第1話 学園七不思議、あるいはただのプロローグ


 1


 四月二十六日。午後十二時三十分。

 自身の腕時計で時間を確認し、長野原未散はため息をついた。

「少し早いけど、今日はここまでにしようか」

 苦痛の表情を浮かべていた生徒達にも四十分ぶりに笑顔が戻る。彼女の気まぐれな判断を、まるで大英断だと言わんばかりの、そんな笑顔である。あと五分早ければ、割れんばかりの拍手でも起こったかもしれない。

 そんなに数学が嫌いか。

 特別に苦手意識が芽生える科目であるのは、どの時代も変わらないらしい。呆れを通り越して、むしろ微笑ましいくらいだ。四則計算さえできれば日常生活に支障はないと、そういう考えらしい。

 四則計算さえできれば、か。

 膨大な数の四則計算を正確にかつ瞬時に処理し続けることが出来るのであるならば、多くの定理を学ぶ必要はなくなる。しかし、それができないからこそ、先人達の知恵を少しだけ拝借するのではないか。

 そんな説教染みた話をしたところで、歳を取ったと自覚し、自己嫌悪に陥るだけなのだが。

 自前のチョークをケースにしまいながら、ため息をついた。

「先生、幸せ逃げるよ」

 生徒の一人が笑いながら言った。

 目敏い奴がいたものだ。未散が顔を上げると、そこには幼い顔立ちの少年が立っていた。穂波涼太ほなみりょうた。成績は中の上。理系科目だけならトップを張れるが、古文や日本史が壊滅的に駄目で、赤点を回避するだけでも精一杯という極端な生徒だ。

「幸せだったらため息なんかつかないよ」

「幸せじゃないの?」穂波が首を傾ける。

「高校教師が幸せに見えるの?」袖がチョークの粉で汚れていないか確認し、教科書を脇に携える。

「すげー言い草」

「あなた達がもっと優秀だったら、ストレスの原因も減って、幸せになれるかもね」

「責任転嫁かよ」

「事実よ」

 実際には道に転がる小石が一つ減る程度に過ぎないが、それでも少しくらいは歩きやすくなる。

「でも俺、数学優秀じゃん?」

「満点取ってからほざけ」

「きっついなぁ」穂波は大げさに仰け反りながらも、笑みを見せる。「今からそんな調子だと、歳取ったとき嵯峨根よりも尖っちゃうんじゃない?」

 酷い言われようだ。

「先生をつけなさい、先生を。嵯峨根先生でしょ」未散は肩を竦め、穂波の言葉遣いを正す。「あんな更年期障害のお局でも、あんたよりも目上の人間よ。あと、あんなのものと私を一緒にするな」

「俺よりもえげつない毒吐いてんじゃん」

「毒じゃない。事実よ。人を毒舌家みたいに」

「でもさ、折り合いが悪いのに、よく表に出さずやってるよね」

 顔を合わせた瞬間にハイキックをしろとでも言うのか。冗談ではない。そこまで自分の脚は安くない。

「別に折り合いが悪いわけじゃない」そこは否定しておかないと、面倒に繋がりかねない。

「そうなの? でも平野ひらのがすげー気にしてたよ」

「だから教師を呼び捨てにするな」

 平野も数学科の教師であり、未散の同僚になる。四十代前半の男性教師で、年々薄くなってきている髪に見切りをつけたような坊主頭と薄汚れた青色のウィンドブレーカー以外は若々しく、生徒達からも人気があった。

 穂波を始めとする現在三年生達の数学は、未散と平野の二人がずっと担当してきている。

「嵯峨根にいつもいびられててかわいそうだ、とか。だからお前らは迷惑掛けるなよ、とか」

「ふうん」

「新人の教育まで押しつけられてたって」

「仕事だからね」

 そうは言うものの、未散自身、新人の海椙葵とは距離を置きたいと考えていた。どうもあの娘は余計な勘が働き、しかも遠慮なく他人の領域に踏み込んでくる。厄介なことこの上ない存在だ。

「ていうかさ、どうしてあの新しい美人の先生は俺らの担当じゃないの? おかしくね? 一年の時からずっと先生と平野じゃん」

「私じゃ不満か」

「そうじゃないけどさー」

 明らかな不満顔である。

 また一つ、小さなストレスが積み重なる。盛大に舌を打ち鳴らしてやりたい気分だった。

 くだらない話をしているうちにチャイムが鳴り響く。早く切り上げた意味がなくなってしまった。

 思わずため息が漏れてしまう。

「幸せが逃げるよ」穂波がおかしそうに言う。

「うるさい」

 それだけ言って未散は教室を出た。

 今日の、未散が担当する授業はこれで終わり。今月末までが締め切りの学籍名簿などの作成も、他の職員達が慌ててその作業に追われているのに対し、未散はすでに終えていた。授業を除けば、他の者よりも積まれている仕事は少ない。

 雑務を適当にこなしながら、ゴールデンウィーク明けに行なう中間テストの問題でものんびり作ろうか、などと思案する。

「…………」

 ゴールデンウィークの予定も決めずにそんなことを考えている自分に嫌気が差した。

 四時間目も終わり、昼ご飯を食べようと弁当片手に歩いていく生徒達が廊下に溢れ、静かだった校舎もにぎやかになる。近頃は暖かくなってきているので、外で食べる生徒達も多い。

 綺麗な青空の下で食べるご飯はおいしいだろう。未散もできれば屋上などでのんびりと食事を楽しみたかったが、事故だ何だと厳しくなっている今、屋上は開放されていない。

 普段は職員室で昼食を取ることになるのだが、楽しい食事の時間を妨げる様々な弊害がある。基本的にキャリアの若い教師がお茶出しをしなくてはならない。仕方がないとはいえ、かなりの大人数になる。その上、個々に好みまであり、文句を恥じらいもなく垂れる者も少なくない。何かミスをすれば、全員の前で得意気に注意をする人間もいる。食事中にもかかわらず下品な話をする中年もいれば、食事が不味くなる愚痴をこぼす者だっている。

 何よりも頭痛の種は、言わずもがな、嵯峨根だ。おもしろいことに最近の彼女は絶好調だった。もちろん悪い意味で、である。

 自分で言うのもあれだが、赴任以来、未散は常に上手く立ち回ってきた。ミスもなく、隙を見せなかった。しかしそれがお局様の機嫌を悪化させていたのだ。弱い者に対して威光を振るうのが彼女の楽しみだとは露とも知らず、陰湿なストレスの捌け口を無意識ながらに塞いでしまっていた。

 ところが、今年赴任してきた海椙葵という娘は変なところに勘が働く一方で、基本的に抜けている。少なくとも嵯峨根の餌としては充分過ぎる素材だった。抜け目のない嵯峨根は海椙の教育係として未散を指名し、海椙のミスを未散の管理責任とすることで養分を得始めた。日に日に若返っていく嵯峨根の様子を見ていると、怒りや呆れよりも、笑いを我慢することの方が辛かった。

 そんな様子を間近で見ている教師からは、まあ、心配されても当然かもしれない。しかし、心配するだけで、助け船は出さない。

 どいつもこいつも。

 無関心を決め込む薄情な者よりも、同情しつつ何もしない人間の方が遙かに厄介で、嫌らしい存在だ。未散自身、助けを求めているわけではないが、不愉快な話ではある。

 職員室に戻ると、授業のなかった職員達が昼食を取り始めていた。今日の仕出し弁当はコロッケ弁当みたいだった。弁当を頼むのはやはり男性職員が多い。忙しい朝を考慮すれば全員が仕出し弁当に頼ってもよさそうなものだが、女性職員はプライドがあるのか、ほとんどが自前を用意してきている。

 未散は自分の席に着き、教科書とチョークを机にしまう。

「ああ、先輩」

 明るい声がした方を見上げると、海椙がにこやかな笑顔でこちらにやってきた。授業だったのだろう、教科書を胸の前で抱えるようにして持っている。あざとらしさが残る仕草だが、男性はこういうのが好きなのだろう。鼻で笑いたくなるが、男が描く幻想を壊さずにいるだけ、女としてはレベルが高い。

「一緒にお弁当食べましょうよ」

「え?」

 思わず顔が歪む。

「ね? いいでしょう?」にこやかに小首を傾け、こちらを見る。「あ、それともダイエット中ですか?」

「……ダイエットが必要な体に見える?」

「さあ、服を脱いでくれなくちゃ」海椙は楽しそうな笑みを向ける。

「…………」

「ささ、行きましょ行きましょ」

 海椙に腕を引っ張られながら、弁当の置いてある職員用ロッカーへ渋々向かう。

 この一ヶ月ほど彼女と接してきて確信したことがある。

 この女は苦手だ。

 他人との距離も測らずにぐいぐいと踏み込んでくる。底抜けに明るく、嫌味らしさがないのも、ここでは逆に働いている。同性や異性にかかわらず、誰からも好かれそうな、そんな女の子。

 楽しそうで、幸せそうで、だからこそ腹が立つ。

 きらきらに輝いて見える海椙は、正直羨ましい。いったいどこまで戻ってやり直しをすれば、彼女のようになれただろう。現状に不満があるわけでもないが、彼女を見ていると、ときどき無性に羨ましくなるのだ。そして、それゆえに不安になる。

 苦手だ。

 どうしようもなく。

 海椙のことを、他人の誰かを羨ましく思う。それがどれだけ自分を苦しめているのか。目の前の彼女は考えたこともないだろう。甘美な期待に縋らなければ、とてもではないが生きられない。未散は誰よりも自覚していた。自分がとても弱い人間であることを。そして、まだ諦めていないことを。

「何で先輩は私を警戒するんですか?」大きな瞳だけを動かして、海椙が尋ねてくる。

「どうしてあんたは私に踏み込んでくるのよ?」

「質問を質問で返すのはよくないと思います。イクナイ!」

 何だそれは。若者言葉か何かだろうか。歳はそれほど変わらないはずだが……。

「あんたが無闇に絡んでくるからでしょ。最近の若者は人付き合いが苦手じゃないのか?」

「特別得意ってわけじゃありませんけど、でもそれ以上に先輩に興味があるんですよ」

「……私は同性愛に興味ないからね」

「私もありません。年下のかわいい男の子が好きです」

 教師としてはそちらの方が問題な気もするが。

 職員用ロッカーから荷物を取り出し、その中から弁当箱とステンレス製のマグボトルを手に取る。昼食を、しかも校庭で取るためだけに、わざわざ靴に履き替えなければならないことを思うと、さすがに面倒だった。ため息がまたも漏れる。

「ああ、いい天気ですね。こんな日は外で食べるとおいしいですよ、きっと」

 かわいらしい花柄のランチバッグを持った海椙は、こともあろうかスリッパのまま昇降口を出て行こうとする。

「こらこら。靴に履き替えなさい」

「えー? だって面倒じゃないですか」

「だからそもそもが面倒なのよ。外で食べること自体が」

「いいじゃないですか、ちょっとくらい。欧米の人達は土足で生活してるんですよ?」

「引き合いに欧米を出すな」

 嵯峨根にでも見つかったら、餌食になるのは未散である。校庭で昼食を取るのでさえ、小言の針で突かれるのが目に見えているというのに。

 二人は靴に履き替え、校庭の隅にある花壇へ歩いた。綺麗な桜草が咲いている。花壇の脇にベンチがあったので、そこに並んで座り、弁当を食べることにした。

「あ、たこさんウィンナー!」

 海椙が未散の弁当箱を覗き込んではしゃいだ声を上げた。

「何?」

 眉を顰め、目を輝かせる後輩を怪訝に見つめる。

「一人暮らしの女性が、自分のためのお弁当に、わざわざ切れ込みまで入れて、たこさんにするなんて。か、かわいいところもあるじゃないですか!」

「…………」

 無性に殴りたくなった。

 しかしよく見ている女だ。感心しているのか馬鹿にしているのか、わからないのも困りものだが。

 ため息を重ねる代わりに、未散は卵焼きを口へ運んだ。

「そういうところをもっと見せていけばいいのに」

「誰によ」

「誰にでもですよ」海椙は簡単に答える。「ずっと気になってたんですよね。私よりも綺麗でスタイルもいいのに、周りの生徒や先生達にちやほやされてる様子がないんですもん」

「学校をどんな場所だと思ってるのよ」

「だから、よっぽど偏屈な人なんだろうなとは予想してたんですけどね。でも意外や意外、接してみると面倒見のいい、その癖のない綺麗な髪と同じくらいストレートなお姉さんではないですか。他人と距離を取る傾向が極端に強いこと以外は、正統派の美人ですし、普通はもっとモテると思うんですけどね」

「……人間が嫌いなのよ」

 観念するかのように、未散はため息混じりに答えた。

「どうしてまた?」

「別に」

 不思議そうに上目遣いで見ていた海椙に、未散は微笑む。

「人を好きになることよりも、嫌いになることの方が多かっただけのことよ」


 2


「そう言えば聞きました? 学園七不思議の話」

 小さくカットされたブロッコリーを口に運びながら、海椙がそう尋ねた。

 野菜炒めを食べていた未散の表情が曇る。

 いつだったか、そのような話を聞いた記憶はあったが、まだ下火になっていなかったらしい。

 呆れる未散に対して、隣の海椙はまるで好きなアイドルについて話す女生徒みたいに頬が緩んでいる。

「馬鹿馬鹿しい」短く言って、ご飯を一口食べる。「どいつもこいつも」

「えー、わくわくするじゃないですか」

「しないでしょ、普通」

「しますよ。するからこそ、こうして広まるんじゃないですか。誰にも相手にされなかったら、噂なんて七十五日も待たずに雑多な喧騒に掻き消されますって」

 海椙の言うことも一理ある。騒ぐ馬鹿がいるからこそ、いつまでもくだらない話が残り続けるのだ。都市伝説なども、本気で望んでいる人間がいるのだろう。他人の趣味にけちをつけるつもりはないが、未散の価値観とはまるで合わない。

「生徒達の間で流行ってるの?」

「みたいですね。でも、先生達もまるで興味がないってわけじゃなさそうですけど」

「あっそ」

「音楽室の、シートベルトやらマッハやらの目が光る話なんて不思議ですよー」

 未散は取り合わずに、蓮根のきんぴらを食べる。昨日の晩に作ったものだが、味が染みていておいしい。もう少し一味唐辛子を加えてもよかったかもしれない。

「聞いてます?」

 海椙が頬を膨らませながらこちらを覗き込む。

「蓄光塗料か何かでしょ」

「そうなんですよ。誰もがそう考えるんですよ」

「?」

「肖像画自体には何も細工はされていないんですよね、これが」

 興奮してきたのか、段々と言葉に熱を帯び始めてきた。海椙は食べることも忘れ、怪奇な現象を語り続ける。

「それなのに、多くの人が目撃してるんですよ。音楽家の奴らが目を光らせているのを!」

「奴らって……」

 マグボトルの温かい煎茶を飲み、ほっと息をついた。左手首の腕時計を見ると、午後一時になろうとしている。昼休みはまだ残っている。もう少しだけ付き合ってやることにした。

