第2話 マスクド・レッドの正体


 1


「酷くないですか?」

「知るか」

「酷いですよね?」

「だから知らないって」

「酷いじゃないですか」

「だから知らな」

「酷いですよね?」

「…………」

「酷いですよね?」

「そうね、酷いね」

 恐ろしく不毛な会話に辟易しながら、長野原未散が先に折れてしまった。

 隣の海椙葵は個別に包装されているお菓子を頬張りながら、不満を漏らし、未散の机に空き袋の山を築き続けている。

 いろいろと面倒な女だ。

 未散はため息をつき、一口サイズのバウムクーヘンに手を伸ばした。

 海椙の話は、親友の恋人がした浮気話だった。他人の色恋沙汰にさしたる興味を持てない未散としては、至極どうでもいい、はたまた迷惑な話である。バウムクーヘンによって口の中の水分が奪われていくことよりも、無視できない迷惑さだ。百歩譲って海椙自身の話ならば、職場の先輩として耳を傾けることもできる。嫌な顔をしながらでも聞いてやってもいい。だが、彼女の親友の恋人の浮気話など、適当に相槌を打つことさえ億劫でしょうがなかった。

「浮気なんて、信じられませんよ」

 先ほどから海椙は同じフレーズを繰り返すだけ。

 自身が浮気されたわけでもないのに、よくもまあ、それほど感情的になれるものだ。

 未散は呆れながらもう一つバウムクーヘンを口に運んだ。ブッシュ・ド・ノエルよりもバウムクーヘンの方が好きだった。かわいらしさの欠片もない合理的なデザインもどこか好感を覚える。キャンプに行った際にはカレーなんかよりも先に手作りしたくなるほどには、未散はバウムクーヘンが好きだった。『彼』に比べれば苺のショートケーキなど邪道に思えて仕方ない。バウムクーヘンが男性名詞であるところに、ドイツ語の魅力が見え隠れしている。もっと評価すべきだ。

 珍しくもない男の浮気話にいったい何の魅力があるのだろう。聞いているのが非常に面倒だ。バウムクーヘンを一枚ずつ剥がしながら、いかに退屈な話をされているのか、少しでもアピールしているのだが、効果は全くないようである。

 海椙の話を聞く限り、男の浮気は初めてで、しかも素直にそれを認めたという。浮気自体許されるものではないが、それほど悪質なものとも言い難い。男も反省しているようで、情状酌量の余地はある、と未散自身は判断していた。

「わかってない! わかってませんよ、先輩は! 先輩は女心というものを理解できてません!」

 海椙はかぶりを振りながら、とても失礼なことをぶちまけた。

 お前よりも数年は長く女をやっているわ。

 そう言ってやってもよかったが、残念ながら口の中にはバウムクーヘンで溢れていた。しかも水分のほとんどを持っていかれている。

 何が?

 言葉の代わりに眉を寄せ、首を傾げる。

「いいですか、いいですか?」

 いいから話せ。

 未散はもう一つバウムクーヘンを手に取った。

「ペぽちゃんはですね、たしかに疑っていたんですよ」

 ぺぽちゃん、というのが海椙の親友の愛称らしい。ちょっとぽっちゃりで家庭的、明るく健気な、どじっ子美人、という話だ。

「最近妙にやさしくなった彼氏の行動に、不審を抱いたんですよ。どじっ子のくせに」

「どじっ子のくせに」

「一度気づいたら、それ以降いろいろとおかしな部分が出てくるんですよ。回数が減ったりだとか、逆に無理しようとして全然だったりだとか」

 しかしスポンジケーキのようなバウムクーヘンだ。もっと堅めでないとバウムクーヘンの意味がない。しっとりしたケーキが食べたかったら別のものを食べろと、説教したいくらいだ。やはり手作りでないとだめだ。機械による大量生産など、冒涜以外の何ものでもない。バウムクーヘンを作るために寿命を削る職人に対して失礼だとは考えないのだろうか。

「それでついに、温厚なぺぽちゃんも、聞いてみたんですよ。浮気してるんじゃないのか、って」

「で素直に認めたんでしょ? 聞いたって、それは」

「だからそこが問題なんですよ!」

 興奮した海椙は拳を作り、それを何度か上下させながら言った。

「?」未散は剥がしたバウムクーヘンを食べながら、首を捻った。「何、認めたらだめなの?」

「当然です!」

 憤慨する海椙とは対照的に、未散は冷静に、しかし混乱していた。

 過ちはともかく、それを素直に認めるのは誠実そうで良さそうなものだが……。居直られるよりはいいだろうに。違うのだろうか。

「浮気は認めちゃだめなんですよ!」

「ややこしいな」

「どんなにばれていても、仮に裸で抱き合っているところを目撃されても、男は絶対に認めちゃだめなんです! 浮気は認めちゃだめなんです!」

 何ということだ。

 これが教師の言うせりふだろうか。

「いいですか、女性が聞きたいのはですね、事実じゃないんですよ! 安心を得るために、聞くんです。実際に浮気をしていても、そしてそれがわかっていても、本当のことを言って欲しいと口に出しても、浮気を認めた先に幸せなんかないんですよ!」

 わかるような、わからないような。いや、やっぱりわからない。

 そもそも浮気した、された時点で幸せなんかないだろうに。

「いいですか? 女はですね、いつも否定して欲しいんです。どんなに明らかであっても、認めて欲しくないんです!」

 目の前の失礼な後輩は、ひょっとして未散が女性であることを忘れているのだろうか。だとするならば一発ぐらいは殴ってやらないとだめだろう。

「そういうものかね」

「しかも初めての浮気ってのが追い打ちになってるんですよ」

「……初犯も何か悪いわけ?」

「当然じゃないですか。常習犯の方が何倍もマシですよ!」

 普通の感覚とずれている気がしないでもないが……。

「どうして?」

「初めてですよ? 初めての浮気ですよ? つまり、今まで付き合っていた彼女は最高だったけど、お前なんかすぐ飽きちゃったんだぜ、ベイベーってことですよ?」

「わからん」

 未散は素直に首を振った。

「何でですか」理解できない未散に苛立ちながら、海椙はため息をつく。そして教師らしく、身振りを交えて丁寧に説明を続ける。「いいですか? 初めての浮気ってことは、付き合っている彼女に問題があるんだ、と男は言っているわけなんですよ」

「飛躍しすぎてない?」

「そんなことありません。今まで付き合ってきた彼女に対して浮気を働いたことはないけど、君と付き合っているときにだけ変に魔が差したんだ、そういうことですよ?」

「んー、まあ」

「それってつまり、お前には魅力がないんだ、ってそういう風に言われているのと同じじゃないですか」

「それは浮気全般に言えるでしょ」

「違います。他の女の子と付き合っているときは浮気しなかった、ということは、お前は過去の女よりも劣っている、そう宣言されたも同然なんですよ!」

「……なるほど」

 思わず理解してしまった。

「ね? 常習犯の方がまだマシでしょう?」

「……どっちも。浮気する男は嫌だなぁ」

 残りのバウムクーヘンを口に放り込み、普通の感想を未散は漏らした。

 八月四日。土曜日。午前十一時四十九分。誰もいない職員室での会話としては、そぐわない内容だったことだろう。せっかく部活を抜け出して冷房の効いている職員室で涼んでいたのに。

 目の前の海椙も青系統のジャージ姿であるから、彼女も退屈な部活を抜け出してきたのだろう。体を動かしているのは生徒達なので、それを眺めているだけの顧問は毎回どうやって時間を潰そうか、そればかりを考えている。退屈な仕事も構わないが、さすがにこの時期の部活は辛いものがあった。未散はテニス部の顧問であるためなおさらだ。

 夏期講習の講師をやってもよかったのだが、数学の希望者はほとんどいなかった上に、バイト代も出ないため、今年も平野が務めることになった。

 真面目に授業さえ聞いていれば、受験など問題はないはずである。これだけ頑張ったのだから、という占いにも似た意味のない根拠が欲しいのだろうか。

「で、別れたの? その二人は」

「さあ?」

 海椙が首を傾げるのを見て、未散は大きくため息をついた。

「そこが重要じゃないの?」

「そんな、いくら親友とはいえ、他人の色恋沙汰の結果など犬も食わないですよ。私が言いたかったのですね、浮気を認めた最低な男がいた、それだけです」

 恐ろしく不毛な会話だった。わかってはいたが、想像を遙かに超えるほど、時間の浪費としては贅沢なものだ。炎天下の中、テニスコートのベンチに座り、部員達の拙いラリーを眺めているのとどちらがマシだっただろう。この両者に、天秤に掛ける価値がそもそもあったのかは無視しなければならないが。

 ひと通り話し終えてすっきりしたのか、海椙に先ほどまでの興奮した様子は微塵も残っていない。にこにこの笑顔でお菓子を頬張っていた。

「いやぁ、嵯峨根先生がいないと気が楽ですねー」

 それには全面的に同意する未散ではあるが、その発言者が海椙であることに引っ掛かりを覚えた。間違いなく、自惚れでも何でもなく、お局の餌食になっているのはいつも未散である。海椙など、かわいい小言を言われているに過ぎない。その皺寄せが全部未散に回ってきていることを、彼女は知っているのだろうか。

 職員室の戸が開き白衣を着た小柄な男、永田行雄が入ってきた。彼はこちらを一瞥して、給湯室の方へ歩いていく。

 化学の夏期講習が終わったのだろうか。彼は海椙とともにバドミントン部の顧問を務めている。顧問の一人がこんなところでサボっていることを気にしたかもしれない。いや、そんな小さな男ではないか。

「お疲れ様です」マグカップを片手に戻ってきた永田は、無表情で抑揚なくそう言った。

「お疲れ様です」

 未散と海椙も彼に軽く頭を下げた。

「部活はどうですか?」永田は海椙を見て尋ねた。

「夏の体育館は暑いです」海椙は微笑む。

「でしょうね」永田も口許を斜めにした。そして未散に向き直る。「外はもっと暑いでしょう?」

「ええ、そうですね」

 未散もおかしくなり、笑ってしまった。

 薄い黄色のポロシャツに白衣を着ている永田が一番暑そうだった。公立校のため、各教室に冷房は設置されていない。化学科の教師には白衣を着なければならないという暗黙のルールでもあるのだろうか。普段はチョークで汚したくない、などはあるだろうが。

 デスクに置いてある電波時計がもうすぐ正午を迎えようとしている。十二時三十分前後でいつも部活を切り上げているので、そろそろ戻った方がいいかもしれない。

 そんなことを考えていると、三木智文が職員室にやってきた。白のポロシャツには、チェックのレイヤード。若いためかおしゃれにも気を遣っている。そのため、女生徒からの評判も上々だった。

「お疲れ様です」三木はさわやかに微笑むと、こちらにやってきた。

「お疲れ様です」三人も会釈を返した。

「吹奏楽部はどうですか?」海椙が尋ねる。

「いやぁ、僕の仕事は朝早く来て鍵を開けるだけですから」三木は自嘲気味に笑った。

「逆にやることがないと辛いのでは?」今度は未散が聞いた。

「ええ、まあ、そうかもしれません」

 苦笑しながら、三木は手を叩いた。

「あ、そうだ。みなさん、R.E.D.って知ってますか?」

「レッド?」

 海椙が首を捻りながら聞き返した。永田がこちらを見ていたので、未散も首を横に振った。

「色、ではないですよね」

「ええ。R.E.D.というのはですね、プロレス団体の一つなんですけど、やっぱりご存知ありませんか」

「ああ」

 意外にも、永田が声を上げた。心当たりがあるようだ。

 三木の顔が明るくなる。

「ご存知ですか、永田先生」

「ポスターが、最近貼られていますね」永田は淡々と話した。「それを見た程度ですけど」

 プロレスか。

 未散は、一般的な女性に比べれば、格闘技に明るいと言える。プロレスについてもひと通りの知識は持っていた。しかし、三木の言う団体は聞いたことがなかった。マイナーな団体か、それとも海外の団体だろうか。

「R.E.D.は新興団体で、一部のプロレスファンの間で絶大な人気があるんです。最近、かなり注目されてきているんですよ」

 プロレス全盛期は、言うまでもなく昭和だろう。それ以降は人材不足もたたってか、人気に陰りが見えている。最近では特に、満足にテレビ中継もされない、老舗のプロレス情報誌も廃刊になるなど、窮地に立たされていると言っていいレベルだ。トップクラスのレスラーが試合中の事故で亡くなったことも記憶に新しく、団体存続の危機は、どのメジャー団体でも聞かれる話だという。

