日常の価値は
@wataringo
プロローグ
人を見かけで判断してはいけない。
恐らく誰でもそう教わってきたであろう、この息苦しい社会に注がれる雀の涙ほどの潤滑油。
この言葉が使われる多くの場合、マイナスとなるイメージが先行しており、身勝手な先入観を持つことは失礼になるということを指している。例えば、あの人は顔が怖いから暴力的だ、あの人は地味だから友達は少ないだろう、など。何の根拠もない、ただの想像で判断をするのは間違っているのよ、という意味合いが強い。
多く、たしなめる言葉として使われていることだろう。
それと同時に、人に見かけで判断されるような人間になるな、とも教育を施された。
もちろん、それは正しいことなのだろうけど。
素直で物覚えの良かった彼女は、すぐにその言葉を理解することができた。ただ、彼女が理解した本質は、周りの大人達の認識とは大きくかけ離れたものだった。
人間の本質は、見た目では判断することができない。だからこそ、恐ろしいのだ。
外見など、ただの容れ物だ。コップの形が違う程度に過ぎない。プラスチックのコップだろうが、バカラのワイングラスだろうが、人間国宝が産み出した陶器だろうが、あまり関係ない。要は中に何が入っているかだ。
かわいい容器に猛毒が入っていることなど、ざらである。
羊の皮を被った狼も、狼の皮を被った羊も、大したことはない。偽っているだけなら、かわいいものだ。
本当に恐ろしいのは……。
「…………」
そんな夢にもならないようなものを見ていたのか、ふと目が覚めた。見慣れた天井がぼやけながらもそこにはあり、視線を横にずらせば、今まさに己が使命を果たさんとしている目覚まし時計がある。
午前六時二分前。
未散は舌を鳴らし、布団とともに微睡みを引き寄せた。とはいえ、二分ほどの、束の間である。すぐにけたたましいベルが鳴り響き、未散は現実へと逆に引き寄せられてしまった。
「……もう」
毎度のことながら、ベッドから這い出るこの瞬間が他のどんな場面よりも労力が要る。逆に言えば、ベッドから出てさえしまえば、今日一日の仕事の半分は済んでしまうのと変わりない。そう考えなければ、とてもではないが起きようなどとは思わないだろう。
知り合いのエンジニアからもらった無骨なデザインの目覚まし時計を止め、何とか上半身を起こした。手櫛で跳ねた髪を整えながら、徐々に頭を起ち上げる。
未散は寝起きが悪いタイプではない。どちらかと言えば良い方である。ただ、彼女の行動原理としてあるのが保留や逃げといったものばかりであり、積極的に動く人間ではなかった。それに加え、早起きをしたところで何の得にもならないことを知っている。損得勘定で動くわけでもなかったが、少なくとも合理的ではあると自身を評価していた。
今日の予定は……。
ベッドから降り、欠伸をしながらバスルームへ向かう。蛇口を捻り、水を出した。冷たい刺激が脳細胞にまで届く。ようやく微睡みから覚めた気がした。
目の前の鏡に映る女を、どう見ればいいのか。
自分自身を睨みつけるようにして、ため息を一つついた。精一杯の虚勢か、ニヒルに笑ってやる。
冷たい水での洗顔で、寝ぼけた頭を叩き起こした。
春になったとはいえ、朝の冷え込みに体は震える。春先は憂鬱な行事が多いため、体温も上がらない。寒気がするほどではないが、嫌気は差していた。
ため息一つを代償に、未散は気持ちを切り替えて、学校へ行く準備をすることにした。
残念ながら、という言葉を用いるべきか迷うところではあるが、未散は学生ではない。県立高校で数学科の教師をここ二年ほどしていた。
本来ならばすぐにでも辞めてしまいたいのだが、そう簡単に辞めるわけにもいかないのが世の常というもの。いろいろなものを天秤に掛けて、一定の傾きを得られている以上は、盛大なため息でもついて誤魔化していくしかないのだ。
笑えないがおもしろい話をするのなら、同僚の教師達は常に辞表を懐刀として忍ばせている。それを抜く勇気を持っている者は自分も含めてどれだけいるかわからないが、すでに用意してあるという事実が重く、そしてまだ誰も出していない事実がユニークだった。
しかしその刀では護身用として機能しない。そのことが不服であるため、未散はそのなまくらを携えることは今のところしていなかった。
嫌らしい目つきと口臭が酷い教頭辺りを斬れるのであれば、考えてもいいのだが……。