「誰が目撃したのよ。目が光るってことは、目撃した時間帯は放課後以降でしょ? 陽が落ちて、電気もついていない音楽室に、どれだけの人間が用を持つのよ」

「や。嫌々ながらにしては中々の瞬発力ですね。さすがに頭の回転が速い」

 嫌がっているということをわかった上でこの話題を続けていたのか、この娘は。

「ご明察の通り、目撃者の大半が吹奏楽部の関係者です」

 関係者という表現の仕方に引っ掛かりを覚えた。それがわずかな眉の動きに繋がる。

 そんな未散の小さな変化も見逃さず、海椙はその疑問に答えるように続けた。

「吹奏楽部員と顧問である三木先生。そして音楽について無知も甚だしい三木先生に代わり、部員を指導するコーチの何ちゃらさん。あとは吹奏楽部員の彼氏が数名。高校生の分際でいちゃつくなんて生意気にも程がありますよね」

「音楽についての知識はあんたも人のこと言えないでしょうが」

「失礼な。これでも趣味はカラオケですよ」

「関係ないだろ」

 未散は嘆息すると脚を組み直し、残りの弁当を胃の中に詰め込む。

「とにかくですね、十人以上の人間が目撃しているんですよ。これはかなり期待できますよ」

 何の期待なんだか。

「十人以上が目撃しておきながら、どうしてそのままなのよ」

「そりゃあ、怖くて逃げ出したんですよ。まったく、困った腑抜けどもです」

 困ったのは腑抜けどもだけではないな、と笑いたくなった未散だった。

「何もないのに目が光るわけないでしょ」

「だから怖いんじゃないですか」

「光ってる絵をそのまま持ってくればいいじゃない。どうしてそれをしないで都市伝説の域に済ませておくのよ」

「呪われたらどうするんですか」

「呪いって、あんたねぇ」

「溺死した水泳部員の幽霊が出た話も聞きましたよ」

 未散としては初耳だった。

 まったく大丈夫か、この学校は。

 春の暖かな陽気と、さわやかな風が心地いい。鮮やかな青空と周りを囲う新緑のコントラストも美しく、街の喧騒から離れた場所に建てられた環境の素晴らしさがよく表現されている。

 にもかかわらず。どこもかしこも、誰も彼もが、都市伝説だ何だと、科学技術や知識の浸透が未成熟だった前時代的な会話ばかり。

 特別偏差値の低い学校というわけでもないのだが、関係ないのだろう。どこにでも呆れるような馬鹿は溢れてきてしまう。

「去年プールの授業で足を攣る生徒が続出したって。幽霊に足を引っ張られたって」

「いいから、あんたも早く食べなさいよ。昼休みも終わるよ」

「事件ですよ、事件。大事に至らなかったらよかったものの」

「足を攣る程度の呪いなら無視しても構わないでしょ。祈祷師やら陰陽師やらもそう判断するんじゃない?」

 言って、自分の発言のくだらなさに思わず苦笑した。知り合いの建築家が、いい家を建てる際に必要なのは堅実な基礎でも奇抜なデザインでもなく、地鎮祭なんだと大笑いしながら話していたのを思い出した。くだらない冗談だったが、みんなで笑ったものだ。

「呪われても知りませんよ」海椙は不満そうに口を尖らせる。

「で、他には?」

「他というのは?」

「七不思議なんでしょ。あと五つ」

「あ、興味湧いてきました?」

「ないから聞いてるのよ。今日の昼休みだけ付き合ってあげるから、さっさと残りを話しなさい」

 煎茶を飲みながら未散は続きを促した。

「コーヒーメーカーが消えた話と、深夜誰もいないはずの理科室に現れる白い影の話。開かずの体育倉庫に出る幽霊と……」弁当箱を膝に置き、箸を持っていない左手の指を折りながら数えていた海椙だが、七つを完走する前に大きく失速する。

「ほらほら、あと二つ」

 食後のお茶を楽しみながら、未散は意地悪に言う。

 目の前のステップを降りると田舎の学校らしい広大なグラウンドが整備されている。五時間目が体育なのだろう、学校指定の紺色のジャージに着替えた男子生徒数人がサッカーボールで遊びながら準備を始めていた。

 春らしい陽気に眠気も出てくる。ほのかに甘い匂いが漂っていた。それが睡魔に力を貸しているのだろう。

 ふわりとした柔らかな風が吹き、髪が頬を撫でた。

 やさしい匂いは花壇からのようだった。花の知識にはそれほど明るくない未散には、花壇に咲いているすべての花の名前がすぐに出てこなかった。見たことはあるし、知らない花でもない。

 この学校に園芸部はあっただろうか。見る限り、手入れは行き届いている。花壇の脇に、肥料やプランター用の土が台車にいくつか載せられていた。

「な、七つなければだめですかね?」

 うんうん唸っていた海椙がようやく口を開いたと思えば、これまた馬鹿な質問である。

「七不思議でしょ」

「幽霊部員が最も多いのは写真部らしいですけど」海椙が苦しそうに答える。「でもでも、やっぱり多くの人が体験してるんですよ、怪奇な現象を」

「肖像画の目が光る?」

「ええ」

「ふっ」

 真剣に頷く海椙がかわいかったので、思わず吹き出してしまった。

「何がおかしいんですか」

「全部よ、全部」

「むぅ、夢も何もない先輩ですね」

「うるさいな。大体、あんたは誰から聞いたのよ?」

「吹奏楽部の子や三木先生ですよ、ミッキーですよ」

「何それ。そんな風に呼んでるの?」

「私じゃありません。生徒達が親しみを込めてという口実のもと、教師を見下してそう呼んでいるのです」

 適切な観察眼を持ち合わせている割には、とんちんかんなことも言う。不思議な娘だ。

「ていうか三木先生、吹奏楽部の顧問だったんだ」

「あれ、知らなかったんですか?」

「吹奏楽部の存在も知らなかった。本当に活動してるの?」

「私に聞かれても」海椙は眉を寄せ、困った表情で未散を見た。「あーでもたしか、先輩のクラスの子がいましたよ」

「ん?」

「名前は思い出せないっていうか覚えてないんですけど、三年生の女の子がA組だったかと」

 未散は三年A組の担任だが、生徒の名前を覚えている程度で、誰がどの部活に所属しているかなどまでは覚えていない。実際、教師などそんなものである。自分が受け持っていないクラスの生徒など、顔や名前すらも満足にわからないぐらいだ。

 予鈴が鳴り響いた。校舎正面に設置されているアナログ時計とともに昼休み終了五分前を伝える。

 未散は弁当箱を片付け、隣の海椙は残っていた弁当を慌ててかき込んだ。たまに外で食べる昼食も悪くない。箸休めがあり合わせの都市伝説でなければもっと満足出来たのだが、食事中の会話などどれも似たり寄ったりで、そもそも期待するようなものではない。

「戻るよ」

「あ、待ってくださいよ」

 二人が校舎へ戻ると、予鈴に慌てた生徒達が廊下を騒々しく走っていった。

 その中に未散が担任をしている三年A組の生徒、糸井茂いといしげるの顔を見つけ、思わず舌を打ち鳴らしてしまう。

 あの馬鹿。

 嵯峨根にでも見つかったら何を言われるか。

「こら……」

 注意をしようと呼びかけた未散だったが、それよりも早く、廊下に濁声が響いた。

「おい茂! 廊下を走るな!」

 学年主任である中山なかやまが、酒焼けのようながらがら声でそう叫んだ。

「ああ、すいませんっ」

 糸井はそう言いながらも、速度を緩めることなく、むしろ逃げるように走っていった。

「ったく」

 中山は腰に手を当て、大きくため息をついた。

「すみません、中山先生」

 未散は山男と形容するに相応しい大柄で髭面の中山に近づき、受け持ちの生徒の非を詫びた。

「ああ、長野原先生。先生も大変ですね、あんなのの面倒を見ないといけないとは」中山の季節感のない浅黒く日焼けした顔には同情を含んだ苦笑が浮かぶ。「いつまで経っても嵯峨根先生にきつく当たられてしまうね」

「いえ、そんな」まったくだ。

 大きく出た腹で隠れていたが、彼は脇に教科書を携えていた。大柄な体躯との対比で相対的に小さく見える。

 中山も未散や海椙と同じ数学科の教師で、昨年度までは三年の学年主任を、今年度からは一年の学年主任を務めていた。中山は部活動の顧問をしていないため、放課後はいつも職員室で他の職員と雑談を興じている。声が大きく、また遠くからでもわかりやすい濁声のため、嵯峨根から注意を受けている姿を、未散もよく目撃していた。

「海椙先生もC組の授業じゃありませんでした?」

「あ、はい。急いで準備しなきゃ」

 一年生の数学は海椙と中山の二人が担当している。

「急いだ方がいいですよ。僕みたいなおっさんより、海椙先生の方が生徒達にも人気ですからね」

 中山はそんな冗談を口にして笑うと、廊下を歩いていった。

 一般的な女子生徒の人気を得るのに、髭面の山男ではハンディキャップが大きいだろう。男子にしてみれば、勝負にもならない。

「ほら、あんたも急ぎなさい」

 鐘が鳴ってから職員室でごそごそしていれば、何を言われるかわかったものではない。

 小石のようなストレスも無視して溜め込んでいれば、いずれは敷石のようになり、その状態で転びでもすれば怪我に繋がる。小石は誰も拾ってはくれない、自分で処理するしかないのだ。

 二人は職員室で別れ、海椙は授業に、未散は中間考査の試験問題作成に取り掛かった。教科書に載っている例題や学校指定の問題集の傾向を加味しながら、平均点が七十後半になるような問題を考えていく。

 まったく無意味な作業である。こんなことをしても何にもならないというのに。

 とはいえ、持論を展開するほどの熱量を持ち合わせているわけでもない。穏便に、つつがない日々を過ごすために、自己を殺し、周りに合わせるしかないのだ。仕事など、自身の人生においては重要ではないのだから。ならば、社会との摩擦係数はなるべく低く抑えるべきだ。濡れた氷のように、見た目ではわからぬように、軋轢を回避すればいい。ここは職場だ。命を懸ける場所ではない。

「ちょっと、長野原先生」

 耳に残る甲高い声がした。

 心の中で舌を鳴らしても、それを表情に出さぬよう、努めて冷静に、未散は返事をした。

「はい。何でしょう」

 嵯峨根に呼ばれた未散は作業を中断し、彼女のデスクへ向かう。

 引っ詰めの髪型や釣り目の顔が攻撃的な猛禽類を連想させるが、性格は陰湿で粘着質。獲物を丸呑みにし、時間を掛けて消化する蛇のような女でもある。

「お昼休み、海椙先生と校庭で食事をしていたようだけど」

 座ったままの姿勢で、顔は上げずに目線だけをこちらに向けて彼女は睨む。

「はい」

 さすがに慣れているので、未散は余計なことを言わずに、短く頷いた。

「たしかに今日は天気もいいし、外で食事をしたいという気持ちもわからないわけじゃないけど、あなた達は教師でしょう。ここは高校でしょ、違う?」

「おっしゃるとおりです」

「たくさんの生徒がいるの。何か問題でも起きたら教師が対応しなくてはならないの。それがわからないわけじゃないでしょう?」

「はい」

 もっと手短に話せないのか、この女は。いっそのこと感情的に怒鳴られる方が気は楽だ。

「もしも今日、あなた達がのんびりと何も考えずに外でランチをしているときに、問題が起きていたらどうするつもりだったの?」

「すみませんでした。以後気をつけます」

「うん。いい? 長野原先生。私が今聞いているのはそんなことじゃないの。何か問題でも起きていたら、あなたはどうするつもりだったのか、それを聞いているの」

 お局の鑑だ。お局になるためだけに生まれてきたと言っても過言ではないくらい、適任である。作業をしながら説教をするという点もポイントが高い。

 とんでもない逸材の説教も、慣れてしまえば楽しくなってくる。虚勢ではなく、本当に楽しくなってくるから困るのだ。

 良くも悪くも未散は、嵯峨根みたいにここまで他人に興味を持つことが出来ない。いったい何が彼女をここまで怒らせるのだろうか、ある意味ではとても新鮮で、興味深かった。理不尽な怒りを周りにぶつける感情的な人間なら理解しやすいが、小さなことで癇癪を起こすような人間とも違う。これほどまでに職員をいびるには、相当のエネルギーが必要だ。その熱量はどこから来るのだろう。他人に興味関心がなければ無理な芸当である。

 職員室のあちらこちらから視線を感じる。仕事の邪魔をして申し訳ないという気持ちが少しだけ未散にはあった。とはいえ、もうすでに日常茶飯事と言える光景に仕事の手を止める職員も少ないだろう。それでも眺めているのであれば、それはもう趣味なのかもしれない。

 そのあとも十分ほどだろうか、適当に受け答えをしながら説教を聞き流し続けた。そのうち職員室に教頭が入ってきたところで、本日の説教は幕を閉じた。第二幕がないことを気休め程度に祈るばかりだ。ひと通り言い終えてすっきりしたのか、嵯峨根の肌に艶が戻った、ように見えたのは未散の勘違いだろうか。

 しおらしく頭を下げ、未散は自分の席へ戻った。

 説教を聞き流しながら考えていた問題をいくつか書き出し、生徒達の解答までの所要時間を計算に入れながら、取捨選択していく。意地の悪い問題を一つくらい組み込むのが健全ではあるが、残念ながらそんなことをしなくとも満点を取ってくる生徒はいない。穂波涼太は毎回惜しいところまでいくが、落ち着きがないのかケアレスミスが目立ち、彼もまだ満点を取ったことはなかった。

 文系と理系二種類、テストの草案を作成し、平野に見てもらうためのコピーを取ることにした。数学Ⅲは未散の担当だが、平野の数学Cとの兼ね合いも考え、互いに作成した問題を一度解くことにしている。これは二人が一年生の担当をしていたころからの決まり事みたいなものだった。

 授業中ということもあって職員室に人は少ない。コピーを取るために席を立ち、ついでにコーヒーを淹れることにした。コピー機は職員室の端の壁際に二台置かれており、その壁に仕切られた部屋が給湯室になっている。

 コピーを取り終えたあと、紙詰まりしてないかの確認。機械音痴の嵯峨根が触るとかなりの確率でエラーが起きる。未散が直前に使っていれば、間違いなく嵯峨根は責任を転嫁することだろう。過去にも数回、似た経験があったので気をつけていた。

「…………」

 何をやっているんだろう。

 ときどき現状を振り返ってはため息をつくばかりだ。小さなストレスの積み重ねは、知らず知らずのうちに自身を蝕み、何年にもわたって苦しめる毒に成りかねない。我慢できないほどなら、楽なのに。許容できる範囲だからこそ辛いとも言える。

 その後も淡々と仕事を続け、嵯峨根が先に帰るのを見届けてから、ようやく帰り支度を始めた。

 嵯峨根は自分よりも若い人間が先に帰るのを嫌がる。そのくせ自分はなかなか帰らないのだから質が悪い。帰り際に新聞を読み始めることだって少なくない。まったくもって可哀想な女である。

