第2話
全身をしびれるような衝撃が走る。背骨にそってゾクゾクとしたものが一瞬で駆け上がっていくのを感じた。
「信じられない……」思わず口から声が漏れた。
私の左後ろ、十歩ほど離れた所に小高くなっている場所があって、そこにそれは居た。
夢にまで見たあのフォルム。攻撃的な角のディスプレイ、禍々しい翼。
神話のドラゴンそのものの形がそこにあった。あまりの衝撃に恐怖すら忘れて、逆光の中に浮かび上がる影に目を細める。
目の上に手を当ててよく観察すると体の色が図鑑のものと違う。つややかな光沢すら感じさせる表面だ。鱗なのだろうか。夢なら覚めないで欲しい。危険も忘れて、ふらふらとドラゴンに吸い寄せられるように近づく。想像よりずっと小さい。幼体なのだろうか。
そう思った瞬間、ドラゴンの輪郭が溶けた。
あっと、思う間もなく、ドラゴンだったものはぶよぶよとした塊に化け、私の足にまとわりついた。
思わず叫び声が口から漏れる。頭が真っ白になった。違う。これは、こんなものはドラゴンじゃない。これはもっと別の……
足にまとわりついた塊が急に硬度を増して、私の足を固定した。
粘度の高い液体が私の胴体から首へと上がってくる。
「やだ! やめて!」相手に通じるはずもないのに声が出た。これが何か解った。ミミックスライムだ。スライムの一種で、他の生き物の姿を真似しておびき寄せて捕食したり、強い捕食者に擬態して外敵から身を守る。大学で学んだ知識だが、まさかここまで大きいものがいるとは思わなかった。
スライムの被害で最も多いのは窒息死だということを思い出し、必死に手を動かして、喉を登ってくるスライムを払い落とそうとするが、スライムの体は急に粘度を増し、私の手を捕らえて離さない。鼻と口を塞ぐことで獲物を窒息死させ、その後全身で包み込み消化するのがスライムの基本戦略だ。
抵抗むなしく、スライムはどんどん私の顔に上がってくる、もしかしたら、近くにバルクロックがいるかもしれないと必死で首を動かして、祈るように探したがどこにも姿は見えない。心臓が絶望で満たされるのが解った。こんなことで終りが来るなんて思っても見なかった。体から力が抜けていく。
ついにスライムが鼻に到達した。息を止める。あと、どれだけ持つだろう。鼻の穴にスライムが入り込んでくる。このまま肺に到達すればそのまま溺死してしまう。多分息が続かなくなるより、そちらのほうが早いだろう。
苦しさのあまり目から涙がこぼれた時、体が何か猛烈な力で引っ張られた。同時に顔に熱を感じた。炎だ。途端に、スライムの締め付けが緩んだ。
力強い指が私の顔からスライムを引き剥がす。バルクロックだ。手に松明を持っている。バルクロックが炎を近づけると、スライムは怯えたように縮こまった。その隙を逃さず、バルクロックは私をスライムから引っ張り上げる。バルクロックはスライムの表面を火で炙った槍で何度か突き刺した。ジュッっという音がして、たちまちスライムは小さくなる。
口に入ったスライムは吐き気を催す味がした。私は激しく咳き込んで、スライムの破片を気道から追い出す。
「大丈夫か」バルクロックが私の背中をバンバンと叩く、あまりに力が強いので骨が折れそうになり、手のひらを見せて一旦止めさせた。
「……ありがとう」という言葉がまず先に出た。
バルクロックは心配そうな顔で私を覗き込むと
「ブヨブヨダマシだ。こいつはいろんなものに化ける」
「その、名前は初めて聞いたわ。ここの地方ではそう呼ぶのかしら」
「すくなくともおれはずっとそう呼んでいる」
涙を手の甲で拭いながら、私は聞いた。
「なんで、私を助けたの? あなたの得になんてならないのに。もし私が生きて街に帰ったらあなたは不利になるかもしれない。見捨てようと思えばいくらでも見捨てられたはずです」
