を引きつらせた。

 またこの女は、悪い癖を。

「おう、じゃ行くか」

 未散が呆れているうちに、話はどんどん進み、結局三人で三代北条の様子を見に行くことになってしまった。

 人間国宝の作品を直に見ることができるかもしれない、という下心もあったため、未散は小さく肩を竦めることで諦めた。腕時計を見ると、あと十五分ほどで午前十一時になろうとしている。午前中だけのつもりだったが、この調子だと昼は過ぎ、夕方に帰られるかどうかといったところか。夕飯の買い出しは諦め、パスタでも茹でることにしよう、などと考えを巡らせる。

 海椙敏久は先に外に出て、申し訳程度の車庫へと向かった。そこから黒の軽自動車を出し、雪道用にチェーンを取り付けるみたいだ。

 未散達もコートを着てから土間でブーツを履く。

「三代北条の家ってこの辺りじゃなかった?」コートのボタンを留めながら、海椙に聞いた。

「工房は別なんじゃないですか? よくわからないですけど。たしか、大曽おおそだったかな、そこで焼いてるって話を聞いたことがあったようななかったような……」

 大曽は街の外れの地区で、ここから車だと十分ほどのところに位置している。市が管理している公園とプールを除けば、周りには潰れた工場跡地や空き家ぐらいしかない。この街では一番寂れている地域ではあるが、それ故に一番静かな地域であると言える。制作に集中するにはいい環境なのかもしれない。

 五分と掛からずにチェーンの装着を済ませた海椙敏久が戻ってきた。

「それじゃあ行きましょうか」

 未散達は外に出て、海椙敏久は玄関に鍵を掛けた。

 チェーンを取り付けるわずか数分の間に、軽自動車にはすでにうっすらと雪が積もっていた。

 未散と海椙は後部座席に乗り込む。エンジンを掛けていてくれたので、車内は暖房が効いていた。

「雪がいっぱいですねー」

 海椙がはしゃいだ声を上げる。彼女は運転席の方へ腕を伸ばし、ワイパーを作動させた。フロントガラスに積もっていた雪が一気に取り除かれると、嬉々とした表情で体を震わせる。

「きゃー、気持ちいいー!」

「小学生か」

 未散が肩を竦めると、タキシードについた雪を払ってから海椙敏久が運転席に乗り込んできた。

「三代目と四代目はどこに住んでるの?」海椙がシートベルトをしている海椙敏久に聞いた。

「先生の家はこの近くだったけどなぁ、あんまり煩わしいのが好きじゃねえんだわ。それで、大曽の工房に引っ込むようになったんだわ。透は、この先をもうちょっと行ったところに住んどるで」ギアをローに入れ、アクセルをゆっくりと慎重に踏み込みながら海椙敏久は答えた。

「心配だから様子を見に行くって、よくあるの?」海椙は質問を続ける。

「どうだろうなぁ」曖昧に答えながら、ハンドルを切る。「心配だからっていう理由じゃあ行かんじゃないの? ときどき顔を見せに行ったりとかするけどさ」

「だよね。奥さんが様子見に行けばいいもんね、だって」

「おばさんも家だろうから、ってことじゃないのかなぁ。年寄りの様子を見に行かせるのに年寄りに頼んだら行かんだらぁしな」

「そりゃそうだ」

 細い路地を抜け、国道247号線に出ても交通量は相変わらずだった。反対車線を走っている車もほとんど見られない。追い越し車線の方は轍が残らないほど新たな雪が降り積もっており、交通量の低さが目に見えて感じられた。

「人全然いませんねー」

 海椙が遠くを見ながら言ったが、大雪のためそもそも視界は悪い。風がないのでまだいいが、こんな日に外へ出ようと考える者は少ないだろう。誰だってこたつで丸くなっていたいはずだ。

 車は大曽方面に向かって走り、細い脇道へ入る。周りは竹林で囲まれており、田んぼが目立ち始めてきた。大きなため池の脇を通り、信号を右へ折れる。右手に小さな工場が見えるが、今日は休みなのか、それとも閉鎖されているのか、判断がつかない寂れようだった。

「ねえねえ、四代目とは仲いいの? 恨み辛みとかないわけ?」

「仲ええよ。たまに、あいつの趣味に付き合って、一緒に釣りに行ったりもするでね。何で恨まなあかんだて」

「だって、四代目を継ぎスポットライトが当たる者と、後継者になれずに表舞台から消える者とじゃ、雲泥の差じゃん」

「消えすか、俺は」

「だといいけど」

 道なりに真っ直ぐ進み、途中の脇道に車は入っていく。脇道に入る手前のところに、この先は私有地であるため通り抜けができないという旨の看板が立てられていた。木々に挟まれた車一台分の脇道に入ると、車は激しく揺れ始めた。雪で隠れていて見えなかったが、舗装されていない砂利道だろうか、かなりの悪路のようである。

「にゃー」

 海椙が揺れに任せて未散に抱きついてくる。未散はそれを振り解きながら、前のシートに掴まった。

「すいませんね、もうすぐ着きますから」

 海椙敏久のその言葉の通りに、ようやく民家らしい建物が二つほど見えてきた。どちらも木造建ての古い建物だが、一方には煙突がついている。建物同士は五メートルほど離れていた。煙突のある方が工房で、もう一方が住居として使われているのだろうか。

 ある程度の敷地の広さは確保されているものの、土地自体が森の中にあるため、周りは木々で覆われている。

 平屋建ての前にワゴンタイプの軽自動車が駐まっており、ちょうど、運転席から灰色のジャンパーを着た男が降りてきたところだった。歳は海椙敏久と同じくらいだが、髪は白いものが混じっているもののボリュームがあり、眼鏡を掛けている。彼が瀬木透だろうか。こちらのエンジン音に気がつくと、運転席の海椙敏久に向かって片手を上げた。

 ワゴンの横につけると、三人は車を降りた。海椙が傘を差したので、未散はその中に入らせてもらうことにした。

「透も今来たところか? グッドタイミングだな」

「ああ……」頷き掛けた顔が固まり、瀬木透は目を大きくさせた。「何だお前、その格好は」

「え?」海椙敏久は自身のタキシードを見つめながら、多少、はにかんだ。「な、何言っとるの、いつもの格好でねえか」

「はあ?」笑おうか迷ったのか、瀬木透は顔を引きつらせる。「毎日パーティでもしてんのか、お前さんは」

「まあまあ」苦笑しながら、海椙敏久は振り返った。「ああ、紹介します。こいつが瀬木透。しがない陶芸家です」

「どうも初めまして。長野原未散です」未散は頭を下げた。

「どうも瀬木です」瀬木も丁寧に会釈を返してくれる。

「こいつ覚えとるかね? 俺の姪か何かの」

 海椙の肩を叩きながら、海椙敏久は瀬木に向き直る。

「ああ、えっと、下の子だよね。葵ちゃんだったかな?」

「はい。覚えててくれたみたいで」海椙は微笑んだ。

「お姉ちゃんは、茉莉ちゃんは元気?」

「ええ、たぶん」

「そうか」頷きながら、瀬木は海椙と未散を見ていた。

「あ、私高校の教師になって。こちらは先輩」海椙は瀬木の視線の意味を理解し、その疑問に答えた。

「ほう、そうか。立派になったなぁ」

 瀬木透は感慨深げに頷いた。

「で、先生はどうなんだ。おったのか?」

「いやわからん。俺も今来たとこだから」

 海椙敏久の質問に答えながら、瀬木透は建物の方に振り返った。

 一本道を通ってきた先には、目の前の三代北条の家と工房しかなく、それ以上は行き止まりになっている。そのため降り積もった雪は手がつけられておらず、綺麗でなめらかな、白の絨毯が広がっていた。ただ、左手の建物、煙突のない方は、玄関周りに積もっている雪が崩れている。足跡とまでは断定できないが、何かが移動したような形跡があった。

「おーい、先生ー! かわいい弟子が来てやったでねー!」

 そう大きな声を出しながら、海椙敏久は煙突のある建物の方へ歩いていく。瀬木透もそのあとに続いた。

「どこがかわいいんでしょうね?」海椙が首を傾げる。

「さあ」未散は適当に言って、タキシード姿を目で追った。

 三代北条の弟子達は黒い木製の引き戸をノックしながら呼びかけている。しばらく待っても返事はなく、二人は首を傾げて、引き戸に手を掛けた。

 未散達もそちらへ歩いていく。雪は二十センチは積もっているだろうか。隣を歩く海椙が少し足を取られそうになっていた。

 二つの建物はそれほど大きいものではない。それぞれ十二から十八畳ほどの大きさで、小屋と表現するのが適しているほどだ。とても人間国宝の工房とは思えない、寂れた印象を受ける。人を呼ぶわけではないのだから華やかにする必要はないのだろう。

「鍵が掛かっとるな」引き戸に手を掛けた海椙敏久は振り返って言った。そして隣の建物を指差す。「家か?」

「だな」

 瀬木透は頷き、そちらへ歩いていく。未散達もあとへ続いた。

 玄関は両開きドアで、古い木製のものだった。取っ手の部分もかなり古くなっており、全体的に色褪せている。

 その取っ手に手を掛けた瀬木が、首を捻った。そしてこちらを見る。

「何だ留守かぁ?」海椙敏久も高い声を出しながら、取っ手に触れ、軽く押したり引いたりした。だがドアは開かず、海椙敏久も首を捻りながらノックした。「先生ー? 俺だでー? いたら返事してちょーよ」

「こんな雪の日に外へ出掛けますかねー?」海椙が首を傾げながらこちらを見てくる。

「普通は出掛けないでしょうね」未散は、海椙の頬を抓りながら言った。

 辺りはしんと静まり返っており、家や工房、どちらの建物からも物音は聞こえてこない。近くの窓は砂埃などで薄汚れており、さらにはカーテンが引かれているようで中の様子は窺えそうになかった。少なくとも、中から明かりは漏れてきていない。

「あれ?」

 その窓枠に近づいていた海椙が声を上げた。彼女は窓ガラスに対して斜めから中を覗いている。どうやら、カーテンの隙間から中が見えるようだった。

「どうかした?」瀬木透が緊張した顔を海椙に向ける。

 窓枠から顔を離した海椙の顔は、わずかに引きつっていた。そして彼女は窓の中を指差しながら、未散の顔を見る。端から見れば、笑っているのか泣いているのか、判断に困る引きつり方だった。少なくとも、何かあったことは明白だった。

 未散は海椙と代わるように窓枠に近づき、中を窺う。部屋の中は暗く、手前に引かれているカーテンが邪魔ですぐにはわからなかった。

 足があった。

 細く、皮と骨だけのような、干物のような足。足袋か何かを履いており、緑色の裾から足が覗いていた。

 この位置からでは見えるのはそれだけ。だが、それだけで異常だとわかる。

 つま先が畳についていた。踵が上へ向いている。

 つまり、俯せで倒れていることがわかる。

 寝る体勢としては、不自然だった。とくにこの冬場、布団も敷かず、畳に直となると、ひと目で異常だとわかる。返事がないことから考えてみても、明らかだった。

「人が倒れています。和装の年配の方かと」

 未散は手短に話した。そして、窓に手を掛けるが、鍵が掛かっていた。

「先生だが」

 海椙敏久が顔を蒼くして、瀬木透を見た。瀬木透も息を呑み、窓枠に近づいて中の様子を窺おうとする。

「先生! 先生!」

 海椙敏久は声を張り上げ、窓を叩いて呼び掛ける。だが何の反応も返ってはこない。

 海椙は玄関に向かいドアに触れたが、すぐに諦めてこちらを見た。

「他に出入口は?」

「裏に勝手口がある!」

 海椙と未散は、裏へ回る。まだ踏まれていない雪に足が取られそうになったが、構わずに走った。

 勝手口のドアノブに手を掛けたが、ドアを引くことはできなかった。鍵が掛かっている。

「だめ」

 未散は短く言って、他の出入口を探した。トイレと浴室のものと見られる小窓があるが、どちらも格子が組まれており、人の出入りはできそうにない。一応そちらに手を伸ばしてみたが、どちらも施錠されていた。