 そんな中、一部にとはいえ絶大な人気を誇る団体があるのだとすれば、それはかなりのニュースだ。

 心なしか、普段はさわやかで大人しい三木も興奮しているようだった。連日三十度を超す真夏日とは別の熱が、彼には作用しているようである。

「それで、そのR.E.D.の大会が明日予定されてて。この街にやってくるんですよ」三木は嬉しそうに頬を綻ばせながら話した。

「ここでやるんですか?」海椙は意外そうな声を出す。

 今はメジャー団体ですら大きな場所での興行は難しく、地方都市でのタイトルマッチも珍しくない。このような田舎町での試合もマイナーな団体ならばむしろ当然だと言える。

「市の体育館で明日の夕方から」

「へえ。それは楽しみですね」未散も微笑んだ。

 ここまではしゃぐ三木は記憶にない。もともと明るい性格の男ではあるが、今は誕生日やクリスマスが待てない小学生のような、そんな嬉しさや喜びが滲み出ていた。

「それでですね、あの、チケットがあるんですけど、みなさん良かったら一緒に行きませんか?」

 一瞬、未散達三人は互いに顔を見合った。

「え、いいのですか?」未散はすぐに聞き返す。

「もちろん。みなさんのご予定がなければ。チケットは四枚ありますので」

「四枚も? どうしてまたそんなに持ってるんですか?」海椙が質問した。当然の疑問だった。

「それが、最初は友人達と見に行く予定だったんですけどね。いろいろと被っちゃったんですよ。野球とかコンサートとか」

 八月に入って最初の週末であるし、各イベントも集中しやすいのだろう。

 三木は残念そうに肩を落として、話を続けた。

「それで、プロレスの優先順位はみんな一番低くて……」

 そうだろうな、と未散も思う。ましてや聞いたこともなかったマイナーな団体である、特別に熱心でない限り、他を優先させられても仕方がないだろう。

「ですので、よろしければ貰ってください」

「先輩、行きましょうよ」海椙が無邪気な笑顔を浮かべながら誘ってくる。

 明日は何も予定は入っていない。同僚との親交を深めるのも悪いことではないし、せっかくの機会だ、付き合うのもいいだろう。

「そうね」未散は海椙に頷いてから、三木に向き直る。「じゃあお言葉に甘えて」

「ああ、ありがとうございます」三木は嬉しそうに笑みを見せた。

「永田先生はどうします?」海椙が無表情の永田に尋ねた。

 永田は、社交性に長けた男ではない。人との接触を嫌っているような、そんな印象を未散は受けていた。しかし、無表情で口数も少ないが、無愛想とも違う。不思議な雰囲気が彼には存在していた。

「ご一緒させて貰ってよろしいですか?」

 だから当然、永田からこの意外なせりふが聞けたときにはとても驚いた。

 プロレスに興味があるのだろうか。

 あまり一般的ではない娯楽観戦の誘いを、全員が受けてくれたことが余程嬉しかったのだろう。体全身で喜びを表現するかのように、三木は職員ロッカーに置いてあるチケットを取りに行った。小走り気味というよりは、ほとんどスキップに近かった。

「嬉しそうですねぇ」

 三木の後ろ姿を見ながら、海椙がのんびりと言った。未散も、思わず苦笑が漏れる。

 若干息を切らしながら戻ってきた三木は、満面の笑みで未散達にチケットを差し出してくれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

「いただきます」

 それぞれ礼を言いながらチケットを受け取った。

 受け取ったチケットに視線を落とすと、開始時刻は午後六時半からとなっている。場所が市の体育館ということなので、収容人数からも混雑はしなさそうだ。勝手もわかっている地元の体育館なら、三十分前に着けば充分だろう。

 他の者も同じように考えていたのだろう、結局待ち合わせは、現地に三十分前ということですんなり決まった。

「明日を楽しみにしてます」

「ではまた明日に」

 満面の笑みの三木と無表情の永田は、それぞれ音楽室と化学室へ向かうため、職員室を出ていった。

「いやぁ、楽しみですねぇ。私、プロレスなんて初めてですよ」

「珍しいことはたしかね」未散は頷きながら、チケットをなくさないように、財布へしまった。

「明日どんな服を着ていきましょう?」

 女の子らしい悩みではあるが……。

「別に、普通の、カジュアルな格好でいいでしょ」未散は素っ気なく答えた。「おしゃれに気を遣う必要はないんだし」

「ああ、先輩がいつもの着てるような格好でいいんですね」

「OK、喧嘩売ってるんだな? そうなんだな?」

「自覚があるなら、もっとおしゃれしましょうよー。あ、そだ、これからお買い物に行きましょうよ」

「嫌」

「えーどうしてですか?」

「何であんたとプライベートまで一緒じゃなきゃいけないのよ」

「またまた、照れなくてもいいじゃないですか」

「……ポジティヴ女め」


 2


 翌日、八月五日。日曜日。

 ささやかな幸せである微睡みを、無機質な電子音が掻き消した。

 夢の国の住人もさぞ驚いたことだろう。突如として現れたノイズにより、ストーリーも何もかも無視され、途中退場を余儀なくされたのだ。大人の都合で降板される女優だとしてももう少し相応しい最後を用意されるだろうことを考えれば、それはまさしく悲劇以外の何ものでもなかった。

「…………」

 叩けば黙る目覚まし時計が聞き分けのいい忠実な僕であるということを相対的に学んだところで、問題の電子音が止まるわけではない。未散は舌打ちを代価に、電話に出ることにした。

「はい、もしもし」

「あ、先輩ですかー?」

 海椙葵の元気な声が聞こえてきた段階で、電源ボタンに親指が掛かる。

 あまりの苛立ちに、目も覚めてしまった。深くため息をつき、目許を指で払いながら、時計に目を向ける。寝ぼけ眼では焦点が合わなかったが、昼近くであるらしいことはわかった。

「……何?」

「あれ、寝てました? お寝坊さんなんですね」

 休日ぐらい夜更かししても罰は当たらないだろう。神や仏でさえ未散に文句は言わないのに、職場の後輩に何か言われたくないものである。

「で、何?」

 電話口で不機嫌さをアピールするにはどうしたらいいだろう、と考えながら尋ねた。

「昨日約束したじゃないですか」

「試合は十八時でしょ」

「お買い物ですよ、お買い物」

「は?」

 電話だというのに、顔が歪む。

「昨日一緒に行くって約束したじゃないですか」

「してないしてない」

「えー? 教職員ともあろう人間が約束を反故にするんですか?」

「もともと白紙だ馬鹿やろう」言って、未散はため息をつく。

「まあいいじゃないですか。ランチついでに行きましょうよ」

 断られることを微塵も思っていない軽い調子で海椙は言った。

 彼女の明るさに、未散は逆にテンションが下がっていく。寝起き自体が悪くなくとも、アクシデントに近い起こされ方では、ベッドから出るのは躊躇われるだろう。そもそも行動派でない未散ならなおのことだ。

「やだ」

 目を瞑り、ベッドに倒れるようにして言った。

「何てものぐさなんですか。そんなんじゃヒロイン失格ですよ」

「冗談じゃない。あんな山や谷しかない人生なんて、こっちは望んでなんかいないのよ」

「平穏無事がいいって言うんですか?」

「誰だってね」

 未散は短く息を吐いた。

「おいしい店を知っていて、あんたの奢りなら、付き合ってあげてもいい」

「後輩にたかる気ですか」

「うん」

 欠伸をしながら答える。首元の汗を拭いながら、夏だということを思い出した。なるほど、暑いわけだ。

「しょうがないですねぇ、じゃあそれで手を打ちましょうか。魔性の女ですね、先輩」

「うるさい」

 ベッドから起き上がり、窓を開けた。蝉の鳴き声が強くなる。わずかな命だ、盛大に鳴かせてやろう、という仏心は未散には存在しない。耳障りな蝉に毎年腹を立てるような少女だったし、それは今でも変わっていなかった。

「どこで待ち合わせします?」

「任せる」

 パジャマを脱ぎながら、バスルームへ向かう。パジャマと下着を洗濯機に放り込んだ。

「じゃあ駅前のコンビニで、三十分後くらいでいいですか?」

「うん」

「ではまた」

 未散は電話を切ると、シャワーを浴びることにした。

 たまにはこんな休日も悪くはないだろう。世間的には夏休みであるし、流れる時間も普段に比べれば緩やかだ。

 汗を流し、簡単な身支度を済ませて、家を出た。

 外はやはり暑く、日差しがきつい。シャワーを浴びたばかりではあるが、駅前まで歩くだけで汗を掻きそうだ。早く冷房の効いたコンビニへ向かいたかったが、歩調を早めればその分汗を掻いてしまう。最適な解を見つける演算の途中で、目的地であるコンビニに着いてしまった。徒歩で五分ほどの距離だったことを思い出した。

 約束よりも少し早い。海椙はまだ来ていないようだった。

 雑誌の立ち読みでもしながら待つことにする。

 ふと、一つの雑誌に目が留まった。週刊のプロレス情報誌。咆哮している金髪の男が印象的な表紙だった。普段はまず手に取ることのない雑誌だが、今日の試合のこともあり、思わずそちらに手を伸ばした。

 カラーのトップページはメジャー団体のタイトルマッチの結果を中心に、迫力のある技の応酬を捉えた写真が掲載されている。屈強な男達の苦悶に満ちた表情。額からの流血も生々しかった。

 やはりメジャー三団体の記事が目立ち、その次に選手のインタビュー、チケット情報と続く。三木の話していたR.E.D.は巻末に海外団体と同列で、カラーページで掲載されていた。他のインディー団体と比べれば、比較的扱いが大きかった。

 所属選手は少なく十人ほど。そのため、フリーランスの選手がツアーに参加していたり、他団体との交流も盛んにしているようだ。人数の兼ね合いもあり、タッグマッチは少ないようである。それに伴い、タッグベルトは制定されておらず、団体の象徴はシングルベルトのみとなっているようだ。

 メジャー団体の多くでは、ヘビー級とジュニアヘビー級、それぞれ階級ごとにシングルとタッグのベルトが制定されている。その中でも特にヘビー級のシングルベルトは団体の象徴、至宝とされ、大きな意味を持つ。

 ざっと読む限り、R.E.D.に所属する選手はフリー階級が多いようだ。プロレス界には百キロ未満のジュニアヘビー、百キロ以上のヘビー、と二つの階級に分かれている。フリー階級というのは、ジュニアヘビー級の体重でありながら、ヘビー級との試合もこなす階級を指すのだが、この辺りの定義は実は曖昧だったりする。というのも、最近は階級を超えたマッチメイクも多いため、単純にジュニアヘビー級と区分されることもしばしば。もともとボクシングなどと違い、厳格な計量を行なっているわけではなく、また団体によって階級の定義も異なるため、その辺は適当であることが多い。R.E.D.の場合、所属するほとんどの選手が軽量級でかつ他団体とも盛んに交流しているため、フリー階級となっているようだ。

 軽量級は、メキシコのルチャ・リブレに代表されるようなスピード感溢れる空中戦が持ち味とされることが多い。しかし、R.E.D.の魅力はそれだけではないようである。さながらヘビー級同士のパワーファイトも展開され、リング上で意地と意地がぶつかり合う構図は、どのメジャー団体にも引けを取らない、と記事には絶賛されていた。

 団体のエースは赤座雄滋あかざゆうじという短髪の選手で、甘いマスクに、ファンを何よりも大切にするということで、女性ファンからの支持が凄いらしい。それに加え、王道の、受けきって勝つというスタイルが往年のプロレスファンの心も鷲掴みにしている。記事を書いたライターもその辺りについて触れていた。プロレス界の救世主とまで絶賛している。大技を喰らわせて勝つだけならば三流だが、大技を喰らいきって勝つレスラーは本物だ、と。特に赤座は軽量級でありながら、ヘビー級の大技にも真っ向から受けきるという、非凡な勇気とタフネスさを持ち合わせた素晴らしいレスラーだ、と評価されていた。

 そしてその赤座と並んで人気を得ているのが、覆面レスラー、マスクド・レッドである。その名の通り、光沢のある赤いマスクを被っており、正体は謎に包まれているみたいだ。技の華麗さには定評があり、天才レスラーとしてR.E.D.の人気を支えている。

 掲載されている写真は、凄惨なものだった。あるレスラーの胸は紫色に変色しており、相当な内出血をしていると素人目から見ても明らかだったが、彼は白目を剥きながら相手の腕を絞り上げている。記事にもあるように、まさに鬼の形相だった。口の周りは血と涎で汚れており、鬼気迫る様相。対して、技を掛けられている男も、その痛みが尋常でないことを示すように、苦悶に満ち、歪んでいる。

「すごいな、これは……」

 未散も思わず息を呑んだ。

 好きな人には堪らないだろうが、だめな者には目を背けたくなるような光景がリング上に広がっている。

 とてもではないが、あの三木の趣味とは思えなかった。

 今晩の夕飯はどうなるのだろう。ふと、そんなことが頭を過ぎった。観戦後、みんなで食事に行くことになるのだろうか。

「…………」

 雑誌の写真に視線を落とす。

 こんなものを間近で見たあとでは、食欲は湧きそうもない。とすると、昼食は多めに取っておいた方がいいだろう。何といっても海椙の奢りである。店次第ではあるが、多少大人げなく注文してやってもいいだろう。それに懲りて誘いが減れば儲けものだ。

 R.E.D.の記事には、先週行なわれた赤座雄滋とメキシコ系外国人リカルドの試合結果が中心に書かれている。どうもこの二人によるタイトルマッチが近くに予定されており、その前哨戦だったみたいだ。赤座雄滋は長年彼のパートナーを務めている仙石せんごくと、対するリカルドは外国人レスラーのホープであるシーナと、それぞれタッグを組み、試合を行なった。仙石とシーナはパワーファイター、リカルドは持ち味であるスピードを活かしたテクニカルな戦法を得意としている。実力はほとんど拮抗していたが、赤座の手札の多さが決め手となり、試合の後半は赤座と仙石が一気に畳み掛けた。最後は赤座のフィニッシュ・ホールドであるスカーレット・ドライバーで、リカルドをマットに沈めた、とある。

 写真と文面だけではどのような技なのかは詳しくわからなかったが、抱え上げた相手を受け身不能の状態で、頭から正面に叩き落とすようだ。記事を読みながら、ひとたまりもないだろうな、と未散は思った。普通、前哨戦では、タイトルマッチを控えた本人同士で決着をつけることは少ない。この場合で言うと、タッグパートナーである仙石とシーナが試合の主導を握るのが慣例だ。