 腕時計を見ると、午後七時になろうとしていた。帰りに夕飯の買い物をする予定だったが、どうしよう。冷蔵庫に適当なものはあっただろうか。

「災難だったみたいだね、長野原先生」

 マグカップを片手に、中山が苦笑を作り言った。

「いえ……」未散は短く答え、少しだけ肩を竦める。

 学年主任ともなると、さすがに耳が早い。普段と変わらぬ日常だというのに、耳聡いものだ。

「中山先生はまだ帰られないのですか?」

 未散は彼の持っているマグカップを見て尋ねた。

「ああ、試験問題を作っちゃおうと思いましてね」

「そうですか」

「長野原先生も早く帰られた方がいいですよ」

 中山は周りを見渡す。多くの職員はすでに帰り、職員室も閑散としてきた。

「自転車でしょう?」

「ええ。お気遣いありがとうございます」

「最近は健康維持だ何だで多くの先生が車に乗らないみたいで。まあ、それ自体はいいことなんだけど、ほら、女性の一人歩きとかは危ないから」

 紳士的な言葉には好感が持てるが、夜道で中山のような山男に出逢ったら悲鳴を上げられるだろうな、とどうでもいいことを思ってしまう。

「自転車なんで大丈夫ですよ」

 未散も柔らかい表情で返し、頭を下げる。

「それではお先に失礼します」

「はい、お疲れ様。気をつけて」

 日が長くなってきているとはいえ、この時間帯では廊下は真っ暗だった。職員室から漏れる明かりで微かに足下が見える程度。廊下を進むにつれ、暗闇の濃度が強くなる。月明かりも差し込まないため、非常口誘導灯を頼りに歩かなければならない。

 こんなに暗いと、例の肖像画をこの廊下に飾って欲しいものだ。もちろん、廊下の端にある蛍光灯のスイッチを入れれば済む話ではある。

 一階の正面玄関は常夜灯が設置されている。手前の職員用ロッカーも電気がついているようで、そちらから漏れてくる明かりで階段を下りた。

 ロッカーから荷物を取り出し、バックパックを背負う。靴に履き替えて外に出た。丘の上に建てられた校舎は木々に囲われ、日没を迎えると闇に飲み込まれてしまう。穏やかな昼とはがらりとその印象を変え、不安や恐怖を煽っていた。

 たしかに、不気味な印象は拭えない。馬鹿馬鹿しいと切り捨てるのは簡単だが、変な噂が横行するのも頷ける。

 職員もほとんど残っていないようだ。校舎奥にある駐車スペースには四台しか駐まっていなかった。軽自動車が二台、コンパクトカーとステーションワゴンが一台ずつ。黒のステーションワゴンは中山の所有車だ。独身で、恋人がいる素振りも見せない彼にとっては持て余し気味の車だと思うのだが、単にデザインが好みなのかもしれない。

 校舎裏の駐輪スペースへ回り、暗がりの中、愛車のロックを外す。強靱なスチールリンクで、無理に外そうとすればアラームも鳴る防犯性の高い鍵だ。この鍵だけで、普通の自転車が買えるくらいの値段がした。

 鍵をしまいながら、ふと未散は音楽室を見上げた。

 音楽室は、未散が今出てきた南館校舎の四階の端になる。南館校舎の四階は芸術系の教室と理科系の教室に分かれており、校舎としてはそれぞれ独立しているため互いの教室へ行き来はできない。音楽室へ行くためには三階廊下の東階段を、理科室には三階廊下の西階段を使う必要がある。

 この学校では音楽は必修授業ではない。芸術という科目が一年生にだけあり、音楽、美術、書道の三つに分かれて授業を受けている。そのため音楽室の利用頻度は極めて低く、場所を知らない生徒の方が多い。未散も、赴任以来訪れたことはなかった。

「目が光る、か」

 小学生時代にそのような都市伝説が流行ったことはある。子供がおもしろがって流す噂話に過ぎなかったが、ここは高校だ。義務教育課程を修了してきた者達が集まる学校なのである。

 誰かが噂を流したとしても、普通はいつまでも残りはしない。

「…………」

 まあ、都市伝説で盛り上がれる分、この学校は平和なのだろう。特別な被害が出ていない以上、微笑ましい限りだ。

 スーパーが閉まらないうちに早く帰ろう。

 自転車に跨り、ゆっくりとペダルを踏み込んだ。

 校門をくぐり、坂を下りきった先の交差点で三木智文が信号待ちをしていた。

 少し悩み、未散は自転車を降りて声を掛けた。

「お疲れ様です、三木先生」

「ああ、お疲れ様です」携帯音楽プレイヤーをしまいながら振り返った三木の顔に笑みが浮かぶ。

「歩きですか?」

「ええ。駅まで」言いながら三木は頬を掻く仕草を見せた。「免許もないですし、自転車も壊れてしまって」

「そうですか」

 信号が青に変わり、三木と並んで歩き出す。帰宅時のラッシュと重なり、交通量も多い。車のヘッドライトが、光の波として押し寄せてくる。

 綺麗に舗装された歩道を歩きながら、三木が口を開いた。

「あの、つまらないことを聞いてもいいですか?」

「何ですか?」

「長野原先生は辛くないんですか? その、嵯峨根、先生のこと……」

「いえ、特には……」

 それは正直な気持ちだった。かなり鬱陶しいとは思うが、それでも辛いと思ったことはない。極端な話になるが、嵯峨根程度では、未散の人生に干渉することは出来ない。関係のないこと、なのだ。大量の水を張ったプールにタバスコを一滴落としたところで、何も変化が起きないように。

 その瞬間だけを見るなら、たしかに苛立つこともあるし、小さいけれどたしかなストレスとして積み重なることもある。しかしそれは別に重要なことではない。

 それよりも厄介なのは、海椙のように、変な興味を持たれて踏み込まれることだ。それに比べれば、嵯峨根など、まるで問題にならない。

「あんなお局はどこにでもいますし、気にしてたら、いろいろともったいないですよ」

「そういうものですか」

 なぜか三木が肩を落とした。

 何を期待していたのだろうか、この男は。

 街路樹が立ち並ぶ歩道は真っ直ぐ延びており、八百メートルほど先に無人駅がある。手前の住宅街へ入る脇道で、三木と別れることにした。

「それじゃ、私はここで」

「あ、お疲れ様です。帰り、気をつけてください」

「ありがとうございます。三木先生も」

 未散は自転車に乗り、住宅地の抜けた先にあるスーパーへ急いだ。

 すっかり遅くなってしまった。

 嵯峨根が絡むとろくなことにならない。未散自身は彼女のことなどどうも思っていないのだが、やたらと周りが気遣ってくれる。善意を無下にはできないので表面上だけでも感謝しておくべきなのだろうが、それはそれで疲れてしまう。それに、周りが気遣えば気遣うほど、お局様の機嫌は悪くなるのだから、悪循環もいいところだ。

 そっとしておいてくれる方が比較にならないくらい助かるのだが、なかなか上手くいかない。

 嵯峨根など、問題ではない。狼の皮を被った羊だ。虚勢を張る女性など、かわいいものではないか。

 未散はため息をついた。

 盛大に、余すことなく。

「面倒だなぁ、ほんと」

 これから買い物をして、家に帰り、夕飯を作って食べなければならない。洗濯も、風呂もある。早く床についたところで、明日も学校だ。お局や都市伝説が飛び交う、未曾有の職場である。

 自嘲気味に笑って誤魔化すことが出来れば楽ではあるが、期待は出来そうにない。

 平穏な日常が、これほど過度な願い事になるなどと、誰が想像できただろう。

 …………。

 もちろん、どこの誰でもいい。

 それこそ、未散には関係のない話なのだから。


 3


 目を覚ましたときにははっきりと、頭痛がしていた。右のこめかみ辺りに、割と鋭い痛みが走っている。

「…………」

 時間を確認するまでもなく、まだ起きる時間ではない。疲れている日ほど、眠りは浅く、目覚ましよりも先に起きてしまう。

 一応、電池が切れているという可能性も考慮して、未散はゆっくりと視線を枕上部へ動かした。

 そんなことをしなくとも、秒針の動く規則正しい音は聞こえている。電池切れの心配はなさそうではあるが、故障の可能性も捨てきれない。

 午前五時四十一分。たった今四十二分に針が動いた。

「ふざけんな……」

 布団を引き寄せ、頭痛を誤魔化すように顔を埋めた。

 もう一度微睡みに戻ろうにも中途半端な時間であるし、その上頭痛が邪魔をする。今日一日を乗り切れば週末だが、そんなものは気休めにしかならない。

 どうにも眠れそうになかったので、未散は熱いシャワーを浴びて目を覚ますことにした。

 シャワーを浴びている最中に、部屋から目覚ましの鳴る音が聞こえてきた。未散は舌を鳴らし、バスタオルを取る。止めるのを忘れていた。

 体の水滴をとりあえず拭き取り、枕元の目覚ましを止める。

「ご苦労様」

 何も悪くない忠実な機械に対して皮肉を口にし、体を拭きながらアスピリンを探した。頻繁ではないが、偏頭痛はときどきあったので常備している。ただ、生理痛は酷くならない方なので服用機会は少なく、使用期限が切れている可能性はあった。

 クローゼットの下のスペースに置いてある救急箱を取り出し、中を確認する。瓶詰めのものは期限が切れていたが、箱に入ったものはまだ大丈夫だった。十錠梱包された錠剤シートが一枚だけ入っている。そこから三錠取り出し、口へ入れた。キッチンでコップに水を注ぎ、それを流し込んだ。

「はぁ……。ったく」

 学校へ着くまでに治まってくれればいいが。

 服を着て学校へ行く準備をすることにした。

 偏頭痛以外は普段と変わらない日常だ。いつも通りに朝食と弁当を作り、忘れ物がないかを確認。朝食を食べ、簡単に身支度を済ませて、戸締まりを確認。小さく「行ってきます」と呟いて、玄関に立て掛けてある自転車に跨り通勤する。

 いつも通りだ。

 少なくとも、ここまでは。

 走り慣れた道を通り、急な上り坂を一気に駆け上がる。

「ふぅ」

 息を大きく一つ吐く。偏頭痛はするものの、体調自体はそれほど悪くない。

 校門をくぐろうとしたとき、未散の目の前にパールホワイトのコンパクトカーが停まった。

 運転手の女性と目が合う。四十代ぐらいの女性だろうか、びしっとメイクとスーツが決まっていた。

 未散と女性はほぼ同時に会釈していた。

 助手席側のドアが開き、学生服に身を包んだ少年が車から降りてくる。背の高いスポーツマンタイプの少年は、こちらを見るとさわやかに微笑んだ。

「先生、おはよう」

「おはよう」

 未散が受け持っているクラスの生徒、竹田佳人たけだよしひとに挨拶を返す。

 運転手である竹田の母親がもう一度こちらに軽く頭を下げ、車はゆっくりと走り去っていった。

「随分と早いじゃない」

「出勤途中に乗せてきてもらったから。おかげで寝不足だよ」そう言いながら竹田は大きく欠伸をした。

「そう。これぐらい早くとは言わないけど、いつも遅刻ぎりぎりに登校してくる癖は直しなさい」

「無理無理」竹田は笑いながら手を振る。「こんな坂、チャリで走ってこれるの先生だけだって」

「家を早く出ろって言ってるのよ」

 未散は肩を竦め、校門をくぐった。

「……あれ?」

 未散は思わず自身の腕時計を見た。そしてそのまま古びた校舎の壁に設置されている簡素なアナログ時計にも視線を走らせる。

 午前七時三十分。

 未散にとってはいつも通りの出勤時間である。

 それにしては校庭に人が多い。いつもの静かな朝と違い、妙にざわついていた。

 怪訝に思ってその様子を見ていると、人集りの中からベージュのベストに濃紺のスラックスという出で立ちの中年男性がこちらに気づき、慌てた様子で大げさに手を振る。

「あ、長野原先生! た、大変なんです!」

 こちらも大変だった。誰だこの男。だめだ、まるで名前が出てこない。社会科の教員だったような気もするが……。

「どうしたんですか?」

 未散は自転車を押しながら、そちらへ歩く。

 撫でつけた髪型の中年男性は、言葉ではなく、グラウンドを指差した。

「?」

 グラウンドは一段低い場所になっている上に、今は複数の生徒達が壁になっている。未散の位置からでは何なのか見えなかった。

 隣の男は血相を変えているが、朝練中に誰かが怪我でもしたのだろうか。しかしそのような焦燥感とは違った空気がある。生徒達がグラウンドへ携帯電話を向けていた。

「なになに、何なの?」

 未散の後ろから竹田がはしゃいだ声を上げる。

「お」

「あ」

 笑いたくなった。

 眼前に広がる景色は、まさしく異様だった。

 幾何学的な模様が、大きく広がっている。

 グラウンドいっぱいに。

「すげー!」

 隣で竹田が歓声を上げ、彼も他の生徒と同様に携帯電話を取り出した。

 その横では教員の中年男性が慌てている。対処の仕方がまるでわからない様子だった。

 同じ直径の円が十三。グラウンドの中心に一つの円があり、それを囲うように六つの円がある。中心の円が重心となるよう、正三角形と逆正三角形が引かれている。その三角形の頂点を結ぶようにして大きな正六角形があり、その各頂点を中心とした円が六つ配置されていた。

 神聖幾何学。フルーツ・オブ・ライフ。メタトロン立方体。

 それがグラウンドの上に、机と椅子で、表現されていた。

 周りの生徒がミステリーサークルだ、と興奮している。友人に電話で早く学校へ来るように話している者も多くいた。

 未散は笑いを堪えていた。

 アスピリン錠剤は残り七錠だけ。

 全然足りない、と思った。

「ど、どうしましょう、長野原先生」

「うーん」

 未散は曖昧に唸りながら、机と椅子で描かれた地上絵を見つめる。

 正確に、綺麗に並べられている、と評価していい。悪戯としての質は高いだろう。円には椅子を、直線には机を、細かく計算されて使い分けられている。

「教室の確認はされましたか?」未散は隣で慌てふためく中年教諭に尋ねた。

「い、いえ」男は首を振る。「南館を開けて、北館を開けようとしたときに、生徒の声が聞こえて……」

「気づかなかったのですか?」

 グラウンドの異変に対して、という意味だ。なるべく柔らかい口調を努めた。

「え、ええ……。あ、あの、いつもそのまま校舎へ行くものですから」叱られた子供のような目を向け、男は話した。

 グラウンドは校門から見て正面に当たるが、一段低くなっている上に、その手前には生徒達の駐輪場がある。注意をしていなければ気づかなくとも仕方がない。車や自転車などに乗っている場合は、常に前方へ注意を払っているので視界に入りやすいが、歩きならば視線の先は様々だ。どちらか言えば足下に注意を払うことが多いのではないだろうか。気づかず、そのまま校舎へ向かうのも理解できる。

 未散はもう一度、目の前の幾何学的な、ミステリーサークルに視線を走らせた。

「生徒達の、机と椅子ですね」

「そ、そのようですね……」

 右前頭部の痛みが強くなる。

 未散はため息をつき、隣の男に視線を戻した。

「機械警備は?」

「正常に、作動してたはずなんですが……」男は口籠もる。

「正常に……」

 未散は男の言葉を繰り返しながら、目の前の異常を見つめる。睨みつける、が正しいかもしれない。

 だとしたらあれらの机と椅子はどこから来たのか。

 機械警備が正常に作動していたのならば、侵入者などを検知したはずである。北館校舎に特別貴重なものは置いていないが、それでも廊下の天井を中心に赤外線センサーが設置されている。