 玄関の方から、海椙敏久と瀬木透の二人がノックと合わせて呼び続ける声が聞こえてきている。

「どうしましょう?」

 海椙が不安そうな表情で未散を見つめる。

「携帯は?」

「ありますけど」

「救急に連絡しなさい」

「え、でも……」

「誤報ならあとで笑いながら謝ればいい。急ぎなさい」

「は、はい」

 海椙は頷くと、慌てた様子で携帯電話を取り出し、一一九番に通報した。

 未散は他に出入りできそうな場所がなかったので、表に戻ることにする。二人がまだ呼び続けていた。

「だめです。裏にも鍵が掛かっていました」未散は簡潔に話した。

「なんてことだ」海椙敏久がため息をつく。「全部鍵が掛かっとるでねえか」

「仕方ない。敏久、石を探してくれ」瀬木透が言う。

「石? 石なんかどうするの?」

「窓を割るしかないだろう」

「石ったってお前……」

 海椙敏久は多く雪が降り積もった辺りを見渡す。どこに石があるか、探すのに時間が掛かりそうだった。

「石じゃなくてもいい! とにかく何か、窓を割るに使えそうな……。車の中には何かないのか?」

「見てみるわ」海椙敏久は車まで走った。

 満足に中の様子を窺うこともできない。これだけの声に何の反応も返ってこない。そして高齢に、この大雪での気温。

 緊急性を考慮し、未散は窓枠に近づいた。

「失礼します」

「え?」

 未散は一言断りを入れると、窓ガラスに右肘を打ち込んだ。一発目でガラスにひびを入れ、力を弱めた二発目でそのガラスを落とす。あまり強く打ちすぎると、破片が奥まで飛び散ってしまうので力加減が難しかった。

 できた隙間から手を伸ばし、錠の形状を手探りで確認する。一般的なクレセント錠ではなく、懐かしい、捻子締り錠が用いられている。この家のような、古い日本家屋の引き違い戸ではよく見られるもので、内側から鍵を鍵穴に入れて、回転させることで戸を締めつけて固定させるものだ。学校の教室、廊下に面している窓などにも用いられているが、それ以外ではほとんど見なくなった。

 解錠し、窓を開ける。

「おお……」瀬木透が声を漏らした。「空手か何かを?」

「ええ、まあ」答えながら、未散は窓枠に足を掛けた。ブーツのまま失礼することにした。

 照明のついていない室内は薄暗かったが、部屋自体は広くなかったので、事態を把握するのに時間は掛からなかった。部屋の中央、ちゃぶ台の横。

 老人が頭から血を流して倒れている。

 未散はそちらに近づき、老人の首元に手を当てた。

「…………」

 冷たかったので一瞬ひやっとしたが、まだ脈はあった。ただ脈拍自体は弱まっているので、一刻も早い処置が必要だった。

 辺りをざっと見渡したが、どこかに頭をぶつけた痕跡はない。ちゃぶ台の上には灰皿が載っており、吸い殻ではなく、この家のものと思われる鍵と南京錠が置かれていた。

「先生!」

 海椙敏久と瀬木透の二人も窓から中に入ってきて、不安な面持ちで叫んだ。

「大丈夫。まだ生きてます」

 未散は言って、コートを脱ぐ。そして脱いだそれを老人に掛けた。瀬木も未散に倣って灰色のジャンパーを脱いで、コートの上に重ねる。

 倒れている和装の老人、三代原松北条は後頭部から頭頂部にかけて傷を負っており、出血が確認できた。周りの畳を赤黒く汚していた。

「綺麗なタオルかその代わりになるようなものを持ってきてくれませんか?」

 未散は隣で顔を蒼くしている海椙敏久に指示を出した。

「あ、ああ、はい」慌てた様子で頷くと、海椙敏久は立ち上がって辺りをきょろきょろと見渡した。

「落ち着け、敏久」瀬木透は冷静に務めるよう、声を出した。しかし、彼の顔も引きつっていた。「洗面所の方に替えのタオルぐらい置いてあるだろ」

「ああ」

 海椙敏久は体を揺らしながら、襖を開けて奥へタオルを取りに行った。

 未散は慎重に原松北条の体を起こし、体を横向きに寝かせる。

「聞こえますか? 原松さん、聞こえますか?」

 未散は声を掛け、反応を待ったが、返ってこなかった。

 意識はない。痙攣などは起こしていない。口許を確認したが、嘔吐などはしていない。次に鼻や耳を観察し、髄液が出ていないこと、出血していないことも確認した。

 畳の血の一部は乾燥し、赤黒く変色している。意識がないことも合わせて考えると、やはり急を要する。

「先輩」海椙が窓の外から携帯片手に未散を呼んだ。

「後頭部から頭頂部にかけて外傷があり、それによる出血。意識はない。呼吸はしているが、脈拍は弱くなっている」未散は冷静に、現状を海椙に伝える。「痙攣は起こしていない。嘔吐もなし。耳や鼻からの出血、髄液の流出もない」

 海椙はそのまま、未散の言ったことを担当者に報告した。

 海椙敏久が何枚か手拭いを持って戻ってきた。未散はそれらを受け取り、手拭いで直接患部を圧迫させ、止血を行なう。素手だったので、直接血液に触れないよう注意した。

「先生……」海椙敏久は今にも泣き出しそうな、そんな顔をしている。「先生は、大丈夫ですよね?」

「わかりません。私は医療に従事しているわけではありませんので……」

「……どうして、どうしてこんなことに……」海椙敏久は声を震わせる。

「…………」

 瀬木透は土間に下り、玄関の方へ移動した。玄関を開ける音が聞こえ、海椙が中に入ってくる。彼女は携帯を差し出し、未散の耳元に近づけた。未散は彼女と電話を替わり、担当者からの指示を受けた。指示の通りに応急処置を施しながら、未散は海椙敏久と瀬木透を見る。

「もうすぐ救急車が到着するようなので、案内できるように、脇道の手前で立ってきてもらえませんか?」

 未散がお願いすると、瀬木透が頷いた。

「そうだな、わかった」瀬木透は海椙に顔を向ける。「葵ちゃん、傘借りるよ」

「ええ」

 瀬木は海椙の傘を差すと、白い息を吐きながら体を震わせ、足早に一本道へ歩いていった。

 外は相変わらず雪が降り続いており、その勢いはさらに増すばかり。救急隊の事故による出動も多いかもしれない。道中、積雪のためにスピードが出せないかもしれない。とにかく、今は救急隊の到着を待つだけだった。

 ほどなくして、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。これほどのこの音に安堵したこともなかっただろう。未散を始め、三人は大きくため息をついた。まだ予断を許さないとはいえ、それでも少し、力が抜けた。


 4


 原松北条は市民病院まで搬送された。海椙敏久と瀬木透の二人も付き添いでついていくことになった。海椙敏久は救急車で、瀬木透は自身の軽自動車で病院までついていった。

「さすがはプロの救急隊員ですねぇ、タキシードにも表情を変えませんでしたよ?」

 軽口が叩けるほどまでに、余裕を取り戻したらしい。

 そんな海椙葵には構わず、未散はため息をついた。短く息を吐き、海椙を軽く睨む。

「な、なんですか。わ、私は何もやってませんよ?」

「あんたと一緒だと、どうしてこうも面倒が起きるのかしらね」

 未散は自身の右手を見つめながら嘆息した。掌にべったりと血がついており、それが乾燥しつつある。台所の流しを借り、手を洗うことにした。

「警察に通報は?」石鹸で念入りに洗いながら、未散は尋ねた。

「しましたよ。お姉ちゃんの携帯に直接したから、すぐに来てくれると思います」

 手を洗い、ハンカチで拭こうと思ったが、コートのポケットだったことを思い出す。

「どうぞ」海椙がタオル生地のハンカチを差し出してくれる。

「ありがと」

「それにしても、どういうことなんでしょうねぇー」海椙は振り返り、部屋を見渡す。

 未散も手を拭きながら、原松北条が倒れていた辺りを見つめた。畳の和室。そのほぼ中央に、血溜まりができている。ほとんど乾いており、酸化のために茶色く変色していた。

「密室殺人ですよ」

「勝手に殺すな」

「でもどういうことなんでしょう。あれですか? 夏にプロレス観に行ったときにも、似たようなことがありましたよね」

「今回は事故じゃないでしょうね」

 未散は部屋を見渡しながら呟くように言った。

 六畳一間の和室は、綺麗に整頓されている。ものはあまりなく、家具も最低限のものしか置かれていなかった。壁には隅金具が付いている民芸調の小さな箪笥が置かれている。反対の窓際の壁にはその箪笥と同じ造りの文机。あとは部屋中央の丸いちゃぶ台。

「三代北条は後ろから殴打された」海椙は血の染みを見つめながら言った。

「たぶんね」未散は頷く。「この部屋にはものがないし、どこかに頭をぶつけたということも考えにくい」

「割れた花瓶が落ちてるわけでもないですしね」海椙が顔をこちらに向けた。「犯人が凶器を持ち去ったってことですよね?」

「そうでしょうね」

「でも密室ですよ」

 未散は土間へ降りて、玄関のドアを観察した。古い木製の両開きドアで、内側に金属製の小さな閂が取り付けられている。レバーを横にスライドさせるタイプのもので、内側からしか掛けることができない。外側に回ると、こちらにも古い金具が取り付けられており、出掛ける際には南京錠などで施錠するみたいだ。

 灰皿の中に置いてあったものだろうか。警察が来るまで不用意に触るわけにもいかない。

「…………」

 玄関脇の下駄箱の上に、烏泥うでいの壺を始め、いくつかの陶器が載せられていた。それとは別に土間には、壁に沿って棚が設けられており、高級そうな木箱や陶器類が並べられている。

「これって、三代北条の作品ですかねー?」

「触るなよ」

 海椙が手を伸ばそうとしたので、未散は釘を刺した。

 伸ばした手を引っ込めながら、海椙はばつが悪そうに苦い笑みを見せる。

「あれ?」

 海椙の視線は棚の中央で止まり、彼女は不思議そうに首を傾げ、未散を見た。未散も思わず眉を寄せる。

 棚の一つ、綺麗に陶器類が整頓されているその中央に、ぽっかりと一つ分の空間が空いていた。周りには、その場所に置かれていたようなものは見当たらない。一つだけ、作品が抜けている、と見るべきだろう。

「不自然なスペース」

 中央の部分であるため、ここだけ飛ばして並べていたとは考えにくい。

「やっぱりあれですかね?」

「あれ、とは?」未散は聞き返す。

「犯人が持ち去ったんですよ、きっと」

「ここにあった一つだけ?」

「たぶん、一番価値のあるものだけを選んだんですよ」

「なら、犯人は目利きのできる人間ということね」

 未散は軽く鼻を鳴らした。

「あ、また」

 海椙は未散を見て、頬を膨らませた。

「何?」

「今馬鹿にしたじゃないですか! いつものように、人を見下した感じで!」

「気のせいでしょ。あんたの被害妄想よ」

「いいえ、違います。絶対に馬鹿にしました。されました」

「わかったわかった。したした。いつものように、あんたを馬鹿にした」

「それだって!」

 面倒な女だな。

 なぜか怒っている海椙を適当にあしらいながら、未散はため息をついた。家の中とはいえ、土間はかなり冷える。コートを脱いでいるのでなおさらだったが、今さらコートを着る気にもなれなかった。