 このことからも、R.E.D.の熾烈な試合内容が伝わってくる。既存の団体とは違うことを明確に打ち出すことで、従来のファンはもちろん、新規のファン層を獲得できたのだろう。危険な綱渡りの気もするが、体を資本とする業界では仕方がないのかもしれない。

 それにしても。

 暑苦しい世界だな、これは。

 思わず苦笑が漏れた未散だった。

 視線を感じ、雑誌から顔を上げると、外に海椙が立っていた。彼女は微笑みながら手を振っている。

「ああ、先輩、早いですね」

 店内に入ってきた海椙は手で仰ぐ仕草を見せた。髪をアップにしており、七分丈のシャツに、リボンのついたクロップドパンツという、さわやかで女性らしい出で立ち。常におしゃれな彼女を見ていると、不思議な気持ちになる。Tシャツにジーンズというラフな格好をしている未散に問題があるのかもしれない。

「あ、予習ですか?」手元の雑誌を見ながら聞いてくる。「全然知らないんですよね、私」

「それが普通でしょう」未散は雑誌を元の位置に戻した。「ましてやインディー団体なんて、相当なファンでなければ知らないだろうし」

「三木先生、熱狂的でしたもんね」

「ま、ファンじゃなくても楽しめるといいね」

 勢いで付き合うことになってしまった感は否めないが、せっかくの機会を楽しまないのは損だろう。たとえつまらない時間になったとしても、大した損失にはならない。一年のうちにこんな日があってもいいだろう、と寛大な心で許すことができそうだ。蝉の鳴き声に比べれば、どうということはない。

「プロレスは、やっぱりボクシングとかとは違うんですかね?」

 未散が戻した雑誌の表紙を見つめながら、海椙は言った。

「え、知らないってそういうレベル?」

「え?」海椙は目を丸くし、未散を見た。「常識なんですか、やっぱり」

「常識かどうかはわからないけど。少なくてもプロレスとボクシングじゃ、似ても似つかないでしょう」

「ええ? そうなんですか?」

 海椙は意外そうに声を上げ、雑誌を手に取った。

 どっちも知らない人間からすれば、同じように映るのだろうか。

「あ、でも、ほらほら、これ!」

「?」

 海椙の指し示す写真を未散も見てみる。スキンヘッドの外国人レスラーに対し、金髪の丸刈り姿の男がラリアットを喉元へ喰らわせている場面。その瞬間が押さえられており、外国人レスラーの肉が波打っている。迫力のある写真だ。

「四角いリングの上で、上半身裸の男達がぶつかり合ってるじゃないですか」

 たしかに共通点と言えなくもない。

「ボクシングはグローブしてるのよ。それに、手しか使っちゃいけないの。プロレスラーはしてないでしょ?」

「へえ……」

 頷き、納得し掛けていた海椙だったが、ぱらぱらと捲ったページに新たな疑問を見つけ、未散に異議を唱えた。

「でもこれは? この人、グローブつけてますよ?」

 海椙が新たに示した写真には、全身にタトゥーの入った細身の男が黒いオープンフィンガーグローブをつけて、相手を殴打している場面が収められていた。

「これはボクシングのグローブとは違うのよ。プロレスは基本的に顔面へのパンチが反則になるから、殴打を武器とする選手はこういうグローブをつけているの」

「…………」

 海椙は感心するどころか、うんざりといった表情で口を曲げる。よく未散が授業中に見る顔だ。数式を目の前に、白旗を揚げる学生達のそれである。

「何よ」

「詳しいんですね、先輩」

「…………」

 軽い敗北感を覚えるのは未散の勘違いだろうか。

 知らぬが乙女、ということだろうか。笑えなかった。


 3


 四方をロープで囲われた空間。わずか三十六平方メートルの小さなその空間に、まったく別の世界が繰り広げられている。

 黒のロングタイツの男が、赤のワンショルダーの男に向かって鋭い逆水平チョップを繰り出す。乾いた音が会場内に走った。そして嵐のような歓声。異様な熱気に包まれている。

 休む暇もなく、黒のロングタイツが二度、三度、相手の胸元へ逆水平を叩き込む。汗がミストとなり、照明の光を浴びて輝いた。

 そして大きく、強く踏み込み、より強大な一撃を繰り出そうとした次の瞬間。

 咆哮とともに赤のワンショルダーが一歩早く、ショートレンジからのラリアットをぶつけていった。鈍い音。宙に舞う相手選手。カウンターで入った会心の一撃は、さながらダンプカーとの正面衝突のように、相手をその場で一回転半させた。

 まさに衝撃的な一打だった。

 地響きのような大歓声が沸き起こる。誰も彼もが興奮を抑えきれない様子で、歓声とともに足踏みをしていた。まるで地鳴りのように、会場である体育館全体が揺れているようだった。

 赤のワンショルダーの男がそのまま相手に覆い被さり、レフェリーがマットを叩きつけるようにしてカウントを始める。会場全体もレフェリーに合わせてカウントをコールしていく。スリーカウントを迎えたとき、もう一度大きな歓声と拍手が起こった。

 未散の隣にいる海椙は口を開けっぱなしで、ほとんど呆けた状態だった。想像以上の出来事が目の前で展開され、完全について行けてない様子である。

 未散達四人はリングからほど近い席に座っていた。選手達が入場してくる通路側から、三木、永田、海椙、未散の順に座っている。入退場していく選手達の背中を、子供のようにはしゃいだ三木がタッチしていた。プロレスファンからすればかなり良い席、そうでない者にとってはかなり怖い席となっている。

 先ほどの試合でも、リング場外での攻防で、未散達の真横に外国人レスラーが投げ飛ばされてきた。並べられた椅子などをかき乱されながらもファンは喜んでいたが、隣の海椙はあまりの出来事に固まってしまっていた。百数十キロを超す巨漢、しかも体全身にタトゥー、両の乳首にはピアスまで開けられている外国人が突っ込んできたのである。海椙でなくとも、普通の人間は腰を抜かしても仕方がない。

 ここで途中休憩に入った。次の試合まで十分ほど空くらしい。

「はぁ……、凄いですねぇー……」

 そう、ため息混じりに言った海椙の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。冷房も一応ついているようだが、とにかく周りの熱気が凄く、未散も全身に火照りを覚えていた。

 三木は周りの熱狂的なファンと同様に興奮しており、海椙はあまりの迫力に圧倒されている。普段と変わらず無表情なのは永田だけだが、楽しんではいるようだった。

「三木先生」永田が表情を変えず、口調もいつもの調子を崩さずに、隣の三木に顔を向ける。「質問があるのですが」

「ああ、はい、何でしょう?」

 そう答える三木だったが、ところどころ声が震えていた。大好きなプロレスを、満喫しているようだ。

「どうして双方の選手は相手の攻撃を避けないのでしょう? 避けられないわけではないように思うのですが。わざわざダメージを蓄積させる意図は何があるのですか?」

 プロレスを知らない者にとっては当然の疑問だろう。海椙も頷いている。永田と同じ疑問を抱いていたようだ。

「プロレスラーにとって大切なのは勝利ではありません。もちろん、それも大切ではあるんですけど、それよりも大事なものが別にあるんです」

「それは?」

「強さです」三木はきっぱりと、力強く断言した。「強さを誇示すること。それが勝利よりも優先されるんです」

 しかし海椙は首を捻った。永田も表情には出ていないものの、納得はしていないだろう。

「勝つ方が、強いんじゃないんですか?」海椙が当然の疑問を口にする。

「一概には言えないんです。勝ち方にもよりますからね」三木は微笑みながら、永田と海椙の疑問に答えた。「攻撃を真っ正面から受けきるということで、自身の強さを誇示できるんです。たとえ負けても、相手の攻撃を受けきっての負けならば、レスラーとしての評価が下がることはありません。逆に、逃げ腰での勝ちでは評価を上げるどころか下げてしまうこともあります」

「そういうものなんですか」

「相手の大技を喰らっても立ち上がれば、受身の技術の高さが評価されますしね。まあ、知らない人から見れば、そういった部分に違和感を覚え、八百長だ何だと叫ばれるのですけどね。たしかに、プロレスには多くのお約束がありますが、それらはファンサービスであって、台本があるわけではありません」

「奥が深いのですね」永田は理解を示したように、頷いた。

 相手の技を受けることでも強さをアピールすることができる。それはプロレスと他の格闘技の、最大の違いであり、最大の魅力でもある。八百長だ何だと叫ぶ者は、本質を知らずに、知ろうともせずに、ただただ自分の価値観を他人に押しつける童貞に過ぎない。

「受けきって勝つ、それがプロレスの美学です」

 三木は力強く、しかしさわやかに話した。四人の中では彼が一番汗を掻いている。試合中は童心に返ったように、目を輝かせ、声を枯らしそうなほどの応援をしていた。本当に好きなのだろう。それが三人にも充分伝わってきていた。

 照明が落ち、リングアナウンサーがマイクで次の試合の説明を始める。テーマ曲が流れ、選手がパフォーマンスを交えながら入場してきた。歓声が起こる。

『青コーナー、百八十七ポンドぉ、リィカァールドォ!』

 声を張り上げ、独特の巻き舌でリングアナウンサーが選手を呼び上げた。

『赤コーナー、二百二十ポンドぉ、ボルケーノォ・佐々木ぃ!』

 それぞれ軽く体をほぐしながら、リングの対角線上に立つ相手選手を見据えている。

 青コーナーには、昼間立ち読みした雑誌にも載っていたメキシコ系の外国人レスラー。実際に間近で見ると、他の選手との対比で一層細い印象を受けた。しかしそれでも筋骨隆々としているのはさすがにプロレスラーと言える。見ただけで、しなやかさを持った非常に質の良い筋肉を纏っていることがわかる。

 対する赤コーナーの男は、赤いトランクスに赤のリングシューズ。短い髪も赤く染め、立たせている。身長は百七十センチにも満たないが、体重は百キロ近い。青コーナーのリカルドよりも一回り、二回りは大きく見えた。

「今度の選手は、どういう選手なんですか?」海椙が三木に尋ねた。

「まったくタイプの異なる選手同士ですね。リカルドは本場のルチャ・リブレ、ああ、メキシコのプロレスなんですけど、そっちの出身なので、とにかくリングを縦横無尽に駆けめぐる、素早い試合展開が得意です。ボルケーノ・佐々木は柔道や相撲の経験者でとにかくパワーがあり、強引に試合の流れを持っていくのが得意ですね。アマレスでも好成績を残しているので、寝技のテクニックも注目ですよ」

 三木の解説通り、ボルケーノ・佐々木の耳は餃子ともカリフラワーとも表現できるほどに変化している。レスラーの耳が裏返っているのは珍しくはないが、彼の耳は特にそれが顕著だった。リカルドの耳に注目してみたが、こちらは普通の範囲だった。プレイスタイルによって変わるのだろう。

 ゴングが鳴らされた。両者は慎重に、相手を見合うようにしながらステップを踏み、リングを一周する。そしてリング中央で組み合い、ファーストコンタクト。パワーで勝るボルケーノ・佐々木がリカルドをロープまで押し込んだ。レフェリーがブレイクを促す。ボルケーノ・佐々木がリカルドの胸をタッチするようにしてクリーンに離れると、会場からは拍手が沸き起こった。お約束の流れだ。

 観客席から飛ぶ選手への応援。マットとリングシューズの摩擦。季節関係ない熱気。汗の臭い。

 両者がまた組み合う。またしてもリカルドがロープに振られ、今度は佐々木のエルボーが顎の辺りに決まった。よろけたリカルドを背後から締め上げる。リカルドは必死にロープへ手を伸ばすが、佐々木は中央へ戻す。

 プロレスのルールとして、技を掛けられている選手がロープに触れた場合はブレイクしなければならない。そのため、技を効果的に決めるためには、リングの中央が望ましいことになる。

 スタンディングの絞め技から、佐々木は強引に投げ、その流れで寝技へ移行した。リング中央での寝技は、返すことが難しいとされる。特にリカルドとボルケーノ・佐々木では体格差が大きいため、さらに困難となる。

「ギヴアップっ? リカルド! ギヴアップっ?」

 レフェリーが顔を歪めているリカルドに問いかける。エプロンサイド(リングサイド)では団体のジャージを着た選手がリカルドに発破を掛けるように、大声を出していた。

「絞め技で最後まで決めちゃうことってあるんですか?」海椙がまた三木に質問をする。

 今日の試合では序盤の絞め技は目立つものの、それによるギヴアップはなかった。それに対する質問だろう。

「もちろんありますよ」三木は頷きつつ、リングへ視線を送る。「今技を掛けているボルケーノ・佐々木の得意技の一つに、アンクルホールド、えっと、足首固めがあります。彼のフィニッシュ・ムーヴの一つになってますよ」

「今は違う技ですよね?」

「ええ。そうですね、絞め技や関節技を掛けるタイミングが、大きく分けて三つあります」三木は三本の指を立てながら説明をする。目線はリング上と海椙をせわしなく行き来させていた。「一つは序盤。これは相手のスタミナを奪う意味合いが大きくて、プロレスの一つの流れとして多くの試合、選手間で見られます」

「ああ、なるほど。弱らせてから大技っていうことですね」

「そういうことです。二つめは、フィニッシュ・ムーヴとして。いわゆる必殺技ですよね。終盤に、試合を決めるぞってところで繰り出します」

「三つめは?」

「相手が怪我をしている場合、そこを重点的に狙い、痛めつけるんですよ。これはどのタイミングでも、効果は最大限に発揮されます。そして今の場合は、これに当てはまりますね」