「とりあえず、北館の教室を調べましょう」

「そ、そうですね」

 そこで男は何かを思い出したかのように、慌てて携帯電話を取り出した。

「あ、あの、け、警察とかには……?」

「確認を先にしましょう。何か被害があれば、それも視野に」

 まったく、とんでもない朝になったものだ。

 騒ぎ立てる生徒達に、頼りにならない中年教諭。そのうち更年期障害を患ったお局様も出勤してくることだろう。

 未散は上着のポケットに手を入れたまま、アスピリン錠剤を一錠だけ取り出し、口へ運んだ。

 休めばよかった。

 心の底からそう思った。

「教室は私が見てきますので、生徒達はお願いします」

 未散はそうお願いすると、一旦自転車を置きに行ってから校舎へ向かうことにした。職員用玄関で履き慣れたスリッパに履き替え、荷物をロッカーに預ける。小さく細かな演算を繰り返しながら、廊下に出て目の前の階段を上った。

 渡り廊下で北館校舎へ。手前の教室から見ていくことにした。一階と二階は三年生のフロアとなっている。

 一階と二階にはそれぞれ昇降口があり、そのため他のフロアと比べて教室の数が少ない。普段は使われていない空き教室も存在する。

 一番手前の部屋が三年B組の教室だった。

「ったく」

 廊下からでも引き戸のガラスを通して中の異常を窺い知ることが出来る。

 机と椅子は一つもなかった。

 使われていない古い空き教室の印象を受けるが、そんなことはない。未散自身、昨日もこの教室で授業をしている。眠たそうにしている生徒を座らせている椅子も、申し訳程度に教科書を置かせている机もたしかに存在していた。

 引き戸を確認してみるが、鍵が掛かっている。窓もすべて施錠されていた。

 教室には教卓と後ろのロッカーに置かれている生徒達の私物が残されている。ざっと見た限り、机と椅子だけ消えているようだ。

 隣のA組の教室も同様に施錠された状態で、机と椅子がすべて運び出されていた。

「せんぱーい」

 間延びした声が廊下に響き渡る。

 未散はため息と渋面を隠さずに振り返った。

「何?」

「わぁ、今日はまた一段と不機嫌そうですね」

 海椙葵はにこやかに棘のある言葉を吐く。

 彼女は白のブラウスに黒の細身のチノパンを穿いていた。おしゃれなのだろう、細身のネクタイもしている。服装がある程度自由な職場では、自ら首を絞めたがる者は珍しい。しかし男受けしそうな、おしゃれな格好ではある。

 グレーのパーカーに黒のパンツの未散と比べるまでもなく、身なりに気を遣っていることがわかる。

「ミステリーサークルですよ、ミステリーサークル!」

 嬉しそうに話す彼女に辟易しながら、未散は他のフロアの確認に移動した。

「いやー、見事ですね。学園七不思議の完成も目前ですよ」

「昨日のお昼までって言ったでしょう、その話は」

「目の前で起きてるのに、それはないですよ」

 海椙はそう言って不満そうに口を尖らせたが、すぐに表情を柔らかくする。目を細め、口の端を上げながら、未散を見つめる。

「先輩こそ、実際のところはどうなんですか?」

「何が?」階段を上りながら、口だけで聞き返す。

「目の前で、こんなインパクトのあることが起きたんですよ? 他の都市伝説も信じざるを得なくなったんじゃないですか?」

「馬鹿馬鹿しい」

 未散は頭に手を当ててため息をつく。

 三階に上がり、二年生の教室を順に見ていくが、こちらも同様に施錠された状態で椅子と机だけが綺麗に運び出されていた。

「宇宙人の仕業ですよ、これは」したり顔で頷く海椙。

「何が宇宙人だ。もっと他にやることがあるだろう」

 こんな田舎の高校の教室から机と椅子を引っ張り出してグラウンドに並べることに、どれほどのメッセージ性があるというのか。コミュニケーション能力が欠落している。そんな奴らがよくも人類に接触を試みようとしたものだ。

 くだらない考えに苦笑が漏れる。

 次に四階を見ていくが、こちらも同じ状況だった。教室はすべて施錠されており、机と椅子だけがなかった。二人は一階まで降りることにする。

「超能力者襲来ですよ」

「あんた、こういうの好きなの?」

 呆れるように海椙を見つめる。

「嫌いじゃありません」海椙はにっこりと笑顔を見せた。

「まったく」

 北館校舎の各教室の前には、古めかしい手洗い場がある。蛇口は三つ。それぞれに懐かしさを覚えるレモン型の固形石けんが網に入れられてぶら下がっている。

 手洗い場の脇には、プラスチック製の大きなごみ箱が置かれており、そのボディには管理している教室が太いマジックで書かれていた。

「全校生徒の人数は?」

 未散はごみ箱の中を覗き込みながら、後輩に尋ねた。

「えーっと、各学年五クラス、各クラス四十人弱。六百人くらいですかね」

「空き教室の分も含めると、七百以上の机と椅子を運び出したわけか」

 大した熱意だ。労力も馬鹿にならない。

 丸められたガムテープを一つ拾い上げながら、未散はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「宇宙人や超能力者に対しても建造物侵入の罪って問えるんですかね?」

「さあね」

 丸められたガムテープの大きさはテニスボールより少し小さいくらい。固く丸められているわけではないので、長さにすると一メートル半といったところか。それが十個以上捨てられている。

「さっきから何してるんですか?」

 海椙は怪訝な顔つきで、未散を見ていた。

「別に」ごみをごみ箱に戻し、目の前の水道で軽く指先を洗う。「宇宙人に侵略されたら、午後は休みにならないのかな」

「なるといいですねー」

 くだらない軽口を叩き、先ほどよりも騒がしくなっている校庭へと二人は戻った。


 4


 校庭には、先ほどとは比べようがないほどの人が集まってきていた。大半は生徒達だが、そうではない野次馬の姿もちらほらと見える。中にはビデオカメラを回している者までいた。

 まったく。

 騒ぎ立てる生徒達を体育館へ誘導し、関係者でない者を追い払う。それが未散達若手に任された仕事だった。他の職員達は緊急職員会議を開いている。大層な職場である。

「ほら、さっさと体育館へ行きなさい」

 未散がそう注意したところで、目の前の地上絵の魅力には勝てないのだろう。誰も彼もが写真を撮らなければ気が済まないといった様子だ。

 その様子を見ていて、ほとんどの人間がこういう都市伝説が好きなんだな、と驚きも呆れも感心すらも通り越して、ただただそんな感想を抱いた。

 今日が金曜日ということも、授業が潰れるかもしれないという期待も、感情を後押ししているのだろう。生徒達がはしゃぐのも仕方がない。

 未散はため息をつき、錠剤を口にした。残り五錠。

 生徒達よりも目を輝かせている職員が何人かいる。海椙葵と、三木智文だ。彼らは生徒達と一緒に目の前で起きた都市伝説を楽しんでいた。

 未散の記憶違いでなければ、グラウンドにミステリーサークルが出現するという伝説は聞いたことがない。そもそも五つほどの未完成なものだったはずだ。クォリティが低いと思いきや、こんな大胆なことをしてくるとは。

「いやー、しかしすごいことになりましたねー」

 ひと通りの整理が終わり、海椙がこちらに近づいてくる。彼女はグラウンドを覗き込むようにしながら、笑顔を見せた。

「のんきね、あんたは」

「だって楽しいじゃないですか」

「どこが」

「心躍りませんか? たった一晩のうちに、机と椅子が運び出されたんですよ。セキュリティは正常に働いていたというのに」

 そう言う海椙は本当に楽しそうだった。悪戯な、あるいは挑発的な笑みを浮かべながら、悠然と語る。

「おまけに幾何学になるよう丁寧に並べられて。これが興奮しないでいられますか、否、いられるわけがない」

 どこか歌劇ぶった言い回しである。たしかに、変な熱に冒されてはいそうだった。

「これからどうなるんでしょうね?」

 関係者以外立ち入り出来ないよう校門を閉めて、三木智文もこちらに歩いてくる。

「会議次第ですね」

 未散は職員室の方を見ながら答えた。

「どうして私達には雑用を押しつけて、会議には参加させてくれないんですかね?」海椙は不満そうに言う。

「雑用の方がいいじゃない」

 会議など、古ぼけた人間が時折人間関係を忘れないためにするものだ。本来は必要なものではない。小さな書面に起こせばそれで事足りる。

 それに会議に出席したところで、若い人間にはまともな発言権はない。力のない者が参加しても、時間の無駄である。雑用の方が幾分も価値があるというもの。

「大体、何を話し合うんですか。今後の対応って? マスコミ呼んでお祭り騒ぎするとか、ですか?」

「さあ」

 未散は短く返事をして、しかし笑ってしまう。何人かはいるだろうな、と思った。

「まずは被害状況の確認でしょうね」未散に代わって三木が真面目に答える。「盗まれたものはないか確かめる必要がありますし。あとはセキュリティがちゃんと作動するのかも調べないと」

「授業は潰れますかねー」

 それが問題だ。

 授業が一回潰れるなど、そうそう起きることのないイレギュラーである。さすがの未散もそれは予測していなかった。

 もうすでに中間考査用の試験問題を作ってしまっている。今から作り直すのも、授業内容の調整をするのも面倒だ。

「警察に被害届は出すんでしょうか?」

 三木が未散と海椙の顔を交互に見る。

 未散はすぐには答えずに、隣の海椙に視線を向けた。

「普通に考えると出せないですよね?」海椙は未散に同意を求めるようにして小首を傾けて言う。「相手は宇宙人ですよ?」

「それのどこが普通なのよ」

「だって、それしか考えられないじゃないですか」

 海椙は頬を膨らませる。幼い仕草だったが、妙に似合っていた。

「戸締まりもちゃんとされていて、防犯システムだって働いていたんですよ? そんな状況で学校に忍び込むだけならまだしも、教室にあるすべての机と椅子を運び出して、かつ、こんな神経質な幾何学模様に並べるなんて、不可能ですよ。たったの一晩でこれだけのことをするなんて、常人には絶対無理ですよ」

 常人では無理、か。

 それはそうだろうな、と未散も思う。

 まともな神経でこんなことをやってのける方が遙かに怖い。

「長野原先生はどう思いますか?」

 三木が未散に向き直る。

「え、何がですか?」

「このような非科学的なことは信じないのでは?」

「非科学的なことを信じないのはそうですが、今回のこれは非科学的なことではありません」

 未散はきっぱりと言う。

「ただの悪戯ですよ」

 腕時計で時間を確認する。午前九時二十五分。

 職員室の連中が今日の対応を決めるのに、早くても一時間は掛かるだろう。それから机と椅子を片付けるとしても、掃除のことも考えて、さらに一時間は必要だ。まともな授業ができるのは早くても四時間目、下手すれば午後からということもあるし、最悪は一日休校も考えられる。

 職員の中にまともな人間がいてくれれば助かるが、望みは薄いだろう。イギリスの家庭料理並みに期待はできないし、してもいけない。

 今日も清々しいほどの天気で、春らしい陽気となっている。陽の暖かさと、草花の柔らかい匂い。本来なら穏やかな時間を過ごすことができるのだが、グラウンドに突如現れた異変を聞きつけた野次馬で校門の辺りが今もなお騒がしい。身を乗り出してまで中を確認しようとする者は今のところ現れていないが、カメラのレンズを向ける者は後を絶たないでいる。

 生徒達を押し込めた体育館も、部活をしているわけでもないのに騒がしかった。

「やっぱりこれ、片付けちゃうんですかね?」

 寂しげな表情を浮かべながら海椙が聞いてくる。

「このまま保存しろって?」

「そこまでは言いませんけど、このミステリーサークルを眺めながらお昼ご飯食べたいじゃないですか」

 正気か、この娘。

 未散は呆れていたが、

「ああ、いいですね」

 隣の三木は同調を示した。

 偏頭痛とは別の痛みを覚える未散だった。

「そういえば、三木先生は吹奏楽部の顧問でしたね」

 未散は多少強引にでも話題を変えることにした。

「え、ええ。そうですけど、それが何か?」

「最初から、つまり赴任されてからという意味ですけど、吹奏楽部の顧問に?」

「ええ。前任の先生が別の学校へ移られたので、赴任した最初の年から僕が。といっても、おたまじゃくしも満足に読めないんですけどね」恥ずかしそうに、口を曲げながら三木は話した。

「三木先生が顧問になったときは、あの都市伝説はもうあったんですか?」

 変な熱に冒された海椙が嬉しそうに会話に入ってくる。

 未散は心の中でため息をつき、諦めることにした。こんなことが起こったのだ。今日一日は、この話題から逃げられないだろう。残念ながら、仕方がない。

「うーん、どうだったかな」

 三木は顎に手をやりながら考え込む。

 彼の視線の先が校舎の上へと伸びると、それに釣られて海椙も校舎を見上げた。未散も視線の先を追うと、そこには音楽室があった。

「僕が顧問になったときはまだ、そういった噂は聞かなかったと思うけどなぁ」三木はそこで言葉を切り、未散の方に視線を戻した。「長野原先生はどうですか?」

 未散は三木と同じ年にこの学校へ赴任してきている。三木の言うように、赴任した直後は噂らしい噂を聞かなかったように思う。

 そもそも学校で根強く残る噂など、そうそうは誕生したりしない。大多数の生徒は三年で卒業していくため、下の学年にまで語り継がれるような、強く印象に残るようなものでない限りは容易く風化するのが普通だろう。

「私も、少なくとも聞いてはいません」

「じゃあ昔からあったわけじゃないんですね」

「話自体はべたな、昔どこかで聞いたようなものばかりですけどね」三木は微笑んだ。「音楽室の肖像画の目が光る、なんてど真ん中というか」

 本来ならば小学生から聞くような、他愛もない噂話に過ぎない。その場だけで盛り上がるような、一過性のもの。

「高校だからですよ」今までとは雰囲気を変え、割と真面目なトーンで海椙が言った。「高校で流行っていることに、意味があるんです」

「…………」

 未散は黙っていた。

 海椙の言わんとしていることがわかっていることもあるが、それ以上に、彼女がどこまでを理解し、どこまでを把握しているかに、少なからず興味が湧いてきていた。

「普通は、都市伝説や七不思議など誰も相手にしません。特別他人に関心を持たない、冷ややかな印象を相手に与える、そんなどこかの先輩でなくても、です」

 海椙はこちらを見てわずかに笑みを見せる。

 それに未散は取り合わず、奥の花壇へ視線を逸らした。赤、青、黄色と色とりどりの花が植えられている。脇には袋詰めにされた肥料や土がそのまま地面に置かれていた。

「しかしこの学校では、ある程度の思考力を有した高校生達が、その噂に関心を持っている。普通なら、ちょっと考えられません。でもだからこそ、普通ではない何かがあるということが窺えます」最後は語調を強め、海椙は話した。