 土間の奥には、海椙敏久の自宅と同様、轆轤がある。轆轤の回りには水に溶けた粘土が飛び散っており、古いコンクリートの床を汚していた。

 隣の建物が工房だと思ったのだが、あちらは窯だけなのだろうか。それとも、それとは別に、なのか。

 轆轤の横にレバーがあり、本体からは電源ケーブルが伸びている。電動轆轤。

「懐かしいですねぇ、轆轤」

「普通科高校では習わないからね」

 地元の小学校や中学校では、轆轤の実習授業がある。専用の轆轤室はもちろん、焼き上げる窯まで完備しており、陶芸を部活動として取り入れている学校もあるくらいだ。何作品か、地元の人間ならば作った経験があるだろう。

「あ、警察が着いたみたいね」

 複数のサイレンが麓の方から聞こえてくる。先ほどの救急車の音に比べれば、随分と攻撃的な音だった。

「わざわざサイレンを鳴らしてくる必要ってあるんですかね?」海椙が玄関を開け、外に出る。

「さあ。耳障りなのはたしかだけど」

 たしかに、事後なので緊急性は低い。素早く現場に到着することは望ましいが、慌てる必要はないだろう。余計な野次馬まで引きつけてしまうことを考えれば、特に今回の場合などは静かに来てもらいたいものだ。

 パトカーが二台、とりあえず一本道に入ってきて、未散達を確認するとサイレンを消した。

「最悪の休日ね」未散は笑って、皮肉を口にする。「こたつで丸くなってる方がよかった」

「雪だるまを作ってたら、この事件には巻き込まれていませんでしたよ」

「どうだか。疫病神とは顔見知りの仲でしょ、あんた」

「先輩に不幸を届けるよう、伝えておきますね」

 軽口を叩いていると、パトカーから警官とともに海椙茉莉が降りてこちらにやってくる。彼女は黒のロングコートを着ていた。夏に見たときよりも多少ふっくらしていたが、それでも標準よりもかなり痩せている。

 もう一人、背の高い強面の男が一緒に降りてきた。彼は他の警官達に指示を出しながら、海椙茉莉とともにこちらへ歩いてくる。オールバックで一重、縁無しの眼鏡を掛けており、刑事ということもあってか、かなり威圧的な雰囲気を纏っていた。隣の海椙葵が小さな声で「うわぁ」と漏らしたほどである。

 海椙茉莉はスーツの内ポケットから、オールバックの男は腰の辺りから、それぞれ警察手帳を開いてこちらに見せた。見せたと言っても、手帳を開いていた時間は一秒にも満たず、すぐに閉じてしまった。非常に作業的であり、一瞬だけ開いた、というのが正しい表現だ。

 形式的に見せても意味はないだろうに。

 開いていた一瞬から読み取れたのは河中英治という名前と警部補という階級。現場の指揮を執るのはこの男なのだろうか。

「常滑署の河中かわなかです」

「海椙です」

 海椙刑事はわずかに表情を緩ませたが、河中刑事は無表情のままだった。

「早速ですが、話をお聞かせ願えますか」

 河中の切れ長の目が向けられる。

「えっと、何から話せば……」

「ではここへ来ることになった経緯から順に」

「瀬木さんから叔父さんに電話があって」

「被害者に付き添っている二人ですね。瀬木透さんと、海椙敏久さん。どちらも原松北条さんのお弟子さんだとか」言いながら、河中刑事は横目で海椙刑事を見てから、その視線を海椙に向ける。「姉妹だそうですね。海椙敏久さんとも親戚筋だと」

「ええ」

 海椙が頷くと、今度は未散を見つめる。冷ややかで、鋭い視線だった。

「長野原未散さんは、海椙葵さんと同じ職場の先輩後輩ということでよろしいですか?」

「はい」

 未散の返事を確認してから、河中刑事は海椙に向き直った。

「失礼。続けてください。電話の内容はどのようなものでしたか?」

「詳しくはわかりませんけど、北条さんの様子を見に行こうということだったと思います」

「なるほど」

「私達三人は叔父さんの車で。瀬木さんとはここで落ち合うことになってました」

「ここへ到着したのは何時頃でしたか?」

 河中刑事の質問に、海椙は未散の顔を見た。

「十一時を少し過ぎたところだったと思います」海椙の代わりに未散が答えた。

「瀬木さんはいつごろ?」

「私達とほぼ同じだと思います」海椙が瀬木の車が駐まっていた場所を見つめながら言った。「私達が着いたときに、車から降りてきていましたから」

「わかりました。そのあと、時間をほとんど置かずに救急へ通報されていると思いますが、どういう経緯でしょう?」

「ここと、向こうの建物、工房だと思いますけど、そこが閉まっていて。ノックしても返事がなくて」

「留守だとは思わなかったのですか?」

 河中は淡々と、調子を変えるわけでもなく、刃物のような視線を見せる。

 海椙はわずかに表情を曇らせたが、未散は心の中で舌を鳴らしただけだった。

「この雪の中、足のない老人がどこへ出掛けると言うのですか?」平静を努めて、未散は逆に聞いた。

「さあ、それはわかりません」河中はわずかに口の端を上げる。微小なものだったが、初めて無表情が崩れた。「それで、どうされたのですか?」

「えっと、私が、窓から中の様子を見たんです」

 海椙は土間に移動しながら、窓の方を見て説明した。位置的に土間の板戸が邪魔だったのだろう、河中刑事と海椙刑事が奥へ進みながら、室内の方へ顔を覗かせる。

「それで、足が見えて……」そこまで言うと、海椙は未散を見た。

「私も確認をしました。足しか見えませんでしたが、体勢的に俯せであることがわかりましたし、何も反応がなかったことから緊急性があると判断して、彼女に通報をさせました」

「なるほど。それは、かなり冷静な判断ができましたね?」

 河中はまたも攻撃的な眼を向ける。口調に怒気は籠もっていないが、常に威圧的な雰囲気を出している。鼻につく男だが、それが狙いなのだろうか。

「普通の人はなかなかそこまで冷静に判断することはできないでしょうね」

「普通でない人間が普通の基準を持っていると思いますか?」未散は無表情で首を傾げる。

「ああ、お気に障ったのなら謝ります。ですが、私は褒めたつもりだったのですよ」

「それでそのあとはどうなさったのですか?」海椙刑事が場を和ませようと、明るい声で尋ねた。

「出入りできそうな場所がなかったので、窓を割って中に入りました。あとは指示を受けながら応急処置を」

「なるほど」

 河中は頷きながら、土間から室内を見渡した。土間に通じる部分の板戸、台所へ通じる部分の襖は今は開かれており、制服を着た男達が作業をしている。

「私達が話せるのはそれくらいです。あとは、叔父さん達の方がこの家のことなども含めて詳しいはずです」

「わかりました」河中は頷くと、部下である海椙刑事を見る。「君は、ここに来たことは?」

「まったくないわけではありませんが、何か参考になる記憶があるほどではありません」

「そう」

 河中は頷くと、未散と海椙に向き直る。

「最後にお尋ねしますが、不審な人物を見かけたりとかは?」

「ありません」

「他に何か気になることがあれば。些細なことでも構いませんよ」

「あ」海椙が声を上げ、後ろの棚へ振り返った。

「何ですか?」

「ここなんですけど」

 海椙は先ほど話していた棚の中央の、不自然なスペースを指差した。二人の刑事は顔を見合わせながら、眉を顰める。

「ここ、一つだけ空いてますよね?」

「ええ……。それがどうかしましたか?」

「どうというわけでもないですけど、もしかしたら盗まれたんじゃないのかなって」

「ああ、なるほど」河中は無表情のまま頷いた。「人間国宝の作品だとするならば、相当の価値がありますからね」

 その後、河中は部下達に指示を与えると、現場をあとにした。病院へ向かうのだろうか。心なしか、全体の雰囲気が軽くなったような気がする。警察関係者達も重圧を感じていたのだろうか。

 盛大にため息をついたのは海椙だった。そんな妹を見て、海椙刑事も苦笑を見せている。

「げそ痕とか指紋とか取るの?」海椙がうんざりといった顔で聞いた。

「どうしてそんな言葉知ってるのよ」海椙刑事はおかしそうに笑う。「まあ、あとで取ることになるでしょうけどね」

「ねえねえ、お昼まだなんだけど、早く帰れる?」

「よくそんな食欲あるな」未散は呆れてため息をついた。

「名探偵の先生は、今回の事件はどう見てますか?」

「え?」

 未散は顔を歪める。目の前には、怒っているのか笑っているのかわからない、海椙茉莉刑事の顔があった。海椙葵がいつもしている好奇心に溢れた顔と似ているが、それは姉妹だからかもしれない。憎たらしい顔だった。

「先生ほどの人なら、今回の事件もすぐに解決してしまうのでは?」海椙刑事は微笑み、小首を傾ける。

 未散は取り合わずに、玄関のドアを眺めた。

 急に、寒さを思い出したかのように、くしゃみが出た。

「大丈夫ですか、先輩?」海椙が心配というよりも、おかしそうに言う。「コート着た方がいいんじゃないですか?」

「血がついちゃったし……。着る気にはならないなぁ」

 特別に高いものでもなかったので、別にそれは構わないのだが、セーターだけではさすがに寒かった。

「車に乗りますか?」海椙刑事が警察車両を見つめながら聞く。

「さすがにそれはちょっと」

「警察がお嫌いなんですね」海椙刑事はおかしそうに微笑んだ。

「じゃあエロ親父の車にしましょうよ」海椙が提案する。

「え、でも鍵は?」

「あの無精な男が鍵を持ち歩くわけないじゃないですか。挿しっぱなしですよ、きっと。いやらしいやつなんです、まったく」

 海椙は派手な悪口を言いながら、外に出て行く。呆れながらも、未散もあとを追った。

 海椙は軽自動車の運転席側に周ると、ドアに手を伸ばした。すると彼女の言うとおり、ドアはすんなりと開いた。

「ね?」

 得意気な笑みを浮かべると、彼女はそのままエンジンを掛ける。

 暖が取れるのであれば何でもよかった。未散は後部座席、海椙は運転席に乗り込む。なぜか、海椙刑事まで助手席に乗り込んできた。文句を言う理由もないので未散は黙っていたが、まだ何か用があるのだろうか。