「え? 怪我してるんですか?」海椙は驚き、リング上の選手へ視線を走らせた。「テーピングなどはしてないですけど」

「首、ですか?」今度は永田が口を開いた。

「よくわかりましたね、永田先生」感心したように三木は微笑む。「おっしゃる通り、リカルドは首の辺りを怪我しているんです」

 昼に読んだ雑誌にも書かれていたな、と未散は思い出す。タイトルマッチの前哨戦として、団体のエース赤座とリカルドがタッグマッチでぶつかった、とあった。その試合で赤座の必殺技を喰らったリカルドは首から頭部に掛けて怪我を負ったらしい。少なくともそのダメージはまだ残っているだろう。たしか受身不能の直下型の技だった。

 首の辺りに怪我を負っているのなら、ボルケーノ・佐々木の絞め技はかなり危険でかつ効果的だろう。リング中央では、リカルドが歯を食い縛りながら、苦痛に顔を歪ませていた。

 リカルドが充分に弱まったところで佐々木は彼をリングに叩きつけ、コーナートップに上る。勢いよく飛び、リングに倒れているリカルドの首元を目掛けてギロチンドロップを見舞った。盛り上がる観客席。リカルドを心配する声がため息となって周りから漏れてもいた。ボルケーノ・佐々木はその後も攻撃の手を緩めることなく、リカルドを追い詰めていった。

「リカルドって選手は全然反撃しませんね。防戦一方みたい」

「両者の実力差がここまではっきりしているのですか? それとも怪我の影響が?」

 海椙と永田が解説役の三木に質問を投げかける。二人も何だかんだ楽しんでいるようだ。

「地力はリカルドが圧倒的に上ですね。怪我の影響も少なくはないでしょうけど、これは、相手の攻め疲れを狙ってますね」

 もっと試合に集中したいだろうに、三木は嫌な顔を見せず、むしろ嬉しそうに説明をしている。プロレスに興味を持ってもらえたことが余程嬉しいのだろう。

「ボルケーノ・佐々木という選手はパワーは圧倒的でテクニックも申し分ないんですけど、どうもペース配分が苦手なのか、スタミナ不足が目立つ選手なんですよね。タッグマッチだと無類の強さを発揮するんですけど、シングルでは満足のいく結果を残していないんですよ」

 プロレスに対する愛と知識は本物なのだろう。三木の言うように、佐々木が肩で息をするようになってきたころから、リング上の情勢が変わりつつあった。

 攻め疲れや、相手が弱まってきていることからの油断、それらの要因が佐々木の攻撃を単調で大味なものにしている。その隙の大きさをリカルドは見逃さず、持ち前のスピードで攻勢に転じた。

 両者のスピード差は歴然だった。特に、スタミナを切らした佐々木では、ギアを入れ替えたリカルドを捉えることはできなかった。

 待ってました、と言わんばかりに会場が一気に沸く。足踏みも強くなってきていた。

「す、凄いですねぇ……」

 そう言った海椙だったが、歓声に掻き消され、言葉はほとんど未散には届かなかった。

 リカルドはロープに向かって走り、ロープの反動を使ってさらにスピードを増した。その勢いのまま佐々木に飛びつき、両足で頭を挟むと、それを支点に旋回する。背後に回るも、勢いは衰えない。そのまま腕を取りながら正面に回り込み、再び頭を足で挟み込む。その旋回を三度繰り返し、勢いを増した状態で相手を投げ飛ばした。この一連の流れを、リカルドは一度も地面に足をつけずに行なった。

 未散にはそれがどういう名前の技なのかわからないが、場内は今日一番の盛り上がりを見せていた。三木はもちろん、海椙や永田でさえも、その技には思わず声を上げていた。

 リカルドがリング中央で咆哮した。それに合わせて会場もヒートアップしていく。

 ここまでとは。

 格闘技に比較的明るい未散でさえ、この異様な熱気、爆発的な雰囲気に呑まれていた。

 ここまで多くの人が感情を包み隠さず曝け出している場面には、どう記憶を辿っても、出逢ったことがない。デパート屋上のヒーローショーに目を輝かせている子供達でさえ、ここまでは叫ばないだろう。回数こそ少ないものの、他の格闘技イベントや人気アイドルのコンサートなども観に行ったことはあるが、ここまでの盛り上がりではなかった。

 観客から声援の後押しもあり、流れは完全にリカルドのものになっていた。

 この勢いで決まるかとも思ったが。

「これからですよ」

 三木が興奮を噛み締めるように、震えながらそう呟いた。

 リカルドがスピードを活かし、再びボルケーノ・佐々木に飛びついて、腕を取る。飛びつき腕ひしぎ逆十時固め。相手の腕の関節をめにいった。飛びつき式の腕ひしぎ逆十時固めは、その名の通り、立っている相手に飛びつきそのまま腕を取る技なのだが、そのままテイクダウンを取り、寝技に移行するのが通常だ。

 だが。

 一瞬の静寂の後、再沸騰するまで時間は掛からなかった。

 ボルケーノ・佐々木は腕を極められながらも、倒れなかった。

 スタンド式の逆十時固めかとも思ったが、会場の盛り上がり方からどうやら違うことがわかる。

 佐々木は吼えながら、極められた腕のまま強引にリカルドを持ち上げた。沸き起こる歓声。そしてそのまま、無理矢理にリカルドをマットに叩きつけた。パワーボムに近い形だったが、リカルドは関節を極めていた分、満足な受身が取れず、ダメージは大きいものとなった。

 一際大きな歓声。これでまた流れがわからなくなった。

 気づくと、肌が粟立っている。自分でも不思議だったが、興奮しているみたいだった。

 かれこれ三十分近くは戦っているだろうか。両者ともに立っているのがやっとという状況。対して場内のボルテージは上がっていくばかり。これでまだメインイベントが残っているというのだから、驚かずにはいられない。

 ボルケーノ・佐々木が右拳を作ると、それを頭上に突き上げた。これで決める、という合図だろうか。会場はもちろん、通路側の席に座っている三木も盛り上がる。それに感化されたのか、海椙も控えめながら声を出していた。

 ロープに寄りかかるようにして立っているリカルドを目掛け、佐々木が咆哮とともに右拳を弓引きながら走っていく。

 ラリアット。

 シンプルな技だが、それゆえにパワーがダイレクトで発揮される。

 鍛え上げられた肉体同士がぶつかる。鈍い音。音に遅れて、汗が霧となって飛び散った。

 ロープを乗り越え、リカルドの体が宙に舞う。そんな映像がスローモーションで流れていく。衝撃的な映像だった。

 だが。

 ボルケーノ・佐々木の全体重を乗せたラリアットを喰らい、体が持ち上がり、宙に舞い、リングの外に体が放り出されても、リカルドはロープから手を離さなかった。

 ロープがしなる。リカルドの体が空中で静止した。場内も静まる。何が起こったのか、何が起きているのか、何が起こるのか、正確に理解できている者はいなかっただろう。

 ロープを掴んでいる腕に力が入ったとわかったときには、リカルドの体は跳ね上がっていた。

 器械体操の吊り輪を、未散は連想した。

 ロープの反動を利用して、リカルドは佐々木の顔面に蹴りを入れる。あの体勢からの反撃を予期していなかった佐々木はまともにもらい、顔を手で押さえながらよろけた。

 ここでようやく歓声が追いついたが、先ほどの盛り上がりに比べればまだ小さいものだった。会場全体が期待しているのがわかる。一挙手一投足を見逃すまいと、緊張を含んでいるのだ。

 リカルドはそのままコーナートップへ立ち上がると、手の甲に軽くキスをして、それを突き上げた。

 期待と緊張に興奮が乗り、歓声が上がる。

 コーナートップから大きくジャンプして、前方宙返りをしながら、ふらついている相手の両肩に飛びつき、両足で頭を挟み込む。そして自身を振り子のようにして勢いよく後方へ。相手の股の間に潜り込むように、勢いを利用して、前方に回転させながらマットに叩きつけた。そのまま両足を取り、エビ固めに移行する。

 ウラカン・ラナと呼ばれる有名な技だが、一般的なそれよりも何倍も速い。わずか二秒ほどの、まさに一瞬の出来事だった。

 本来は相手の隙を突きフォールを狙う技なので、ダメージはあまり期待できない。しかし、高速で行なうことで相手の頭部を叩きつけており、ほとんど別の技になっていた。

 爆発のような大歓声が起こる。体に伝わる衝撃が凄かった。

 大歓声の中、レフェリーがカウントに入る。会場全体もそれに合わせてコールする。

『ワンッ! ツゥー! ……!』

 スリーカウントが入ろうとしたとき、ぎりぎりでボルケーノ・佐々木が肩を上げた。場内がまた盛り上がる。多くの観客が叫びながら拍手もしていた。全員が全員、ボルケーノ・佐々木のファンというわけでもないだろう。その逆も然り。ただ目の前で繰り広げられる大熱戦に興奮をしていた。

 技を返されたリカルドだが、彼は立ち上がると、無理矢理立たせた佐々木の頭を掴みながら、観客席に向かって指を差す。そしてぐるりと一周し、全員にアピールした。

 リカルドは右手で佐々木の右腕を掴むと、右脇下に自分の頭を差し込み、左手で相手の右太腿を内側から抱えるようにして、持ち上げた。そして右手を相手の左腕に持ち替える。

 場内がざわついた。

 海椙も永田も、そして未散も何なのか理解できない。ただ、一番端に座っている三木を始め、周りの客達は一様の表情を浮かべている。何とも表現し難い、奇妙な笑み。驚き、期待、喜び、緊張。

 それらが何を意味しているのか、未散達にはわからなかった。

 ぽんっ、と軽い感じでリカルドは百キロ近いボルケーノ・佐々木を跳ね上げた。右手で掴んでいる左腕を引き、相手の体の向きを変える。

 そして。

 受身が取れない状態の佐々木を、後頭部から、真っ逆さまに、マットへ、勢いよく、思い切り、叩きつけた。

 尋常ではない衝撃。

 この日一番の歓声。

 一千五百人近い観客が狂喜している。

 あまりの大歓声に、レフェリーのカウントはもちろん、リングアナウンサーの勝者呼び上げもほとんど聞こえなかった。

 勝ち名乗りを受けたリカルドも、満身創痍で、後頭部に手をやりながら今も顔を歪めている。足取りもままならない様子で、団体のTシャツを着たレスラーに支えられるようにして、リングから降りていった。

 白熱した試合に、まだ場内はどよめきに包まれている。本当に外で雷でも鳴っているのではないかと疑いたくなるほどだった。

「あれは、どういう意味だったんですか?」

 海椙が解説を求めたが、三木は何も答えず、ただじっとリング上を見つめていた。

「三木先生?」

「え? あ、はい?」

 海椙に体を揺すられて、ようやく三木がこちらに顔を向けた。

「今のは何だったのですか? 勝敗にただ盛り上がったわけではなさそうでしたけど」

「御法度です」

「え?」

「今の技は、スカーレット・ドライバーというもので、リカルドの技じゃないんです。現在ベルトを保持している、団体のエース、赤座雄滋のフィニッシュ・ホールドなんです」三木は語りながら、嬉しそうに、口角を上げている。

 そう言えば雑誌にそんなことも書かれていた記憶がある。前哨戦で、リカルドはその技に沈んでいたはずだ。

「それは、挑発、ということですか?」今度は永田が聞いた。

「ええ。まさしく」頷き、三木は微笑んだ。「最高の展開です」

 照明が落ち、激しいロック調の入場曲が流れ始める。赤いマスクマンが入場してきたところだった。


 4


 男の名前は伊藤だった。それは特に重要なことではない。田中や佐藤、鈴木でも何かが変わったわけではない。八月一日ほづみなどという珍しい名前だったならば、多少は他人の反応が変わったかもしれないが、残念ながら男は伊藤だった。二十三年ずっと伊藤だった。

 伊藤は特別な男ではない。プロレスファンでもなければ、観客でもなかった。ただ日銭を稼ぎに来たバイトの警備員である。

 楽な仕事だと思った。否、彼の想像以上に楽な仕事だった。しかしそれが苦痛になるとは、夢にも思わなかったのである。

 市民体育館一階奥の通路に立っているだけだが、これが思いの外、肉体的にも精神的にもきついものだった。まだ肉体労働の方がマシである。歩くこともできず、ただただ疲労が足腰に蓄積されていくことを思えば、そちらの方が遙かによかった。作業がないので、時間の経過も非常に緩やかだ。もう何十時間もここで立たされているような錯覚に陥る。会場の外でも巡回できればいいのだが、伊藤の持ち場は廊下に立ち、目の前の薄汚れた白い壁を見つめることしかできない。廊下では空調も効いていないため、警備員の格好は暑すぎる。汗が止まらなかった。

 恐ろしく苦痛。時給だっていいわけではない。むしろ安いくらいだ。二度とこんなバイトはしない、と心に決めた。

 伊藤は廊下の天井を見上げる。

 試合会場は二階のメインアリーナで行なわれているはずだが、とにかく歓声が凄かった。廊下の奥の窓から近くの部屋の扉にまで、その振動が伝わってきている。何をやったらそんなに盛り上がるのか、純粋に興味が湧いてきていた。

 プロレスをまともに見たことのない伊藤は、プロレスは八百長だというネット上で蔓延しているイメージしか持っていない。そういう一部の穿った先入観が植え付けられていたため、プロレスを一度も見ることなく、プロレスラーとそれを応援しているファンを見下していたりもした。