着替えを済ませ、髪も整え、軽く化粧をして、玄関へ向かう。白のフリースに黒のジーンズというラフな格好なので、今日は安物のスニーカーにした。色気も何もないバックパックを背負い、玄関脇に立て掛けてあるクロスバイクを手に、誰に言うわけでもなくただ「行ってきます」とだけ呟いて、自宅アパートを出た。
勤務先の高校へは徒歩で二十分ほど。車を使えば七分で行ける距離にある。自転車なら七分か、もう少し早い。
細いタイヤの自転車に跨り、軽くペダルを踏むだけで加速度と推進力が得られる。三十数万しただけあって、普遍的なシティサイクルとは比較できないほど進んだ工学技術を感じられる。これは良い買い物をした。維持費が安いのも魅力的だ。
未散自身はとても満足のいく買い物だったと思っているのだが、どうも周りの人間は節々に眉を顰めたがる。自転車にそんなにお金を注ぎ込むなんて、と口々に呆れられたものだ。
価値観など、個々で異なることぐらい理解できないわけでもないだろうに。
高級自転車に跨り風を切っていく。国道沿いの歩道は綺麗に舗装されていて幅も広く、非常に走りやすい。車道と違い信号もないのでスムーズだ。勤務先である高校まではほとんど一本道であるため、それほどスピードを出さなくても車よりも早く着く。
学生達が登校する時間帯よりも早いため、歩道に人の姿は見られない。道路の左側に商業施設が建ち並び、右側には田園風景が広がっている。丘陵地帯が目立つ、何とも中途半端な田舎町である。
交差点で右に曲がり、脇道に入る。そこに現れるのは平均勾配が五度以上もある坂だ。傾斜に敏感な自転車の行く手を阻む、長く急な、そんな坂である。自転車通学をしている学生達も、この坂には白旗を早々に掲げ、素直に自転車を降りて歩いていた。
誰による何のための悪戯かはわからないが、高校はこの坂を上りきった場所に建てられている。
未散は気合いを入れ、ペダルを強く踏みしめた。桜の木々が立ち並ぶその坂を、一度も立ち止まることなく、一気に駆け上る。
「さすが」
未散は満足げに微笑み、愛車のハンドルを軽く叩いた。呼吸を乱すことなく上りきることができたのは、なかなか気持ちがよかった。何とか、今日一日働くことができそうである。
校門をくぐると、左手に学生用の駐輪場があり、正面奥には田舎らしい大規模なグラウンド。古びた校舎は右手になる。その校舎の裏手に職員用の駐輪スペースがあった。
自転車通勤をしている職員は未散を含めて数人程度しかいないが、今日はまだ駐輪スペースに自転車は駐められていなかった。
今日は授業はなく、職員達によるちょっとした雑務があるだけ。この学校に来年度赴任してくる教師との顔見せも含まれている。三人ほど赴任してくるらしいと聞いていた。職場のことではあるが、あまり興味はなかった。
春風に吹かれて運ばれてくる桜の匂いを感じながら、未散は背を大きく伸ばす。もう少し暖かければ最高なのだが、このくらいが眠気も抑えられていいかもしれない。
一度校舎正面に回り、職員用玄関へと向かう。スリッパに履き替え、正面の階段で二階へ。職員室は廊下を進んだ突き当たりになる。
「おはようございます」
言葉だけ、形式だけの挨拶を口にして、未散は職員室へ入った。暖房は効いていない。部屋の中を見渡す限り、誰もいなかった。
職員室では担当学年ごとに島が決められている。島一つはオフィスデスクが五台ずつ向かい合うように配置されている。島は全部で三つ。それぞれが学年ごとに振り分けられていた。この学校では各学年五クラスのため、担任と副担任で島が収まる。
未散は真ん中の島にある自分の席にバックパックを置き、コーヒーを飲むために、奥にある給湯室へ向かった。
欠伸をしながら給湯室へ入ろうとしたとき、不意に、影から白いものが現れた。
「わ」
突然のことだったので、思わず声が漏れた。
「あ、長野原先生」
目の前に現れた白衣を着た小柄な男は、
「永田先生、おはようございます」
「おはようございます」永田は軽く頭を下げて言った。
「いらしていたんですか」
「ええ、まあ」
歯切れのよくない返事だった。
永田の髪はぼさぼさで、手入れがされているようには見えない。まるで今起きたばかりの、そんな爆発具合だった。百六十センチほどの小柄な体格で未散よりも背が低く、レンズの大きい、古くさいデザインの眼鏡を掛けている。そんな冴えない風貌もあって、年齢は未散よりも随分上のようにも見えるが、もしかしたら同じぐらいかもしれない。