「何でお姉ちゃんまで乗ってくるの?」

「話を聞くふりをしながらサボりたい」

「てかさ、いつ帰してくれるの?」

「どうだろうなぁ。病院の二人にも話を聞く必要があるし、凶器も探さないといけないしね」海椙刑事は頭の後ろで両手を組みながら、シートに深く座り込んだ。

「それは警察の仕事じゃん」海椙が口を尖らせる。彼女はヒーターを強くしながら、隣の姉に不満をぶつけていた。

 その二人の喧しいやり取りを聞きながら、未散は温風の届きにくい後部座席に座ったことを後悔していた。

「それより、本当に鍵が掛かっていたの?」

 海椙刑事の視線は、彼女の妹である海椙葵を捉えている。

 未散は足を組み、目を閉じた。

「掛かってたってば。ね、先輩」

「たぶん……」

「密室ってことか」海椙刑事は小さく呟く。

「でも事故や自殺未遂って線はなさそう。凶器となるようなものがなかったから。ま、その辺は警察が調べてくれるだろうけどさ」

「先生はどう思います?」海椙刑事が未散に意見を求めてきた。

「どうして私に聞くんですか?」自然と声が不機嫌なものになる。

「だって、名探偵でしょう? この子からよく聞いてますよ」

 未散は運転席の馬鹿を睨みつけた。

「えへへ……」

「ったく」

「何か気になることとか、ないですか? ほら、この前のレスラーの件なんか秒殺だったじゃないですか。今回もそんな感じでいきませんかね?」

 海椙刑事からの期待の眼差しを適当に受け流しながら、未散はため息をついた。

「いかないですね。目星はついていますが、断定はできません」

「え」

「め、目星ついてるんですかっ?」海椙は運転席のシートから身を乗り出すようにして振り返った。「え、早くないですか? 瞬殺じゃないですか!」

「だ、誰なんですか、犯人は? 犯行方法は? 目星って、その両方ですよね?」

「ええ」

 鬱陶しい姉妹だな、と思いながら未散は短く答えた。

「断定ができないので、今はこれ以上話すことはできません」

「ええー?」

 姉妹が口を揃えて不満の声を上げた。

 未散は悪戯っぽく微笑み、首を傾けた。

「あなた達の好きな名探偵はよくこう言うんじゃないの?」


 5


 昼を大きく回り、海椙葵が今朝コンビニで買った菓子パンを頬張り始めた。未散はそれを横目で見ながら、ただただ呆れていた。

 味も香りも酷い、泥水のようなコーヒーを半分ほど消化したところで、ため息が漏れる。自然と舌打ちが出てしまった。

 常滑警察署の一室。小会議室みたいな汚い部屋に通された二人は、かれこれ一時間ほど待たされ続けている。何を待っているのかわからず、ひと暴れしたい衝動に駆られるが、まさか警察署でそれをするわけにもいかないだろう。舌を鳴らすか、ため息をつくか、項垂れるか。選択肢は限られている。

「食べます?」

 海椙が食べかけのパンを差し出す。

「いい」

 未散は断ると、机に突っ伏した。

 頭が痛い。体がだるくなってきた。熱っぽさがある。薄着でいたのが原因だろう、完全に風邪を引いてしまったようだ。

「ちょ、先輩、鼻出てますよ、鼻!」

 海椙が慌ててポケットティッシュを取り出し、二枚ほど渡してくれる。

 受け取ったティッシュで鼻をかんでいると、部屋に海椙茉莉刑事が入ってきた。彼女は脇にファイルを複数携えていた。

「もう帰れそう?」海椙が尋ねる。

「もう少しだけ付き合ってもらうけど、それほど時間は取らせないから」

「原松北条は?」

「外傷はそれほど大きくないみたいだけど、心配なのは脳内出血とやっぱり高齢ってことね。それに頭部だから、仮に命に別状がなくても後遺症が残る可能性があるし、そうなれば陶芸は厳しくなるでしょうね」

「そっか」

「それで、確認して欲しいことがあるんだけど」

 海椙刑事は手元のファイルを開き、二人の目の前に並べた。複数の写真が貼られている。写っているのは陶芸の作品。写真に合わせて、詳細な説明も添えられていた。

「これは?」

 海椙が写真から顔を上げ、海椙刑事の顔を窺う。

「名宝、『北条』。紫泥の絞り出し茶注ちゃちゅう梨皮りひ朱泥の茶銚ちゃちょう、そして常滑自然釉しぜんゆう茶注。この三つの急須からなる名宝であり、制作者は江戸後期の名匠、鯉江寳泉こいえほうせん。明治に入り、愛弟子である初代北条が独立をする際に贈られた作品とされ、初代北条の名もこの作品からもらったそうよ。代々北条のみが受け継ぐことを許される、非常に特別なものみたいね」

 海椙刑事の説明を聞きながら、海椙葵は声を出して頷いている。

 未散も微熱でぼうっとする頭で今朝の会話を思い出していた。弟子の二人、海椙敏久と瀬木透のどちらが三代北条の跡を継ぐ者として相応しいか、それを決めるために課せられた試験。代々伝わる特別な茶器、その真贋を見極めるものだったと海椙の話で聞いていた。それがこの『北条』なのだろう。

「『北条』の現所有者は言うまでもなく、三代原松北条。大曽の自宅兼工房で保管されている」

「これがどうしたの?」海椙が首を傾げる。そして目を輝かせた。「何? 事件解決したらこれくれるの?」

「次のページを見て」

 海椙がファイルのページを捲る。同じ写真が出てきた、と最初は思った。

「これ……」

「三代北条制作、『北条』」

 海椙は驚きながら、前のページの写真と見比べている。未散もその精巧さには驚いた。

 鋳込みによる型成形ならまだしも、轆轤による成形をここまで模倣できるものなのだろうか。

「まったく一緒じゃん、嘘ぉ?」

「三代北条が後継者を決める際に作った、言わば贋作だけど、やはりその技術は圧倒的。写真だけなら誰にも違いはわからないでしょうね」

 梨皮泥は粘土に粗い粒子を加えることで、焼き上げた際に器の表面が梨の皮のようにざらつくことからそう呼ばれる。

 そして自然釉というのは、燃料となる薪の灰が焼成中に付着して、自然の釉薬となるものを言う。長時間の高熱によりガラス化する。窯の中の位置、火の強さ、燃料となる薪の材料などによって大きく変化する。偶然によるところが大きいため、制作者であろうとも、すべてを予測できるわけではない。

 それらを、ほとんど完璧に再現しているのだ。

 これらを模倣するなど、神業以外の何ものでもない。

「それで、あなたが気にしていた棚のスペースがあったでしょう?」

「あ、うん」

「そこにこれが収められていたらしいの」

「え、てことは、やっぱり盗まれていたの?」

「話を聞く限りではね。本人に話が聞ければいいんだけど」

「犯人は贋物を盗んだ、ということですか?」こめかみの辺りを指で押さえながら、未散は聞いた。

「あ、そうだ。贋物じゃん」気づいた海椙は口を開ける。訝しむように眉間に皺を寄せ、首を捻った。「本物の方が価値はあるんでしょ?」

「いくら人間国宝の作品でも、模倣の贋作となれば、大した価値はつかないでしょうね。贋作だから、北条の名を刻むこともできないし。高く値がついても、三点で十万くらいじゃないか、というのが専門家の話」海椙刑事は自身の手帳を見ながら話した。

「本物の方はどうなの?」

「価値という点では比較にならない。鯉江寳泉の作品はほとんど残っていなくて、まず市場には出回らない。加えてこれほどの美麗品だからね。北条のみが受け継ぐことを許された、という背景も手伝って、仮に値段がつけられるとしたら数百万から数千万はくだらない。人間国宝が制定される前の時代の人だから単純な比較はできないけど、作品としての価値、あんたのような人間が興味を持つ下世話な値段ということになれば、三代北条よりも上みたいね」

「ひぇー。人間国宝よりも?」海椙は目を丸くして、ファイルに載っている作品を見つめた。

「技量だけでも人間国宝級だし、故人だから、作品の数は限られてる。価値が上がることはあっても、下がることはないでしょう」

 未散はファイルを自分の手前に引き寄せ、『北条』の写真を眺めた。

 梨皮朱泥の茶銚は、持ち手が後ろに付く後手の急須で、この形は中国茶を淹れる際に使われているのを見たことがある。写真で見る質感は煉瓦のそれを連想させた。

 紫泥の絞り出し茶注は持ち手と茶漉しがなく、かわいらしい意匠をしている。宝瓶ほうびんとも呼ばれ、玉露を淹れる際に用いられたはずだ。

 一番馴染みのある形をしている自然釉の急須でも、一般的に流通している鋳込みのものと比べれば、胴体部分がどっしりとしており、緊張した面持ちである。表側に特徴的な自然釉の顔がある。大きく垂れたガラス状のそれは、模倣を不可能にさせるだけの、個性があった。

 この作品達は、三代北条の技量の高さだけでなく、尋常ではない根気をも伝えている。恐らく何度も作り直したことだろう、素人の未散でもその想像は容易にできた。思いつく変数を挙げてみても、科学で再現することは難しい。最高の匠による、最高の業。その結晶が茶器を通して伝わってくる。

 未散は思わずため息をついた。

「でもさ、犯人は贋物の方を盗んだわけでしょ?」

「そう。本物は確認が取れた。犯人が盗んだのかは断定できないけど、状況的には、まず間違いないでしょうね」

「警察は、海椙敏久さんを疑っているのですか?」

「え?」

 未散の質問に、姉妹は驚きの表情を浮かべる。驚いている理由はそれぞれ異なるだろうが、反応はほとんど同じだった。

「ど、どういうこと?」海椙は姉と未散に視線を行き来させる。

「…………」海椙刑事の鼻孔がわずかに広がり、彼女はふっと息を吐くと、微笑んだ。「ほんと、名探偵みたい」

「確認したいというのは海椙敏久さんのアリバイですか?」

「それも含めて。正確な犯行時刻はまだ割り出せていませんから」

「ちょ、ちょっと、私を置いて話を進めないでよ」海椙は姉に対して口を尖らせると、今度は未散に向き直った。「どういうことですか?」

「犯人が犯行後、その『北条』の贋作を盗んだと仮定した場合の話だけど」

「はい」

「三代北条の家の土間、そこの棚に並べられていた陶器は箱詰めされているものも多く、どれにどの作品が収められているか判断することは難しい。桐箱には紐が結ばれているため、いちいち解いて、結び直すなどという手間をしたとは考えにくい。とするならば、その中からピンポイントで一つ、狙ったものを盗んだのなら、犯人は目利きができる人間に加えて、この家に詳しく、三代北条と深い親交にある人物であると推察することができる」

「ああ、なるほど……」理解を示したように海椙は頷く。

「さらに、盗まれたものが贋作であるという情報から、犯人に優れた鑑識眼が備わっていたかどうかは怪しく、それらを加味すると、条件に当てはまる人物は海椙敏久さんしかいない。少なくとも警察はそう考えているのでは?」

「な、なるほど、あのエロ親父ですからね、人間国宝を変態呼ばわりするぐらいの猛者ですから、たしかに、後頭部を殴って名宝だと勘違いして贋作を盗み出すことも充分に考えられる、いや、もうそうとしか考えられない。お姉ちゃん、逮捕状を請求しよう!」

 何か反論でもしてくれば頼もしい親戚筋になるのだろうが、どうやらタキシードの陶芸家は人望がないようである。かわいそうに。少しだけ同情する未散だった。

「やっぱり、叔父さんが犯人なんですかね?」海椙刑事がため息をつきながら、近くの椅子を引っ張ってきてそれに腰を下ろした。

「そうだよ、お姉ちゃん。もうそれしかないよ! 自分が後継者に選ばれなかった腹いせに、人間国宝を殺したんだよ、あのエロ親父は!」

 酷い言われようだ。

 身内であるにもかかわらず海椙敏久は犯人扱い。さらに三代北条に至っては勝手に殺されてしまった。

 フォローしてもよかったが、熱のせいで体がだるさを訴えている。面倒だったので、未散は目を閉じた。

「そういや、エロ親父はどうしてんの?」

「別室で話を聞いてる。瀬木透も別の部屋で」

「自供はしてないのか。強情なやつめ」

「それで、あなた達に聞きたいんだけど、午前中は叔父さんの家に行っていたんでしょう? この写真にある『北条』を見かけなかった?」海椙刑事は未散達の顔を見る。

 海椙はファイルの写真を見つめながらしばらく唸っていたが、やがて首を横に振った。視線は未散へと移る。未散も首を振った。

「わからない」

「刑事の親戚が容疑者の筆頭だなんて……」海椙刑事は大きくため息を吐いた。

「今日家に行くことは伝えてあったの?」未散は海椙に尋ねる。

「それはもちろん」

 胸を張る海椙に、怪訝に顔を曇らせながら、未散は質問を重ねた。

「いつから約束を? 時間は伝えていたの?」

「昨日の夜に電話して……、時間は、午前中とだけ」

「そう」未散は頷いた。

「一応の、アリバイは成立するのかしらね」海椙刑事は少しだけほっとしたように安堵の表情を見せた。

「でもさ、犯人は真贋の区別がつかなかったわけでしょ?」海椙は頬杖をしたまま、未散に顔を向ける。「先輩の話だと、疑わしいのは三代北条とごく親しい間柄。普通に考えるなら、エロ親父と瀬木透、あとは奥さんってことになるけど。その中で真贋を見極められない人物となると、エロ親父と奥さんってことでしょう?」