 ただ、一階の廊下にまで伝わってくる興奮を帯びた歓声に、心が動かされつつあった。

 見てみたい。

 その衝動に駆られる。退屈でしょうがない持ち場を抜け出し、少しだけ、試合を見に行きたくなった。

 だが、わずかな良心、あるいはただ臆病なだけの性格がそれを踏み止まらせる。そうして小さな葛藤を続けているうちに、奥からむさ苦しい男が両脇を抱えられるようにして運ばれてきた。

 真ん中の男は上半身裸で、もの凄い量の汗を掻いていた。廊下に滴が垂れており、点々と道を作っている。

 普段は会議室として使われている選手控え室に、運ばれてきた男が中に入り、それを見届けて付き添ってきた二人は来た道を戻っていった。

 両脇を抱えていた二人はTシャツを着ていたが、運ばれてきた外国人はリングコスチュームだった。外国人の方が試合で負傷でもしたのだろうか。

 反対の通路先に立っている年配の警備員も心配そうに、いや、ただ興味深そうに見つめていた。

 選手控え室は、多くのレスラーはサブアリーナなどに割り当てられているが、数人だけ会議室など個室を用意されていた。恐らく、人気あるいは実力が高い者に与えられているのだろう。ということは、今運ばれてきた外国人レスラーは団体でもトップクラスということが考えられた。

 控え室のある通路には伊藤と年配の警備員が挟むようにして配置されており、関係者以外を近づけさせないように言われている。一つの控え室に警備員を二人もつけることから、やはりトップクラスのレスラーということなのだろう。

 通路には選手控え室として使われている第一会議室と第二会議室しかない。玄関ロビー側を年配の警備員(名前はたしか斉藤だっただろうか)が立っており、その反対側が伊藤だった。時折、盗み見るように斉藤の様子を窺っているのだが、彼は後ろで手を組み、肩幅よりも足を大きく開いて、姿勢良く立っている。微動だにしないその姿からは、この仕事に対する豊富な経験値が見て取れた。

 あの姿勢の方がもしかしたら疲れないのだろうか。

 伊藤も真似してみたが、変なところの筋肉が攣りそうになり、すぐに諦めた。

 普段は滅多にしない腕時計を見る。あと一時間でこの苦痛から解放されると考えるか、まだ一時間もこの苦痛が続くのかと捉えるか。

 このバイトは苦痛である。時間の感覚が狂うのだ。一時間なのか、それとも十分なのか。時計がなければまるでわからない。

 試合が早く終われば、その分早く帰れるような話も聞いていた。もう試合は終わっただろうか。

 首元の汗を拭いながら、ため息をつく。

「……ったく、割に合わねーつうの……」

 伊藤がそう愚痴をこぼしたときだった。

 がしゃん、と何かが割れる音がした。

 結構大きな音だった。通路の反対側に立っている斉藤も、驚いた顔をこちらに向けている。

 控え室から聞こえた……?

 辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから、伊藤は控え室の方へ近づいた。斉藤も眉を顰めながら、恐る恐るといった風に歩いてくる。

「音がした?」

 しわがれた声で斉藤が尋ねた。

「しました、よね?」

「なんか、割れるような音がしただら?」

「ええ……」

 二人は顔を見合わせながら、視線を横にずらす。選手控え室。

 斉藤が部屋を指差しながら言った。

「こっから聞こえたよな気がしたけど」

「はい」伊藤は頷きながら、汗を拭った。「え、どうすんすか、こういうとき」

「そりゃあ、まずは確認だらぁて」

 そう言って、斉藤は顎でドアを示した。

 思わず伊藤は顔を引きつらせる。

「え、俺すか?」

「ほうだが。なんだ、嫌か?」

「あ、いえ……」

 首を振ったが、もちろん嫌だった。

 舌打ちは心の中で済まし、第一会議室のドアを軽くノックする。

「…………」

 少し待ったが、返事はない。

 伊藤が斉藤を見ると、彼はまた顎を突き出す。

「弱ぇだらぁ。強くやらにゃあかんて」

 白髪混じりの無精髭が、何だか妙に腹立たしかった。

 伊藤は短く息を吐き、今度は強めにドアを叩く。

 やはり返事はない。

 もう一度ノックしながら、今度は声も掛けてみる。

「すいません、警備の者ですけど!」

「外人さんだら? 英語の方がええじゃないんか?」

 マジかよ。つーか口うるせー爺だな、おい。

 心の中で毒突くのが、臆病者の精一杯だった。

「……え、えくすきゅーずみぃ?」

 一階まで歓声は伝わってきているが、ドア一枚を隔てているだけだ。聞こえないはずはない。しかしそれでも反応はなかった。

「発音が悪いんじゃねえのか?」

 ほっとけ、爺。

 さすがにこのまま年配の警備員とコント紛いのことを続けているわけにも行かない。

 伊藤は意を決し、控え室となっているドアを開けることにした。

「すいません、ちょっと失礼しますよ」

 断りを入れてから、伊藤は部屋のドアを開けた。

「え……」

「おいどした……おおうっ?」

 異変はすぐに飛び込んできた。

 普段は会議室として使われているが、大きな机や椅子は片付けられているため、視界を遮るものはほとんどない。部屋の壁に長細い机が寄せられており、荷物や電気ポット、弁当などが置かれている。近くにはハンガーラックも置いてあり、そちらにいくつか服が掛けられていた。

 しかし、異変は部屋の中央奥だった。

 上半身裸の男が、仰向けで倒れている。

 床の冷たさが気持ちよくて寝転んでいる小学生ではない。

 大の大人が倒れているのだ。

「…………」

 自分か、それとも斉藤か、息を呑んだ音がはっきりと聞こえた。

 嫌な臭いが鼻を衝く。

 汗の臭い、外国人特有の香辛料のような体臭、でもなく。

 鉄の、錆びた鉄の臭い。血の臭い。

「え、えらいことだが、こりゃ……」

 部屋の奥でレスラーらしき外国人の男が倒れている。頭の周辺に赤い液体が溢れている。血であることはすぐにわかった。その近くには花瓶か何か、割れた陶器の破片が散らばっていた。

「え、え、え?」

 伊藤は完全にパニックになっていた。

 状況がまるでわからない。何が起こったのか、そして、何をするべきなのか。狼狽えて、戸惑うことしかできなかった。

「おい、しっかりしろ!」

 斉藤の大声に、はっとする。

 しかし斉藤は伊藤に対してではなく、倒れている男に対して声を掛けているようだった。

 よく見ると、まだ息をあるようだった。

「おい、そこのタオル取れ」

「え? あ、はい」

 斉藤に言われ、壁際のスペースに畳まれて置かれていたタオルを手に取り、彼に渡す。

 斉藤は伊藤から受け取ったタオルを、男の後頭部へ押し当てて、体を引き起こした。

「大丈夫か、おい、返事しろ」

 斉藤の呼びかけに、男が微かに反応を示した。口をぱくぱくさせている。

「うん、何だ? どうした?」

 斉藤が口許に耳を近づける。

「……アカ、ザ……」

 掠れるような声だった。

 斉藤がこちらを見る。男の言葉の意味がわからないようで、目で伊藤に尋ねていた。しかし、伊藤にもわからない。あかざ、と聞こえたような気がしたが、思い当たることはなかった。伊藤は首を振った。

「おい、何があった? 誰にやられた?」

 え。

 斉藤の言葉に、ぎょっとした。それに体が反応し、どっと汗が噴き出てくる。

 誰にやられた?

 まさか犯人がいるというのか。

 傷害事件? いや、殺人未遂?

 ただでさえ血に慣れていない男の伊藤がパニックになっているというのに、その上事件の可能性まで出てきたら気が気ではない。無性に叫びたかった。とにかく、大声を上げたかった。そうでもしないと冷静さを取り戻せないような気がする。ふわふわとして、現実感がなく、体も自分のものではないような、そんな錯覚まで覚えるくらいだ。暑さと疲労で白昼夢でも見ているかのような、そんな気がしていた。

「誰かにやられたのか?」

「……ア、ア、カザ……。ユー……、ジ……。アカ、ザ……」

 斉藤の呼びかけに、男は弱々しくも答えた。

 アカザ、ユージ?

 人の名前だろうか。

「何だ、そいつにやられたのか?」

「アカザ……」

 まともに受け答えしているようにも、ただのうわごとのようにも、どちらとも捉えることができる。

 命に別状はないのか?

 そこで伊藤は思い出したように声を上げた。

「あ、救急車!」

「おう、早く呼んだらないかんな」

 斉藤が伊藤を見つめながら言う。

「あと主任と、マネージャーにも報告しないとあかんだら。おい、頼めるか?」

「あ、はい」伊藤は頷く。「じゃあ俺、応援呼んできます」

 そして慌てて部屋を飛び出た。

 大変なことになった。アカザという人物に襲われたのだろうか。そこで不自然なことに気づく。

 襲われた?

 いつ?

 どうやって?

 走りながら、通路を振り返る。

 この廊下は伊藤と斉藤がずっと警備していたはずだ。部屋も、控え室として使っている第一と第二会議室しかない。不審な人物は見かけていない。誰にもあの男を襲うタイミングなどなかったはずである。少なくとも伊藤は持ち場を離れてはいない。居眠りも、立ったままではできなかった。

 男の勘違いか?

 斉藤がサボっていたのか?

 考えたところで、伊藤では答えは出せなかった。初めての経験に、自分でもわからないほど激しく動揺している。そんな状態で、まともな思考ができるはずもなかった。

 二度とこんなバイトは嫌だ、と思う余裕もなくなっていた。


 5


「どうしてあそこで流れが変わったんですか?」

 試合後、海椙が先ほどのメインイベントの試合について三木に詳しく話を聞いていた。終始優勢だった赤いマスクマン、その名もマスクド・レッドだったが、相手のヒール・レスラー(悪役)の技ではなく、マスクを剥ぎ取る行為にリズムを崩し、一転してピンチに陥ったのだった。その辺りについて聞いているのだろう。

 未散も荷物をまとめながらそれに耳を傾けていた。永田はトイレに行っている。

「マスクマンにとって、マスクは命よりも大事なものなんです。ですから、それを剥ぎ取られそうになれば、必死で抵抗しなければなりません」

「何となくわかりますけど……」海椙は完全には納得できないようだった。「それでピンチになってたら元も子もないような気がするんですけど」

「そうですね。怪我を重点的に狙うのがレスラーとしての礼儀ですし、マスクを狙うのもヒールとしては鑑なんですよ」

 海椙は少し考え込んでから、

「正体を隠してるってことは、正体をばらしたくないってことですよね?」

 興味深い指摘をした。なかなか勘の鋭い女である。

「?」

 三木は海椙の質問の意図を理解できていない様子だった。スマートな質問とは言い難い上に、言葉足らずなので仕方はないが。

「お待たせしました」

 核心に触れる前に、永田がトイレから戻ってきた。そして彼はいつもと表情を変えずに続ける。

「早く帰った方がよさそうです」

「何があったのですか?」

 未散は聞き返した。

 先ほどの永田の言葉からは、一刻も早くここを立ち去りたいという思いが感じ取れた。普段通りの、無表情で、抑揚のない口調だったが、いつもの彼らしくないせりふではある。

「詳しくは」永田は淡々と話した。調子だけを見れば、いつもと変わらない。「ただ、何か騒ぎがあったようです」

「まあ、じゃあ帰りましょうか」三木がパンフレットやグッズの入った大きなかばんを持ちながら言った。

 どのみち残る理由はない。

 少しだけ、永田の様子が引っ掛かった。何の騒ぎかわからないというのは、理解できる。だが、何の騒ぎかわからないにもかかわらず、早く帰りたいというのは、どういうことだろう。わざわざあんなことを言わなくとも、試合観戦を終えた未散達には、ここに残る理由は持ち合わせていない。

 永田が何か忠告をすることは珍しい。それだけのことが起きている、と考えるべきだ。ただの気のせいなら、あとでいくらでも取り返すことができる。

 四人が会場であるメインアリーナを出ると、異常な熱気が体全体を包んだ。密度の高い人の群れがそこにはあり、階段の踊り場からずっと無秩序に続いている。真夏日の夜、空調のついていない廊下に、これだけの人間。窓なども閉められているのだろう、それも手伝って、目眩を覚えるような暑さだった。

 体育館の正面出入口の窓ガラスが、赤く点滅している。赤色回転灯を反射しているのだと気づいた。救急車か消防車か、あるいはパトカーか。いずれにしても緊急車両の赤灯だろうことはわかる。

「何があったんでしょうね」海椙が暑そうに顔を顰めて言った。

「事故かな?」三木がそう言いながら首を傾げたが、他の誰にも答えられないだろう。

 体育館の二階から一階へ下りるのに、十分以上も時間が掛かった。普段ならば二十秒も掛からないだろう。たったこれだけのことで、軽いジョギングをしたような疲労感を覚えた。

 一階まで下りると、正面にパトカーが数台駐まっているのが目に入った。何とも威圧的な光景である。

 階段を下りた右手の通路前に、制服の警官が姿勢良く立っていた。近くの案内板によると、そちらには第一と第二会議室があるとなっている。

 何とも言えない雰囲気。息苦しさは暑さだけのせいでもない。

 他の観客達も、自然と話し声を潜めるようにしていた。

「あ」

 そんな物々しい雰囲気を壊すかのような、のんびりと間抜けな声がした。きっと、隣でなくとも海椙の声だと気づいただろう。前を歩いていた三木と永田、それに数人の客がこちらに振り返った。