「その何かって……、目撃者?」

 三木がもう一度音楽室を見上げる。

 海椙は彼の視線が戻るのを待ってから頷いた。

「そうです。複数の目撃証言が、都市伝説に力を与えたんです。具体的には、目が光る肖像画と足を攣る生徒が続出したプール」

「ああ、なるほど」

「この学校には、信じざるを得ない力が働いているんですよ」

 三木は頷いたが、未散は鼻で笑うだけだった。

「何かおかしいですか?」海椙が首を傾げて未散を見る。

「別に」

 嫌な女だ。

 本当に、やりにくい。

 会話に参加させる方法の一つとして、相手に隙を与える、というものがある。例えばわざと間違ったことを話し、相手に訂正させる、といった具合だ。

 海椙は最初から都市伝説など信じてはいないのだろう。当然と言えばそれまでだが。ある程度信じている風を装い、事態の成り行きを楽しんでいるように思えた。あるいは、こうなることも予見していたのかもしれない。

 ……それは少し買い被り過ぎだろうか。

 未散は背後のグラウンドに再び視線を向ける。机と椅子がグラウンド一面、幾何学的に並べられている。

 グラウンドのミステリーサークルは、聞いたことのない話だった。最初から学園七不思議の中に含まれていてもおかしくない、むしろ相応しい規模の話であるにもかかわらず。そういう噂もなく、突如として現れた。

 学園七不思議にこだわるつもりは未散には毛頭ないが、それでも他の噂を考えれば、もう少し何かあっても良さそうなものだ。月に一度、ミステリーサークルを出現させてやればいい。今日の反応を見るに、ここの学生は暖かく受け入れて楽しんでくれるだろう。

 未散は腕時計で時間を確認し、次に校門の方へ視線を走らせた。学校敷地内に侵入をしてまで見ようとする者はさすがにいないようだ。そろそろ職員室に戻ってもいい頃合いだろう。体育館の生徒達も痺れを切らし始めるかもしれない。

 合理的な対応が決まっていればいいのだが。

「吹奏楽部は何人所属しているのですか?」未散は三木に尋ねた。

「十人にも満たないですね。もう少し新入生が入ってきてくれるとよかったんですけど」

 そうは言っても、三木はそれほど残念そうでもなかった。自分自身が指導するわけではないので、思い入れも強くはならないように思える。もっとも、三木は未散と違って『良い先生』なので、本当に残念に思っているかもしれない。

「二、三年生が中心なんですか?」海椙も質問をする。

「部員から目撃証言を聞いたんじゃなかったの?」

 昨日の昼、目が光る肖像画の目撃証言を部の関係者から聞いたと未散には話していた。

「吹奏楽部の子達に話は聞きましたけど、別に、何年生の何組の誰とかまでは聞きませんよ。興味ないですし」

 海椙は未散にさらっと言うと、両手を差し出し、三木を促した。

「人数的には二年生が中心です。三年生は二人しかいません」そこで区切り、三木は未散に顔を向ける。「A組の石川いしかわめぐみと師崎詩乃もろざきしのです。二人が部を引っ張ってますね」

 二人とも未散の受け持ちの生徒だったが、生徒一人一人がどこの部活に所属しているかまでは正確に把握していない。籍を置いているだけの帰宅部員も多いため、余程の活躍をしていない限りは、情報としての価値がなかった。

「二人は真面目に練習していますか?」担任としてのせめてもの社交辞令だ。

「ええ、とっても」三木はさわやかな笑顔を向ける。「朝練などもいつも一番に来て練習するぐらいですからね。二人とも熱心な子達ですよ」

「そうですか」

 問題を起こしてなければそれでいい。それ以上の興味はなかった。

「それにしても、教師って大変ですねー」

 一ヶ月ほどのキャリアしかない海椙が組んだ両手を伸ばしながら言う。

「もっと楽だと思ってた?」

「正直」海椙は隠さずに首を縦に何度か振った。

「最近は特にいろいろと厳しいですからね」三木もため息と苦笑をセットにして、海椙と未散を見ていた。「気をつけないといけないのは、生徒達の個人情報ですよ。連絡網を紛失したりしたら、それはもう、大変な騒ぎになりますからね」

「情報化社会の皺寄せですか……」海椙がはっきりとしたため息をついた。

 生徒の個人情報が高く取引されているとテレビか何かで見聞きした記憶があるが、世の中どんなものに価値がつくのかわからないものである。

「そろそろ戻りましょうか」三木が二人の顔を見ながら提案した。

「そうですね、戻りましょう」海椙は頷いて、同意を示した。

 二人は職員用玄関に向かって歩き出したが、未散だけは二人に背を向けて反対方向へ。念のために、生徒達が利用している駐輪場を見ておくことにした。

 自転車通学をしている学生用に建てられた駐輪場は、各学年百台近く収容することができる。一年生は校門に近いところから、という風に駐める場所はある程度決められていた。

 見るべき場所は大体わかっている。校舎に一番近い、三年生が普段駐めているスペースだ。その中でも一番手前。

 竹田佳人の自転車を確認すると、未散はため息をついた。

「さて、どうしたものか……」

 大きな騒ぎにならなければいいが。

 未散には、今回の件についてどうこうしようという考えは皆無だった。もともと不必要な他人との接触を、心の底から嫌う性分である。自身の予定を大きく狂わされたりしない限りは、干渉をするつもりはなかった。

 二人に遅れて校舎へ向かいながら、上着のポケットから錠剤シートを取り出し、一粒口へ運ぶ。同僚達の能力を考えると、今日の授業は厳しいかもしれない。予定は狂うが、修正が効かないほどでもないだろう。未散自身の評価としては、そんなところだった。

 とはいえ、馬鹿馬鹿しい。

 有象無象が馬鹿騒ぎするというのも、見聞きに堪えないものだ。

「休めばよかった」

 自身の運の悪さを嘆く辺り、とても自分らしい。

 こんな状況を楽しめる人間が、もしかしたら羨ましいのかもしれない。少なくとも、そちらの方が人生としては楽しいだろう。

 未散はスリッパに履き替え、三木と海椙に少し遅れて職員室に戻った。職員の何人かいなかったが、恐らく体育館で生徒達を見ているのだろう。

 まだ職員会議は行なわれていた。というより、肝心なことは何も決まっていなかったという方が正しい。

 職員がそれぞれ自分達の席に着きながら、身勝手な意見を出しては反論される、といったことがずっと続いているようだった。

「警察を呼ぶかどうかで意見が割れているようですね」

 未散が自分の席に着くと、隣に座る三木が顔を近づけて耳元で囁いた。

「被害状況の確認が先では?」

 未散は顔を歪めた。

「それよりも先に通報するべきだという声と、確認してからだという声、通報など大げさすぎるという声が挙がっているようです」

「とりあえず生徒達をどうするかでしょう。体育館で待機させておくのも、そろそろ限界かと」

「ですよね」

 三木が肩を竦め、未散はため息をついた。

 この学校の首脳陣はどうにも決断力に乏しい者ばかりで、下の人間の意見に左右されやすい。優柔不断であり、いつもどこかに責任の逃げ口を用意する傾向がある。だからこそ、嵯峨根のような強力なお局を育むのかもしれない。

 そんなお局様も、統率力に優れているわけではないので、このような緊急事態では無骨に塗り固められたメッキがおもしろいくらいに剥がれ落ちている。隅の方で体を小さくし、先ほどから一言も意見を発しようとしない。

 誰も彼もが、もしものときの責任を被りたくないのだ。互いに醜い牽制をし合っては、肝心の所で身を隠してしまう。時間ばかりが無駄に過ぎていく。

 机の上の電波時計が午前十時を回ったとき、白衣を着た小柄な男が立ち上がった。化学科の教師、永田行雄。

 膠着状態が続いている職員室の中で、一人席を立った彼に、全員の視線が注がれる。彼は右手にコーヒーカップを持っていた。

「あ、あの永田先生、どちらに?」

 そのまま席を離れようとする永田に向かって、近くにいた男性職員が声を掛けた。

「コーヒーのおかわりか、仕事に戻ろうかと思っていますが。何か?」

 冴えない顔だけを向け、いつもと変わらない調子で、永田は淡泊に答えた。

「永田先生、今がどういう状況か、ご理解いただけてますか?」

 遠くの方から怒気の籠もった言葉が飛んでくる。

 しかしそれにも永田は調子を崩さず、首を傾け、わずかに口の端を上げた。

「恐ろしく無駄な時間だと、認識しています」

 これには未散も吹き出しそうになった。

 まったく、言いたいことを言ってくれる。

 永田のことを昼行灯だと揶揄する者も多く、職員の間ではあまり評判の良い方ではなかったが、未散の彼に対する評価は決して低くはなかった。他の職員に比べてみても、むしろ高いと言える。

 未散と同じように、不必要な人間関係を嫌っている、そんな印象があった。だが、未散が軋轢を生じさせないために潤滑を選ぶのに対し、永田は頑なに強固で真っ向から拒絶をするような、性質の違いを見せることがある。

 免震か、耐震か。揺れを逃がす柔軟な生き方か、揺れに耐える強硬な生き方か。

 なかなかユニークな男だ。

 永田が一瞬だけこちらを見た、ような気がした。

「警察を呼ぶなどという恥ずかしい行為を控えてもらえるのであれば、僕は何も申し上げることはありません」

 永田はきっぱりと言う。

 無愛想で辛辣な物言いに、大勢の職員は呆気に取られてしまった。

 永田は職員室全体をゆっくりと見渡す。もう行ってもいいか、と彼の顔は尋ねていた。

「ちょっと永田先生!」年配の男性職員が噛みつく。「いくら何でも、勝手過ぎやしませんか?」

「そうでしょうか?」永田は無表情のまま、首を傾げた。

 興味深い対応だ。

 未散は心の中で微笑む。

 永田とは担任と副担任の間柄だ。知らない仲でもない。このまま下手に荒れても困るので、未散は助け船を出すことにした。

「まあまあ、落ち着きましょう」作った笑顔に作った口調で、未散は間に入る。「警察への通報はさすがに早計かと思います」

「長野原先生……」

 年配の男性職員は訝しがるように目を細めた。ただでさえ皺の多い顔が、まるで子供の描いた迷路のように入り組む。

「多少派手ではありますが、悪戯の範疇です。通報する必要はないでしょう」

「もし何か盗まれていたらどうするの?」

 沈黙を続けていた嵯峨根がここぞとばかりに鋭い口調で投げかけてきた。

「先日、調子の悪くなったコーヒーメーカーが給湯室から姿を消しました。当たり前ですけど、機械が勝手に歩くわけではありません。何者かがどこかへ運んだ、それは明らかです」

「長野原先生、私の質問に答えてないわよ」

「嵯峨根先生、あなたは警察へ通報をしましたか?」

「え?」

 嵯峨根の目が大きく開き、表情を強張らせたまま硬直した。それ以上の反応が見られないので、未散は他の職員の顔を順に見ていく。

「古くなり、調子が悪くなっていたとは言え、コーヒーメーカーが一台なくなるというのは、今回の件と同じくらい無視できないものです。にもかかわらず、誰も通報していない」

「…………」

「もちろん、買い換えの話が持ち上がっていた背景もあります。古くなった家電の処分を考えるならば、拗ねて家出してくれた方が都合はいいでしょう。それでも、誰かが持ち去ったのは明らかであり、事件性という言葉を使うのであれば、今回の件よりも遙かに高いと言えます」

 通報をするというのならば、コーヒーメーカーを紛失した際にもするべきだった。今回の件でも建造物侵入の罪は問えるだろうが、茶目っ気の強い印象は拭えきれず、特別な被害が出ていない以上は悪戯として処理されるのが相場だろう。コーヒーメーカーの場合は盗難であるし、被害額としてはそちらの方が大きい。

「じゃあ、どうするんです?」

 一年生担当の島から、海椙のにこやかな笑顔が見えた。

「何か盗まれているかどうか、それを確認すべきでしょう。通報は、それからでも遅くはありません」

 もっとも、何か盗まれているとは到底思えないが。

「あとは授業をどうするかですが、特別な被害を確認できない以上は、グラウンドの机と椅子を教室へ戻し、すぐにでも再開するべきだと思います」

「で、でも、もしものときに、そういうのって、下手に触らない方がいいんじゃ……」男性とは思えないほどの気弱な発言が二年生担当の教諭から漏れた。

「もともと学校の備品ですし、多くの人間が触れているので指紋なども意味をなさないでしょう」

 永田が未散をじっと見つめていた。怪訝に目を細めている。

 なぜ。

 彼の小さな目はそう言っているようだった。

「長野原先生の言う通りだ」中山が立ち上がって、その濁声を響かせた。「緊急性を要するわけでもないし、とりあえず通報は置いておくことにしましょう。必要なら、そのときにすればいい。今はとりあえず、被害がないかの確認と、授業再開を目的に動きましょう」

 学年主任の一人である中山がそう働きかけると、ようやく職員達もまとまりを見せ始めた。船頭がしっかりしていれば、特別出来が悪くない限り、淀みなくそれぞれの仕事に向かって動き出すことができる。

 若手は生徒達とともにミステリーサークルの撤去を、その他の職員達は各々が管理責任者となっている教室の被害確認を命じられた。

 戸口のところに立っていた永田と目が合う。永田は未散に軽く頭を下げると、職員室を出て行った。

「この程度のことを決めるのにやけに時間が掛かりましたね」

 声に振り返ると、未散の後ろに海椙が立っていた。

「人が多く集まれば、こんなものよ」言いながら、未散は肩を竦める。

「偉い人達だけで決めればいいのに」

「責任を共有したいのよ。保身に長けた人間が上に立つような場所だからこそ」

 海椙は露骨に嫌な顔を見せる。彼女ほどではないにしろ、未散も心の中では似たような表情をしていた。

 未散と海椙は並んで歩き、体育館へと向かう。集会時などの定位置は、未散の担当である三年生は舞台に向かって右手、海椙が担当している一年生は左手となっている。二人は入口で別れ、それぞれ受け持ちのクラスへ向かった。

 生徒達は学籍番号順に並んでいたが、整列とはほど遠い状況だった。それは学年が上がるにつれて顕著に表れている。

 未散は自分の受け持つ生徒達に、このあとの予定について簡単な説明をした。

「えー?」

 体育館の一番右端で待機していた三年A組の生徒達が不満の声を上げる。ミステリーサークルをかたどっている机と椅子の撤去、そしてそのあとの授業再開に対する抗議の声だった。

「何がえー、だ。もうすでに授業が二コマも潰れているのよ。今から急いでも四時間目に間に合うかどうか」

「じゃあもう今日は休みでいいじゃんか」

 生徒の一人が項垂れながらそう言った。周りの人間もそれに合わせて不平不満を口にする。

「うるさいな。文句があるなら早退しろ、早退」

「それが教師の言葉かよ」

「敬語を使え、馬鹿やろう」未散は腕時計で時刻を確認し、生徒達を急かすように手を叩いた。「ほら、さっさと行く。のんびりやってると授業に間に合わないでしょ。わかってる? 四時間目は数学よ。少しでも遅れたら欠席扱いにするからね」