「原松北条の奥さんと二人の娘さんは法事のために、数日前から神戸の方へ行ってる。原松北条は人間嫌いということもあり、行かなかったみたいね。そんなわけだから、交友関係もほとんどないそうよ。業者の人間との付き合いも最低限らしいし、親しい人間と呼べるのも、やっぱり弟子の二人だけだったみたい」

「じゃあ、やっぱりエロ親父じゃん、犯人」

「……まあ、真贋を見極められなかった叔父さんはともかく、瀬木透が贋物を盗むとは考えられないのはたしかね」

「…………」

 室内に静寂が訪れる。

 日も傾く時間だ、暖房が効いているのか疑わしいほど、ぐっと冷え込んできた。室内だというのに、耳と鼻先が冷たくなっているのがわかる。ものがほとんど置かれていない、殺風景な会議室というのも、寒さを助長しているのかもしれない。

「玄関、鍵が掛かっていた?」

 未散は海椙を見て尋ねた。

「え? 何ですか、今さら」海椙は怪訝な表情を浮かべながら、答える。「掛かってましたよ。掛かってたに決まってるじゃないですか」

「私自身が確認したわけじゃない」

「何ですか、私が嘘をついてるとでも言うんですか?」

 海椙は口を尖らせて、不満をアピール。姉である刑事は、顎に手をやり、考え込む仕草を見せた。未散の質問の意図を考えているのだろう。

「最初に確認したじゃないですか! 開かなかったんですよ、本当に」

「…………」

「大体、私だけじゃないじゃないですか。エロ親父だって確認してるんですよ。そのあとで、私が確認したんですよ?」

「うん」

「え、あ! もしかして、私とエロ親父が共犯だと思ってるんですか? 冗談じゃないですよう、どうして若くてかわいい美人教師の私が、あんなどうしようもない陶芸家(笑)のエロ親父と共謀して人間国宝を殺さないといけないんですか!」

「若くてかわいい美人教師」

 未散と海椙刑事は声を揃えて、海椙の言葉を繰り返した。

「な、何ですか」

「別にあんたを疑っているわけじゃないけどね」

「ほんとですかぁ?」逆に海椙が怪しむ声を上げた。

 未散は腕を組み、写真の『北条』を見つめる。

 真贋、か。

 事件は恐らく衝動的なものだろう。三代北条には悪いが、殺されなかったことが不思議だ。まだ予断を許さない状況にあるとはいえ、殺害するつもりだったのならば、後頭部への殴打という手法は確実性に欠けるし、ただ怪我を負わせたかったのだとすると、その手法はあまりにも危険で死のリスクが大きすぎる。感情的に思わず、と考えるのが自然だ。

 それらを考慮すると、海椙の言う密室の種も大がかりなものではないと推察でき、ある程度絞り込むことができる。

「どうして犯人は密室にしたんでしょう」沈黙を嫌った海椙刑事が口を開いた。丁寧な言葉遣いから、未散に向けての発言だったことがわかる。

 未散は短く息を漏らした。

「そういうのは、警察の方が詳しいのでは?」

「密室なんてややこしい案件は、フィクションと違って実際には起きませんよ」海椙刑事は苦笑を浮かべながら手を振った。

「密室にする理由は、大きく分けて二つの意味があるんだよ」未散の代わりに海椙が二本指を立てて話す。「一つは第三者に犯行は不可能だと思わせ、自殺に見せかけるため。もう一つは、鍵を持っている者以外には犯行が無理だということを浮き彫りにし、その者を犯人に仕立て上げるため」

「今回はそのどちらでもないじゃない」

 話し終え、得意気に微笑みながら胸を張る海椙に対し、刑事である姉は冷静な指摘をした。

「じゃあ、あれかな」

「あれ?」

「ロマンだよ」

「…………」

 苛立ちを隠さずに、海椙刑事はため息をついた。

「現実的に考えるなら、時間稼ぎか、あとは犯行の立証性でしょうね」未散は海椙刑事を見る。

「なるほど。犯行方法を詳しく説明できなければ、立証できないですからね」

「ええ……」

「うーん、でもあのエロ親父が密室なんて高尚なこと、できますかねー?」海椙は唸りながら首を捻る。「少なくとも、私が思いつかないような方法で密室を作り上げるなんて、あのエロ親父には不可能な気がするんですよねー」

「じゃあ、瀬木透?」海椙刑事も小首を傾げた。

「贋物を盗んだってことが引っ掛かる。エロ親父じゃないんだから、真贋は見抜けたはずだし」

 真贋を見抜く力、か。

「じゃあ、今日は帰っていただいてもいいですよ。また何か尋ねることがあるかもしれませんが」海椙刑事はファイルを閉じながら言った。

「あの、海椙敏久さんと少しお話がしたいのですが」

「え! あんなエロ親父のどこがいいんですかっ?」海椙が大きな声を上げ、仰け反った。「街で目隠しながら逆ナンしても、あんなのよりはいい男と巡り会えますって!」

「そうじゃない」

「じゃあ何ですか? あ、自供させるんですねっ?」

「違う」

 未散は首を振り、呆れて肩を竦めた。

「何かわかったんですか?」海椙刑事が真面目な顔をこちらに向ける。

「いいえ。わからないから、話を伺おうと」

「わかりました。では、少し待っていてください。こちらに呼んできます」

 海椙刑事は頷くとファイルを抱えて部屋を出て行った。

「事件解決ですか?」海椙が口角を上げながら尋ねてくる。

「どうかな」未散は短く答えた。

 それから五分ほどして、海椙刑事がタキシード姿の陶芸家を連れてきた。部屋に入ってきた海椙敏久の顔は緊張しているのか、少し強張っている。しかし室内を見渡し、他に刑事がいないとわかると大きく安堵し、長いため息を吐ききった。

「何だぁ、逮捕されるかと思ったがや」胸を撫で下ろしながら海椙敏久は言った。

「逮捕されるようなことをしたの?」海椙刑事の冷ややかな視線が注がれる。

「しとらん、しとらんて」海椙敏久は両手を突き出し、それと首を一緒に振った。「ったく、おそがい姉妹だであかんわ」

「海椙さんにお尋ねしたいことがあるのですが」

「え、え? は、はい。何でしょうか」海椙敏久は未散に向き直り、背筋を伸ばして姿勢を正した。蝶ネクタイの位置まで直したときには何かのギャグかとも思ったが、本人は至って真面目なようである。

「『北条』についてです」

「先生、ですか?」

「いえ、茶器の方のです。後継者を決める際の、鑑識眼を問うのに使用されたと聞きました。そちらの『北条』について少し聞きたいことがありまして」

「ああ……。『北条』がどうかしましたか?」

「失礼ですが、海椙さんは本当に見極められなかったのですか?」

「……そうですよ。恥ずかしながら」

「例えばですけど、三代北条の作られた贋作の方が、鯉江寳泉の真作よりも優れていた、などということはありませんか?」

「それは、はっきり言えます。ありえません」海椙敏久は力強く断言した。「贔屓目をなしにしても、先生、三代北条の陶技はずば抜けています。そしてそれは鯉江寳泉にも引けを取らないばかりか、圧倒しています。時代が違いますから一概には言えませんが、それでも単純な技量で語るなら、三代北条に敵う陶芸家はいないでしょう」

「なら」

「それでも、贋作なのです。どれほど精巧に作られていても、そこに一般的な価値は生まれないでしょう。『北条』は、鯉江寳泉の最高傑作と謳われるほどの作品です。つまり、鯉江寳泉らしさ、鯉江寳泉が鯉江寳泉として歩んで培ってきた粋がすべて詰まっています。たとえ先生が、人間国宝である三代北条が完璧に模倣したとしても、完璧であれば完璧であるほど、は作品に反映されません。そしてそれは、作品としての価値は皆無であるということになります」

「なるほど……」

 未散は頷きながら、何となく理解し始めていた。熱がなければもっと素早く思考できるのだが、今日は仕方ない。

「『北条』はいつもどこに保管されていたかわかりますか?」

「それは、どちらの?」

「どちらでも構いません」

「えっと、土間の棚、その真ん中辺りに一つ。もう一つは一番下の棚だったと思います」

 未散は海椙刑事を見る。彼女は静かに頷いた。警察は本物も確認している。保管場所の位置など、話は間違っていないようだ。

「それは瀬木さんも知っていましたか?」

「ええ、たぶん。先生の家に行った際には、それも含めいろんな急須でお茶を淹れてもらってましたからね。憶えていると思いますよ」

「逆に言うと、三代北条にお茶を淹れてもらえるほどの仲でなければわからない、ということですね」

「そうでしょうね……」

 海椙敏久はおもむろに苦い表情を浮かべ、顔を顰めた。

「瀬木透か、叔父さんか」

 海椙刑事の冷静な声が静かな部屋に響く。

 大きく肩を落とし、薄くなった頭を触りながら、海椙敏久はため息をついた。寂しそうな、悲しそうな表情を浮かべ、俯いた。

 それを受け、海椙が未散を見る。

「犯人は……、瀬木透なんですか?」

 今までの話や海椙敏久の反応を見て、答えを出したのだろう。真面目な顔で、未散を見据えていた。

「恐らくね」

 未散は短く答えた。

「犯行方法もわかるんですか?」

「確証はないけど」

「証拠はどうなんですか?」海椙刑事が視線を向ける。表情には厳しさが表れていた。「ある程度の根拠がなければ動けませんよ」

「凶器、それと盗まれた『北条』を処分してなければいいんですけどね」未散は淡々と続ける。「処分、あるいはどこかに隠すだけの時間的余裕は充分ありましたから。どうでしょうね、あまり期待できないかも」

「…………」

 海椙敏久は俯き加減のまま、ずっと黙っている。否定も、肯定も、擁護もしなかった。三代北条、そして瀬木透に近い彼には、どこか思い当たる節でもあるのだろうか。

「密室は?」海椙が聞く。

「いくつかアイディアはある。ただ、確かめてみないことには何とも」

「行ってみますか?」海椙刑事はポケットから車のキーを出して見せた。「パトカーでなければ、先生も文句はないでしょう?」

「警察は動けるの?」海椙が尋ねた。

「私個人が動く分には大丈夫よ。叔父さんの車も、現場に置いたままだし。どっちにしろ、私がそこまで送り届けないとだめだしね。特に問題はないと思うけど」

「瀬木透はどうするの?」

「とりあえず、話を聞くなどして引き留め続ける必要があるかな。何かわかれば自宅を捜索するように手配をするけど、今の段階では警察は何もできない」

「じゃあ急ごう」

 海椙は立ち上がり、椅子の背もたれに掛けていたコートを手に取った。

 海椙刑事は車のキーを海椙に渡す。

「先にエンジン掛けておいて。いろいろと報告しておかないといけないし」

「ん、わかった」

 海椙刑事はファイルを脇に抱えて、先に部屋を出て行った。

 未散も警察が貸してくれた黒の防寒コートを羽織る。POLICEという刺繍が胸と背中に入っていることには不満だったが、暖かかった。撥水加工もされているようで、防寒や防水としての機能は充分に期待できそうだった。