「何?」

 未散は声を落として、しかし怒気は含めて、海椙に尋ねた。

「お姉ちゃん」

「お姉ちゃん?」

 海椙の視線を追うと、通路前にスーツ姿の女性が立っていた。白のブラウスにダークグレーのスラックス。かなり細身であり、髪は短く、目もやや釣り目で、多少の面影は見られるものの、海椙とはあまり似ていないように見えた。

 彼女もこちらを見ていた。左腕には腕章をつけている。

「あなたのお姉さん、刑事なの?」

「みたいですね」

「は?」

「あ、いや、知ってましたよ? 知ってましたけど、でもそんな、家族の話なんて自己申告制じゃないですか。本当に刑事やってるところ見るなんて、今が初めてなんですよ」

 海椙の姉が、自身の妹に気づいたのか、こちらに近づいてくる。目の前の永田が露骨に顔を歪ませたのが印象的だった。

「葵? 何してるの、あんた」

「プロレス観戦。選手じゃないよ」海椙は手を振りながら言った。身内に対しても軽口を叩く癖は変わらないらしい。「お姉ちゃんこそ、どうしたの」

「仕事よ。私も選手じゃないからね」

 妹の軽口にも付き合ってあげる心やさしい姉なのか、どこか抜けている血筋なのか。判断に困るところではある。少なくとも刑事として相応しいせりふではなかった。

 海椙刑事の鋭い眼光が未散達に向けられる。

「あ、こちらは私の職場の同僚? 上司? えっと、先輩方」海椙が雑な紹介をしてくれる。「三木先生に、永田先生。そして未散先輩」

「ああ、あなたが」海椙刑事は頷きながら、未散の全身を観察する。

 いつもの癖で海椙を睨みそうになったが、やめておいた。

 どんな話をしてるんだか。

「いつも妹がお世話になっています」海椙刑事は未散達に対して丁寧に頭を下げた。「姉の海椙茉莉まつりです」

「ご丁寧にどうも」

「それでお姉ちゃんはどうしたの? 何? やだ、事件?」言葉とは真逆の表情を浮かべながら海椙が聞く。

「話せるわけないでしょ。さっさと帰りなさい」

「そこを何とか」海椙は両手を拝み合わせる。

「しょうがないなぁ」

 ええっ?

 思わず声を上げそうになった未散である。

 いくら何でも甘すぎるだろ。何がしょうがないだ、馬鹿やろう。こんな奴がこの町の治安を守っていると言うのか。

 せめてそういうのは家に帰ってからにしてもらいたいものである。それなのに、いきなりこの場で始めてしまうところに、この馬鹿姉妹だけでなく、海椙家という血筋全体に対して、重大なバグがあるように思えてならない。

 守秘義務はどこへ消えたと言うのだろうか。いや、そもそも存在していたのかどうかも怪しい。

「実は、レスラーの一人が頭から血を流して倒れていたのを、警備員が見つけてね」

 本当に話し始めた。未散は周りを見渡し、誰も聞き耳を立てていないか確認する。もっとも、目視では限界はあるが……。幸い、誰もこちらを気にしていないようだった。観客のほとんどは体育館前に駐まっているパトカーを気にしている。

「れ、レスラーって、誰ですか?」三木が慌てた様子で尋ねた。

「えっと、外国人でしたよ。たしか、リカルドさんとか言ったかな」三木のあまりの勢いに一瞬たじろぎながらも、海椙刑事は包み隠さず答える。「出血は後頭部から。場所は控え室として使われていた第一会議室。そこね」

 振り返った海椙刑事の視線を、四人は追った。通路の入口のところに黄色いテープが貼られており、警官が一人立っている。

「ひ、酷い状況なんですか?」三木がリカルドの安否を気遣う。

「うーん、一応、発見時はまだ意識があったそうですけど。市民病院へ搬送されましたが、詳しいことはまだ何も」

「そうですか……」三木は肩を落とした。先ほどまで子供のようにはしゃいでいたのが嘘のようだ。

「お姉ちゃん達がいるってことは、事件性が認められたってことでしょ? 乱闘騒ぎか何かがあったの?」

「目撃者はいない。ただ、第一会議室がある通路は警備員が二人、挟むようにして立っていたの。その二人の警備員が、何か陶器が割れるような音を聞いてる。それを不審に思った二人が第一会議室をノックして呼びかけるも返事はなく、中に入ったら男が倒れてたってわけ」

 未散と永田は眉を寄せた。

「リカルドって男が頭から血を流して倒れてて、近くには陶器の花瓶も割れてるし、これは大変だってことで通報があったわけよ」

「事件性なんかないじゃん」海椙は口を尖らせた。

 事件を期待している海椙には無視できない別の問題があるとして、たしかに彼女の指摘するとおり、今回のことで警察、しかも刑事が動いたことには違和感を覚える。その警備員の話を信じるならば、事件性はなく、ただの事故として処理されるべきだ。通報という選択に至った思考力自体に、首を捻らざるを得ない。

「ところが不可思議なことがねぇ」海椙刑事はため息をつき、項垂れた。

「不可思議?」海椙が首を傾げる。

「そのリカルドって男がね、赤座雄滋に襲われたみたいなのよ」

「ええ?」

 声を上げたのは三木だった。未散は怪訝に眉を潜め、永田は鼻を鳴らす。

「どど、ど、どういうことですか?」噛みつかんばかりに、三木が海椙刑事に詰め寄って聞いた。

「警備員がそう証言を……」

「だって、目撃者はいないんでしょうっ? そう言ったじゃないですか!」

「三木先生、落ち着いて」逮捕されても厄介なので、未散は三木を宥める。

「警備員が誰に襲われたか尋ねた際、そのリカルドは意識朦朧としながらも、赤座雄滋の名前を口にしたって話です。実際はどうか、まだわかりません」

 海椙刑事は、突如興奮した三木を面倒そうに見つめながら、そう説明した。

「その警備員は仕事をサボっていたの?」海椙が尋ねた。

 真面目に警備をしていたのなら、赤座雄滋を始め、多くの人間に犯行は不可能ということになる。

 とはいえ、あまりにも状況が不鮮明だ。事実関係を整理しなければ、まともな思考はできない。

「聴取はまだ続いているんだけど、どうもそうじゃないのよ」

「どういうこと?」

「第一会議室に入ることのできるドアは二つ。その二つに面している廊下には警備員が二人。両方、真面目に警備していた、と話している」

「窓は?」海椙が質問を続ける。

「鍵は掛かってた」

 口を曲げ、肩を竦めて海椙刑事は答えた。

「まず、リカルドという選手が試合後、二人の選手に付き添われて控え室に戻ってきたみたい。付き添いの二人は吉江よしえ香田こうだという選手ね。二人は部屋の前までリカルドを運ぶと、すぐに試合会場に戻ったそうよ。部屋には入らなかったと、二人も、そして警備員の二人も証言している」

「そのあとで花瓶が割れた?」

「話を聞く限りは」海椙刑事は頷いた。「リカルドが戻ってからは、誰も部屋を訪問していないと、二人の警備員は話している。彼が控え室に戻ってしばらくして、時間にして十分か十五分くらいあとに、何かが割れる音がしたので、部屋を確認。その際、室内に不審な人物がいたということもない。身を隠せるような場所はなかったし、見落とすことも考えにくい」

「リカルドが戻ってきたことを確認しているから、襲ったあと運び入れた可能性もないかぁ」海椙が口許に手をやりながら呟くように言う。「警備員の証言を信じるなら、その赤座って人だけでなく、誰にも犯行はできそうにないけど」

「そうですよ! 赤座雄滋がそんな、リカルドを襲うなんて考えられない!」

 三木が海椙刑事に向かって吼える。海椙刑事は両手を広げ、喧しいプロレスファンを宥めながら、苦笑を覗かせた。

「今いろいろと確認してるとこですから」

 さすがに刑事だけあって、興奮する輩の相手は手慣れているのだろう。落ち着いた対応だった。

 ところが。

「ああ、でも、赤座選手には、リカルド選手を襲う動機はあるみたいですね」

 意図的か、それとも天然か。思わぬ燃料投下だった。

 赤座雄滋とリカルドは、ベルトを懸けて戦うことが決まっている。対戦相手を襲う理由は、両者ともに持ち合わせている、と見ることができる。

 油を注がれた三木は、それこそ烈火のごとく怒りを顕わにし、刑事に噛みついた。

 未散は左手首にしている腕時計を見る。時間を確認したかったわけではない。話に興味を失ったのだ。永田の場合は、未散よりも早く失ったか、あるいは最初からさしたる興味を抱かなかったようで、彼は外の風景を眺めていた。そこには樹木以外何もなかった。

 早く帰りたい。

 未散は視線を天井や廊下に走らせた。見る限りでは、防犯カメラは設置されていないようである。設置されていたとしても、事務所周りぐらいだろう。

「いいですか、赤座雄滋はリカルドを襲っていないんです! 彼にはそんなことできるはずがない! 彼はいつだって正々堂々、真っ正面から相手と戦うヒーローなんですよ!」

 三木が相変わらず熱弁を振るっている。

 何をどう説いたところで、警察相手には無意味だというのに。真面目なことだ。

「ベビーフェイス、と言うらしいですね」

 ベビーフェイスというのは、童顔ではなく、善玉レスラーという意味で、悪役であるヒールの、プロレスにおける対義語だ。

「そうです! ヒールならまだしも、赤座雄滋は典型的なベビーフェイス、スーパーベビーフェイスなんですよ!」

 キャリアのすべてをベビーフェイスとして過ごしているレスラーを、特にスーパーベビーフェイスと呼ぶことがある。

「プロレスのことはよくわかりませんが、そんなベビーフェイスにアリバイがなかったらどうです?」

「え……」

 三木は心底驚いたようで、言葉を失った。

「アリバイがないの?」黙ってしまった三木に代わり、海椙が聞き返した。「その赤座って人、アリバイがないの?」

「少なくとも、本人から確認は取れていないのよね。赤座本人がアリバイはないと、そう話している」

「そんな!」三木が声を荒げる。「ありえない!」

「三木先生、認めたくない気持ちはわかりますけど」

「違います! そんなんじゃ、そんなんじゃ……」

 三木は首を振り続ける。

 ただのプロレスファンが事実を受け入れられず、駄々を捏ねているのとは、どこか様子が違った。下唇を噛み、何か悩み、迷っているような、そんな表情を浮かべている。

 三木は絞るような、か細い声で言う。

「赤座雄滋じゃありません……。彼には不可能なんです」

 ニュアンスが変わった。

「不可能?」海椙刑事も三木の言葉に反応する。「それは、どういうことですか?」

「赤座雄滋は……、そのとき試合をしていたんです……」

 未散、海椙、さらには永田まで顔を見合わせた。

 まさか偽証するつもりか?

 三人の間に、焦燥した空気が流れる。思わず未散達三人とも、息を呑んだ。

「メインイベントはマスクド・レッドとバンというレスラーの試合ですよね? ……捜査妨害になりますよ、それ」海椙刑事は腰に手を当て、呆れたように大きくため息をついた。

 内心冷や汗を掻いていたのは、三木ではなく、その同僚である未散達三人の方だろう。海椙の姉ということもあり、何とか穏便に済ませてもらえそうだが、これには驚いた。常に冷静な永田も、さすがに慌てたのか、いつもの無表情が崩れていた。

 しかし、三木は苦々しい表情を浮かべ、首を振っている。

「マスクド・レッドは、赤座雄滋なんです」

「ええっ?」

 一転、海椙刑事が高い声を上げた。

「あれ、ていうことは、アリバイ成立?」

 妹の方はいつもと変わらないのんびりとした口調だった。

「そもそもアリバイはそれほど重要じゃないでしょ。警備員が口裏を合わせていたり、共犯だったりする場合を除けば、誰にも不可能なんだから」未散は海椙を見つめる。

 早く帰ってシャワーを浴びたかった。風呂上がりに缶ビール一本飲んで、そのままベッドに倒れ込みたい。

 普通の日常である。過度な願い事ではないはずだ。

 慎ましやかに、祈ってもいい。平穏な日々、普通の日常が手に入るのであれば、喜んで敬虔な信者になろう。

 それが叶わぬと言うのなら。

 神様を相手取り、想いのままに暴れてみるのも一興だ。昔から、何かと鼻につく奴ではある。何発か殴ったところで、文句を言われる筋合いはない。

 しかし。

 信じたところで救われないが、不信心な者には罰がよく当たるようだ。

 髪を撫でつけた、スーツ姿の男がこちらに駆け寄ってくる。彼は未散達を確認すると、海椙刑事に耳打ちをした。海椙刑事は一度大きく瞬くと、頷いて、そして三木に向き直った。

「残念ですが……」

 そこで言葉を切ると、海椙刑事は全員を見る。

 固唾を呑み、未散達は次の言葉を待った。様々な可能性を頭に描いたが、静かに、答えを待つことにした。

「赤座選手が犯行を自供したようです」


 6


 居酒屋・赤暖簾あかのれん。午後十時四十分。奥の座席個室。

 未散の隣には好奇心旺盛で傍迷惑な後輩。目の前には早々に酔い潰れたプロレスマニア。対角線上には冴えない無表情の顔がある。

 ビールジョッキを傾けながら、笑いたくなった。間違いなく、酒が不味くなる面子である。

 目の前の男二人は最初から話そうとしていない。一人はもともと無口な上、無表情だ。今日のプロレス観戦に付き合っていることが、例外もしくは奇跡なのである。

 そしてもう一人は今日一番興奮していて、誰よりも至福の時間を過ごしていた。それゆえに、その後のアクシデントによる落差が酷く、見ているこちらの気が滅入るほどの落ち込みぶりである。