教師としてのキャリアは永田の方が上だったが、訳あって彼は担任を辞退している。定期検診の際、胃の中に大量のポリープが見つかり、即座にドクターストップが掛かったらしい。相当なストレスが原因らしく、本人も周りも苦笑しか出てこなかった。それ以来、彼が担任になることはなかった。
そのため、教師になって日の浅い未散が担任で、キャリアのある永田が副担任という、傍目から見ればおかしなことになっている。事情を知らない生徒達の間では、未散は優秀な教師、永田はその逆という風に見られることが多い。未散自身としてはそれで困ることはないのだが、少しだけ永田が気の毒に思えた。それならストレスが溜まっても当然かもしれない。
「長野原先生こそ、お早いですね」
永田は壁に掛けられたシンプルなデザインの時計を見上げた。
「私はいつもこのくらいです」未散は簡単に答える。
「そうですか。それは失礼」
何が失礼なのだろう。一瞬考えたが、ただの言葉の綾かもしれない。
「あ、永田先生、コーヒー飲みますか? 今から淹れようと思うのですが」
「ありがとうございます。ですが僕は結構です」
「そうですか」
「ではまた後ほど」
永田はそう言うと職員室を出て行った。
小柄な背中を途中まで見送っていたが、すぐに興味をなくし、給湯室でコーヒーを淹れることにした。
やかんに水を入れ、火に掛ける。
お湯が沸くまでの間、適当な問題を演算して時間を潰した。
コーヒーメーカーが欲しいところではあるが、残念ながら今はない。前はドリップ式のものが一台あったのだが、経年劣化か調子が悪くなり、買い換えの話が職員達の間で持ち上がった。すると次の日、行方不明になってしまったのである。一人の職員が冗談めいて、拗ねちゃったのかも、などと笑っていた。どういう神経をしているのだろう、と呆れたものだ。
次第にその話は生徒達の耳にも入り、学園七不思議の一つにまで昇華されたのがつい先月のこと。平和で微笑ましい話だと割り切るには幾分も勇気が要る。とはいえ、自分の私物がなくなったわけでもない。味が落ちたことや手間が増えたことに不満は持っても、それを愚痴るほど、コーヒーに対するこだわりを持っているわけでもなかった。
お湯が沸いたところで、職員室の引き戸が開く音がした。
「おはようございますー……」
誰もいないと思ったのか、若い男の声はフェードアウトしていった。
「おはようございます」未散は給湯室から顔だけを出すようにして、挨拶した。
「ああ、長野原先生、おはようございます」
未散に気づいた
三木は国語科の教師で、未散と同期だった。二人とも、教師になって最初に赴任したのがこの高校だった。そのため他の教員達よりも比較的近い距離感を抱いていた。
同年代の男性と比べて体の線が細く、なよっとした印象を受ける。短く整えられた髪や端正な顔つきも、さわやかで好印象を与えるが男らしさには程遠い。女受けは良さそうだが、色恋沙汰には疎そうな感じである。それも含めて、さわやかな青年であることには間違いない。
「長野原先生だけですか?」
「いえ。永田先生がつい先ほどまで」
「そうですか。新しく来る人はどんな人なんでしょうね?」そう言う三木はどこか嬉しそうだった。
さわやかな男だ。未散にはとても真似できない。ただでさえ煩わしい人間関係なのに、これからまた新しい者とそれを築かなければならないなど、考えるだけで億劫だ。少し、三木が羨ましかった。
「若い女の子が一人来るそうですね」
「え、ほんとですか?」わずかに三木の目が大きくなる。「え、あ、いや……、長野原先生も、若くてかわいいですよ」
「どうも」何言ってんだ、こいつ。
ぎこちなく笑う三木に対し、未散は肩を竦めた。
「三木先生、コーヒー飲みますか?」
「あ、はい。いただきます」
安物のドリップパックを、用意した二つのカップに引っかけ、お湯を注いだ。ささやかながら、いい匂いが漂う。
「どこ行ったんでしょうね、コーヒーメーカー」三木も給湯室に入ってくる。戸棚からスティックシュガーとフレッシュを取り出しながら、そう尋ねてきた。
「さあ」
「一部の生徒が七不思議としておもしろがってましたね」
学園七不思議。そのフレーズを聞いたことはあるものの、大抵は七つも存在することなく、完成する前に飽きられてしまう。小学生ならまだしも、高校生にもなって熱中することができる人間は少ない。そもそもオカルトが流行る時代はとうに過ぎ去っている。
