獣人たちのいるところ
太刀川るい
第1話
幼いころのわたしは、いつも本棚の隅の古びた図鑑を読みふけっていた。
立派な装丁の図鑑で、専門的と言うよりはどちらかというと教養を強調するために本棚に並べておくためのものなのだろうけれど、ほれぼれとするような挿絵がページいっぱいに並んでいて、わたしはそれを眺めるのが大好きだった。
鋭い目をした巨大な猛禽類。野をかける四足の肉食獣。マシュマロの様なアザラシの子供。見開きを贅沢に使った巨大な鯨。
そして何よりも、ドラゴン!
魅力的な体のフォルム、死に縁取られた恐ろしい爪と牙。盾のように頑丈な鱗、地面に影を落す巨大な翼! 他のどの生き物とも違っていて、荒々しく、神々しく、そして美しかった。
この世の中に炎をはきだす生き物がいるなんて!
わたしはそのページを開くたびに、興奮に目を輝かせながら、ドラゴンに関する記述を何度も何度も読み返した。生態、歴史、伝承……一字一字を食い入るようにみつめ、驚嘆の吐息を漏らす。
でも一番最後の行のそっけない記述が、いつもわたしを現実に引き戻すのだ。
『生息地――現在は絶滅』
<獣人たちのいるところ>
ガタゴトと馬車が揺れる。
おだやかな風が吹く中、わたしは平原を運ばれていた。
「お嬢さん、研究員って何すんだい?」手綱を握る男が話しかけてくる。
「ええ、そうですね。大体、生き物の数とか、繁殖行動とかそういうことを調べます」
「繁殖行動! いいねぇ、俺もお嬢さんの繁殖行動に興味あるよ」そういうと男は下品に笑って見せた。一体どういう人生経験を積めばここまで面白くない冗談を飛ばせるようになるのだろう。わたしはいつものように聞かなかったことにしてやり過ごす。
「それはそうと、怪物の研究なんて一体何の役に立つんだ?」
何百回も繰り返したやり取りだ。この手の人に学問というもの、特に自然科学の意義を説明することをわたしはすっかり諦めていた。
わたしは対人用の笑顔を浮かべると、
「そうですね……一般的には怪物の被害を最小限に抑えることができます。怪物の生態を知っていれば市民の生命や財産を守りやすくなりますから。そして同時に怪物の保護にも役立つんです」
「怪物を保護? なんでまた」
「やっぱりみんな驚きますよね。でも大事なんですよ。ドラゴンが絶滅した後、自然界は大きく崩れました。最大の捕食者が居なくなったので、いろんな怪物が大発生したんです」
「ドラゴンの話は知ってる。みんな言っている。呪いだとよ」
「ある意味そうかもしれませんね。人間が生み出した災厄。一つの歪みがまた一つの歪みを引き起こし、そうして段々と積み重なって予想の付かない大きなうねりとなる……ドラゴンの絶滅の余波は数世紀単位でまだ暫く続くでしょう。でも大事なのはこれ以上問題を大きくしないこと」
「それでお嬢さんは怪物を保護するのか」
「そういうことです」
ふうん、と男は鼻を面白くなさそうに鳴らすと、「でも怪物なんて居ないほうが良いでしょう」と言った。
「それは、違いますよ。この世界に必要のないものなんてありません。ドラゴンだって、怪物だって」
「まあ、学者サンはそういうかもしれないがねぇ」わたしの口調に棘を感じたのか、男は逃げるように話を打ち切った。
無駄な言い争いを避けることができてほっとする。この男はわたしを手伝うために街からついてきた役人だけれど、あまりわたしとは合わないタイプの人間のようだ。依頼の手紙の時はうやうやしく返信し、実際に会ってわたしが女だとわかると途端に態度が変わり、そしてわたしの大学を聞くとまた態度が変わった。いつも人の顔色をうかがって、自分より下の人を見下し続けていないと生きていけないタイプというのだろうか。とにかく反発し合う磁石のような印象だった。
「ここらへんのはずなんだがね。ああ、いたいた」しばらく無言のまま風を感じていると、突然男が沈黙を破った。人影が道の向こうに見える。
「おーい! バルクロック、お前にお客さんだ」男はそう声を張り上げた。メモ帳を取り出して確認する。バルクロック、事前に聞いていた名前で間違いない。
メモ帳から顔を上げると、バルクロックと呼ばれた青年は荷馬車のすぐ近くまで来ていた。挨拶をしようとした所で、わたしは彼の頭に気がついた。
わたしの視線に彼も気がついたのか、バルクロックはわたしをじろりと睨み返して言った。
「だれ、そいつ」
「口のききかたに気をつけろよ。この人は、どえらい大学をでてるのさ。バルクロック、お前なんかには想像もつかない所だ」
「ふうん」とバルクロックは興味なさそうに言うと、「で、何の用?」と続けた。