 ただ、それにも増して厄介なのは隣の後輩だった。ただでさえ未散の苦手なタイプであるのに、それに加えて姉が刑事だという。本当に関わり合いたくない。

 未散はため息をついた。まったくもって、不味いビールである。

「でもどういうことなんですかねぇ?」

 海椙は焼き鳥の皮にレモンを搾りながら、市民体育館で起きた不可思議なトラブルについて意見を求めてきた。

 誰も何も言わない、口を開こうとしない。そんな敏感な空気を感じ取ってか、海椙は素早く視線を横にずらした。未散を捉え、わずかに微笑む。

「どういうこと、とは?」仕方なく、聞き返す。

「だって不思議じゃないですか。控え室の前には警備員が二人もついていたのに、赤座雄滋はどうやってリカルドを襲ったっていうんですか?」

 海椙の言葉に反応して、三木が顔を上げたが、反論する気力はもう残っていないようである。赤く腫れた目をそっと下に向け、口取として出された砂肝の和え物を見つめるように、項垂れた。

「マスクド・レッドとしての試合中に、ね」

 未散は付け足してから、冷や奴を口に運んだ。ミョウガがたくさんのっていておいしい。これで嫌なことを忘れろ、ということだろうか。だとすれば気の利いた店である。

「でも、覆面レスラーですよ。マスクマンってことは、本当に赤座雄滋だったかわからないじゃないですか。今日の試合だけ、入れ替わっていたり……」

 その可能性はある。

 そして、赤座雄滋が自供したということから見ても、その仮説は非常に力を帯びている。

 三人が三木を見た。この中では彼が一番プロレスに詳しい。その可能性を考慮するに辺り、彼の知識は必要不可欠だった。

 しかし彼は項垂れたまま、顔を上げようともしない。手痛い失恋でもしたかのようだ。最初に注文したビールが、まだ半分以上も残っている。心に空いた穴が、アルコールを吸収しやすくしているのかもしれない。

 そんな三木を見て、海椙は肩を竦めてみせた。

「証言が不可解ですね」永田が口を開いた。「赤座という選手が自供した意図がわからない」

「警察が動くという、予想に反して大きな出来事に発展したため、というのは考えられませんか?」海椙は焼き鳥の皮を串から外しながら、意見を出す。「本来は悪戯というか、タイトルマッチに向けての牽制だったとか……」

「充分考えられますね」永田は頷きつつ、隣の様子を窺った。「ファンの間で認知されている選手像と食い違うようですけどね」

「先輩はどう考えてます?」

「リカルドという選手の意識が戻れば、すべて解決する」

「盛り上がらない人ですねぇ、先輩は。感情の沸点が高すぎるんじゃないですか?」

 海椙は不満そうに口を尖らせる。彼女はいったい未散に何を期待しているのだろうか。甚だ疑問ではあるが、知りたくはなかった。

 ビールを流し込み、短く息をつく。

「今日得た情報がすべて真実だと、そう仮定すると、どこかで必ず矛盾が生じる。つまり、情報のどれかが間違っている。そんな状態で論じ合うことほど不毛なことはない。時間の無駄。居酒屋のメニューにあるバターコーンと同じくらい、価値はない」

 未散はばっさりと切り捨て、ジョッキを空けた。

「バターコーンおいしいじゃないですか」海椙がどうでもいい反論をする。

「そ。あなたとは価値観が違うのね」

「バターコーンについては今度じっくりと話し合うとして、先輩はどの情報が間違っていると思うんですか?」

「おかしなことを」未散は鼻を鳴らし、微笑んだ。

「?」

「どの情報も、信憑性に欠ける。私自身何も確認していないし、私が信頼する人間からの情報でもない。警察から又聞きしたに過ぎないでしょう。グリンピースほどの価値もない」未散は飲茶セットの中に入っていた焼売の中心を見つめながら、ため息をついた。

「グリンピースがごみ屑だっていう意見には賛成ですけど、一応、私のお姉ちゃんからの情報ですよ?」

「あなたのお姉さんにどれだけの価値があるのよ」

「隙あらば中華料理を始めとした様々な場所に混入している、まさに異物として扱われるに相応しいグリンピースですが、人を非常に不愉快にさせるどうしようもないごみ屑だという認識と、正義の名の下に人の迷惑を顧みない警察に通じる点、それに関しては僕も異論はありません」永田も同意を示した。「長野原先生のおっしゃるとおりです。海椙先生のお姉さんが信用できないわけではありませんが、すべての情報を鵜呑みにするのは危険かと思います」

「うぅ、そうですか……。まあ、そうですよね、妹より優れた姉など存在しませんものね」

「それが事実だとするなら、相当残念なお姉さんね」

 未散は笑った。

「な、またそうやって意地悪を。一年目の教師としては破格じゃないですか、私」

「言ってろ」

「うーん、でもそしたら居酒屋に来た意味がなくなっちゃうじゃないですか。もっと議論しましょうよー」

 居酒屋に行こうと言いだしたのは海椙だった。全員夕飯がまだだったこともあり、彼女の提案を受け入れることにしたのだが、やはりその目的は事件についてのディスカッションだったようである。家で缶ビールを呷っていた方がよかった。

 それでも付き合ったわけには、三木の様子が気になったというのが大きい。それはもう、酷い落ち込みっぷりだった。この様子を見る限り、しばらくは立ち直れそうにないだろう。仕事に支障が出なければいいが、明日にも辞表を出しかねない、そんな雰囲気さえ漂っている。

「たまには不毛なことをしようじゃありませんか」海椙が明るく言った。「それが人間というものでしょう?」

「この中で一番人間臭いのはあなたよね……」

 未散は肩を竦め、微笑んだ。

 永田も口の端をわずかに上げている。

「事件解決に繋がるような仮説を立てれたら、そのときは私の姉がご飯をご馳走することを約束しましょう」

 大変な妹を持ったものだ。海椙刑事の苦労が目に浮かぶ。

「一つずつ整理していきましょう」海椙は楽しそうに、手を広げる。

「どうぞ」未散はメニューを見つめながら、気のない返事をした。

「まずは事件が起きた現場、選手控え室として使用されていた第一会議室へのアクセスですけど、本当に一つだけでしょうか?」

「あの部屋のドアは二つ。他の部屋と繋がっていることもないし、正規のルートでは、廊下を通っていくしかない。アクセスは一つね」

 未散は頭の中に見取り図を描きながら話した。仕事の関係で何回か訪れたことがある。改築でもしていない限り、第一会議室のドアは二つとも警備員がいたという廊下に面しているはずだ。

「でもその廊下には警備員が二人いたから、彼らが真面目に警備していたとすると、厳しいですね」難しい顔で唸ったあと、海椙はだし巻き玉子の上の大根おろしに醤油を少し垂らして、笑顔を見せる。「正規以外となると、あとは窓ということになりますか」

「窓も厳しいでしょう」永田は表情を変えずに続けた。「鍵が掛かっていたという、警察の証言がある。ずさんな捜査で見逃した、というのも考えにくい」

「となると、残るのは警備員が嘘をついているという可能性ですか……」

 片時も持ち場を離れなかったのか。誰も訪問してこなかったのか。室内にリカルド以外の人間はいなかったのか。

 これらを確かめる術はもうない。リカルドの回復を待つしかないだろう。

 気懸かりなのは赤座雄滋の自供だ。彼が自分の犯行であると、そう警察に話したという。信じがたい話ではある。

「ここまでの話だけでも、誰にも犯行は不可能だということが浮き彫りになってるんですよね。だけど事態はさらに悪化、こんがらがっちゃいますけど、赤座選手が自供しちゃうんですよねぇ」迷惑だと言わんばかりに、海椙がポテトサラダを口に運んだ。「ポテトサラダのりんごは許せますか?」

「気に食わない存在だけど、許せないほどじゃないな。人参の方が邪魔。許せない」

「先輩はミックスベジタブルに親でも殺されたんですか?」

「大層な親でもないけれど、家畜の飼料に殺されるほどじゃない」

 また話が逸れてしまった。それにしても、よく脱線するものである。保線マンはちゃんと働いているのだろうか。

「一応、自供した赤座雄滋による犯行だと仮定して、話を進めていきましょうか」海椙はちらちらと三木の様子を窺いながら、慎重に言葉を選んでいるようだった。「彼はどのような方法を取ったんでしょうか。どうすれば、リカルドを襲えますかね?」

「警備員を買収するのが、簡単で確実ですね。一番現実的です」永田は氷が溶けて薄くなったハイボールをかき混ぜていた。「ただ、気になる点もありますが」

「すぐに自供した点ですね」未散は相槌を打つ。「買収までしたことを考えると、自供のタイミングとしては多少不自然ですね」

「ええ」

「最初話していた、ここまでの事態になるとは思わなかったって線はどうです?」海椙はわずかに首を傾けた。

「それなら、そもそも買収までしないでしょう」未散は言って、永田を見た。

「自供したのが赤座雄滋だけ、という部分が大きいですね」永田は頷く。「警備員と共犯関係にはない、と判断するべきでしょうか」

「リカルドが試合から戻ってくるよりも前に、犯人が控え室にいたらどうです?」海椙が次の案を出した。「最初から忍び込んでいたわけですよ」

「警備員がいつからついていたかによるけど……。まあ、リカルドが戻ってきてから忍び込むことを考えれば、そちらの方がまだ簡単か」

「でしょう?」胸を張り、したり顔でグラスを持ち上げた。

「でもどうやって控え室から出るの? 窓には鍵、廊下には警備員が二人」

「そりゃあ、騒ぎのどさくさに紛れて……」失速した海椙は、そのままフェードアウトしていった。

「脱出する方法も考えていないのに、ずっと控え室で機会を窺っていたわけ? 計画性がないじゃない。それなら別に控え室で襲わなくてもいいでしょ」

「しょ、衝動的だったんですよ。そう、犯行は突発的な」

「襲う気もないのに、どうして忍び込む必要があるの?」

「それはぁ、そのぉ……」海椙は口籠もるが、どこかにやけていた。

「何?」

「……リングをベッドに変えて、愛の延長戦ですよ……」

 海椙は未散にだけ聞こえるよう馬鹿なことを囁いた。プロレスファンに一斗缶で殴られても仕方のないような女である。

「脱出方法について説明できなければ、議論の意味がありません。それに、控え室に忍び込んだ方法も不明瞭です。もう少し掘り下げて考える必要がありますね」永田が淡々と抑揚なく続けた。

「そうですね……」海椙が小さく肩を落とした。「じゃあ、うーん……」

 唸るものの、何もアイディアが出てこない様子だ。未散は、海椙が悩んでいる間に追加注文を済ませることにした。

 呼び出しベルの隣に陶器でできた灰皿が置いてある。喫煙者はいないので、今は使われていない。未散はそちらに手を伸ばした。

「煙草吸うんですか?」海椙が意外そうな目を向ける。

「吸ったこともないし、これからもない」

 手に持った丸い灰皿を見つめる。重さは百八十から二百グラムくらいか。

「現場で割れていた陶器ってどういうの?」

「さあ。花瓶とか言ってましたけど」海椙は首を捻る。

「それが凶器?」

「状況的には、そうなんじゃないんですか。何か気になることでも?」

「警備員が気になったということは、ことが予想できますね」永田が静かに言い、未散を見る。素早く、的確な読みだった。

「え、どういうことですか?」海椙は未散と永田の顔を交互に見ながら、説明を求めてくる。

「別にどうもしてない。だけよ」

「?」

「もしも何者かがリカルドの後頭部を、その花瓶で殴ったのだとすれば、最も硬い底の部分からということになる。他の部分では脆いし、充分なダメージを与えられない」

「それがどう、なるんです?」

「警備員が様子を見に行くほどの音がしたとは考えにくい」

 警察の話では選手控え室の窓は閉まっていた。ということは、室内は冷房がついていたと考えられる。閉め切った室内での音が廊下にまで響き渡るとなると、相当なものだったはずだ。床に落としたのならともかく、殴打の音だけでは、廊下の警備員達にまで聞こえたかどうか。

「三木先生に聞きたいのですけど」

 未散は海椙を無視して、塞ぎ込んでいる三木に声を掛ける。彼はゆっくりと顔を上げ、未散を見た。

「はい……」

「今日の試合、マスクド・レッドは赤座雄滋でしたか?」

「もちろん」

「重要な部分です。感情を抜きにして、客観的に、そう断言できますか?」

「できます」

 三木ははっきりと、力強く頷いた。

「なら落ち込む必要はありません。赤座雄滋は犯人じゃない。彼に犯行は不可能です」

「え……?」

「自供は嘘だと?」海椙が未散を見る。「赤座雄滋は誰かを庇っていると言うんですか?」

「少なくともそのとき試合をしていた人間に、控え室の人間を襲うことはできるはずがない」

「それはそうですけど……」

 海椙は不満そうだった。

「あとはそうね、あなたのお姉さんに話を聞きましょうか」

 未散は腕時計を見る。午後十一時半になろうとしていた。少し遅い、非常識な時間の気もするが、相手は刑事だ、構わないだろう。

「お姉ちゃんに何を聞くんですか? え、これから警察に行くんですか?」さすがの海椙も、露骨に顔を歪ませた。

「免許の書き換え以外で行く気はないから、安心しなさい。自分の姉が刑事であることを半信半疑だったあなたでも、姉の携帯番号ぐらいは知っているでしょう?」

「そりゃあ、まあ、たぶん」

「曖昧だな、おい」

「掛ければ繋がるとは思いますけど……。何を聞くんですか?」

 海椙だけでなく、三木も怪訝な表情を浮かべていた。

 多少はアルコールの所為にできるだろう。

 未散は悪意を込めて言った。

「公私混同する迷惑な税金泥棒はいませんか、そう聞きなさい」


 7


 海椙葵は姉である海椙茉莉刑事に携帯から電話を掛けた。時間帯や仕事の都合もあるのだろう、すぐには出なかったものの、五分ほどして向こうから折り返しの電話が掛かってきた。