バルクロックは驚いたような表情を浮かべた。
「そんなことは、考えもしなかった。あんた頭がいいんだな。
何故って言われれるとそうだな……おれは
ぽつりぽつりと、言葉を選びながら、彼はそう言った。
私は自分が恥ずかしくなった。なんて言ったらいいか解らずに、私は右手を差し出した。バルクロックは怪訝な顔をしたが、やがて理解したのか、私の右手を戸惑いながら握りしめた。奇妙な握手を私たちは交わす。
「バルクロック。ごめんなさい。そして命を救ってくれてありがとう」
「大したことじゃあ無いよ」彼はちょっと照れた顔をした。
「ドラゴンに化けるミミックスライムなんて初めて知ったわ。もしかすると、ドラゴンの目撃情報って全部これだったのかも」
「蓋を開けてみれば、なんてことはなかったな。まあ気を落とすなよ。しかし、ブヨブヨダマシがドラゴンの真似をするなんて、あんたよっぽどドラゴンが好きなんだな」
バルクロックはふっと笑いながら、そう言った。彼の笑顔はそれまで見せていた厳しい表情とは違い、子供のような屈託のない笑顔だった。私もつられて笑いながら答える。
「残念だけれど、ミミックスライムはそれほど高い知能を持っていません。だからドラゴンに化けたのも、興味を引くためじゃなくて、多分……」
威嚇のためよ。と口に出した所で、目の前を高速で何かが横切った。
バルクロックの体が宙を舞って、力なく地面に叩きつけられる。私の顔に温かい液体が飛び散った。拭った手を見て、私は言葉を失う。血だ。
いつのまにか、目の前に見たこともない怪物が居た。
大きめのトカゲに似ている怪物だ。大きさはウシぐらいもある。ドラゴンを彷彿とさせる姿だが、翼はない。代わりに背びれが生えていた。しかし、その背びれといったら、うんとひどい歯並びの人みたいに、捻じ曲がった生え方をしていた。
前足には鋭い爪が並んでいるが、サメの歯のように、一つの爪の後ろに予備の爪がびっしりと並び、その様子を見るだけで全身を嫌悪感が走った。一番長い爪はハンターが使う山刀ほどもあって、赤い血がついている。バルクロックの血だ。その爪にひどく切り裂かれたバルクロックは、少し離れた地面に倒れて、その体から血がどくどくと流れ出していた。
声を出そうとしたが、何も出てこなかった。足に力が入らなくなって、座り込みそうになるのを必死で耐える。
なんだ、これ。
バルクロックに言おうとした言葉が頭のなかで反響する。
「威嚇のため」そうだ。スライムは威嚇をしていた。そしてドラゴンの形を取った。かつての最強の捕食者の姿を取らなければ、威嚇できない相手。スライムの相手は私じゃない。こいつだったんだ。なぜ気が付かなかったのだろう。バルクロックと一緒にすぐその場を離れていれば……後悔がどっと押し寄せてくる。
怪物は生気のない冷たい目をしていて、それに見据えられた時、全身の血が凍るのを感じた。
死ぬ。私は死ぬ。どうやって? バルクロックのように、爪で引き裂かれ、そしてあの貪欲そうな口で咀嚼されるのだろうか。いや、顎の力が発達していない生き物だったなら、わざわざ咀嚼せずに丸呑みするのかもしれない。生きながら喰われるなんて絶対に嫌だ。自分でも不思議なことに、戦うという選択肢が頭をよぎった。多分私はおかしくなっていたのだと思う。震える手で、バルクロックが落とした槍を拾ったが、あまりの重さに膝をつく。
怪物は、クロロロロという巨体に似合わない鳴き声を上げた。いや、喉を鳴らしているのだろうか? 怪物は、ゆっくりと口を開いた。乱雑に並んだ歯の中で、真っ赤な舌がやけに機敏に動く。忘れかけていた悲鳴がようやく出そうになったその時、地鳴りのような唸り声と共に、怪物の喉元に何かが猛烈な勢いで食らいついた。
私は思わず声を上げる。
「バルクロック!」