「透は……。本当に、透が先生を……?」

 部屋を出ようとしたとき、海椙敏久が弱々しい声で呟くように言った。

「…………」海椙は未散を見る。

「確証はありません」未散は機械的に答えた。「ただ、状況を見ればその可能性が高いかと」

「あいつは……」

 海椙敏久の声は震えていた。そして目にはうっすらと涙も浮かべている。

「あとで、瀬木さんとお話しされるのがいいと思います」

「…………」

 鬱屈するぐらいなら、感情を吐き出す方が健全だろう。お互いに。陶芸の世界を未散は詳しく知らないが、どの世界にも光が当たる者は限られていることや、そしてその光が強ければ強いほど暗い影を作ることは、嫌というほど知っている。

 光の当たらぬ者の辛さを、その深い絶望を、残念ながら未散は知っていた。人間ほど、腐りやすく壊れやすいものもない。

 くだらないと、そんな一言で片付けられるようなもので、人は死を選んだりもする。周りの人間が鼻を鳴らすようなことでも、その人物にとっては、今後の人生を左右しかねない大きな岐路だったりするのだ。

 誰も何も理解はしていない。ましてや他人のことなど、わかるはずがない。他人を理解するなど、他人に理解されるなど、限りなく奇跡に近いことだというのに。

「そうだよ。いろいろとあると思うけど。言葉にしても伝わらないことだってあるけど、伝えようとする気持ちや姿勢が大切で、言葉にしなければわからないことだってあるじゃん」

 珍しく、海椙が慰めの言葉を掛けた。

 今さら言うまでもなく、外では数年ぶりの大雪が降り続いている。

「そうだな……」海椙敏久は肩を竦めると、力なく笑った。

「何もしなければ、伝わるものも伝わらないし。それでも理解できなければ、それはそれでいいじゃん」

 警察が逮捕する前に、瀬木に自首させることができれば、刑の軽減をすることができる。三代北条が命を取り留めれば、殺人や傷害致死での起訴もなくなる。警察よりも先に事件を解決することはそれほど難しいことではない。

 捜査機関の力を借りることなく、証拠を集めることができればいいのだが。

 未散達は部屋を出て階段へ向かう。廊下の寒さに思わず体を震わせた。正面出口から建物の外に出ると、大雪が出迎えてくれる。風も出てきているため、かなり吹雪いていた。

「うわぁ」

 そんな視界を遮るほどの大雪を前にしても、海椙は明るい声を上げた。

「真っ白ですよ、先輩」

「見ればわかるよ」

 どれだけ雪ではしゃげば気が済むんだ、この娘は。

「で、車はどれ?」

「えーっと……」

 海椙は駐車場に駐まっている車を見渡すものの、難しい顔のまま唸るだけだった。ほとんどの車がこの降雪のために大まかな車種しか判別できないような状態だった。赤色灯のあるパトカーを除いて、どれもこれも似たような雪化粧を施している。背の高いワゴンタイプならまだしも、セダンは本当に区別がつかない。ナンバーすらも雪が吹き付けられており、読み取ることができなかった。

 外に立っているだけで、胸の辺りに雪が積もってくる。未散はコートのフードを被った。

「リモコンついてないの?」

「あ、そっか」

 海椙は手を伸ばし、駐まっている車に向かって電波を送っていく。表に駐まっている車がすべて空振りを迎えたところで、奥から海椙刑事が歩いてきた。コートのボタンを留めながら、眉を寄せる。

「何、まだこんなところにいたの?」

「車がどこかわからなかったの」海椙は口を尖らせながら、キーを姉に返した。

「裏よ、裏」

 海椙刑事とともに警察署の裏の駐車場へ回る。丸みを帯びたデザインのコンパクトカーへ近寄ると、海椙刑事はフロントガラスの雪を払った。

「さ、乗ってください」

 未散と海椙は後部座席へ、海椙敏久は助手席へ乗り込んだ。

「じゃ、行きますよ」

 エンジンを掛け、海椙刑事がハンドルを握る。

 ゆっくりと走り出す中、未散はシートに深く座り、静かに目を閉じた。雪もそうだが、だんだん酷くなってくる頭痛に、なぜだか笑いが込み上げてきている。さっさと済ませて早く寝ようと、そう心に決めた。

 今朝のときよりも倍近い時間を掛けて、原松北条の自宅兼工房に到着した。雪道の走行に不慣れな女性刑事の運転はとてもスリリングで、途中何度か肝を冷やした。スリップして赤信号の交差点に進入したときは、無神論者である未散でさえも、さすがに神に祈ったぐらいである。

 事件現場である原松北条の自宅兼工房、その土間に入ると、未散はため息をついた。家の中だというのに吐息は白くなり、見た目でも寒さを強調している。

 海椙刑事が玄関の扉を閉め、未散をじっと見つめる。

「それで先生。密室はどのようにするんですか?」

「大きな家屋ではないので、人の出入りができる場所は限られています」

「ええ」海椙刑事は頷く。

「玄関と台所脇の勝手口、あとは先輩が割った窓ですね」海椙がそれぞれに視線を飛ばしながら言った。

「そう。風呂場の方の窓には格子がはめられているから、無視していいでしょう」

「じゃあ、その三つのどれかから、犯人は出入りした……」

「犯人が出入りしたのは玄関です」

「え?」

「降り積もった雪が踏み荒らされてなかったことから、裏の勝手口ではないとわかります」未散はそこで言葉を切ると、土間から室内を覗き込む。視線の先に、ガラスの割れた窓がある。今は薄いパネルのようなもので補強されていた。「窓枠の錠の形状は捻子締り錠なので、内側から人が掛けるしかない。よって、そこも違う」

「玄関もそうじゃないですか? 横にスライドさせる、閂でしょ? これだって、内側からしか掛けれないじゃないですか」海椙は扉に近づき、錠前を指差した。

「他の形状ならあれだけど、閂のこれはレバーを横にずらせばいいだけだから、機構としては単純なものになる。このレバーの部分を糸か何かで引っ張ってやればいい」

「引っ張るったって、そんな上手くいきます?」海椙は訝しむような目を未散へ向けた。

「糸は、どんな向きからでも融通が利く。いろんなところを通して向きを変えればいい。画鋲などに引っ掛ければ簡単にできる」

 海椙は両開きドアの合わさる部分、召し合わせを注意深く観察しながら、首を傾げた。

「あんまり隙間がないようですけど?」

「外から引っ張るのは無理そうね」海椙刑事も扉を見つめながら言った。

「なら

「は?」

 姉妹の二人は間の抜けた声を出し、未散を見つめた。

「な、何言ってるんですか? 中から引っ張るなんて、え、意味ないじゃないですか」

「どういうことですか、先生? 犯人は中にいたってことですか?」

「密室を作るのに、犯人が室内にいては意味がありません」

 未散は土間の奥へ移動し、轆轤の前に立った。

「え、まさか」

「そう。こいつに巻いてもらえばいい」未散は電動轆轤を見下ろしながら言った。「そうすれば外にいながら、内側から鍵を掛けることができる」

「ま、待ってくださいよ。轆轤なんか回ってました?」海椙が尋ねる。

「回っていても回っていなくても関係ない」

「?」

「慣性」

「あ」

「一度回してしまえば、あとは回り続けようと慣性が働き、轆轤を止めてもしばらくは回転を続ける。糸の長さを充分確保しておけば、その間に外に出ることは難しいことではない」

「でも、実際にできるのですか?」海椙刑事が眉を寄せながら聞いた。

「実際にやってみましょうよ」

 海椙がそう言ったが、未散は首を振った。

「その必要はない」

「え?」

 未散は轆轤の軸周りを指差して、海椙刑事を見た。海椙刑事は神妙な顔をして轆轤に近づくと、台の下を覗き込むように身を屈める。

「これは……」彼女は手袋をコートから取り出してはめると、轆轤の軸部分に絡まっている糸を引っ張りだした。「釣り糸?」

「これでわざわざ確認する手間が省けましたね。犯人がこの方法で密室を作ったことは間違いないでしょう」

 釣り糸と見られるそれの一端には、レバーに引っ掛ける際の小さな輪が作られている。そしてもう一端は轆轤の軸の部分に巻き付けられていた。釣り糸を一メートルほど引っ張り出したところで、海椙刑事は出すのを止め、轆轤の上にそっと置いた。

「鍵が掛かったあとも回転は止まらず、糸はレバーから外れ、そのまま轆轤に巻き付けられる。糸は轆轤のテーブルに隠れ、警察の厳しい捜査の目からも悠々逃れることができた」

「皮肉ですか?」海椙刑事はやや不満そうな顔を見せた。

「ええ、皮肉です」

 未散は笑わずに言った。

「でもこれで密室の謎が解けましたね」海椙が微笑む。「でもこれって、簡単そうに見えて実は難しいんじゃないですか? 一回で上手くやるには、相当な準備が必要な気がするんですけど、犯人は計画的にこれを?」

「さあ、その辺りは何とも。ただ、一回で成功させる必要はない。たとえ何回か失敗しても、時間はあっただろうし」

「犯人はどうして密室を? 手間が掛かる割には、原松北条を殺していませんよね?」

「殺したと思い込んでいたのかも。あるいは、アリバイを工作するなどの、自分が犯人ではないと証明する手立てを何も用意していなかった。そのための、苦肉の策だったかもしれない」

 未散が言い終えると、海椙敏久は土間から一段高くなっている部屋の畳に腰を下ろし、力なく項垂れた。

「犯人はやっぱり、瀬木透ですか?」海椙は横目で敏久の様子を窺いつつ、未散に尋ねる。

「その可能性が高い」未散は頷いた。

「でも、それならどうして瀬木は叔父さんのとこに電話なんか掛けてきたんですか? わざわざ様子を見に行こうなんて……」

「それも瀬木本人に直接話を聞く以外には正確なことはわからないけど。まあ、想像を働かせるなら、警察のずさんな捜査でも、瀬木がこの家を訪れていることは突き止められるでしょう。それに対して危機感を覚えたのかもしれない。細かな毛髪や指紋などが残っていても、第一発見者ならある程度の言い訳が立つと考えたのかも。それに、この釣り糸も回収したかったでしょうし」

「ああ、私と先輩がイレギュラーだったから、回収する隙がなかったんですね、きっと……」

「あとはまあ、助けたかったのかも」

「助ける?」

「事件は衝動的。感情的になって殴ってしまっただけで、殺すつもりはなかったのかもしれない。自分の犯行であると名乗り出る勇気はなくとも、自分が第一発見者になることで、少しでも早く救急に通報することができる、と思った。好意的に受け取るなら、そんなところかな」