「この人が野生の怪物の調査を行いたいんだと。それでお前に聞きたいことがあんだとよ」
わたしは目の前のバルクロックをじっと見つめた。
年の頃はわたしとほぼ変わらないか、それよりも若いようだけれど、表情は険しく、風雨で削れた岩山のようだった。土埃で汚れた顔の中から、静かだけれど、しっかりとした意思を感じさせる瞳がこちらを見つめていて、そこだけ急に年を取ったみたいだった。
体はというと、何枚かの毛皮を身に着けており、その隙間からはたくましい筋肉が顔を覗かせていた。すっと引き締まった細身の体型は、よくしなる板バネを何枚も重ねた、今にも発射寸前の引き絞られたクロスボウのように見える。なによりも目立つ特徴は、影のように黒い癖っ毛から顔を覗かせている三角形の耳だった。
彼は獣人だった。
「はじめまして、監査の話、伝わってなかったみたいね」引き返す荷馬車を見送ると、わたしはバルクロックにそう切り出した。
彼は小さく頷くと、「おれはバルクロック」と名乗り、わたしの視線に不愉快そうな表情を浮かべて「獣人が、珍しいのか?」と言った。
「え、ああ、ごめんなさい。つい気になっちゃって。わたし、あまり近くではみたことがないから。気にしないで。獣人でも平等に扱うわ」
「ふうん、そうか。都会育ちなんだな。まあいい、で、聞きたいことって何?」
「いくつかあります。まずは、わたしの仕事から。あなたの活動が法に則ったものであるかどうか。きちんと法で定められた怪物を捕獲しているかを監査します。
……それとあとは、わたしの怪物の研究に協力してもらいます」
「どうやって?」
「具体的には聞き取り調査。怪物の生態について、多分お詳しいでしょうから。まずは捕獲した怪物の証拠を見せてください。角とか翼とか」
「見たけりゃ見せるけど。ついてきな」バルクロックはぶっきらぼうにそういうと、踵を返す。わたしは慌ててその後を追う。
バルクロックは、平原を一直線に突っ切って進んだ。道標になるようなものは見当たらないが、自然と方向がわかるのだろう。後ろにわたしがいることなんて全く気にする様子も見せず、風のように地面をかける。これでも彼に取っては普通の速さらしい。途中何度か音を上げて、速度を落としてもらった。
その度にバルクロックは露骨に嫌な顔をした。「足手まといなんだよ」とでも言いたげな顔だ。あなたは体力があるのだから、少しぐらい配慮してくれてもいいじゃないかと内心腹が立ったが、ここでバルクロックに怒っても仕方がない。わたしはぐっと我慢した。
平原はすぐに荒野に変わる。半時間も歩いただろうか、眼前に小さな泉が姿を表した。驚くほど澄んだ水源を縁取るように、短い植物が青々と茂っていて、単調な荒野の中で宝石のように輝いて見える。
そのほとりに小さな岩山があり、その根本にあいた小さな洞窟がバルクロックの住処だった。
彼はこのように小さな住居を渡り歩きながら狩りを続けているらしい。移動生活をしながら狩りをする人々のことは前に聞いたことがあったが、実際にその生活を見るのは初めてだった。
バルクロックは槍を見せてくれた。この槍一本で彼は怪物を狩るのだというが、とても信じられなかった。だが、ずっしりと手に重いそれを、小枝のように振りまわす彼の腕力を見ると、不可能でもないかもしれないと思い直した。獣人の出せる力は人間とは全く異なるのだ。
彼は洞窟の奥から、切り取られて干からびかけた怪物の頭部や、翼を持ってきた。怪物を殺した証拠に彼が保存していたものだ。数と種別をメモする。
獲るように指定されたもので違いない。ねぐらの中をさっと観察してみたけれど、違法な狩猟の証拠、例えば余分な毛皮やら角やらといったものは見当たらなかった。今の所、彼は真面目に自分の役目を果たしているらしい。
それとは別に、かなり年季の入った怪物の頭骨を幾つか見つけた。炭の粉で印がつけてあり、意図的に眼窩が壊されてつながっている。
これは何だと聞いたら、彼は獲る数が解るように置いてあると言った。最初は意味が解らなかったが、何度かやり取りしているうちに、意味が解った。彼は文字が読めないし、数の概念も怪しい。だからこういった手法をとるのだ。予め獲る予定の頭骨を用意しておき、その数と同じだけの獲物を獲る。意図的に破損してあるのは交換する頭骨と区別するためで、これは彼の祖父が作ったものをそのまま引き継いだらしい。なるほど、これなら間違いはない。
「これは、棘があるやつ。これは、牙がでかいやつ。これは骨が無いやつ。急所を狙わないと死なない」骨や角を指さしながら、怪物一匹一匹に対して彼は詳しい内容を語って見せた。
「かなりいろんな種類を獲っているのね。皆ここの近くで獲ったの?」