 最初はいろいろと丁寧に説明をしていた海椙だったが、途中で面倒になったのだろう、隣の未散に端末を差し出し、乳白色のカクテルを飲み始めてしまった。もう自分は話す気がないというアピールなのだろう。

 もともとがこの女の飽くなき好奇心のおかげで始まった議論であるというのに、身勝手なものだ。まだミックスベジタブルの方が、食べろと強要してこないだけマシである。プレートの端に寄せられているだけで、何か害を為すわけではないのだから。

「どういうことですか?」

 電話口から声を聞く分には、海椙と非常によく似ている。口調の違いはあるが、声だけでは聞き分けられそうにない。とはいえ、もともと電話の音声は本人のものではないのだが。

「警察関係者に、特に今日、赤座雄滋に接触した者の中で、プロレスファンがいないかどうかをお尋ねしたいのです」

「……どうしてです?」

 さすがに妹には甘くとも、それ以外の者には情報を漏らそうとしない。

「お困りなのではありませんか?」未散は聞いた。

「…………」

 海椙刑事は何も言わない。

 端末からは、空気の摩擦音がわずかなノイズとともに漏れてくる。居酒屋店内の喧騒がやけに大きく聞こえた。

「私の思い過ごしならいいのですが、自供した赤座雄滋は、実は何も話していないのではないですか?」

「え?」

 声を上げたのは隣にいる妹の方だった。未散は海椙を横目で睨み、姉の方の返答を待った。

「どうしてそう思うのです?」

「やはり話していないのですね」

「…………」

「もしも本当に彼が犯人ならば、犯行方法などについても詳細に話すはずです。事件が発生してから間もなく犯行を認める自供をしたのなら、それが自然でしょう」

「彼は犯人ではないと? 誰かを庇っていると?」海椙刑事の声が少し低くなった。

「さあ。少なくとも私は、そう考えています」

「……それと、先ほどの質問がどう繋がるのですか?」

「公私を混同したずさんな捜査。それが原因で今回のような面倒が起きたのだとするのなら、誤認逮捕になる前に、あるいは、体面を守るためだけの逮捕になる前に、赤座雄滋やあなた方地元警察の人間を助けることができれば、と思いまして」

「…………」

「この電話は私のものではありません。あなたの妹さんの携帯電話を借りています。ですので、長電話をするつもりはありません。私の用件、要求はお伝えしました。それに応えるかどうか悩んでもらっても結構ですが、私からは以上です。それでは失礼します」

 電話を切り、端末を持ち主の海椙へ返した。

「電話代くらい、気にしませんよ」海椙は少し頬を膨らませていた。「大体、向こうからの電話じゃないですか」

「恋人でもない相手の沈黙に付き合う趣味はないの」

「でも赤座雄滋が何も話していないっていうのは何なんですか? 先輩はどうしてそれを?」

「だって、話せるはずがないじゃない」

「犯人じゃないから?」

「そう」未散は頷き、串焼きに手を伸ばした。

 海椙と三木は不思議そうに未散を見つめている。特に三木は赤座雄滋が犯人でない可能性を知り、姿勢を正していた。先ほどまでの落ち込みぶりから一転、緊張と期待を押さえながらも、身を乗り出している。忙しい男だ。正座しているところが少しかわいかった。

「警備員か赤座雄滋、あるいはその両方が嘘をついている。でなければ矛盾が生じてしまう」

「そうですね、そこまではわかりますけど」

 海椙が理解を示すと、三木も同様に頷いた。それを確認して、未散は続ける。

「そこへ三木先生の話を加えると、警備員が嘘をついていてもいなくても、そのとき試合をしていた赤座雄滋に犯行は不可能ということになる。彼が犯人ではありえない」

「ということは、犯人は警備員?」海椙は視線を左上へ動かす。「アリバイの確認ができていないレスラーは赤座雄滋だけでしたよね?」

「警備員が犯人である可能性はある。それを否定することは今の私達が持っている情報ではできない」

「含みがありますね」海椙は目を細めた。「違うんですか?」

「警備員が犯人だとすると、どちらか片方の犯行ではなく、二人による共犯ということになる。どちらかが隙を見て犯行に及ぶことは難しいからね。二人が協力してリカルドを襲ったのだとすれば、証言内容が引っ掛かる」

「矛盾する部分なんてありました?」

「本人から直接聞いてはいないから、それは何とも」未散は軽く首を振る。「ただ、せっかく協力して犯行に及んだのだから、もっと上手いやり方はあったでしょう。例えば窓を開けておくだけで、外部犯の可能性を演出できる。容疑を自分達から逸らしていない点については、多少引っ掛かる」

「え、じゃあ……?」

「そしてそれはを導く」

「最初?」

 首を傾げた海椙と三木に向かって、未散は短く結論を口にした。

「事故」

「え、事故って……。ええ?」

 海椙が大きな声を上げた。驚きもあるが、それよりも不満が強く映る。

「事故ってどういうことですか?」三木が身を乗り出して尋ねた。

「汗で滑ったのか、それとも何らかの意識障害を引き起こしたのかもしれません。試合であれだけ強かに頭を打ち付けていましたからね、不思議ではないでしょう。出血は倒れた際に、割れた花瓶か何かで切ったのだと思います」

「でも事故って」海椙はまだ納得がいかないらしく、眉を顰めている。

「何でもかんでも不思議がるからおかしいのよ。警備員が嘘をついていない限り、なんだから、でしょう」

「警備員が嘘をついていたらどうするんですか」

「どうも何も、それは警察の仕事でしょう? どうして私がそれに責任を負わなくちゃいけないのよ」

「何て無責任な。それじゃあ探偵は務まりませんよ」

「私は高校教師だ。それが務まっていれば問題ない」

「事故?」

 海椙は長いため息をつき、首を振り、項垂れた。

 事件を望んでいる彼女は、教師だけでなく人間として大きな欠陥を抱えている。早く何とかしなければ、とも思うが、すでに手遅れかもしれない。どちらにせよ、未散の関知するところではなかった。

「でも、だったらどうして赤座雄滋は自供を?」

「そうですよ、そうですよ! おかしいじゃないですか、事故なら、赤座雄滋が自供するわけがないじゃないですか」

 三木の疑問に海椙は体重を乗せ、未散に投げてきた。

「恐らく、赤座雄滋は守りたかったのだと思います」

「守る? 何をです?」三木は怪訝に眉を顰めた。

「え?」

 海椙と三木が声を上げ、首を捻った。永田だけが静かに頷き、話を聞いていた。

「赤座雄滋は、アリバイを示すこともできたはずです。マスクド・レッドとして試合をしていたのだから、難しい話ではないでしょう」

「だったらすればよかったじゃないですか」

「そうもいかない」海椙に対して、未散は首を振る。「アリバイの代償として、マスクド・レッドの正体を明かすことになる」

「それが? 別にいいじゃないですか、だって容疑者にされちゃうかもしれないんですよ?」

「…………」

 三木は黙った。彼にも理解できたのだろう。

「マスクマンにとってマスクは命よりも大事」試合後、三木が解説したときの言葉を引用し、未散は話した。「赤座雄滋は正体を明かすことができなかった」

「そんな……。でも、三木先生は知ってたじゃないですか」

「……いえ、僕だけでなく、R.E.D.のファンなら誰でも知ってることです。体つきや戦い方でわかるんです。けど……」

「どんなに周りにばれていても、それを認めることはないのではありませんか?」

「ええ、そうです……。余程のことがない限りは」三木は頷いた。

「余程のことじゃないですか!」海椙はまだ納得できないようだった。

「正体を明かすということは、マスクド・レッドを引退するということなんです。たしかに、今回のこと、自身の容疑を晴らすためという理由は余程のことですから正体を明かしてもおかしくはありません。ですが、明かさなくてもおかしくない、むしろそちらの方が自然かもしれません」三木が未散に代わり説明した。プロレスに関しては彼の方が詳しい。

「あなたも話していたでしょう? どんなにばれていても認めてはいけないことがあるって」

「それは……」

 今回のこととは関係のない、海椙の友人が浮気をされたという話。その際、彼女が熱心に話していたフレーズである。どんなに言い逃れのできない状況であろうと、浮気を認めることだけはだめだと。

 その浮気についての海椙の価値観、そしてプロレスにおけるマスクマンの正体と価値観。どちらも一般的な考え方とは言えないが、通じる部分はある。何が大事なのかは、人によって異なるのだ。

「赤座雄滋は、マスクド・レッドの正体を守ることを選んだ。彼にとって、マスクはそれほど重いものだったと、そういうことじゃないかな」

「でも、それにしたって……。アリバイを話さないだけならまだしも、自供っておかしいじゃないですか。どうして嘘をつく必要があるんですか」

「周りが説明しようとしたからじゃないかな」未散は言いながら、視線を三木に移す。「本人が話さなければ、周りが説明してしまうのではないでしょうか。特に、ファンの方は」

「かもしれませんね……」三木は頷き、目を閉じると息を吐いた。「たぶん、僕が近くにいたら、本人に代わって釈明をしたと思います」

「団体の関係者ならば、覆面レスラーの特別な考え方についても充分理解しているでしょうし、警察に対しても上手く説明できたかもしれない。だけど警察の関係者に、マスクド・レッドの正体が赤座雄滋だと知っている者がいたとしたら」

 そこまで話し、未散は海椙を見つめる。

「それでお姉ちゃんにあんな質問を……」

「マスクド・レッドの正体を守るための、とっさに出た嘘だったかもしれない。その辺りは実際の現場にいたわけじゃないし、詳しい話を知っているわけでもないからわからないけれど」

「むぅー……」机に頬杖をし、海椙は不満そうに目を細めていた。

「何、不満?」

「そういうわけじゃないですけどー」

 口を尖らせ、頬を膨らませている者のせりふとは思えないものだった。

 未散はレモンサワーを口にして、微笑む。

「ただの事故。警備員は嘘をついていない。赤座雄滋が自供したと警察は話していたけど、自身がマスクド・レッドである秘密を守るために、とっさについてしまった嘘だった。汗で滑ったのか、頭部に受けたダメージによるものか、リカルドは自分で転んだだけだった。これ以上誰も傷つかない、とても平和的な解決よ。それなのにまだ不満を漏らすの?」

「そういうわけじゃないですけどー」

「どういうわけならそんな顔になるのよ」

 相変わらず、海椙の表情は曇ったままだ。傘の用意を考え始めるほどの、厚い雲に覆われている。そんな不満そうな顔を海椙は、未散と永田へ向けた。

「何?」

「何だか不公平だなぁって」

「?」

「別にお姉ちゃんの肩を持つわけじゃないですけど、いろいろな人から話を聞き、その証言の裏を取り、事実関係の整理をする。それで浮き彫りになった不可思議なことに警察が頭を悩ませているのに、高校教師がお酒片手にあっさりと謎を解いちゃうなんて。警察が不憫ですよ」

 未散は笑い、永田は鼻を鳴らした。

「警察なんてそんなものでしょ。不憫くらいでちょうどいい」

「辛辣ですね」

 海椙が肩を竦めたところで、彼女の携帯が音楽を奏でた。海椙刑事からの電話だろう。海椙は未散に端末を差し出しながら首を傾げた。未散は片手を広げる。

「電話が掛かってきたってことは、答えはもうわかってる。事情を説明して、赤座選手を解放するようにお願いしてみたら?」

「淡泊な人ですねぇ、ほんと」

 海椙は苦笑を見せる。彼女は電話に出て、刑事である姉にいろいろと説明を始めた。同時に、いくつか向こうからも情報が提供された。

 傷がそれほど深くなかったリカルドの意識が戻ったこと。

 そして彼の証言により、事故だったことが証明されたこと。

 激しい試合の疲れやダメージが蓄積しており、目眩を起こし、そのまま倒れたのだという。当時の状況を詳しく覚えてはいないものの、少なくとも誰かに殴られたわけではないと話しているみたいだ。ふらついた際、もたれたのが壁際に飾られていた花瓶で、その破片で頭を切ったのだろうと、警察でも見ているそうだ。

 また、未散の睨んだ通り、警察関係者にプロレスファン、マスクド・レッドの正体が赤座雄滋であることを知っている者が存在していた。一人だけアリバイを提示できなかった赤座雄滋に対して、マスクド・レッドとして試合に出ていたことを言及しようとしたらしい。

 結果的に偽証してしまった赤座雄滋ではあるが、何とか穏便に済ませられるようだと海椙刑事は話していた。

 そのあとも姉妹の電話は続いていたが、それが終わるのを待たずに未散はグラスを持ち上げる。

「乾杯します? 不毛な会話が終わったことに」

 三木も永田も笑みを見せ、三人はグラスを鳴らした。

 安い酒ではあるが、スリーカウントとゴングの代わりとしては充分だった。

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