「とりあえず、この釣り糸を鑑識に回さないと。瀬木に繋がる証拠となればいいけど」海椙刑事が携帯を取り出しながら言った。

「糸は、恐らく趣味で車に載せていた釣り道具のものでしょう。彼の車を調べれば、何か出てくると思います」

「わかりました」

 そう言うと、海椙刑事は電話を掛けるために端の壁際に移動した。

「…………」

 視線を感じたのでそちらを見ると、海椙がじっと未散の顔を見つめていた。

「何?」

「いや、よくもまあ、そんなに人の話を覚えていますよね。瀬木透の趣味なんか、いつ話に出ましたっけ?」

「一緒に釣りに行くって話していたじゃない」横目で海椙敏久を見てから、未散は言った。

「つくづく名探偵みたいな人ですね」

「あっそ」未散は肩を竦めて微笑んだ。「私はそんな人間に会ったことないけどね」

「えっ?」

 海椙刑事の驚く声が響いた。

 全員が背中を向けている彼女に注目する。

「わ、わかりました。すぐに向かいます」

「どうしたの?」海椙が電話を終えた姉に尋ねた。

 海椙刑事は神妙な顔つきで、一つ、大きく息を吐く。そして、一度海椙敏久に視線を向け、重く口を開いた。

「瀬木透が、自殺を図った」


 6


 十二月十六日。日曜日。午後一時五十七分。常滑市民病院前のロータリー。

 長野原未散と海椙葵が車から降りると、運転手である無愛想な警察関係者は会釈と言うには不充分な首の動きを見せた。そのまま運転する車は向きを変えて、裏の駐車場へと走っていった。

 不機嫌をアピールするためにつくため息を待たずに、玄関ロビーから高級スーツを身に纏った長身の男がやってきた。河中刑事は昨日と変わらないオールバックに縁無しの眼鏡という、相対する人間にシャープな印象を与える格好だったが、今日は攻撃的な雰囲気がいくらか薄れている。

「わざわざすみません」彼は事務的な口調で言うと、わずかに頭を下げた。

「いえ」

 警察署のトイレで自殺を図った瀬木透は、異変に気づいた職員に取り押さえられ、近くの市民病院へ搬送されていた。隠し持っていた海釣り用のナイフで腹部を刺したという。傷は浅くはなかったものの、発見が早かったため命に別状はなく、今はもう落ち着いているみたいだった。

 未散達がここへ訪れたのは、瀬木に話を聞くためだったが、もちろん、それは頼まれてのことだ。未散自身はもうこの件に関わりたくないと思っている。

 瀬木は黙秘を続けているという話だった。昨日の時点で手術だ何だと慌ただしかったので、完全に黙秘をしているというわけでもないのだろうが、少なくとも警察には何も話してはいないらしい。その状況を打破する手立てとして、迷惑な姉妹の片割れが非常識な提案を出したのだ。

 そこでつい今朝、熱による悪夢でうなされていたところに、電話が掛かってきたのである。

 警察の面子に関わるところなのだろうが、それでもやはり事件については未散の方が詳しく理解しており、こちらが瀬木と話す方が都合はいいらしい。あれこれとあとで話を聞きに来られても困るので、未散は渋々ながらそれで手を打つことにした。

「原松北条さんの容態はどうなんですか?」

 歩きながら、未散は尋ねた。

「先ほど意識を戻されました」

「それはよかった」

「ええ。後遺症の心配も、今のところないようです。現在は家族以外面会できませんが、退院もそう遠くはないとのことです」

 三人はロビーを抜けて、右手の通路へ進んだ。売店の横を通り抜け、先のエレベータのボタンを河中刑事が押した。

「なんか、病院って嫌ですよね」

 海椙がため息をつきながら言った。いつもと違い、今日はやけに大人しい。河中の影響かとも思ったが、それだけではないみたいである。

「病院は嫌いですか?」河中が顔だけ振り返り、わずかに口角を上げた。「お姉さんも似たようなことを話してましたよ」

「ええ、まあ。この独特の臭いがだめなんですよね。なんか、本当に体が悪くなってくるんじゃないかって」

 健康な人間が好んで来たがるような場所ではないだろう。どんな事情にせよ、ここへ訪れるような用事は持ちたくないものだ。

 エレベータに乗り込み、河中が五階へのボタンを押した。

「それにしても、よく気づかれましたね」

 河中の切れ長な目が未散を捉える。

「何がですか?」

「我々警察よりも先に事件を解決された」

 河中は口の端を上げたが、嫌味は含まれていないようだった。

「警察よりも先に事件に巻き込まれただけです」未散は嘆息して答えた。

「それだけでしょうか」

「警察は事件に第三者として介入するだけですから、情報の真偽を確認する必要があるでしょうし、ほとんどはそれに時間を費やすのではありませんか?」

「もちろん、それもありますが。うちの海椙に聞いたのですが、夏に起きたプロレスラーの件でも重要なアドバイスを受け、お世話になったとか」

「さあ、どうでしょうか」未散は階数表示のパネルを見上げながら、適当に答えた。

 河中は微笑み、未散と海椙の顔を見る。

「やはり数学を専門にしていると、論理的な思考が身につくのでしょうかね?」

「人間は論理的な動物ですよ。それを放棄している者が多い、というだけです」

「なるほど。耳が痛い」

 五階に着き、エレベータの扉が開く。廊下を進んだ先の部屋の前で、制服姿の警官が後ろ手に姿勢良く立っていた。体格のいい若いその警官は、河中に気がつくと素早く体全体をこちらに向け、敬礼をする。気持ちがいいほど、直線的な動作だった。

「ご苦労。異常は?」

「ありません」

 河中は頷くと、病室のドアを軽くノックする。返事はなかったが、代わりにドアが横に開き、スーツ姿の男が出てきた。その浅黒い肌をした大柄な男は、河中を確認すると敬礼を見せた。廊下の制服を着た警官に比べると、おざなりなものに映る。

「何か変わったことは?」

 河中は小声で同様の質問をした。

「いえ、何も」

 大柄な男は短く息を吐くように言葉を返すと、廊下に出てくる。

 河中は未散達に向き直り、ドアを開いた。

「ではこちらに」

 未散達も河中のあとに続いて部屋に入る。個室だったが、病棟自体がかなり古いため、それほど広い部屋でもなかった。中央のベッドで、瀬木透が上半身を起こした状態で窓の外を眺めている。風景は何もない。遠くに薄汚れた海があるだけで、あとは昨日からの雪が積もった空き地が広がっているだけだ。

「瀬木さん、怪我の具合はどうですか?」

「…………」

 河中が声を掛けたが、瀬木は一瞥しただけですぐに視線を窓の外に戻してしまった。河中は鼻から息を漏らし、腕を組んだ。

「原松北条さんの意識が回復したようですね」

 未散はベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしながら話す。海椙も未散の隣に椅子を持ってきて座った。

「……そうですか」

 か細い声だったが、瀬木は窓の外を見たままそう答えた。

「どうしてこんなことを?」海椙が尋ねる。

「…………」

 瀬木は何も答えなかった。ただじっと窓の外を眺め続けている。そちらに何があるというわけでもないのに、ずっと。

「うちの叔父さんと違って、四代目に選ばれたんでしょ? だったらこんなことしなくたって、『北条』はその名と一緒に、正式に受け継げばよかったじゃない。それなのに、どうして?」

「…………」

「瀬木さんにお尋ねしたいのですが、どうして贋物を? あなたは本物を見抜けるはずなのではないですか? 真贋を見極められたからこそ、北条を継ぐことが許されたのではないのですか?」

「…………」

 海椙や河中の質問にも、瀬木は黙ったままだった。こちらに顔を向けようともしない。

 未散が河中を見ると、彼はわずかに肩を竦めて口を結んだ。

 しばらく沈黙が続いたのち、海椙がゆっくりと口を開いた。

「本当は……、見抜けなかったんじゃないの?」

 海椙の言葉に、瀬木は顔をこちらに向ける。何も言わなかったが、わずかに眉が動いた。

「二人とも、『北条』の真贋を見抜くことができなかった。だけど、本物か贋物か、当てずっぽうでも本物を選ぶ確率は二分の一。本物を選んだからと言って、本当に見抜けたということにはならない」

「…………」

 瀬木は表情を変えずに、ずっと沈黙を続けている。何も話そうとはしない。海椙の話に、河中が興味深そうな目を向けていた。

 真贋を見抜く力があったのかどうか。

 事件を解く、重要な焦点の一つだ。

 人間国宝が育てた一流と呼ばれる二人の名工。北条の名を継ぐに相応しい技量を持つ二人が、最後に試されたのは観察眼。

 一方は本物を選び、一方は贋物を選んだ。

 一人は本物を見抜き、一人は見抜けなかったから?

 本当にそうだろうか。あの三代北条が手塩に掛け育て上げた二人の陶芸家に、それほどの優劣が生まれるだろうか。一人だけが見抜いたというよりも、むしろ……。

「本当は見抜けなかったことを、原松北条にばれたんじゃないの? それで、四代目を継げるかどうかがわからなくなって、それで……!」

 瀬木の視線は海椙へ向けられ、次に刑事である河中へと移動した。

「……先生と、口論になって、それで……、かっとなって……」

 瀬木は声を震わせながら話し、目を閉じて長い息を吐いた。

「どうして鍵を掛けたのですか?」河中の鋭い眼光が瀬木を見据える。「感情的になって犯行に及んだ、ということならば、そのあとはどうですか? そのまま現場から立ち去らず、鍵を掛けたことについてはどう説明をなさるおつもりですか?」

 瀬木は一度だけ左右に首を振った。

「別に、どうも……。好きに、都合のいいように解釈してくれたらそれでいいです」

「そういうわけにはいかないんですよ」

「…………」

 裁判では殺意の有無が争点になるが、どちらでもいいというのも問題だろう。三代北条、あるいは親族次第になるが、明確な殺意を伴っての犯行、ということに落ち着くのだろうか。瀬木が否定、そしてそれを裏付けるものが出てこない限りは厳しいか。

「凶器と、贋作の『北条』はどこですか?」

「工房に……」

「自宅の工房ですか?」

「ええ」

 河中は左腕の腕時計を見ると、未散達に向き直った。

「私はここで失礼します。もうすぐ海椙刑事がここへ到着する予定ですので、何かあれば彼女か、表の警官にお願いします」

 河中は早口でそう言うと、足早に部屋を出ていった。廊下に出た彼の、指示を出す声が徐々に遠くなっていく。

 海椙が一度、未散の顔を見た。

「瀬木さん、あなたは『北条』の真贋を見極めることができると、それだけの観察眼を持っていると聞きました」

「先輩、でもそれじゃ」

「…………」

 未散は海椙に構わずに話を続ける。

「にも関わらず、今回の件であなたが盗んだのは贋物の方。つまりあなたにとって、、三。そうではありませんか?」

「え、でも、鯉江寳泉の作った本物の『北条』は数百万から数千万もするのに対して、三代北条の方は十万円とか、その程度だって話ですよ?」

「それは市場価格の話でしょう。個人の価値観とはまた別の、関係のない話」

 未散は瀬木を見据える。彼は口を結び、視線を下げていた。表情には、後悔が表れている。

「私自身、写真でですが、昨日二つの『北条』を拝見しました。素人の私に真贋を見抜く力がないのは当然だとしても、両者に違いを見つけることが難しいほど精巧に作られたものであることは伝わりました。三代北条の技術をもってしても、あれほどのものを作るとなると、相当の時間と根気が必要だったとわかります」

「……あれは、芸術の、いや、人の域を超えている」

 瀬木は呟くように言うと、眉を寄せ、口を閉じた。怒っているようにも見えたが、同様に後悔や恥じているようにも見える。自分自身に呆れているのかもしれない。

 瀬木は顔を上げ、未散を見つめる。

「あなたは、あの作品をどう見ますか?」

「三代北条の作った方ですか?」

「ええ」

「素人の考えですが」最初にそう断ってから、未散は続けた。「時代こそ違いますが、鯉江寳泉は最高峰の名工、その一人だと聞きます。そんな彼の最高傑作である『北条』は、まず普通の陶芸家では模倣することもできないのではないでしょうか。少なくとも、鯉江寳泉と同等の技術を持ち合わせていなければ、あそこまで精巧なものを作ることはできないのではないですか?」