 鬼だ、悪魔だと言葉が寄せられる。

 未散は手前にいた生徒数人の頭を叩いた。

 体罰だ、暴力だと批難が挙がる。

「推薦が欲しかったら言うことを聞きなさい」

 進路を人質に取ることで、ようやく不満の声が聞こえなくなった。渋々といった様子で体育館を出ていく。

 体育館を右手に出た通路に、木製の下駄箱がずらっと並んでいる。普段はそこで上履きを脱ぐのだが、今日はほぼ全員が校舎を経由せず直接来ているため、脱がれた革靴やキャンバスシューズが置かれていた。生徒達はそこでそれぞれの靴を履き、グラウンドへ向かっていく。

「あーあ、普通に授業再開すんのかよ」穂波涼太が面倒そうに呟いた。

「まだ言ってるのか、あんたは」

「宇宙人に侵略されても、半日と持たない、日常の強さがすげーなぁって」

 穂波は舞台役者みたいに大げさなため息をついた。

「大したことないでしょ、宇宙人も」

「でもロマンがあるじゃん。全校生徒を喜ばすことなんて、なかなかできることじゃないし」

「まあね」

 未散もそれには同意した。少なくとも、教師にはできないことだ。

「ね、先生」

「ん?」

 白を基調としたスニーカーを履きながら、穂波がこちらを見つめる。微笑んでいるが、真面目な雰囲気を漂わせていた。

「この謎、解ける?」

 楽しそうな眼を向ける。

 海椙が時折見せるそれに近いものだった。

 未散は鼻を鳴らし、笑ってやる。

「謎というのはね、もっと高尚な言葉よ。こんな程度の低い悪戯に使われる言葉じゃない」

「……なら、すべてわかってるの?」

「すべて?」

「誰がどうやったのか」

「誰が、どのような方法で、どんな理由で、こんなことをしたのか。見当はついている」

「マジで?」

 目を丸くする穂波に、未散は微笑む。そして繰り返し言う。

「ただの悪戯よ。特別騒ぎ立てるほどのことじゃない」


 5


 机と椅子の撤去には、未散の予想よりも約二倍の時間が掛かった。

 その主な原因として、生徒の多くが教科書を持ち帰らず、机の中に置きっぱなしにしていたことが挙げられる。どれが自分の机か探し回るのに余計な時間を食ったのだ。予習も復習もしないのが、この高校に通う大半の生徒に見られる特徴のようである。辟易するしかなかった。

 昇降口で机と椅子の脚を濡らした雑巾で綺麗に拭き取ってから、自分達の教室へ運んでいく。三年生はまだいいが、一年生は四階まで戻さなくてはならないので大変だ。グラウンドから最も離れた位置に教室があるので、不満が爆発しそうではある。

 半日ほど外に放置されていたため、見えないところも砂で汚れているようだった。教室に運び終えても、簡単な掃除をしてからでないと授業にならないだろう。

 いい迷惑だな。

 教師である未散にはあまり関係がないので、そんな感想も他人事の域は出なかった。

 それにしても、思った以上に時間が掛かっている。校舎への出入口が限られているため、ところどころで渋滞が起きているようだ。未散のクラスだけでこの進み具合だと、全体では昼をまたいでも終わらないだろう。やはり今日の授業は厳しいかもしれない。

「まったく」

 大盛り上がりしていた生徒達もさすがに、無駄な労力を強いられる現状には文句が尽きないようだった。重い机と椅子を運びながら、誰も彼もが口を尖らせている。

 教室によって異なるが、北館校舎とグラウンドは三百メートルほど離れている。普通に歩くだけなら何てことはないが、机と椅子を運ぶとなるとなかなか大変そうだ。体育祭の際に椅子を運ぶことはあるが、机をグラウンドから校舎まで運ぶ経験を持つ生徒はまずいないだろう。普段運動しない者には、それだけで乳酸が溜まりかねない。

 未散は見ているだけで手伝ったりはしない。

 そういえば、出席を取っていないな。

 ふとそのことを思い出した。もしも欠席者がいれば、それを運ぶのは担任である未散の仕事になる。

 グラウンドを見渡すも、今は三年生が机と椅子を運び出している。未散のクラスの生徒だけではない上に、もう教室へ運び終えた者もいるだろう。ここで確認することはできなかった。

 未散は体育館での映像を思い出す。興味関心とは遠いところからの観察だったため時間は掛かるが、正確に思い出すことができた。今日は珍しく四十人全員いたはず。余計な仕事が増えずに済みそうではあるが……。

 北館校舎には普段使われていない空き教室を倉庫代わりとして、古くなった机などが置かれている。今朝の確認ではその教室の分まで運び出されていた。その分は誰が元に戻すのだろう。

「…………」

 少なく見積もっても百近い数になるはずだ。

 体力の有り余っている運動部の連中に任せるか、それとも……。

 未散はいろいろと思案するが、当然ながら、自分が運ぶことは一切考えていなかった。嵯峨根に言われたとしても、こればかりは断固拒否しよう。そう腹を決めていた。

「なかなか片付きませんねー」

 海椙がこちらに近づいてくる。彼女は手前にあった椅子に腰掛け、校舎の方を眺める。そちらには、机と椅子を持った生徒達の行列ができていた。行列は昇降口からグラウンドの縁までできており、進みも遅く、先ほどからグラウンドに並べられた机達が減らずにいる。

 机や椅子の脚についた土を拭き取る作業に加え、上履きへ履き替えなければならない。昇降口は決して広くはなく、ある程度の人数が机などを持って入ればすぐに飽和してしまう。全校生徒が行列を作っているのだから、進みは悪くて当然だ。

「これ、どうするんですか?」

 海椙は振り返り、まだ手のつけられていない机達を見て聞いた。空き教室の分を言っているのだろう。

 校舎に近い、手前の部分に片寄って配置されている。幾何学模様の一部に過ぎないが、それでも円形にかたどられたものが二つ分に、三角形の斜辺が数本分。職員だけで運ぶとなると、大変な量だ。

「私は嫌ですよ、運ぶの」海椙は先制のつもりか、手を振りながら言った。「腕がぱんぱんになるじゃないですか」

「まあ、私も嫌だけどね。馬鹿の悪戯で迷惑を被るのは、嫌」

「でも、じゃあ、どうします?」

「どうしよう」適当に言いながら、未散もため息をついた。

「こういうのって、若手に押しつけられるものですよね」

 すでに押しつけられている気がしないでもないが……。職員総出で運ぶとしても、一人二組以上は運ぶ計算になる。

「大変じゃないですか」

「そうね」

「ていうかこれ、今日中に片付けれます? 授業とか、もう無理じゃないですか?」

「かもね」

「気のない返事ですね」

「まあね」

 今に始まったことではない。都市伝説だ、宇宙人だ、と騒いでいる方がおかしいのだ。雑務が増えることは目に見えていたはずなのに。

 海椙が眉を寄せ、小さく呟くように言った。

「これ、私達が片付けるんですか?」

 グラウンドに残っている机と椅子は全体の十五パーセントほど。ほとんど手がつけられておらず、牛歩のようにしか進まない行列に並んでいる生徒を除けば、グラウンドには未散と海椙しかいない。他の若手職員は昇降口で机と椅子の脚を拭く作業に追われているか、人の良い三木などは欠席者の分を運んでいる。

 未散は置かれている机の中を順に見て回ったが、中に教科書が置かれたままのものはもうなかった。

「誰かが片付けないとね」

 未散も海椙の横の椅子に座ることにした。腕時計で時刻を確かめ、ため息を重ねる。昼を大きく回っていた。行列を見るに、まだまだ掛かりそうだ。

「授業は無理ですねー」

 自身の太ももに頬杖をしながら、海椙が気の抜けた、間延びした声で呟いた。

「タイミングが悪い」

「え?」上体を起こし、海椙がこちらを見つめる。

「文化祭でやればよかったのに、って思っただけ」

「ああ、そうですね。多くの人が呼び込めますし、授業もない分、あまり迷惑にならなかったかも」頷いていた海椙だったが、途中で何かに気づいたのか声を上げた。「どうして今日だったんでしょう。文化祭の秋まで待てなかったとか?」

「ふふ、我慢できない幼稚さは犯人像と一致しそうだけどね」未散は微笑んだ。

「何か別の理由があると?」

「そうでしょうね」未散は簡単に頷く。「我慢できないのなら、もっと前に行なわれている。七不思議の噂は、今に始まったことじゃないしね」

「うーん?」海椙は難しい表情を浮かべて、首を捻る。「偶然、ということではなくて、ですか? 昨日の夜から今日の朝に掛けてじゃないとだめだったってことですか?」

「そこまで限定的ではないけどね」

「?」

 さて、どうしたものか。

 海椙の言うように、今日の授業はできそうにない。未散のクラスだけ用意が整っていても意味がないのだ。学校全体で授業ができる状態に戻さなければならない。そしてそれは、今日一日は難しいだろう。絶望的とは言わないが、授業を強行するような理由は誰も持ち合わせていない。生徒も職員も、今日はもういいだろう、といった弛緩した空気を纏っている。

 未散が試験問題を作り直せばいい話なのだ。

 理不尽で、とてつもなく腹の立つ話ではあるが。

「あぁ、もっとおもしろくなるかと思ったのにな」

 海椙はつまらなそうに口を尖らせ、振り返り、一部しか残っていない机達で描かれた地上絵を寂しそうに見つめる。

「何を期待してたのよ」

「いやぁ、何ってわけじゃないですけど……。でももっと、こう、なんか、派手な感じを」

「充分でしょ」未散も振り返った。

「ミステリーサークル自体は派手でしたけど、なんていうか、それに対する反応が地味というか、ああ、あんまり盛り上がらないんだなぁって」

「騒ぐのは子供か、馬鹿だけよ」脚を組み直し、素っ気なく言う。「大抵の人間は面倒を嫌って、収束をはかるから。事務的に受け流されるのが、むしろ普通の反応」

「そんなものですかねー」

「私からしたら、充分というか、過剰に反応してたけどね。どいつもこいつも」

「クールですねー」

 褒めているニュアンスではなかった。

「宇宙人もがっかりですよ。やり損ですよ。地球人に見切りをつけたかもしれませんよ」

「ああ、よかった。危機が一つなくなった」未散は棒読みで返した。

「セキュリティがちゃんと働いていたんですよ? 昨晩、中山先生がきっちりと戸締まり確認して帰宅されて、今朝一番に出勤してきた根岸ねぎし先生もセキュリティに問題がなかったことを確認しているんですよ?」

 ああ、そうだ。根岸だ。

 未散はようやくその名前を思い出した。今朝未散よりも先に出勤していた、慌てるだけで何の役にも立たなかった中年教諭の名前。同じ職場である以上、毎日顔を合わせているが、彼と一緒に仕事をしたことはない。職員会議のときくらいしか接点がなく、根岸という名前で思い出すことができただけでも褒めてもらいたいものだ。

「それに、一晩の間にすべての机と椅子を運び出すなんて……」海椙は前方の、生徒達の行列を見てから、未散の方に顔を向ける。「全校生徒でやってもこんなに時間が掛かるんですよ?」

「だから何? 超常現象だって言うわけ?」

「少なくとも、もうちょっと盛り上がると思ったんですよー。宇宙人や超能力者だってちやほやされたいんですよ」

「世俗的ね」未散は笑った。「そんな奴らになら侵略されても問題はないな」

 やはり人間の方が遙かに厄介で、脅威だ。

 未散と海椙は職員室に戻ることにした。空き教室の分を片付けるにしても人手が全然足りない上に、昇降口は生徒達でしばらくは溢れたままだろう。グラウンドに残る理由は、少なくとも合理的なものは見つからなかった。

 職員室では十数人の職員達が盗まれたものはないか探している最中だった。それぞれの机周りを中心に、荷物を散乱させている。探しているのか、散らかしているのか、まるでわからない。ついこの間の、年度末の大掃除を思い出させる光景だった。

「これじゃ、盗難か紛失かわかりませんね」海椙が小さく囁いた。

「まったくね」未散も苦笑し、頷いた。「あなたも一応、見ておいたら?」

「それじゃあ、一応。盗まれるようなものはないと思うんですけどねぇ」

 海椙と別れ、未散は自分の席へ向かおうとしたが、周りの職員達の荷物で通路が防がれていたため、給湯室でコーヒーを淹れることにした。カップを用意したところで、ふと思い留まる。他の職員が動いている中のんびりとコーヒーを飲むのもいかがなものか、とどこかの誰かに目をつけられかねない。とはいえ、他にやることも見つからない。手持ち無沙汰になってしまった。

 職員室でただ一人何もしていないのも、どことなく気が引ける。さらにはお局の気を引いてしまうことも考えられる。

 しばし逡巡する自分を遠くから眺めては、ここでもやはりため息を重ねるばかりだった。

 アスピリンを飲み、目を閉じた。

 呼吸を止め、深く潜るように、思考する。

 これ以上話がこじれても迷惑だ。それに、せっかくの公務員という立場。残業など、馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 給湯室から顔だけを出し、職員室の様子を窺う。まだ多くの職員が各持ち場の確認に追われているのだろう、全体の三割程度の職員しかいなかった。

 奥に、学年主任の中山の姿を見つける。学年主任の席は各島の窓際と決まっていた。未散はそちらへ向かう。

「中山先生」

「あ、長野原先生。どうかしましたか?」

 中山は作業の手を止め、濃い髭面をこちらに向けた。

「何か盗まれていましたか?」

「いや、それを今調べているところですが……」

「そうですか」

 未散は言いながら、中山の机周りを観察する。他の職員同様、引き出しの隅々まで調べている様子が見て取れた。

 中山に向かって、未散は微笑んでやる。

「もし私なら、ここまでは調べません」

「え?」

 中山は不思議そうな表情で、未散と自身の机を交互に見た。

「携帯電話、見せていただけますか?」

「……っ」

 そこでようやく山男の顔に険しさが表れた。頬が引きつり、顔を強張らせたまま未散を見つめる。

「勘違いされても特に困りませんが、これは助け船です」未散はあくまでも微笑む。「嵯峨根先生のことでいくつか気を遣っていただいたことに対する謝礼、とまではいきませんが」

「あ、あの……」

「五、六人だと思うのですが」

「ああ……」

 中山は息を吐ききるような、長いため息をついた。そして額に手をやり、恥とも、苦笑とも取れる表情を見せる。観念したように、もう一度だけ大きく息を吐いた。

「そうかぁ……」

 中山は多くは語らずに、携帯を取りだし、いくつか操作した。

「いつ?」

 中山は携帯のディスプレイをこちらに見せながら尋ねた。

「すべて、という意味でしたら、今です」着信履歴を読み取りながら、未散は淡々と答える。「予想でしたら、今朝」

「敵わないな」

 明るい調子の濁声で言うと、中山は肩を竦めた。

「勝負なんかしてませんよ」

 未散は横目で他の職員達を観察する。ほとんどの者が何も知らずに調べ続けていた。

 中山もそちらを見ながら、口を結び、鼻から息を漏らした。

「私はこれから教室の方へ行きますので」

「ああ、ええ。そうですね、わかりました」

 中山は頭を下げた。

 それで満足したわけではないが、未散は職員室を後にして、自身が受け持つ、三年A組の教室へと向かった。


 6


 三年A組の教室は騒がしかった。授業が始まる前はどこの教室も大抵騒がしいものであるが、今日はいつもと様子が違う。どうやらクラス全体で話し込んでいるようだった。内容は、言わずもがな、突如現れたミステリーサークルとそれに関連した学園七不思議。