「コーヒーメーカーが行方不明以外にも何かあるのですか?」
抽出までの間、くだらない雑談に付き合うのもいいだろう。他の職員もまだ来る気配がない。
「えっと、そうですね。僕が聞いた話だと、四つあったかな」
七不思議だというのに。なかなか揃わないものだ。
馬鹿馬鹿しいと鼻を鳴らすのか、平和だなと微笑むべきか。三木に呆れても仕方がないのだが、苦笑が漏れてしまう。
未散は三木にカップを渡し、自分の席へ戻った。彼女の左隣が三木の席になる。三木も自分の席に着き、カップにスティックシュガーを二本、フレッシュを一個注いだ。
甘党なのだろうか。ブラック派の未散からしてみれば、未知の飲み物である。安物のドリップパックとはいえ、自分が淹れてやったコーヒーをそこまで乱暴にされるとは。笑いたくなった。
「去年、プールの授業で足を攣る生徒が続出しましたけど、あれもそうみたいですし」濁った泥水をスプーンでかき混ぜながら、三木が先ほどの続きを話す。「音楽室の肖像画の目が光るなんていう王道もよく聞きましたね」
「この学校で?」
「ええ」当然といった風に三木は頷く。
ここが高校であるということを忘れていないのなら、厄介な話だ。生徒達がどの程度で話し、三木がそれをどのように受け取ったのか。
「真夜中の校舎に人影を目撃したっていう話は、多くの生徒から聞きましたよ」
好きなのだろうか、オカルト。
カップを持ち上げながら、三木を見る。さわやかな顔立ちだが、理知的とは言えない。
そこでどうでもいいことを思い出した。そうだ。日本の女はやたら占いが好きだった。星座から血液型、ありとあらゆるものを型に当てはめて楽しむ連中だった。自分達で楽しむだけでなく、他人にまで平気で押しつけるような劣悪な者も少なくない。
都市伝説も盲信していなければいいのだが、あまり期待できそうにない。
「長野原先生は、そういうの信じる人ですか?」
思わず顔を引きつらせてしまった未散である。決してコーヒーが苦かったわけではない。
何を言い出すかと思えば。
仮にも教師という立場にある以上、軽はずみな発言は控えてもらいたいものだ。
「いえ」一言だけ、未散は首を振って答える。
「そうなんですか。いやぁ、僕、実はそういうのも本当はあるのかもって思うんですよ。科学ですべてを証明できるわけでもないじゃないですか」
正気か、この男。さわやかさにも陰りが見えてきた。
「ああ、でも、長野原先生は理系だから、そういうのは信じないですよね」
文系も理系も関係ないように思えるが。まあ、実際のところ、理系学問に挫折した人間は数多いだろうが、その逆はあまり聞かない。文系と理系というより、理系と理系じゃない人間の方が的を射ている気もする。そんな分類とは関係なく馬鹿はどこにでも存在するのだけれど。
三木との会話にも辟易してきたころ、ようやく他の職員達が出勤してきた。授業がないためか、全員遅めの出勤である。未散の机の上に置かれている電波時計が九時になろうとしたとき、新しく赴任してくる三人の紹介がされた。中年のベテラン男性教諭が二人、新人女性教諭が一人。
職員室の大半を占めている男性の視線は、若くて綺麗な新人に注がれていた。健全な男性としては仕方のないことではあるが、残念ながら学校という職場にもお局様は存在する。口うるさい学年主任、国語科の
お局様の機嫌を損ねているとも知らず、周りの男性達は顔を綻ばせ、もうすぐ始まる来年度からの通勤に楽しみを見出しているのだろう。気楽なものである。怒りの矛先はいつでも、自分よりも若い女性、つまりは未散に向けられるというのに。
そう言えば、あの女は二年前から当たりが強かった。自分よりも若くて綺麗な存在が許せないのだろう。しかし残念ながら、世の中の大半の女性がそれに含まれている。
「それじゃ、長野原先生、お願いね」
ひと通りの職員会議が終わると、白髪染めの甘さが目立つぱさついた髪を引っ詰めにしている嵯峨根が、こちらを見ずにそう言った。女であることを捨てているのなら、その醜い嫉妬心も一緒に捨てれば楽なものを。
何を、と聞き返してはいけない。わざとミスを誘うような環境を作り、その罠に掛かることを望んでいるのだ。そういう人間にとって、石橋を叩く行為は逆効果である。
ちらっと一瞬だけ上目遣いでこちらを見る。嫌な女だ。女性らしいという言葉がこれほど似合う人間も少ないが。