「その通りです。窯の技術などもありますから一概に言い切れるものではありませんが、概ね、あなたのおっしゃるとおりです」

「特に梨皮朱泥と自然釉のものは、鯉江寳泉自身が同じものを作ろうとしても、あそこまで似せることはできないのではないでしょうか」

 瀬木はやさしく笑うと、未散の顔をじっと見た。

「あなたはとてもいい眼を持っていますね」そう言うと瀬木はふっと息を漏らし、笑みは雲に隠れた。「私とは違う……」

「え?」

 瀬木の言葉に海椙が反応し、首を傾げた。

「作者である鯉江寳泉以上の技量を持ち、そして何度も何度も、気が遠くなるような試行錯誤を経て、ようやく贋作『北条』は完成します。一目見ればわかる、奇跡の結晶だと……」

 瀬木の口許が小刻みに震える。嗚咽を堪えているようだった。

「鯉江寳泉の『北条』は、名工の最高傑作と謳われるだけあって、たしかに価値のあるものです。初代北条が、それから名前を貰うくらいに。何百万、何千万、あるいはそれ以上の値がつくのも頷けます。でもね、どうでもいいんです、そんなものは」

 嘲るように、瀬木は笑った。しかし目許には涙が見られた。彼は震えるように息を吐くと、静かに続ける。

「鯉江寳泉の『北条』にどれほどの値段がついても、何の意味もないんです。売ることができるわけでもないし、どうすることもできない。自身の作品ならば、自己満足に浸れるけど、そうもいかない」

 身も蓋もないが、それが本質だろう。物の値段など、売買の際を除いて意味を成すことはない。オークションに掛けているわけでもない『北条』の値段が釣り上がっていったところで、愉悦を覚えるわけでもないのだろう。そのような低俗な者が手にできるような物ではない。

「先生の作った『北条』は、贋作です。作品としての価値はほとんどない。でも、

「本物よりも……?」海椙が眉を寄せた。

 瀬木は笑った。わずかに頬を赤らめて。

「気が遠くなるどころか、気が狂ってもおかしくない作業を、先生は、敏久と自分を試すだけに、それだけのために」

 自然釉の模様は偶然によるところが大きい。燃料の薪の種類や窯の中の位置などはもちろん、気候や天候、気温など、ありとあらゆる要因により降灰の様子が変わる。同じ作品を、同じで窯で、同じ条件で焼いたとしても、同じような模様ができるわけではない。

 一度見た万華鏡の模様をもう一度揃えようとするのと一緒だ。理論上は可能というだけ。いかに三代北条が優れているのかがわかる。

 瀬木透と海椙敏久という、二人の弟子を試すために、それだけのために作ったものとは思えない、人並み外れた熱量が感じられる。試行回数も数えられるものではないはずだ。下手すれば何年も掛けて、ということも充分に考えられる。

 超一流の技術、気が狂いかねない試行回数、それを続ける人並み外れた根気、熱量、想い。人間国宝の、ただの贋作ではない。もしかしたら、鯉江寳泉よりも『北条』に対して情熱を注いでいたのかもしれない。

 鯉江寳泉の真作『北条』よりも、三代北条による贋作『北条』の方が価値はあると、瀬木がそう言うのも頷ける。

「先生が自分達のためだけに作ってくれたもので、本物よりも価値がある。……だけどそう、

 瀬木は俯くと、顔を両手で覆った。そして自身の白髪混じりの髪をかき乱すようにしながら、ため息をついた。

「見抜けなかった?」海椙が思わず聞き返す。

「海椙敏久さんは見抜いていたんですね」未散は瀬木を見据えて聞いた。

「え? 叔父さん?」

「学校の先生は頭が良いのですね……」瀬木はおかしそうに、弱々しく微笑んだ。

「見抜いたって、真贋を?」

「そうじゃない」海椙が不思議そうな顔を見せるので、未散は首を振った。「贋作『北条』の価値よ」

「敏久は、あいつは先生の『北条』を選んだ。四代北条の名に目が眩んでいた俺と違って……」

「それは、叔父さんのことだからただ単に真贋を見抜けなかったからじゃ」

「あいつはそんな男じゃないよ。他の人間ならともかく、二十年以上も先生に呼吸の仕方から叩き込まれたんだ、あいつが見抜けないはずがない」

「そんな……。じゃ、じゃあ、自ら四代目を放棄したっていうの?」信じられないといった感じで海椙は首を勢いよく振った。「それはただの馬鹿だよ」

「かもしれないな。でも、あいつにこそ北条は相応しいよ」瀬木は額に手を当て、肩を落とした。「それに比べ、俺は、虚栄の固まりだ。見栄を張ることばかり考えて……。最低だ」

「…………」

「口論の理由は何なんですか?」

「些細なことです。親に叱られた子供が言うことを聞かずに癇癪を起こした。それだけです」

 未散から視線を逸らし、瀬木は俯きながらそう話した。

「密室は?」海椙も尋ねる。

「ばれるのが怖くて。殺しちゃったと思ったから。ふっ、びっくりしたよ。慌てていたのは最初の数分だけだ。麻痺してたのかな、すぐに冷静になってさ。あれこれ考えて、先生の家に訪れる人間は限られているし、すぐ怪しまれるだろうって。だから、鍵が掛かってれば、少しは誤魔化せるかなって思ったんだよ」

「贋物の『北条』を盗んだのはどうして?」

「実は、それが口論のきっかけで……。感情的になってたのかな。盗む必要も、ましてや先生を殴る必要もなかったのに……」

 瀬木は大きく息を吐くと、少し気持ちが晴れたのか、すっきりとした顔を見せた。彼はゆっくりとベッドに横になり、瞼を下ろす。涙は重力に引かれ、目の横を伝い落ちた。

「馬鹿なことをした……。取り返しのつかない、とんでもないことを……」

 瀬木は顔を手で覆うと、声を詰まらせた。

「もう、死ぬしか……、死ぬしか詫びることができない……っ」

「生きてください」

 体を震わせながら泣く瀬木に、未散はそう言った。

「先輩……」

「生きてください。罪を償えるのは、生きている人間だけです」

 未散の言葉に、瀬木は顔を覆ったまま頷いた。嗚咽を堪えながら、何度も何度も、頷いた。

 廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、病室の扉がノックされた。

「はい」

「透!」

 海椙が返事をしたかどうかのところで、海椙敏久の顔が飛び込んできた。今日は少し汚れたダウンジャケットに余裕のない茶のパンツ姿だった。彼の後ろには、スーツ姿の海椙刑事も見える。彼女は未散と目が合うと、軽く頭を下げた。

「お前、お前……。何たぁけたことしとんだて……!」

 海椙敏久は怒鳴りながらも、大粒の涙をこぼした。

「敏久……。俺、俺……」

 それ以上は言葉にならなかった。

 二人の陶芸家の顔は苦痛に歪み、子供のように大声を上げて泣き出してしまった。途中で何事かと様子を見に来た看護師も、大の大人が泣きじゃくる姿を見て戸惑いの表情を見せたが、未散達に頭を下げると静かに戻っていった。

 未散達は二人をそのままにし、部屋を出ることにする。

 ドアを一枚隔てていても、廊下に二人の咆哮するような鳴き声は漏れてきていた。

「兄弟みたいな関係だからね。思うところがあるんでしょう」

 ドアの向こうを見るように、海椙刑事は言った。

「自供したよ。河中って刑事は凶器と盗まれた『北条』を確認しに行った」

「うん、聞いた」海椙刑事はわずかに肩を竦めて笑みを見せた。「これで少しは息がつけるかな」

「だといいですけどね」未散はため息をつく。

「何か気になることでもあるんですか?」海椙が首を傾げながら未散の顔を覗いた。

「何も」未散は首を振り、海椙姉妹を睨むようにして見る。「これで警察から煩わしい聴取がなくなればいいんですけど」

「ああ、それは大丈夫だと思います。ええ、私からも上に掛け合いますので」

「お願いします」

 未散は軽く頭を下げると、そのまま帰ることにした。もうこれ以上、ここに留まる理由は存在しない。熱こそ引いたものの、風邪が完全に治ったわけではなかった。明日の朝にはまたいつもの日常が始まる。休日に体を休めるという何でもないようなことさえ叶わないというのは、果たしてどういうことなのだろうか。

「帰るんですか?」背後から海椙が声を掛けてくる。

「そうよ」振り向かず、足も止めずに未散は答えた。

「待ってくださいよう、先輩」

「送っていきましょうか?」

「結構です」海椙刑事の申し出も断り、未散は軽く手を上げた。「お仕事がんばってください。それでは」

 未散はそのまま廊下を進み、右手の階段で下りることにした。

「エレベータを使いましょうよー」小走りで追いついてきた海椙が口を尖らせる。「五階ですよ? 一階まで下りるつもりなんですか?」

「ならエレベータで下に行けばいいじゃない。私に付き合うことないでしょ」

「またまた、そんな冷たいことを言う」

「五階なら、エレベータを待っているうちに下りられる」

「あ、先輩、お昼食べました?」

「食べてないけど……」未散は思わず顔を歪めた。

「じゃあ食べに行きましょう。私もまだなんですよね」海椙は笑顔を見せて、かわいらしく階段を一段ずつ飛ばしながら下りる。「あったかいお蕎麦がいいですね」

「却下」

「えー?」

「温かい蕎麦なんか邪道よ。あんなものは酷い悪ふざけか、醜い悪あがきに過ぎない。それに風邪を引いた状態で、あんたと昼食まで一緒に? 質の悪い冗談だな、まったく」

「じゃあ、ざるにします?」

「…………」踊り場で立ち止まると、未散は海椙を見てため息をついた。

「?」

「どうしてこのまま帰るという選択肢はないのよ?」

「鴨せいろなんて素敵ですよね」

「このやろう」

「ひゃあああああ」

 未散は海椙の頬をつねった。日頃の鬱憤を晴らすように、思い切り。

「ぎぶ、ぎびぎぶぎぶ! ギブ! 離してください、先輩、ちぎれ」

「病院だからね。誰か治療してくれるんじゃない?」

 未散はそのまま海椙の頬を引っ張りながら、階段を下りていく。

「にゃあああああ」

 さすがにうるさいので、未散は手を離してやった。

「うぅ、酷いですよぅ……」

 海椙は涙を浮かべ、頬をさすりながら言った。

「泣きたいのはこっちよ」未散は項垂れながら、廊下に出る。「何が悲しくて休日にこんなことを」

「そんなぁ、私の所為だって言うんですか? そんなの、論理的じゃないじゃないですか」

「あんたが陶器を見に行こうなんて言い出さなければ、こんなことには巻き込まれていないの」

「先輩がカップを割るからいけないんじゃないですか」

「私が割ったわけじゃない。それに、代わりなんていくらでもあるのよ」

 玄関ロビーを抜け、建物の外に出ると冷たい風が襲ってくる。雪は降っていないが、暗い雲はまだ厚く張っている上、足下には多くの雪が残ったままだ。ため息も白くなる。

「先輩」

「何?」

「桜海老の掻き揚げもおいしいですよね?」

 懲りない後輩に、さすがの未散も吹き出してしまった。

「そんなに食べたいの?」

「おいしいお蕎麦屋さんがあるんですって。すっごい高いんですけど」

「あっそう。わかったわかった」肩を竦め、舌を鳴らした。「仕方ないなぁ、ったく」

「そうこなくっちゃ。大丈夫です。警察で領収書を切ってやりましょう。正当な報酬です」

「報酬ねぇ」未散は歩きながら、少し考えた。「もっと高いものにしない?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る