今の彼は一匹の野獣だった。全身を黒い針のような毛が覆い、鼻先は伸び、完全に狼の顔に変貌していた。獣化だ。獣人は獣の姿にも人間の姿にもなれる。今、バルクロックの肉体は敵を前にして、純粋な怒りと暴力の形に変貌を遂げていた。バルクロックが腹に負った傷はひどく、腸がはみ出そうになっているのが見えた。今にも死にそうな怪我に見えたが、その目は怒りに燃え上がり、恐ろしい形相で相手を睨みつけている。
二匹の怪物は、土埃を上げて激しくもみ合った。血液や体液が辺りに飛び散る。バルクロックは空いた両手を相手の肉に食い込ませ、かきむしるようにえぐり取った。怪物の鋭い爪が並んだ前足を握りしめると、バルクロックはそれを力任せにへし折った。
骨が折れる鈍い音と共に、怪物のキシャーッという悲鳴が響く。
怪物は大きく口を開けると、体を激しく揺すり、バルクロックを振り落とした。地面に叩きつけられたバルクロックは立ちあがり、再び怪物に向かっていこうとしたが、怪物は蛇がのたうつような動きで、たちまち荒野の向こうへと消えていった。バルクロックは興奮した顔でそれを追いかけようとしたが、二、三歩歩いたところで、限界が来て倒れ込んだ。
「バルクロック! なんてこと!」人間の姿に戻ったバルクロックは瀕死の重傷だった。どこまでが彼の血だか相手の血だか解らない程によごれ、全身は鋭い爪でえぐられた傷だらけだった。折れた怪物の爪が一本右腕を貫いている。
私は慌てて彼を抱き寄せる。このままではいけない。なんとかして血を止めないと。止血方法はなんだっただろう。こんなにたくさんの傷口からの血を止められるだろうか。とにかくここから逃げないと。またあれが戻ってきたら今度こそ終わりだ。私は、朦朧とした意識のバルクロックを助け起こすと彼のねぐらへと急いだ。彼はほとんど意識を飛ばしていたが、それでも私の肩をかりてなんとかねぐらまで移動することができた。
ねぐらの寝床にバルクロックを横たえると、急いで水を汲んだ。傷口を清潔に保たなければならない。
お湯を沸かして手をよく洗うと、彼のはみ出た腸を腹腔に押し戻した。手が震えたが、やるしかない。もう一度覚悟を決め、彼の右腕に刺さったままの爪を抜き取った。人間の前腕部ほどもありそうな大きさの爪だ。私は自分の服を割くと、包帯代わりに巻きつけた。
止血のことを忘れていたが、パニックになった私よりバルクロックの肉体はいい仕事をした。獣の姿になった時の体毛が、血で固まり、わらを混ぜ込んだ漆喰のように傷口をふさいでいるのだ。意識を失っていることをいいことに、その天然の包帯を剥がさぬように傷口を洗って土埃を除去する。
煮沸消毒をしたハンカチで彼の体を拭くと、土埃と共に、垢が落ちていく。相当長い間風呂に入っていなかったらしい。あまり臭わないのはここが乾燥している気候だからだろう。
暇を見て、彼のねぐらの中を探した。幸い小麦粉の袋が幾つかと、干した肉が見つかった。
小麦粉と干し肉を煮て、即席の粥を作る。バルクロックの口元に持っていくと、二、三口は食べたが、またすぐに意識を失った。私も栄養分を補給する必要がある。あまり美味しくはなかったけれど、我慢して食べれる分だけの粥を食べた。
いつの間にか日が落ちてきた。彼は寒いのか、ガタガタと震えはじめた。血液を失って体温を維持できなくなっているのだろう。彼の体を抱き寄せて温める。氷のようだった体に生気が戻ってくるのが解った。私の腕の中で、バルクロックは深く呼吸をしながら寝返りを打つ。彼のゆるやかな心臓の鼓動を聞きながら、私も眠った。
三日目の朝、彼は目を覚ますと、鍋の中に残っていた粥を全て平らげ、「ありがとう」と言った。
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