「席に着きなさい」

 盛り上がっている生徒達に軽く注意しながら、教卓に着いた。

 ざっと教室を見渡す。土などは綺麗に拭き取れているようだ。一度すべてが外に出されたためか、綺麗に並び戻しても、どこか違和感があった。

「授業すんの?」手前の列にいた生徒が聞く。

「まだ決まったわけじゃないけど……」

「わあ」

「やったー!」

 未散が言い終える前に、見切り発車で歓喜の声が教室全体から沸き起こった。週末の午後に訪れた、学生にとっては最大のサプライズ。浮かれるのも無理はない。嬉しさを体全体で表現するお調子者を張り倒し、未散は咳払いした。

「静かにしなさい。ったく」

 教室全体を軽く睨んだが、効果は薄かった。花が咲き誇るような、そんな満面の笑みがクラス中に溢れる。

 しょうがない。

 こんな笑顔を見せられたら、諦めて、ため息一つを対価に、テストを作り直す他ないだろう。

 とはいえ、けじめはつけなければならない。つけさせなければ。

「はい、静かに」

 クラス全員が静かに、そして注目するまで待った。

「いい? よく聞きなさい。機会を一回だけ与える」

 多くの生徒達が怪訝な表情を浮かべる。隣の席を見たりして、首を傾げていた。

「え、何? どういうこと?」

 一人の生徒が尋ねたが、未散はそのまま続ける。

「素直に自己申告しなさい。応じれば、罪を不問とするわけでもないけど、こちらも大人だしね、寛大な処置をしましょうか」

 教室がざわつく。

 この中に犯人がいるのだと知り、生徒達に奇妙な緊張が走った。互いに顔を見合い、ある者は首を捻り、ある者は首や手を振る。

「俺達の中の誰かがやったってことっ?」

「ありえねえだろ、んなもん」

「そうだよ。仮に私達が全員でやったとしても、人手が全然足りないでしょ」

 論議の言葉が教室中を行き交う。

 多くは、未散とクラスメイト達の顔を交互に見ては、信じられないといった表情で首を振っている。

「ほら、静かにしなさい」

 言って、未散は教室を見渡す。

 少し待ったが、誰も名乗り出ては来なかった。

 未散は肩を竦め、心の中で舌打ちをした。

 教室が再びざわつき始める。

「え、何? 本当にこの中にやった奴がいるわけ? 全部運ぶなんて、絶対無理だって」

「だよねー。てかさ、全校生徒でも超時間掛かってるのに、無理じゃね? どう考えたって不可能じゃん」

「超常現象に論理で立ち向かうのがそもそも間違ってんだよ」一人の生徒が鼻を鳴らし、未散を見る。「大方、鎌掛けたんじゃねーの?」

 クラス全員が未散に注目した。中には挑発的な笑みを見せる者までいる。

 未散は短く息を吐いた。

「六人いれば六時間ですべての教室から机と椅子を運び出すことができる」

 未散は機械的に話す。順を追って、淡々と続けた。

「台車を使えばいい。学校で使用している大型手押し台車を使えば、一台につき、机なら六台から八台、椅子なら十二脚ほど載せることができる」

 大型台車の積載有効サイズは八十センチ×百二十センチ。学校で使用している机は古い物なので横幅が六十センチ、奥行きが四十センチとなっている。椅子のサイズは椅子幅が三十六センチ、奥行きが四十センチだった。あくまでも未散の目測によるものだが、数センチの誤差もないはず。

 天板を重ねるようにして積載すれば、未散の言う数はそれほど苦もなく運べるだろう。

「台車って、階段はどうすんの?」窓際の席に座っていた穂波が疑問を口にした。

「木の板などで階段にスロープを作ればいいだけ。端と端をガムテープで固定するだけだし、難しいことじゃない」

「なるほど」

「さて、各教室からグラウンドまで、平均で三百メートル。一般的に徒歩は時速五キロメートルとされているけど、机や椅子を載せた台車を考慮すると、片道六分ぐらいが妥当かな。各クラス平均四十人。つまり机と椅子が四十ずつ。大きなトラブルがない限り、一クラス一人で二時間あれば運べるでしょう」

 各学年五クラス。空き教室や積み下ろしを含めて考慮しても、六時間掛ければ充分だろう。

「ミステリーサークルは?」

「運び出す作業に比べれば何てことはない。それこそ、すぐ終わる」

 未散は折れたチョークを手に持ち、黒板に幾何学模様を描いた。一つの円を描き、それを中心に同じ直径の円を六つ囲うように配置する。さらにその外側にも六つの円を用意した、全部で十三の円。それらの中心を結ぶ大小の正六角形を描く。直線上に並ぶ円の中心に線を引き、それらを結ぶように正三角形と逆三角形を作った。

 細かな中点やそれを通る直線も引く必要があるが、簡単な説明をするだけならば無視してもいいだろう、と未散は判断し、チョークを置いた。

「杭とロープさえあれば、誰でも簡単に、正確に描くことができる」

 神聖幾何学の中でも特に神聖視されているフルーツ・オブ・ライフ。基本としては十三の円の図であるため、基点となる中心の円さえ描いてしまえば難しいことはない。基点に杭を打ち込み、決められた半径に伸ばしたロープで円を描く。あとはそれに接する六つ円などを同じ要領で描いていけばいい。直線は、各円の中心を結ぶ物しかないので、時間の短縮を狙うのならば描く必要はない。

「グラウンドに軽く下書きをしたあと、全員で机と椅子を配置すればいい。二時間も掛ければ充分でしょう」

 特別な技術も道具も必要ない。わずかな人手と時間、身近にある物を使うだけで、誰にでも実行できる。

 宇宙人や、超能力者に頼らずとも。

 未散は生徒達の顔を見渡す。

 興奮はすでに冷めているようだった。たしかに、ファジーなファンタジーに比べれば、幾分もつまらないというのが、論理的な現実である。手品も何でも、トリックがわからない方が楽しめる。それはいつの時代も変わらないのだろう。

 教室内の生徒は互いに顔を見合っていた。未散の提示した六人が誰か、探っているような目だった。

「でもそれって、その方法でもできる、ということですよね」

 綺麗な、澄んだ声がした。真ん中辺りの席に姿勢良く座っている女生徒に、全員が注目した。

 石川めぐみ。綺麗に整えられた黒髪に、色素の薄い肌が特徴的な少女。切り揃えられた前髪を始め、日本人形を思わせる容姿だが、それが褒め言葉になるかどうかは微妙な時代である。それこそ、霊的な見せ物としてのイメージが定着している分、褒め言葉として適当ではないかもしれない。

「もっと言うなら、長野原先生が説明された方法でもできるかもしれない、ですけど。あくまでも可能性に過ぎません」

 今どきの生徒には珍しい、慇懃な話し方をする石川だが、未散に対する敵意が言葉の節々から漏れていた。

「超常現象に対して論理的に可能かもしれない仮説、それを提示したに過ぎません。長野原先生、違いますか?」

 石川の大きな瞳が、挑発的な笑みによってわずかに細くなる。

 クラスの視線が再び未散へと注がれた。

 証拠を提示しろ、ということか。

「仮に先生の言う通り、この中の誰かがやった悪戯だとして、どこにそんな証拠があるのですか? 机や椅子から、指紋でも採取しますか?」

 石川はまたも挑発的に微笑み、小首を傾けた。

 未散はいつもの調子を崩さずに答える。

「机と椅子からは指紋を採る必要はない」

 作業の際、手を守るために軍手などをしていた可能性は考えられるが、指紋を拭き取ったり、予め手袋を用意していたとは考えにくい。そもそも不特定多数の人間に触れられている物だ、大層な犯罪をしているという意識を持っていなければ、指紋などには気を遣わなかっただろう。

「でも屋上はどうだろう?」

 未散はわざらしく首を傾け、微笑んでやる。

「…………」

 石川の視線が反射的に、素早く横に逸れた。その先には、同級生よりもひと回り小柄な少女、宍原優子ししはらゆうこの緊張した顔があった。

「屋上?」穂波が石川の視線を追いながら聞いた。「確認のため?」

「そう。完成間際に誰かが一人、俯瞰視点から指示を出したはず。携帯を使って、グラウンドで作業する者に」

「ああ、携帯の操作をするには、手袋はできないってこと?」

 理解を示した穂波に未散は頷く。

「そういうこと。仮にしてても、電話の際には外すでしょう。そしてそのまま屋上を後にしたのなら、ドアノブに指紋が残る。屋上の鍵もそうね」

 石川めぐみと宍原優子に視線が集まり、誰もが彼女達の言葉を待った。しかし、二人は黙ったまま。何か反論してくる様子は見られなかった。その代わりとして、別の者がこちらに牙を向けてくる。

「それだって、実際に検出したわけじゃないんでしょ?」

 竹田佳人だ。

 表情自体はいつもと変わらないが、口調は早くなり、多少荒れている。

 頭痛を我慢しながら、眉を上げ、大きな瞳を向ける。そしてやさしく微笑んだ。我ながら嫌な教師だな、と思いながら。

「一階のごみ箱に、ガムテープが捨てられていた。スロープを作った際に使われたものでしょう。こちらも手袋をしていては剥がしにくいため、何人かの指紋が付着しているでしょうね」

「……だから、調べたわけでもないのに」

「言葉に気をつけなさい。調べられたら、困るのはあなたでしょう? 竹田佳人」

 一瞬にして竹田の顔が引きつった。教室中から降り注ぐ驚きの声と視線に戸惑いながら、竹田は首を振る。

「な、ど……、ちがっ、証拠は?」

「小学生か。素直に認めればいいものを」未散は嘆息し、他の生徒を順に呼び上げた。「石川めぐみ、宍原優子、師崎詩乃、そして糸井茂。あなた達はどう? 素直に認め、反省し、謝罪をするのなら、停学処分にならないよう、口添えをしてあげるけど」

「…………」

「おいおいマジかよ、お前らがやったの?」

 穂波涼太が振り向きながら尋ねた。しかし、五人は視線を逸らすだけで何も言わない。

 とはいえ、クラスの全員は理解していた。明確な否定を伴わない沈黙は、肯定の言葉よりも重いということを。

 仲間である五人全員の名前を挙げられたことから、未散がすべてを理解しているということが伝わったのだろう。無闇に否定しても、傷口を広げるだけだと。

「てか、先生はどうしてわかったの? 証拠でもあったの? 指紋を調べたわけではないんでしょ?」穂波が矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。「それよりさ、夜中って校舎にセンサーか何か働いてるんじゃなかったっけ。それは?」

「主犯か共犯かはわからないけど、中山先生が関わってる」

「中山? ……誰? そんな奴いた?」

 首を捻ったのは穂波だけではなかった。ほとんどの生徒が眉間に皺を寄せ、記憶の中から該当する名前の人物を検索に掛けている様子だった。しかし残念ながら、担当の違う学年主任の名前は、情報量の乏しい検索エンジンではヒットしなかったようである。

 山男のような、という外見を付け加えてやれば、何人かは反応するだろうか。しかし、未散から山男と表現するわけにはいかない。無視して先に進めることにした。

「昨日、最後の戸締まりをした先生のこと。機械警備に不具合がないとするなら、彼が真っ先に疑われる」

「その中山って奴がその防犯のを解除したってこと?」

「正確には作動させなかっただけ。中間考査の試験問題を作るという名目のもと彼は遅くまで学校に残り、他の職員が全員帰宅してから、五人を呼んで行動を開始した」

「じゃあ、中山の携帯に履歴が残ってたの?」

「残ってるはず」未散は頷いた。

 着信履歴には、深夜二時半過ぎに宍原からの通話記録が残っていたが、発信履歴までは確認していない。

「中山先生は、数学を担当しているけど、あなた達とは接点はない。だからあなた達は知らなくて当然。そしてそれは、

 未散自身、自分が受け持っているクラスや顧問をしているテニス部を除けば、ほとんどの生徒を覚えていない。まったく関係のない部外者が制服を着ていても、恐らく気づかないだろう。

「にもかかわらず、中山先生は糸井が廊下を走っているのを注意するとき、下の名前を呼んだ」

 糸井の顔が歪んだ。不注意だった中山に対してか、それとも目敏い未散に対してか。少なくとも廊下を走った自分を反省するタイプではない。そんな殊勝な人間はそもそも廊下を走ったり、こんな悪戯をしたりはしないだろう。

「中山先生は部活の顧問をされていない。寂しい話ではあるけど、ドラマの熱血教師でもあるまいし、糸井の名前を知っているのは不自然ね」

「すげー。先生、何か探偵みたいじゃん」

「私は教師よ。あんな得体の知れないものと一緒にするな」

 感心する生徒に毒を吐き、未散は次に竹田へ顔を向けた。

「いつも遅刻ぎりぎりの竹田は自転車通学だが、今朝は親に乗せてきてもらっていた。どうしたの?」

「……別に、それは」

「体調が悪そうだったわけでもない。天気が悪いわけでもない。となれば、自転車が壊れたか何かが普通だけど、あなたの自転車は駐輪場に置いてあった」

「…………」

 竹田も苦い顔を見せる。自分の犯したミスを認識したみたいだが、反省している風ではなかった。

「昼ドラに出てくる小姑みたい……」誰かがそう呟くのが聞こえた。

「おい、誰だ今言ったのは!」声の主を探したが、ほとんどの生徒が顔を伏せていた。未散は舌を鳴らす。「推薦が欲しければ、袖の振り方を勉強しなさいよ」

「それが教師のせりふかよ」穂波が呆れたように、笑った。

 思わず激昂しそうになったが、何とか堪え、続けることにする。

「こんな甚だ迷惑な悪戯をしたとはいえ中山先生も教師だから、深夜遅くに作業が終わって、生徒を個々に帰すなんて真似はできなかったでしょう。車で家まで送り届けたのは想像に難くない」そこで未散は一旦区切り、五人の生徒を順に見ていく。「竹田だけでなく、他の自転車も置いてあるはず。全員が自転車通学なら、だけどね」

「ああ、そういや、糸井は今日電車だったよな」男子生徒が言った。「珍しって思ってたんだけど、そういうことかよ」

 穂波が未散に向き直る。

「石川達は?」

「石川と師崎は吹奏楽部。宍原は、中山先生の携帯の履歴から」

「吹奏楽部?」

 穂波はまたも首を捻った。それが何の関係があるんだ、という表情を浮かべる。

「音楽室に飾ってある肖像画の目が光る、そんな噂が流行ってるらしいけど。あなた達は聞いたことがない?」

 クラスのほとんどの生徒が頷きつつも不思議そうな顔をしている。噂を聞いたことはあっても、関係性までは理解できていない様子だった。

「目の光る肖像画も、恐らくは石川と師崎の悪戯でしょうね。何も難しいことじゃない。蓄光塗料で説明ができる」

「でも絵には何も細工されてなかったんじゃなかったっけ? そういう話も聞いたけど」

「何の細工も無しに目が光るわけないでしょうが」未散は呆れてため息をつく。「吹奏楽部である二人が頻繁に絵を取り替えていたんでしょう。音楽室や準備室を調べれば、蓄光塗料か何か細工された絵が出てくるはずよ」