「かなり広い範囲を歩き回って、出会ったものを獲っている」
「広いってどれくらい?」とわたしが聞くと、バルクロックは「わからない。広い」とだけ答えた。彼の解答は万事このような水準だった。おそらく人に物を説明するという経験がなかったのだろう。
わたしは質問の仕方を変える。端から端までどの程度かかるかを聞いてみた所、三日ほどかかると言う答えが帰ってきた。彼の足の速さを考慮すると相当な面積らしい。
いろんな骨を見ているうちに、ふと、気になっていたことを聞いてみることにした。
「ねぇ、バルクロック。ドラゴン……って見たこと無いかしら」
「どらごん?」そう不思議そうに口に出すと、バルクロックは少し考えて「いやないな。ドラゴンってあれだろ? 昔話に出てくるやつ。まさか。見たこと無いよ。もう生き残ってないって聞いたぜ。爺ちゃんが子供の頃にはまだ生きてたっていうけれどさ」
「それが、見た人が居るっていうの」わたしの声は自然と小さくなる。
「ドラゴンを? まさか」
「ここの近くで目撃情報が出ているの」
「はあなるほど、あんたドラゴンマニアか。時々いるんだよな。ドラゴンがまだ生きているって信じている連中。ずっと前にも同じようなことを言っている奴にあったことがあるよ」
「その人はどうなったの?」
「荒野を色々と見て回っていたみたいだけれど、そのうち居なくなっちまった。他の怪物に食われたのかもしれないな。あんたもはやく諦めたほうが良いぜ。じゃあ、そろそろ狩りに行く」
バルクロックはわたしを鼻で笑うと、話を打ち切り、槍を掴んでねぐらを出た。わたしはその後を急いで追いかける。
狩りに出かけるバルクロックの足はさらに速かった。あっという間にわたしを引き離して行く。
たまらず「もっとゆっくり歩いて欲しい」と訴えても「歩いて狩りができるかよ。ついてくるっていったのはあんただろ」と言って取り合わない。何度目かのやり取りでついにわたしの堪忍袋の尾が切れた。完全にこの獣人はわたしのことを舐めている。
「バルクロック! 反抗的ですよ! 調査に対する妨害行為とみなしてあなたから資格を取り上げてもいいんですよ!」
バルクロックはぎろりと私を睨むと、歯をむき出して言った。
「別に資格があるから、
「そ、れ、は、完全に違法です」
「法ってのは人間のためにあるのだろう。都合のいいときだけ人間扱いするなよ。いつもは獣扱いするくせに」
「そんな時代は終わりました。バルクロック、今は獣人も人間も同じ権利を持つんです。もちろん義務もね」
「お前たちがくれたのは義務だけだ。生きる権利なんてものがなくても俺は最初から生きていた。ある日お前たちがやってきて、その権利とやらを押し付けてきたんじゃないか」
「そのおかげであなたは殺されなくて済んでいるじゃない。じゃあ、あなたは獣人が意味もなく殺されるような時代がまた来てもいいっていうの?」
「殺しに来た側がほざくなよ。考えてみろ、ある日『あなたを殺さないであげよう。感謝しろ』なんて言ってくる奴が来たらどう思う? その場で殴って追い返すだろ。言葉に気をつけろよ、今俺がそういう手に出たっていいんだぜ? 感謝しろよな」
「脅す気? そうやって暴力をちらつかせるのね、あなたは」
バルクロックはすごい目で私を睨んだ。彼の筋肉が怒りで震えるのを見て、内心冷や汗をかく。彼の力で殴られたら。思わず嫌な想像をしてしまう。
バルクロックは少し押し黙ると、息を深く吐いて、
「もう帰れよお前。監査だかなんだか知らんが、骨の数はわかったんだろ。帰れよ」とだけ言って後ろを向いた。
「ええ、そうですね。街に帰って、それであなたの処遇を決めます」早口でそうまくし立てると、私はバルクロックに背を向けて歩き始めた。
腹が立って仕方がなかった。無知や無学そのものと話している気分だった。権利がもつ意味も意義もわからない。教養がないとはこういうことなのだと私は理解した。彼の人間に対する差別意識は筋金入りでもうどうにもならない。頭に血が登って耳が熱くなる。
しばらく歩いた所で、街へ戻る道がわからないことに気がついた。しまった。バルクロックの後ろについてここまで来る時、帰り道を見ておけばよかった。と後悔したが今となっては遅い。あれだけ言い争いをした後でもう一度彼に助けを求めるのは癪だったけれど、背に腹は変えられない。大きく溜息をつくと、私は振り返った。
その瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。
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