「わかりました」
すべてを理解している未散は素っ気なく返答し、心の中でため息をつき、舌を鳴らす。
今の会話とも呼べないようなもので、未散は新人の世話係に任命されたのだ。悪い冗談だと笑い飛ばせないところが、笑い所である。
未散は新任教諭である
艶やかで柔らかそうな長い髪。大きな瞳に、鼻筋の通った綺麗な顔立ち。女性らしい丸みを帯びた体つきに、すらりと伸びた手脚。そして何よりも若い。女性としての魅力を存分に詰め込んだ彼女は、嵯峨根だけでなく、世の大半の女性が羨望あるいは嫉妬の眼差しを向けることだろう。男達が騒ぐのも無理はない。
廊下を歩きながら、未散は自己紹介した。
「私は長野原未散。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」微笑む海椙の頬にはえくぼが出来ていた。
校舎内見取り図を渡し、主要箇所を見て回る。海椙の担当科目が未散と同じ数学ということもあって、案内はしやすかった。数学の授業はプログラミングの授業を除いて、すべて担当クラスの教室で行なわれる。この学校には特別教室も数学科のみ存在しない。そのため他の教員と違い、職員室で待機することが多かった。雑務を押しつけられることも多いが、自ら責任管理する教室を持たない分、楽だと考えられなくもない。
渡り廊下から生徒棟になる北館へ向かう。海椙の担当は一年生や文系クラスになる。フロアで言えば、四階から三階が中心だ。各学年の教室はわかりにくい場所にあるわけでもないので、特に注意することはない。ただ、先ほどまでいた職員室のある南館と、こちらの北館を繋ぐのは二階の渡り廊下だけなので、移動は多少面倒である。
「あの先輩」
「……長野原でいいよ」
未散がそう答えると、海椙は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? 普通そういうのは、名前でいいよ、じゃないんですか?」
「…………」
「もしかして、先輩は不用意に他人に踏み込まれるのを嫌うタイプの人間ですか?」
「そういうあんたは、がつがつ踏み込んでくるのね。ボクシングで言う、インファイターみたい」
「あ、私、可憐な女の子なんでボクシングに例えられても全然わかりません。可憐な女の子なんで」
二度も言うか。
言いたいこともずばずば言う。しかしまあ、観察眼は優れているのかもしれない。やりにくい女だ。
「初対面の人間に、そう簡単に心を開くわけないでしょう」未散はため息をつき、海椙を軽く睨んだ。
「普通の人は、警戒していることも悟られまいとするんじゃないですか?」
海椙は興味深そうに未散を見つめる。
何に興味を引かれるかわかったものじゃないな。
「なら、普通じゃないのね」
これ以上踏み込まれても困るので、未散はそれだけ言うと、先へ歩いていくことにした。
「あ、待ってくださいよ、先輩」
後ろから明るく親しみの籠もった口調で、そう呼ばれる。
「…………」
変に懐かれてしまったみたいだ。人付き合いに関心のない未散にとって、嵯峨根のような人間よりも苦手なタイプかもしれない。
隠さずにため息をついた。
人間関係に煩わしさを感じているのは事実だし、それを別に隠しているわけでもない。一人でいるのが好きというわけでもないが、そちらの方が気が楽であることは間違いない。気の許せない者と一緒にいたところで、寂しさが紛れるわけでもないのだ。そんなこともわからぬような子供でもないはずなのに。
古い人間ほど、人との関わりに重きを置く。それ自体が悪いことだとは思わないが、それを強要するとなると、さすがに辟易せざるを得ない。人間関係や人付き合いの意味を履き違えている連中が驚くほど多い。常識人を名乗る者ほど非常識な世の中だ。
未散は殺風景な廊下を進みながら、もう一度ため息をついた。
この春からは面倒なことが多そうだ。そう思うと、少しだけ憂鬱になる。
悩みはいつも人間関係だ。当然である。問題を起こすのはいつも人間なのだから。
自分がいくら気をつけようと、周りの馬鹿が問題を起こすのだから回避のしようがない。だからそんなときは、肩を竦め、口の端を軽く上げ、ニヒルに、シニカルに笑うしかないのだ。それが、凡人に出来る、精一杯の抵抗だった。
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