 未散は短く息を吐き、黒板消しを手に取る。黒板に描いた幾何学模様を消し、手に着いたチョークの粉を叩き払った。

「反論は?」

「…………」

 五人は何も言わなかった。ただ座って黙ったまま、俯き加減にしている。

 ただ石川だけが、未散をじっと見ていた。感情を押し殺したように、静かに、決して視線を逸らさない。

 反抗的と言えば反抗的だが。

 未散には、彼女の睨みにも似た視線が不思議に思えた。明らかに、他の者と比べてその熱量が違う。温度差が激しいように感じられるのだ。まるで大事なものを傷つけられて激昂する子供のような、そんな目をしている。後悔や恥の表情を浮かべている四人とは違う。石川にとって、それだけ大事なことだったのだろうか。

「状況証拠だけではありませんか」

 石川が芯の通った、はっきりした口調でそう言った。

 往生際が悪いな。

 未散は肩を竦め、微笑んだ。

「指紋を採取してもらえば、はっきりします」

「え」

 石川の強い発言に、他の四人が上擦った声を上げた。

「ふうん」

 未散は頷きながら、少しだけ感心していた。

 日和見の職員達を考慮して強気に出ているのだとすれば、それはちゃんと評価してやるべきだろう。潔さを捨ててでも、それを試す価値はある。

「どうなんですか、先生」

 教室が再びざわつき始める。

 大勢は決したと見ていたクラスメイト、すでに諦めていた仲間四人。強気に出る石川の判断を、英断と取るか、はたまたただの暴挙と取るか。

 全員が未散の対応に注目している。

「そうね。評価してもいい」未散は頷く。「でも喧嘩を売る相手は選ばないと」

「?」

「今ごろ職員室では中山先生が事情を説明していると思うけど」

「なっ、そんな!」

 慌てた様子で、石川が感情的に叫ぶ。特徴的な口調も乱れていた。

「悪戯もほどほどにしなさいよ」未散は腰に手を当てる。「あと、どうせやるなら徹底的にね。あちこちに証拠を残すようじゃ、意味がない。居直るぐらいなら、なおさら」

「…………」

 奥歯を噛み締めるように、石川は未散を睨みつけた。

 先ほどとは打って変わって、感情の沸点の低さが目立つ。今回の悪戯は石川にとって、よほど大事なことだったのだろう。

 どんなに高尚な人間でも、クリティカルな部分は存在するのだ。そこを触れられたとあれば、感情的になっても仕方がない。

 絶対に譲れないもの。

 それが石川にとっての都市伝説なのかもしれない。

 未散は勢いよく息を吐き、空気を変えるために手を叩いた。

「はい、それじゃあ五人は職員室に行きなさい。相応の処分は覚悟しておきなさいよ」

「まだ、私達は認めてませんよ」

 立ち上がった石川は、諦めていないようだった。

 未散はしばし逡巡する。

 自分の受け持ちクラスの生徒が今回の騒ぎの犯人だとすると、さすがに嵯峨根が黙ってはいないか。未散自身に、何らかの処分を迫ってくることも充分に考えられる。

 未散は笑った。思わず、吹き出してしまった。

 知らず知らずのうちに追い込まれている自分が滑稽でしょうがなかった。自分らしい、と笑い飛ばせるほどの度量があればよかったが、無理に笑おうとして顔を引きつらせるのが落ちである。

 中山がどこまで話しているかにもよるが……。

「ああ、じゃあ、中山先生に祈りなさい。彼があれこれと話してなければ、白を切れるかも」

 未散の意外な温情に、五人だけでなく、クラスの全員が目を丸くした。

「どういう風の吹き回し?」

 穂波もオーバーに仰け反っている。

「私は探偵でも小姑でもなく、懐の深い女神様だったってことよ」

 そう言って未散は微笑んだが、生徒は誰も笑わなかった。


 7


 未散が職員室に戻ると、そちらも大変な騒ぎとなっていた。

 どうやら、今回の件について中山が、自身による悪戯だと告白したようだ。嵯峨根のヒステリックな声が部屋中に響き渡っている。周りの職員も彼女を宥めるどころか、逆に感化され、聞くに堪えない感情を中山にぶつけていた。

「ああ、先輩」

 給湯室から海椙が顔を出し、戸口のところに立っていた未散に声を掛けてくる。

「何してんの、あんたは」

 海椙は給湯室に隠れるようにしていた。

「争いに巻き込まれたくなかったんですよ」顎を突き出し、奥のやり取りを示す。「中山先生による悪戯だってわかると、みんな感情的になって」

「他人を糾弾するのは素早いこと」

 未散もそちらを眺めながら苦笑した。

「あ、コーヒー飲みますか?」

「うん」

 海椙はコンロに薬缶をセットして火に掛ける。棚からドリップパックを取り出して、カップを二つ用意した。

「それにしても驚きましたよ」封を切りながら、海椙が言う。

「何が?」

「中山先生が一人であんな悪戯をするなんて」

「へえ」

 紳士的な配慮をしたわけだ。

 もし彼の処分が重くなるようだったら、口添えはしてやろうと、未散は思った。

「一人でできるものですかね、こんなこと」

「さあね」

「動機は何なんでしょう?」

「悪戯でしょ。そんなもの必要ない」

 やかんの様子を見ていた海椙が目を細めたまま、こちらに視線を向ける。

「嘘つき」

 不満顔で海椙はそう言った。

 無礼な後輩に、腹を立てることはなかった。むしろおかしくなり、笑ってしまう。

「わかってて聞くのは嘘にはならないの?」

「なりません」腹が立つほど清々しい笑顔で胸を張る海椙。

「即答かよ」未散は鼻を鳴らした。

「意地の悪い先輩だなぁ。気づいているんでしょう? どうしてはぐらかすんですか?」

「意地が悪いからよ」

「ま、すぐ拗ねる」海椙は口を結び、頬を膨らませる。「メビウスの環みたいに捻くれた人ですね」

「表裏がないからね」未散は微笑んだ。

「む、むぅ」海椙は口を尖らせる。「上手いこと言ったつもりですか」

 お湯が沸き、蒸気によってやかんが音を立て始めた。給湯室にドアはないため、奥で続いている、大人達の醜い喧騒も丸聞こえ。まだまだ治まる気配がない。

「いつまで続ける気ですかね」海椙が薬缶の様子を見ながら聞いた。

「さあ」そればかりは未散にもわからなかった。

 中山の自白によって事件性はないということがわかったが、悪戯としては度が過ぎている。少なくともそう見る連中は多いだろう。お咎めなし、ということは考えにくい。実質的な被害は机と椅子を運ぶ羽目になった生徒と、授業を潰された教職員ぐらいなので、それほど大げさな処分にはならないと思うが……。

「どっちが主導なんですかね」

 ゆっくりと細く静かにお湯を注ぎながら、海椙が尋ねる。

「どっち、とは?」

 未散は壁にもたれながら腕を組み、空とぼけた。

「今回の悪戯ですよ。生徒達なのか、それとも中山先生なのか」抽出までの時間、海椙は顔を上げ、未散を見据える。「一人でこんなことできるわけないじゃないですか。中山先生が超能力者じゃなければ、の話ですけど」

「あんたはどういうスタンスを取っているのよ」

「盛り上がっているときは超常現象の方がおもしろいじゃないですか。でもこう、一度冷めちゃったら、ねえ? 一応、数学科の教師ですし」

「一応、ね」未散は海椙を見て笑う。

「あ、またそんな意地悪を」

 口を尖らせた海椙だが、お湯を注ぐためにカップへ視線を戻した。

「個人的に感じた印象だけど」

 漂ってくるコーヒーの香りを楽しみながら、そう前置きをする。

 海椙はカップから目線を上げ、次の言葉を待っていた。

「生徒達が主導していたと思う。一人、熱量の高い子がいたから」石川の顔を思い出しながら、未散は言った。

「じゃあ、中山先生が協力した形ですか」

「断言はできないけど。ただ、中山先生の場合、この悪戯はリスクに合わない」

「まあ、生徒達は遊びの延長でしょうけど、教員となるとそれでは済まないですよねぇ」

「それこそさっき話していたような、文化祭のときの雰囲気なら、悪戯で済まされるかもしれないけどね。それでも、早々に悪戯であることを告白しないとだめだけど」

「つまり、リスクに見合うだけの何か、があったわけですね」海椙が淹れ立てのコーヒーを差し出す。「どうぞ」

「ありがとう」それを受け取り、まずは香りを楽しんだ。「たぶん、教務手帳か何かを紛失したんだと思う」

「中山先生が?」

 多少驚いたような声を海椙は上げたが、まったくの予想外でもなかったようだ。

「それを今回の悪戯のせいにしようとしたってことですか?」

「断言はできないけどね。でも、そう考えるのが自然かな」

 未散はカップに口をつけ、淹れ立てのコーヒーを飲んだ。丁寧に淹れてあるのでおいしかった。これ以上は、豆をどうにかしなければならない。

「素直に紛失したことを報告すればいいのに」海椙はカップに砂糖とフレッシュを入れ、スプーンでかき混ぜる。「大人って、素直に頭を下げませんよね」

「大人に限らず、だけどね」未散は苦笑する。

 素直に謝ることのできる人間はどの年代も少ない。謝れば済むと思い込んでいる連中がいくら頭を下げても意味はないし、片意地を張り続けるのも迷惑だが、他人を非難することでバランスを取るような人間ほど、見るに堪えないものはない。

「素直に報告できない、しなかったということは、外部に持ち出したときになくしたからでしょうね」

 個人情報保護の観点から、担当する生徒達の成績などを記した教務手帳を校外へ持ち出す際には、教頭や校長の許可が必要となっている。とは言うものの、黙って持ち帰る職員は比較的多い。家でのんびり仕事がしたいという欲求に負けるのだ。お局が幅を利かせている職場ではなおのこと。

 一度や二度ならば、正式に許可を取ればいい。だが、何度も何度も繰り返していれば面倒になり、こっそり持ち帰るようになる。それが続けば習慣になり、いつもかばんに入れたまま、ということが当たり前に。そうなっては、一度紛失でもしない限り、ずっと続けてしまうのが常だ。一度犯した惰性は、断ち切るのが難しい。

「個人情報の紛失って、程度にもよりますけど、数ヶ月の減俸ですよね」海椙はようやく、コーヒーだった何かに口をつけた。「釣り合いが取れるかどうかわからないですけど……」

 今回はミステリーサークルだったが、何者かが学校内に侵入した形跡があれば、盗難の可能性に目がいく。教務手帳が盗まれたということにすれば、責任を問われないかもしれない。重要なのは、外部に持ち出した際に紛失したという事実がうやむやにできること。

 実際、中山が何を考えていたのか、それは本人しか知り得ない。彼が説明したところで、細かなニュアンスまで伝わる保証もない。

 それでも想像をするのなら、都合の良さそうな材料が揃ったくらいの感覚だったのではないだろうか。

 校庭にミステリーサークルが現れたら、みんな驚くだろう。上手くいけば、紛失したものを誤魔化せるかもしれない。その程度の、感覚。

「まあ、見返りを求めないのがそもそもの悪戯だしね。意外とノリノリだったのかも」

「中山先生が?」海椙は目を丸くして、おかしそうに吹き出した。「でも、それって素敵な先生だと思います」

「そうね」

 生徒達も、いい思い出ができたかもしれない。

 今朝登校してきた生徒は一様に驚きながらも、笑顔を見せていた。童心に返ったように、目を輝かせて。宇宙人だ、超能力だ、と高校生にもなってはしゃいでいた。

 素敵なことだ。

 そう思う。

 教師としてあの悪戯はどうかと思うが、でも、あれほどの笑顔を作るのは、今の教師では無理だろう。全校生徒が笑顔で。そして間違いなく思い出として残る。

 素敵なことだ。

「先輩も、いい人ですよね」

「ん?」

 顔を上げると、海椙の笑顔があった。片方だけにえくぼができている。

「中山先生のしたことを、ただの悪戯にしたんですから。あの状態で何かを紛失したと虚偽報告したら、それこそ警察を巻き込んで大変なことになるじゃないですか。昨日の戸締まりを確認したのは中山先生だから、警察が介入すればすぐに怪しまれますし、もっと大きな問題になってたでしょう?」

「どうかしらね」未散はコーヒーを飲み干すと、流しでカップをゆすいだ。

「でも、中山先生に悪戯であることを話すように説得したのは先輩でしょう? というより、気づくの早くないですか? いつ気づいたんですか?」興味津々といった様子で海椙は未散の顔を覗き込む。

「そんなに難しい話じゃない」コーヒーを淹れてもらった分くらいは話してやろう、と思った。「機械警備に異常がないのなら、本当に作動していたのか、そこに疑問が生じる。昨日、私が帰るときに学校に残っていた職員は中山先生を含めて数人」

「え、じゃあ、中山先生が最後に帰ったということは知らなかったんですか?」

「まあね。でも、そのとき残っていた車通勤の四人の中で、中山先生だけがステーションワゴン、つまりある程度の人数を乗せることができた。他はコンパクトカーなど四人乗りばかり。校舎中の机と椅子を運び出すことを考慮したとき、五人から六人は必要だから、条件に合うのは中山先生だけ」

「はぁ……」口を開けたまま海椙はゆっくりと顔を上下に振った。

「作業は早く終わっても深夜だし、生徒を個々に帰すわけにはいかない。それこそ、補導されるおそれがある」

「なるほどぉー」

「身勝手な推論だけどね」未散は言って微笑む。「例外の可能性を挙げればきりがない。共犯が生徒でなければ、それだけで成り立たないし」

「でも都市伝説の背景を考慮すれば、生徒達である可能性は高いですよ」

「まあね」

 可能性に意味はない、とは言えなかった。

 零と百以外の数字に、それほどの価値はない。

 しかし、そんなものにでも縋らなければ生きてはいけない。それが人間でもある。

 石川の言葉が心に反響する。

『まだ私達は認めていない』

 認めないことで、ささやかで、とても脆い、それでもたしかな可能性を残した。一考の価値にも値しない、ほとんどの意味のない可能性ではあるが、それでもそれを残したのだ。

 中山は石川達と協力して悪戯をしたとは話していない。

 土俵際。醜く、無様で、しかしなりふり構わずに粘ったことが活きた。土俵を割らずに済んだのだ。あとは、物言いがつくかどうか。

 未散は給湯室の戸口から、奥の様子を窺う。まだ複数の職員が呆れた様子で口を曲げ、中山に詰め寄っていた。中山は時折苦笑を見せながら、何度か頭を下げている。

「粘り勝ちかな」

「え? 何です?」

「別に」

 未散は適当に答え、背伸びした。

「あーあ、テスト作り直さなきゃ」


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